丹後の地名

岩屋(いわや)
京都府与謝郡与謝野町岩屋


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京都府与謝郡与謝野町岩屋

京都府与謝郡野田川町岩屋

京都府与謝郡市場村岩屋


岩屋の概要




《岩屋の概要》

加悦谷の北西の隅で、西の兵庫県との境を源流部とする岩屋川が中央部を東流する。主要地方道宮津八鹿線(出石街道)が東の幾地へ走り、道路沿いに集落と耕地が連なる。
地名の由来は仙ケ尾にある巨大な奇岩雲岩によると伝え、雲岩は文珠菩薩の乗ってきた雲が石になったものといわれる。
岩屋村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て同9年京都府に所属。同22年市場村の大字となる。
岩屋は、明治22〜27年の市場村の大字名。明治27年市場村から分かれて単独で自治体を形成した。
近代の岩屋村は、明治27年〜昭和30年の自治体名で大字は編成せず。昭和30年野田川町の大字となった。
岩屋は、昭和30年から野田川町の大字。平成18年3月からは与謝野町の大字。

《岩屋の人口・世帯数》1394・441

《主な社寺など》

古墳(『岩滝町誌』より)
当地区の古墳は、兵庫県に最も近く、また、古墳の形態上から見て、墳墓は小さく、その種類は円墳が主で、朝鮮を経由して入って来た横穴式石室、すなわち中国式のもので、加悦谷においては比較的新らしいといわれる。
岩屋の塚原古墳 小字塚原にあり、山腹にある円墳の横穴式石室(現在半壊)。玄室は高さニメートル、長さ三・ニメーメートル、幅一・六メートル、羨道は長さ一・八メートル、幅一・二メートル、副葬品は金環、碧玉勾玉、瑪瑙勾玉、鉄鏃、碧玉管玉、坩、ワン、ハソウ、高坏などが出土した(岩屋小学校蔵)。
岩屋の古薬師古墳 小字古薬師にあり、台地にある円墳の横穴式石室(現在全壊)。副葬品はハソウ、提瓶、坏、ワン、高坏、平瓶など(岩屋小学校蔵)。
岩屋の法華堂古墳 小字法華堂山り丘にあり、山腹にある円墳横穴式石室二墓があった(現在全壊)。南側一基の副葬品は、直刀、鉄鏃、刀子、ワン、ハソウ、高坏、平瓶などが出土したが、現在なし。
岩屋の諏訪口古墳 小字藤ノ森にあり、丘陵端にある円墳横穴式石室で(現在半壊)、副葬品など不明。
岩屋の庄内古墳 小字庄内東谷にあり、山頂にある円墳横穴式石室で(現在全壊)、副葬品など不明。俗に「こもり穴」という。
岩屋の墓の谷古墳 小字墓の谷にあり、山頂にある円墳横穴式石室で、現在は全壊して副葬品など不明。
岩屋の比丘尼城古墳 小字庄内の比丘尼城山頂西部にあり、円墳の箱式石棺で、刀剣、人骨、歯などが出土し、現在半壊である。


 阿知江イソ部神社(白鬚大明神)(イソの漢字は山偏に石)
阿知江イソ部神社(岩屋)
式内社の阿知江イソ部神社と比定されている。謁叡郷にあった磯部神社ということだろうから、このあたりも謁叡郷だったのかも知れない。今の府道2号線(宮津養父線)の岩屋峠は阿知江峠と呼ばれた。「室尾山観音寺神名帳」「与謝郡六十八前」の「従二位 磯部(イソベ)明神」か。

阿知江イソ部神社
○丹波国船井郡出石鹿イソ部神社アリナホ其條ニ云ヘリ
【覈】倉椅浦須津村
【明細】岩屋村祭日九月十四日【道】岩屋村白鬚大明神但馬出石郡ヘ越ル山ヲアチエ峠ト云其南ニツゞキタル麓ニ白鬚大明神ト云アリ宜キ社地ナリ前ニ川アリ後ノ山ニ寺ノ廃地アリ上ニ霊岩トテ遙カニ見上ルバカリ高クソビエタリ【式考】岩屋村ニアリイソ屋大明神ト云フ須津村ト云ハ非ナリ【豊】岩屋村字森谷口十月廿三日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)
(「丹後国式内神社取調書」)

阿知江イソ部神社
岩屋村字森谷、村社、祭神長白羽命、往昔雲岩庵の邊りにありしを何時の頃か今の地に移し白髭大明神と崇む、当社明細帳に式内阿知江イソ部神社なりと記するも丹後旧事記、丹後一覧集、丹後細見録等古書皆須津村にありとし殊に丹哥府志には須津村須津彦須津姫大明神といふと社號を表す式内外の考定尚ほ研究の餘地あるものゝ如し。明治三年再建六年二月村社に列せらる、氏子二百二十五戸、例祭九月十四日、境内恵比須と嚴島社とあり。境外堂屋敷に愛宕祠あり。
(『与謝郡誌』)

阿知江イソ部神社(延喜式内社) 岩屋小字森谷
白鬚大明神と称せられ、明治になり、阿知江イソ部神社となる。長白羽(ながしらは)命を祀る。神像は、男神・女神(室町初期)、左大臣・右大臣(鎌倉期)である。「長は布帛の丈長きを云い、白羽は真白なる布帛を指せり。此の神天照大神の天の岩戸に隠り坐しし時、高皇産霊神の命を奉じ、麻を植えて和幣(にぎた)を作り成し絵し、祭の代とし給う。御名は、之によりて負い給へるなり。伊勢国麻績(ヲウミ)氏は、此の神の末裔なり。」(大日本神名辞書)とある。江戸時代には、白鬚大明神と称した。大祭は、四月二十五日、神楽と屋台四基で祭礼を行ない、祭典の座席は、神官、区長、氏子総代四名、組長四名、各種団体代表の順になっている。境内には、厳島、恵美須の二社がある。織物の神として崇敬されている。なお小字堂屋敷に愛宕神社がある。
(『野田川町誌』)

境内の案内板
式内社 阿知江イソ部神社 由緒
祭神 長白羽命
当社は元雲巌のあたりに祀られていたのを後現在地に遷したという。
醍醐天皇の延喜五年(紀元九〇五)勅命によって調査記録された延喜式五拾巻の内九巻と十巻が神名帖であり全国の主な神社が載せられている。当社は第十巻に記載されている。所謂延喜所載の式内社である。
延喜式の作成された年から考察すると当社の創立或は遷座は千数百年前と思考される。
現在の神殿は明治四年宮津城主本荘家の主護神の神殿を譲り受け造営されたもので、其の後数回増改築され今日に至っている。
祭神長白羽命は、天照大神の岩戸隠れの時、青和幣(織物)を作って奉納されたことから、代々白鬚大明神と尊称され崇敬されている。
昭和十八年五月二十四日神饌幣帛料供進神神社に指定された。
例祭日 四月二十五日
境内社 一、恵美須神社、祭神 事代主命
    二、若宮神社 祭神 市杵島命、保食神
昭和五十年四月十四日 宮司 坂根富軌 謹書

町内文化史跡を訪ねて・阿知江イソ部神社(岩屋)
 御祭神は長白羽命で、「長は在帛の丈長きを言い、白羽は真白にる布帛を指せり。この神天照大神の天の岩戸に隠り坐しし時、高皇産霊神の命を奉じ、麻を植えて和幣を作り成し給い、祭の代と給う。御名は、之によりて負い給へるなり。伊勢国麻績(をうみ)氏は、この神の末裔なり。」(大日本神名辞書)とあります。
 江戸時代には、自髭大明神と称していましたが、明治になってら、阿知江イソ部神社と称するなった延喜式内社です。
 神像は男神、女神(室町初期)、左大臣、右大臣(鎌倉期)のものが祀られ、織物の神として崇敬されています。
 境内には、厳島、恵美須の二社があり、大祭は、加悦谷祭の四月二十五日です。
(『町報野田川』(昭和56.7.31))

町内文化史跡を訪ねて・加悦谷まつり・岩屋地区
 岩屋地区の氏神は、阿知江イソ部神社で長白羽命を祀り、江戸時代には、白鬚大明神と称せられ、明治になって今の名称になりました。
 四月二十四日の宵宮は、祭礼は行いませんが夫々の地区家々で囃子を披露します。
 二十五日祭典の日は、西林地会館で儀式を挙行、氏神までの行列は、幟、家形小車、太鼓台、神楽、御幣(区長)氏子総代、他供奉(町議会議員、区役員、老人クラブ会長、隣組長)の行列、続いて子供太鼓屋台四基の順で進行しますが、延々と氏神まで続く行列は衆目を見張らせるものがあり、祭りならではの風情があります。
 行列が社頭に到着すると神前において祭儀が行われ神楽舞か奉納され、祭典は終わりを告げます。
(『町報野田川』(昭和55.9.30))


臨済宗岩屋山雲岩寺(雲巌庵)
雲巌と宝篋印塔(岩屋)

弁天谷に所在した雲巌寺は大永5年但馬国金蔵寺と兵火を交えて七堂伽藍が焼失したと伝え、全長3.36mの宝篋印塔(永仁2年造)が現存している。

岩屋山雲岩庵
 岩屋村字弁天谷にあり、本尊聖観世音菩薩、創立年代詳ならず、初めは真言宗にて一説には法道仙人の開基なりとも云ひ頗る霊場なりしと伝ふ、当時堂塔伽藍備はり数個の寺坊もありし由なるも戦国時代の兵火に罹り僅かに仏像と一宇を残せるのみとなり、貞享年中宮津国清寺天隠禅師故ありて当寺に住し爾来転宗して臨済宗となり今に相続連綿たりと、境内に天王堂あり四天王の内増長天王は石川村堂谷へ持来りて産土神に祭れりとて今多門、持国.広目の三天王を祀る、外に鎮守陀吉尼天あり、尚ほ薬師上に境外仏堂薬師堂あり。
(『与謝郡誌』)

岩屋の雲岩寺
 岩屋川の上流、旧岩屋村は但馬へ越す要路で、そのはずれの山麓につつじで有名な雲岩寺がある。
 この寺は昔相当栄えたとみえて規模が壮大でしかも幽邃な感がする。いまは僅かに庵のほかに天王堂と稲荷社が残っているのみであるが、本尊は持国増長毘沙門、広目地蔵菩薩等で室町時代の仏像が五体祀られている。雲岩寺は山全体が庭園となっており、背後の巨岩には阿弥陀如来・不動尊が各一体彫られており、境内には永仁二年(一二九四)に建てられた石燈籠と宝篋印塔がある。
 雲岩寺は大永五年(一五二五)出石の金蔵寺と争った時に兵火にかかり、伽藍の殆んどを失ったという。
   岩むらに一夜籠らむ霜の声   甫尺

 甫尺は与謝蕪村の弟子で、母は岩屋の人である。その略歴は明らかでないが、文化元年(一八○四)四月十七日没しており、墓がどういうわけか宮津の智源寺と京都東山の双林寺と二か所ある。
 またこの雲岩寺内の経塚から中国の皇宋通宝一、天禧通宝二、天聖元宝三、元?通宝二が出ており、近在からも北宋銭十八種、南宋銭四種が発見されている。
(『丹後路の史跡めぐり』)

岩屋山 雲巌庵 岩屋小字弁天谷
本尊十一面観世音菩薩。
臨済宗妙心寺派に属し、戦国時代以前には真言宗寺院として発展した。開基は、法道仙人といわれる。大永五年、但馬の金蔵寺と兵火を交え敗戦し、焼土と化した。七堂伽藍が焼失して、現在その礎石のみが残っている、江戸初期の貞享三年、宮津の国清寺住持の黙潭和尚が廃寺を復興して中興開山第一世といわれた。
仏像は、木彫で、十一面観世音菩薩像。江戸時代の作。釈迦如来像は、朝鮮、中国にある大陸式のもので、室町期の作。地蔵菩薩像は、元禄九年、黙澤の修理が加わっているが、平安中期の形式を残した鎌倉初期の作品である。毘沙門天王、広目天王、持国天王像は江戸初期の貞享三年に、黙澤が修復しだが、各々室町初期のものである。また、江戸期の作という役の行者像があり、雲巌稲荷の本尊として咤吉尼天が祀られている。寺宝としては、青銅製の香炉、花立、燭台の三具足がある。
石造物としては、鎌倉中期(永仁二年)造立の宝篋印塔、並びに石灯籠があった。境外字福地に薬師堂があり、室町期造仏の薬師如来像を祀る。旧六月十二日(七月十二日)は縁日で賑わう。
(『岩滝町誌』)

『丹後の民話』「あか池」の案内板
雨乞いの阿カ池
岩尾山雲巌寺の広い境内に、小さな泉があった…
 むかし、丹波五山の一つとして建立された、七堂伽藍の立派な雲巌寺という寺があった。
 そのすぐ近くに小さな村があり、そこに一人暮らしの与助という若者がいた。与助は気がむけば畑を耕したり、山へ木を切りに行ったりするが、だいたいは川で魚を釣っているか、家でゴロッと横になっているかの毎日をおくっていた。人と話をするのもいやなのか、村人と出あっても知らん顔で、大事な村の寄りあいにも顔を出さないほどだった。でも、人のいい村人たちは、そんな与助に腹を立てるでもなく、いつも通りに声をかけていた。
 みんなが協力しあって田植をすませた頃から、真夏を思わせる日差しが続き、雨がとんと降らなくなった。そのうち、田畑は乾き作物もしょげかえってきた。あわてた村人たちは総出で桶をかつぎ川と田畑の間を何回も往復して水を運んだ。与助の田にも村人たちは水を運んでやった。与助はそんな時でも知らん顔で、相変らずのんびりと釣り糸をたれていたのである。
 日照はますますきつくなり、作物のほとんどは枯れてしまって川の水も乾上がる寸前のチョロチョロと流れているだけの状態となった。
 村人たちは食べ物も飲み水も、本当に限られた中で始末に始末をして毎日を過ごしていた。何とか雨を降らして欲しいと、みんな揃って雲巌寺へ雨乞いにも行ったが、ひとしずくの雨も降らず田も山もすべてが、カラカラに乾ききってしまったのである。
 そんな、ある昼すぎ、みんなが寄ってどうしたものかと相談していると、パチパチッという音が聞こえてきた。表に出てみると、何と与助の家が燃えており、そのそばに与助が茫然と立っていた。村人たちは何とかせればとは思うが、乾燥しきっているだけに火の回りが早く、アッという間に燃え落ちてしまった。何もかも失った与助は、その場にへな−っとくずれるように座り、うつろな目で焼跡を見つめていた。
村人たちは相談をして、寝起きは長老の家で、食べ物はみんなの分を少しずつ持ちよって面倒をみようということにした。長老の家で世話になってからも、与助は相変らず誰ともしゃべらなかった。でも、みんなが僅かな食べ物の中から自分のためにと持ってきてくれる心に、頭を下げるようになってきた。
それから何日かたった朝、その日の水汲み当番になっていた村人が大声をあげながら走って帰ってきた。
「大変だ−、川が、乾上がってしもた−」と。とうとう心配していたことが起こったのである。みんなは長老の家に集まったが、誰にもどうすればよいのかわからず、ただまわりの顔を見てはため息をついているばかり。与助も部屋のすみの柱にもたれて、じっとしている。と、沈黙をやぶって一人が立ちあがり、うわずいた声でいった。
「こうなりゃ、雲巌寺さんの阿カ池の水をもらうしかねえ」と。
だが、誰一人として賛成する者はなかった。雲巌寺の阿カ池とは、境内にある小さな泉のことで、毎朝仏様にお供えするためにその湧水を汲んでいる神聖なものだった。そして竜神が中にいて泉を守っているともいわれ、村人たちも遠くから手を合わせるだけで近よらなかった。
 だから、竜神のたたりを恐れて誰一人として賛成しなかったのである。そんな重苦しい空気の中に与助の姿がなかった。与助は雲巌寺へ来ていたのである。そして、本堂の前で手を合わせて、
「お願いします。雨を降らして下され。このままだと、みんなが死んでしまいます。わしは、どうなってもええで、村を助けて下され」と、一心に拝んだ。
 すると、与助の前に北方多聞天があらわれ、「与助、今の言葉が心からの申し分ならば、雨を降らせる法を教えよう」と、いった。仏様の姿に与助はびっくりしたが、自分の命と引き換えに雨を降らせる方法を教えて下さいと、土に頭をつけたまま頼み続けた。その姿に嘘はないと思った北方多聞天は、
「長い竹で、あの阿カ池をまぜて、竜を怒らせよ」といい終わると消えてしまった。
与助は、村人への恩返しができれば本望と、長い竹を切ってきて阿カ池の前に立った。そして、意を決して竹をつっ込み、目をとじたまま水をかきまわしたのである。
と、すさまじい勢いで水が荒れだし、とてつもなく大きな竜が水中から空をめがけて、一気に飛び出していった。天空であばれまわる竜は風を起こし、雨雲をよび、地上はまたたく間に大雨となった。
腰を抜かして震えていた与助に、
「与助、お前の命はないものとして、今日からは村のために尽くせよ」と、北方多聞天の声が聞こえてきたのである。雨のおかげで村は活気をとり戻し、それからというもの、与助は人が変ったように村の先頭となって懸命に働いたということである。
 このことがあってから、雨乞いの時は阿カ池をまぜくれば雨が降るといわれ、今でも、雨乞いの阿カ池として伝わっている。
 その当時の雲巌寺にあった立派な大石燈籠は、いま京都市内の国立博物館の庭で見ることができる。    (岩屋・池田貞三様より)

阿カ池は閼伽池のことだと思われるが、よく日本でも使われる外来語だが、梵語(サンスクリット語)の閼伽(あか)は水の意味で、これは潜水に使うアクア・ラング(水中肺)のアクアと同語源ではなかろうか。アクアラングは会社名でアクアはフランス語の水という。それても偶然の一致か。英語でウォーター、ロシア語ではワダー、これはどうだろう。

雲岩

雲巌公園(雲巌庵前の広場)

雲巌庵跡

雲巌公園

雲巌公園(案内板)

雲巌公園(案内板)


雲巌公園頂からの眺望

町内文化史跡を訪ねて・岩屋・雲巌寺跡
 雲巌寺雲岩の伝説については、「橋立智恩寺雪山寺幽師によれば、文殊に悪龍がはこびり、その調伏のため天より文珠菩薩が毘沙門天を伴とし雲に乗じて下り立ち、調伏の後天王は雲に乗り岩屋雲岩に下り立ち、其の雲、化して岩となる。即ち雲岩之なりと」とある。
 雲巌寺開基の年代は詳しくは判らないが、平安の頃、法道上人か岩屋村雲巌寺を建立しそれが地石となったと見られています。その他岩屋には、釈迦堂、古薬師、不常不動、大門、山内、法華堂山などの地名も残っております。
 又、雲巌寺に永仁二年八月と刻名のある大灯籠がありましたが、丹後大震災により倒壊、京都市の石工により復元され、現在京都国立博物館奥庭に建立されていると聞いています。
(『町報野田川』(昭和53.10.31))

町内文化史跡を訪ねて・雲岩経塚
 経塚とは、供養のだめ経典を納め、土を高く盛りあげたもので、仏寺、墓地の近くに多く作られており、平安時代中期の末法思想により営まれその風習は現在に至っております。
 一号経塚は、雲岩の頂上にある「金堂がなる」の北端にあり、石室をつくり、土師質の経筒並びに陶質の壷を収めており、宋銭八枚も出土しましたが、わが国で極めて多く流通したものだといわれています。
 二号経塚は、一号経塚の東方の、天王堂の背後にあたるところにあり、塚は南北長径一・三メートル東西短径一メートルの円形の石室をつくり、低部には木炭がおかれ、陶質の壷と土師質の経筒を並べて土が盛ったものです。
(『町報野田川』(昭和55.3.31))


臨済宗妙心寺派鷲峰山西林寺
西林寺(岩屋)

鷲崎山西林寺
 岩屋村字広田にあり本尊釈迦牟尼如来、慶安二年九山和尚開基、境外仏堂森下に観音堂、小安に地蔵堂あり。
(『与謝郡誌』)

鷲峰山 西林寺 岩屋小字福地
本尊釈迦如来。臨済宗妙心寺派に属し、江戸時代には丹後国天田郡天寧寺の末寺となっていた。元禄五年六月二十八日の「西林寺由緒書事」には、天正十年建立され、天寧寺開山の愚中周及(大通禅師)の法孫兀山浮玉禅師が開山したと書かれている。年中行事には春秋彼岸講、釈迦講、達磨講がある。寺宝として、沈南頻の花鳥画、沢庵和尚の「色即是空」の書がある。仏像には、釈迦如来坐像一体、准胝観音像一体があり、各々江戸時代の作といわれる。建造物には、本堂(昭和三十三年十月新築)庫裡、鐘楼があるが、梵鐘は宝暦十一年の鋳造である。戦時供出でなくなった。檀家は約百八十戸である。
(『岩滝町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・鷲峰山西林寺
 本尊は釈迦如来、臨済宗妙心寺派で、江戸時代には丹後国天寧寺の末寺となっていたといわれます。
 「西林寺由緒書事」によると、天正十年建立され、兀山浮玉禅師が開山したとあります。
 建造物は昭和二年三月の丹後大震災により倒壊、昭和二年文格和尚のとき現在地に庫裡を新築、昭和三十三年承純和尚により、仮本堂であったものが現在の本堂に新築されました。
 近年、三十三札所巡りか盛んですが、「与謝郡西国三十三札所道案内」によれば、当寺は二十九番札所として案内されており、「新四国八十八札所」によりますと、三十六番札所として案内されております。
(『町報野田川』(昭和57.7.23))


《交通》

《産業》


岩屋の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎岩屋村(四辻村の西但馬海道、是より藤ケ森へ出る)
【白髭大明神】
【鷲崎山西林寺】(臨済宗)
【岩屋山雲岩庵】(同宗)
【雲岩】(雲岩庵境内)
天橋記云。文珠菩薩出現の日、雲に乗て来らせ給ふ。其雲化して石となる。蓋雲岩庵にある雲岩是なりといふ。愚按ずるに天橋記に載せたる所、謂べからずといへども殆ど夢を説に似たりされども宋に殞石あるの類なるや、抑亦岩の皺雲頭に似たるを以て名づけて雲巌といふや詳ならず。具さに図して左に示す。
 【付録】(薬師堂、観音堂、地蔵堂)

『野田川町誌』
岩屋地区 主として岩屋川の北側で宮谷川の小扇状地形を主体に山麓堆積物の上に、上地(九五戸)、奥地(八二戸)、下地(九二戸)、西連地(一二〇戸)の四小区に分けられてはいるものの、大きく一集団をなしている。その中を山麓寄りに旧道が縫い、府道宮津八鹿線が谷側を通っており、これに沿って農協、郵便局、医院のほか、食料、電気、理髪など少々の店が点在し、その間に、機業家庭が混在しているが、形態上からも完全な街村を形成するまでには至っていない。岩屋は機能的には、三河内地区と共に、当町の機業どころで、機業並びに機業と他の兼業(主に農業で給料取、商店)が多く、給与家庭でも機業関係に勤めているものもあり、当町最大の織物会社である大啓産業の工場などがあって、その特色を示している。また、集落の変遷として特に西連地区で、丹後震災による移動が見られ、地区名の基になっている西林寺が天神社裏の山麓から岩屋小学校西に大きく動いたのをはじめ、東端の家では北側の山よりの地から移ったものが多いといわれる。




岩屋の小地名


岩屋
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福井県三方郡美浜町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『野田川町誌』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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