丹後の地名

旧・余部町(あまるべちょう)
舞鶴市余部上・余部下など


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京都府舞鶴市余部上・余部下・和田・長浜

京都府加佐郡余部町




旧・余部町の地誌

《旧・余部町の概要》


現在も舞鶴市の真ん中あたりを中舞鶴と呼ぶが、中舞鶴町は大正8年〜昭和13年の自治体名で、余部町が改称して成立したもの。余部上・余部下・和田・長浜であった。中舞鶴と呼ぶ以前は余部と呼んでいた。
『和名抄』の余戸郷の地と考えられる。寿永3年4月16日、平辰清が大内郷を八条院女房弁殿局に寄進した状には、大内郷の四至として「北限余部境方神山并倉橋郷境」とある。
中世は余戸里荘。「丹後国余戸里勝浦村地頭職」(貞和2年)。「余戸里国衙方一村」(貞治元年)など文書に見える。
余部町は明治35年〜大正8年の自治体名。明治35年6月余内村のうち軍港設置の中心地となった余部上・余部下・和田・長浜の四大字が合併して成立した。役場は余部下に設置。町名の由来は、当町域が旧村時代に余部6か村と称された地域の一部であることによる。
同年11月榎・道芝・葛トンネルが完成し、舞鶴鎮守府道路が開通した。
同年遊郭地域設置の上申書が新市街調査委員会に提出され、同38年には加津良遊郭が営業を開始した。
大正8年当町と新舞鶴町を結ぶ国鉄中舞鶴線が開通し、中舞鶴駅が設置された。
同年中舞鶴町と改称。余部町の4大字は中舞鶴町の大字に継承された。

《人口》8810《世帯数》2546(現在の余部上・余部下の合計)

旧・余部町の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
余戸


《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
一 余戸里 六十町八段二百九歩  鹿王院
  十八町分 享徳元年新宮国分寺段銭致沙汰之  此外公方御免之由申之

《地名辞書》
余部郷。和名抄、加佐郡余戸郷。○今余内村是なり。大字余部存す、椋橋の西、田辺の東北にして、舞鶴湾の東岸也、大字上安に延喜式高田神社在り。補〔余部〕加佐郡○海部の義なり、今舞鶴鎮守府は此村に亭館を起す、亦偶然にあらず、舞鶴町の東北に当り舞鶴湾の東支湾の南岸なり、別に一澳を為し、其東方に志楽の大邑あり、相接続す。


《加佐郡誌》
中舞鶴町
(一) 戸数 二六四一戸
(二) 住民 男 五四〇〇名 女 四九八六名 計一○三八六名
(三) 生業の状況
    大部分工作部に通勤して生計を営んでゐる。
(四) 主要物産
   農作物  二九、七二八圓   畜産物  二五、一○六圓     林産物  二、八○五圓
   水産物     一一五圓   工産物  三三、二八二圓
(五)人情一般
   住民は日本各地よりの集合で新開地に特有なる一種の気分がある。稍浮華な観もあるが人情一般に醇朴で
ある。
(六)各種団体名
   中舞鶴青年団  同女子青年団  同婦人会


余戸。上代五十戸に満たないで、里を編制する事の出来ない、残余の戸をいふのである。蓋し大宝令の制は、一家を一戸とし、五十戸を以て里とし、里ごとに長を置いて、戸口を検校し、農桑を課殖させ、非違を禁察し、賦役を催駈する事を掌るのであるが、各地必ずしも五十戸の倍数を以て算し得べきものでなく、往々にして、残余を生ずるは当然である。それで其残余の戸を名付けて余戸といふのである。蓋し編制より余った戸の意である。

『中舞鶴校百年誌』(昭51)
…次に郷土の古名余戸(余部)について記してみよう。
 余戸というのは行政区画から起った名称で、今より一三三○年の昔、大化の改新によって戸籍が作られ里、五保の制が定められたとき、五十戸を以て里とし、里毎に長一人を置き、若し五○戸を過ぎるときには別に里を立て、余戸と称した。これがわが郷土名の起源である。
 この余戸について明治四五年四月調査「維新以前地方民政制度沿革及事蹟調査書」(余部町編)は『郷五十戸ノ限ニ出デ而、モ別ニ一郷ヲ建ツルニハ戸数足ラザルトキ其ノ割余ヲ別区トシテ余戸卜称セシガ如シ余部ト称スル地全国中百二上ル何レモ之レヲ以テ推スコトヲ得ベキカと述べ、また其他沿海諸国ニハ、余部、海部等ト記シ「アマベ」又は「アマルベ」等ト訓ジ其ノ義海人部ナルモノアリテ当町名ニ似タルモノ多ケレドモ当町四部落ノ内和田、長浜、余部下ノ三部落ハ海ニ沿へルモ古来一戸モ漁業ヲ為セシノ形跡ナキヲ以テ此ノ義ニアラザルヲ知ルベシ』と記し地名の起源について次のように述べている。
 一、余部上、下
   上下元一村ナリシモノナルベク字名ハ即チ町名ニシテ再説ヲ要セズ
 一、長 浜
   長ク海岸ニ沿へルヲ以テ此ノ称アリ
 一、和 田
   海ノ古言「ワタ」ナレバ当村海ニ瀕するを以テ称スルコト明カナリ
   古ハ而浦材ト云へリト是又西面シテ海ニ向へルノ称ナリ
また同書は文献に現われた余戸についても次のように記している。
 『此ノ地丹後ノ僻陬ニアリテ往昔ノコト史乗二徴スベキモノナク?乎とシテ知ルベカラズ旧名ヲ余戸郷(写真48)ト称セシガ如シ天暦年代(九四七〜九五六)源順の和名類聚ニハ
 加佐郡十郷余戸郷云々
ト記載セラルゝヲ見ル而シテ余戸郷トハ天正一二年(一五八二年)若洲和田城主岡本主馬之介ノ高倉八幡宮社領寄進状ニ「余戸六ヶ村百姓中」(写真361)ト記セリ即チ余部上、余部下、長浜、和田、及北吸(現今新舞鶴町ニ属ス)下安久(現今余内村ニ属ス)ノ六大字ノ総称ナリンコト今尚仝社ノ氏子ナルヲ以テモ之レヲ知ルベシ』

『中舞鶴校百年誌』(昭51)
明治一九年(一八八六)仁礼海軍中将が軍艦金剛に坐乗して舞鶴湾を視察したとき、日本海岸に於ける唯一無比の軍港地たることを認め、時の海軍水路部長肝付兼行大佐と翌二○年再び舞鶴に来って詳細調査をした結果、北吸村、余部下村、長浜村に亘る一帯の地域を鎮守府の予定地と定め、海軍用地として約八○万坪の買上げを決定した。その翌二一年、海軍大臣西郷従道侯と伊藤博文公が浦塩からの帰途舞鶴を視察した。このとき有栖川宮熾織仁親王も同道され高倉神社に参拝されている。(写真376〜379)
 明治二一年(一八八八)村の主要部を買上げられた余部下村五○余戸の住民は晴天の霹靂の如き出来事にとまどいながらも住みなれた数百年来の墳墓の地をあとに移転を開始したのである。
 買収地の明渡しをほゞ完了したのは明治二三年のことだった。(写真381.382)
 長浜村の実状は不詳であるが余部下村の買上状況は概ね次の通りである。
  買上面積 田畑宅地 九三、九○○坪
       山  林 二八、五○○坪
  買上価格 二八、六○○円(移転料、損耗費共 三五、三○○円)
 この買上状況を取材した郷土新聞「舞鶴よみうり」は昭和五○年一○月一日付の紙上で『舞鶴今は昔』の物語りに「一坪が米五升分土地買収価格」と報道してくれている。(写真380)
 当時の米一升(一、五キロ)の値段は四銭〜六銭であったに対し坪当り田地で二一銭、宅地一六銭五厘、畑地一一銭、墓地四銭、山林一銭二厘だったからである。
 土地の値段が一般物価に比し異常な高騰を呼んでいる現在では全く信じられない昔語りである。
 もっともこの買収価格が示すように二、三の大地主を除く一般立退農民は、明治三○年(一八九七)一月臨時海軍建築部支部が雲門寺に置かれ軍港施設に関する工事が始まりついで新市街建設工事に着手するまでの十年間に近い歳月を不安と窮乏のうちに送ったことが想像されるのである。
 明治二二年(一八八九)四月、町村制が布かれるに際し、余部上村、余部下村、和田村、長浜村は新村余内村に編入せられ、村名はそのまゝ字の名となった。仝年五月、勅令を以て第四鎮守府に指定せられた。当時水交社(現防衛庁共済組合舞鶴住宅)の西隅にあった雲門寺はこの年現花木通り田中山麓へ移されたものである。寺の背後は墓地であったので軍港工事に際してはこのあたりから盛んに人骨を出したという。
 その頃の中舞鶴の戸数は、余部下村が約五○戸で旧水交社、旧司令部坂下を中心として現在の和田通入口にまで延びていた。(写真381)
 余部上村もやはり五○戸位で今の奥母通のあたりや、榎川五丁目の山手にあった。長浜は小字五森を合せて二六戸、和田は約三○戸。(写真382)
 いま余部上も余部下もぎっしり民家が建ち並び市街地化しているが以前はみんな田圃であった。当時の民家は殆んど草葺きで農業を営み、周囲の山にて薪を採り、冬などは新舞鶴(現在の東地区)の市場あたりへ売りに出掛けるのを常とした全くの農村であり、山村であった。
 西舞鶴方面への広い道路や榎隧道は勿論、道芝の通りもなく、現在の縦横の街路は影もなかった。和田あたりからは海岸道路がなかったので西舞鶴へは舟で行ったものであり、四方山に囲まれた中舞鶴は至って交通不便で、夜など淋しく他所から来る様なことは出来なかったらしい。元の機関学校(現総監部)練兵場(現市民グラウンド)附近は、よしの一面に生い茂った湿地もあり、潮の満干で作物も何も出来ない土地もあった。
 着手がおくれていた軍港施設工事が本格化すると全国各地より商工業者労働者来住する者多く市街地となる気運が到来した。よって地主等相謀り、市街計画がたてられ、田圃の中に砂利を入れ縦横に道路を定め、本町通り西大門通りの如き幅員一二間乃至十間のものを始め、多くの道路が設けられ、本町通一丁目を起点として新築の家屋が上、下に建ち並びはじめ、現在の市街地を形成していった。


関連項目

「余部上」「余部下」「和田」「長浜」





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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