二瀬川渓流
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京都府福知山市大江町仏性寺 京都府加佐郡大江町仏性寺 京都府加佐郡河守上村仏性寺 |
二瀬川渓流の概要《二瀬川渓流》 大江山を越える宮津街道(府道9号線・綾部大江宮津線)を走っているとイヤでも見えてくる。別に案内も必要ないくらいわかり易い所にある。 「酒呑童子の里」へ行くまでの「鬼ヶ茶屋」付近から上流にかけての渓谷の美しい所。車窓から眺めていればわかります。 府道は吊り橋「新童子橋」の下を潜るが、特にそのあたりを「二瀬川渓流」と呼ぶ、渓流は道路の脇を流れている。 車で来られたなら、吊り橋の上側と下側に駐車場がある。 渓流の周囲を巡る遊歩道が整備されている。簡単にまわると1時間くらいのコース。 新緑あるいは紅葉の季節が特によいのでぜひおでかけを。 奇岩と清流と木々の織りなす景勝の地で交通の便もよく「京都自然200選」の一つ。 特にここだけでなく、この峠道はどこも紅葉は美しいので、ついでに見られてはいかがか。 ↓特にこの付近のことです。 (紅葉の様子は、年により、時期により、ビミョーに異なります。) 対岸に遊歩道があるのだが、今(2016)は橋が腐って壊れていて通行止め。上の駐車場からは、こわいが府道の端を歩くより道がない。遊歩道から渓流へ降りることができたのだが、それもできないよう。 えろうコエーな ああコエー 何メートルあるかな 30メートルかな ゆれるな 何もせんでもゆれるな 落ちたら死ぬな コエー、コエー 落ちて死んだら、たぶんこんな山ヘ行くことになるのかも ホントにゆれる。コエー、コエー この季節この付近は何台も路肩に車が止まっていると思いますから気をつけて下さい。 別にここを見学にこられた方でなく、たまたま通りがかった車でも、周囲の景観の特別の美しさに驚かされて、思わずブレーキを踏んでしまいます。 ワッ、スゲー、何じゃこれ。ちょっと見て行こか。 車をとめてしばし風景の圧巻に見とれている車は多い。 《「今普甲道」と「鬼が茶屋」と「鬼伝説」》 ここはあやしいほどに美しい、また大江山の鬼伝説と深くかかわってきた伝説の里でもある。 さような写真に合うような姿よい女性でも歩いてくれないかと探すが、誰も一人もいない。ただただ私一人だけ。ここを見ないとは、何とももったいない話。ぜひ訪れてみて下さい。 ↓ ワタクスは実はかような姿を探していたのでござりまする、紅葉などはどうでもえかった、しかしついに見つからず(~o~)。みなさんは見つけられるかな−、ご幸運あらんことを。 二瀬川渓流に沿って現在の府道が通るが、少し山手側には「今普甲」と呼ばれた旧宮津街道の石畳が木立のなかに当時のままに残っている。今も歩ける。 この道にそって鬼退治伝説ゆかりの史蹟というのか名所というのか、「頼光の腰掛石」、「鬼の足跡」、美多良志荒神などがある。案内板がありますから、行けばだいたいわかります。ここでは案内しません。 府道沿い、「新童子橋」の少し下手に、全国的に有名な「鬼ケ茶屋」の建物もあるが、現在は営業されていないような様子。 昔は現在地ではなく、この今普甲沿いにあり、道行く人々に大江山伝説を伝えた。全国で現在普通一般に知られている大江山鬼退治伝説のスジはこの茶屋が発行した木刷本によるといわれ、旅人たちが土産として買い求め、今普甲道に乗って全国に伝えられたものであるという。それはつぎのようなもの。 『大江町風土記2』によれば、 ↑ さぁさあさぁオニ退治だ。テロ退治だ。害獣退治だ。はたしてどちらがオニ、テロ、害獣だろうか、よ〜く考えてから言ってるのか。 ↑ 酒呑童子め美女を侍らしよってからに、こっちの方が絶対にエエやないかい。美女を奪いに行ったのははたしてどちらだったのかはわからない。 〈 しゅてん童子 六十六代一条天真の永延三年(九八九)八月、越後の国蒲原郡中村の百姓に子供が生まれた。その胎内に十六ケ月いて、生まれたとき頭の毛はふさふさとはえ、歯は全部そろって、六才の子供と同じであった。両親はびっくりして同郡久上村の山寺にこの子をあづけた。その寺に外法の僧がいて、その僧から邪法を学び、しきりに悪いことをやった。大江山へこもって近辺をあらしまわった。その頃都に恐風ふきおこり、木の葉のように家がとんだ。都の人達は何か悪いことがおこるのではないかと、恐れおののいた。阿倍の晴明という学者に占わせると、「西の方の山に妖鬼あり」ということであった。どうしたらよいかと心配しているところへ、 丹波の国司藤原保友が馬を走らせてきたので、そのときの勇将源頼光にこの賊をうつことを命ぜられた。頼光は主だった家来に相談したところ?これは大勢で攻めないで、大峰山へ参る山伏の姿となり、鬼をだましてやっつけようということになり、 藤原保昌、碓井貞光、ト部季武、渡辺源吾綱、坂田金時をつれ山伏姿で大江山に向った。途中で三人のしらがの老人と出会った。この老人はただの老人でなく、熊野権現、八幡大菩薩、春日大明神であった。この老人がら、鬼がのめばよいつぶれ、自分達がのめば元気百倍という酒をさずけられた。 まず三岳山にのぼり、大江山の方をみると、雲が低くたれ、煙の立ちのぼるのが見えた。道なき道をかきわけ、二瀬川のほとりまで行くと、きれいな女がせんだくをしていた。その女に案内させ、道にまよった山伏であるといっていわやにとめてもらった。その夜神からさずけられた酒を出すとよるこんで酒盛をやった。やがてしゅてん遺子はよいつぶれてねむってしまった。ねむったところを見ると、その姿は人ではなく、体には一面に毛が生え。頭には二本のつのが出て鬼の姿になっていた。頼光らはよろいかぶとに身をかため、一刀でその首をきりおとした。首は大きな音をたてて空中に舞いあがって、おちてくると頼光のかぶとにガブッとかみついたが、やがていきがたえた。こうしてめでたく鬼たいじは終った。 藤原保昌はこの功で丹後の国守になった。 舞鶴図書館藏 弘化三年(一八四六) 鬼茶屋発行刷本大要 〉 これだけのもので「大江山の鬼」全国知らぬ者なしの状態になるものかどうかはどうも信じられない話なのであるが、そうした木刷本と襖絵があるそうである。 鬼ケ茶屋さんも確か、藤原さんだったと記憶するが、付近にも何軒かあるらしい。『鬼伝説の研究』によれば、ここの藤原家の先祖は京都の藤原氏の出身の姫君であり、その夫は酒呑童子であると伝えている。村人は名家として尊敬している。その家の人は酒呑童子の血を受けていることを誇りとはすれ、恥とは思っていない。つまり一種の鬼の子孫といわれる家だそうである。この家の先祖の姫君が、鬼ケ茶屋の所を流れる二瀬川で血のついた衣を洗っていて、頼光に大江山の鬼の住家を教えたのだと伝えているそうである。 ずいぶんと昔の話で、記憶間違いがあるかも知れないのだけれども、鬼ケ茶屋さんには私のヨメさんと同年齢くらいの娘さんがおられた。何か都の姫君のような美女でしたが、歌の練習などに舞Iへ来ておられた、私はそのグループ員でもないので、話したこともなかったと思うのだが、「あそこのな、一人娘なんやって」と誰か教えてくれたように記憶する。彼女もオニの子孫だったのかも、でもオニではなく、美女でした、「ひとり娘だったのか、ほかに男の兄弟がおられたのか知らない、娘さんは彼女だけだったよう、歌も上手で、上品なきれいな人、2年くらい来られていたかな、いまはどうされていることでしょう。」とのことである。 ↓ 特によい最高の位置に「新童子橋」が架けられているのでお見逃しないように。 ふりむけば、大江山(千丈ケ岳・833M) ↓が望める。 『御伽草子』「酒呑童子」では、この嶺に酒呑童子の城砦があった。鉄の築地に、鉄の門、鉄の館という鉄だらけで、「くろがねの御所」と称し、四季折り折りの風情を、宝玉のたぐいで現出させていたという。本当にそうのように思われる、宝石箱のような光景である。 「日本古典文学大系」本より↓ この川↑が二瀬川だろうか、一七八の上臈が血のついたものを洗っていた。頼光が問うと、 「此河上を上らせ給ひて御覧ぜよ。鐵の築地をつき、鐵織の門をたて、口には鬼が集まりで番をしてこそ居るべけれ。いかにもして門より内へ忍び入て御覧ぜよ。瑠璃の宮殿玉を垂れ、甍を並べたてをきたり。四節の四季をまなびつゝ、鐵の御所と名づけて、鐵にて屋形を建て、夜にもなればその内にて、われらを集め愛せさせ足手をさすらせ起き臥し申が、籠の口には眷族どもに、ほしくま童子くま童子、とらくま童子かね童子、四天王と名づけて番をさせて置きける。…」 日本の支配層の古来からの常として、「鬼畜英米」(英米には獣偏をつける)、ソ連は「赤鬼」と呼んでいた。自分より強い敵を「鬼」とか「蜘蛛」とか呼んだ、自分より弱いと「童子」(子供)ならまだしも「匪賊」「ゲリラ」「テロ」などと呼ぶ。その自分の行いこそが鬼でないのかは不問にして、自分が勝手に正義と決めてかかり、相手を人ではないかのようにおとしめる、どうしょうもないクソ観念で、そうしたカレラが言う「鬼」であり「退治」のおハナシである。 日本兵は中国民衆からは「日本鬼子」と呼ばれたが、これが本当の鬼らしい、最近の歴史では「国民を守る」軍隊は国民を敵前に置いてきぼりで最初に逃げ出し(満州)、沖縄では壕から住民を追い出して自分らだけ助かろうとした、どこがサムライか武士道か、マコトの鬼とはこの連中であろう、アホクサの極地、こんな連中のいうネゴトであり、実際はアホクサでナニもノウガキ通りであろうはずもなかろう。英米や露を鬼と見る、カレラ程度に頭の薄いアホがいないように、「大江山鬼伝説」などまともにとりあげるのすらアホくさいハナシである。 いくら探しても鬼はここにはいない。いるわけがない。鬼どもがいるのは、権力と武力と財力の中枢、トウキョのド真ん中である。あるいはもしかしてキミの心の中である、もし鬼を見たければ、そちらを覗かれるとよろしかろ。ここにいるのは鬼とされた人であり、あちらにいるのは人の皮をかぶった鬼である、鬼博物館もここではなく、そちらへ立派なものを建てるのがラジカルなスジであろう。 しかしクソどもでも「鬼」と呼び恐れたのだから、手強く、逆に「鬼様」にクソどもが退治されたのでないかと思われるが、それは最近の歴史であり、酒呑童子の場合は本当はどうだったのかは不明である。 ここに立って考えてみるのもよいかも、酒呑童子のような鬼がいて、クソどもを退治してほしい、そうした願いが隠されていたのかも、今はその願いすらも持つ者が消えてしまい、みながみなクソどもの思うがままに繰られるのみでクソのみウハウハの大もうけ、この世に強い鬼がいないと、上も下もアホばかりになり、世は末か… 二瀬川渓流の主な歴史記録《丹哥府志》 〈 【二瀬川】(中の茶屋の次是より内宮へ一里余既に加佐郡に属すされども前段の次なれば爰に合せ)。 二瀬川といふは二川合流の處なりよって名とす。一は千丈の淵より流る一は千歳嶺より流る。在昔源頼光夷賊征伐の日於是人の死骸川に流るゝを見る、よって夷賊の住處既に近を知る、是より西に向ひて大江山に登る。 〉 《大江町誌》 〈 宮川 宮川は、源を千丈ヶ獄に発し、河守上の谷を南流して由良川に合流する。流路延長一二・四キロメートル、その流域は宮津市中ノ茶屋及び福知山市雲原全域を含み、町内流域面積二一・九平方キロメートルをもつ町内最大の河川である。 この川は、上流から二瀬川(仏性寺)、上杉川(内宮)、二俣川(二俣)、船岡川(天田内)、宮川(河守・金屋)と呼ばれる(「加佐郡町村誌」)。またいつのころからか、内宮から外宮の間を五十鈴川とも呼んでいる。 流入する主な支流は、堂渕川・毛原川(千歳川)・北原川(早谷川)・的場川・玉川・雲原川(橋谷川)である。この水系には、関西電力の内宮発電所及び橋谷発電所がある。 (註) 内宮発電所(大江町字内宮小字上杉) 二瀬川の流域面積一六・三平方キロメートルを利用して設けられたダム水路式発電所で、大正六年十二月二十一日の創業である。その規模は、最大出力二○○キロワット(常時六○キロワット)、最大使用水量毎秒○・五七七立方メートル(常時○・一六七立方メートル)、年間一一七万四○○○キロワット時を発生する。発生した電気は、橋谷発電所に送電している。 橋谷発電所(大江町字橋谷小字堀川) この発電所は、大正十二年一月四日に完成し、発電を開始した。 雲原川の流域のうち、大江山−赤石岳−江笠山−三国山−三岳山−天ヶ峯に囲まれる二五・二平方キロメートルの流域を利用するダム水路式発電所である。 その規模は、最大出力四一○キロワット(常時一○○キロワット)、最大使用水量は毎秒○・七一○立方メートル(常時○・二二○立方メートル)、年間発生電力は約三二○万六○○○キロワット時である。 発生した電気は、京阪神方面から送られてきた電気と合わせて、加佐郡全域と福知山市の天座・雲原・野条・長尾・大呂及び綾部市の西坂などに送電されている。(関西電力資料による) 千丈ケ原ダム このダムは、仏性寺発電所のダムで大正六年(一九一七)六月六日の完成である。河守鉱山の鉱脈露頭が発見されたのはこの建設工事中のことである。仏性寺発電所は如来院下の二瀬川畔にあったので、導水路は二瀬川の右岸山腹を廻って鬼ヶ茶屋の上まで続いていた。大正六年ダム完成と同時に発電を開始したが、発生した電気は、加悦峠を通り加悦谷の機業地へ送電されたのである。 豪雨のために、大正十年九月二十五日午前三時二十分ダムは決壊した。満水の水は大音響と共に鉄砲水の奔流となって、狭い谷一ぱいに流れ下ったという。耕地や山林は流され、流失をまぬがれた田畑も、畦畔をえぐり取られ大量の岩石や土砂に埋もれた。堤防や巻石垣の護岸は各所で破壊され、二瀬川の橋は一つ残らず橋台ごと根こそぎ流失した。破損の道路延長は一二二間(約二五○メートル)にも及んだことが記録されている。(谷口家覚書) 「何しろ開びゃやく以来の災害で、子ども心にもただただおそろしくて、今思い出しても身の毛がよだつ」とは、地元古老の追憶である。 決壊したダムは復旧がなされ、この発電所は昭和二十三年頃まで操業を続けた。 千丈ケ滝 千丈ヶ原ダムの下流にある。干丈ヶ原から急傾斜の岩肌を屈曲して数十メートルを流れ下るもので、水量の多い時期の滝は勇壮そのものである。往時は、この滝口付近の左岸に不動堂があった。 ニ瀬川の渓流 二瀬川は、やがて中ノ茶屋を流れる堂渕川と合流する。このあたりは浅くて両斜面が開いた谷型であるので、川幅は広く流れはゆるやかである。鬼ヶ茶屋の上流三○○メートル付近からは、川は再び急湍となって数百メートルを一気に流れくだる。河道に累々と重なる岩塊は径数メートルもあり、清冽な水が巨岩に砕けて飛沫をあげ、深淵を作って渓谷を奔る。両岸には、絶壁によりかかった松や楓などが茂りあい、四季を通じて自然の美を展開する。 昭和五十六年、この渓流沿いに延長約一・三キロメートルの遊歩道が完成した。遊歩道はやがて骨ヶ岳の「のぞき岩」(鬼跳岩)まで延長される予定である。またこの近くに「ごうら」といい、巨石ばかりが累々と堆積している所があり、この付近が、大江山超塩基性岩地帯と古生層地帯の境界となっている。 二瀬川渓流の周辺には鬼退治伝説ゆかりの伝承が多い。 鬼の窟・金時斧砥石・童子屋敷・五入道の池・頼光腰掛岩・鬼の足跡・のぞき岩(鬼跳岩)・犬鏡荒神・如来院・鬼茶屋・鎌淵・衣掛松(今なし)・洗濯岩(今なし)などがそれである。 岩戸の渓谷 内宮発電所ダムの下流は岩戸の渓谷である。二○メートル以上にも及ぶ断崖絶壁が両岸にそそり立って、その底を渓流がはしる。この渓流にのぞむ岩上に天ノ岩戸神社が鎮座している。 渓谷の右岸は、日浦ヶ岳(城山)でカンの自然林である。左岸は宮山で、シイの古木が茂る自然林が皇大神社に続いている。 岩戸神社本殿上手には、神が天下ったという御坐石があり、本殿左手の川の中に神楽岩と呼ばれるものがある。ここから約五○メートル下流の岩に数個のくぼみがある。甌穴であろうが、神が産湯を使った「産だらい」といい伝え、神々の伝承がここにも息づいている。 〉 《大江町風土記2》 〈 二瀬川 私たちの学校の下を流れている川を二瀬川といいます。このあたりはけしさのよいところでず。学校からだいぶんのぼったところに、鬼ケ茶屋という家があり、その前のあたりに、二瀬川けい流と書いた立てふだがあります。そのたてふだの所から少し上にいくと、かまぶちさんというふちが二つあります。ぼくたちが夏になると、そこでおよぎます。上が男、下が女ときめてあります。男子のふちはうずがまいていましたが、むしろでふさいだので、まかなくなりました。水の上からは見えないが、もぐるとそこにも大きな石があります。そのあたりには丸い石、長平べったい石、石と石とがかさなりあって、その間をきれいな木がたきになって流れています。そこを通ると、自動車の音とおなじような音がするのでまちがえるようです。小さい子のおよぐところがないので、おじさんたちが石でかこんで、およぐところをつくりました。そしたら新聞に、カッパ天国といってのりました。 (物成小4 土平文夫) せんだく石 大江山の鬼にとらえられた女の人たちがせんだくしたという。せんだく岩があります。そのあたりには、せんだくした衣を干したという「衣かけ松」もあった。 (大江中 岩松耀子) 〉 関連項目「丹後の伝説7」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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