丹後の地名

上世屋(かみせや)
宮津市


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京都府宮津市上世屋

京都府与謝郡世屋村上世屋

上世屋の概要




市の北部。上世野とも書いた。世屋川上流および、その支流域に位置する。駒倉・木子などに至る間を世屋谷と呼び、弥栄町に通じる路がある。標高370mの高地で、世屋谷の中心地。農林業に従事しているが、世屋谷一帯は過疎地である。
上世屋(宮津市)

上世屋村は、江戸期〜明治22年の村名。「慶長郷村帳」の世野村のうち。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。「延宝郷村帳」157石余。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同21年の戸数68(市町村合併史)。同22年世屋村の大字。
上世屋は、明治22年〜現在の大字名。はじめ世屋村、昭和29年からは宮津市の大字。
世屋高原地区は07.8.3丹後天橋立大江山国定公園に指定された。
上世屋地区は「にほんの里百選」「日本の里地里山30選」「京都府景観資産」に選ばれている。




《上世屋の人口・世帯数》 20・13

《主な社寺など》
世屋姫神社
集落へ入る前の棚田のなかに鎮守の森がポツンとある。
世屋姫神社
世屋村字上世屋小字頓上、村社、祭神世屋姫命、建速須佐之男命、大山祇命、日本武尊、由緒不詳、明治六年村社に列せられ、氏子六十一戸、例祭同上、境内牛頭天王と荒神を祀る。
(『与謝郡誌』)

世屋姫神社(宮津市上世屋)

世屋姫神社(宮津市上世屋)

臨済宗世屋山慈眼寺、無住。集落の少しはずれ、銚子の滝や奥の院へ行く途中にある。写真の右手に見えるコンクリート舗装の道を行けば、奥の院になる。
世屋山慈眼寺
世屋村字上世屋にあり本尊聖観世音、固と瀧山にありて成相寺と號せしも後ち寺上に移して慈眼寺といふ由なるも年暦を知らず、成相寺奥院と云ひ有名なる銚子の瀧は舊地にあり寺宝傳慶雲出現観音立像一躯あり。
(『与謝郡誌』)

慈眼寺(宮津市上世屋)


成相奥の院と称する観音堂、慈眼寺支配。
狭屋山滝。宮津府志に曰く成相山の後を狭屋村といふ上狭屋村下狭屋村二村有爰に茅葦の草堂あり成相寺の奥の院と伝ふ、堂の後に七八丈の瀧あり幽谷寂々として塵外の異境いふべくもあらず寺を慈眼寺といふ上野甚太夫の古城地なり日置より一里半奥なり。
(『丹後旧事記』)

【成相奥院】 日置より一里半下世屋村松尾村を経て上世屋村なり。三町はかり山奥に三間四面の茅堂あり、是成相の奥院なり。堂後に五六丈の瀑布あり。幽谷岑寂として塵外の霊境なり。寺を慈眼寺と云。天橋山に属す。
(『丹後与謝海名勝略記』)
成相寺奥の院観音堂(宮津市上世屋)

「奥の院」と呼ばれている所は、その寺社の故地で、元々はここに成相寺があったものと思われる。『今昔物語』が語る物語は、ここが舞台と思われる。

銚子の滝
坊屋敷
庵屋敷
聖観音影向のシデの木

銚子の滝の少し高いところ、丹後半島縦貫林道角突線の道端に大四手(跡)があり、ここがご本尊の聖観音の出現地とされる。

大四手の由来
世屋山に毎夜灯りがつくと漁夫達の噂があり諸国行脚の雲水真応上人が其処を尋ねると、其処には大四手の樹の下に法灯がともり聖観音像がお座になっておられた。時に慶雲元年(西暦七〇四年)であった。養老二年(西暦七一八年)大雪の年、以来幾多の御霊験に依り成相観音と命名さける。
その後大四手は神木と畏敬され、成相観音の慈悲にすがる善男善女によって上世屋村が形成された。
大四手由来のこの場所より二十メートル下った崖の下に銚子の滝があり、この地に観音堂を建立し成相観音を祀る。
“観音の霊場”として知られ善男善女が参詣した。
付記
この石像は仏師丸橋直継師が真応上人と聖観音の出会いと、この地に産出した花崗岩に彫刻された。
平成二十二年九月吉日
ふる里会議世屋
この地こそが成相寺のはじまりであった。


上野甚太夫城墟
松尾上世屋城趾 下世屋城趾
世屋村にあり松尾は坂野四郎左衛門上位屋は上野甚太夫の城墟なり足利義昭に仕へし上野小務太輔の子息にして足利氏滅亡後一色松丸に仕へて丹後にあり、又同村字下世屋前野半助の居りしといふ。
(『与謝郡誌』)


麻谷は当村の端郷で、人家5、6軒があったという。そんなに広い場所でも、上世屋から離れた所でもない。


《交通》

《産業》



上世屋の主な歴史記録

『丹哥府志』
◎上世屋村(下世屋村より一里余山に登る)
【世屋姫大明神】
【世屋山慈眼寺】(臨済宗)
【観音堂】(三間四方)此観音堂は成相観音の舊跡にて俗に成相の奥院といふ、今慈眼寺の支配となる、然れども成相寺は爰にあり(文武天皇十三年成相へ移す)、世屋山成相寺者本尊聖観音文武天皇十三年建立当国世屋山移于此處云、蓋其世屋山といふは此處なり。堂の東に麻谷といふ上世屋村の端郷あり、人家五、六軒斗もあるなり、麻より七、八丁斗行て瓔珞阪あり、瓔珞阪より又一丁斗も行て観音阪あり、昔此處より今の成相へ移し玉ふ時瓔珞の落し處なりとて今に瓔珞阪といふ、観音阪といふは観世音の厨子を休め玉ふ處なりと今口碑に傳はる、よって元伊勢、元善光寺に習ふて元成相といふとかなり、成相奥院といふは非なり、慈眼寺より観昔堂に至る、凡二、三丁斗も山に入り幽邃の處に堂宇を建つ、いかにも霊場なりと覚ゆ、堂の裏に銚子の瀧あり。
【銚子の滝】(出図)瀧の高サ五丈八尺、瀧の左右三、四十間、瀧のロ銚子の如しよって名付く、観音堂より瀧に至る其間深樹森々としてキ(ひかり)を見ず、五、六月の気候恰も八、九月の如し。天保辛丑の夏余此處に遊ぶ、観普堂より瀧の辺餘り幽邃なれば定て異草異獣の類あらめやと村人に尋ぬれば、いかさまにも二・三年前より異獣と覚敷ものあり、形猫の如くにして大きく、足の模様は狸の如く口は狼の如く耳までさけてあり、始は狼の子なりと恩ひしが、左にもあらで能く人に馴るゝものなり、人さへ行けば狗児の如く人に付き歩行くなり、のちには人家へも来て篭の内へ入り寝る事もあるなり、今にいかなる物といふ事をしらず、少の内休らひ居らばやがて出て来るならんといひしが、宿の方へいそぎければ見るに及ばず、今其いふ處のまゝに図す。

【坊屋敷庵屋敷】
滝の後山に古より斯言伝へたる處あり、いか様にも堂宇のありし處ならんと見ゆ、成相観音の爰に在し頃定て坊もあらんと覚ゆれどもさだかに何頃の事なる事をしらず、中古愚中和尚の世屋山に居られしは是處なりといふ。庵屋敷一に安々屋敷といふて安々和尚といふものの山居せられし處なりともいふ、然れども今其人を詳にせず。
【上野甚太夫城墟】上野甚太夫は上野中務大輔の子なり、足利氏滅びてのち丹後に来り一色松丸に仕ふ。
 【付録】(牛頭天王、愛宕、荒神)


『今昔物語集』観音堂(宮津市上世屋)
丹後ノ国ノ成合観音ノ霊験ノ語第四
今ハ昔、丹後国ニ成合ト云フ山寺有リ、観音ノ験ジ給フ所也。其ノ寺ヲ成合ト云フ故ヲ尋ヌレバ、昔シ、佛道ヲ修行スル貧キ僧有テ、其寺ニ籠テ行ケル間ニ、其ノ寺高キ山ニシテ、其ノ国ノ中ニモ雪高ク降リ、風嶮ク吹ク。而ルニ、冬ノ間ニテ、雪高ク降リテ人不通ズ。而ル間、此ノ僧、粮絶テ日来ヲ経ルニ、物ヲ不食ズシテ可死シ。雪高クシテ里ニ出デ、乞食スルニモ不能ズ、亦、草木ノ可食キモ无シ。暫クコソ念ジテモ居タレ、既ニ十日許ニモ成ヌレバ、力无クシテ可起上キ心地セズ。然レバ、堂ノ辰巳ノ角ニ、簑ノ破タル、敷テ臥タリ。力无ケレバ木ヲ拾テ火ヲモ不焼ズ。寺破レ損ジテ風モ不留ズ、雪・風嶮クシテ極怖ロシ。力无シテ経ヲモ不読ズ、佛ヲモ不念ゼズ。「只今過ナバ、遂ニ食物可出来シ」ト不思ネバ、心細キ事无限シ。
 今ハ死ナム事ヲ期シテ、此ノ寺ノ観音ヲ「助給へ」ト念ジテ申サク、「只一度、観立ノ御名ヲ唱フルソラ、諸ノ願ヲ満給ナリ。我レ、年来、観音ヲ憑ミ奉テ、佛ノ前ニテ餓死ナム事コソ悲シケレ。高キ官位ヲ求メ、重キ罪報ヲ願ハゞコソ難カラメ、只今日食シテ、命ヲ生ク許ノ物ヲ施シ給ヘ」ト念ズル間ニ、寺ノ戊亥ノ角ノ破タルヨリ見出セバ、狼ニ被敢タル猪有り。「此ハ観音ノ与給フナリ。食シタム」トト思ヘドモ、「年来・佛ケヲ憑ミ奉チ、今更ニ何デカ此ヲ食セム。聞バ、『生有ル者ハ皆、前生ノ父母也』ト。我レ、食ニ餓ヘテ死ナムト□□□肉村屠ブリ食ハム。況ヤ、生類ノ肉ヲ食人ハ、佛ノ種ヲ断テ、悪道ニ堕ツル道也。然レバ、諸ノ獣ハ人ヲ見テ迯去ル。此ヲ食スル人ヲバ、佛モボサツモ遠ク去リ給事ナレバ」、返々ス思ヒ返セドモ、人ノ心ノ拙キ事ハ後世ノ苦ビヲ不思ズシテ、今日ノ飢へノ苦ビニ不堪ズシテ、剱ヲ抜テ、猪ノ左右ノモモノ肉ヲ屠リ取テ、鍋二入テ煮テ食シツ。其ノ味甘キ事无並シ。飢ノ心皆止テ、欒キ事无限シ。
 然レドモ、重キ罪ヲ犯シツル事ヲ泣キ悲テ居タル程ニ、雪モ漸ク消ヌレバ、里ノ人多ク来ル音ヲ聞ク。其ノ人ノ云ク、「此ノ寺ニ籠タリシ僧ハ何ガ成リニケム。雪高テ人通タル跡モ无シ。日来ニ成ヌレバ、今ハ食物モ失ニケム。人気モ无キハ死ニケルカ」ト、口々ニ云フヲ、僧聞テ、「先ヅ、此ノ猪ヲ煮散タルヲ、何デ取リ隠サムト」思フト云ヘドモ、程无シテ、可為キ方无シ。未ダ食ヒ残シタルモ有リ。此ヲ思フニ、極テ耻ヂ悲ビ思フ。
 而ルニ間、人々、皆、入リ来ヌ。人々「何ニシテ日来過シツルナド」云テ、寺ヲメグテ見ルニ、鍋ニ檜ノ木ヲ切リ入レテ、煮テ食ヒ散シタリ。人々、此レヲ見テ云ク、「聖リ、食ニ飢タリト云ヒ乍ラ、何ナル人カ木ヲバ煮食フ」ト云テ、哀レガル程ニ、此ノ人々、佛ヲ見奉レバ、佛ノ左右ノ御モモヲ新切リ取タリ。「此レハ、僧ノ切リ食ヒタル也ケリト、」奇異ク思テ云ク、「聖リ、同ジ木ヲ食ナラバ、寺ノ柱ヲモ切食ム。何ゾ、佛ノ御身ヲ壊リ奉ル」ト云フニ、僧、驚テ佛ヲ見事ルニ、人々ノ云ガ如ク、左右ノ御モモヲ切り取タリ。其ノ時ニ思ハク、「然ラバ、彼ノ煮テ食ツル猪ハ、観音ノ我ヲ助ケムガ為ニ、猪ニ成リ給ヒケルニコソ有ケレト」思フニ、貴ク悲クテ、人々ニ向テ事ノ有様ヲ語レバ、此レヲ聞ク者、皆、涙ヲ流シテ、悲ビ貴ブ事无限シ。
其ノ時ニ、佛前ニシテ、観音ニ向ヒ奉テ白シテ言サク、「若シ、此ノ事、観音ノ示シ給フ所ナラバ、本ノ如クニ□□□申ス時二、皆人見ル前へ二、其ノ左右ノモモ、本ノ如ク成□□□。人皆、涙ヲ流シテ□泣悲ズト云フ□□□。此ノ寺ヲ成合ト云フ也ケリ。
其ノ観音于今在ス。心有ラム人ハ必ズ詣デ、可礼奉キ也トナム語リ傳ヘタルトヤ。

『両丹地方史』(S39.12.30)上世屋にて
亡びゆく村々を思うて
宮津市 岩崎英精
 前略。本日これから申しますことは、他の諸先生方のようご研充発表ではありませんで、実は私どもの位に奥丹後地方に、ここ数年来ひきつづいておこりつゝある恐ろしい現象、それは幾百千年の歴史ある山村が、次ぎ次ぎと潰れていくという事実につきまして、これはやがて全国的にひろがる性質の現象でもありますので、この際ぜひとろ皆さん方に絶大なるご関心をいただくよう、お訴え申し上げたいものであります。
ご承知のとおり、かって徳川時代によくみられた「逃散−ちょうさん」ということ、すなわち村中が先祖伝来の故郷を捨てて一夜のうちに住民が離村して村が潰れてしまうという事実、その「逃散」が昭和の今日、自民党政府の政治のなかで、あちらにもこちらにもみられる現象なのであります。私はこの事実を「現代的逃散」と申しておりますが、実に白夜堂々と「逃散」が行われ、しかも徳川時代のように「強訴・徒党・逃散」といって、幕藩による圧制への抵抗としての犯罪ともみられないで、政府も地方行政体もほとんどとこれという対策もないままに、住民は村を見捨てて離村してしまうのが、まことに現代的逃散にみられる特長であります。
 そこで私共の住む奥丹後地方で すでに亡びてしまった村々をあげますと、左のような実状でありまして、なんとも言葉にもあらわしえぬようなひどい有様であります。その村々こいうのは…
宮津市。旧日ヶ谷付の牧、旧世屋村の麻谷・松尾・駒倉・旧府中村の西谷・東谷。
与謝郡。伊根町旧筒川村の田坪・吉谷。
竹野郡。丹後町旧豊栄村の力石・旧宇川村の竹久僧・旧野間村の住山・小杉。
といった実状でありまして、これらはいずれも現在潰れた旧藩時代の村々であり、町村制施行後は大字部落乃至小字であります。
 いま申し上げた村々は例外なく山村、丹後半島の屋根といわれる五〇〇メートルから七〇〇メートルの山々に囲まれた山村でありますが、この幾百千年の歴史に生きてきた村人が、先祖代々の墓をはじめ、苦心して築きあげた家屋敷も、先祖代々の血と汗とで育ててきた田畑、さらに個人の、あるいは共同の山林原野までも見捨てゝ、これらがいずれも経済的生産の価値を失って、まさに自然にかえってしまっても、何処からも誰からも一円の金も補償してはくれないのであります。
 しかもなおこれらの人々は村を棄てゝ出てゆくのでありますが、その出てゆかねばならぬ理由がどこにあるかと申しますと、それは「もうこの村ではとても生活が成りたたないから…」という一語につきるのであります。ある週間雑誌や新聞には昨年の豪雪に将来を絶望して出るんた…などと書いていたのもありますが、この人々は断じて単なる豪雪、一年や二年の大雪でヘコタレたのでは決してありません。楽しい生活、平和な暮しができるのなら、こうして先祖伝来の村を捨てるでしょう、もっとも多少の時代的影響はありましても、断じてこれらの村々が潰れるといった現象はおこらないはずであります。
 いわば、そこには豪雪よりも台風よりも、もっともっと恐ろしい現代的飢餓が彼ら村人をおそい、日夜ひしひしとその苦しみが肌にせまってくる昨今の生活、この怖ろしい現代的飢餓にたえられなくった人々が個々にまた集団で、村々を見捨てゝ出てゆき、そうして村は潰れ亡びるのであります。
 ではいったいその怖ろしい現代的飢餓とはどこからきたのでしょうか、それは戦後の生活環境の激変、ことに自民党池田内閣の「所得倍増政策」の結果でありまして、独占的な資本のみにはほゝえむ所得倍増政策こそは、豪雪よりも台風よりも怖ろしい飢餓の波であり、こゝにこそ現代的「逃散」は当然におこるべくしておこりつゝあるのであります。
 おそらく以上申し上げた村々だけが亡びたのではなく、きっとこれからもどしどしと亡びる村が出るでしょうし、これはやがて全国的規模において現われる前徴であることも間違いないと思うのであります。
 さて私が皆さんに訴えて、お願いしたいことは、ここであります。私はここで政治を語り、社会経済を云々しているのごはなく、このようにして潰れ亡びる村々と、その村々をつつむ村や町や市の、その歴史の変化を、この際ぜひとも強い関心をもって見守り、お互に地方史を目標とするものが協力して、私たち現代人の責任においた、後世の若い人たちに誇りをもって引継ぎうるような歴史を明らかにすべきだと思うものであります、どうかこの歴史の激変期に、ぜひとも皆さん方と共に、進ませていただきたいものであります。                (完)




上世屋の小地名


上世屋
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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