丹後の地名

普甲寺廃寺(ふこうじ)
宮津市小田


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京都府宮津市小田寺屋敷

京都府与謝郡上宮津村小田寺屋敷




 

普甲寺の概要




《普甲寺の概要》普甲寺跡の弁天堂

 普甲寺は宮津市字小田の普甲峠より1.5キロばかり南東にある平安時代創建と伝える大寺院である。今は弁天堂と普賢堂が建ち、普賢堂の前には仁王門の礎石が残るのみである。

 府道綾部宮津大江線の普甲峠頂上の大江山スキー場の下に分かれ道があって、それを北の方へ入る(辛皮や舞鶴市の大俣方面へ)、その山道を少しばかり下ると「寺屋敷」という集落があるが、そのあたりと言われる。舞鶴側からなら、大俣から普甲山の方へ向いてドンドンと行けば迷うことなく行くことができる。その道端に↑写真の弁天堂がある。

 平安時代の初めごろ、舞鶴市大浦半島の医王山多祢寺の中興開山・寄世上人が、普甲山に一寺を建てて、これを普甲寺としたという。
どれほどの規模であり、伽藍であったかは明かでないが、古老たちの伝承では一山六十余ヶ寺ともいい、あるいは百ヶ寺ともいい、中世は南の紀州高野山に対して北の高野山とまで喧伝されたともいわれた盛時があったともいう。

創立は延喜年中(901〜923)とみられ、僧・美世が、普甲寺を建立したと伝わる。
『伊呂波字類抄』に、
普甲寺、延喜年中建立

『拾芥抄』に、
普甲 普賢、本願美世上人、

『沙石集』に、
迎講事
丹後国鳧鴨(ふかふ)ト云所ニ、(美世)上人有ケリ、極楽ノ往生ヲ願テ、万事ヲ捨テ臨終正念ノ事ヲ思ヒ、聖衆来迎ノ儀ヲゾ願ヒケル、セメテモ志ヲ休ントテ、世間ノ人ハ正月ノ初ハ、思願フ事、イワヒ事ニスル習ナレバ、我モイワヒ事セント思テ、大晦日ノ夜、一人ツカフ小法師ニ状ヲ書テトラセケリ、「此状ヲモテ、明朝元日ニ門ヲ叩キテ、「物申サン」トイヘ、「ヰヅクヨリ」ト間バ、「極楽ヨリ阿弥陀仏ノ御使也、御文候」トテ、此状ヲ我ニ与へヨ」ト云テ、外ヘヤリヌ、上人ノ教ノ如ニ云テ、門ヲ叩キテ、約束ノ如ク問答ス、此状ヲ、イソギアハテサワギ、ハダシニテ出デ、請取、頂戴シテヨミケリ、「裟婆世界ハ衆苦充満ノ国也、早厭離シテ、念仏修善勤行シテ我国ニ来ルベシ、我聖衆ト共ニ来迎スベシ」トヨミツ、サメホロト泣泣スル事、毎年ニ不レ怠、其国ノ国司下リテ、人々国ノ事物語ケルツイデニ、斯ル上人アルヨシ人申ケルヲ国司聞テ、随喜シツゝ、上人ニ対面シテ、「何事ニテモ仰ヲ承リテ結縁可レ申」ト、被レ申ケレドモ、「遁世ノ身ニテ侍リ、別ノ所望ナシ」ト、返事セラレケレドモ、「事コソカハレドモ、人ノ身ニハ必要アル事ナリ」卜、シヰテ被レ申ケレバ、「迎講卜名テ、聖衆ノ来迎ノヨソヲヰシテ、心ヲモナグサメ、臨終ノナラシニモセバヤト思事侍リ」ト被レ申ケレハ、仏菩薩ノ装束等、上人ノ所望ニ随テ調ジテゾ被レ送ケル、サテ聖衆来迎ノ儀式ノ臨終ノ作法ナムト年久ナラシテ、思ノ如ク臨終ノ時モ来迎ノ儀ニテ、終リ目出カリケリ、コレヲ迎講ノ始卜云へり、アマノハシダテニテ始メタリトモ云、又恵心僧都ノ脇足ノ上ニテ、箸ヲヲリテ、仏ノ来迎トテ、ヒキヨセヒキヨセシテ、案ジ始給タリト云侍リ、実ニ物ニスキ、其道ヲ始ム人ハ、寝寐モ其事ニ心ヲソムベシ、「習サキヨリアラズハ、懐念イヅクンゾ存セン」トイヘリ、ヨクヨクナラスベキハ、臨終正念ノ大事也、然二世ノ人往生ヲ願フヤウナレドモ、朝夕シナラヒ、思ナス事ハ、流転生死ノ妄業ナリ、正念現尊ノ儀シタウベキヲヤ、

『古事談』に、 
丹後ノ国ノ僧、大般若虚読ノ罰ヲ受クル事

丹後国普甲卜云山寺ノ住僧、大般若虚読ヲ好而為業、已経年序畢、或時手披経巻虚読之間、後頭ヲツヨク被殴トオボユルホドニ、両眼抜テ付経巻之面云々、件眼ヒツキタル経ハ于今在彼寺云々、

 普甲山の南側斜面で、ここも宮津なのか、よく地図を確認しないと、舞鶴だと思ってしまいそうな場所である。
丹後国田数帳では、所在を加佐郡に入れて、一四町九段余のうち当知行は五町三段で九町六段余はすでに不知行としている。そのほか与謝郡石河庄に四町三段御免地、丹波郡末次保のうち一町七段余、久延保一町三段余、光武保のうち八段余、以上合計知行分で一三町四段余に及んでいる。

 その後この一帯は戦場となった。『宮津府志』が記すところによれば、応仁元年の頃より数度の大乱により焼失している。
応仁3年4月1日の丹後一色義直殿と若州武田殿内逸見殿の合戦、
明応7年5月27・8・9日の丹州殿と若狭殿の合戦、
永正3年7月31日の丹州義有殿と若州元信殿の合戦、
同4年6月27日の丹州義有殿と若州方葛西殿の合戦、
天文16年2月6日の丹州義幸殿と若州元光殿の合戦、
同11年2月又々丹州殿と若州殿合戦。
数度の戦乱に堂塔ことごとくみな焼失して、いまある所は普賢堂と弁天堂、二王門の屋輔跡が残り、道筋が数多くあるのみという。

 この後の普甲寺については『丹哥府志』は、
「元亀二年将軍信長故あつて延暦寺を焚焼して将に余類なからしめんとす、於是住僧遁て西岩倉及善峯寺に匿る。将軍信長之を追て又西岩倉善峯寺を焼く、 是以住僧都下に匿ること能はず、遂に丹後普甲寺に遁る、将軍信長其丹後に遁ると聞てよつて又人を丹後に遣し普甲寺を焼く、是時普甲寺廃寺となる。」




普甲寺の主な歴史記録


《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
加佐郡
一 □□寺庄 田辺郷混入 十九町六段三百廿歩 大聖寺殿
  普甲寺 十四町九段三百四歩内
  五町三段          当知行
  九町六段三百四歩    不知行

《丹哥府志》
【寺屋敷】(千歳嶺の中頃より左へ入)
【普甲寺】元亀二年将軍信長故あって延暦寺を焚焼して将に余類なからしめんとす、於是住僧遁て西岩倉及善峯寺に匿る。将軍信長之を追て又西岩倉善峯寺を焼く、是以住僧都下に匿ること能はず、遂に丹後普甲寺に遁る将軍信長其丹後に遁ると聞てよって又人を丹後に遣し普甲寺を焼く。是時普甲寺廃寺となる。其伽藍の跡なりとて礎石尚残る、今ある所は僅に普賢堂のみ。西岩倉及善峯寺は元禄の頃大に伽藍を全修す、故あって吾祖先之を知るよって話説家に残る、事は祖先の常州笠間に在し頃なり。今惜むらくは既に丹後に移て後其事あらば当に普甲寺も西朝倉及善峯寺の如くなるべし。

《丹後旧事記》
普甲山。延喜式神名帳に與佐郡布甲神社と云を載たり今此社定らならず又元亨釈書に普甲寺と云ふ伽藍有て慈雲と云ふ高僧の住けるよし此故に普甲山と呼ぶ、慶長五年京極修理大夫高知入国の砌不幸音をいみて千歳峠と改むべしと令ありしとかや天橋記に此山を與佐の大山といふ名所と記せり。帝都より南麓内宮村迄廿四里あり山陰道往来の大道なり夫より峯まで二里此間に二瀬川あり左の方に千丈ケ嶽鬼の窟あり又峯に宮津より二里の建石あり其東の山中に普甲寺の伽藍の旧跡あり是普賢の道場にして開山は棄世上人といふ今も小さき普賢堂あり又砂石集に丹後国普甲寺といふ昔尊上人ありと云々棄世上人は愚中興 集に見えたり。俚俗の云伝へしに普甲山は大伽藍にて荘田貮万石あり今に関東には普甲寺旧跡の地ありと也與佐の大山といふ事は歌所の部に記す。

《丹後与謝海名勝略記》(貝原益軒)
【普甲山】 與佐の海の南也。大山といふ名所也。帝都より山の南の麓内宮まで廿四里、夫より嶺山また二里、此間に二瀬フタセ川あり。左の方に千丈ケ嶽鬼ケ窟イハヤあり、是をも大江山といふに式部か詠に、大江山いく野とつつけたるは老ノ坂の事也。嶺イタダキに宮津より二里の碑あり。其東に普甲寺の旧跡あり、是普賢の道場にして、開山は棄世上人と云。今辻堂のやうなり。普賢堂あり、荊棘生ひて路も断タヘ尋る人もまれなり。凡山間に三所茶屋あり、京極安知旅客の為に置所也。麓の左に宮津より一里の碑有是まて山路険阻也。沙石集丹後国普甲寺といふ所に昔上人有と云々。開山棄世上人(愚中卯余集ニ出タリ)
夫木称  春霞立渡るなり橋立や  松原こしの與佐の大山 (光俊朝臣)
     待人は行とまりつつあちきなく  年のみこゆる與佐の大山 (和泉式部)

《宮津府志》
普甲山 府城南二里 属二與謝郡一
 貝原氏諸州巡に北向嶺と記す、拠あるにや。又延喜式神名帳に當国與謝郡に布甲神社と云ふをのせたり、此社今さだかならす、若此辺に在て山の名によりて社を名付しにや、神名によりて山を呼しか。又当山に古へ普甲寺とて大刹有り、それゆへ山をも普甲と名付けしと云説も見へたり。京極公入国の砌不幸の音を諱て千歳嶺と改べしと令ありしとかや、坂路嶮岨にして要害堅固なり、府城の雄鎮といふべし。
 橋立記曰。此山は大山といふ名所なり、帝都より山南の麓内宮まで廿四里、それより嶺まで二里、此間に二瀬川あり、左の方に干丈ケ獄、鬼ケ窟あり、見下山嶺に宮津より二里の碑あり、其東に普甲寺の旧跡あり、是れ普賢の道場にして開山は棄世上人といふ、今辻堂のやうなる普賢堂あり、荊棘生ひて路も絶へ尋る人もまれなり。凡山間に三所茶屋あり、京極安知公族客の爲に置所なり、麓の左に宮津より一里の碑あり、是まで山路嶮岨なり。沙石集に丹後国普甲寺と云所に昔上人ありと云云。
 ○普甲寺は古へ大伽藍之地と云傳へし事也、凡一山百ヶ寺と申事也、応仁元年之頃より数度の大らんニ而焼失則応仁三年四月一日丹後一色義直殿若州武田殿内逸見殿合戦、明応七年五月廿七八九日丹州殿若狭殿合戦、永正三年七月晦日丹州義有殿若州元信殿合戦、四年六月廿七日丹州義有殿若州方葛西殿合戦、天文十六年二月六日丹州義幸殿若州元光殿合戦、十一年二月又々丹州殿若州殿合戦数度戦乱ニ而堂塔悉皆焼失、今残り有所ハ普賢堂弁天堂、二王門の屋輔跡とて残りあり並ニ道筋ハ数多あり(中略)普甲寺繁昌の時参詣並ニ貢米を運送すと云、今に町ぐい有之長五尺余の石碑はゞ壹尺二寸あつき四寸と申事也(取意)。
(宇平註)右記事金剛心院本中の一本朱書により増補した。これは同寺二十六世興応法印の筆写に係り、法印は金剛心院深聴法印の高資で維新当初上宮津淵龍山法光寺に住し普賢堂(旧普甲寺)を管した人であるから特にこの註記を朱書したるものであらう。後ち金剛心院に帰り師の後を襲ふた。従ってこの筆写本も金剛心院に遺ったもので参考までに書いたけれども録上本には此の記事はない。

《与謝郡誌》
古戦場 普甲山
 応仁大乱一色義直西陣にあり、義直の子義春京都にて戦死し弟義遠の子義季を養て子とせるも義季勤番将軍に従って多くは近江にあり。義直所領丹後を犯されんことを案じ再三使者を下して警備せしむ。果然若州の武川元信一色氏の不在に乗じて丹後に攻め入り文明四年九月八田を占領し、明応七年五月一日国衆普甲山へ殺到し一色義秀迎撃努めたるも力及ばずして自刃し一門十三人生害廿八日善王寺石河中務丞割
腹・普甲寺普賢堂此の役に兵火に罹り殲滅したりと云ひ、一色の墓は上宮津の小田にありと。

《大日本地名辞書》
【普甲山】本郡の南嶺にして、一名与謝大山といへり、半面は加佐天田の二郡に属す、其一峰千丈岳は最高峰にして、俗説賊酒呑童子の栖と為す者是也、山の東西に坂路あり、東なるは河守より宮津に通じ、西なるは金山より加悦に通ず。
宮津府志云、神名帳与佐郡に布甲神社といふを載たり、此社今定かならず、古へ普甲寺とて大刹あり、京極公入国の砌、不幸の音を諱て、千歳嶺と改むべしと令ありとかや、坂道険阻にして要害堅固なり、宮津府城の雄鎮といふべし、俗に大山と云ふ、これを土人あやまり大江オホエ山といふなり、普甲寺の旧跡あり、古より京師の駅路之にかゝる、沙石集に丹後国普甲寺といふ所に昔上人あり云々と見ゆ、土俗の説に丹波の国大江山の凶賊酒呑童子の族、茨木童子は普甲の一峰千丈岳に栖めりとつたふ、国司保昌在任の比、源頼光と共に凶賊を誅戮せしか、栗田成願寺七仏薬師縁起には、推古帝の御宇に加佐郡河守の三上岳に、英胡迦楼夜叉土熊と云三鬼多くの悪鬼を集め人民を害す、麻呂子親王之を征伐して三鬼を誅し玉ふ、其時、土熊をば末世の証にとて千丈岳の窟に封じこめ給ふと説く。
 藤原保昌都へ上りて久しくかへれ玉はざりければ文送り侍るとてよめる
待人は行とまりけりあぢきなく年のみこゆる与佐の大山 (夫木集) 泉 式部
春がすみたちわたる也橋立や松原ごしのよさのおほやま (名寄) 藤 光俊
今昔物語に、丹後守保昌が赴任の時、与謝山にて平致経の父平五太夫に逢ひける、武勇の逸話あり。西北紀行云、大江山は土人御岳と称す、高山也、麓に池あり、長四十間横廿間許り、馬場の跡あり、其辺に礎石残れり、是酒顛童子が住みし所なりと云ふ、山上に岩窟あり、入口方四間許あり、葛羅生茂りて人の行事不自由なり、酒顛童子は古の盗賊なり、夜叉の形をまねて人をおどし、人の財宝を奪ひ人の婦女をかすむ。(今按、御岳は天田郡三岳村に属す、普甲山の西南なる別嶺とす、不審)
補【千丈岳】与謝郡○宮津府志、普甲山の一峰なり、小式部の詠に「大江山いくの」とつづけたるは丹波老の坂の事にて、又頼光の凶賊を誅せし大江山も丹波の内にて、福智山の領内なり、千丈岳窟は、土俗の説に丹波大江山酒呑童子が出城にて、童子が一族茨木童子住しといへり。
補【普甲寺】加佐郡○京華要誌、千丈岳の東に普甲寺の址あり。○丹波志、重編応仁記に、山名入道の被官垣屋平右衛門丹波へ発向し普甲寺山に陣を取るとあるは、丹後の地なり。
補【成願寺】○宮津府志、医王山成願寺、薬師縁起曰、推古天皇(田辺府志に用明天皇とす)の時、当国河守荘三上ケ岳に英胡エイゴ、迦楼夜叉カルヤシャ、土熊ツチグマと云ふ三鬼を魁首として悪鬼多く集りて人民を害す、帝麻呂子親王に命じて之を征伐せいむ、皇子遂に伏誅せり、三鬼の内土熊をば末世の証にとて岩窟に封じこめ玉ふ、これ今の千丈岳鬼が窟なり、皇子鬼賊を平治して宿願の如く当国に七ケ寺を造立し、彼七体の薬師を置く云々。

《与謝郡誌》
普甲寺跡
 上宮津村字小田小字寺屋敷にあり普賢菩薩を祭り大伽藍ありし由なるも明応七年五月若狭の武田元信丹後の一色領土を犯かし加佐郡を蹂躙して此の地に入る。一色勢防戦力めたらも及ばずして敗死するもの多く普甲寺普賢堂此の役に兵災にかゝる。後も織田信長故ありて元亀二年比叡山延暦寺を焼き住僧遁れて西岩倉及び善峯寺に匿る。信長迫て之を焼くや再び遁れて丹後普甲寺に隠る信長人を派して又之れを焼き普甲寺此に滅ぶと。時に文禄二年丹後國中真言宗寺院非道の祈りを爲したりとて焚かるゝもの多し之を文禄の真言倒しといふ。



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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