丹後の地名

宮村(みやむら)
宮津市宮村


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京都府宮津市宮村

京都府与謝郡宮津町宮村

京都府与謝郡城東村宮村

宮村の概要




《宮村の概要》

市街地の少し南側でKTR宮村駅のある八幡山の山裾、大手川の中流右岸に位置した少々小高い所である。
慶長7年の宮津下村御検地帳に「猪ノ岡」「猪ノ岡村」と記すのは宮村をさすといわれる。現在も宮村の八幡神社を猪岡八幡と称し、八幡宮近辺には小字猪ノ岡がある。宮村はもと「イノオカ」と称したが宮村と改めたという伝承も残る。
宮村は、江戸期〜明治22年の村名。慶長検地郷村帳に「下宮津之内」として「宮村」とみえる、その後個別に高付され延宝3年郷村帳に「下宮津宮村」150石余と記される。はじめは宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。村高は「延宝郷村帳」l50石余。明治22年城東村の大字。
宮村は、明治22年〜現在の大字名。はじめ城東村、大正13年宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。


《宮村の人口・世帯数》 104・34

《主な社寺など》東光山正印寺(宮津市宮村)
梅峯和尚開山曹洞宗東光山正印寺、その薬師堂には平安中期の木彫薬師坐像がある。

山城石清水八幡を勧請したと伝える鎮守八幡宮は八幡山中腹にある。
八幡山中腹から頂上までの尾根の南側には中世山城の跡が残る。社殿より上は八幡山城の郭が東に向けて連なり、頂上の標高約160mの平坦地が本丸。本丸から北方へも郭が突き出ている。

八坂神社は別名祇園社といい、午頭天王を祀る。文永年間の悪疫流行の際、薬師寺を建立し、京都八坂祇園社から牛頭天王を勧請したと伝わる。その後薬師寺・祇園社ともに衰微していたのを、寛文11年祇園社のみが再興されたという。祇園社(八坂神社)(宮津市宮村)
宝性院は如願寺塔頭六院の一で、八幡社の別当を兼ねていた。


《交通》

《産業》


宮村の主な歴史記録

《丹哥府志》
◎宮村(辻の谷の南、古名猪の岡)
【祇園午頭天王】(祭六月七日、十四日)
【八幡宮】(祭八月十五日)
【東光山正印寺】(曹洞宗開山梅峯和尚)
【一色五郎満信城墟】(八幡田)天橋記曰。八幡山の城墟は細川氏の築く所なり。丹後旧記云。細川藤孝将軍信長の命を奉じて一色氏を攻む、始丹後に来る時城塁を八幡山に築く。田辺府志云。八幡山は高屋駿河の城墟なり。又云天正の頃一色満信宮津に居るといふ。
愚按ずるに、天正五年冬十一月細川氏丹後に来る。翌年の春正月卅日建部山の城陥る、一色義道の本城なり。冬十一月より正月廿日に至る、凡六七十日豈城櫓を構ふ暇あらんや、天橋記及丹後旧記に細川の築く所とするは信じがたし、丹後旧記に所謂高屋駿河は竹野郡下岡の城に居る、八幡山にあらず。或曰天正の頃一色満信宮津に居るといふ、恐らくは八幡山の事ならんといふ、此説真に近し今是に従ふ。抑一色満信といふは系譜に詳ならず蓋義道の一族なり、天正十年九月九日卒す、盛林寺に位牌あり。
【香西氏の墓】(村の南一町斗山の麓にあり)香西氏は香西某といふを詳にせず、蓋香西又六の一族なり、永正四年小笠原澤蔵軒に従て丹後に来り一色氏と戦ふ。是歳六月廿一日細川政元香西又六の為に誅せらる故を以て丹後の兵蜂起せり、於是澤蔵軒の軍敗続す。是時自殺のもの凡八十二人、澤蔵軒の墓は九世渡対湖庵の後山にあり。

《宮津府志》
東光山 正印寺  在同郡宮村
 禅曹洞宗 山州宇治興聖寺末
 本尊 観昔 開山梅峯和尚
   薬師堂
       本尊薬師如来霊佛也世二謂フ二猪ノ岡薬師ト一。

八幡宮   在與謝郡宮村 別當如願寺 宝性院
 祭神 八幡太菩薩
 社記曰長和五年従リ二城州石清水一勧誘スト云云。
  按スルニ長和ハ三條院ノ年號二而五年壬子ヨリ至ル二今茲宝暦十一年辛巳ニ一凡ソ七百四十六年也


八幡山
 同書に云ふ、天正五年長岡藤孝入国此山に城取有りと雖ども城楼を構へずと云々。
  按に細川侯入部の時分此山に居して政令を布くと申傳るは恐くは誤なるべし、仮りに城取ありし迄にて
  居城の地には非ず今地勢を見ても知るべし、細川氏入国の砌は宮津に館を置し事前段に記せり。
 此山京口松縄手より四五町束の方猪の岡八幡宮の在る所也故に八幡山と云、城塁の形今にあり。

《丹後旧事記》猪岡八幡神社(宮津市宮村)
八幡宮。同所宮村。神記曰く三条天皇長和五年冬十一月朔日依勅諚任丹後守城州石清水八幡宮勧請宝殿建立。正四位下左京権太夫藤原保昌。

《丹後与謝海名勝略記》
【上宮津】松原の入口の村也。右に今福村滝有二十町を過て右に正印寺曹洞宗猪ヰノ岡の薬師といふ。左に田中村、有田村、右に八幡山在所を宮村と云。昔長岡兵部大輔城取有し故八幡の城山と云。

《与謝郡誌》猪岡八幡はこんなすばらしい道を登る
八幡神社
 城東村字宮村小字猪岡鎮座、村社、祭典応神天皇、神功皇后、玉依姫命、長和五年十一月朔日国司丹後守藤原保昌城州石清水正八幡大菩薩を勧請すと宮津府志、丹後旧事記、丹哥府志等に見ゆ.社後の山頂天正六年細川藤孝丹後平均の命を受けて入國の際陣地を設けて一色と、戦ひ有名なる古戦場なり、累代宮津城主の尊信ありて社殿再興社領寄進祭具奉納参拝又は代参等あり、宮津如願寺塔中寳性院之れが別當たり明治初年別當を離れて村社に列せらる、氏子三十七戸、八月十五目放生會祭典執行す。

八坂神社
 城東村字宮村七十六、七番地鎭座、村社、祭神素盞嗚命、稻田姫命、文永年間悪疫流行の際藥師寺を建立し京都八坂の祇園社より牛頭天王を勧請せしも別當藥師寺衰へ祇園の祠宇も從て傾き寛文十一年春纔に社殿を興したるも薬師寺は恢復すること能はす後世正印寺に移転せしか合併せしか不明なり而しながら正印寺山號を東光山ご號するより見れば當社ご因縁絶無にはあらざるぺし。延寳三年三月禰宜猪ノ岡傳兵衛前堂を建立せんとせしことは、記録に徴すべきも其他不明なり。寳暦十一年六月十八日社殿再興、天保十三年晩秋領主本庄公神木を伐探して城郭の用材に供せんとするや杣夫運搬人足その他關係者殆んど横死せしことありて爾來尊信篤く明治初年領主家武公不豫の際御所願あり御平癒の後父母君姫君御同道御参拝幣帛御供進其後数次神寳祭具御献納あるなど有敷の神社にて寺社御調帳宮村八坂社植田出雲、明治六年二月村社に列せられ拝殿籠屋等あり。氏子二十四戸祭典四月十五日此他小字高尾田及ぴ小字炭焼に何れも無格社秋葉神社あり軻偶槌神を祀る。

東光山正印寺
 城東村字宮村にあり本尊聖観音、寛永二年竺信和尚創建といふも如何にや當寺また薬師如来を祭り山号を東光山といふより見れば恐らく祇園社牛頭天王と密接の開係あらん。

東光山というのは薬師と関係する山号であろう。薬師は東方浄瑠璃界の教主とされて、東照薬師瑠璃光如来とも呼ばれる、日光東照宮も本来は薬師を祀るものなのだそうであるが、その東照が東光となっているわけで、東光寺という寺号も同じことになり、薬師を本尊としている寺院である。たぶん山号と仏像だけは正印寺に継承されたのだろうが、元々からここにあったはずの元の薬師寺はすでになくなってしまっていたのではなかろうか。ここの薬師さまも目が悪いのか、眼病治癒の祈願が絶えないという。
この地も鉄と思われるわけであるが、もしそうだとすれば、猪岡の地名が気になる。イノオカと呼ばれているようだが、本来はイオカで、綾部市志賀郷町井岡とか奈良県御所市五百家(いうか)、結城(舞鶴市)とか油池(久美浜町)、小浜市湯岡(ゆのおか)などと同じで、あるいは本来は伊吹のことではなかろうか。


《丹後宮津志》
邨岡良弼の日本地理志料理に宮津郷の区域を次の如く云へり。…宮津志云与佐宮阯在文珠村、郷名取此、…丹後旧事記如願寺在宮津市場一条帝時剏之本洲七大寺之一也、…今宮津町領二三十四坊一亘宮村、惣村、文珠、皆原、山中、脇村、中村、小寺、上司、波路、獅子崎、中津、矢原、田井、今福、小田村富久地、旧阯在普甲山云、久理陀ノ神社在上司、多由ノ神社在田井村ノ田井谷、杉末ノ神社在宮津杉末町、伊侶波字類抄、普甲寺延喜中建、在丹後ノ普甲山、普甲山一名与謝ノ大山又呼千丈ケ嶽以界二丹一。

城東村=惣・皆原・波路・山中・滝馬・宮村・獅子崎・鍛冶町・猟師町。世帯数284、人口1020。

《丹後の宮津》(橋立観光協会・昭33)
八幡山城址と大窪山城址 その一
 この二つの城牡は、戦国末期の日本史にも関係のある記念すべき山である。場所は宮津市街を南から北へ流れる大手川の両岸山手で、まず八幡山をたづねてみる。道は大手橋の両岸のどちらからなりと歩いて二十分、松原橋のところで東を向くと、向うの山麓に石の鳥居がみられ、椎の古木におゝわれた低い山がある。山上一五○メートル、らくな坂道をのぼり切ると、地方屈指の古社宮村八幡の社前にでる。
 さきに書いたように、信長が足利氏を亡ぼすと、まずその領国をおさめようと、丹後守護の一色氏に対しても服従を強いた。ところが一色氏の丹後には、俗に八十五人衆といって、全丹後の要所要所に山砦をきづき、いずれも事ある時に備えている。ことにこの大手川−昔は宮津川といったが、この川の流域は大江山の普甲峠から宮津の海岸まで一直線の谷間、丹後全体の地図を見ると、ちょうどその東西を分ける中央部にあたり、かねていわゆる奥丹後の喉口である。さすがに一色氏もこの地域の重要さを知り、その備えの大将には強豪のきこえたかい小倉播磨守一族一党を配して、周辺のおさえとした。
その本城は当時の宮津城といわれた上宮津北城、いまは「小倉播磨守城社」といい伝えている谷間の中心部にある小山である。ここ八幡山から歩けば南へ三キロ強、ちょうど同じような高さの美しい独立山である。
 信長の命によって、天正六年四月(一五七八)、細川藤孝は忠興とともに、とりあえず丹後の中央部へクサビを打ち込むべくのりこみ、上宮津の小倉城を攻めようと、ここ八幡山へ砦をきづいたのであった。だがこの時の戦いは、細川方サンザンの敗けいくさで、その軍はほうほうのていで丹波・山城の方へ引きあげた。次ぎは同じ天正六年九月、こんどは明智光秀の力もかりて侵入、数倍の大軍で日夜攻めぬいたが及ばず、そのうち細川方はこの小倉城の命の綱である水源を発見した。城の西方で、城山より高い柿ケ成部落の頂上、そこに現在も「池町」といわれる大きい水田がある。これを水源として、家来たちに土着させて水番とし、城の大切な秘密の場所とした。これを発見した細川方は、直ちにこの水源を破潰して断水したので、城はその日から苦しい戦いとなり、大将小倉播磨守自ら城を出て細川軍へ斬り込んだが、その軍勢は日に日におとろえ、戦死するもの、傷を負うもの、日を迫うて絶望におちいった。今日でもその菩提寺であった盛林寺の過去帳をみると、九月の末から十月にかけて、小倉播磨守をはじめ、それぞれの勇士がつぎつぎに戦死していく有様が間かに知られる。かくて丹後一色氏の有力な一角が崩れ、やがてはその滅亡のいとぐちとなる戦いであった。すなわちこの八幡山は、この戦いの根拠地として、新勢力である信長の政略の一環として、まさにひらかられる丹後近世史の扉をやぶる役目をはたしたのであった。いまは山頂に僅かばかりの畳石をのこすのみであるが、わが「丹後の宮津」にも、このような歴史が秘められてあるとは、土地のものもほとんど知らないままに、この山は眠っているのである。ふと海の方をみると、やはりここからも「あまのはしだて」が、その美しい姿を静かによこたえているのが眺められる。

《丹後路の史跡めぐり》猪岡八幡神社(城跡はここから500メートル先という)
猪岡山砦址
 猪岡山は八幡山ともいい、宮津の入口を扼する要害の地である。一色氏は普甲寺−小倉城−猪岡山と丹後を守るために重層の防備を固めていた。一色義道はここに豪勇の名高い一子義俊を配し、高屋駿河守(網野下岡城主)を附けて守らせた。
 一色氏は八田の建部山を本城とし、宮津猪岡山に血縁をおいて重臣小倉氏をつけ、加悦谷石川城に血縁をおいて重臣石河氏をつけ、峰山吉原城に血縁をおいて松田越中守をつけ、府中の館に延永氏をおいて守護代として丹後八五か城を支配し、自身は室町幕府に常駐して足利将軍を援けた。
 しかし若狭武田氏の侵攻にあうや、度々馳せ帰って自ら兵を指揮して防戦している。室町幕府が倒れた後は建部山へ帰り、細川氏の侵攻を防戦している。
 天正六年(一五七八)十月十七日、織田信長の命を受け丹後征討のため山城国勝竜寺城を出た長岡(細川)藤孝は、長男与一郎忠興、二男頓五郎興元らを卒い普甲峠を越えて猪岡山へ攻めこみ、丹後征覇のくさびを打ちこもうとしたが、急を聞いてかけつけた一色勢にはばまれて敗退した。この時上宮津の小倉一族は殆んど討死している。ひとたび園部まで引きあげた藤孝は、丹波征討に赴いていた明智光秀と合流し、信長のすすめで光秀三女の玉と忠興とをめあわせ、光秀の援けを得て翌七年七月八田へ攻めこんで建部山を陥し入れた。一色義道は中山城で城主沼田幸兵衛の裏切りにより城を出て大雲川で自刃し、援兵として出陣をしていた義俊は生き残った一党とともに稲留一夢の守る岩滝の弓木城へ引き籠った。天正九年三月両家は和睦し、藤孝の娘菊を弓木城の義俊に嫁し、ようやく猪岡山へ入城した。
 一色氏滅亡の後はこの城に藤孝は家臣篠原五右衛門を配し(菊はこの五右衛門に再嫁したともいう)、自分もここで風月を楽しんだ。
 しかし慶長五年(一六○○)七月十六日小野木縫殿介の乱の際、藤孝は猪岡山と大久保の城を焼き捨てて、漁民の助けを借りて船で田辺へ脱した。
 いま城址には八幡社の社が建っている。このあたり上宮津へかけ松縄手となっており、宮津藩の参勤交代の通路であったが、松が交通をさまたげるのと松蝕虫の害とで全部切られてしまったのは惜しい限りである。

《宮津市史》薬師如来坐像(正印寺)
(写真も)
薬師如来坐像 一躯 字宮村 正印寺
  木造 八五・七センチ  
  平安時代(十世紀)   宮津市指定文化財
 この像は、正印寺境内の薬師堂に安置されているもので、右手を屈臂し、左手は膝上に置いて薬壷をとる通形の薬師如来像である。
 両肩から肘を含んで頭体の躯幹部をカヤの一材から彫成し、内刳を全く施さない典型的な一木造である。これに膝前横二材、右肘先、左前膊を矧ぎ寄せるが、これらは全て後補のものにかわっている。このほか右髪際上から右目、鼻、唇に及ぶ面部の大半に補材をして彫り直しが施されており、当初の面影を失っている。
 しかしながら、頭体の幅、奥ともに太い堂々たる量感の表現には迫力があり、左肩にかかる納衣には翻波式衣文をみせ、平安前期の特色をよく残している。丹後に残る仏像のなかでは、金剛心院の如来形立像に次いで古いものと思われ、極めて注目すべきものであるが、補修の多いことが惜しまれる。
 正印寺は、東光山と号する曹洞宗の寺院で、宇治興聖寺八世の梅峰竺信禅師(一六三三−一七○七)を開山とする。創立の時期は寛政二年(一七九○)の棟札に「宝永之間城主信濃守云々」の記述があり、宝永元年(一七〇四)から禅師の入滅した四年の間であろう。したがって本像は正印寺とは直接関係がなく、その造立経緯は不明であるが、寺の近くに「ヤクシダニ」とか「ヤクシ」の字名があり、かつてこの地に別寺があったものと考えられる。

現地の案内板案内板
正印寺   宮津市宮村
東光山と号す。曹洞宗、宇治興聖寺末。本尊聖観音菩薩。寛政二年(一七九〇)棟札によると、延宝年間、宮津藩主永井尚長(在任一六七八〜八〇)の家老中村某が、住僧本哲をたすけてこの寺を中興した。この時本哲は自らは開山とならず、興聖寺梅峰を開山に請じた。思うに、永井氏は父尚征が山城淀藩主の時より、興聖寺の有力檀那であった縁故で、梅峰を請じたのであろう。梅峰は後年禅門の碩学卍山道白と江戸におもむいて宗門改革の大運動に投じた人である。
 山号東光山は、東方瑠璃光薬師仏に縁あることを示し、薬師如来の垂迹と信じられた牛頭天王を祀る祇園社(八坂神社)は今も近くに鎮座。宮村の奥には「どぶ」「薬師堂」の小名が残って、かつて薬師の祀られていた跡と伝える。いわば宮村の地は、薬師・祇園・正印寺が薬師信仰に関わりをもった信仰地域であったといえる。
 境内薬師堂に安置する薬師如来坐像は、像高八五・五センチ、右手屈臂、左手薬壷をのせる普通の形で、カヤ一木造である。各部に後補のあとが多いが、平安時代前期のおもかげを残し、宮津市域では日置金剛心院木造如来形立像(重文)につぐ古仏である。宮津市指定文化財。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会



《宮津市史》八幡山城跡
(地図も)
八幡山城跡
 宮津駅背後にある標高一六五メートルの八幡山頂に立地する。『丹州三家物語』によれば「宮津八幡山」は当初「一色五郎」の居城だったが、丹後に入国した細川藤孝がこれに替わったという。『細川家記』では、藤孝の入城を天正八年八月とする。宮津城築城によって廃された。
 山頂部の主郭には側壁に石垣が構築され、一部転用石材もみられる。丹後の山城において石垣使用は珍しく、細川藤孝の改修が推定できる。ただし、この箇所以外は、織田権力による積極的な改修の痕跡はみられない。この主郭を中心に放射状に細かい曲輪が配置され、城域は南北が全長約五○○メートルに及んでいる。ただし、削平地は後世の耕作地等による改変も推定され、評価には注意を要する。

現地の案内八幡山城案内(宮津市宮村)
八幡山城跡
ここ八幡山中腹にまつる猪岡八幡は古社で長和五年(一〇一六)山城男山より勧請したと伝える。八幡山城の郭は八幡社の裏からはじまり、標高一六五メートルの頂上本丸まで、稜線に沿って十ヵ処ほどが並び、稜線の南側の通路がそれを結んでいる。稜線から更に分脈状の尾根がのび、そこにもいくつかの郭がみられる。水の手は本丸西南方小字水船のあたりであろうか。付近には馬場・的場・矢場等の小字名が残り、大字猟師もこの付近に散在し、この城が北西の大久保山城と並んで海に備えた城であったことを思わせる。
八幡山城の築造の時代・城主は詳らかでない。『丹州三家物語』の記す如く丹後国守一色五郎の居城であったかもしれない。然し丹後国には一色氏の意向とは別に、新興信長勢力に従わない連中がいたらしいのであるが、この城はそういう部将の居城であったかもしれない。
とまれ天正六、七年(一五七八、九)の交に、丹後平定を終えた織田信長は丹後国を細川藤孝・忠興父子に与えた。父子は天正八年八月宮津に入った。そこが八幡山城であったというのは細川家記類の記すところである。藤孝は改めて宮津浜手に新城を築きたいと考えて信長の許可を求めた。信長の返書は八月二十一日付で届いた。間もなく浜の新城が完成し、細川氏は城下整備も進めた。八幡山城は中世宮津の終焉の地であり、近世宮津の出発の地でもある。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会




宮村の小字


宮村
三輪 馬場 下 男山 清水 中 上馬場 砂田 上 高尾田 荒神田 矢ノ谷 岸ノ下 岸ノ尾 下森 森 又切 上森 奥ガヘ 倉谷 山神尾 倉谷奥 倉谷 荒神山 中ノ宮 西垣 石原 岡嶋 椿原 屋敷前 岡坂 屋敷統 屋敷上 屋敷ノ下 庚申場 カキ原 柿原 ニシガキ 屋赦裏 忠兵衝屋敷 薬師堂 重右エ門屋敷 墓ノ段 林ノ谷 八坂ノ下 戸石場 向早稲田 横輪 大畑 取角 稗田 才ノ森河原 才ノ森 ど婦 ど婦 向ど婦 ドプ トフ 向柿 ムカイカキ 屋敷ノヘらい 屋敷ノヘライ 御城山 岸ケ畑 桃ケ谷 穴口河原 桃ケ谷口 穴口 軒田河原 軒田 軒田ノ奥 軒田休場 典五郎屋敷 与五郎屋敷 梨木谷 ナシノ木谷 小家谷 割谷 大谷 大谷口 登リ尾尻 稲場 早稲田 喜左エ門屋敷 野間岡 正印寺裏 八幡下 丸山 男山家前 家ノ前 家ノ下 寺ノ下 下岡 岡ノ谷 桜田 辻町 立石 丸場 奥ケ谷 茶木根 薮ノ下 薮ノ裏 奥ケ谷口 雑木山 雑木谷 山ノ止 天正 市場ケ谷尾 辻ノ尾 辻ノ谷 墓ノ下 家ノ裏 西蔵住居 長治郎前 的場ケ鼻 辻ノ鼻 辻町重助屋敷 矢場 市場ケ谷 市場ケ谷奥 中尾 傘松西側 傘松 たやし薮 峠ノ上り口 石田 峠ノ尾 小田ケ尾 汁谷 辻 ほらのかい 小田ケ尾向 虚空蔵ケ尾 石田ノ奥 コク蔵ノ尾 コク蔵ノ裏 一軒家ノ上 一軒家 油とんじ 宇谷鼻 宇谷 笹尾ノ鼻 笹尾 粉振谷ノ尾 粉振谷 粉振谷東側 笹尾西側 笹尾谷 笹尾石竜 巾着谷 西笹尾 ハゲ山 大田 馬場先 大ざへみ 角田 真元治郎屋敷 佐平久左エ門屋敷 中嶋 溝ケ尾 永長 猪ノ鼻 有田村地蔵尾 有田北谷東側 明照寺奥 宮村 八坂下 岡ノ上 水船 登リ尾 登リ尾ケ谷 小屋ケ谷 八幡 猪ノ岡 重兵衝ヤシキ 屋シキ前 屋シキウラ 屋シキノ下 真元次郎ヤシキ 旭が丘

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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