丹後の地名

石川(いしかわ)
京都府与謝郡与謝野町石川


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京都府与謝郡与謝野町石川

京都府与謝郡野田川町石川

京都府与謝郡石川村





石川の概要


《石川の概要》



野田川河口部の南岸に位置するかなり広い範囲。集落は上地・中地・下地・川上・大宮・亀山・堂谷の七地区、中地・下地がその中心をなす。主に野田川支流の香河川の肥沃な扇状地で、通称「石川たんぼ」といわれる広い耕地があり、「玉の木石」で知られる良質な花崗岩石材の生産加工業も行われている。「和名抄」の物部郷に比定され、弥生の古くから栄えた地。トウガ坪という地名もあるので条里制があったのかも。
『続日本紀』に「宝亀七年(AD777)閏八月。壬子(二十八日)、丹後国与謝郡の人采女部宅刀自女(うねめべのやかとじめ)、一たびに三男を産めり。稲と乳母(めのと)の粮料(らうれう)とを賜ふ。」と見える、采女部は物部というからこの宅刀自女は物部郷、すなわち石川の人ではなかろうか、と『石川村誌』は述べている。中央にもよく知れた地であったと思われる。ここはタダモンではなさそう。

中世の石川荘で、 室町期から〜戦国期に見える荘園。「丹後国田数帳」には「一 石河庄百三十四町五段百三十歩内」とある。また「丹後御檀家帳」には「石川」「石川のひめかじ家五拾軒斗」「石川の田中 家五拾軒斗」「石川のもののえ 家五拾軒斗」「石川平田村 家六拾軒斗」「石川たかつ村」が見える。
上記の地名はいずれも野田川町石川の小字姫路・田中・物部・平田・高津として現存する。香河に接する付近に小字大石があるが、このあたり中世に大石荘があった。
近世の石川村は、江戸期〜明治22年の村名。枝郷に奥山村・亀山村・香河村があった。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年市制町村制により単独で自治体を形成した。
近代の石川村は、明治22年〜昭和30年の与謝郡の自治体名。大字は編成せず。
石川は、昭和30年から野田川町の大字。平成18年3月からは与謝野町の大字

《石川の人口・世帯数》 2068・657


《主な社寺など》

寺岡遺跡
方形貼石墓。弥生中期の巨大貼石墓
『丹後の弥生王墓と巨大古墳』は、(図も)
中期末の野田川町寺岡遣跡SX56(図2−1)は、最も大型化した貼り石墓で南北三三メートル、東西二○メートルを測る。墳丘上から三基の埋葬施設が検出されているが、第一主体部は長さ六・七メートル、幅四・二メートルの墓壙に長さ二・五メートルの組合せ木棺を納めたものであった。貼り石で化粧した巨大な墳墓と傑出した規模の埋葬施設の出現は、首長の集団から個人への脱却が予想されるが、副葬品がないところに次の時代と一線を引くものである。

方形貼石墓は中期後半を中心に確認され、分布は竹野川流域から由良川流域まで確認されている。最大の墳丘規模をもつ野田川町寺岡遺跡のSX56は長軸三三メートル、短軸二○メートルを測る長方形プランを呈する。墳丘の造成は、四周に溝を巡らし一端を陸橋状に削り残す。埋葬施設は三基が確認され、中心に位置するものは長軸六・七メートル、短軸四・二メートルを測る素掘の墓壙内に長軸三メートル、短軸一・四メートルを測る箱形木棺I類を納める。墓壙・木棺規模ともに大型である。

(↑丹後郷土資料館パンフより)

大宮神社の背後の丘の頂上にある。香河と石川を結ぶ街道沿いになる。式内社矢田部神社鎮座の谷間で、その向かい側の高い場所だが一面水田の地。寺岡というくらいでかつてここには寺院があったと伝わる。明石の日吉ヶ丘の貼石墓とは枝ヶ山を挟んで対称となる位置になるが、日吉ヶ丘も香河と明石を結ぶ街道沿いである。プレ丹後王国の、あるいはプレ与謝王国の王墓かも…

寺岡史跡
↑ 今は水田になっていて、何もない。

 石川の古墳
。(主に『野田川町誌』より)

石川の池田山古墳 石川小字池田にあり、丘陵の頂上に円墳横穴式石室が三基ある。
一号古墳は、全壊しているが、羨道の幅が一・四四メートルである。
二号古墳は、殆んど全壊しているが、高さ二・五メートル、長径一〇メートルで、段築の施設がある。
三号古墳は、現状全壊であるが、高さ五・五メートル、玄室の幅二・一メートル、段築の施設がある。副葬品は、須恵器の壷一、蓋付坏三、坏一、管玉一個が発見されている。
石川の浪江古墳 石川小字浪江にあり、丘陵の端に円墳横穴式石室のものが三基あるが、いずれもほとんど全壊している。
石川の丸山古墳 石川小字丸山にあり、平地にある円墳横穴式石室で、現在全壊である。
石川の高浪(たかなみ)古墳 石川の川上、小字高浪にあり、丘陵山腹にある。円墳横穴式石室で、現在半壊である。
 石室に石棚が雛壇状に作られ、玄室は礫床という、特異な古墳。石棚付石室は亀岡に7基あるとか、この形式は紀の川流域に多いとか言われるが、どうした関係になるのかは不明とされる。あるいは穂積氏、木積神社あるいは紀州熊野神社と関係あるのかも…

『日本の古代遺跡・京都T』高浪古墳(同書より)
野田川町の石川谷を谷奥へすすんだ川上地区には、高浪古墳とよばれる石棚付石室がある。一九八四年(昭和59)に発掘調査がおこなわれて、はじめて確認されたものであるが、さきにみた新戸古墳や全国の他の石棚付石室とは異なり、石棚部がヒナ壇状に形づくられていた。
 石棚付石室の分布とともに、形態的にもきわめて興味深いものであり、加悦谷の古墳時代後期を考えるうえでの好資料である。

石川のヤンダ古墳 石川小字ヤンダにあり、丘陵端にある円墳横穴式石室で、玄室の高さ二・一メートル、長さ四・一メートルで、現在は全壊している。
石川の荒神古墳 石川小字荒神にあり、山頂に円墳横穴式石室が南面している。長さ五・二八メートル。玄室は割石を使用し、幅一・六五メートルで、現在は半壊状態である。
石川の夕べカニ古墳 石川小字田辺カニにあり、山腹にある円墳横穴式石室で、完全に現存する。
町内文化史跡を訪ねて・石川・タベカニ古墳
 石川小字田辺カニにある横穴式石室です。
 本町の大部分は横穴式石室ですが、石を積み上げて遺骸を埋葬する玄室(主室)とその側面に外部との通路として羨道とを付けたものが、基本的な構造です。
 この構築技術は、朝鮮半島からつたわったもので、まず北九州の地域に五世紀になって伝えられ、五世紀後半から六世紀初頭に近畿地方で築かれるようになり、その後急速に各地に広まり、古墳時代後期における一般的なものとして発達していったものとされております。
 この型式は、一般に数人ないし十数人を理葬したものが多く単に一人を埋葬した竪穴式石室との構造の違いばかりでなく、家族墓的な性格をもっている葬式であるといわれております。
(『町報野田川』(昭和53.11.30))
石川の善法寺古墳 石川小字善法寺にあり、台地にある円墳横穴式石室で、現在半壊で、石室が露出している。
石川の舟山古墳 石川小字横畔にあり、丘陵頂上にある円墳竪穴式石室で、段築の施設がある。墳丘の高さ一・八メートル、径一三・五メートル、石室は割石を用い、高さ○・六メートル、長さ三・九一メートル、幅一・八メートル。副葬品は、高坏、坏、刀子、刀剣、小玉、鉄鏃、馬具類、町営住宅建設のため昭和三十九年七月発掘調査をしたので、古墳は原形をとどめない。出土品は、府立加悦谷高校に保管。
石川の第二舟山古墳 高坏、壷、刀剣など出土、現状全壊。出土品は、府立加悦谷高校に保管。
石川の鞭谷古墳 石川小字鞭谷にあり、丘陵山腹にある円墳横穴式石室で、完全に現存するもの二基と、半壊に近いものが三基ある。付近に土師器の破片が散乱している。
石川の姫路古墳 石川小字姫路にあり、丘陵山腹にある円墳横穴式石室で、玄室の高さ一・九八メートル、幅一・五二メートル、長さ三・九六メートル、現在は半壊の状態である。
石川の堂谷円山古墳 石川小字油田にあり、山腹にある円墳横穴式石室で、現在全壊である。
石川の堂谷大江古墳 石川小字大江ノ奥にあり、丘陵山腹にある円墳横穴式石室で、現在全壊である。
石川の堂谷堺古墳 石川小字堂谷堺にあり、丘陵山腹にある円墳横穴式石室で、完全に現存するものが四基あって、そのうち一基の玄室の高さ、二・三一メートル、幅一・九八メートル、長さ五・六一メートルである。
石川の堂谷切ヶ鼻古墳 石川小字切ヶ鼻にあり、山頂にある円墳横穴式石室で、完全に現存するものが四基ある。
石川の堂谷家ノ谷古墳 石川小字家ノ谷にあり、丘陵山腹にある円墳横穴式石室で、三基が完全に現存している。
石川の堂谷コウモリ塚古墳 石川小字堂谷堺にあり、丘陵端にある円墳横穴式石室で、玄室の高さ二・五四メートル、幅二・一一メートル、長さ三・九六メートルのものが完全な形で現存する。

後期古墳が集中する。

 式内社・矢田部神社
寺岡遺跡と同じ谷筋に鎮座している、見渡せる位置であるが、もともとからここにあったものかは不明。
式内社・矢田部神社(石川)

矢田部神社。石川村。祭神=矢田荒神 伊香色男命。延喜式竝小社。
(『丹後旧事記』)

矢田部神社
○【旧事記】矢田部造遠祖武諸隅命
○【姓録】矢田部
【覈】山田村ニマス
【明細】石川村大玉命祭日九月九日【道】不分明云々建角身命ノ後ナルベシ扨テ四辻村八幡社当社ナルベカ矢田ヲヤハタニ転ジタメルコト外ニモアリ【式考】石川村【豊】同上字矢田山祭神伊我色男命十月十八日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志。
(『丹後国式内神社取調書』)

矢田部神社
 石川村小字矢田鎮座、村社、祭神伊香色男命、延喜式内社にて神祇志料地理志料ともに矢田神社石川庄石川村字矢田山麓にあり矢田荒神と云ふと爲す。明治六年二月村社に列せらる、一説もと香河の谷にありしも何時の頃にや流出せしとも傳ふ、氏子三十戸祭四月二十五日。
(『与謝郡誌』)

矢田部神社(延喜式内社)大宮小字矢田
祭神 伊香色男命。
「開化天皇の皇后(崇神の母)伊香色謎命の弟で、父は大綜杵命であるとし、開化天皇の代に大臣、崇神天皇の代にも大臣として、神物を班(わた)たんがため、天社、国社を定め物部八十手の作った祭神の物を以て八十万群神を祭った」(日本古代人名辞典)。通称矢田荒神である。大祭は大宮区民により旧九月九日に執行される。
(『野田川町誌』)

『丹哥府志』には見えない、「室尾山観音寺神名帳」の「与謝郡六十八前」従二位 笶田明神だろうか。
矢田部は、神饒速日命の六世孫・伊香我色乎命之後とされたようで、物部氏系の氏族と思われる。今の京丹後市の五十河だから、あるいはあそこも矢田部氏かも、また木積氏とも近いかも知れない。
丹後は物部氏系が多い、古い氏族で、穴を掘って金属を作る生活だったと思われ、保守従来型で排仏派だった、今来の渡来氏族のような先進文化にはついていけないところがあるのかも、それがもとで滅んだわけだ、将来見通しもないのに前のめりの、前のめりなのか、後のめりなのかもわからないような暴走迷走政治も困るが、先進から遅れると歴史は繰り返されよう、丹後に古代寺院が少ないといわれるのはそのためかも知れない、先進からは遅れる、しかしかなり遅れてから、ここには慈観寺などが建てられた。

 式内社・物部神社

府道脇の鳥居からは500メートルばかり入らなければならない。
物部神社(石川)
「室尾山観音寺神名帳」の「与謝郡六十八前」に、「従二位 物部明神」とあるが、この社だろう。
物部神社。石川村。祭神=物部大明神 宇麻志麻治命。延喜式竝小社。往昔物部氏領地成故斯云神号直伝。
(『丹後旧事記』)

物部神社
田数帳物部四田四反七十八歩御免【覈】石川村【群載】御體御卜【明細】石川村祭日九月九日【道】同上物部大明紳【式考】所在同上祭神物部依羅連ノ祖饒速日命ニ疑ナシ供羅ハ与佐海ト語通ヘリ【豊】石川村字物部十月十八日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)。
(『丹後国式内神社取調書』)

物部神社
 石川村小字物部谷鎭座、村称祭神蘇我石川宿禰命、延喜式神名帳所載の神社にて朝野群載に承暦六年御トに物部神の紳祟あるを以て社司に中祓を科する旨あり、田数帳物部神田四反七十八歩別當社僧石川山神宮寺普門院累代奉仕し霊代聖観音像今同院に遺存す、明治六年豊岡縣より村社に列せられ祭典九月九日氏子二百二十戸を有す。
(『与謝郡誌』)

物部(ものべ)神社(延喜式内社)
下地小字江ノ奥
 祭神 宇麻志麻遅命。
 饒速日命の子で、物部連、穂積臣の祖で、母は長髄彦の妹御炊屋姫という。「田数帳」に、「物部ク少神田四反七十八歩御免」とある。
 大祭は、旧暦九月九日で、石見国一の宮物部神社(旧国幣小社)と同日である。祭礼は四社合同で行なわれ、当社より大宮社へ行列する。大宮社前において、奉納余興が、各社担当の青年によって順序正しく行なわれる。神楽、獅子舞、太刀振り、笹囃し踊り、相撲などがある。
 御神体は神鏡で、神像は左大臣へ右大臣の木彫の坐像である。祭神に一説あり、蘇我石川宿弥命という。
社宝日野大納言資技公書の「物部大明神」扁額一面(天明五年)がある。
 各七部落には、狂言舞台があって、青年たちの希望に応じ、一箇月臥上の練習を行なわせた。この歌舞伎芝居は、明治中期までつづいた。氏子は、旧石川本村、下、中部落の大正橋までで、道路境より出添い側は高津までという。戸数約二百七十が氏子といわれる。
(『野田川町誌』)

物部神社 (現)野田川町字石川物部
 「延喜式」神名帳にみえる式内社。近世には小字姫路谷の神宮寺普門院が別当寺であった。祭神は宇麻志麻治命。旧村社。
 物部氏勢力の丹後地方定着の地である物部郷に祀られたと考えられる。祭神は一説に饒速日命とも、蘇我石川宿禰ともいう。饒速日と宇麻志麻治はともに物部氏の祖神とされている。蘇我石川宿禰は稲目・馬子らの先祖にあたる。
 丹後国御檀家帳の「石川のもののゑ」に載せる講親小谷八郎右衛門はこの神社に深い関係をもつ家であった(石川村誌)。
 四月二五日に行われる字石川の大宮・大命(おおめい)・稲崎(いなさき)神社との四社合同例祭の行列はここから出発する。大正末年の氏子二二〇戸(与謝郡誌)。
 なお、石川の矢田にある矢田部(やたべ)神社も式内社で、通称矢田荒神。祭神は伊香色男命。当地と物部氏との関係から、物部連の祖といわれる同神が祀られたものであろう。
(『京都府の地名』)


 多田神社(式内社多由神社ともされる)

多田神社(石川)

多田神社
 石川村堂谷小字多由山鎮座、村社、祭神素盞嗚命、往昔廣峯牛頭天王を祀りしも維新の改廃今の名に改む。蓋し多田は多由の誤字にて延喜式多由神社なりとの説あり殊に社地を多由山と云ひ旧宮津藩主本庄侯の揮毫に多由神社とあり一考に値す。氏子二十五戸例祭同上。
 此他小字寺坂、同田中、奥山の浪江に孰れも無格社稻荷神社あり小字榎木谷及ぴ休場に無格社愛宕神社あう。向小字打野に無格社金刀比羅神社あり。
(『与謝郡誌』)

多田神社  堂谷小字多田
 祭神 素盞嗚命。
 出雲国の簸川上に至って、八岐大蛇を斬り、大山積命の孫稲田姫命と婚し、出雲国須賀の地に宮を興した。ついで、子の大屋昆古命(五十猛命)と共に新羅国に渡り、曽尸茂梨(そしもり)の地に住み、帰るときに、樹木、樹種を携えて植林の道を教えた。娘に大屋津姫命があり、樹種を国中に分布した。朝鮮語で「曽尸」は牛、「茂梨」は頭の音であるので、その地は江原道春川府牛頭州といわれる。また、明治維新まで牛頭天王が祀られていたことも、故あるという。神社名を俗に天王様と呼ぶ。
 大祭は、旧八月十八日に行なったが、現在は、四月二十五日に、宮津市分宮神社(和貴宮と改称)社司により祭礼が行なわれている。当社は多由山に鎮座し、神宮寺保管の文書にも、丹後国石川には多田社はなく多由社があると書かれ、祭礼のときの楽屋台につるす提灯、神社の幕などにも多由山とある点から多由神社が正しいといわれる。明治六年多田一族の氏神として「多田神社」と改号することを当該官庁に上申した。
 社宝として、十二天画像(十二幅)がある。氏子は約二十六といわれ、江戸時代に万人講を組織して祭祀を盛大にしたことがあった。境内に稲荷狭田毘古の祠がある。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・多田神社(石川)
 御祭神は素盞嗚命で、「出雲国の簸川上に至って、八岐大蛇を斬り、大山積命の孫稲田姫命と婚し、出雲国須賀の地に宮を興した。ついで、子の大屋毘古命と共に新羅国に渡り、曽尸茂梨の地に住み、帰るときに、樹木、樹種を携えて植林の道を教えた。娘に大屋津姫命があり、樹種も国中に分布した。」と伝えられており、朝鮮語で「曽尸」は牛、「茂梨」は頭の音であるので、その地は江原道春川府牛頭川といわれるが、この社が明治維新まで牛頭天皇が祀られていたことも、救あるといわれ神社名を俗に天王様と呼んでいる。
 当社は多由山に鎮座し、神宮寺保管の文書にも、丹後国石川には多田神社はなく、多由社があると書かれているが、明治六年多田一族の氏神として「多田神社」と改号された。
(『町報野田川』(昭和57.3.30))


タダはたたら(踏鞴)のこと。
『原日本考』(福士考次郎)に、
…タタラと言ふのも、この皮嚢の風を吹き出す音から来た。風がドッと吹くとか、とどろにとか、轟くとか、わが日本語中に関係音があり、タタ或はタトが元来の形である。タタラの「ラ」は日本語に普通な接尾語で別に意味がなり このタタ、タトはタダ、タドとなって我が国内の地名に沢山ある。
多田は踏鞴タダラのもとの言葉で、鉄産の行はれた指標を示す。


 稲崎神社
鎮座地が「石川板列6241」で式内社板列神社の比定説もある。
「室尾山観音寺神名帳」の「与謝郡六十八前」に、「従二位 伊奈佐岐(サキ)明神」が見えるが、この社か。
稲崎神社(石川)

男山八幡宮之下
延喜式所載板列神社ノ考已ニ本書ニ載ス。一説ニ板列神社ハ石川村稲荷大明神ヲ云フト、社ハ石川ノ端郷亀山ヨリ五町餘東ニアリ、道ノ中間ニ華表ノ跡トテ石六ツアリ、近来稲荷社ノ柱礎ニトリテ残リ一ツアリ此所板列ノ社華表中古マデアリシト云傳フ。
(宇平註) 板列庄が物部郷なる石川村の端郷亀山まで届いて居ったか否やは考へものであるが、板列といふ地字は存在してゐるし、茲に所謂稲荷大明神は今稲崎神社といふ、亀山から五町も離れて居るぬ、すぐ裏の山の手である。
(『宮津府志』)

稻崎神社
 石川村字亀山の板列に鎭座、村社、祭神若宇賀能売命、由緒不詳、明治六年村社、氏子六十二戸祭同上。
(『与謝郡誌』)

稲崎神社 亀山小字長尾
 祭神 宇迦之御魂神(倉稲魂神と同じ)。
 「宇迦は食(ウケ)なり。一切の食物を司り給う意。御魂は恩頼神霊(ミタマノフユ)等ありて此神は食物の事に功あり主として治めせし神なるにより負い給しし御名也。須佐之男命の御子御母は神大市比売、御事績明ならず」(大日本神名辞書)。
 大祭は、旧暦九月九日(秋祭)であったが、現在は四月二十五日、旧来の石川村四社のうちの一で、御神体は白狐に乗れる方だという。祭典は、亀山に氏子若衆により、獅子舞、神楽が大宮神社の前で奉納される。氏子は亀山部落の約三百人である。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・稲崎神社(石川小字亀山)
 御祭神は宇迦之御魂神(倉稲魂神と同じ)で、大日本神名辞書に、「宇迦」は食(ウケ)なり。一切の食物を司り給ふ意。御魂は恩頼神霊(ミタマノフユ)等ありて此神は食物の事に功あり主として治めせし神なるにより負い給いし御名也。須佐之男命の御子御母は神大市比売、御事績明ならず。」とあります。
 大祭は、旧九月九日(秋祭)でしたが、現在は四月二十五日に行なわれ、旧来の石川村四社(物部神社、稲崎神社、大命神社、大宮神社)のうちの一で、合同祭礼の奉納芸能として、当稲崎神社には、亀山地域の氏子若衆による神楽があります。
 この社の本殿の屋根は、桧皮葺になっておりますが、、この桧皮葺きの屋根を保全するため本殿全体が二重屋根になっています。
(『町報野田川』(昭和57.6.30))


 大宮神社
香河村大宮峠より移されたという。大宮峠は香河から府道16号線が上宮津へ続くが、その境の峠である。香河川の一番上流である。
大宮神社(石川)
オオミヤと呼ばれるが、カグウの意かも…
大宮神社
 石川村小字大宮鎭座、村社、祭神大宮比売命、由緒不詳、明治六年村社に列せられ内陣木彫獅子の古像を蔵す、境内末社大石神社あり氏子六十戸。
(『与謝郡誌』)

大宮神社 大宮小字大宮
祭神 天細女命(アメノウズメノミコト)(大宮比売命と同じ)。
「 天照大神の天岩屋に隠れ給ふや此神異様の装をなして岩屋の前に舞い給い、大神岩屋より出で給ふや、御前に侍して御心を慰め給ふ」(大日本神名辞書)。大祭は稲崎神社に同じである。
 この社は、石川の四社合同祭礼の終着点として、社前において各種の奉納余興が行われる。当大宮地域内の青少年の太刀振り、青年相撲の催しで四社の祭典は終了することになる。御神像は、室町初期の木彫で、左右大臣(木彫)が脇侍役で、狛犬(木彫)もその時代を物語っている。氏子は約二百七十人である。境内に大石神社がある。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・大宮神社(石川小字大宮)
 「御祭神は天細女命(大宮比売命と同じ)で、大日本神名辞書に、「天照大神の天岩屋に隠れ給ふや此神異様の装をなして岩屋の前に舞い給い大神岩屋より出で給ふや、御前に侍して御心を慰め給ふ」とあります。
 この社は、石川四社(物部神社、稲崎神社、大命神社、大宮神社)合同礼祭の終着点として、社前において各種の奉納芸能が行われます。
 芸能としては、物部神社の太鼓、稲崎神社の神楽、大命神社の笹囃子、そして、大宮神社当大宮地域内の青少年による太力振りが奉納され四社の祭典は終了することになります。
 御神像は、室町初期の木彫で、左右大臣(木彫)が脇侍役で狛犬(木彫)もその時代を物語っています。なお、境内には、大石神社があります。
(『町報野田川』(昭和57.5.31))


 大命(おおめい)神社

町内文化史跡を訪ねて・聖観音菩薩立像
 石川小字高津大命神社に祀られている「聖観音菩薩薩立像」は像高二八・八糎の平安中期の作と伝えられ、銅造鋳で、後背上方と下方膝裏のあたり造り出しの凸起のあるところから懸仏ではないかとも思われていたが、本年四月十日府教委の調査により、凸起状の掛け具は光背のためのものであろうと説明されています。
 野田川町法の記述に「永仁二年十二月十八日、願主教賢」としておりますが、本年の調査により、「永仁六年十二月十八日願主敬賢」と訂正されました。
 そしてこの時代におけるこの種のものは数少なく、価値あるものだと説明されました。
 現在は大命神社の神像として祀られておりますが、元は慈観寺の鎮守だと伝えられています。
(『町報野田川』(昭和54.7.31))

町内文化史跡を訪ねて・大命神社(石川小字上地)
 御祭神は橘豊日命(用明天皇)。欽明天皇の第四皇子で母は、蘇我稲目の女岐多斯媛と云われます。
 御神体は、神仏習合説からして平安中期の作、聖観世音菩薩立像を祀り、永仁六年十二月十八日の銘が刻まれ、願主教賢とありますが、このときに修理されたもので、この時代のこの種のものが発見されたのは少なく、府の文化財としても価値があると云われています。
 祭礼は四月二十五日に行われますが、大命神社の芸能として「笹囃子」が奉納されますが、この「笹囃子」は鎌倉時代からあると伝えられ、京都府下でも有数の郷土芸能として広く紹介されており、近年は遠方からの見物客も多いと伝えられています。
(『町報野田川』(昭和57.4.30))

大命神社
 石川村小字慈観寺鎮座、村社、祭神橘豊日命、由緒不詳、天長OO年十二月十八日云々の銘ある金銅観音立像を奉安せるが石川の慈観寺は田数帳にも見え寺趾近接の地にあり蓋し由縁あらん、明治六年二月村社に列せらる氏子九十七戸、例祭同上。
(『与謝郡誌』)

大命神社 上地小字慈観寺
 祭神 橘豊日命(用明天皇)。
 欽明天皇第四皇子で、母は、蘇我稲目の女岐多斯(きたし)媛という。御神体は、神仏習合説からして平安中期の聖観音像(高さ二八・八センチメートル)を祀り、永仁二年十二月十八日の銘が刻まれ、「願主教賢」とある。このときに修理したものでこの時代におけるこの種のものが発見されたのは少ないゆえ、府の文化財として価値がある。慈観寺の鎮守として尊崇された。氏子は川上(奥山)と、高津地区並びに大正橋より上側で、道境下側に並ぶ鞭谷川までの区民約四百六十人が氏子といわれている。祭礼は四月二十五日に行なわれる。
(『野田川町誌』)

川上谷への入口で、鎮座地の小字がジカンジ(慈眼寺)、ということは如意尼の慈観寺は元々はここにあったのだろう、今は姫路谷に移って神宮寺とよばれている。ここのすぐ隣が善房寺という小字であるが、これが如意尼の善法寺か。もともとすぐ近くに両寺があったよう。如意尼と関係深い神社と思われる。
山の斜面の石段を登るのだが、強固な鋼鉄の柵が参道を横切ってグルっと作られていて神社までいけない。イノシシよけの電柵が張られている神社は多く、それはまたいでいくが、ここのはそんなハンパものではない、鹿用よりも頑丈で熊用かオニ用か、ナニがおるんだこの奥には、ただもんではないな、という不気味な高さと頑丈さ、鍵がかかっているし、柵を乗り越えるのはムリ、ここからまだ百メートルばかりは先のよう。こんなおもしろそうな所なのに、氏子さんの許可と案内がなければ近づけそうにもなかった。写真で見ると立派な社殿があるし、裏には大きな石がある。

−大命神社の笹囃子


笹囃子(物部神社社頭)

笹囃子

 石川区の大命神社・物部神社・大宮神社・稲崎神社の4神社が一つの祭祀圏をつくって、祭礼日(加悦谷祭)は、他地区の神楽や太刀振りともに、物部神社・大宮神社では、写真↑の華麗な笹囃子が奉納される。
笹囃子は、中央にシンポチ(新発意)と呼ばれる役1名とそれを挟む両側に太鼓持ち2名の小学校児童3人が踊りを演じ、そのうしろで大人(氏子)数名が音頭を取る。
シンポチと太鼓持ちの飾り衣装に特徴があり、丹後ではほかには見られない、シンポチは、ヨロイと呼ぶ五色の紙片で飾った布を胸と背にあて、頭には大輪の牡丹の造花をつけた花笠を冠り、左手にササ、右手に飾り団扇を持っている。このササには、約1mの細竹、これに馬のクツワ、ヒョウタン、藁製の鍋つかみ、色とりどりの短冊及びゴヘイ榊などで華やかに飾り付けられる。太鼓持ちの背中の笹飾りさらに華やかで、ご覧のとおりにまるでクジャク。シンボチは真ん中の小さい子が演じている。飾りはここまでは分解して運んでくる。


↑坂根正喜氏のビデオ。(08.4.27)

2月頃から準備が始まるという、小・中学生は総動員ではなかろうか。こんな日に仕事したり××したりするのは…だけかも。ゴッツォを差し入れてもらったりするとか…


町内文化史跡を訪ねて・加悦谷祭・石川地区
 石川地区では、物部、稲崎、大宮、大命の四社大明神の祭りが行われます。
 四月二十五日の祭礼の日は区事務所に夫々集合し、神楽、太刀振り、笹囃子の芸能組の公演があり、引き続いて祭礼の行列は、物部神社で奉納芸能組の芸を奉納した後、神官、区役員、稲崎神社の神楽、大命神社の笹囃子、大宮神社の太刀振り、続いて太鼓の芸能組の順で続き、一般参拝者が供奉し、大宮神社に至り、大宮神社で奉納芸能組の芸を奉納して祭典の終りを告げます。
 この奉納芸能の中で「笹囃子」は鎌倉時代からあると伝えられ、京都府下でも有数の郷土芸能として広く紹介されており、近年は遠方からの見物客も多いと、いわれています。
(『町報野田川』(昭和56.2.13) )

平成28(2016).4.24の記録(物部神社)


物部神社参道を揃ってやってくる。14:20くらい。神楽獅子も来るがここでは舞わないそう。急な石段を登ると社殿がある、土俵があるが使われていないよう。
動画↓




 社号の大命はオオミコトではなくオオメイと読んでいる。川上と呼ばれる地の鎮守だから、金属と何か関係があるのではと、おおいに気になる神社である。
『丹哥府志』にも大命明神が見えるが、それ以前は、「室尾山観音寺神名帳」「与謝郡六十八前」の「正四位上 大()明神」なのではなかろうかと考える。川上川や香河川の流域は中小の古墳が最も集中する地だそうで、当時のその中心地に祀られた神社である。
祭神が用明天皇というのはどうしたわけになるのかわからないが、大目というのは目が大きいというだけではなく、一つ目のことらしく、片目の金属精錬の鍛治屋を神格化したものと推定される。
磯城県主大目(孝元紀)あるいは十市県主大目(孝霊記)と見えるが、県主層の遠祖というのは鍛治屋だったのかも知れない、その娘たちは天皇の皇后となっている。丹後の大県主はゼッタイにそうだと思われし、娘は皇后になっている。天皇さんも元をたどれば鍛治屋だったのかも知れない。この社は少なくとも狭くとも「石川県主大目」、もっと広く「与謝県主大目」を祀るものだったかも知れない。丹波大縣主ほどではないが、与謝縣主くらいではなかったかと思われる、大和権力とも妃を入れるくらいの関係が続いていたのではなかろうか、巨大前方後円墳の存在がそれを裏付けるか。
如意尼が天皇に召された伝説もあるいはそうした遠い過去の幾つかの史実が背景にある伝承なのかも…
『和名抄』に、佐渡国羽茂郡大目郷、於保女の訓注がある。同地に式内社大目神社がある。目はマナコでマとも読むようで、オオマとも呼ばれていたと思われる。
『地名の古代史(九州篇)』(谷川健一・金達寿・河出書房新社)で谷川氏は、
谷川 ……香春岳には、『豊前国風土記』(逸文)に、昔、新羅国の神がやって来て香春に住んだとある。先程のお話ですね。香春岳の第二の嶺に銅を産すると述べてある。
『続日本後紀』には、香春の、三つの嶺に三柱の神がいた。一の嶺には辛国息長大姫大目(おおま)命、第二の嶺には忍骨命(天忍穂耳命)、第三の嶺には豊比売命を祀るというふうになっておりますが、でも辛国は当然、韓国のことですから、おそらく新羅国のことかと思うんです。
 息長というのは、息が長いというところから鞴の風がよく通るという説があるんです。また海に潜るとき息が長いという説もありますけれど、まあどっちかと言えば鞴の風と思うんです。
 大姫というのは、これは神と人間とを取り持つ巫女的な存在を大姫という。
 大目というのは、『総合日本民俗語彙』を引きますと、大きいだけじゃないんですね。一目なんです。大眼というのは一眼なんですよ。そうすると韓国からやってきて、鞴の息の長い、そして神と人間とを取り持つ神であって、しかも目一つの神だから、どうもこれは鞴を使って銅を精錬する一つ目の神に仕える巫女ということになります。それは新羅からやってきた。
 これは金さんのお話では加耶ということになりますが、私は、新羅の神がやってきたと『豊前国風土記』(逸文)に出てくるから、そういうふうに解釈しているわけなんですね。
 それから豊比売というのは、豊国の地つきの地母神である。それから天忍骨命は、記紀では天忍穂耳命となってるんですね。オシというのは大きいという意味で、ホネのホは稲の穂なんです。きわだってすぐれていることもいう。だから天忍穂耳命は天大耳命ということになる。
 要するに、そこに銅鏡を鋳造する目一つの神に仕える女神がやってきた、ということが考えられると思うんですね。名前からすでに出てくるわけですよ。…
田川郡の式内社・辛国息長大姫大目命神社のことで、香春神社の祭神であり、かの地は銅山で知られている。天日槍の赤留比売だともいわれる、近江の息長氏とも関係ありそうに思われる。「息長」は金属と関係ある名とわかる。
ほかにも尾張国山田郡に式内社・大目神社がある。この社は猿投(さなげ)山の西麓にある。サナキとは銅鐸の鐸のことであるが、石川に香河(かご)川、かぐや橋があるが、カゴカグは銅のことである。西側の山を越した須代神社とその向かいの梅林寺からは銅鐸が出土している。銅川や大目神社があるのも当然なのかも、もしかすれば、これらの銅鐸は大目神社のあたりで作られたのかも…
チト大変な過去を秘めて如意尼伝説にも繋がる重要な古社のように思われる。府中に移るまでの与謝の中心地であったものか、大目、大宮神社のあたりが府中以前の与謝の中心か、立派な笹囃しが今に伝わり、たぶん与謝縣主大目の一族は大和権力の中枢とも姻戚的、政治的関係も深く鎌倉期あたりまで文化的にもかなりの勢力を残していたのかも知れない。後の中世石川氏(大泥棒石川五右衛門はこの一族とも伝わる)へ繋がる古代氏族か…
古いシガラミも残る地であり、新権力はこの地から新天地の府中へ移った、カゴ神社を連れて…、かも知れない。

『丹後の笹ばやし』(昭52・府教委)
上地・笹ばやし
名称  ささばやし
所在地 与謝郡野田川町石川小字高津・平田(上地)
時期  四月二十五日

野田川町石川は、国鉄丹後山田駅のほぼ南方、野田川にのぞむ山すそにひらけた村落で、合併して野田川町となるまでは石川村といった。なかなかの大村で、宮津藩領のなかの「最大農村」であったといわれている (『石川村誌』)。
この石川は祭礼においても、一つの祭祀圏をなしている。大宮神社は「石川村之氏神」(史料二)であり、四月二十五日のその例祭は、亀山地区の神楽、大宮地区の太刀振、相撲、上地地区の笹ぱやしが一体となって奉納される、旧石川村をあげての祭りとなっているのである。大宮のこの祭りを「祭礼」と云いならわしているが、それはまた、地下祭ともいうべき地区それぞれの氏神祭を包摂している。
たとえば亀山では、この日午前中に、地区の氏神稲崎神社に神楽をあげ、ついで神楽が「かまど清め」と称して家々を巡ってから、祭礼に従う。大宮ではそれが翌二十六日になっているが、矢田部神社の祭りがあって太刀振が奉納され、やはり太刀振が「かまど清め」に家々を巡回する。上地においてもこれは同様であり、それらはいずれも地区の氏神とみなされる。そのような地下の祭りが結び合って大宮の祭礼を構成するのであり、祭祀の重層した姿をみせるのが注意される。
さて、笹ばやしは上地に伝えられる。上地は中地、下地に対する旧来の地域名で、いま高津と平田の二つの小字に分かれている。笹ばやしはその両字が一つになって行うもので、シンボチ 一名、太鼓持(踊子とも)二名、歌うたい 六名によって構成される。シンボチは小学校一、二年生、太鼓持は五、六年生の男子で適当な者が選ばれる。
歌うたいは四十二才前後の壮年がもちまわりで当るしきたりであったが、いまは希望者に限られ二、三人で行うことが多い。着物の着流しに羽織姿の歌うたいのほかは次のような支度である。
 シンポチ 軍配を染めぬいた紋付にハカマを着用し、白足袋に日和下駄を履き、ヨロイとよぶ五色の紙片で飾った布を胸と背にあてる。頭には大輪の牡丹の造花をつけた花笠(一文字笠)を冠り、左手にササ、右手に五色の紙片でふちどった飾り団一扇を持つ。ササは三段ほどの枝をのこした長さ約一米の細竹で、これに馬の轡、ヒョウタン、藁製の鍋つかみ、踊歌の文句を書いた色とりどりの短冊、およびゴヘイをつける。鍋つかみは馬の耳、ヒョウタンは馬の胴になぞらえたものといい、昔はさらに巾着もつけたという。
太鼓持 回紋の紋付にハカマを着用し、たっぷりと白タスキをかけ、手甲をつけ、白足袋に日和下駄を履く。また、背にハナを負い、腹に皮面を上下にして締太鼓をつけ、両手に房で飾った桴を持つ。ハナは、背丈ほどの造物で、径五センチばかりの竹の上部を割って頭大の籠を編み、編み残した部分に一面に桜の造花を貼り、紫の小幡とゴヘイ・榊を籠の中に立て、それらをさらに、竹の中ばにとりつけた四本の花枝で包むようにしたて、その花枝に五色の紙片をびっしり貼ったうえに、先端を各三輪の菊(いまは牡丹)の造花で装うというものである。踊歌を誌した短冊もつけられる。
このハナや花笠の花の作製をハナヅクリというが、作れる人はわずか一人になっている。太鼓のつけ方も変っていて、紅白に巻いた二本の竹を締太鼓の緒にくくりつけそれを腰に挿すかたちである。
笹ばやしは祭礼の二十日ほど前から練習にかかる。これをコブシ固メという。以後輪番で定まった宿に集り、二十三日の仕上げまでケイコを重ねる。
こうして二十五日を迎えると、一行は早朝に宿に集って支度をととのえ、宿の心づくしのお膳をいただいて出立ちする。午前中いっぱいは地下の祭りで、氏神大命(おおめい)神社をはじめとして、秋葉、稲荷、愛宕の小宮に笹ばやし一曲(花の踊)を奉納するほか、個人廻りと称して、区長その他の村役や希望の家々を順次にめぐる。家々では床の間に一行を迎え、笹ばやし二曲(花の踊・順礼踊)をあげてもらう例である。午後はいよいよ祭礼である。石川区事務所にある公民館に、ほぼ一時頃、祭礼の一行が参集する。そこで簡単ながら盃事があり、一座した諸役の見守る中で、神楽ー太刀振ー笹ばやしが披露され、そのあと、祭礼諸役を先頭に神楽以下の芸能が行列を組み、まず物部神社へと向う。太鼓や笛のはやしがにぎやかに流れ、祭りらしいにぎわいがしだいに広がってゆく。物部神社ではだんだんの神事があり、その間、石段下に止まった芸能集団が神楽以下をさきの順に奉納する。
亀山の神楽は太神楽系の獅子舞で、「鈴の舞」「剣の舞」「乱舞」の三曲を伝えている。大宮の太刀振は、いわゆる大太刀型で、大勢の少青年がジュバンにタッツケ袴、手甲、脚絆、タスキ、ハチマキ、白足袋に身を固め、いっせいに太刀(両端を白紙の房で飾った棒に刀をとりつける)を振るもので、道振と本振とがある。大太鼓一、小太鼓(締太鼓)二をのせて曳行する楽台と数本の笛のはやしがつく。太刀振が大宮の持芸であるにもかかわらず、このはやしは上地が担当するのがしきたりであり、地下祭においては楽(がく)という独立した芸能として行わ
れる。楽は大勢が一つの大太鼓を打ちめぐる太鼓芸で、中地、下地に
もみられるが、それらは祭礼には参加しないことになっている。
やがて神事が終ると、一行は再び行列をしたて、大宮神社へと巡行
する。いかにも神幸といった感じである。物部神社は男神、大宮神社

は女神とされ、男神が渡御されるのだという俗信もあるらしい。大宮神社では、まず神事がとり行われる。芸能はしばし待機するが、笹ばやしはこの間に吉田文之助家で一踊りする旧例である。ほどなく神事が終ると、いよいよねり込みとなる。先頭は神楽、続いて太刀振が長い列をなして道振で神前まで進み、笹ばやしも後を追う。ついで拝殿左前方にある舞堂において、ねり込みの順に従ってそれぞれの芸能を奉納する。太刀振は、二、三人ずつ年令の順に登場し本振をみせる。本振には、カカエ、バラバラ、カラストビ、片手、カンヌキなどの手があってなかなか勇壮である。笹ばやしは「花の踊」「順礼踊」の二曲を奉納する。それが終らないと「祭礼」がすまぬといい、笹ばやしの終了とともに、祭礼も終了し、集団はそれぞれの地区へと帰ってゆく。笹ばやしも帰途につくが、旧例によってその前に、浪江正夫家に芸能を入れ、帰り着いてはまた定まった二軒の家で笹ばやしを演じることになっている。
翌二十六日は笠ナヲシという。後片づけをし祭りの興奮をいやす日である。しかし以前は、他の地区に芸能をかけ、家々では酒肴でもてなしハナを出した。太刀振などもこれは同じであったといわれている。
笹ばやしは、「花の踊」「順礼踊」のほか「船頭踊」「笠の踊」「勢田の踊」のあわて五曲が伝えられていた。あとの三曲は明治の末ごろから行われなくなり、いまは前の二曲のみとなっている。
演奏は、神前に向ってシンポチが立ち、その前方左右に太鼓持が向い合って右膝付の姿勢をとり、あたりに歌うたいが適当に位置するかたちで始まる。シンポチがまず、左肩にかついだ笹の柄を右手の団扇で叩き、「今度の踊は花の踊、なかのシンポチはやし申そう、太鼓の頭そろりそっと頼みます」と口上を述べつつ、右前方の太鼓持のまわりを一周すると、トントントンと太鼓が入り、「インヤホ音頭おろおろや」の音頭出しとともに太鼓持が立ち、音頭に合わせて、足を交互に反対の足先に出しつつ太鼓を打つ。シンポチも同様に笹の柄を打つ。途中、トントトンと打つところで中央へ三歩寄って退く動作が加わるだけの簡単な踊りである。「順礼踊」の所作もこれとほとんど変らないが、桴を立てて締太鼓をはさむようにし、トン(右桴て皮曲を打つ)ツツツ(縁を打つ)と打つ太鼓の打ち方に変化がある。
上地の笹ばやしは、このようにはなはだ素朴な芸能である。しかし、その扮装には華麗な風流踊の面影が明らかに認められる。背にハナを負う形式はザンザカ踊など但馬の風流踊における中踊と共通する。丹後では他にその例をみないが、笹ばやしの分布を考えるうえで注意されるところである。
ここには、民俗芸能には珍しく、後にあげるような若干の文書がある。それによれば、享保二十一年(一七三六)には恒例として笹ばやし等が行われており、それがさらにさかのぼる伝承であったことを物語る。その創始の時期はもとよりわからないが、太刀振、笹ばやし、大黒踊、鳥さし踊という芸能構成といい、それらを地区ごとに分担する構造といい、いずれも古態を示すのであり、江戸初期をくだらぬものと考えられる。次に「常盤屋文書」として「石川村誌」の引く史料をあげておく。

(一)石川村大宮大明神祭礼之次第
一、大宮大明神  幟一本
一、稲崎大明神  同一本
一、物部大明神  同一本
一、大命大明神  同一本
一、笠ぼこ    一本
一、太刀ふり   二十人
一、ささばやしおどり 四番 子供十人

一、大黒おどり  一番 子供六人
一、鳥さしおどり 一番
一、狂言     三番 此役者数人
一、相撲採     双方人程
一、見物人    人程
一、柿売商人   人
  丑九月九日
 (二)乍恐御披露申上口上之覚
一、当月九日は石川村之氏神大宮大明神祭礼に御座候に付、例年之通氏子共少々之踊狂言等仕候、尤他所より彼者等呼寄申義は不仕候、見物人寄多御座候へば相撲なども仕候、毎年御同心衆御出被候に付御披露申上候、被為仰付被下候はゞ難有可奉存候、已上
  享保二十一年
       辰九月
                      石川村庄屋
  御代官様
 (三)乍恐奉願上口上之覚
一、当村端郷亀山より立願に而獅子舞仕度願出申候、乍恐右願之通被仰付被為下候はゞ難有可奉存候、以上
  宝暦八寅年九月
                      組頭
  小谷孝右衛門様



@ 造花の技術は吉田次太郎という人が(明治末頃か)、息子を岩屋(野田川町)に養子にやった先から習い伝えたといわれる。いまでは池田不二夫氏が一人でこれを作る。なおハナは祭礼後、希望者に分けられるならいであった。
A この神楽は宝暦八年(一七五八)に祭礼芸能に加えられたことが史料三で知られる。同系の獅子舞は加悦谷にとくに多く伝承されているが、その創始を宝暦ころと伝えるところが少くなし。その頃、このあたりには太神楽が大いに流行したらしい。
B このことは、太刀板と笹ばやしが一セットをなす芸能として祭礼にとり入れられたことを考えさせよう。史料一にみえる「大黒おどり」「鳥さしおどり」は、詳細不明でどの地区の持芸であったかもわからないが、ともに風流系の芸能とされるのであり、太刀振、笹ばやしとともにそれらは一つの風流踊を構成していたとみることができる。つまり、太刀振・笹ばやし・大黒踊・鳥さし踊を主要な構成要素とする風流踊が流布し、それが要素ごとに各地区の持芸として分割伝承されたという見方である。その蓋然性はかなり高いと思われる。
C 現存の建物は明治に再建されたものだが、文政創建といい、六、七十年前までは地狂言をやったと伝える。立派な農村舞台である。
D ここの笹ばやしについて、矢野淳子氏に「資料紹介 上地のささばやし」(『女子大国文』第四十六号)の報告がある。
                           (植木行宣)


城跡

亀山の亀山城址
明石境の石川亀山城址は東西240m・南北300m・高さ40mの平山城で三段築城、本丸・二の丸・三の丸の名が残る。
町内文化史跡を訪ねて・石川・亀山城跡
 石川小字亀山にあり、城跡は東西二五〇メートル、南北三〇〇メートルの範囲で、高さ四〇メートルの平山城といえます。頂上を含めて三段に築かれ、本丸、二ノ丸、三ノ丸という名が残っており、東が大手口、西が搦手口、他に馬場、池沼の跡もあります。城跡は、幾地、四辻、明石にまたがり、加悦谷における主要な城だったようです。城主は、丹波氷上郡出身、武蔵国小野氏流荻野悪右衛門で、安土桃山期に居城していたと伝えられ、天正六年(一五七八)三月明智光秀の軍と戦って討死し、その後の城主は、石川悪四郎で、天正十年(一五八二)九日細川氏に降り 新たに亀山城主となったのは細川氏の陣代有吉将監の孫与吉郎(長岡内膳正)で、久しく居城したと伝えられております。
(『町報野田川』(昭和53.8.31))

江田城趾、亀山城趾
 石川村大石の上の山にあり城趾馬場など残れり玄蕃助之れに拠り天正十年細川の爲めに追はれ、嶺伝ひ亀山城に落ちんとして騎馬斃れたれば里人駈馬を奉るべき祈願を込めて歯痛を医せんとするの伝ひあり。同村の亀山にあり荻野悪右衛門住す、蓋し荻野氏はもと丹波の大名なり戦破れて後一色氏に仕へ終に其の家臣となる城趾一ノ丸二ノ丸三ノ丸馬場等歴然だり。城山の一部は明石、四辻、幾地に跨る一色軍記に四辻の亀山城といふはかゝる関係より四辻と云へるなるべし。
(『与謝郡誌』)

石川亀山城跡小字亀山にあり、城跡は、東西二五〇メートル、南北三〇〇メートルの範囲で、高さ四〇メートルの平山城といえる。頂上を含め三段に築かれ、本丸、二ノ丸、三ノ丸という名が残っている。東が大手口(本街道)、西が搦手ロ(裏街道)となる。馬場、池沼の跡もある。城跡は、幾地、四辻、明石にまたがり、加悦谷における主要な城であった。城主は、丹波国氷上郡出身で、武蔵国小野氏流荻野悪右衛門で、安土桃山期に居城していた。父は、赤井五郎時家であり、初め母方の姓を名乗って荻野と称した。天文二十三年(一五五四)、母方の兄黒井城主荻野秋清が、父時家、兄家清に謀叛を企てたので、これを殺して城主となり、悪右衛門尉直政と号した。兄家清が、弘治元年(一五五五)七月、芦田・足立の両氏と戦い、重傷を負うて、翌々年(一五五七)三月没した。時に、赤井五郎忠家はわずか九歳、これを補佐して丹波奥三郡(氷上、多紀、天田)の国務をみた。やがて丹後に入り、亀山城主となる。しかるに、天正六年(一五七八)三月、明智光秀の軍と戦い、ついに十二創を蒙り、死す。その後の城主は、石川悪四郎(浄雲斉)で、天正十年(一五八二)九月、一色義清が宮津で敗死したので、細川氏に降り、一色氏の諸城は落ち、新たに亀山城主となったのは細川氏の陣代有吉将監の孫与吉郎(長岡内膳正という)である。
(『野田川町誌』)



枝ケ山に枝ケ城址。
枝ケ山城址は標高205mの堅固な山城。
石川枝ヶ城跡 石川奥地大石の山の上にあり、城跡は、加悦町の明石小字庄ケ崎の入谷にまたがる。標高二〇五・三メートルの山城で、玉ノ木の清水側が大手口(表門)、玉峠側が搦手(裏門)という。城の頂上部は、南北約二〇〇メートル、東西は、四〇メートルの削平地となっている。山麓には、居館のあった屋敷跡の石垣が三個所ほどある。城主は、刑部玄蕃亮(戦国時代)。室町期には、刑部右京亮が竹野郡網野郷に十町五段二百九十七歩の所領があり、さらに、寛正七年(一四六六)閏二月には、石川庄の仏明寺の別当職に補任されている(成相寺古文書)。その後、左衛門亮とつづき、玄蕃亮に至る。天正十年、細川氏のため追捕され、裏門より亀山城へ敗退の際乗馬が斃れた。のち、村人は供養をして馬を祀った、これが玉峠にある。俗称”玄蕃はん”といい歯痛の神の由来である、祠の中側に馬の絵が描かれている。
(『野田川町誌』)

山城賛歌・枝ヶ城跡


桝形に石川城址。石川城跡登り口




石川城跡 (現)野田川町字石川
 石川村の背後、標高一二〇メートル余にある山城。東西に郭を連ね、中間に西向きの落ち込んだ部分がある。
 石川は丹後守護一色氏に関係が深く、「若狭国守護職次第」 に次のようにある。
 一色修理大夫満(割注・応永八年四月御出家、法名道範・詮範子、)
 応永十三年六月七日信将逝去の後、代官同人。又代
 官同人。雖B然三河入道明鏡、同子息三郎共に同十三
 年十月一日に京都道範□屋形に於て召禁ぜられ、丹
 後国石河と云所に被籠者畢。依B之舎弟安芸守、同一
 族等并若党以下数十人、三河国に於て同十五年十二
 月廿六日討死畢。同十六年三月に明鎮父子石河城に
 て被C切腹E畢。此併小浜八幡宮上の山にて鹿をから
 せられし御崇とぞ。大方風聞ありし事なり。
一色氏の守護国である若狭の代官父子が、京都一色屋形から丹後石河城に移されて入牢、二年半後に切腹を命ぜられた。これは小浜(現福井県小浜市)の八幡山で鹿狩をした崇りだと風聞を立てられたというのだが、一色氏の支配権のなかでの守護と代官の争いであることはいうまでもない。なお引用文中の信将は一色左京大夫詮範、「代官同人」とあるのは小笠原三河守長春(法名明鎮)、「又代官同人」は武田若狭守長盛(法名寿恩)であり、当時三河国は一色満範の守護国であった。
 中世末の丹後国御檀家帳には
 一 石川
  一宮殿様 是は石川殿御取立の屋方也、ふちうの
       御屋形さまの御しんふ也、御婦は原と
       申所御座候
  一宮新五郎殿 御屋かた様御しやてい、石川に城
       もたせられ候
  大田新左衛門殿 新五郎殿のおとな也
  伊賀栗軒 大なる城主なり、くににてはしりまい
       の人也
  中西新助殿 さいほく殿の御内
とあり、また石川一宮殿様に関しては、府中(現宮津市)の項で次のごとく記している。
 一 ふちう
  一宮殿様
   是はいし川の御屋かたさまの卸しそく[ ]わかさ
   武田殿のおい子[ ]くにのおとな衆と申合御かと
   くもたせ被申候、一の宮殿の本城に御座候
   延永殿       延永殿の御内かはた 蒲田備中守殿
 つまり、一色氏父子がそれぞれ石川と府中にいて、本城府中の子息は若狭武田氏と血縁を結び、そばには延永氏がいるのに対し、石川の一色氏は石川氏の支持を受けているというのである。延永・石川両氏は一色家臣のなかで相対立している。ただ一色父子が誰であるかは種々説があり定まらない。
 天正年間(一五七三−九二)の石川城主金谷伊豆守は一色氏が丹後守護に補せられた時、遠州金谷(現静岡県榛原郡)を逃れて石川に来たと伝える。
(『京都府の地名』)

石川城
 石川村桝形の上にあり要害の堅固なること野田流域随一なりと称せらる永正天文の頃一色義遠之れに拠り後も其臣金谷伊豆守之れに居り天正六年冬より義道父子に従って八田にあり七年正月八田を捨て中山に移り須律の江木山田の垣見念垣の山に幾地の石川等と共に頑強に防戦したるも沼田の変節の爲めに中山城陥り義道自刃義俊弓木城に退さ後も細川女を配して和を講じ聟入に托して田辺城に誘殺せんとす、時に金谷伊豆守義俊に扈従して田辺城に入り主君の爲めに絡始気を配りしも近侍の諸士酒に盛り潰されて力及ばず主君義俊害せられ金谷は血路を開きて居城に帰り戦備を整へしも細川の陣将有吉将監の爲めに落城す、城塁は弓木城に向って開き山田の下山城、加悦の安良城等皆相呼応の地にあり。
(『与謝郡誌』)

石川城跡 石川小字桝形にあり、城跡は、標高一二〇メートルの山城で、東西四〇メートル、南北二〇メートルの東の地(裏側)と、東西一八メートル、南北一六メートルの西の地(表側)とがある。永正、天文年間、一色義遠(義秀の父)が城主となり、やがて、家臣の金谷氏(清和源氏新田氏流)が、永禄、天正の頃城主となる。天正六年(一五七八)、一色義通、義俊父子に従い、舞鶴の八田城(田辺城)にあったが、細川氏の政めを知り、翌七年一月、東雲の中山城に移る。城主沼田幸兵衛は、細川氏にこのことを内報し、ついにここも落城となり義通は自匁する。かくして、金谷伊豆守は、嫡子一色義俊と弓木城に入った。天正十年(一五八二)九月、田辺城での義俊婿入りに従い、細川氏の謀略に会って義俊は殺される。ただちに逃れて石川城に帰り、籠城したが、細川氏の陣代有吉将監のために落城となり、金谷伊豆守もここに戦死した。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・石川の城跡
 亀山城跡については、既に述べたところですが、その他に、枝ヶ城跡、石川城跡があります。
 枝ケ城跡は、奥地大石の山の上にあり、城跡は、加悦町明石小字庄ケ崎の入谷にまたがっています。標高二〇五米の山城で、玉の木の清水川が大手口、玉峠側が搦手と言います。城主は刑部蕃亮(戦国時代)で、その後右京亮、左衛門亮、玄蕃亮と続きました。
 石川城跡は、小字桝形にあり標高一二〇米の山城で、永正、天文年間、一色義遠(義秀の父)が城主となり、その後家臣の金谷氏が、永禄天正の頃城主となり、天正十年九月細川氏の陣代有吉将監のために落城となり、金谷伊豆守は戦死をしたと伝えられております。
(『町報野田川』(昭和55.4.30))


山城賛歌・石川城跡


 高野山真言宗・石川山神宮寺(小字姫路谷)
神宮寺(石川)神宮寺というのだから、物部神社の神宮寺なのだろうか、それとも大命神社の神宮寺か。
お寺らしい建物は今はなく、祠とこの地蔵様がある。





石川山 神宮寺 在二興謝郡石川村一
 真言宗 成相寺未
 本尊  不動明王  開基如意尼
 按ニ如意尼傳載二ス元亨釈書一ニ曰。天長帝之次妃也舟州與謝郡人居無二常處一相−二彳+羊ス山水之間一ニ歳ニノ入二ル帝都一ニ常ニ詣ニス如意輪観音霊場一ニ。或ハ衆人聞二其聲一未レ有下見二ル妃面一者上。弘仁十三年帝在二儲宮一春初得二テ霊夢一ヲ遣二メ華使ヲ於頂法寺一ニ物色ノ而得レタリ妃ヲ。妃入レテ宮二儀雰端麗婦徳兼順云々。天長五年二月十八日夜妃以二テ夢事一共二宮女二人一ト僣二出レテ宮ヲ赴二ク摂州摩耶山一ニ云々。請二テ室海一入レ山二修二ス如意輪法一ヲ。嘗テ蓄二フ篋一ヲ云々。妃之同閭二有二水江浦島子ナル者一先レテ妃ニ数百年久ク棲ム仙郷一ニ天長二年還ニル故里一ニ。浦島子曰妃所レ持篋ハ曰二フト紫雲篋一ト云々。按天長帝ハ淳和天皇也。弘仁ニ嵯峨天皇年號弘仁十五年即位改天長也。如意尼没年承和二年仁明天皇即位二年也。至二今茲安永十年一凡八百七十年計也。
石川付山ノ内丈ケ獄卜云フアリ、其麓ニ比丘尼屋数卜云アリ、此如意尼庵室ノ跡也卜云フ。
(『宮津府志』)

石川山神宮寺
 石川村姫路にあり。本尊聖観音菩薩、前仏不動明王、如意尼の開基にてもと慈観寺と云ひ朱印地壹町三十六歩ありしも治承の兵乱に頽れ、延慶三年観賢僧正今の地に移転再建。元亭釈書に曰ふ、如意尼は淳和帝の次妃にて丹後與謝郡の人、年甫めて十歳皇都に入り弘仁十三年宮中に入る。時に帝未だ儲宮に在り、妃爲人柔順儀容端麗殊寵あり。天長五年二月潜かに宮を出でゝ摂州摩耶山に上り空海上人に就て祝髪修法如意尼と号す。尼常に一篋を携ふ固と浦島子の仙郷にて得たるものにて空海請雨のとき此篋を携へて密法を修し霊験ありしと伝ふ。延宝癸丑年秀意律師寺号を石川山神宮寺と改め普門院と号し爾来式内社物部神社の別当社僧たり。境内粟島明神の小祠あり毎年六月十三日縁日にして参詣の子女織るが如きの賑ひあり。又地蔵堂には一丈六尺の大石地蔵尊を安置し、文政五年冬十二月宮津封内苛酷の誅求に堪へかねて一揆を起し、骸骨を刑場に捨てゝ領民を救ひし義民吉田新兵衛同爲治郎等追弔の爲めに常吉村平治庵の大石地蔵と共に造立する所なりと。蓋し常吉村は吉田新兵衛の産地にて下常吉鈴木氏は其家なればなり。尚姫路谷に観音堂薬師堂あり皆神宮寺の支配に属す。但し当寺檀家一戸もなし。
(『与謝郡誌』)

石川山神宮寺 下地小字姫路谷
本尊 聖観世音菩薩。
淳和天皇の妃となった如意尼(空海上人に就いて得度)の開基で、江戸時代の神仏習合説により、石川村六社の別当職を受持ち、明治初期の廃仏毀釈と共に私立の寺院となる。建造物には、本堂、庫裏、地蔵堂、並びに二間社(淡島明神と稲荷神社を祀る)などがある。仏像については、聖観世音菩薩像(室町初期のもので江戸時代に修理を加えている)、薬師如来像(室町初期)、十一面観世音菩薩像(江戸時代)、他に愛染明王像、不動明王像がある。寺宝は、不動明王画像一幅で、弘法大師筆という。狩野山楽筆と伝える唐獅子図、屏風一双もある。また、他に四社明神画像一幅もある。
地蔵堂の本尊は石仏で、約六メートルの地蔵菩薩(坐像)である。嘉永二年九月、丹後町経ケ岬付近の岩石を運んで完成した。建立の目的は、文政五年十二月、宮津藩の苛政に対して強訴を行なった義民吉田新兵衛、同為治郎の追悼供養のためと伝えられる。
二間社のうち、淡島明神の由来は、元禄の頃「アワシマ」という乞食が、淡島大明神(住吉明神の妃)を安置した神棚をたずさえ、淡島さんの縁起を唱えて各地を巡回し、婦人病を病む者に祈願をすすめたのが初めである。当社は、福知山市天座より分霊を勧請、天保期に造営された。
旧六月十三日(七月十三日)を例祭とする。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・石川山神宮寺
 石川小字姫路谷にあり、本尊は聖観世音菩薩。真言宗成相寺末で、淳和天皇の妃となった如意尼の開基と言われ、江戸時代の神仏習合説によって寺院となったものです。
 建造物には、本堂、庫裡、地蔵堂並びに二間社などがあり、仏像については、聖観世音菩薩像、薬師如来像、十一面観世音菩薩像、他に愛染明王像、不動明王像があります。寺宝は、不動明王画像一幅で他に狩野山楽筆と伝えられる唐獅子図屏風一双もあります。
 地蔵堂の本尊は石仏で、約六メートルの地蔵菩薩坐像で、嘉永二年九月、丹後町経ケ崎付近の岩石を運んで完成したもので建立の目的は、文政五年十二月、宮津藩の苛政に対して強訴を行った義民吉田新兵衛、同爲治郎の追悼供養のためと伝えられています。
(『町報野田川』(昭和58.7.19))

石川山神宮寺
石川村小字姫路谷にあり古義真言宗にして成相寺末に屬し普門院と號す、寺傳によれば鎌倉時代より足利時代に栄えたりし慈観寺の後身なりといふ。慈観寺は田數帳石川庄内にて一町三十六歩御免の條見え今大命神社附近その舊地なりとて慈観寺の字名後れり、慈観寺の廃頽が何時なりしや之れまた記録の據るべきものなきも、現神宮寺の創建は江戸時代の初期なりしは推測するに難からざれば戦国時代末葉をその過渡期と見るを妥当とせんか。維新前は村内四社明神即ち物部神社、大宮明神、大命明神、稻崎明神の別当職にて、境内に四社明神本地堂もあり外に牛頭天王、愛宕権現等及び其他神祠みな當寺より支配し來りしものにで隨つで祈願寺にて檀那としては村中一戸もなし。宮津藩交書 曰

(『石川村誌』)


 臨済宗妙心寺派・金湯山西禅寺
金湯山西禅寺(石川)

石川郷香河村。むかし京師の沙門倉橋川の辺を徘徊せるに川水えならず匂ひければ怪しみ流を伝ひ一村に至るに香気ますます盛んなれば里民に問さとの者曰く此村の貧家に子なきものあり天に祈りて一人の女子を得る此子生れ落ると此辺薫し渡る事三里四方なり誠に世にも類なき美小児なりことし七歳に及ぶといふ。沙門則其家に尋入り見るに小児のかんばせ白玉の如く香気は少女が身より出る事桜花の匂へるに異ならず父母に乞受けて都に誘ひて朝廷に奉りければ御寵愛浅からず終に天長のころ淳和天皇の皇妃に召上られ與佐の宇屋居子と申せしとかや元亨釈書に如意尼は天長の帝の次妃丹後国與佐の郷の人なりとあり薙染の後旧里へ帰り一宇の精舎を建立して養法寺と名付られける。今其寺跡田地の字と成て世に伝ふ手づから彫刻の本尊観世音菩薩は養法寺破壊の後小萩の草堂に安置らしも今は名のみ残りて石川村西禅寺と云に有この尼は浦島の同じ血脈なり浦島が玉手箱を得て空海大士に奉り玉ひこの箱を以て空海雨をふらせ玉ふことは釈書に委し。
(『丹後旧事記』)

金陽山西禅寺
 同村金谷城趾の西麓にあり本尊阿禰陀如来、応永三十三年留心和尚創立といふ。
(『与謝郡誌』)

金湯山西禅寺 中地小字表地
本尊 阿弥陀如来。
臨済宗妙心寺派天寧寺末、開基は大通禅師の弟子の留心安久和尚が、応永三十三年、浄土宗寺院本寺(当時西善寺という)を復興して改宗した。中興開山は不伝禅師で、元和元年再建した。
建造物には、本堂、庫裡、山門、鐘楼、観音堂、土蔵二箇所などがある。仏像には、阿弥陀如来像があり、鎌倉期の作といい、等身仏で、全国的に珍らしい奈良仏師系統の作で、町の文化財として秀れたものである。ほかに、地蔵菩薩像、不動明王像、弁財天像などがあり、いずれも、江戸時代の作である。檀家は約二百四十戸である。
年中行事としては、涅槃会、灌仏会、達磨忌、施餓鬼供養、観音講、弘法大師講などがあり、絵画には、白隠禅師の達磨図、卓州の達磨図、その他に、十六羅漢図、地獄憂陀羅図(二幅)などが保存されている。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・金湯山西禅寺
 中地小字表地にあり、本尊は阿弥陀如来。臨済宗妙心寺派天寧寺末で、開基は大通禅師の弟子留心安久和尚が、応永三十三年、浄土宗寺院本寺(当寺西善寺という)を復興して改宗、中興開山は不伝禅師で、元和元年の再建です。
 仏像には、全国的に珍しい奈良仏師系統の鎌倉期の作である阿弥陀如来像の等身仏ほかに、地蔵菩薩像、不動明王像、弁財天像、建造物には本堂、庫裡、山門、鐘楼、観音堂、土蔵二か所があります。
 寺号の西禅については、本尊の阿弥陀如来を祭ることから、鎌倉から足利時代には浄土宗にい西善寺といい、その後頽庵、丹波上川口の天寧寺により再興され、浄土を禅宗に改めると共に禅宗禅字に替えたといわています。
(『町報野田川』(昭和58.5.20))


 臨済宗妙心寺派・瑠璃山福寿寺
福寿寺(石川)

瑠璃山福寿寺
 石川村金谷城趾南麓字立小路にあり本尊観世音開基吉田某なり往古用明天皇の皇子麿子親王加佐郡三上山の凶賊退治の爲め下向の際誓て曰く我仏陀の威力に憑りて魔衆を降伏せんと願望成就の砌り当国に七仏の薬師如来を創立して以て仏国となさんと其時自身彫刻の霊仏を吉田に賜ふ且つ曰く此の尊像を敬すれば子孫連綿とし福寿無量ならんと之に添ふるに宇郡木の鞭を以てす故に姓を鞭と改め今に子孫ありと云ふ仏像を八間四面の堂宇に安置す故に瑠璃山福寿寺と号す而して中古衰廃せるを一笑禅師霊像なるを以て別に四間に三間の堂宇を創立し観音菩薩を当寺の本尊として大に法筵を盛にす明治十九年当寺火災に罹り薬師堂は再建するに至らず本堂の傍に安置しあり、猶境内に鎮守堂あり摩利子天を祀ると云ひ域は麻呂子親王を祭るともいふ、当寺境外仏堂に少林庵あり、同じ金谷城趾の南麓通称上田に一宇を構へ無住無檀ただ講中仁よりて維持せらる、木彫殆んど等身の聖観音を安置せるが手法軽妙相貌威厳ありその観音縁起に曰く、
 丹後州與謝郡石川村少林庵聖観音尊者未悉爲何代造建世伝云天長帝后者当国與謝郡之所生也、後避
后妃之位竊出深宮入摂之摩耶峯請弘法大師爲戒師薙染練行、是号如意尼当国者以后之故邑
有慈々情故就本郡命工令造一?手之観世昔像以報答孝妣之徳云、即今斯像是也、或云有
小萩者造立此像、小萩者未知爲何人、予謂小萩者蓋疑是后妃之字乎、伝記等古来未書后之字後
賢匡、焉惟幸矣、然瞻仰此尊容則楚相全備妙手蓋美威儀厳爾実非所庸工之作為時人求則祷祷則
霊感?極豈可枚挙矣、中古凪来有小林氏者帰崇最異他時人称林氏之持仏是故庵名少林小兼少
音義相通也矣
雲岩庵 黙 澤 叟 記
 宝永元甲申小春日
尚ほ境外仏堂は奥山に不動堂、入鹿節、平田及び亀首に地蔵堂あり。
(『与謝郡誌』)

瑠璃山福寿寺 中地小宇立小路
本尊聖観音菩薩。
臨済宗妙心寺派天寧寺末であり、応永二十八年大通禅師の弟子一笑全慶和尚の開基で、文禄元年、一山禅師が中興開山となる。仏像には、聖観世音菩薩像、薬師如来像(室町以降)、十二神将像、釈迦如来像、十一面観世音菩薩像などがあり、いずれも江戸時代の作である。建造物には、本堂、庫裡、鎮守堂、地蔵堂、隠寮、鐘楼、山門(岩屋雲岩寺より移築)、土蔵などがある。
寺宝には焼物の虎がある。檀家は、約百六十戸である。石造物としては、経王塔(もと立小路の道傍にあったもの)、六地蔵石仏(地蔵堂内)、江戸期の俳諧師石川出身の如九の句碑などがある。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・瑠璃山福寿寺
 中地小字立小路にあり、本尊は聖観世音菩薩。臨済宗妙心寺派天寧寺末で、応永年間大通禅師の弟子一笑全慶和尚の開基。また、寺記によると用明天皇の朝麿子皇子妖賦退治の際、七仏薬師と宇都木の鞭を吉田某に賜り、吉田姓を鞭と改めて一宇を建立、薬師仏を安置して東方薬師瑠璃光如来福寿無量尊と崇めて瑠璃山福寿寺と号したとあります。中興開山は文禄元年一山禅師。
 仏像には、江戸期作の聖観世音菩薩像、薬師如来像、十二神将像、釈迦如来像、十一面観世音昔薩像。
建造物は、本堂、庫裡、鎮守堂、地蔵堂、隠寮、鐘楼、山門土蔵等があります。
 与謝郡西国三十三札所巡り道案内によりますと、当寺は三十二番札所として案内されています。
(『町報野田川』(昭和58.6.10))

町内文化史跡を訪ねて・聖観世音菩薩座像
 石川福寿寺のすぐ下、小字上田に観音堂がある。
 本年五日、国指定外の美術工芸品の総合調査が府教委により実施され、その調査結果によりますと、この上田観音堂の聖観世音菩薩座像は、小萩観音とも呼ばれ、像高九十四センチメートル、室町時代の立派なものだとのことでした、又、この観音堂の中には、嘉永三年と記されている、大江山鬼退治の額があります。
 お堂の正面には、「石川や、福寿寺のなら、ばはい山、ふもとに光、小萩かんのん」なるご詠歌の額も喝げられております。
 与謝郡誌には、福寿寺境外仏堂に少林庵あり」と石川村誌には、「観世音を祀るが由緒不詳、但し福寿寺受持なり」とあり、堂内に福寿寺位牌堂の像が祀ってある。
(『町報野田川』(昭和54.10.31))

 寺跡としては石川地内には慈観寺・善法寺・仏明寺・慈光寺・勝楽寺・観音寺など廃寺跡が多い。善法寺(現・西禅寺)・慈観寺(現・神宮寺) は如意尼が建立した寺という。


 如意尼・宇屋居子・小萩・真名井御前

 石川には浦島太郎の一族といわれる如意尼と呼ばれた女性がいたという。空海の時代というから平安初期の頃。このあたりの寺院の創建縁起に伝わる。
『旧事記』に宇屋居子とも呼んだらしいとあるが、「ウヤ」はただものではない、超大変な名である。鳥取造の祖・天湯河桁が出雲の宇夜江で白鳥をつかまえたの話も知られるが、そのウヤは6個の銅鐸・358本の銅剣・16本の銅矛が出土した神庭荒神谷遺跡の斐川町神庭の正称というか、旧称は宇屋神庭で、そのウヤである。39個もの銅鐸が出土した加茂岩倉もすぐ近くである。
島根県浜田市のあたりに敬川(うやがわ)が流れているが、あるいはウヤは出雲系の名のように思われる。ウヤウヤシイ、ウヤマウといった意味の地のことであろうか。
丹後・但馬・摂津などの日下部氏などとと銅鐸や水銀、さらに仏教・真言宗の伝播との結節点にいる、金属系の大変なお姫様、何名かが重なっているかも知れない、そんな人、あるいは勢力ではなかろうか。龍や玉や観音信仰などとも習合していて、何が何だかわからなくなっているが、金属の観点から見てみるのも意外な歴史が見えてくるかも…。彼女は丹後人からすらもすっかり忘れてしまっているが、当地の栄光の過去や女布とか売布とかいった地名や神社と関係があるのでは、と私は考えているが、まだまだ書いていけるほどの材料はそろっていない。忘れ果てたままがまだしばらくは続きそうに思われる。

丹後の伝説55:如意尼


 文政一揆

町内文化史跡を訪ねて・石川・文政一揆蜂起の地
 百姓一揆は、江戸時代に政治下と、その治世下にある者との間に圧迫、誅求がはなはだしい場合、その困ぱいが爆発して、愁訴、強訴、逃散の三つの形で現われたが、文政五年石川に勃発した百姓一揆は強訴に類するもので、その強訴が目的を達しなかったため竹槍、鉈、鍬などの農具をかざして税吏、役人らを襲撃して、乱暴、狼籍を加えた所謂文政百姓一揆蜂起の地が、この旧石川村の加久屋(嘉久屋)橋詰(徳川時代百姓一叢談による)である。
 この文政一揆の結果、貢租の圧政はしゅく正されたが、徒党揆頭取は、夫々獄門、討首、永牢等の御仕置になったと記されています。
 なお、この地はもう少し上流にあったと伝えられています。
(『町報野田川』(昭和53.3.31) )

かぐや橋たもとの碑
文政5年(1822)の宮津騒動(百姓一楼)は宮津藩最大の一揆とされ、その中心が当村であった。奥山(川上)の新兵衝・為治郎が指導者となって当村カロ久夜橋詰の狼煙を合図に起こされたという。一揆は10日間続き、農民の要求「追手納米御免」「万人講日銭御免」は受け入れられたが、新兵衛・為治郎は獄門討首となった。
新兵衛らの墓は川上にあり、また嘉永2年に造られたという追悼供養の石造地蔵菩薩坐像が神宮寺にある。彼らは「宮津強訴義民英霊」こして臨済宗瑠璃山福寿寺にも祀られ、宮津の文珠には義士義民追頌碑(大正15年建立)もある。
丹後の伝説54:文政一揆

借金が限界になってくれば、税金をつり上げることしか知らない為政者ども。いくら上げても、老人赤ん坊病人や収入のない者からも税金を取っても、納税者の福祉は満足にできないなどとぬかしくさる、自分らのバカさかげんとバカ使いには気がつかぬバカ殿様以下、正気か。できるワケがないな、バカ使いにどっぷりと浸りきってきたおまえらでは。
超不景気にさらに貧乏人の税金をつり上げる前に、借金で国家が崩壊する前に、税金のバカ使い廃止は言うまでもなく、常備軍を御役御免、官僚制を御役御免、議会制を御役御免に手をつけよ。借金額に釣り合うまでは御免、国元追放同然までは、まずは縮小しろ。できまいし、国家の崩壊は止められまい。
日本の借金時計
はなやかそうに見えた日本の本当の姿がここにあった。1家庭あたり2000万円ちかいの借金とか、どれだけ増税したとしても返済不可能なのではなかろうか。日本ばかりではなかろう、全世界が経済的軍事的に自滅してしまわない間に大ナタをふるおうではないか。増税か大ナタか。答えは明確ではなかろうか。


《交通》

《産業》




石川の主な歴史記録


『丹後国田数帳』
一大石庄 二百十三町六段百五十三歩内
 百六町八段七十四歩         御料所
 百六町八段七十四歩         常在光寺
一勝楽寺 一町一段百八十歩    大石庄内在之
一石河庄 百卅四町五段三百卅歩内
 六十二町四段百四十四歩      御料所
 十二町六段三百六歩         御料所方 嘉吉三年永所
 十五町三段十八歩     加松冨名  国分寺
 一町卅六歩              慈観寺御免
 二町                  九世戸御免
 二町九段               普甲寺御免
 一町四反               同寺内御免
 一町四反               慈光寺御免
 六段                  大谷寺御免
 三町七段               善法寺御免
 三町                  慈雲寺御免
 一町                  西善寺御免
 一町                  鍛冶給御免
 二段                  清 目 給
 六町三段               惣庄反銭無
 十三町六段百九十八歩      国分寺領無現地
 伍町九段三百四拾八歩      御料所方無現地


『丹後御檀家帳』
一石川
 一宮殿様 是ハ石川殿御取立の屋方也、ふちうの御
      屋かた□□Uの御しんふ也、御婦ハ原ト申
      所御座候
 一宮新五郎殿 御屋方様御しやてい、石川ニ城もた
          せられ□、
  大田新左衛門殿 新五郎殿のおとな也
  伊賀栗軒 大なる城主也、くに、てはしりまい
          の人也
  中 西 新 助 殿 さいほく殿の御内
一石川のひめかし  家五拾軒斗
 かうをや足立助左衛門殿  かうをや安達新左衛門尉殿
 〆
一石川の田中  家五拾軒斗
 ゆりの坊   かうおや
           田中助左衛門殿
 〆
一いし川のものゝゑ  家五十軒斗
 小谷八郎左衛門殿  かうをや
一石川平田村     家六拾軒斗
 かうをや中西八郎左衛門殿 かうおや又 治 郎 殿
一石川たかつ村    かうをや屋と太夫殿
かへしする人
 衛門治郎殿


『丹哥府志』
◎石川村(明石村の次)
【物部神社】(延喜式、祭九月九日)
【瑠璃山福寿寺】(臨済宗)
【金湯山西禅寺】(同宗)
【石川山神宮寺】(真言宗)…略…
【金屋伊豆城墟】
 【付録】(大宮明神、大命明神、稲崎明神、午頭天王、愛宕権現)
【奥山】(是より宮津の庄有田村へ道あり、以下三村石川村の支郷)
【亀山】
【香河村】…略…
 【付録】(卅八社大明神、山添神社、愛宕権現)
【香河山慈雲寺】(臨済宗)
【三面大明神】(祭九月廿五日)

『野田川町誌』
石川地区
当町の面積の約三分の一を占める地域で集落も上地、中地、下地、川上、大宮、亀山、堂谷と七区に分かれている。そのうち、上地、中地、下地は、山麓沿いに一連の細長い一つの集落を形成して石川地区の中心をなしている。
まず上地は、鞭谷口(むちたにぐち)をはさんだ山麓線を主とする一四〇戸からなり、中地は、主にいわゆる石川沿い、並びに山麓の一〇八戸、下地は、中地の北に続いた山麓に沿う一〇〇戸からの構成になる。石川の中心地域は、この中地であり、ちょうどその真中辺りにかかる石川橋の袂で四辻をなし、堂谷、下地から来た道は、そのまま亀山に向い、石川に沿っては上地へ、また、北西は水戸谷へと通ずる。亀山および水戸谷道に狭まれたところに、農協(旧村役場)、石川小学校があり、亀山道側には、駐在所、少し先(二〇〇メートル程)の集落端には、町営の診療所があって、その他諸種の商店は、水戸谷を除くこれら道路沿いに散在して、その中心的性格を示している。
川上(奥山)は、石川の上流川上川の谷に沿って四四戸が路村状に散在し、かっては、これを通り金剛山の南側、地蔵峠を越えて宮津へ出る主要道をなしていた。先の鞭谷やこの奥山谷から大宮にかけては、古墳群が多く、さらに、これが加悦町、桑飼地区へとつづき、加悦谷の東山麓部の古い居住地を示している。
大宮は、また石川の上流で、加悦町香河に通ずる香河川谷の谷口集落を主に、最近は川上より真直ぐに亀山道に出る道と、中地より大宮(香河)道との交差する付近にも家が建ち、合わせて四一戸となっている。
亀山は、標高五〇メートル程の亀山の北麓にある七一戸からなり、石川より亀山を経て加悦町明石へ、あるいは亀山から四辻地区に向う三叉路付近のものも含まれる。
堂谷は、下地区から約八〇〇メートル離れて、山田地区の下山川(下地)と相対する野田川狭隘部にある僅か二七戸の小集落で、多田(多由)神社を中に二つの集団に分れている。
石川地区は「石川田圃」と呼ばれる野田川の肥沃な沖積地をひかえ、加悦谷でも米どころとして有名であり、当町でも代表的な農業地域である。しかし、近年農業の零細性をおぎなわんがため、機業兼業が日増しに増加して来ている。
石川地区の機能面での特異性は、大宮区の石材業に認められ、大宮南西、明石との境をなす山地などから花崗岩(石川石)を採石して、諸種の石材に加工しているのである。
さて、当町各地区ごとの集落を概観して来たのであるが、各地区ともに食料品店があんがい多いのに気づいたので、それについて若干付記しておく。当町は、機業戸数は九六八戸(昭三七)で、丹後全体の約二四%を占めて第一位にあり、それだけ女子(主婦)の労働が過重となって炊事時間が制約され、副食物の購入が盛んとなる。老人や男子の子守りもそう珍らしいことでないとともに、食料品の買物もこれらの人々によってなされる場合が多く、食料品店の多いのは機業地の地域性をも示している。


マンドウ(万灯) (八月)十四〜十六日

 加悦谷名物の盆行事で、子供組の仕事の一つとして、十四日から十六日まで、毎晩盛大に点火されて、「火の祭典」の観を呈したが、戦時中から衰えてしまった。本来は、ホトケサンを送るためとか、ムエソボトケを供養するためと考えられているが、石川では、明治四十年の大水害の死者の霊を弔うためだといっている。石川の亀山での話では、マソドウは亀山が元祖で、きれいなので堂谷がやり、石川の上がやりしてだんだん拡がり、一時は、加悦までが真似て、盛大になった。野田川を挾んだ石川と山田が一番盛んだったようで、昭和初年の様子をここに記す。
 マツホリ 石川の場合は、四月二十五日の石川祭(矢田部神社)が終わると、部落ごとに小学三年以上の男の子が唐鍬、鉈、鎌、縄などを持って、平日は放課後、日曜日は九時頃から集まり、三人一組になってマツホリに出掛けた。天気さえよければ、たいてい毎日どこの山でも行って、松の根(コエマツ)を掘り、小割にして担いで帰り、三時頃、子供組のタイショウの家か辻堂に集まり、鉈で細く割って両手の親指と人さし指で握れる位の束にくくって貯えておく。
 新暦の七月一杯はこれを割るのが仕事だった。それが済むと、山ヘタイマツの竹を伐りに行き、一定の長さに揃えておく。
 また、まえもって、子供たちが、「マソドノカソジソ(万灯の勧進)。」と唱えながら家々を廻って、麦わらや金を集め、竹を買った。
 マンドウ 中心になるオヤダイは、部落ごとに一本か二本。孟宗竹の大きいのを伐って来てコエマツを針金で巻きつけ、その上から麦わらでくくる。また、ゴグシといって、竹の両端を尖らせ、一端に割りためたコエマツとワリキを混ぜて刺して、タイマツを作っておく。大抵のことは子供中でやるが、ナヤダイだけは若連中が作った。
 十四日になると、これらを、以前は、「排水」(香河川と野田川との間の排水路)に沿うて立てたが、後にはあまり田を荒らからというので、野田川べりの田圃道のはたに一間〜一間半(二〜三メートル)おきに、上地、中地、下地、亀山と立て並べた。各区の境には、ゴグシをX形に交差して立てた。堤防の分は、下地が山田と半分ずつ受けもった。オヤダイを立てるときも、若連中が手伝った。
 点火するときは、古綿に石油を浸ませてタイマツの中にのせる。まず、堤防の上のオヤダイに火をつけ、よれを合図に一斉にタイマツに点火し、長いこと上手に燃えるのを吉しとした。燃えれば、鉦、太鼓を鳴らして、「マンドノカンジンジー、ネタフリショマイゾ。カンカンカン。」などとはやし立てた。また、フリダイといって、子供組のタイショウやウシロミが、自分の好きな大きさに作ったタイマツに綱をつけて振り廻した。見物も多く、ずい分賑わった。
 よその部落のタイマツに火をつけに行き、ときには堤防の上の山田の分まで荒らしにでかけて、こぜりあいをするのも楽しみだった。
 マンドウの費用の一部は、農会と役場が補助してくれた。
 マソドウがすむと、また、子どもたちが、「マソドノカンジン、銭おくれ。」と唱えながら、部落を廻ってお金を集め、タイショウ(六年生)が主になって、その一人の家にツギ(五年生)とウシロミ(高等小一年生)を招待し、うどんなど御馳走を作って一日中食べ、タイショウユズリをした。
 つぎに、ほぼ同じながら、山田のマンドについてすこし詳しく述べる。場所は、前記のように野田川のクロ(土手)。オオダイを中心に、その両側に三間(五・五メートル)おきぐらいに、五十本ほどずつタイマツを立て並べる。その前に、イチノクラミ(月の出る間際の宵闇)に、コエマツの細かく割れないものを寄せあぶら集めて焚き火をし、そこへめいめいにタイマツを突き出してあぶって、脂を吹き出させて火をつける。タイマツは、五尺(一・五メートル)ぐらいの、両端をはすかいに削いだ竹(ゴグシ)の一端に前もって集めておいたコエマツを縄(のちには針金)でくくりつけたもので、これを地面に斜めに突き立てた。
 タイマツをあぶっている間に、大きい子がフリタイマツに火をつけて振り廻す。これは三バイ(三把)、(径二尺五寸〜七十六センチぐらい)ないし五ワイばかりの麦わらのリソポ(穂先)を縄でくくって根もとでハダけ(ひろげ)、三尺(一メートル)ほどの縄をつけて、その先に結び目をつけて、振り廻すときに手からすべり抜けないようにしたものである。
 タイマツに火がつくと、小さい子は一本、大きい子なら五本も抱えて、大きい子ほど遠くへ走って行って一斉に立て並べ、一方、オヤダイの根もとに積み上げた麦わらに火をつけるとぱっと燃え上がる。
オヤダイ(大松明) もとは、高さ一丈五尺(四・五メートル)ぐらいもある松の木を心柱にしたが、あまり重いので竹に代えた。これに沢山の麦わらをくくりつけて、地面に打ち込んだ杭に縄で縛りつけて立て、この縄が焼けぬように川泥をナスクリ(ぬり)つけておく。そして、柱のもとに麦わらを積み上げる。
 オヤダイに火がつくと、一斉に鉦やシメダイコ(子供組の保管)を叩いて、「マンドノカンカンジー、寝たふりしょうまいぞ。」などとわめき立て、チョウモト(十三歳、子供組の実際の仕事をする役)以上が盛んに激励する。一斉に揃ってタイマツに火がつけば喜び、また、他の部落が失敗すると歓声を揚げ、ときにはヨソ村(他村)のタイマツをマビキに行ったりしたので、互いに厳重に見張りをした。
 三河内でも、以前は、子供たちが山からコエマツを掘って来て、堤防で同じ間隔に積み上げ、竹の端にくくりつけて火をつけ、田の中を走り廻ったりした。四辻でも村外れの田圃道に一定の間隔に立てておいた。

『石川村誌』
慈觀寺趾
石川本村の東方高津の村外れ二百米にありて土地番帳實觀寺また實貫寺など書けり、今の石川山神宮寺の前身なりとの寺傳ありて、同寺明細帳由緒の條に「開基如意尼菩薩、如意尼建立ノ慈觀寺ハ朱印壹町三十六歩有之去ル治承年中浜乱ニ破壊シ其職延慶三庚戌年再建住職賢代、其後延寶元榮丑再建住職權律師秀慈代此時慈觀寺ノ職ヲ改正シテ石川山宮寺普門院トシテ村中ノ願所ト定メ云々」と載せたり、慈觀寺と神宮寺の関係が斯くの如き事情なりしや否やは遽かに知ら難きも、慈觀寺の名は田数帳にも一町三十六歩免税地のよし見え又地字にも存するより見れば足利時代に可なり榮えしものなるは明かなり、寺院の宗旨は慥かに知り難きも真言密激に屬すものなりしは推察するに難からず。與謝郡誌 曰…

『与謝郡誌』
慈観寺趾
同村字慈観寺にあり。田数帳「石川庄内一町三十六歩慈観寺御免」の条見ゆ、鎌倉乃至足利時代相当栄へし寺と見え寺趾も雄大なり同地に鎮守の大命神社に今奉安さる、金銅彫聖観音の立像は或は慈観寺の本尊仏にはあらざるか「堂が潰れて宮が立つ」の俚諺は皮肉に当寺の運命を語る亦嘆すべきなり。慈観寺背後経塚あり明治四拾牢八月洪水の際崩潰して径三尺高四尺計りの大壷露出し五輪塔倒る後も壷は破砕し五輪塔は現今福寿寺に移して安置せり。

『石川村誌』
善法寺趾
前項慈觀寺趾東方百米にして善法寺の字名殘れり土地臺帳善房寺ともあり、丹後田数帳 曰
  一、石河庄百卅四町五反三百卅歩内
     三町七反                  善法寺御免
 石川庄内には社寺領割合に多く全庄百三十四町幾反歩の内、六十八町歩餘の一色家料の外は概ね寺院領の土地なリ、就中本所また地頭の村外のものは府中國分寺十五町三反、加佐郡普甲寺二町九反九世戸文殊三町四反等ありて、地領若くは本所の村内にあるものは善法寺三町七反を最も所領の多きものとなせり、宗旨は之れも遽かに知りがたきも寺號より見れば法華宗にはあらざりしか、高津附近に遺存せる板碑の殆んどが南妙法蓮華經と刻せる所若し此の善法寺に縁故を有するものとすれば、嘉吉乃至寛正刻銘のもの多さより推して足利時代に可なり榮えたるを察すべし。

『石川村誌』
佛明寺趾
本村南方稻田を隔てゝ谷田部落に接する丘阜は其の昔、佛明寺の在りし地なりとて今佛岡と呼べり、別當は枝の城にある刑部右京亮家秀なりしこと成相寺文書にあり(寫真参照)曰
  賣渡石川庄佛明寺分別当職事
      合  坪付別紙在之
         支證貳通在之
   右枝別当職者家秀永代由緒之地也、然間依レ有二要用一代錢廿六貫文に延命寺當住持に売渡者也、但有レ限二沙汰一本役與永代可レ有二知
   行一者也、萬一於二子孫違亂煩申者在之?爲二公方一可レ有二御罪科一者也、仍賣券明白之状如件
      寛正七年丙戌閏二月十六日                       刑部右京亮                                   家   秀 花押
寺院東方に向つて建ちしものと見え西北寺背の小丘亀山部落に跨れる盆地を後ろ山と呼ぶ、今は佛岡後…

『石川村誌』
勝樂寺趾
勝樂寺は前項佛岡の東方三四百米谷田大宮の中間なる臺地にありしといふ、田數帳與謝郡大石庄の條
   一、勝樂寺壹町壹段百八十歩   大石庄内有之
蓋し大石は今の奥地部落の總稱にて大宮、谷田、玉ノ木、大石、浪江等を包含し尚ほ日晩寺、香河に渉る一帯の地を指せるものにて、其の大石は今小字として地名を殘すのみなり、今京郡帝國大學に在る加藤氏に從ひ熟ら田数帳記載の要領を考ふるに與謝郡大石庄に於ける勝樂寺は府中一宮の籠宮、大谷寺、法華寺。、佐郡普甲寺、竹野郡雄坂寺。願興寺、熊野郡圓頓寺等と同じく田數の上部に記載せるものは皆其の地にあるものにて、之れに反して田數の下方に社寺名を記せるは領家若しくは地頭を指すものゆゑに必ずしも其の土地に存在せし社寺に限るものと見るを得ず、此の関係より勝樂寺は大石に現存したるは爭ふべからざる事実なるべし。

『石川村誌』
慈光寺趾 
石川本村北方にあり、室町初朗後小松天皇明徳二年(七月五日改元応永元年)より稱光天皇の応永、正長を經て後花園天皇永享まで丹後の守護たりし一色滿範法名を慈光寺殿と云ひ其の生前石川の地に別館を構へたりしこと、既記第一款及び後段石川城の條竝に禮祀編慈雲寺の條に述ぶるが如し、亞で嘉吉、文安乃至宝徳享徳頃の國主一色義範法號を安養寺殿といふ、安養寺の名は田數帳熊野郡に見ゆるも義範との關係は定かならず、然れども義範の父満範石川に館を造りて遊び、子義直の代長禄三年に記載されたる丹後田数帳に義直の所料は御料所と記し、慈雲寺、慈光寺は共に無税地として掲げたる處また熊野郡滿願寺一町を安養寺領として載せたる處意味ありげなり、義直の弟義遠後柏原天皇永正の頃より後奈良天皇天文頃に亙りて石川に居りしこと、妙立寺交書及び丹後御檀家帳によりて知るを得べし、斯かる関係より義範が父祖菩提の爲めに草建したるもの蓋し之れを慈光寺と稱せしなるべし。丹後田數帳 曰
   石川庄  百三十四町五反三百三十歩内
     一町四反           慈光寺御免
   稻富保  二十五町九反七十二歩内
     一町            石川庄内  慈光寺
前段石川庄内の田数一町四反慈光寺の無税地として掲げ後段稻富保内の田數一町慈光寺所有の旨を載せたり、前段のみにては必ずしも慈光寺が石川庄内に存在せしを證するには聊か不足を感ずる點なきにあらざるも、後段の記事一、石川庄内慈光寺」とあるに至って同寺が石川に在りしことは爭ふの餘地なし。其後義義の子義直室町にあり応仁の乱家礎完からず子義有永正成相寺の陣に捷もしも夭折し、石川なる義遠の子義季をして宗家を襲がしめ、義季府中村一の宮附近に府を定め、御檀家帳の所謂一宮殿様と稱へらるゝに及びて、慈光寺も亦た一の宮近傍に移り後ち更に今の江尻海岸に移転せしものなゐべし。寺の宗旨は矢張り臨済宗なりしものならんも立證すべき資料今存せず、寺谷、御門、大門などの地名蓋し慈光寺の片影ならん。

『与謝郡誌』
観音堂趾
石川村鞭谷奥丈ヶ嶽に観音堂屋敷あり礎石大部分現存し布目古瓦附近に散乱す。附近に比丘尼屋敷あり俚俗現在上田小萩観音堂は元と此地にありしと云ひ比丘尼屋敷は当時奉仕せる尼僧の住せるなりしといふ。観音堂に遺存せる本尊は室町時代の名作なり。

「京都新聞」(2.9.12)
野田川の慈観寺 鎌倉前期 広大な寺院だった
 石組み排水施設や石敷遺構見つかる

 野田川町石川の慈観寺跡で発掘調査をしていた町教委は十一日、石組みの排水施設と石敷遺構が見つかった、と発表した。鎌倉前期とみられる須恵器や中国製の青磁・白磁片なども出土しており、町教委は「遺構の状況や出土遺物から、慈観寺は十二世紀後半−十三世紀前半(鎌倉前期)には、かなり大きな寺院だった」と推定している。
 慈観寺跡は、同町奥山川北側の段丘上にあり、宅地造成計画に伴う試掘調査で、柱穴や溝などが見つかった。このため、今年五月から本格的な調査をしていた。
 その結果、同寺跡の西側から石を組んで造った幅約三十a−一bの排水施設が見つかった。石組みは東へ一・七b延びた後、南へ約二b曲がって土の穴(深さ約八十a)へ水が流れる仕組みになっていた。
 また、その穴の上に東へ四・四bの石組みがあり四bほど途切れた延長線上に一・二bの石組みもあった。この二カ所の排水施設について町教委は「初めの穴が埋まった後、その上に新たな排水施設を造ったのではないか」と推定している。製鉄に使われた「ふいご」の一部も近くから出土した。
 一方、排水施設から東へ約百五十b離れた地点からは、建物の周りを囲んだとみられる長さ十一b、幅一・五−一・八bの石敷遺構が見つかった。両遺構からは、土師器や陶器片などが多数見つかったほか、石は赤く変色しており、かなりの高温で焼けたとみられる。
 町教委は「室町時代中ごろの資料、丹後田数帳に慈観寺の名前が出ているが、今回、育磁や白磁が出土したことや離れた二カ所から石の適構が見つかったことから、慈観寺は鎌倉前期には広大な境内を誇った寺ではないか」としている。現地説明会は十四日午前十時から行われる。

『石川村誌』
石川城
本村の背後に峙てる山を城山と云ひ、固と金谷氏の築く所にして鎌倉時代より戦國峙代へ通じて行はれたる天嶮主義の山嶽城にして、山を削りて数段の平地を作り城砦を設けたる跡いま尚ほ殘れり。(寫興参照)山頂の駱駝状なるを利用し凸起の前後は急に切り立てゝ斷崖となし容易に攀登すべからざらしめ、其の中間にも斷崖を造りて東西両者壘堡となし東本丸、西本丸といふ、西本丸蓋し本拠にて直高百二十九米四其根張り約三百米を半径とせる半圓形上の地に占拠せり。南方鞭谷より平田、田中、上田を經て西方桝形に大手口を開き、表地、由里、姫路等を過ぎ小谷の搦手口に至るまで石川本村は前掲西本丸を中心とし半徑三百米内外の地に建竝べたる部落なり。太田亮氏の日本国誌資料叢書丹後 曰
      石川城(石川村桝形の上)
    永正天文の頃一色義遠之に據りしが後其臣金谷伊豆守居す、天正六年冬より義道父子に従って八田にあり、七年正月中山に移り
しも沼田の變節の爲め城陷り後義俊に従って宮津城に入り義俊害せられて後居城に歸り細川陣代有吉將監の爲め陷らる。
 斯は最近の説にて宮津府志には
   石川村
     金谷伊豆守居

 一色軍記、丹後野乗、丹後舊事記、丹後一覧集、丹後細見録、丹哥府志、丹後考その他の諸書みな金谷伊豆守の據りし城山となせり、其の築城の何時になりしやは今遽かに知り難きも、金谷氏の系譜によれば鎌倉極末期に遠州金谷より9丹後に來り石川に住せしやうの記載あり、吉野朝時代には一色家の麾下に屬し主家と進止を共にせしものゝ如く、室町時代に降りては「詮時。志摩守、應永年中古田時八十五ヶ所ノ部將改メラルゝ時モ石川ノ砦ヲ固メ居リ一色二屬シテ功アリ云々」と見ゆるを以て推せば、応永の頃既に城砦を築造して固め居りしものと解すべきなり、若狭國守護職次第 曰
    一色修理太夫満範 応永八年御出家法名道範詮範子
   應永十三年六月信将逝去の後、代官同人、又代官同人、雖然三河入道明鎭。同子息三郎共に同十三年十月一日に京都一色道範屋   形に於て召禁せられ丹後國石河と云所に被籠者畢、依レ之舎弟安芸守、同一族等竝若黨以下数十人、三河國に於て同十五年十二月   廿六日討死畢、同十六年三月明鎭父子石河城に被二切腹一畢。云々
 此の記事の所謂「信將」は一色詮範の法名にて、「代官同人又代官同人」は詮範の所領三河國代官小笠原三河入道淨鎮及び若狭國代官武田右京亮重信入道淨源を指せるものにて、其の三河代官は淨鎮歿して其子明鎭異圖を抱き、室町なる主家満範の館にて拘禁せられ右兩國を離れて丹後國なる石川城に幽閉し三ヶ年の後に切腹せしめたるものにて其の幽閉の場所は桝形の南方山麓の河流に臨みたる所にて牢屋敷の稱今   石川村
     金谷伊豆守居

 一色軍記、丹後野乗、丹後舊事記、丹後一覧集、丹後細見録、丹哥府志、丹後考その他の諸書みな金谷伊豆守の據りし城山となせり、其の築城の何時になりしやは今遽かに知り難きも、金谷氏の系譜によれば鎌倉極末期に遠州金谷より9丹後に來り石川に住せしやうの記載あり、吉野朝時代には一色家の麾下に屬し主家と進止を共にせしものゝ如く、室町時代に降りては「詮時。志摩守、應永年中古田時八十五ヶ所ノ部將改メラルゝ時モ石川ノ砦ヲ固メ居リ一色二屬シテ功アリ云々」と見ゆるを以て推せば、応永の頃既に城砦を築造して固め居りしものと解すべきなり、若狭國守護職次第 曰
    一色修理太夫満範 応永八年御出家法名道範詮範子
   應永十三年六月信将逝去の後、代官同人、又代官同人、雖然三河入道明鎭。同子息三郎共に同十三年十月一日に京都一色道範屋形に於て召禁せられ丹後國石河と云所に被籠者畢、依レ之舎弟安芸守、同一族等竝若黨以下数十人、三河國に於て同十五年十二月廿六日討死畢、同十六年三月明鎭父子石河城に被二切腹一畢。云々
 此の記事の所謂「信將」は一色詮範の法名にて、「代官同人又代官同人」は詮範の所領三河國代官小笠原三河入道淨鎮及び若狭國代官武田右京亮重信入道淨源を指せるものにて、其の三河代官は淨鎮歿して其子明鎭異圖を抱き、室町なる主家満範の館にて拘禁せられ右兩國を離れて丹後國なる石川城に幽閉し三ヶ年の後に切腹せしめたるものにて其の幽閉の場所は桝形の南方山麓の河流に臨みたる所にて牢屋敷の稱今に残れり。小学校編纂石川郷土誌 曰
       城   趾
  天正年中金谷伊豆守本村ニ居城シ現時城山卜稱シテ字石川ニアリ城趾ハ峯頂ニアリ東本丸西本丸ト称ス。
 但し汢意すべきは城郭の形式にて茲に城と云へるは江戸時代通有の城の如く石垣の上に櫓を構へ塗るに白亜を以つてし二重また三重の壕水に囲まれ天守閣中空に聳へたる城郭にあらずして前段謂へるが如く山頂二三の削平地を設けたる程度のものにて、此の時代の城郭のことに就ては大類博士の城郭之研究に
    城郭は地理に件ふもりで、地形や水利の如何に築城を決定する重大な要件である、即ち平地の多い、地方では城郭は所謂平城で其の形式は自ら規則正しいものとなるが、山獄丘陵が起伏したり、又水流が縦横に通じて居ろ所などでは、地形の複雑なる爲め不規制な形式の築城か起るのは自然である、元来城郭は外敵に對して味方の安全を保障する爲めの防備であるから、平地にあつては勢ひ壘を高うし壕を深うし防禦を厳重にパせねばならぬ、併しそれは非常に人力を要することであり、且つ技術も進歩しなければ出来ないことであるから、成るべく天然の地形を利用して人工を省くこをを考へる、其の爲めには山嶽を城に利用するのは最も便利なことでわり且つ高い所から敵を見下するのに戦争の際非常に有利であるから、山城は夙くから各民族の間に行はれたものである、従って時代が降っても附近に山嶽又は沼澤があると成るべく之れに據る傾向があつた。
 沼澤は山嶽に比して交通不便でないから左のみ問題にもなるまいが、山嶽は平時から住居として置くには頗る不都合である、そこで山が低い場合ならば宜いけれども、其の高い時には住居と城郭と一致することは出来ない、そこで山上に城を置き山下に住居を殷ける風を生ずる、戦國時代以前の日本の城は多く是であった、併し日本の豪族の城は小規模なもので、僅かに一族郎党の立籠
る種類のものに過ぎなかっかから、特別に設備と云ふ樣なものもなく、だゞ附近の山に城郭の地形を造って置いた、即ち二三の削平地を設けで置いたのみで、いざ事の起つた場合屏墻砦柵の類を建て、陣屋を設け、且つ道路を寒ぐのに鹿柴塹壕を以てしたものである、或は附近の天嶮に據った寺院を臨時に城郭に利用する例も多かった、孰れにせよ平時から城郭として別に形式の備はった
ものを置いたのでは無い、此等の風は豪族の勢力が盛んでなく、すべての生活が小規模であり、殊に築城の技術が進歩しない時代
には已むを得ないことであった、而して人工を要する平城の発達したのは大豪族の起った戦国以後の現象である。云々
 となせり。有名なる楠公の千早城の如きも矢張り此の範疇を出でざるものなり城櫓屏壘の近傍に威壓せるが如く見るは當を得ず。與謝郡誌史蹟名勝編

 城砦の正面桝形の要害加悦谷唯一と稱せらるゝものにて、平時の居館は此の東方上田の山懐にあり上下大小数十段の邸趾は一族郎黨の住せしものと見るべく、主家一色氏の別館は(今の福壽寺の屋敷であらう)土地高潔にして守護家の別館地たるに恥ぢず、始めは只だ別業のみなりしも應仁亂後一色義直の弟義遠加佐郡より此に來住せしもの丶如く戦国時代に入りては御檀家帳によりて明かに知るを得べし。与謝郡誌總論御檀家を引き其の註に石川城に於ける義遠のことを述べたり、要領を拔記すれば
一 ふちう
 一 宮 殿様
  是はいし川の御屋かたさまの御しそく?わかさ武田殿おい子??くにのおとな衆と申合せ御かとくもたせ被申候一の宮御
本城に御座候
 延永殿
             延永殿の御内
               蒲田備申守殿
「註」 ふちう一の宮殿樣は當國の守護家なる一色氏なり。領主を殿樣と云ふは田數帳にも所々に見えたり、一色氏は赤松、山名、京極の三氏と共に四職の一人にして武家の最も名誉とすべき侍所の長官即ち所司の家柄にして、所領丹後は府申なる延永氏を守護代として治めしめ自身は多く京都に居りしも應仁亂後領地に下リしが如し。此帳にある一宮殿様は一色義季に當るか、義季は義遠の子にして先代義有につぎて当國を領せしなるべく、義有一に義春とあり、宮津府志一色系譜に「義直應仁ノ亂ニ山名宗全ニ與ス其子五耶義春早世子無ク従弟義季ヲ嗣トス」とあるも其次に「義有卜稱スルハ永正四年成相山ニテ若狭ノ武田氏ト戰ヒシ人ナリ」とあり、これを妙立寺文書に照せば永正午間阿弥陀ヶ峯にて武田と爭ひしは義有にして、而赫かも二十五歳にて早世とあれば宮津府志の義春早世とあるに一致す。石川の屋形様は一色義遠なるべく、應仁の亂には一色義直、山名氏に與して細川氏と爭ひしが其子義有早世せしを以て後嗣なく、其の当時義直の弟義遠が石川城に居りしより、其子義季を一色の重臣相謀り当国の主となせるなるべし。尚ほ此帳竹野郡成願寺の條に「一宮殿様これは三河國より御のほり候御屋かね様、まへの御屋かた様御子なく候て三河へ御ゆつりに候へ共御内衆御しゆんくわいにて竹野郡しやうくわん寺と申御城に御座候」とあり考ふべし。又若狭の武田の甥子様とあるが当時若狭の守護は武田元光にて、元光の父元信文龜元年一色義遠を丹後に撃ち加佐郡を領せしも、後に和して姻戚關係を結べるにや、延永は一色家第一の重臣にて府中城に居り概れ守護代を勤む。云々
   一、石   川
     一宮殿様    是は石川殿御取立の屋形なり、ふちうの御屋かた様の御しん父也、御婦は原と申所御座候
     一宮新五郎殿  御屋形樣御しやてい石川城主とせられ候


「註」 石川は故と物部郷なり(中略)此所の一宮殿様は前に述べしが如く一色義遠にて、其の居館石川にありしは若狭守護次第に三河入道父子一色道範に召捕へられ丹後國石川に送り邃に城内にて切腹せしめらるとのことにて知るを得べし。舎弟新五郎は未だ考へず。云々
後段石川に係る分は本章第一款記載の再録なるが前者と脈絡上茲に擧げたり、按ずるに義遠の子義季宗家を嗣ぎたるが為に子なく弟新五郎をして石川の館を継がしめたるやう見ゆるも如何にや、宮氏は爾来石川に住し今に連?たり。戦國時代に於ける金谷伊豆守に就ては金谷氏系譜に從へば「詮季、伊豆守、足利義照公ニ屬シテ忠功アリ、詮直、伊豆守、天正六年與謝郡猪岡八幡山ニ細川父子陣取ル卜謂モ、一色旗下ヨセ付ケザルニヨリ田辺ニ移リ大内ノー色ト細川戦ヒー色落城シテ由良川ニテ戦ヒ討死ノトキ切拔ケテ石川ニ帰ル、詮元、天正十年正月二十三日一色五郎義俊田辺城へ婿入リシ給ヒ其夜沼山幸兵衛卜石川文吾卜口論ニ及ビケルニ沼田ガ切リ付ケタ太刀石川ガ真向へ切リ付ケシ時金谷半佐衛門大音ニ呼バル故ニ大亂トナリ五郎殿モ切リ抜ケントシ給ヘドモ醉ヒツブレテ足シドロナル所ヲ細川興元槍下ニ討死ス其レヨリ討死スルモアリ切リ抜ケルモアリ詮元ハ切リ拔ケ弓木へ歸リ謀ヲノコシ石川へ帰リ籠城ス有吉將監ノ爲メニ討死スー族百五十三騎切腹、詮光、女子三人、半ノ亟ハ切リ拔ケテ鷹巣ニカクレタリ云々」とあり、今村内に金谷を姓とするもの三十戸ありて金谷彦兵衛氏は其の宗家なりといふ。

『石川村誌』
大命神社
 本村高津の東方字慈觀寺官有紙地千二百七十八坪の地上に鎮座され老樹蓊蔚として神々し、社格は村社にして橘豊日命を祭神とす。宮津府志巻二 曰
  大命大明神
 丹哥府志石川村附録の部
  大命明神
 寶暦指出帳 曰
  氏神大命大明神    社四尺四面鳥居破壊仕候
 石川村神社古器物届書控 曰
      丹後國與謝郡第二組石川村
     村   社
      大命神社 寶物古器物古文書目録
  一、神鏡  御神號裏にあり 有志人不知六寸    壹面
                氏 子 總 代
      明治十二年八月 日                          小林茂一郎
 石川村誌 曰
  大命神社
    社地東西二十六間南北二十六間面積千二百七十八坪本社南ノ方ニアリ橋豐日命ヲ祭ル、明治六年豊岡県ニ於テ村社ニ被列其他不詳、祭日舊九月九日。
神社明細帳 曰
 京都府與謝郡石川村字慈観寺
        村    社
           大 命 神 社
  一、祭 神  橘豐日命
  一、由 緒  明治六年二月舊豐岡県ニ於テ村社ニ列セラル
  一、社殿 本 殿
  一、境 内  千二百七拾八坪
  一、氏 子  四百六拾人
郷土誌 曰
     大命神社
 社 地  東西廿六間南北廿六間面積千二百七十八坪
 所 在  石川村小字ジカンジ祭日陰暦九月九日
 社 格  村社 祭神橘豐日命
 沿 革  明治六年二月豊岡県ニ於テ村社ニ被列
與謝郡誌 曰
 大命神社

 天長刻銘の金銅佛現存せるが、郡誌慈観寺趾の條に『田數帳石川庄内一町三十六歩慈観寺御免の條見
ゆ、鎌倉乃至足利時代相當榮えし寺、と見え寺趾も雄大なり、同地に鎮守の大命神社に今奉安さるゝ金銅彫
聖観音の立像は或は慈観寺の本尊佛にはあらざるか云々』の一項あり、慈觀寺本尊か左にあらずとすれば
大命明神は慈観寺鎮守にて聖観音は大命明神の本地佛なりしならん、近世神宮寺の管掌せしこと言ふまじ
もなく前記諸社と相ひ同じ、現在氏子九十七戸。
 當社神殿其他主なる營造物は
 一、神 殿 入母屋造向拝付瓦葺建坪六坪
 寄附札 曰
   夫大命明神之社旨少而曾古也故作於数間之宇而欲社安置其内焉然吉田氏常懷造立之志乎時無苛政村里富有也里民盡歸志?力不倦遍選
良木傭工匠而不期載而新造営矣時是安永四載仲秋良辰也爲祈於邑民長寿村里繁栄一一而茲記多少金銭之寄附之功傳千古而耳也
   当邑 奥山 三十目宇平治、十五文目勘兵衛(以下省略)
                                   世話人 吉田惣右衛門
      時維安永四載仲秋吉日

『石川村誌』
香河の神社
香河は村外にして今桑飼村なりと雖も土地の關係上神社寺院等は本村と密接の關係あれば大要を略敍せんとす、香河の谷には日晩寺の山添神社、香河の堂ノ谷の三谷神社、同大河邊の一之阪神社と三村社あり、山添神社は祭紳大山津見命にして神殿内陣舊本地佛馬頭観音の木像を安置す、社殿は明治十二年七月の建築にして社内に保存せる棟札によれば貞享二乙丑年三月九日建立、元緑十二年己卯九月五日造立、明和八年辛卯六月吉辰及び紀元二千五百三十九歳明治十二年七八吉辰日造營等の數枚あり、神體として徑三寸長一尺二三寸の石二個を祀る處後款述ぶる石神系の崇拝の権化なること明かなり。与謝郡誌 曰
   山 添 神 社
  桑飼村字香河小字大迫、村社、祭神大山津見命、由緒不詳、貞享二年再興明治六年村社、氏子二十戸、例祭七月廿四日、境内末社大阪神社。
 三谷神社は堂ノ谷慈雲寺の上にあり固とは同寺の鎮守なりしが、祭神奥津彦命、奥津姫命、過具槌命の三柱にて維新前三寳荒神と祟めたりしものゝ明治維新の廢佛棄釋により荒神の称を廢し現今の三柱を祭神として三谷神社と號す、神殿内陣赤色三眼三面六臂の荒神像を奉安せる處これ又後款遮ぶる石神系の對象なり。与謝郡誌 曰
   三 谷 神 社
  桑飼村字香河小字堂谷、村社祭神奥津比古命。もと三面六臂の佛像三寶荒神を祀り三面大明神と崇めしを明治維新の改廢により三谷神社と號し明治六年村社に列せらる、氏子二十四戸、例祭同前。
一之阪神社また石神系の神にて三十八社明神と稱し神殿内陣愛染明王木像を安置す、現在の社号は所在地名を冠せしものなるべし。同書 曰
   一之阪神社
    桑飼村字香河小字大河辺、村社。祭神大市比売命、由緒不詳、元三十八社大明神と号し明和元年三月再建、明治六年村社、氏子二十四戸、祭同上。
 尚ほ日晩路の陣取に荒神ありしも今山添神社に合併し舊跡に岩石秋葉権現を刻みしもの殘れり、香河の小倉荒神バンジヤにも荒神、赤道に道祖神あり外に若谷御池の横にも樒芥の大木の下に荒神ありといふ何れも石神信仰より祭祀せられし神なるべし。以て後款石川村に於ける石神と併せ考ふれば信仰状態の研究上得る處蓋し少からざるべし。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『野田川町誌』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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