丹後の地名

鍜冶(かじ)
宮津市


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京都府宮津市万町あたりか

京都府与謝郡宮津町鍜冶町

京都府与謝郡城東村鍜冶町


鍜冶の概要




《鍜冶の概要》
鍛冶は、今は宮村や滝馬その他の地域内のあちこちに分散している地名で、行政的にはほとんど使われないが、地番表示などには用いられているという。
鍛冶町は、江戸期〜明治22年の在方町名で、「慶長郷村帳」の下宮津郷のうち。「延宝郷村帳」48石余。
文珠街道にあった鍛冶町地は明治22年吉津村文珠の区域に編入された。同22年城東村の大字となる。
鍛冶は、明治22年〜現在の大字名。はじめ城東村、大正13年宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。


↓海面が5メートル上昇した場合の宮津市街地の作図。まず全域が海面下(濃いブルー)に沈む。この図は大手川などの堆積作用が少ない過去のある時の、宮津市街地の状態でもある。猟師は今の一ケ所になる以前はこうした海岸部のあちこちにいたものと思われ、その山手側には鍜冶がいたのであるまいか。(カシミール3Dで作図)
過去の宮津市街地

《鍜冶の人口・世帯数》

《主な社寺など》

《交通》

《産業》




鍜冶の主な歴史記録

《与謝郡誌》
宮津町はもと宮津郷の一部分にて千歳嶺より流るゝ宮津川の河口に当り、往昔海湾なりしもの、自然流土の堆積仁よりて形成せられし砂洲にて其の人家も足利時代までは頗る疎らにて、近郊の人集りて物品交易の市場と為したるものゝ、戦国時化に細川氏入国して川東の猪岡に拠りしより山麓附近に点在したる鍛冶猟師二部落の住氏一は川西の市場近傍に一は遙かに懸け離れて如願寺川尻以西の海岸に移住せしものらしく、此移住に就ても細川占拠の爲めに退去を命じたりとも或は京極侯築城の際に居を転ぜしめたりなど巷間に伝ふるも吾人の見解は聊か異るものあり。抑も天正十年一色義俊細川に誘殺せらた義清弓木に籠城せしも軍糧尽きて血路を宮津に開き、猪岡山の陣を突くや伏兵の爲めに海岸漁村の傍に死すとは旧記の筆を揃ふる所なるが其の地点は宮津川口の右岸旧城三の丸の艮隅にて今郡役所と議事堂との中間に當れるがその当時にあっては此の辺一面未だ海岸叢莱の裡にて所々に漁家の点在せしなるべく、鍛冶猟師の二部落が川より西方に移住したるは無論海浜に遠ざかりて日々の漁獲に不便を感じたる結果もありと雖も、惟ふに戦国兵乱の災禍を厭ひ山砦築造を動機として安全地帯に避難したるもの、少くとも避難的移住を為したるものと見るは蓋し当らずと雖も遠からざるべし。是に由って之れを観れば現在の宮津町の濫觴は市場四軒町の辺より発達したるものと杉ノ末乃至如願寺近辺より東漸したるものとの二者とを其の主なるものと見るを妥當とすべきか。慶長検地の水帳も猟師町百七石八斗九升四合、鍛冶町四十八石八斗二升とあるのみにて今の宮津町そのものは全然見るべからず。元和より寛永初年に渉り京極侯川東海岸義清戦死地の近傍一図を割して城廓を築き川西に城下町肆を経営せしめ田辺及び近郊より移住を奨励し寛永晩年城廓出来の頃には侍屋敷は東は波路を超え南は猪岡山麓に届き、町肆は南は木ノ部田中に西は杉ノ末に達する街衢殆んど形成し、その後続々山脚を拓き海岸を埋め以て居城七寓石の知府としての実を具へて今側の宮津町を齎せり。由来宮津領内は慶長検地に尚ほ幾多の余裕ありとて幕府より再検を命ぜられ寛文より延宝に亙りて永井侯封内を検量し概ね三割乃至六七割の草高を増加し之れを延高と云ひ、旧高に延高を加へたるものを以て各町村の草高と定め爾来それによりて貢租を課するに至る。此際の延高猟師町七十五石二斗六升六合、鍛冶町三十四石四斗七升、之れむ旧高に合して猟師町百八十三石一斗六升鍛冶町八十三石二斗九升となる此の両町は西堀川を境界として猟師町の内には杉ノ末町、川向町、白柏町、池ノ谷、金屋谷。吹屋谷、小川町等を含み鍛冶町の分には本町、魚屋町、京街道、葛屋町、松原町等を含み市外犬ノ堂より赤岩迄の飛地を有せしものゝ如く、其後山麓万年町に万年新地を海岸杉の末に杉末小浜を河原町、住吉町、新浜、洲崎等新開地の出来るに従って旧草高定免の外に町地子を徴せられ享保二年青山侯以来二百十八石五斗六升二合之れを前二者に合するときは四百八十五石四升二合、此外に侍屋敷は城廓の外周一帯にして馬場先、中ノ町、吉原、外側、惣組、安智新建、波路組等あり、又町内にも京街道、大久保郷組切戸、杉末長屋等あるも無論無税地なれば草高成箇及び町地子等のある筈なし、是れ維新前の宮津町沿革の大略なり。

《丹後宮津志》
城東村=惣・皆原・波路・山中・滝馬・宮村・獅子崎・鍛冶町・猟師町。世帯数284、人口1020。

《宮津市史》
はま
ところで、筑波大学本・龍神社本の慶長七年検地帳に数多く登場する名請人の居所を示す地名で、その所在が明確でなく、宮津城下町の形成を考えるにあたって、検討を要するものがある。それが「はま」「れうし」「かち」である。
 「はま」は前者で八七筆、後者で九筆が検出され、前者には「浜村」「浜町」、後者には「浜村」という表記が含まれる。「れうし」は前者に六七筆、後者に二九筆が見出される。「かち」は前者に五五筆、後者に三二筆があらわれ、後者には「鍛冶町」と表記する例が一例ある。この三地名は、二本あわせてそれぞれ百筆近くあり、大きな割合を占める。
 まず、「はま」に関しては、文化年間は隆埋め立てが本格化する(『事跡』)魚屋町の海側、すなわちのちの東新浜が想起されるが、時間的に慶長七年とは隔たりが大きすぎる。しかし、『日記』慶長五年の記事に「宮津町未だ出来ざる以前は、京街道・万町の辻の所に百姓居し者は、今の辻町(宮村のうち)へ引住居」とあり、万町周辺、すなわち本町や魚屋町を含むあたりにいた住人が、宮村へ移住したという伝承があり、魚屋町の海側を「はま」と考えることもできないわけではない。ただし、寛文年間の城下絵図(兵庫県立歴史博物館蔵)ては、魚屋町の海側の埋め立てはあまり進んでおらず、その可能性は保留したい。
 ここ以外に宮津湾に面して、「はま」と呼ばれるにふさわしい場所としては、ひとつは細川宮津城が築かれた大手川東岸の河口付近、もうひとつは白柏町・川向町を貫く白柏通りの浜側が考えられる。
 前者については、細川宮津城の重臣屋敷があり、京極宮津城でも三の丸となっており、先述の『与謝郡誌』の記事のように、漁村であったとは考えにくい。しかし細川氏が宮津城を築いた際、城域に居住する人々が、のちの城下町の周辺部に移住したという伝承もあり(『事跡」『日記』)、もともと大手川東岸の河口付近に暮らした人々が、周辺部に移動したのちも、「はま」の地名を使いつづけたという可能性もある。
 一方、白柏・川向の海側の地は、寛文年間の城下絵図(兵庫県立歴史博物館蔵)で、既に白柏通りの海側に、通りがもう一本描かれており、かなり早い段階で陸地が広がっていたことが判明する。


れうし・かち
次に、「れうし」「かち」については、宮津を「与謝郡下宮津の庄一○ヶ村の内鍛冶猟師両村の地」とし、細川氏入国以前は、「鍛冶猟師の二村海辺に並びて在町の如くにてありし」とする史料があり(『宮津旧記』、以下『旧記』と略記)、延宝年間宮津藩領絵図(「史料編」第三巻付録)では、宮津城下町の海側を「猟師町」、山側を「かち町」とする。
 また、「弘化二年宮津城城下絵図」や嘉永五年(一八五二)に作成され、安政四年(一八五七)に改められた万町絵図には、万町通りのほぼ中央部に「鍛冶屋町」と記されている。なおそれぞれ万町通りの東側は「万町」「万町通」、西側は「新町」「新町通」と書き込まれているが、作成年代の古い(元禄二年〔一六八九〕作成、天明五年〔一七八五〕写)万町絵図には、このような記載はない。
 これらのことから、万町を含む宮津城下の町人居住区域の東側を鍛冶町、後の漁師町を含む西側を猟師町とする理解が生じた(『与謝郡誌』)と推測できる。
 ところで現在も、近代に城東村となる地域に、猟師、鍛冶という字名が数多く見られる。一方で、慶長検地帳の名請人の居所が「れうし」「かち」となっているもののなかに、その土地の所在地が近代の城東村となるものも多数見出される。
 このうち猟師町に関して、区画された地域を猟師町とするのではなく、長い浜辺に散在する、「浜の町」ととらえ、細川氏入部当時は、城東村付近まで猟師町として機能していた可能性があるが、この在方猟師は早くにその機能を喪失してしまい、いくらかの土地を残して、分宮付近や後の漁師町付近へ移ったとする理解もある(中嶋利雄「海のもんだい、その一」『私のリポート』四)。なお近世後期には、この在方猟師・鍛冶の名主を、漁師町の与次右衛門家が兼帯していることが確認できる(石井家文書)。
 城下絵図で、現在の漁師町付近(川向町の海側)を猟師町とするものは、早くも元禄十六年(一七○三)の奥平氏時代の絵図(個人蔵)であるが、これには河原町(白柏町の海側)が記されておらず検討を要する。
 ちなみに猟師(漁師)町が川向町の触下として三上家文書にあらわれるのは、文化十四年(一八一七)以降であり、一方の河原町が白柏町の触下としてあらわれるのは、天明四年(一七八四)以降となる。三上家が河原に所在するため、文書の残存にかたよりが考えられるが、後述するように、海岸側への埋め立てや屋敷地の下げ渡しなどからみて、一八世紀以降、ほぼ同じころに漁師・河原両町が登場するとみるべきであろう。

『京都府の地名』
〔鍛冶町・猟師町と宮津城下〕
 「宮津旧記」に「宮津は庄名にして今の地は与謝郡下宮津の庄十ケ村の内鍛冶・猟師両村の地也。上宮津三ケ村下宮津十ケ村の総名なり」、また「天正八年辰八月細川兵部大輔藤孝公入国して此地に館を構へ近郷の政治を布き、長臣をして此館を守らしむ。此時までは鍛冶・猟師の二村海辺に並びて在町の如くにてありし也」と記し、宮津城下は下宮津鍛冶・猟師の地を取りつぶした地であることを物語る。
 慶長七年七月の宮津下村御検地帳(筑波大学蔵)には「おとこ山・岡・いの岡・いの岡村・辻・惣村・みそしり・はま・はま町・浜村・江かしら・町・大屋・かハら・柳町・七反田・こくさう(虚空蔵カ)・立町・魚屋町・もりの木・水ぶけ・おくか谷・中屋・杉ノ末・大くぼ・有田・田中・そうし・惣分町・かぢ・杉ノ末かぢ・浜かぢ・わきの宮かぢ・れうし・すまうは」など多くの地名をみることができる。わけても「かぢ」「れうし」は最も多い。このうち細川宮津城ないし城下町の造成に関連するものを抜き出すことは難しいが、近世城下町では「わきの宮かぢ」辺りを鍛冶町とよんだ。そのほか近世をとおして受け継がれた地名は「れうし」「かぢ」をはじめ、男山・猪の岡・辻・惣村・柳町・魚屋町・杉ノ末・大久保・有田・田中など多くを数えることができる。
 現宮津市字猟師・字鍜冶はともに他の字名とは性格の異なる地名として注目される。これらの地は近世猟師町・鍛冶町といわれ、その所在は城下の周辺部在方を中心に全域にわたって散在し、城下町組の名主とは別に庄屋・組頭・百姓代が置かれ、その庄屋は猟師町(現字漁師の分)から選ばれた。「宮津旧記」によると、京極高広が築城の際、下宮津の内から曲輪・侍屋敷分に四五六・八六三石、町家分に二一八・五六二石を潰地とし、町家分の地子を免除して商業の繁栄を図った。同書の校訂者永浜宇平は注を加えて、城下に置かれたのは主として鍛冶・猟師で、地子を免除した欠損分を宮津下村の残った村からとって補填していたが、町家分から一〇町四反六畝余の地子米一二三・八二石余、ほかに小散田分五反九畝余の地子米七・三四石余を徴収するようになっても村部からの徴収が解消されないことに百姓の怒りを招き、有田・田中・惣・皆原の各村から均一に七二・八五四石ずつ町地子引として引いたとしている。
 近世鍛冶町・猟師町は小高とはいえ組頭・百姓代・長百姓その他の百姓もいて有田・田中村と紛議を起こし、天保八年(一八三七)九月、庄屋との間にも村勘定で訴訟も起こしている。現存史料でみる限りでは庄屋は一人で両町を兼帯していた(石井家文書)。




鍜冶の小字


鍛治
有田村善右エ門 辻町 有田前 内ママリ 猪ノ鼻 舟山 岡 根岩 ソウブ 男山 八幡下 ズナシ 馬場裏 大細見 中屋 奥ノ谷 山崎 虚空蔵谷 左惣 左惣谷 虚空蔵宇谷 辻町

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



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