丹後の地名

木積神社
こづみじんじゃ
与謝郡式内社


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木積神社の概要


 木積神社は与謝郡内にいくつかある。一宮の籠神社でも、カゴと読んでもこれほどにはない、与謝郡の古代と深い関わりありそうな何か特殊な大きな勢力あった神社かと思われる。古代を考える場合は外せない神社のように思われる。
延喜式神名帳に、木積神社。
「室尾山観音寺神名帳」の「与謝郡六十八前」に、従二位 木積明神。

この式内社がどこにあって、どうした歴史を持つものかは、諸説がある。しかし木積神社がどうした歴史をもつものかの検討はされておらず、木を積んだ樹木の神様だろうとくらいにしか知られていない、性格の検証を欠いた比定論議は不毛であろう。
『与謝郡誌』は、「丹後国式社証実考には「明石村、岩ヶ鼻村、中郡皇住村同郡主基村ナドノ説区々ナレドモ何レノ村モ何ノ由緒モ見当ラズ」とあり、是非未だ断ずべからす、」としている。

私は木積とは物部一族の穂積氏と考えているのだが、一応はこれらの神社を見ていこう。



   日吉神社(宮津市岩ヶ鼻)

宮津市日ヶ谷から岩ヶ鼻へ流れる犀川は、かつては木積川と呼ばれていたという(養老村誌)。
犀川(岩ヶ鼻)
この川の河口、岩ヶ鼻にはかつて伊根荘一宮と呼ばれた山王神社(日吉神社)があるが、その日吉神社は江州坂本日吉神社から勧誘したと伝え、もとは日ヶ谷にあったが、天文18年に隣村の外垣にあった木積神社と合祀して現在地に移したという。岩ヶ鼻・日ヶ谷・外垣・大島、日出・高梨・平田・大原の伊禰庄八ヵ村の産土神であった。
かつて日ヶ谷には山王社別当の真言宗威光寺があったが退転し、その後威光寺の後身といわれる臨済宗天長寺が社前で大般若経を転読した。天長寺所蔵の大般若経はもと山王社に伝来したもので、康和2年(1100)のものを最古としている。この社は一説に与謝郡式内社・木積神社とされる。
日吉神社(岩ヶ鼻)

威光寺趾 日ヶ谷村本村小字森ノ上三百九番地明神の社と云ひ明治八年の調査の当寺玉樟巨幹一丈七尺廻あるよし記載せるが隣接地を森の上と云ひ、三百十番地九畝二十三歩之れを威光寺の最古の屋敷と伝ふ。明治十六年同村大火の爲めに明神祠及巨樟ともに焼失し今稚芽あり。其後稍東南方第百十七番地乃至百二十二番地に移転せしと云ふも其の年暦を詳かにせず、台帳面積約二反歩の地を今威光寺と字名せり。同村天長寺は縁起によれば天平年中の并創にて當初眞言宗なりしも天長年中に今の地岡の尾に移転し年號を取りて天長寺と改め同時に禅宗に改めたりとあるも、(禮紀編寺院の部参照)奈良朝時代未だ真言宗と命ずべきほどの宗旨なく又平安初期には未だ禅宗なければ、たとへ縁起の説と雖も探るべからず然らば何時今の地に移転改宗を為したりやと云はゞ斯は遽かに知りがたきも、天長寺所蔵の大般若経写本六百巻の中約半数の巻尾に「伊根庄一宮山王宮大般若経享徳二酉年威光寺沙門翌算修補」の記事あれば、真言宗威光寺は享徳二年には岩ヶ鼻の山王権現と共に猶ほ榮えたるを知るべし。恐らく元禄再興といへる時が比の過渡期ならん。而して山王権現は一説に延喜式の木積神社なりと云ひ、同社もと日ヶ谷にありしを嘉吉の洪水に流れたりとて前記森ノ上明神はその故地なりと伝ふ。斯かる縁故に由り岩ヶ鼻なる日吉神社の旧霊代は今日ヶ谷村の天長寺に一部分を奉安せるが就て検するに近州山王日吉二十一所権現の内、中七所中の王子宮権現の霊代と下七所中の気比宮権現の本地佛観昔の金像となり、如何にしたりけん他を逸す。
(『与謝郡誌』)

与謝郡の北側のずいぶんと広い範囲を氏子圏、勢力下におく神社であったようである。


  木積神社(与謝野町弓木)

岩滝町弓木の少し小高い板列山の山裾に鎮座している。木積大神と三輪大神が合祀されている。
木積神社(弓木)

木積神社(弓木)

現地の案内板
延喜式内社
木積神社(旧郷社)木積神社(弓木)案内板
(鎮座地) 与謝郡岩滝町字弓木小字石田宮ヶ谷
(祭 神) 五十猛神(天照大神の弟、素盞嗚尊の子
      大物主神「素盞嗚命尊の子、大国主神の別名)
(由緒、沿革)
 当神社は「木積山王宮」とも云われる。創立は平安時代醍醐天皇の御代、延喜二年(九〇二年)の勅により全国各地における崇敬篤き神社を選び「延書式内社神名帳」が作られ当神社はその中で官幣小社として載せられており、よってその創立はそれ以前と考えられる。しかしその後の罹災等により建築物社記、古文書等を消失したため、その沿革等を詳しく知ることはできないが、現存する古文書「丹後国式内杜取調書」「山王宮社再建寄進帳」によると、天明六年丙午八月(一七八六年)に再建され、その後昭和一五年社殿改築がなされ現在の神域となっている。
 また「三輪神社・祭神大物主神」については、創立年代は不詳なれど、慶応四年四月の記録に「山王大神・祭神大物主神」とあり、明治二年六月一七日「三輪神社・祭神大物主神」と改号され「木積神社」に配祀されている。
 「木積神社」「三輪神社」共に、樹木、木材家屋・医薬治療、延命息災、国土経営、家運隆昌の祖神として、古くから氏子はもとより、歴代藩主を始め広く世人に崇敬されている。
(社宝)
  中務卿有栖川宮殿下御筆「木積山王大神」神号
  狛犬(石造)  二体
  石灯籠    二基
  宝篋印塔   二基
(例祭)
 四月三〇日  神幸祭
 五月一日   還幸祭
  神事として「神楽」「太刀振り」「ささばやし」を奉納する。
平成十三年四月吉日  弓木区・石田区


三輪神社は、『室尾山観音寺神名帳』「与謝郡六十八前」に、「従二位 三和明神」とあって、ほかには知られていないのでこの社と思われる。
『丹後風土記残欠』に、舞鶴市瀬崎に「石崎坐三輪社」が見えるが、『元初の最高神と大和朝廷の元初』によれば、この社は与謝郡へ遷座したという。瀬崎には八幡神社に合祀されたかたちだが、しかし今もその祠が残されているという。堂奥の山口神社境内にも三輪神社があり、舞鶴には瀬崎のほかにもあったと思われる。
『神社旧辞録』は、「八幡神社 祭神 誉田別尊・大物主命・菅原道真  同市字瀬崎。祭神大物主命は大和三輪神社の主神・物部氏の斎く大神という。この社は風土記の石崎里三輪社であって、後に他社と合祀なる事は左記によっても判る。旧語集に、正八幡社氏神、又別に三輪明神社有りと」としている。
すべて正しい記録なら、ここの三輪神社は舞鶴市瀬崎から遷座したものかも知れない。神社だけが遷座したのではなく、この神を祀る人々が移ったのであろう。何を求めて移住したのであろうか。


『岩滝町誌』は、
参考文献
一、「丹後国式神証実考」(大原美能理)
     木積神社
 当社ハ丹後旧事ニ木積山丹波郡主基村云々トアル、同書ニ皇住村ト云フアリ、皇住村ノ西ニ当リ木積峠ト云フアレド古説モ旧記モ根拠ナク、且ツ竹野郡界ニテ取リガタシ。
 岩ケ鼻王社ト云フ説アレド、同社ハ江州日枝ヨリ遷スト云へバ木積神社ニアラズ。明石村ノ山王トモ云フ説モアレド之モ同様ナリ。
 石田分ニハ貞享五辰(一六八八、元録九年)三月譲渡証文ニ「木すみの山東云々」トアリ是一ノ証ナリ。
 社伝記ニ少シ根拠アルヲ以テ豊岡県ニテ当村ニ決シタル也。
二、「丹後国式内社取調書」(京都府)
     木積神社
  (頭註)(覈)皇住村(明細)弓木村祭日八月朔日(道)岩ケ鼻村)。石田村山王社卜云フハ誤リナルベシ
(式考)丹後旧事記ニ木積山丹波郡主基村云々トアリ、又同書ニ皇住村卜云フアリ、皇住村ノ西ニ当り木積ト云フアレド古説モ川記モナク拠ナシ、 且ツ竹野郡界ニテ取リガタシ、岩ケ鼻村山王社ハ江州日枝ヨリ移スト云へバ木積神社ニアラズ。石田村ハ貞享五年辰三月譲渡証文ニ木すみ山ノ東云々トアリ是一ノ証ナリ。(豊)弓木村字宮ケ谷五十猛例祭九月十一日。
三、「特選神名牒」(教部省)
 木積神社、  祭神  五十猛命
 祭日  九月十一日  社格 村社
 所在  今按豊岡県取調記に弓木村とし、神社譲録府中男山村と見え道志流に岩ヶ鼻村とし、石田村山王社と云うは誤りなるべしと云ひて流説一定せず。
四、「大日本神祇史」(徳川侯爵家)
 木積神社    
 今在二弓木材宮谷一  伝言記ニ五十猛神一     配二大物主神一(土人説)
五、日本地理資料」(邨岡良弼編)
 木積神社   在二弓木材宮谷一祀二五十猛神一
六、「与謝郡誌」(大正十二年与謝郡役所刊)
 木積神社
 岩滝町字弓木小字石聞宮ケ谷鎮座、指定村社、祭神五十猛命、大物主命、由緒不詳、丹歌府志には延喜式内阿知神社を当社と比定し式内木積神社を中郡五十河村久住に掲ぐ、蓋し当社もと山王権現と云い、大和国三輪より勧諮し、三輪神社とも云う。
 宮津藩寺社名前御取調帳に弓木三輪社島谷佐渡の条兄ゆ。式内木積神社を久住に比定さるは丹後旧事記、丹後一覧集、丹後細見録皆然り、この外丹後国式社証実考には「明石村、岩ケ鼻村、中那丹住村同郡主基村ナドノ説区々ナレドモ何レノ村モ何ノ由緒モ見当ラズ云々」とあり、是非未だ断ずべからす、社殿、舞殿、神輿蔵、社務所等備はり、境内末社稲荷、猿田彦、速玉緒社あり、氏子二百三十戸。明治六年二月村社に列せられ、大正九年二月三日神撰幣帛料供進指定。祭神五月一日。
七、「京都府神社略記」(昭和八年京都府神職会)
 村社  木積神社  岩滝町字弓木
 祭神  五十猛神、大物主神
 例祭  四月三十日
 以上が参考文献の主なるもので、この外延喜式所載の木横神社を他郡付(中郡久住村)に比定した文献に田中棋柏の「丹後旧事記」、山根道択の「丹後一覧集」、編者不詳の「丹後細見録」、佐治正道の「丹後国式内五社垂迹本源考」などが維新前にあり、維新直後、いわゆる、式社詮索時代に、今城道択の「丹後式内神名改」、鈴鹿連胤の「神社覈録」、荒川政鳳の「丹後国式内神社考案記」、明治晩年に下って吉川東伍の「大日本地名辞書」もそれであり、はっきりと所在を書かないものに出口延経の「神名帳考証」、栗田寛の「神社志料」、近藤瓶城の「丹後国官社誌」などがあるけれどもこゝではそれ等の凡てを省略するが、明治維新後、与謝郡が京都府の管轄になる前に豊岡県で既に石田と決定したのだから今は論議の外にしておく。

三輪神社の本社は大和の三輪山の麓にある大和一宮、三輪神話でおなじみの「大蛇」を祀り、似たような神話は丹後も各地にあるし、また元伊勢とも関係してくる物語がある。
崇神は天照大神と倭大国玉神の2神を祀っていたが、国内疫病災害が多く国が治まらないうえ外国も背く、大国玉神を大事にしなかったからの原因で大和を追い出されたのが皇祖神・天照大神で、のちに各地をさまよって元伊勢の伝承を残すことになった。
穂積臣の遠祖などが夢見たように、太田田根子を祭主として大物主神を祀らせ物部連の祖・伊香色雄を班物者して祀ると治まったという。三輪神社はイカガ、物部、穂積などが斎祀る在地の神であった、穂積郷はこのあたりにある、この神域から追い出されたのが侵入者であった皇祖神の天照大神であった。

山王宮と呼ばれる神社が各地にあるが、一般には山王宮は近江の日枝(日吉)神社とされ、後に日吉神社などと改称されたりしている。しかしその日枝神社は、日枝山(比叡山)の神である「大山咋神」を祀っていたもので、後に近江京遷都の翌年に大津京鎮護のため大和国三輪山の大物主神を勧請し共に祀られ2神を同体としている。より古くは大物主神も山王神と呼ばれていたという。
山王宮あるいは日吉神社と今は呼ばれているものも、あるいは本当はより古い三輪神社かも知れないことになる。物部、穂積が関係していたかも知れない歴史を考えてみる必要がありそうに思われる。

HとKはよく入れ替わることが知られている。穂積が木積になることはあり得る。穂積は稲穂を積んで祀った風習を言うとも言われるが、それは漢字から推測したものであろう、漢字で判断できればそんな楽な史学はなかろうが、たいていはそうしたものとは限らない。
ワタツミ、ヤマツミと言うように、ホ(火)ツ(の)ミ(神)ではなかろうか、その火は金属を溶かす火ではなかっただろうか。金属を精錬する火の神を祀る集団であったのかも知れない。

『白鳥伝説』に、
東奈良のすぐ近くに穂積の地名があり、また豊中市の桜塚の近くにもおなじく穂積という地名のあることである。これを偶然の一致と考えることができないのは、四日市市の伊坂町(旧三重郡八郷村)から銅鐸が出土しているが、かつての八郷村は伊勢国穂積荘で、式内社の朝明郡穂積神社があることからでも分かる。また東大阪市の石切剣箭神社の近くの鬼虎川遺跡から銅鐸の鋳型が出土している。そして石切剣箭神社の祭司は古くから穂積氏(現在は木積氏)がつかさどっている。いずれにせよ、物部氏の同族である穂積氏が青銅器の精錬、とくに銅鐸や銅鏡の製作に関連をもっていたことが察せられるのである。

何もかもを一度に言ってくれているような文章だが、ついでに書いておけば、石切剣箭神社の北、1qくらいの場所がクサカで、日下神社がある。この一帯は物部氏の聖地で本貫地であった。
蓼津に上陸した神武が胆駒山(別名・クサカ山)を越えて大和に入ろうとし、孔舎衛(くさえ)坂で長髄彦と戦った話があるが、当時はこの麓まで海であった、日下には貝塚も発見されている。
石切剣箭神社は式内社(河内国高安郡二座・小)で、天つ神から十種の瑞宝を授けられ、天磐船に乗って河内国河上の哮峰に天降った饒速日命と、その御子・可美真手命の2柱を祀る、神武よりも先にこの地に天降ったわけで、その哮峰(いがるがのみね・たけるがのみね。生駒山か)に元々は鎮座していたという。
同社の世襲の祠官は、物部氏の一族、というか超重鎮氏族で、あるいは物部本宗家かも知れないが、穂積氏であって、のちに訛って功積氏、さらに木積氏となったという。
穂積→木積の実例が、本貫地でも見られる、こうしたことから、木積神社とはのちの転訛で、本当は穂積神社でなかったかと私は推測するわけである。物部神社と似たものと見ていいと思われる。


ここの木積神社は、裏山の大内峠一帯はもとより板列山系の広い範囲を勢力下においた神社だったかも知れない、成相寺山はツヅミヶ嶽というが、コヅミヶ嶽だったかも知れない。舞鶴が元の地の三輪神社ものちに合祀したかも知れないが、同族だったと思われる。


  日吉神社(与謝野町明石)

桑飼小学校の正門の向かいに鎮座する。先端に蛭子山古墳のある大江山からの支脈上にあって、裏山を木積山といい、ここには木積神社もある。
周辺は全国的に有名なすごい遺跡や古墳と名神大社などが目白押しの地の扇の要の位置に鎮座している。
日吉神社(明石)

日吉神社
 桑飼村字明石小字藤野、村社、祭神大山咋命もと温江の木積山にありしを元慶年中慈徳院の権管禅老此に移せしといふ。當社式内木積神社なりとの説あるも徴證なし、宝暦甲戌閏二月再建明治六年村社に列せらる、氏子三十戸、境内末社若宮…
(『与謝郡誌』)

日吉神社 明石小字藤野
 大山昨命を祭る。
 この神は山城、丹波の開拓を行ったといわれ、土木、建設の神として尊崇されている。なお、造酒の祖ともいう。
 八八八年(仁和四年)、時の臨済宗慈徳院の住職が温江小字木積山の元宮を現在地に移したのがその初めで、一七五四年(宝暦四年)二月に再建された。境内に若宮社がある。
(『加悦町誌』)

大江山の西麓一帯を勢力下に置いたものか。



  木積神社(京丹後市久住)

木積神社が鎮座する久住は以前は五十河村の大字であった。その五十河は伊香賀色雄命のイカガである。穂積氏の祖、物部氏の祖である。木積神社は遠祖の伊迦賀色許男命を祀るものであったのかも知れない。
穂積氏は一般には、『先代旧事本紀』に、「大水口宿禰命。穂積臣。采女臣等祖」、『日本書紀』に、「穂積臣遠祖大水口宿禰」とあり、伊香賀色雄命の子・大水口宿禰を祖とすると伝える。
『新撰姓氏録』左京神別に「穂積朝臣。石上同祖。神饒速日命五世孫。伊香色雄命之後也」、「穂積臣。伊香賀色雄男。大水口宿禰之後也」とある。

そうした氏族と関係のある地名と見られる。久住は早くから丹波郡に属した地であったが、より古くはこのあたりも与謝郡であったといわれている。
木積神社(京丹後市久住)

元々からこの地に鎮座していたわけではない。南西に木積山があるので、ここにあったのではないかと思われる。
木積神社(元村社)久住小字中ノ谷
祭神 億計命・弘計命・大山祗神
当社は「延喜式神名帳」には、三重神社とともに与謝郡内にある。「丹哥府志」に「木積神社(延喜式には与謝郡の部に出す)木積神社今新熊野宮と称し億計・弘計の二皇孫を祀る。俗に高森大明神、三島大明神といふ。億計弘計の二皇孫爰に住居せられしより村を皇位村といふ。」とある。二皇孫は履中天皇(四〇六−四一一)の皇孫億計計・弘計の二王で、三重の長老五十日真黒人の家に隠れていたといわれる。
「丹後旧事記」に「木積神社皇住村祭神弘計尊億計尊延喜式小社」とあり「御料所内記」にも「木積神社式内三島大明神祭一〇月一二日久住村」とある。なお、祭神大山祗神は山の神である。
 木積神社の名の由来木積山は、周枳・明田・久住・河辺にまたがる山であり、久住の地は延喜の代には三重郷として与謝郡に属していた。
 当社は刈安(かりやす)の奥宮に鎮座の後、刈安の宮現在の古久住(こくすみ)口に移った。久住の村落が南の地に移動したので、弘化四年(一八四七)八月に現在地の中ノ谷に遷座した。古久住口の元地には、石を並べた階段の跡地が残っていたのが確認されていたが、昭和五五年の農地圃場整備事業により五六年三月に土砂により埋没されてしまった。
 式内社としての当木積神社は、「丹後国式内神社取調書(京都府蔵)」によると、明治の初めに、当地方が属していた豊岡県によって、岩滝町弓木小字石田の山王権現に移され、式内社木積神社と称されている。
 なお、延利の高森神社の祭神は「中郡神社明細帳」には不詳となっているが、安置されている神像は、当社の祭神の二皇孫の一体であると伝えられていることは、高森神社の項で前述した通りである。
(『大宮町誌』)


  木積神社と億計王・弘計王の伝説

これら木積神社にはなぜか、オケ・ヲケ二皇子の伝説が伝わる。
紀によれば、
安康天皇3年に父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、億計王(後の仁賢天皇)と弟の弘計王(後の顕宗天皇)は共に逃亡して身を隠した。日下部連使主とその子吾田彦は、二人をまず丹波国余佐郡に隠した。後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子と称した。縮見屯倉首(忍海部造細目)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。 同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位を譲り合い、その間飯豊青皇女が執政した。
記では丹波へ逃れたの記録はなく、直接播磨へ逃れている。
二王子御潜在趾 安康天皇の朝丙申天皇崩し給ふや其の十二月履仲天皇の皇子市辺押磐尊雄略天皇の爲めに蚊屋野に害せられ給ふや其の臣日下部使臣億計弘計二皇孫を奉じて與謝郡に難を避け給ひ、更に播州赤石郡縮見の屯倉に遁れ給ひしとて、與謝村字與謝小字峠の上王子宮は億計尊小字北の下王子宮は弘計尊御潜在の地なりといふ。尤も之れには異説多く丹後旧事記、丹後細見録、丹哥府志、日本書記通釈等の諸書には三重谷に在りし三重長者五十日真黒人の家に御潜匿の趣を載せ、丹波直見谷の天神社の記録には與謝郡温江村大虫神社の社家なりとし、丹後考には須津村の宮ヶ谷真鈴の宮なりとし養老村字岩ヶ鼻日吉神社々記には外垣の木積神社なりとし、府中村郷土誌及び麓神社の明細帳には同村字難波野の麓神社は其の遺趾にて祭神又二王子を祀るとなし、其他本庄村の浦島にも栗田村の久理陀紳牡にも伝説あり、尚ほ加佐都大内郷にも皇子御潜在の爲めに大内の名起れりと爲す、之等の真偽は容易に断ずべからざれども今は伝説の存することのみを掲ぐるに止めんとす。
(『与謝郡誌』)

若狭高浜の式内社・青海神社は飯豊青皇女を祀り、同皇女が社殿の裏にある池で禊をして青葉山を遥拝したという伝説があり、禊池が現在も残る。
禊池(青海神社)
案内板に
禊池 此の池は第十七代履中天皇の御息女、青海皇女(飯豊天皇とも称す)が、青海首の御祖神である当社の御祭神椎根津命(別称珍彦)を慕われ、御拝礼され時に青葉山を仰ぎつつ禊(潔斎)をされた池と伝えられている。
同皇女は、青海皇女、青海郎女、忍海郎女、忍海部女王、忍海飯豊青尊とも呼ばれる。飯豊は本来は飫豊でオホウである。
舞鶴和江は加佐郡凡海郷であったと考えられるが、凡海と忍海や青海は同じではなかろうか、漢字こそ違うがみなオウミと読めて、本来は同じ氏族名で、同皇女がそう名乗るように同皇女系、すなわちオケ・ヲケ系の氏族名と思われる。
日下部連はどの系統なのか不明だが、與謝日置の日下部首などと同族かも知れない、記によればイカリとも近そうなことで、クサカは物部の聖地名で、その名を冠するのであれば物部系氏族。
広く言えば二皇子はやはり山深い物部系の金属採鉱精錬や雑工氏族を頼って雄略から逃れたのではなかろうか。伝説のことなので、詳しくはわからないとしても、このように彼らが隠れた所にこれらの木積神社がある。特に目立ってあって、何かそうした大和の大氏族で、反雄略系の出先であったとみていいと思う。
雄略21年には豊受大神を丹波から迎えたとか、雄略22年紀には、浦嶼子のハナシがある、雄略も丹後へ探りを入れたのかも知れない、こんなハナシでお互いにとぼけながら、手が伸びてきた、これはヤバイとさらに播磨へ逃したのかも…


  木津郷と木積神社

青海神社のある所は『和名抄』の若狭国大飯郡阿遠郷だが、その東隣は木津(キヅ)郷、丹後にも木津郷があり、近江国高島郡木津(こづ)郷、このほかにも、木津という地名は各地に見られる。これは穂積の転訛かも知れない、と考えているのだが、いまだ確証はない。いずれまたそのうちに考えてみたい。





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資料編の索引

50音順

市町村別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市










【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



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