丹後の地名

駒倉(こまくら)
宮津市


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京都府宮津市駒倉

京都府与謝郡世屋村駒倉




駒倉の概要



 市の北部で、上世屋の西。山村であったが現在は廃村。世屋谷の最西端、宇川の源流部に位置する。
駒倉村は、江戸期〜明治22年の村名。「慶長郷村帳」の世野村のうち。はじめ宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。村高は「延宝郷村帳」50石余。
寺はなく、護念寺の旧跡である道場で、春秋に宮津仏性寺の住持を招いて1年の供養をした。当村には平忠房の縁故をたより平家の落武者矢野弾左衛門が隠れ住み、のちそれが発覚し一族とも処罰されたという伝説があり、平家の赤旗を伝存するという。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同21年の戸数46。同22年世屋村の大字となる。
駒倉は、明治22年〜現在の大字名。はじめ世屋村、昭和29年からは宮津市の大字。

《駒倉の人口・世帯数》0・0

《主な社寺など》


《交通》
駒倉への道
↑上世屋側から行くとこんな道、左は林道成相寺線、右の道を行くのだそうだけれども、私の車ではムリとみて行くのをやめた。丹後の山の中はこんな道ばかり、対向車があればどうにもならなくなりそう−−

《産業》

駒倉の主な歴史記録

『丹哥府志』
◎駒倉村(上世屋村より入る)
昔平重盛の子忠房丹後守に任ぜらる、故を以て平家残党丹後の走るもの多し、木子、駒倉の二村は矢野弾左衛門のかくるる所なり、此處は誠に人跡不到の地ともいふべき處なれば初の程はかくるる事を知るものなし、一日市場へ塩を買ひに出たるものあり、其風体怪しげなるより跡を認めて栖家を窺ひ其由を訴ふ、於是縣官より軍兵を遣し尽く亡さしむ、弾左衛門の子二人皆髪を剃って親鸞上人の弟子となり免る事を得たり、兄を教念といふ弟を祐念といふ、庵室を結びて居之所謂護念寺(蟻巻名號の縁起に、木子村の西北に護念寺といふ寺あり其寺山の奥に平家の残党かくれ住といふ、恐らくは非なり、教念、祐念の結びし庵室を名付て護念寺といふなるべし)是なり。
【道場】抑護念寺といふは何れの頃にや廃寺となりし慥と明かならず、されども木子、駒倉の二村は元一村の分れて二村となるなれば其分るる初め護念寺を分けて各村に道場を建たるべしされば東西本願寺の例に習ひて南北護念寺といふとかなり、更に僧徒の住するなし春秋両度宮津仏性寺の住持ょ招きて一年の供養をなす、常には村人相集りて宗旨を話し互に涙をたれて礼拝す、主意尋常の僧に勝る。
【平家の赤旗】(道場の宝物、出図)(註)赤色地に白線抜きのものなり。
矢野弾左衛門より伝へて今に至る、中古切て打敷にしたれど、誰がいふとなく珍敷物なる事を悟りて又縫繕て元の如くなす、全く存するものにはあらねど、何分古き物なれば観るに足る。

『両丹地方史』(S39.12.30)
亡びゆく村々を思うて
宮津市 岩崎英精
 前略。本日これから申しますことは、他の諸先生方のようご研充発表ではありませんで、実は私どもの位に奥丹後地方に、ここ数年来ひきつづいておこりつゝある恐ろしい現象、それは幾百千年の歴史ある山村が、次ぎ次ぎと潰れていくという事実につきまして、これはやがて全国的にひろがる性質の現象でもありますので、この際ぜひとろ皆さん方に絶大なるご関心をいただくよう、お訴え申し上げたいものであります。
ご承知のとおり、かって徳川時代によくみられた「逃散−ちょうさん」ということ、すなわち村中が先祖伝来の故郷を捨てて一夜のうちに住民が離村して村が潰れてしまうという事実、その「逃散」が昭和の今日、自民党政府の政治のなかで、あちらにもこちらにもみられる現象なのであります。私はこの事実を「現代的逃散」と申しておりますが、実に白夜堂々と「逃散」が行われ、しかも徳川時代のように「強訴・徒党・逃散」といって、幕藩による圧制への抵抗としての犯罪ともみられないで、政府も地方行政体もほとんどとこれという対策もないままに、住民は村を見捨てて離村してしまうのが、まことに現代的逃散にみられる特長であります。
 そこで私共の住む奥丹後地方で すでに亡びてしまった村々をあげますと、左のような実状でありまして、なんとも言葉にもあらわしえぬようなひどい有様であります。その村々こいうのは…
宮津市。旧日ヶ谷付の牧、旧世屋村の麻谷・松尾・駒倉・旧府中村の西谷・東谷。
与謝郡。伊根町旧筒川村の田坪・吉谷。
竹野郡。丹後町旧豊栄村の力石・旧宇川村の竹久僧・旧野間村の住山・小杉。
といった実状でありまして、これらはいずれも現在潰れた旧藩時代の村々であり、町村制施行後は大字部落乃至小字であります。
 いま申し上げた村々は例外なく山村、丹後半島の屋根といわれる五〇〇メートルから七〇〇メートルの山々に囲まれた山村でありますが、この幾百千年の歴史に生きてきた村人が、先祖代々の墓をはじめ、苦心して築きあげた家屋敷も、先祖代々の血と汗とで育ててきた田畑、さらに個人の、あるいは共同の山林原野までも見捨てゝ、これらがいずれも経済的生産の価値を失って、まさに自然にかえってしまっても、何処からも誰からも一円の金も補償してはくれないのであります。
 しかもなおこれらの人々は村を棄てゝ出てゆくのでありますが、その出てゆかねばならぬ理由がどこにあるかと申しますと、それは「もうこの村ではとても生活が成りたたないから…」という一語につきるのであります。ある週間雑誌や新聞には昨年の豪雪に将来を絶望して出るんた…などと書いていたのもありますが、この人々は断じて単なる豪雪、一年や二年の大雪でヘコタレたのでは決してありません。楽しい生活、平和な暮しができるのなら、こうして先祖伝来の村を捨てるでしょう、もっとも多少の時代的影響はありましても、断じてこれらの村々が潰れるといった現象はおこらないはずであります。
 いわば、そこには豪雪よりも台風よりも、もっともっと恐ろしい現代的飢餓が彼ら村人をおそい、日夜ひしひしとその苦しみが肌にせまってくる昨今の生活、この怖ろしい現代的飢餓にたえられなくった人々が個々にまた集団で、村々を見捨てゝ出てゆき、そうして村は潰れ亡びるのであります。
 ではいったいその怖ろしい現代的飢餓とはどこからきたのでしょうか、それは戦後の生活環境の激変、ことに自民党池田内閣の「所得倍増政策」の結果でありまして、独占的な資本のみにはほゝえむ所得倍増政策こそは、豪雪よりも台風よりも怖ろしい飢餓の波であり、こゝにこそ現代的「逃散」は当然におこるべくしておこりつゝあるのであります。
 おそらく以上申し上げた村々だけが亡びたのではなく、きっとこれからもどしどしと亡びる村が出るでしょうし、これはやがて全国的規模において現われる前徴であることも間違いないと思うのであります。
 さて私が皆さんに訴えて、お願いしたいことは、ここであります。私はここで政治を語り、社会経済を云々しているのごはなく、このようにして潰れ亡びる村々と、その村々をつつむ村や町や市の、その歴史の変化を、この際ぜひとも強い関心をもって見守り、お互に地方史を目標とするものが協力して、私たち現代人の責任においた、後世の若い人たちに誇りをもって引継ぎうるような歴史を明らかにすべきだと思うものであります、どうかこの歴史の激変期に、ぜひとも皆さん方と共に、進ませていただきたいものであります。                (完)

『丹後の宮津』
木子と駒倉
 まづこの高原地帯の奥へつずく道をのぼりきると、その先に少しばかり坂があって、北の方へ心もちさがる道、約一キロあまりすゝむと、ひよっくりお寺の屋根がみえ、それから下へずっと草ぶきの民家がつずく。おまけにこの民家のぐるりは、五百メートルも高い山奥だなんて思えぬ田畑がとりまき、また家々には荒廃のかげが少しもなく、生活の安定さがうかがえる。−といった部落。ここが第一に目ざす「木子」なのである。お寺一ヶ寺、真宗で教念寺といい、民家三十九戸、小学校一校、部落電話一本、田畑一戸平均八反から一町歩あまり、いうまでもなくここも宮津市で、電灯もつき、道路は意外に立派で、ジープなら充分のぼりうるし、時にトラックもはいってくるという便利さである。でも、わずか二十ケ年前までは、木子だなんていうと、町のものはとうてい一生のうち、そんなところへは行けそうにも思えぬ僻地だったのである。ことに教育関係では、今日でも僻地教育のモデルケースとして、いつも問題になるところであり、おまけにそのむかし、先祖たちは平家の落人としてひそかにここへかくれたものの、教念寺とはその先祖の一人がひらい親らん上人へ帰依の道場であった。そしてこれにちなむ伝説や遺跡・遺物。これらのことは、この木子から南へ約一里余の「駒倉」部落もほぼおなじで、ここは戸数約三十戸、これがすべてやはり平家落人の伝説を信じている。村の人にたのんで、落人伝説にからむ遺蹟「なべぶち」をたずね、教念寺の住職に寺と村との関係などを話してもらい、四囲のありさま、生活の実状などは小学校の校長に聞きなどしていると、どうもいままでに感じない異境の思いがして、なにか異教徒が地下へもぐり込んだとでもいったとまどいがするのである。次ぎの「ガラシャ夫人遺蹟」をたづねかたがた、少しの時間的余ゆうをみて、ここまで一寸足をのばすことができれば、おそらくこの日のハイキングは、いつにない満足感をえられるにちがいない。




駒倉の小地名


駒倉
イシクラ コヤノ谷 八谷 クカゼ イラジク アワト ナナラ谷 四ツ町 ワサダ 谷田 ヤナギワラ オカダイ子グチ フルツンド オオナル イネグチ ハルノキクラ ミスヒ ムカイ山 カワメ タナダ ゼコダ シタサガ マツガハナ エノシタ キリノ木カワラ タキノクチ 家の下 カワラ タノクゴ 家のシリ タゴクゴ ナカジマ スミガマ ヲリト ヒロ畑 ムカイ タテミチ ミカイ ミヤウモク カドンナリ 木ノキ ナク畑 ヤナキ谷 ナカイダニ ヲキハノ谷 タキクキ 入スミ谷 ヲリサガ 谷 イワジタ ヘゴ ヘゴサガ サガ畑 ヲヲタキ タキカマヘ ヲヲイワ タキノシリ ユリ キワダ ヱンタ イシノコ ヲテ山 タキガ谷 ニダニ タキガ谷坂 スガ町 ナガリヲウ タデイケ フネガタユダ カクシヨ谷 ヲノマツ 大松 コマクラ谷 フナキゴ ヨコウ スミノヲカ フナギコ ヲテ イワネ ミツノヲリ イケ町 松ケ鼻 ミタサガ フネガト ?《しんにゅうに非》山 大シモ 岡田 イシワラ カツト ナメラ谷 ゼンダ ヰリノ木川ラ 川ラ ノンタザガ 家ノ下タ 川原 タノクゴ 家ノシク 中ジマ スミカマ ミヤウモリ ミヤウモウ ムクイサガ ムカイサガ ナリ畑 ナカノダビ ヲキリ タキワキ アヲダラ タキツキタニ ヘゴザガ サカ畑 ヘゴサカ ヲゝダキ ヲゝイワ タキガマエ オゝイワ タキノンリ ヲニノ山 ヱダ ヲロバタシミズ ハリタテ ヱナカ 寺ノ上 サカイキ畑 ダテ マウワラ 家ノ山 ミスノヲク ミズノヲク ダケ ミヅノラク セヤミチ イケサガ ヲカ ダイド 谷ジ サイシウザナル タニジ ヲカサキ シタミチ ヲクヂ ヲゝナル ナメラ谷 ナカノクビ ナスミ谷 サカ池 ヲコ畑 マツクラ 水奥 コヤノナル 石ハラ 入谷 タカゼ クラ尻 水ヒ 菖蒲原 中尾 打畑 柳原 下谷 コウラ ゲトウジ ハカノ尻 大橋 大タキ 柳原谷 ワク畑 イヘノシリ ヲサキ 大岩 大ダキ キワ畑 水河原 石ノマ コ田 ヲロ畑 駒倉谷 松原 ヨコヲ ダヂイケ 向井

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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