丹後の地名

蒲入(かまにゅう)
京都府与謝郡伊根町蒲入


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京都府与謝郡伊根町蒲入

京都府与謝郡本庄村蒲入




 

蒲入概要


《蒲入の概要》

↓丹後は桜も紅葉も少ないのだが、ここの街道沿いに桜並木がある。花咲く頃、カメラマンたちがあつまる景勝の地
蒲入(伊根町)



伊根町の北端で、東・北は若狭湾に面して、甲崎に抱かれた天然の良港に面して半農半漁の集落が立地する。西の山腹を国道178号が南北に走る。一部は越前・四ヶ浦から移ってきたといわれ、その人々によって鰈延縄・シイラ釣などが開かれたという。
蒲入村は、江戸期〜明治22年の村名。枝郷に長延村。慶長6年から宮津藩領、ただし寛文6〜9年・延宝8年〜天和元年・享保2年〜宝暦9年は幕府領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年本庄村の大字となる。
蒲入は、明治22年〜現在の大字名。はじめ本庄村、昭和29年からは伊根町の大字。

《蒲入の人口・世帯数》 192・66

蒲入(伊根町)

鎌と書いても蒲と書いても、日本語としてのカマは、もとカマド(竃)のように周囲に山があってそれに囲われた所とか、カマダ(蒲田)ということばが示すように、周囲よりは低くなった深田のような所を表わす語である。ガマ(蒲)は、そのような低湿地に生える草だからガマといった。だから凹地・低地という意味の空間名が元で、それから植物名に変じたのであって、もとの発音はカマである。カマ(蒲)を採って製品にするとコモ(菰)となるが、コモほカマの音を少し変えたことばである。
(『京都滋賀古代地名を歩く』(吉田金彦)は)

ここにも取り残されたように静かな人々の生活がある。村人のなかには越前海岸の四ケ浦から移り住んでいる人もあるという。
 蒲入の「カマ」とは断崖絶壁の地をさす。「ニウ」とは入江のことであろうか。岩手県の典型的なリアス式の溺れ海岸に位置する釜石の「カマ」も字は異なるが蒲と同じ急崖の意味であろう。
 なお「カマ」 には雪国の冬、子供の楽しむカマクラのように洞穴をさす場合もあり、その地形によって判断せねばならない。
(『丹後半島の旅』(澤潔)は)
としている。カマはその通りと考えるが、ニュウは丹生の転訛である。海岸沿いに新井(にい)耳鼻(にび)があり、山側には日量(いかり)とか(いかり)の地名がある。伊根町の周辺は古代は水銀朱が採集された地と思われる。
蒲入の先のものすごい断崖海岸を「カマヤ海岸」と呼ぶが、伊根町の北東を向いた海岸はどこも100mも200mあるいはそれ以上もあるすごい断層海岸で陸路からは近づきがたい。
カマヤ海岸
伊根町側の顎越あたりから西方を見る。↑
かまや海岸 顎越の岐から三ツ礁までの地域の総称である。その間には小曲浦・イトノロシ・白石浜・ヨコエ礁・猿が尾鼻・ビシヤゴ岩・カマヤ浜その他巨岩が累積している。丹後半島一周道路が開通してから、この海岸の四季の佳景の眺望は、行楽客の注目するところとなり、夏期には観光客が訪れ、行楽者の自家用車が列を連ねる。ただ行楽者の中には海水浴を楽しむだけでなく、サザエ・アワビ等を勝手に採り、漁業違反行為をなすものが多く現れ、漁業者の生活権をおびやかし、地元の漁業者は、漁業権の防護並びに違反行為に対する監視に忙殺されている。
(『伊根町誌』)



《主な社寺など》

真嶋神社
真嶋神社の8月3・4日の祭礼には太刀振りと花の踊りが奉納される。
真島神社(伊根町蒲入)

眞島神社
 本庄村字蒲入、村社、祭神火産霊命、興津彦命.興津姫命、勧請年暦不詳、三寳荒神の處維新の際に改称六年村社に被列、氏子七十一戸、例祭同上外に秋葉、愛宕、蛭子、荒神等あり。
(『与謝郡誌』)

真島神社 蒲入(真島佐田大明神)(旧村社)
祭神 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
配祀 佐田大明神
例祭 八月三日
由緒・沿革 創建は康正二年(一四五六)七月とされ、元三宝荒神を氏神として祭っていたが、社伝によれば『元禄の頃泉八三郎なる者が、真島の岩洞に一個の木偶の漂着しているのを見て、子供がいたずらをしては畏れ多いと思い、沖へ流して帰った。ところがその夜夢中に流して置いた木偶が現われ、「我れ佐田の国より流れ来れり、氏神として祭るべし、災害・危難を払いこの地を永く護持せん」と告げられた。夢が醒めて不思議に思い夜の明けるを待って洞穴に行くと、前日と同じ場所に漂着していた。益々不思議なことであるとして、村内にこれを祭っても差支えないかどうかを、御鬮を引いて三宝荒神に伺ったところ、別段にお咎めもなく差支えないということになり、三宝荒神と共に氏神として祭り、真島佐田大明神と呼ばれることになった』と伝えられている。なお佐田国は佐渡国とされている。記録としては慶長十四年(一六○九)の年代をもつ棟札があるが、これは後世につくられたものであり、確実な当時の棟札としては、佐田大明神も合せ造立された元禄十五年(一七○二)の棟札からである。「奉造立蒲入真嶋佐田大明神氏子息災福寿増長海上安穏」として、元禄十五年(一七○二)三月一日から再建に取りかかり、四月十八日に棟上げが成り、五月二十七日夜遷宮が行われている。またこの時の神社建立の資金は、蒲入全村の般頭達が九一艘の船を出漁させ、その収入で造立をなしたとあり、当時の役人としては庄屋が和泉仁兵衛、鍵取同八兵衛、年寄浜中二良左衛門、和泉長三郎と記され、遷宮式は浦嶋神社別当来迎寺三世阿闍梨快曇が宮移しをなしたとある。この遷宮式には赤飯を炊き、酒、布等を供え、蒔餅をなし、法楽三番叟が来迎寺にて催されたと記録されている。…
(『伊根町誌』)


高野山真言宗海雲山西明寺
天和2年(1682)の丹後国寺社帳に名がみえる。西明寺には明応5年智海筆の不動明王像がある。
西明寺(伊根町蒲入)

海雲山西明寺
本庄村宇蒲入、本尊聖観世音、開山玄舜法印正保三年創立、大日堂あり金剛界大日如来を祭る。
(『与謝郡誌』)

海雲山西明寺(真言宗) 蒲入 檀家七三戸
本尊 聖観世音
中興開山 玄舜法印
由緒 元大ナルの地に小堂があり、正保三年(一六四六)玄舜法印が現在地に堂宇を建立して海雲山西明寺と号し、浦嶋別当来迎寺末とし来迎寺の隠居寺ともなっている。文政四年(一八二一)八月四日、大風雨により堂宇が破損し、文政七年(一八二四)再建された。明治三十四年(一九○一)十一月、大雨のため西明寺の境内が一○問余り崩れ、翌年四月石垣工事に着手し同年七月完成した。また明治三十九年(一九○六)八月須弥壇と仏間の修繕をなし翌年一月完了した。
 当寺院には室町時代末期の画僧智海の筆になる不動明王画像が保存されている。智海は丹後一の宮籠神社の別当寺大聖院の住持で、優れた不動明王像を描き、当寺に伝わる不動明王画像は、焚字を書き連ねて形像を表している特に貴重なもので、明応五年(一四九六)七五歳と記され、密教芸術の粋を極めたものである。…
(『伊根町誌』)

経ケ岬に至る海岸の奇岩「経ケ崎の二十一奇」などが見える。


《交通》



《産業》




蒲入の主な歴史記録

『丹哥府志』
◎長延村より長女嶺を越て凡十五丁再び海浜へ出る、此村より竹野郡袖志村の間に経ケ崎ある舟行凡二里余又浦入村より袖石村へ越る蒲屋嶺ある甚険岨なり。
【真島大明神】(出図)
村より少し海を隔て島あり真島といふ、島の上に佐田大明神及三宝荒神を祭る、所謂真島大明神なり。
【海雲山西明寺】(真言宗)
【小崎】(浦入村の北より真島を抱きて東へ出る)
こう崎より下釜の江に至る凡廿一ケ所一大奇観なり、これを経ケ崎の廿一奇といふ。
【大崎】(かふ崎より十丁斗行て又東北の方へ出る、風波経ケ崎と殆ど同じ)
【オーウロ】オーウロの海岸に平岩あり、平岩の上に井の如き穴ありノタホといふ、径三、四尺深サ幾丈あるをしらず穴の内にて多く貝を取る。
【鷹の巣】オーウロより又西南の方へ入りて浦入村の背にあたる蒲屋越の下なり、岩壁数千丈の間に鷹の巣あり。
【オータケ】(断岸絶壁に臨み鷹の巣と略相似たり)
【白石の浜】東西四、五丁の間小石の浜なり、其石尽く雪の如し
【サルタヲ】
【立石】(岩の高サ殆んど卅丈、サルタヲの続にあり)
【ミツクリ】
【ヒラネ】
【快心の洞】洞の口二間余、洞の高サ三間余、洞の深サ十間余、洞の奥に窓あり?を見る、よって洞の内暗然たらず、洞の内に庵室の跡あり昔快心といふ僧爰に穴居すといふ。
【ヤワタ】
【経ケ崎】西出雲崎より海程一百余里を渡りて東能登見崎に至る、経ケ崎其間にあり、凡北海のの三ツ見崎といふものあり経ケ崎其一に居る。凡地方より海に出たる卅余里経ケ崎より又海底に沈みて岩の出たる十里余、是を以て風は東西より吹き潮は東西より来る風波の難殆ど凌ぐべからず、於是天下の海に旅するもの此見崎をしらざるものはなし。見崎の左右断岸絶壁奇岩怪石挙て語るべからず、今一二を以て図に出す、これを以て余の廿一奇を想像すべし。
【キダハシ】形石階の如く山に登る卅余丈、其下にウブダライといふ所あり、岩穴盥の如く水あり。
【産盥】
【立鳥帽子】
【屏風岩】
【亀岩】
【黒うち浜】
【赤崎】
【釜の口】以上廿一カ所所謂経ケ崎の廿一奇なり、経ケ崎の以西は竹野郡袖志村に属す、然れども前段の次なれば爰に合せ記す、釜の口より袖志村へ僅に四、五丁。

『伊根町誌』
蒲入村の漁業とシイラ漬釣
 経か岬に近く大海をひかえて耕地は少なく、漁業により生計を立てる以外に道のない立地条件下にある地区である。
 江戸時代以前より地先前面に好漁場のあることが知られていて、越前四か浦の漁師が移住し住みつく者もあっ た。漁業は鰈延縄・しいら釣りが早くから行われていたが、江戸時代に入り越中網や鰤刺網も使用された。大海で風浪の激しい日が多く、当時の漁具では潮流が速い時は網を破ったり流したりして中絶せざるを得なかった。そのため鰈曳網をなし、改良して磯手繰網を使用し、江戸末期には場置きという鰮刺網も使用しているが、どうしても置網は破損することが多かった。

『日本の地名』(谷川健一・岩波新書)
越前町の四ケ浦は上梅浦、下梅浦、新保、宿の四つの集落をいう。明治二十二年にこの四ケ浦と大樟、小樟とが合併したが、それでも四ケ浦村、のちに四ケ浦町と呼ばれた。それは戦後、城崎町と合併して越前町となるまでつづいた。この四ケ浦の一つである新保の枝村に城ケ谷という漁業集落がある。そこの人々はソリコと呼ばれていたが、これは、さきの文章と一致する。
 ところで、丹後の経ケ岬に近い京都府与謝郡伊根町の蒲入の一部は四ケ浦から移ってきたといわれている。伊根町の青島に祀られている蛭子神社の御神体の恵美須神(現地ではオエベスさんと呼ぶ)は、江戸時代初期に四ケ浦から盗んできたものであり、四ケ浦の人たちがそれを取り戻しにきたが、青島の蛭子神社の境内の近くの藤の木が大蛇になって防いだのでそのままになった、という伝承が地元に残されている。陸路をたどればかなり離れた越前町と伊根町との緊密な関係をいぶかしく思う向きもあるかも知れないが、海上では越前町と伊根町は若狭湾をはさんで東と西に一直線に向きあっている。若狭湾は両者をむすびつける共通の漁場であった。

『丹生の研究』
大丹生の北、舞鶴湾の湾口部に湾に面して浦丹生という小部落がある。これは丹後半島の東北岸に見出される蒲入(がまにう、与謝郡本庄村)とともに、丹後のどこかに丹生を設定しなければ解けない名称である。

「津波伝承論ノート」(金田久璋)『季刊東北学』(2011.11)
「丹生千軒」は山津波で村が立ち行かなくなり丹後の蒲入に分村したとされ、戦前までは村付き合いがあったといい、盆踊りが酷似しているともいう。以前、古老からの採話では山津波とされていたが、先日長老の古川信治氏(大正十四年生) に確かめたところ、鶏肉を使って出漁したところその祟りで津波に襲われ、八百戸もあった村が丹後へ分村したと述べており、伝承にいささか齟齬がみられる。
ここで述べられている丹生は、敦賀半島先端の丹生、美浜原発のある丹生である。丹後のどこかの丹生ではなく、若狭湾のどこかに探す方がいいようである。「カマヤ海岸の丹生」の意味が確かなようであるが、そうなるとふるさとの名を付けたもので、この地が丹の地ではなかったかも知れないことになる。




蒲入の小地名


蒲入
イサント ヘイ谷 ハシツメ 堂ノ下 ナワテ 山ノ上 サル谷 ハンミヤウ 宮ノ前 カジヤヲカ ラク ヨコ谷 カツラ谷 ヲリ口 頂上 宿ノ松 ヒクニ谷 ハアサカ ホシ谷 下ハアサカ 桑谷 柴谷 ツクシケ谷 ヨコジ 田ノ向 西畠 中尾谷 寺尾谷 ヤヘタ コシサカ 久僧崎 大ナル 向ノ浜 大久保 真嶋谷 大谷 コヱクビ 上ノ山 川ノ上 犬ケ崎 岩尾 水ケ尻 アキヤ カマヤ カマヤ白石 舟クコ山 水ケシリ タ々リ山 寺ノ上 マシマタン 中ノ谷 水谷 ツトケ谷 シウワ谷 シワ谷 田ノ下 西畑 イヌモドシ サル谷 大場 ヲリ口 立岩 カマヤ清水原 カマヤ大ケ谷 カマヤスヱケ谷 カマヤ白石 カマヤ糸ヲロシ カマヤヲテ ヨコシ ツクシケタニ シワタニ 赤畑 田向 母阪 タ向 ヤヘタ 中尾谷 寺尾 コシサカ イワバナ ヤハラ 宿ノ松 ニウ上 大岡 ムカイカキ ヤバラ 地蔵前 奥桑谷 テラヲクチ 蒲入浜 西鼻 ノヱス 向ノ浜 アゴバ 滝ノ水 ツトケ谷 壱本松 寺ノ上 タタリ山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『伊根町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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