丹後の地名

網野(あみの)
京丹後市網野町網野

附:マンドリ
マンドリ

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京都府京丹後市網野町網野

京都府竹野郡網野町網野

京都府竹野郡網野村

網野の概要


《網野の概要》



旧網野町の中心市街地で、町役場などが集中する。福田川下流域に位置し、北は日本海、東に離湖がある。地名の由来は、垂仁天皇の時代に天湯河板挙命が但馬から当地水江へ来たり、水に浮かぶ白鳥をとるべく松原村遠津神に願って水江に網を張ったことによるという。
歴史は古く、全長195m・高さ17mの日本海沿岸で最大の前方後円墳・銚子山古墳や、弥生時代の林道跡がある。また銚子山古墳に続く東北麓には寛平法皇塚と称する「陪塚」もある。その付近の畑地を福田の園といい、そこには浦島子の屋敷跡・しわ榎木など浦島子の伝承を伴う土地がある。
網野銚子山古墳より網野の中心部を見る↓
網野中心地

古代の網野郷で、 奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」丹後国竹野郡六郷の1つ。高山寺本は「網野」、刊本では「納野」とするが誤記か。「三代実録」巻7貞観5年11月17日条に「竹野郡松原村」という村名が見えるが、松原は現在は網野の小字名となっている。
中世も網野郷で、室町期~戦国期に見える郷名。「丹後国田数帳」に「一 網野郷 八十一町九段百八歩内」と見える。また「丹後御檀家帳」には「一 あみの、里 此里に御かうあまたあり、わきのかうと申候へは毎月音信不申大かうと申斗候 家五百斗」とあり、別に「一 あみの、はなれと申寺 龍献寺 大寺也」が見える。
近世の網野村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領、宝暦9年再び宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年市制町村制により1村で自治体を形成。
近代の網野村は、明治22~33年の自治体で、明治33年町制施行。
網野町は、明治33年~現在の自治体。網野村に町制が施行されて成立。明治37年浅茂川村を合併し、旧町域は大字網野となる。昭和25年島津・郷・木津・浜詰の4か村を合併した。
網野は、明治37年~現在の網野町の大字名。平成16年から京丹後市の大字。

網野郷
網を「和名抄」高山寺本は「糸遍に冂の中にヌ」、刊本は「納」に作っている。両本とも訓を欠く。「延喜式」神名帳に記される「網野神社」(武田本はアミノ、九条本はアムノと訓ずる)。
郷名の初見は、天平勝宝4年(752)の造東大寺司牒(正倉院文書)で、「丹後国伍拾戸(割注・竹野郡網野郷)」という、この時網野郷50戸が東大寺家雑用料として封ぜられている。
天暦4年(950)の東大寺封戸荘園并寺用帳(東南院文書)に、
  丹後国五十戸(割注・竹野郡網野郷)
   調絹卅疋 (原注・朱字)「充七百文之」
   庸綿百廿屯(原注・朱字)「屯別充五十文」
   租殻百廿四石九斗三升(原注・朱字)「斗別充五文」
   中男作男(割注・和布九十斤、以大六斤為一人料、黒葛五十斤、以大五斤為一人料)、
   丁二人(割注・日功銭四貫二百八文、養絹五疋「同調」)
と記され、引き続いて東大寺の封戸であったとされる。
下って室町時代には、丹後国田数帳に「網野郷 八十二町九段百八歩内」として遠藤将監などの名がみえる。


《網野の人口・世帯数》 4497・2022




《主な社寺など》

網野銚子山古墳・小銚子山古墳・寛平法皇塚古墳

大将軍遺跡(だいじょうごいせき)大将軍遺跡

網野銚子山古墳と同じ台地上(海岸段丘か)の北東約400m付近に位置する弥生時代、古墳時代、平安時代の集落遺跡で、銚子山古墳よりにある林遺跡や古墳の南東側に広がる三宅遺跡と一体の遺跡であると考えられ、その範囲は500×100mにおよぶものと推定されている。今は畑地となっている。
『丹後王国の世界』(写真も)は、
 〈 こわれた埴輪の捨て場? 大将軍遺跡
 網野銚子山古墳の北東400mに位置する大将軍遺跡から、網野銚子山古墳や小銚子古墳の丹後型円筒埴輪と同じ埴輪が土師器といっしょにかたまって見つかりました。
 おそらく、銚子山古墳や小銚子古墳に立てられるはずだった埴輪が、こわれたため捨てられたものではないかと考えられています。また、貴人に立てかける傘を模しきた蓋形埴輪も出土しましたが、畿内には見られない蓋形埴輪で、丹後型円筒埴輪と同様に丹後独自の形をした埴輪です。
 いっしょに出土した土師器は、布留式中段階の時期のもので、情報の少ない網野銚子山古墳の年代を考える上で、貴重な情報を与えてくれています。  〉 
大将軍遺跡


林遺跡三宅遺跡

林遺跡は、小字園(その)の丘陵上にあり、すぐ西側に銚子山古墳がある。昭和五一年(一九七六)に発掘調査が行われた。弥生後期から中世にかけての断続する集落遺跡で、平安時代の土器・輸入陶磁器も多数出土した。古墳より古い遺跡である。
弥生後期から古墳前期にかけて、比較的規模の大さくしっかりした円形住居から多角形状の住居へ、さらに小規模な方形住居へ変化したことが推測できる。この時期の住居跡がまとまって検出された例は丹後地方ではほかになく、構造は山陰地方・北陸地方のものと類似している。
銚子山古墳の前方部から北東側を見る↓。
すぐ前が「しわ榎」と寛平法皇塚古墳
銚子山古墳北東側
同じ位置から南東側を見る↓。
銚子山古墳の南東側

妹古墳

「うらしまさんのしわ榎」と浦島児の屋敷跡伝承地
与謝郡筒川の伝説がよく知られているが、当地にも同じ伝説がある。    浦島児宅址伝承地
網野銚子山古墳の前方部から10メートルばかり北にある、すぐそばに寛平法皇陵古墳がある。根元だけの立木が「しわ榎」、付近のひょろひょろとした若木は「二世・しわ榎」とされる。
しかしその根元だけのしわ榎は三世といわれていて、時代から計算すればそれも怪しいかも知れないが、そうだとすればひょろひょろ君は四世かも知れない。なにせ伝説ですさかいに確かなことはわかるわけもないが、伝説の先祖に負けず巨木になれよ。
しわ榎と銚子山古墳
しわ榎から網野銚子山古墳の前方部を見る↑
付近に次の案内板がある。
しわ榎案内板

しわ榎案内板

しわ榎案内板


網野神社の戦前の祭日は10月13日で(旧暦の9月13日)、当日は寛平法皇塚古墳東南にあたる元宮の地、小字根元宮山に神輿の神事があったという。網野社所蔵の石斧・錘石各一個、斎瓮坩一は根元宮山で採取されたものだそうで、それはこの辺りであって、ここはまた網野神社の元の鎮座地でもあった。
(裏の丘(寛平法皇陵古墳)に建物があるが、これだろうか?↑)
畑や薮地や墓地になっているが、聖地中の聖地。このあたりを「福田の園」というのだそうで、福田は福田川の元になった地名と思われ、往時の中心集落かと思われる(海側には松原村という、住吉・安曇系海人と思われる村があった)。なお与謝郡の宇良神社の別当寺・宝蓮寺があった所も福田という。
網野神社は当初は銚子山古墳を擁した福田の神社であった。福は「吹く」で金を吹くの吹く、金属精錬地名と思われる。近くの林遺跡の林は磐穴師の転訛か。
浦島児はここで、玉匣をあけた、すると逸文風土記がうたうように、
常世べに 雲たちわたる
これは溶鉱炉の目出度い煙であった、と吉野裕氏が書いているが、それは本当だったように思われてくる。ここは丹後王家系の村だったと思われる。


網野神社
網野神社・本殿

銚子山古墳と八丁浜の中間あたり大口に鎮座する。この辺りはかつて墨江(すみのえ)・水ノ江とよばれ、往時は西に広がっていた浅茂川湖の水が、日本海に注ぐ河口であったといわれる。
祭神は水江日子坐主命・住吉大神・水江浦島子神。「延喜式」神名帳に竹野郡「網野神社」とみえる式内社。
社記に、
水江日子坐命は往古、根元宮山に鎮座ありしを、現今の社へ遷し奉り、毎年九月十三日の例祭日に根元宮山へ神輿ヲ渡御シ本社ヘ還御奉仕、是ヲ網野神社の旧式祭典とす。住吉大神は往古宮の奥に鎮座ありしを、現今の社に遷し奉ると、水江浦島子神は往古浦島新宮山に鎮座あり、能野(よしの)神社と称せしを現今の社へ遷し奉ると、以上の三社を享徳元年九月十三日に合併奉遷座、取立大願主松原太夫 とある。当社所蔵の棟札には「本在所薗領家スナニウマルニヨリテ墨江浦浜創中森境内奉遷座之 享徳元年九月大工棟梁奥東弥四郎取立願主松原大夫」とあり、飛砂の災害を避けて享徳元年(1452)墨江浦浜に遷座したことが知れる。社前の案内板には、案内板 〈 網野神社 (延喜式内社・旧府社)
御祭神
日子坐王(水江日子坐王)
住吉大神
水江浦鳴子神
御由緒
当社は延喜式内社であるので創立十世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを亨徳元年(一四五二)九月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。
現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正十一年(一九二二)に建てられたものです。拝殿は入母屋造の正面千鳥破風と軒唐破風付きで、こちらも大正十一年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和二年の丹後大震災の被災により、昭和四年(一九二九)に再建されました。
日子坐王(水江日子坐王)
日子坐王は、第九代開化天皇の皇子とされており『古事記』の中つ巻、第十代崇神天皇の御代に日子坐王は勅命により丹波国(古くは丹後も丹波国に含まれていました)に派遣されて上蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠」を誅されたとあり、また別の記録にはその後、日子坐王は丹波に留まり、国造りをなされたとあります。さらに日子坐王は網野神社の他、丹後町の竹野神社などに祀られ、網野銚子山古墳の主ではないかとも伝えられています。
住吉大神
伊邪那岐神の禊の時に成った上(麦)筒男命・中筒男命・底筒男命の三神を住吉大神と申し上げます。神功皇后の新羅遠征を守護したことから、特に海神として尊崇されています。
 また、網野神社の住吉大神の縁起には、古代に日本海経由で来着したという説や近世になって河田金右衛門が泉州堺(現在の大阪府堺市)から勧請したという説などがあります。
水江浦嶋子神
水江浦嶋子神は、かつて網野村字福田の園という場所に暮らし、毎日釣りを楽しんでおられましたが、ある時、海神の都に通い、数年を経て帰郷されました。今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦嶋太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています。
網野には他にも浦嶋子をお祀りした嶋児神社(網野町浅茂川)や六神社(網野町下岡)、嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔の皺を悲しみのあまりちぎって投げつけたとされるしわ榎(網野銚子山古墳)など、水江浦嶋子神に関わる史跡や伝承が今日までたくさん残っております。  〉 

網野神社

「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」
 〈 正四位下 納野(アツノ)明神  〉 

『丹後旧事記』
 〈 網野神社。網野村。祭神=住吉大明神 水の江浦児。
 国名風土記に曰く丹波国竹野郡阿佐茂川の東網野祭る所一座水江浦島児なりと神社啓蒙に見えたり日本紀雄略天皇の記に曰く即位二年秋七月丹波與佐郡筒川の庄水江日量浦島児といふ者船に乗りて釣す遂に大亀を得たり則ち化して美女となるここに於て浦島が児感じて以て婦とす相逢て後海に入蓬莱山に至る歴々の仙薬を見ると云。
 扶桑略記に曰く(初め日本紀に同じよつて略す)仙女と共に常世の国に至り海神の都に遊ぶ蓋し龍宮城なり浦島が児不老不死其後故郷に帰り父母見えんと欲す時に女玉匣授け曰く再びここに来らんと欲せば箱を開く事勿浦島が児郷に帰り是を見るに知る人更に一人もなし驚き怪しみ人に問里人答て曰く聞く昔浦島児といふもの海に遊んで遂に帰らずといふここに於て始めて其蓬莱に至りし事を知る忽神女の所へ赴んとするに向海何れの許に有るを知らず浦島が児茫然として神女のいひしを忘れて少し玉匣を開く紫雲忽出て常世の国に棚引く浦島が児大に悔み其形老翁と成る遂に死す時淳和天皇天長二年なり島児常世国に有し程凡三百四十八年なり。日本後記に曰く天長二年郷に帰る今に三百四十七年なり浦島が児蓬莱宮に至り爰に居る事三年と思と也。  〉 

『大日本地名辞書』
 〈 【網野神社】神祇志料云、今浦嶼大明神といひ、又浅茂川明神と云ふもの是也、蓋日下部首の祖彦坐命を祭る、按ふに長明の無名鈔に、伊佐茂川神は浦島翁のなれる也とある浦島翁は、世に言伝ふる筒川嶼子が事にて、其説は信じがたけれど、此嶼子を釈日本紀に引る丹後風土記には、日下部首等の先祖といへる依て思ふに、もと日下部首の祖神をば祭れるより、世に浦島子と謬り伝へたるなるべし、日下部首依羅宿禰并に同祖なれば、殊に網野といふに由ありて聞ゆ。
丹後風土記曰、…略…
書紀通証云、無名抄曰、与謝郡にあさも川の明神と申神います、国の守の神拝とかや云事にも、御弊など得たまひて、かずまへらるる程の神にて、是は昔浦島の翁の神に成れるとなむ、或曰、後紀、天長二年、浦島子帰郷、谷響集曰、舎人親王撰日本紀者、在養老八年、先於天長二年者過一百歳焉、是知云天長二年者、得非不稽之失乎、本朝神仙伝云、経百歳而帰、此説為是、俗説弁曰、聖武朝所撰万葉集、既載帰郷而死、其謬不待弁也。
補【網野神社】○神祇志料、丹波郡阿佐茂川の東網野村に在り、浦島大明神と云ひ、又浅茂川明神と云ふ(湯島道之記・丹後宮津志・神名帳考証・神名帳考・三才図会、行嚢鈔・丹波国図)蓋丹下部首の祖彦坐命を祭る(斟酌、新撰姓氏録・丹後風土記・長明無名鈔)  〉 

「丹後国式内神社取調書」
 〈 網野神社
○【和名】竹野郡網野鳥取 〇在阿佐茂川東東網野村 ○【諸社一覧】阿佐茂川東網野村ニアリ ○和名納野トデル納ハ細ノ誤ニテ則網野ナルベシ ○【田志】ニ阿佐茂川ノ東ニアリ浦島大明神ト云ヘリ別號ハ吉野社トモ考云ヘリ、社僧来迎寺ト云フ密宗也 ○鴨長明抄ニ丹後国よさの郡にあさも川の明神と申神います国の守の神拝とかやいふことにもみてぐらえ給ひてかすまへらるゝほどの神にてぞおはすなるこれは昔浦島の翁の神になれりとなんいひ傳へたる云々 コノ考ハ逸国内神名帳ノ附録ニアリ
【三才】在納野村俗爲網野浅藻川東【覈】祭神水江浦島子東網野村ニマス今浦島大明神ト称ス日本紀雄略廿二年云々丹後風土記云々【明細】所在浦同上祭神筒男三神浦島児神祭日九月十三日【豊】竹野郡網野村十一月二日【式考】旧事記宮津府志ニ神社啓蒙ヲ引テ網野社在丹後国竹野郡阿佐茂川東網野村所祭之神一座水江浦島子也トアルモ如何アラン)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 網野神社 村社 字網野小字大口鎮座
 (延喜式)竹野郡、網野神社  
(神社明細帳)祭神住吉神社 水江浦島子神
由緒 創立不詳網野神社の由来を尋ぬるに、垂仁天皇天下を知食御代天湯川板挙命但馬國より、當地水江に來り彼の浮べる白鳥を取り奉り鎮守と爲さんて墨ノ江水笑(ミツノエ)の松原村遠津神に御所誓ありて此水江に網を張りしにより後に水江網野とは称すと傳ふ、今網野郷細野村の西に當る湖水を村人川績海(カヅミ)と称し、東湖水を離レ池と傳ふ、東北は海濱にして北海に島なしと傳へて海中にタ日を拝するより墨ノ江とは言ひ傳ふ、東に鳥取郷鳥取村あり、元つ社地園領家は砂に埋るにより墨江浦濱に奉遷座、享徳元壬申年九月取立願主松原太夫と傳ふ、往古福田村、松原村は當社氏子也福田、松原と云ふ地今にあり、
水江浦島子神の由來を尋ぬるに、此島子が祖先より御親捕島太郎と云ふ人の家居せし地なりとて、今網野村字福田のソノと云ふ地名あり、浦島子毎日釣を楽みくらせしかぱ終に海神の都に通ひ、数年を経て帰郷せし神なり、今福田の園といふに島子の皺榎木といふあり、皺をこの榎に投け附け終に老衰して死す
一本殿  梁行六尺三寸  桁行一間五寸
一拝殿  仝二間     仝五間三尺
一上屋  仝三間二尺   仝四間
一境内坪數  千七百七十八坪
一氏子  三百八戸
境内神社五社あり
  早尾神社 祭神 天湯川板擧命
由緒 創立年月不詳、鳥取事件によりて當地に來りし神にて、今春秋日岸の中日を例祭日となし、網野郷内外三里四方の村々寄集り相撲をとり、藤葛、竹、木なごを持寄り売買すること往古より仕来りなり、これを網野神社の取網神祭とは言ひ傳ふ、
  小金神社  祭神二座 金山彦命 高オカミ神
 由緒 創立年月不詳、往古より當村字墨江浦濱に貴船神社鎭座有之處當社へ合併
  愛宕神社 祭紳火産霊神
 由緒 不詳
  大日神社 祭神 大日オカミ命 若宇賀之女命
 由緒 不詳
  市杵島神社  祭神 市杵嶋比女命
  由緒 不詳
(社記)祭神 水江日子座王命 住吉大神 水江浦嶋子神
水江日子座命は往古根元宮山に鎭座ありしを、現今の社へ遷し奉り毎年九月十三日の例祭日に根元宮山へ神輿を渡御し本社へ還御奉仕、是を網野神社の旧式祭典とす、
住吉大神は住吉宮の奥に鎮座ありしを現今の社に遷し奉ると、
水江浦嶋子神は往古浦嶋新宮山に鎭座あり能野(ヨシノ)神社と稱せしを現今の社へ遷し奉ると、
以上の三社を享徳元年九月十三日に合併奉遷座取立大願主松原太夫
 明治六年二月十日村社列格(豊岡縣)
 明治四十年三月一日幣饌料供進指定(京郁府)
(國名風土記) 丹波國阿佐茂川之東網野邑祭所神一坐水江浦嶋児也
(丹後旧事記) 祭神住吉大明神、水江浦島児
(大日本地名辞書) 神祇志料云今浦嶋大明神といひ、又淺茂川明神といふもの是なり、蓋日下部首の祖彦坐命を祭る、按ふに長明の無名鈔に、伊佐茂川神は浦島翁のなれる也とある浦島翁は世に言傳ふる筒川嶼子が事にて、其説は信じかたけれど、此嶼子を釈日本紀に引ける丹後風土記には、日下部首の祖神をば祭れるより、世に浦島子と謬り傳へたるなるぺし、日下部首依羅宿彌並に仝祖なれぱ、殊に網野といふに由ありて聞ゆ  〉 

『網野町誌』
 〈 網野神社(式内・府社) 網野小字大口鎮座
 祭神 水江日子坐王・住吉大神・水江浦島子神
 水江日子坐王命は往古根元宮山に鎮座、住吉大神は往古宮ノ奥に鎮座、水江浦島子神は往古浦島新宮山に鎮座し熊野神社(一説吉野社)と称していたが、享徳元年(一四五二)九月、現在地に合併遷座したと伝えられる。(「社記」)

※その他網野神社祭神についての諸伝
(二神説)
 住吉大神・水江浦島子神(「神社明細帳」『丹後旧事記』『丹後一覧集』「丹後式内社垂遊本源考」)
(四神説)
日子坐王命・相殿天湯川桁命・浦島子神・住吉三筒男神、国内神名帳正四位下網野明神ト見エ、元亭子山(ちようしやま)ノ南、宮家(みやけ)ノ山上ニ日子坐王ヲ祭リシテ、天湯川桁命但馬国ヨリ此ニ来リ松原ニ綱ヲ張リ日子坐命ノ神霊ニ祈誓シテ水江ニ浮ベル白鳥ヲ取り垂仁帝ニ奉リシヨリ松原ノ地ヲ網野ト称シ、神社ヲ其奥ニ移シ奉ル(「丹後国式内神社考案記」)

注一 住吉大神は「住吉三神」又は「墨江三神」と称され、底筒男命・中筒男命・表筒男命をいう。
 二 宮家(みやけ)の地名は「宮毛」とも当てる。「屯倉」の訛伝であろうか。
 (一神説)…それぞれの一神のみを祀るとされるが、「四神説」の誤伝かもしれない。
○日子坐命(「神祇志料」)
○大湯川桁命(「丹後式内神名改」「丹後国式社証実考」)
○浦島子(「神社啓蒙」「和漢三才図絵」「本朝諸社一覧」「神社覈録」『大日本神祇志』『田辺府志』)
○住吉大明神(『丹哥府志』)…寛平法皇の神霊を祀る…

(いまひとつの住吉神説)
 延宝五年(一六七七)九月河田金石衛門(太良左衛門とも)探ク住吉明神ヲ信仰シ泉州堺ヨリ住吉三筒男神ヲ勧請シテ当社相殿ニ併セ祀ル-後略-(「考案記」)(河田氏は、当時「本覚寺」の檀頭でもあった。)
(永浜宇平「郷土と美術」二三号〝網野神社の考察〟)

注 しかしながら住吉大神は(イ)説のように、「往古宮ノ奥ニ鎮座」されていた訳で、河田氏説も採るとすれば、おそらく古代「日本海経由で来着、すでに祀られていた住吉神」に重複して、新たに泉州堺から、「瀬戸内経由で入った住吉神」を勧請再祀したことになる。両説には略一〇〇〇年のひらきがあろう。
由緒 網野神社は延喜式内社(以下式内と略記)であるので創立は一〇世紀以前とみられる。元の社地は銚子山古墳東南の根本(ねもと)宮山で「園(その)」という所。しかしこの場所は飛砂に埋もれそうになったので、享徳元年九月、現在地墨江浦浜に遷座したのである。
注 「墨江浦浜」とは現在の「小字大口」付近を指すのであろうか。元の社地から現在地に移ったことについて、享徳元年の当社の棟札に
『本在所園領家(そのりょうけ)砂ニ理マルニヨリテ墨江浦浜創中(ママ)森境内奉遷座之 享徳元壬申年九月大工棟梁奥東弥四郎 取立願主松原住松原太夫』とあり、又別に『網野明(ママ)二時(明治二己巳年三月)右之棟札を取調候処 墨跡薄く 立合之上 水をかけ漸く写書取置候』(後略)とある。この棟札は当社に伝わる唯一の証拠である。
補注 明治六年(一八七三)二月一〇日村社列格(豊岡県)、明治四〇年(一九〇七)三月一日幣饌料供進指定(京都府)、(中略)当社は昭和一四年から昇格運動を続け、昭和一八年(一九四三)一〇月一日付を以て府社に昇格した。

社名について
 社名は地名から発しているので、まず「網野」という地名の起こりをかんがえてみると、「神社明細帳」に垂仁天皇の御代、天湯河板挙命が水江に浮かぶ白鳥を捉えて鎮守にしようとして、松原村の遠津(ルビ・とおつ)神に祈って水江に網を張ったというところから「網野」という-とある。
 この「網野」という地名は天平勝宝四年(七五二)の正倉院文書「竹野郡網野郷」を初見として、「和名秒」(九三八)にもみられる。また「網野神社」という社名は「節用集神社啓蒙」「湯島道之記」「丹後宮津志」「神名帳考記」「三才図絵」「丹波国図」「丹後風土記」「長明無名抄」等々にも記されているという。(編注 神名「住吉」は、スミノエとも読めることから、「墨の江・澄の江」などの地名と一致する)
祭礼 例祭日は元来一〇月三一日(陰暦九月一三日)であったが現在は一〇月一〇日。
氏子数は昭和九年に七〇〇戸ばかり、昭和五〇年代一四〇〇戸以上。
当社は代々森氏が宮司を世襲していた(延宝五年=一六七七=神主 森左衛門の板札あり)が、現在の宮司は行待氏である。
付記 例祭当日、宮司は御神体を捧持して、銚子山南の元宮まで御旅をする神事を行う。
注一 当地の古い記録としては、祭神・由緒のように、これらの神々の元社地が銚子山付近に在ったとされているが、巨大な前方後円墳としての銚子山と神々との間に、なんらかの相関はないのだろうか。
 いずれにしてもこの辺りが『網野』の発祥地であったことは、考古学的にもほぼ実証されており、またこの区域が当時大きな入江、(水の江・澄の江)の畔であったことも忘れてはならない事実であろう。
二 右のように「天湯河板挙命」(他にも異なる表記法あり)が登場し、網野地名の起源が語られている。その意味でもこの神(人物)は当地にとって重要なキャラクターであり、その名は次のように『日本書紀』に登場する。(但し『古事記』では〝山辺の大タカ〟という名で現れる)
 「垂仁帝の子誉津別王は物が言えなかったが、ある日大空をとぶ白鳥をみた時『あれは何か』と口を動かした。垂仁帝は鳥取造の先祖である天湯河板挙に白鳥を捕えるよう命じたので、かれは遠く但馬(一説には出雲)まで白鳥を迫ってこれを捕えた。」(原文の大意を口語になおした)
 但馬・丹波(のち丹後)の伝承では天湯河板挙が白鳥を追った道筋は、但馬八鹿町の網場(なんば)(和那美神社)、豊岡市森尾(阿牟加神社)、同下宮(久々比神社)を経て網野に到り、鳥取(現弥栄町?)でこれを捕えたというものである。
 当町内では網野神社をはじめ、浅茂川・小浜・郷・島・掛津の各区で天湯河板挙を「早尾神社」神として祀っている。
(ただ塩江の早尾稲荷社は祭神が異なる)
注・「久々比(くぐい)」とは白鳥のこと。
・右の伝承では「網場」「和那美」(ワナの綱)、「阿牟加」(網の場所)、網野など、「あみ」がキーワードとなっている。(網野の小字名「南浜(なあば)」も網場の転かもしれない)
・民俗学では白鳥伝説を「鍛冶伝承」とみる。(〝白鳥伝説〟項末文献)-例えば、弥栄町鳥取付近に、広大な遠所製鉄遺跡が発見されたように-
○境内神社
早尾(ルビ・はやお)神社 祭神 天湯河板挙命
 由緒 創立年月不詳、鳥取事件(先述)によりて当地に来りし神にて、今、春秋彼岸の中日を例祭日となし、網野郷内外三里四方の村々寄集り相撲をとり、藤葛・竹・木などを持寄り売買すること往古より仕来りなり、これを網野神社の取網神祭とは言ひ伝ふ。
小金(おがね)神社 祭神 金山彦命・高おかみの神の二座-(現在蚕織神社に合祀)
・小金神社の祭神が金山彦命であり、この神は鉱山の神とされる。
・元、墨江浦浜にあった貴船神社を小金神社に合併(年月不詳)、貴船神社の祭神が高おかみの神で水や雨を司る神である。
愛宕神社 祭神 火産霊神
大日霊(おおひるめ)神社 祭神 大日霊神(天照大神)・若宇賀之女命(豊受大神)(現在蚕織神社に合祀)
市杵島神社 祭神 市杵島比女命
蚕織(こおり)神社 祭神 天照大神・天棚機姫大神・和久産巣日神・大宜津比売神(大正一四年四月鎮座)
旧『町史』によれば、他にくれはとり・くれはとら(あやはとり?)の二神祭祀とある。
立脇(たてわき)神社 祭神 元三宝荒神(三柱神か)
 由緒元尾坂区字立脇に鎮座。創立不詳、享保一四年(一七二九)と文化六年(一八〇九)に再建、明治二年(一八六九)「立脇」神社と改称、同五年村社となる。昭和三七年(一九六二)七月二三日、尾坂区住民離村の際当網野神社境内へ遷祀された。


 蚕織(こおり)神社勧請については、網野神社所蔵の「蚕織神社由緒略記」に詳しい。いま、その要点を抜き書きすると-大正一四年四月、丹後縮緬同業組合竹野郡支部と竹野郡蚕糸同業組合の関係者が協議して、本郡に織物と養蚕の神を奉祀することになり、竹野郡の中心網野町の網野神社に奉斎した。(時の府知事の斡旋もあって)織物神は京都紫野今宮神社分霊を、養蚕神は宮中紅葉山の養蚕神の分神を勧請して合祀、社名は貞明皇后が定められ、四月一五日、網野町民、郡内織物養蚕業者数千人が参列、行待神職が斎主となって鎮座祭を執行した。-という。
余話
その一
坪内邁進が明治三七年(一九〇四)新舞踊劇『新曲浦島』を発表した。同三九年芝の紅葉館で初演、劇中に「網野神社境内の場」がある。
その二
昭和三〇年代後半の某日、作家松本清張が網野神社に参詣している。推理小説「Dの複合」取材のためか。  〉 

境内社で見落とせないのが、網野の地名と歴史に深く関わる、
早尾神社(はやおじんじゃ)
早尾神社
本殿の向かって右に鎮座。
案内板には、早尾神社の案内板
 〈 早尾神社
網野地名の起源、病気平癒の御神徳
御祭神
天湯河板挙命
御由緒
創立年月日不詳
『日本書紀』の垂仁天皇記二十三年には、「第十一代垂仁天皇の皇子誉津別王は三十歳になられても言葉をお話しになりませんでした。ある日、王が大空を飛ぶ白鳥をごらんになられて、『あれは何か』とお生まれになって初めてものを仰いました。その様子を父君である垂仁天皇はたいそう喜ばれて、天湯河板挙にその白鳥を捕らえてくるようにお命じになられました。そこで大湯河板挙は但馬国(一説には出雲国)まで迫って白鳥を捕らえ、これを天皇の御前に献じました。それから王はこの白鳥と遊ぶうちに言葉を話されるようになられたのです。この功績を讃えられ、大湯河板挙には鳥取造の姓を下賜されました。」とあります。
 こうしたことから、早尾神社は病気平癒の御神徳があり、古くから人々より篤く信仰されております。
網野の地名の由来
この地域には天湯河板挙命が白鳥を捕らえる際、松原村(網野の古い地名)の遠津神(日子坐王との伝承もあり)に祈願をし、水江に網を張ったことから、松原村は網野と称されるようになったとの言い伝えもあります。
また天湯河板挙命は網野町の浅茂川の日吉神社境内社をはじめ、いくつかの場所で「早尾神社」として祀られております。  〉 

天湯河板挙(あまのゆかわたな)命は鳥取氏や倭文氏の祖神になる。この一族の丹後での繁栄は網野周辺だけに限られたりはしない。舞鶴にも加悦町にも式内社の倭文神社があるし、鳥取郷の地名は弥栄町にあり、白鳥の伝説や地名、早尾神社とか同神を祀る社はあちこちに見られる。網を張って魚を捕ったのではなく、主に鳥を捕ったのだが、鳥は鉄霊も意味していて、弥栄町鳥取に遠所古代の製鉄コンビナート遺跡があるように製鉄の氏族であった。

蚕織神社(こおりじんじゃ)
蚕織神社
案内板

 〈 蠶織(こおり)神杜
織物業の守護、技能芸能の上達、商売繁盛の御利益
御祭神
天照大神
天棚機姫大神
和久産巣日神
大宜津比売大神
 金山彦命 鉱山の神(元小金神社)
 高?神  貴船神社の御祭神、水や雨を司る神(元小金神社)
 大日?神 太陽の神、天照大神と同神(元大日?神社)
 若宇賀之女命 食物を司る神、豊受大神と同神(元大日?神社)
(こちらの四柱の神々はかつて網野神社の境内杜に祀られておりましたが、大正十四年一月二十二日に蠶織神社合祀されました。)
御由緒
大正十四年(一九二五)四月、丹後縮緬同業組合竹野郡支部と竹野郡蚕糸同業組合の関係者が協議して、本郡に織物の神(天照大神と天棚機姫大神)と養蚕の神(和久産巣日神と大宜津比売神)を奉祀することになり、竹野郡の中l心網野町の網野神社に奉斎しました。(時の府知事の斡旋もあって)織物神は京都紫野今宮神社御分霊を、養蚕神は皇居の紅葉山の養蚕神の御分霊を勧請して合祀し、社名は大正天皇の皇后様である貞明皇后のお言葉のまにまに「蠶織神社」と定められ、四月十五日に網野町民、郡内養蚕者数千人が参列し、盛大な鎮座祭が斎行されました。
今日に至っても、毎年四月の中頃には織物業に携わる方々が中心となって、産業の振興と発展を祈願する盛大な神事が執り行われております。
 現在の蠶織神社の社殿は、天明二年(一七八二)に建立されたもので、一間社流造の社殿の各部には江戸時代中期の匠による賑やかな彫刻が目を引きます。
蠶織神社は、その由緒に皇室とのご縁が非常に深いため、社紋は「菊」と「桐」になっており、社殿の棟にもそれらの社紋があしらわれております。
大正十一年(一九二二)に現在の網野神社の本殿と拝殿が新築されるまで、こちらが野神社の本殿として祭敬されてまいりました。  〉 


立脇神社

立脇神社
案内板

 〈 立脇神社(たてわきじんじゃ)
元網野町尾坂区の氏神様
御祭神
稚産霊神 穀物の生育を司る神
保食神  食物を司る神
稲倉魂神 稲の生育を司る神
火遇津智神 防火、竃の神
御由緒
創立年月日不詳
 かつて立脇神社は網野町尾坂区字立脇に鎮座しており、尾坂区の氏神様として祭敬されてまいりましたが、第二次大戦後の世相の変化に伴い尾坂区を離れる人々が増えたため、昭和三十七年(一九六二)七月二十三日に当網野神社境内へ遷祀されました。
 現在、尾坂区は無人の地になっていますが、立脇神社は尾坂区の旧住民たちにより今日まで篤く信仰されております。
 社殿は享保十四年(一七二九)と文化六年(一八〇九)に再建され、明治二年(一八六九)に「立脇神社」と改称、同五年村社となりました。
 立脇神社御祭神のそれぞれの御神徳には、食物や稲や竃に関するものがあり、生活全般の守護神として崇められてきました。また、このような御神徳から尾坂区住民は古くから「三宝荒神さん」や「お稲荷さん」として親しんできたようです。  〉 

愛宕神社のマンドリ
愛宕神社(網野神社境内)
本殿の裏の小高い山(砂丘か。比高10mくらい)に愛宕神社が鎮座する。当社では7月24日に、マンドリが執り行われる。
この日の17:00から神事が始まる。
マンドリの「尾」
マンドリというのこれ↑。これに火を付けてグルグルと振り回し、火難除けを願う。ワラで作られていて、長さはワラの長さで、7、80センチくらいのもの。16箇ある、参加者が各自で制作するのだそう。
ワラがないとか、火のついた物を振り回すなどは危険だとかの理由で、昭和40年代になると行われず、中断ということになっていたが、平成13年に宮司さんたちの努力で、半世紀ぶりに復活させたという。


先だって神楽や網野太鼓などが奉納される。

19:30、愛宕神社で採火された御神火が本殿前へ運ばれてくる。この火でマンドリに点火する。

マンドリというのはマンドリンのことではない。舞鶴吉原ではマンドル、あるいはマンドロと言うが、漢字にすれば万燈籠(まんとうろう)のことであろう。
火が今は1灯しかないが、恐らく本来はこのうしろには松明や燈籠を持った多くの人びとがゾロゾロと従っていて、それを万燈籠と呼んだものかと思われる。火除けの神事であったものか、盆の行事であったものかはよくわからない。いつの世にかは、全国的に行われていたようで、各地に万燈山などの地名を残している。
20:00くらいからマンドリが行われる。振り回す時間は1分もないので、16人いても1時間とはかからずに終了する。




貢主神社(みつぐじんじゃ)
貢主神社

『網野町誌』
 〈 貢主神社 祭神 橘良利 網野長田区内の、近辺の人々が「みつぐ町」と呼ぶ所に鎮座
(寛平法皇陵との関連考)
貢主神社を語る時、寛平法皇陵に触れぬわけにはいかない。両者は次のように主従の関係にある伝承を持つからである。以下『竹野郡誌』から『宮津府志』『丹哥府志』による部分を抜き書きすると
○寛平法皇陵 字網野銚子山の麓にあり
『宮津府志』網野郷-中略-又石棺の露呈せる古墳あり
『丹哥府志』寛平法皇橘良利を従へ諸国を巡遊し遂に網野村に崩ず、時は秋七月なりよって火葬して京都に送る、故を以て其神霊を祀る、亭子(ちょうし)山といふ山の下を宮の下といふ、山の上に小高き処あり其処を石のからとといふー中略-
 愚接するに宇多天皇-中略-浮屠(ふと)(仏陀)の教に帰伏し-中略-法皇といふ、法皇の始なり、法皇遠遊を好み橘良利を従へて処々の名山に巡遊したまふ-中略-いまだ丹後に巡遊したまふを審にせず、又陵志に法皇陵を丹後に載せず-後略-
次は吉川弘文館の『国史大辞典』からの抜粋。
「宇多天皇」八六七-九三一(八八七-九七在位)
とあり光孝天皇のあとを受けて二一歳で即位、菅原道真らの重用もあり、その治世は後に「寛平の治」と称せられた。寛平九年三一歳で譲位、太上天皇の尊号を受け、その後は朱雀院・仁和寺御室・亭子院・六条院・宇多院などに住した。昌泰二年(八九九)一〇月一四日、仁和寺で出家、のち尊号を辞して法皇と称した。すなわち法皇の初例である。承平元年(九三一)七月一九日、仁和寺御室で六五歳をもって崩御、大内山陵に葬られた。宇多院と諡され、また亭子院帝・寛平法皇とも称された。

 (同書)大内山陵は京都市右京区鳴滝字多野谷にあり、仁和寺の北一キロメートルにあたる。陵形は方形にして封土なく、周囲に空堀をめぐらしている。天皇崩御の承平元年七月一九日の夜、遺骸を仁和寺より大内山の魂殿に遷し、九月六日未明同所に火葬、拾骨のことなくそのまま土を覆って陵処とした。「歴代廟陵考補遺」(安政二年=一八五五浅野長祚著)は現陵の地を示し、文久修陵の際に修治を加えた。
従者「橘良利」については、右の辞典その他の文献によってもその名を見出すことはできなかった。しかし伝承では、「橘良利」が貢主神社の祭神とされている。
 また、寛平法皇陵については、「町誌上巻」二〇二ページに、それが銚子山古墳前方部の陪塚であり、したがって四世紀後半から五世紀ころのものであることが記述されている。
 以上を総括すると、「陵」は古墳時代に造られ、その後五〇〇年以上を経過してから、その陵の上に「故を以て」寛平法皇の「其神霊を祀る」小祠が建てられ、その北東に橘良利(おそらくその霊)を寛平法皇祠の守護神(見継(みつ)ぐ、見守り続ける)貢主(みつぐ)神社として設けたのではないかと考察もできる。「陵」と法皇の「神霊」とはさし当たり関連がないことと思われる。
 「故を以て」の「故」は不明であるが、『丹哥府志』も「亭子山」と宛て、宇多天皇は「亭子(ていじ)院帝」でもあったので双方の表記の一致がこの説を生じたのかも知れず、『竹野郡誌』もまた同じ見解を採っている。  〉 



曹洞宗日照山心月寺
心月寺
網野神社の隣にある。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 心月寺 字網野になりて曹洞宗なり
(同寺調文書)創立の年月は不詳なり、開山廓門和荷と號す、安政五戊午三月火災に罹り堂宇記録等残らず焼失す、明治十六年に再建す、世代を経ること十九代なり  〉 

『網野町誌』
 〈 日照山心月寺 曹洞宗 網野
本尊 釈迦牟尼如来
<由緒・伝承>
(同寺調文書) 注 明治一五年の当山の図は本誌口絵に掲載した。
「神社寺院明細書」(「浅茂川区有文書」)
   京都府管下丹後国竹野郡網野村字下小路
             同郡岡田村龍献寺末
              曹洞宗 心月寺
一 本尊 釈迦牟尼如来
一 由緒 宝永元甲申年四月龍献寺ノ世代廓門和尚ニ帰依ノ士女相議シ堂宇ヲ創立シ始祖トス星霜ヲ経ルコト百五拾余年ニシテ安政五戊午年三月ニ火災ニ罷リ二小堂ヲ立テ仏像ヲ安置ス世代ヲ経ルコト十九代也
一 仮本堂 竪二間三尺横二間 一 庫裡 竪七間三尺横三間三尺 一 表門 竪二間横二間 一 鐘楼堂 竪一間横一間 一 土蔵 竪一間三尺横一間三尺
右境内仏堂 壹宇
一 帝釈堂 竪二間横二間
  本尊 梵天帝釈尊者
  由緒 享和二壬戌年四月創立
一 境内所有地耕地壹反廿六歩 網野村字下小路
地価(略)
一 檀徒 九拾壹戸 人員 三百六拾二人
一 府庁へ距離三拾五里十四町
  以上
右之通御座候也
           竹野郡網野村心月寺住職
明治拾五年一月  教導職試補 甘泉三應
         同邑檀徒惣代人 室野兵左エ門
           仝     森 清五郎
           仝     上田助石工門
 京都府知事 北垣国道殿
当山は龍献寺五世聖州廓門大和尚の開基によると伝えられているが、その年代は度重なる火災のため資料が湮滅していて確定できない。ただし、現有する寺記は貞享二年(一六八五)からはじまっているとのことである。
注 天正三年(一五七五)銘の逆修塔が当寺に奉置されている。また、承応元年(一六五二)の「龍献寺古文書」には〝網野村・小月寺″と寺名が記載されているので、当寺はそれ以前に存在していたことになる。〝道修〟については〝宝聚山本覚寺″の項を参照のこと。
「縁城寺年代記」には、心月寺享保二年七月一九日火災との記載がある。安政五年(一八五八)三月にも二七戸が罹災する火災が発生、そのため同寺も類焼している。その二五年後の明治一六年(一八八三)、甘泉三応和尚により心月寺は再建された。
 しかし、昭和二年(一九二七)三月七日の奥丹後震災により心月寺は倒壊、観音堂と山門(半壊)は残った。
注 奥丹後震災における心月寺の被害は、旧網野町が作成した調査表に次のように記載されている。
山門、本堂、位牌堂、鐘楼、庫裡外四棟全壊、座敷、炊事場半憤、
なお、山門は震災時横転したが建て直して現状を保っている。
翌三年、庫裡、位牌堂を再建、昭和九年より本堂の再建に着手したが、第二次大戦による物資統制により建築材料の入手が困難となり工事中止のやむなきに至った。さらに同一八年(一九四三)に梵鐘も供出した。梵鐘には〝文化一五年三月江戸本町三文字屋平兵衛寄附″との銘があった。
 昭和二七年(一九五二)に梵鐘を再鋳、同三八年(一九六三)に本堂の再建成り、同年一二月に落慶法要が営まれた。二十世霊山教順和尚は同型一年三月一六日に退院(住職を退くの意)、二十一世に甘泉忍法和尚が現住となり、昭和四八年(一九七三)八月に本堂内陣荘厳並びに鐘堂再建の運びとなった。
注 貞享二年(一六八五)以後の寺歴については、甘泉忍法和尚が整理されたものを参考とした。
「神社寺院明細書」(「浅茂川区有文書」)
  京都府下丹後国竹野郡網野村字大口
     曹洞宗心月寺境外仏堂観音堂
一 本尊 十一面観音菩薩
一 由緒 不詳
一 建物 略
一 敷地坪数 五拾七坪 地種 民有地第一種網野村共有地
一 信徒人員 壹百五拾人
一 管轄庁追距離数 三拾五里拾四丁
    右之通り御座候也
              右村心月寺住職
明治十五年三月          甘泉三応
右信徒惣代    室野兵左衛門
         森清五郎
         上田助五郎
右村戸長     松田 量
京都府知事 北垣国道殿  〉 


日蓮宗宝緊山本覚寺
本覚寺
銚子山古墳への登り口にある寺院。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 本覺寺 字網野にありて日蓮宗なり
(同寺調文書)寶聚山本覺寺と稱す天正元年頃の創建といへとも詳ならす開山は善性院日永大和尚にして、開基は河田金右衛門なり、
元眞言宗の一草庵にして發願者河田金右衛門但馬國豊岡立正寺より善性院日永大和尚を屈請して聞法受戒改めて寳聚山本覚寺と称す爾來三百四十歳住職の変代すること廿五代檀家二百三十餘戸信徒一千五百餘名なり
(宇川上山寺年代目録)
 安永四年鐘鋳
(河田家調)開基河田金右葡門は天正年中和泉國堺より當地に移り天正九年逝去以来一族繁榮し第十代の孫に武藏國池上本門寺に座せし日因大和尚を出す現代森藏氏は十二代なり  〉 

『網野町誌』
 〈 宝聚山本覚寺 日蓮宗 網野
本尊 一塔両尊四士 -法華経宝塔釈迦牟尼仏多宝如来-
<由緒・伝承>
(同寺調文書)注 明治一五年の当山の図は本誌口絵に掲載した。
「神社寺院明細書」(「浅茂川区有文書」)
    京都府管下丹後国竹野郡網野村字京街道
           本山立本寺末寺
             日蓮宗  本覚寺
一 本尊(省略)
一 由緒(省略)
注 本尊、由緒については記載事項が寺記に相違するところが多いので省略した(詳細は枠外の記事を参照されたい。
一 堂宇間数 略
一 境内坪数 四百拾坪民有地第一種
一 境内仏堂 一宇
  位牌堂 略
本尊 繹迦牟尼仏
  由緒・不詳
一 境内所有地
  宅地 壹反三畝廿歩 網野村京海道
 地価(省略)
一 境外所有地
  山林 壹町七畝拾二歩 網野町妹
     地価(省略)
一 檀徒人員 八百四拾七人
一 管轄庁迫距離 三拾五里十四町余
以上
右之通御座候也  竹野郡網野村本覚寺住職
明治十五年一月     権少講義 木村日実
             同村檀徒総代人
                 河田助五郎
             同   吉岡要助
             同   森田松造
京都府知事 北垣国道殿

 本覚寺は出石本高寺九世日真の弟子善性院日永上人の開山である。和泉国堺の河田金石衛門は安土法難ののち迫害を遁れ祖像(仏心院日?の開眼の銘あり)と氏神の住吉明神を捧持して郷村に隠れ、その後当山(真言宗の小庵)に入り、二か年にして寂した(天正九年九月一八日)。翌一〇年六月、織田信長が京都・本能寺において明智光秀に討たれ、ようやく仏法は法難に終わりを告げた。天正一五年(一五八七)、豊臣秀吉は信長の日蓮宗に対する非礼を詫び、宗旨弘教の公許を出したので、故・金右衛門の妻は日永上人を請じて開山としたのである。上人の在山は一六年間で、その後上人は但馬豊岡の立正寺の開山となった。したがって当寺には日永師の墓碑はない。
注 安土法難とは、日蓮宗の狂熱的性格を喜ばなかった信長が、はじめから浄土宗に荷担し日蓮宗を計画的に弾圧したこと。天正七年(一五七九)五月に安土浄厳院で安土宗論が行われた。
 当山は、はじめ本妙寺と称していたが、寛文二年(一六六二)六代一樹院日通の時に本覚寺と改めた。
なお本山である京都・立本寺審師の許可本尊と、現住(当時)の芳師の本尊の送り状が現存し、送り状には次のように記載されている。
 開山の日永上人は在山十六年にして豊岡へ移り立正寺の開山となる(寛永十五戊寅年十二月十日寂)

 河田家調-武蔵国池上本門寺の日因上人は金右衛門十代の孫である。
「芋川・上山寺年代目録」-安永四年鐘鋳
旧『網野町史草稿』-当寺境内には元和元年(一六一五)、元禄四年(一六九一)の逆修塔がある。
注 〝逆修″とは、生前から死後の菩提を祈って仏事を行うこと。〝預修″ともいう。潅頂経や地蔵本願経などの説に基づくが、わが国では平安時代から盛んになった。また、生前に法名をつけたりあらかじめ位牌や石塔に朱書したり、あるいは早死をした若者のために年長者が仏事を行うことなどもいう。(『岩波仏教辞典』)
 昭和二年(一九二七)三月七日の奥丹後震災が同寺に与えた被害は、(旧)網野町が作成した調査表に次のように記載されている。
 山門、本堂、庫裡、位牌堂、座敷三棟 其ノ他建物五棟 全壊
本覚寺は昭和五、六年(一九三〇、三一)ころに再建されたが、「各地方注文帳九代目中井権次」(宮津市中井家保存)によれば、昭和五年五月に当寺から欄間の注文がなされている(「丹波柏原彫刻物師中井氏とその営業形態」日本建築学会計画系論文報告集第三九六号)し、多くの貴重な彫刻物が保存されている。また、現在の山門は昭和二八年(一九五三)一二月六日に中村淳治により建立されたものである。
注一 保守的な様式を保っていた丹波、丹後の社寺建築も近世中期以降装飾化の度合いを強めていくが、この時期、丹波柏原の中井氏が彫刻師として活動を始め、また当地域への播州大工の流入が盛んになる。(前述論文報告集)
二 中村淳治(一九〇二~一九八八・久美浜町字関出身)は、昭和五年(一九三〇)に京都の三十三間堂の修復工事に責任棟梁として活躍した。多くの重要文化財の修復保存に尽力、文化庁長官から「文化財功労者」として表彰された。細野町内諸寺院の設計、建築にも多大の功績を上げている。
補注 『竹野郡誌』、「神社寺院明細書」(「浅茂川区有文書」)の記載内容には本覚寺所蔵文書と相違するところが多く、したがってその加除訂正にあたっては当山現二十七世石原照山猊下に多大の尽力をお願いした。なお、以下の項目の法皇堂・経王党(稲荷堂)・鎮守七面堂・妙見堂についても同様である。  〉 


《交通》


《産業》



網野の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 竹野郡
一 網野郷  八十二町九段百八歩内
  十町五段二百九十七歩        遠藤将監
  十町五段二百九十七歩        伊佐将監
  十町五段二百九十七歩        大本二郎左衛門
  十町五段二百九十七歩        刑部右京亮
      此内五段二百十六歩永不
  十九町四段二百五十二歩       毘沙門堂
  廿一町一段百八十歩         領家不知行  〉 

『丹後国御檀家帳』
 〈 一あみのゝ里
 此里ニ御かうあまたあり、わきのかうと申候へハ、毎
 月音信不申大かうと申斗へ
 家五百斗
 中村藤左衛門殿  かうおや宿せられ候
           かへしする人
 もろ助左衛門殿  か う と く 庵
 (朱書)
 「を」
かうおや
           〃
 前川五郎兵衛殿   松村与三左衛門
 中嶋新兵衛殿    池辺新兵衛殿
 (朱書)
 「を」
かうおや
 ほうりかすへ殿   福  寿  庵
 講  川  庵   海  蔵  庵
 西  方  寺   宗 せ ん 庵
 野村藤右衛門殿
       (離)
一あみの、はなれと申寺 龍献寺 大寺也  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎網野村(小浜村の次)
【住吉大明神】(祭九月十三日)
【宝聚山本覚寺】(経宗)
【日照山心月寺】(曹洞宗)
【砂山】(湖水の上)
砂山の下を網野浜といふ、浜の広サ八丁、浜の長サ廿丁余、其浜の東に砂山あり、砂山の下は殊に渺々たる大洋なり、是を以て外国の産物往々流れ来る、又朝鮮人など爰に漂着する事あり。
【竹】(幹の周一尺七八寸節は低ふして孟宗竹の如し、節の間より枝を互生す周り四寸余り、根は蟠回して鼎の如く周り幹と仝じ、何といふ竹なるか竹の譜にはいまだ見当らず、出図)
【栗実】(出図)
【藻出】
【寛平法皇陵】
網野村の口碑に云。寛平法皇橘良利を従へ諸国を巡遊して遂に網野村に崩ず、時は秋七月なりもって火葬して京都へ送る、故を以て其神を祭り網野村の氏神とす、今住吉大明神といふ、祭りの日は神輿を舁ぎ出して今に還御出御と呼ぶ、元より法皇の陵は亭子山にありと語り伝ふ、其亭子山といふ山の下を宮の下といふ、山の上に小高き處あり其處を石のからとといふ、石櫃の辺に松樹七八株あり、いつの頃よりか其小高き處少しづつ壊れて石櫃の角を出せり、其後数十年を経其石少し傾けり、よって隙より其内を窺へば内の広サ一間斗に奥行二間斗りに見ゆ、上下四方皆切石にて其奥の處其高サ三尺斗りに長サ二尺斗りあり、四角なる石あり(俗に御枕石といふ)其傍に太刀一振陶器十四、五又曲玉の類あり、御陵なるを憚りよって又故の如く其石を直して土を覆ひ其上に小祠を建つ、古よりその伝ふる所虚ならずとす、又其辺より金の鈴二ツ出す、皆今に存す、鈴の大サ李の如く円くして口もなく持つ所もなし、これを転ばしてよく鳴る其聲りんりんたり。神輿を舁出して還御出御と呼ぶ固より法皇の陵は亭子山にありと語り伝ふれど別に記録もなければ夢を説にも似たりされども其石櫃を見て又其内を窺へば古老の語り伝へたる處と一々符合せり、よっていよいよ法皇の陵と称す。
 愚按ずるに、宇多帝(佐々木氏の大祖)位に在る凡十年、既に位を醍醐天皇に譲り祝髪して浮屠の教に帰依し朱雀院に遷らせ給ふ、称して法皇といふ。法皇の始めなり。法皇遊行を好み橘の良利を従へて處々の名山に巡遊し給ひしは国史に明なり、いまだ丹後に巡遊し給ふを審にせず、又陵志に法皇の陵を丹後に載せず、然れども土人の説く所偶然にあらず時は七月といひ火葬といひ日本史の文と略似たり、よって聞くままに記す。よって又古老を呼び往年陵志撰次の頃誰か尋ねて爰に来る者はなかりしや訊問すれば、其者十七、八歳の頃京都より一人参られて陵の事を尋ねられし事もありし、其時の庄屋しらざるにあらざれども慥かなる記録もなければ語りかけて却て村内の難義も計り難く委細に語らざりしよし今法皇の陵慥かに分りたる處ありや。
(校者曰)…略…
【城墟】(三カ所、未だ誰か城主を審にせず)
【沢田治郎介】沢田治郎介名を仙太郎といふ沢田出羽守の嫡子なり、元細川藤孝に仕ふ、藤孝の二男長岡玄蕃頭興元が支封せらるるに従ひて峰山に来り、網野村に於て高千石を領す、其人となり温厚にして学を好み人を使ふに情を以てす、民間其徳に懐く。始め吉原落城の日大谷刑部左衛門吉原より遁れて但馬の方に赴かんとす、沢田仙太郎これを迎へて奥吉原の口に至り相戦ふて遂に之を斬る、時に歳十七才初めての出陣なり(事は丹波郡鱒留村条下に出す)興元大に之を観賞して仙太郎を治郎介と改め、父出羽守の如く老臣の列に加へ網野村に於て高千石を賜ふ。慶長五年の秋関ケ原の役に沢田治郎介長岡玄蕃頭に従ふて美濃にあり、其岐阜を攻る時沢田治郎介津田藤四郎元房と組打し共に討死す、東西の戦と観賞せざる者なし、事は関ケ原大全に詳なり。先是丹波福知山の城主小野木縫之助石田三成の命を奉じ、二丹及但馬播磨の兵一万七千余を率ゐて、越中守忠興の留守に乗じ田辺の城を攻む、是時其妻の美事あり峰山の条下に詳なり。  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 (口碑)垂仁天皇天下を知食御代、天湯川板挙命但馬国より当地水江にり、彼の浮べる白鳥を取らんとて、墨ノ江の水笑(ミツノエ)松原村の遠津(オクツ)神に御祈誓ありて此水江に網を張りしによりて後に水江網野とは称するなり、松原村の東に鳥取郷鳥取ありこれ烏を捕へたる所なりといふ。

(三代実録)清和天皇、貞観五年、十一月十七日、丙午、先是丹後国言、細羅国人五十四人、来着竹野郡松原村、問其来由、言語不通、文書無解、其長頭屎烏舎漢書答云、新羅東方別島細羅国人也、自外更無詞、

(口碑)字網野は奥山の地に在りしを今の地に移し、浅茂川は旧磯街道の谷地より移り、小浜は勝山西麓にありしを一旦小浜海浜に移し更に現今の地に移せり而して年代は何れも今を去る四百年を出でずといふ
(京都府漁業誌)
小浜部落は今を去る四百年以前の頃は現今部落の西北に当る字城山と称する所に僅々三四戸の戸数を以て農業をなし傍ら塩焼きを営み生活し来りしものゝ如し然るに永正年間下岡部落より八九戸移住し来り十余戸の村落となれり後漸次戸数増加するに伴ひ塩焼浜を拡張し傍ら漁業を営み糊口の資に充つるに至れり古老の口碑に依り漁業の起源の窺知し得るものを記さんに今を去る三百五十余年前即ち永録年間伯耆国倉吉より太吉と云ふ者来たり飛魚網及たら網を作り之が漁法を伝授せり湖水漁業は今を去る二百五十余年前明暦の頃住民忠吉及徳右衛門両家延縄を以て鯉を釣獲することを始め鰻は往古より一本釣及び竹筒を以て捕獲し来たりしが寛文八年樋越川(古言間歩穴)開鑿せしため湖水の流れに異動を来たし冬期鰮の海に下るもの多くなりしを見延宝年間橋本家の組先平助なるもの張切網を考案し白魚は往古簀堰にて捕獲したるも明治三年頃稲垣伝右衛門の考案により小形の地曳網を搆成し現今多く之を使用し居れり浅茂川部落は往昔富豪の浦にして郷又は水の江の浦と称へ浦嶋太郎の生地なりと伝ふ文永年間頃は字西村に佐居し人戸も稍や多かりしかば西村千軒の称残れり皆漁業をなせり弘安四年閏七月俄かに暴風激浪起り漁船遭難し船及船夫皆共に其行衛を知らす折柄村内に火を失し全部落焼失し蛭子山福島山の間は激浪の為め欠潰し死亡者多く纔に残存せしものは老夫女及小児のみとなり一時全村滅亡せんとせしか漸く年を経て戸数十八戸となり村民等大に喜び祝酒を拳げたる事あり西村に住せし痕跡は小字西村、阪谷、地堂、寺屋敷、戸蔵宮谷寺構イ二田二夕村等の地名及び経塚石仏五輪等の所々に散在せるを以て知るべし、応永三年戸数四十余戸となれり天正年間に至り僅に四戸塩焼業及湖水漁業に便利なるため現今の地に移住したりしに其後引続き移住し全村遂に転住したり其時戸数七十余戸ありたり当時此地を流るゝ川に朝毎に水蒸気上昇し霧棚引きしを以て朝茂川村と称せしか何時しか浅茂川と改称するに至れり明和四年三月暴風のため鯛延縄漁業者七戸遭難死亡したりしを以て一時沖合漁業を営むもの稀となり多く塩焼業及磯覗漁業にて鮑、蠑螺及和布天草等を漁獲し居れり塩焼業は明治四年の頃迄継続したり天明八年の大火に人家殆んど焼失し其当時の記録等焼尽したるため判明せず鰮地曳網漁業は文政十一年村民重三郎因幡国より始めて網を購入し従業したるに多くの漁獲あり翌年更に三組を増加し天保九年四組の綱組を二組に併合し大地曳綱を新調したるに天保十年二月廿四日の大火に全村焼失し漁具も一回の使用を見づして灰燼となれり加之砂防堤の松林も焼燼したり
飛魚刺網漁業は宝暦十二年頃より始まりしものならんも其由来を詳らかにせす
碓刺網漁業は天保十四年若狭国小松原の漁夫長七浅茂川に移住したる後比者の指揮に依り開始したり
章魚釣漁業は漁業者茂三郎文化九年因幡国酒の津村漁夫善吉に乞ふて其漁法を習ひ獨り多数の漁獲を得て漁具を漁民に秘し居りしが或る時磯部落の漁夫某窃かに茂三郎の不在を窺ひ某漁具を見て之れを製作し使用し始めたるより他漁業者競ふて之れを用ゆるに至れり
浅茂湖は往古四十余町歩面積ありて字小浜離湖の下流此湖に注ぎ居鯉、鮒、鰻、鯔等の魚属多く蕃殖し投網は貞享三年の頃より用ひ初めたるものゝ如し四ツ手網漁業は元緑元年より用ゐ鰻を藩主に献上し浅茂湖鰻は宮津領中第一位を占むるご嘉称せらる  〉 


『網野町誌』
 〈 <網野>
 今の字網野はもと網野村であったことはよく知られていますが、その昔、松原村と云われた時代のあることは知る人が少ないようです。中郡橋木の縁城寺年代記に「貞観五年(八六三)十一月丹後国竹野郡松原村へ細羅国人五十四人来着、糧を給して之を還らしむ」と記載されていますが、このような地方の文献だけでなく、勅撰の正史たる三代実録、清和天皇の条に「貞観五年十一月十七日丙午、細羅国人五十四人、竹野郡松原村に来着、其来由を問いしも言語不通、文書を解せず云々」と云った意の文が載っています。
 また丹後国式内社考案記に「元亭子山(今の銚子山)の南、宮家(みやけ)の山上に日子坐命を祭ってあったが、湯川桁命が但馬の国からここへ来られて、松原に網を張り、当地の氏神、日子坐命の神霊に祈誓して、水江に浮かんでいた白鳥を取って垂仁天皇に奉った。それより松原の地を網野と称し、神社をその奥に移し奉った。その後村人は湯川桁命を相殿に祀ったが、この社地は砂の吹寄はげしく祭祀に支障を来して、享徳元年(一四五二)九月現今の大口(おおぐち)の地に再遷した」という意の記載があります。日子坐命は開化天皇の皇子であり、網野神社の主神はこの神ではないかと思います。丹後の郷土史家故永浜字平氏も同じ見解でありました。垂仁帝の時代は今より凡二千年も古いことであり、この社記は一の地名伝説としては面白いが、史実としては決定的な資料とは云えないでしょう。
 その外古い文献で「網野」の地名の出ているのは東大寺要録の「天平勝宝四年(七五二)十月二十五日丹後網野郷云々」の記事であって、千二百年ばかり前既に「あみの」地名が用いられていたわけであります。網野郷の地域は今の網野、下岡、浅茂川、小浜の旧網野町と旧郷村、島津村の地域であって、現網野町のうち木津郷を引いた残りの地域が網野郷ということになります。
 八丁浜に「松原」という小字がありますが、この辺が松原村の元村の位置ではなかったか、松林の中に数戸の漁家が点在して、あすここに網の干してあるささやかな漁村風景を思い浮かべて見ると愉快ではありませんか。  〉 

『丹後町史』
 〈 大陸との交通について、この時代の異国人の来航が竹野郡誌のせられている。史料(三代実録)清和天皇の八六三年(貞観五)十一月十七日に細羅(さいら)国(新羅のこと)の国人五十四名が竹野松原村に到来している。
そのわけをたずねたが言葉が通じない。また文字で話合いをしようと思ってもそれも解せなかった。その長頭、屎鳥舎(しちょうしゃ)が漢書で答えて言うには「新羅の東方の別の島細羅の国人である」ことだけが分った。松原村は今の網野とされている。又同じ資料の中に陽成天皇八七九年(元慶三)三月十三日異国船一艘長さ六丈(約二〇m)広さ一丈五尺の船が漂着し、竹野郡に保管きれたとあるが、殆んど破損していたというから難波船であろう。又(日本紀略)醍醐天皇の九二九年(延長七)十二月渤海国(九二九年契丹に滅ぼされた)の使者が竹野郡大津浜に来着して九三〇年(延長八)正月に丹後の国から、渤海の客到来の旨を言上している。時の左人臣が丹後にきて、これをどう取扱うかについて召否の有無を取りきめたとあるが、九十三名という多い客人に驚いたことであろう。客舶修造料などを若狭但馬とも結審〔とりしらべる)の上、客をもてなしている。渤海の国というのは七世紀から十世紀初めまで、満州東南部にあった国である。大津浜は間人であったとされている。いずれにしても丹後の国は日本海をへだて、大陸との交通の一拠点になっていたことがわかる。  〉 

『網野町誌』
 〈 林遺跡と三宅遺跡
平安時代の遺跡としては、網野の林遺跡と連続する三宅遺跡と長蓮寺遺跡、小浜の城山遺跡、島津の横枕遺跡などがある。このうち、発掘調査が行われた林遺跡と三宅遺跡からは平安時代の遺構や遺物が多数発見されている。住居跡そのものはみつかっていないが、集落跡であることは確実で、その当時ここに生活していた人々が使用していた土器や磁器などが出土している。土器は黒色土器と呼ばれ、水漏れを防ぐために椀の内側を煤によって黒色化し、器としての機能を高めたものである。この黒色土器は、椀のほかに小皿もあるが、いずれも日常使われた食器であり、当時の人々の生活がしのばれる遺物である。最近の研究によると黒色土器の年代は一一世紀前半(平安時代後期)から一三世紀初頭(鎌倉時代前期)の間と考えられており、この遺跡は長期にわたって営まれていたことがわかる。
 また、中国製の白磁もかなりの量が出土しており、当時貴重品であった中国製磁器がみられることは、平安時代の文献にしばしばあらわれる大陸との交流を物語るものであろう。
 このほか林遺跡からは、中世の各種の遺構も発見されている。遺体を納めた穴の上に石を積み上げ真ん中に石塔を立てて回りに石を積み上げた墳墓や集落をめぐる排水路と考えられる大溝、共同で使ったであろう井戸など、当時の生活をうかがうことのできるものである。
 さて、この林遺跡のある低丘陵一帯は、銚子山古墳を中心にして式内社網野神社の元宮や浦島太郎の屋敷跡伝承地などがあり、網野発祥の地という言い伝えがあるところである。林遺跡に続く三宅遺跡の「三宅」は奈良時代の荘園管理施設と推定され、奈良・平安時代に東大寺の封戸であった可能性が強い。林遺跡発掘調査報告書によれば、丹後地方の海岸に近い集落遺跡の消長は砂丘の生成と因果関係にあることが多く、弥生時代中期に海岸の低地にあった遺跡が、海岸沿いに新しい砂丘が形成されたため後背湿地となり放棄されたと考えられる網野町松ケ崎遺跡の例や、弥生時代前期と古墳時代後期~中世まで集落が断続する久美浜町函石浜遺跡や、丹後町竹野遺跡などの例がそうである。この林遺跡の消長も海岸砂丘の生成との因果関係が考えられる。縄文時代から弥生時代前期までやや低地にあった集落が、新しい海岸砂丘の発達により、後背湿地化して、住みにくくなったため、弥生時代中期以後、周辺の台地や丘陵に集落が移動した。このため林道跡・三宅遺跡などの立地の集落が成立した。その後の長い年月の間に低地部の沖積化が進み、中世になると生活が可能となったため、再び集落が移動して、現在の網野町の前身ができたと考えられる。このことは、今回の調査結果、中世以後の集落の痕跡がなく、中世の包含層の上に○・六メートル以上の新砂丘の堆積がみられることや、網野神社の所蔵する享徳元年(一四五二)の棟札に、「網野神社の旧社地は園の宮山にあったが、砂に埋もれるため同年に、現在地に移ったとあることからも実証される」とあり、網野の村の推移がわかる。  〉 

『郷土と美術79』
 〈 「暖流と湖の文化」(井上正一)
…往古の日本人は白鳥を神の使いとしめと言って神聖視し、そのころ多くいたコウノトリ、クグイなどは殺したり捕えたりしなかったと言われています。ところがこれを捕えなければならぬ事件が生じました。『書紀』垂仁天皇二十三年条に、悲劇の皇后狭穂の遺児として残されたホムツワケの皇子が成人してもモノを言わず、クグイを見てはじめて口をきいたという物語があります。この神話にクグイを捕えて皇子に献じた功により、鳥取部の連の姓を賜わった功臣としてアマノユガワタナ(天湯河板挙)という人物があります。この人が当地に来られ、この湖にワナミを張って白鳥を捕えたのでこの地を網野というようになった(竹野郡誌-網野神社明細帳)と言われています。この周辺では網野神社(式内社)をはじめ五カ村の村社に、境内社ではあるが、速尾神社などの社名によってユガワダナの神が際祀されています。但馬の円山川の沿線にもこの神を祭神とする式内社が二社ありますが、丹後では当地湖の周辺に五社あるだけでほかに例がないようです。これは鳥取部の部民たちがその祖神として際祀したものと考えられます。新撰姓氏録鳥取部の項によると鳥取部の祖神としてユガワタナをあげており、この神は角凝魂゙命十三世または三世の子孫とされています。これらの神はいずれも倭文部の祖神となっていますので、ユガワタナの神も倭文部の祖神の一人であると考えられます。このシドリのいうのはシズオリの約でこの部民たちは山野にひろく自生しておりとくに川や湖の周辺に多い野生のカラムシ、カジの木などの幹の皮から繊維を採取して、これを原始的な織機にかけて粗い布をつくっていたものであるといいます。このユガワタナが倭文部から鳥取部への移行については「歴史研究」第238号の東京の芦野泉氏が註記されているし、氏はわざわざ当地へも調査に見え直接いろいろ伺う機会を得ました。とにかく当地にユガワタナの神の際祀が集中していることに興味をもち、今この地が丹後織物の主産地として発展していることは古代人たちの願望が強く残されているものと理解しております。…  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 大将軍遺跡(だいじょうごいせき)
所在地:網野町網野小字大将軍
立地:福田川下流域右岸台地上
時代:古墳時代前期
調査年次:1992~93年(網野町教委)
現状:消滅(畑)
遺物保管:市教委
文献:BO99
遣構
大将軍遺跡は、網野銚子山古墳の北東約400m付近に位置する弥生時代、古墳時代、平安時代の集落遺跡である。銚子山古墳の南東側に広がる林遺跡や三宅遺跡と一体の遺跡であると考えられ、その範囲は500×100mにおよぶものと推定される。
この遺跡からは、弥生時代後期の竪穴住居跡5棟や中世の掘立柱建物跡、ピット群、大溝などが発見されている。なかでも重要な遺構として、多量の埴輪と土器がまとまって出士した土坑がある。長辺2.61m、短辺2.35m、深さ19㎝を測る不整形な淺い皿上の土坑底部には、木炭が混入した土に混じって、隙間無く埴輪と土器が最大で約35㎝の厚さに集積されていた。埴輪は当初から破片化、破損したものを集積したものであった。土器は完形で置かれたものも確認できたが、当初から破片化、欠損した土器も存在していた。全体の集積状況は雑然として判断できないが、出土状況からは、まず最下層に土器をいくつか置き、その後、木炭とともに埴輪、土器が集積されていたものである。また中世の大溝は、検出面幅2.7~3.3m、底幅1.4~2、2m、深さO.5~0.7mを測り、ちょうど方形に曲がる角の部分を検出した。
遺物
SX01出土の土師器、土製品は合計20個体がある。その内訳は、直口壺1、布留式甕8、二重口縁壺3、山陰系甕1、高杯3、鼓形器台2、土製品2である。土師器は、布留式中段階の特徴を備えている。
埴輪は、完全に復元できた個体は無く、円筒埴輪の底部12個体や丹後型円筒埴輪の口縁部4個体のほか、異形形象埴輪と報告されている一群がある。この一群は笠部と立ち飾り部があり、一股的には蓋形埴輪と呼ばれているものである。笠部が4個体、立ち飾り部が5個体確認できるが、いずれも全体が復元できる量はない。また裾部の直径が96㎝を測る大型埴輪もあるが、何を模したものか不明である。
意義
出土した円筒埴輪の特徴としては、①頂部が丸い丹後型である、②透し穴が長方形主体である、③断続ヨコハケを使用、④タガの突出度が高くタガを貼り付ける前に方形刺突を付けているなどがある。これらの特徴は、網野銚子山古墳および小銚子古墳出上の円筒埴輪と同じである。付近には、ほかに埴輪を有する古墳がないことから、大将軍遺跡の埴輪は両古墳に樹立される予定のものであった可能性が強い。埴輪と同時に出土した土器は布留式中段階の年代が与えられることから、両古墳の時期が土器編年によって裏付けられた意義は大きい。また蓋形埴輪は、畿内地方に見られない形態をしており、丹後地域で生み出された独自の形式のものであろう。
また、中世の大溝は、居館の周りをめぐる環濠の可能性もあり興味深い。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 林遺跡(はやしいせき)
所在地:網野町網野小字園
立地:福田川下流域右岸台地上
時代:弥生時代後期~鎌倉時代
調査年次:1971、1976年(網野町教委)
現状:全壊(畑地)
遺物保管:市教委
文献:附B005、B027
遣構
林遺跡は、網野銚子山古墳の北東に広がる丘陵地帯に位胃する。1974年の土砂採取中に、石塔を持つ中世墓が発見され、その後、1976年のほ場整備に伴い本格的な発掘調査が行われた。その結果、竪穴住居跡では、弥生時代後期のものが2棟、終末期のものが1棟、古墳時代前期のものが2棟検出されたほか、中世の配石遺構、溝、井戸などが検出された。しかし平安時代の遺物に伴う遺構は、確認できなかった。これらの遺構からは、それぞれの時代の多数の土器(弥生式器、土師器、須恵器、黒色土器、輸入陶磁器、陶器、土錘)や若干の石器、鉄器のほか、各所から埴輪片も出土している。
遣物
弥生時代後期の住居跡から出とした大量の土器は、第Ⅴ様式に比定されるものであり、壺、甕、台付鉢、高杯、器台がある。このほか、わずかではあるが鉄器片や砥石、扁平石斧も出土している。また、古墳時代の住居跡から出土した土師器は布留式土器であり、壺、甕、高杯、器台がある。以上のほか包含層からも多くの遺物が出土しており、弥土器、土師器や須恵器といった土器のほか、砥石、大型石錘、敲石といった石器類もある。平安時代から中世にかけての遺構や包含層からは、黒色土器をはじめ土師器、須恵器、瓦器、白磁、青磁、緑紬陶器、陶器土錘などの土器類、刀子、釘、鎌、銅銭などの金属器、砥石などの石器類が出土している。
意義
林遺跡は網野銚子山古墳と同じ台地上に立地し、古墳築造以前から営まれた集落遺跡であるとともに、中世まで断続して営まれた複合遺跡である。また、遺跡の南西方向に広がる三宅遺跡や北東に位置する大将軍遺跡からは、林遺跡と同じ時期の遺構や遺物が見られることから、これらは連続する大集落遺跡とみて間違いない。天平勝宝4年(752年)の正倉院文書にある「丹後国九十戸 竹野郡網野郷」はこの林遺跡一帯であると考えられ、網野郷の消長の一端が発掘調査で確認された意義は大きい。また丹後地域における黒色土器研究の端緒となったことや鎌倉時代の集落の様相の一端を明らかにすることができた意義は大きい。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 妹古墳(いもうとこふん)
所在地:網野町網野小字妹
立地:福田川下流域右岸丘陵上
時代:古墳時代前期
調程年次:1987年(網野町教委)
現状:全壊
遺物保管市教委
文献:B054
遺構
妹古墳は、後世の削平を大きく受けていたが、丘陵の尾恨筋に独立して築かれた長径30m、短径25mのやや楕円形を呈する円墳であり、墳丘基底部からの高さは2.0~3.5mを測る。地山整形後に30~40㎝の厚さで盛土を行っており、埴輪、葺石はない。削平を受けた墳丘の中央部からは、中心埋葬となる木棺痕跡が検出された。墓壙は、上部が失われており、残存長6.3m、幅1.0mを測る。その中央部には、長さ3.8m、幅0.4~0.5m、深さは最大で6㎝の舟形木棺の痕跡を検出した。遺骸の頭部の位置には、朱と木質が遺存しており、鉄器類が副葬されていた。このほか墳丘上からは、破損した石組遺構が確認されている。安山岩の割石が長辺1.3m、短辺0.66mの範囲に残存し、一部、掘り方も残っているため、箱式石棺などの埋葬施設の存在が推定できる。
遺物
副葬品の鉄器類は、鉄斧1、鉄鏃4、鉄剣1、鉄鎌1がある。また、木棺上の土中から土師器壺3個体分が出土しており、木棺埋葬後の墓上祭祀に伴うものであると考えられる。
意義
妹古墳は、出土土器や古相を示す大型の柳葉形鉄鏃などから、4世紀中葉から後半の年代が与えられる。その性格は福田川流域の首長墓と考えられるが、妹古墳の北方約400mにある網野銚子山古墳と比較すると大きな格差がある。銚子山古墳より少し前に造られた妹古墳と銚子山古墳との関係など、当時の政治状況を考える上で手がかりとなる古墳である。  〉 


網野の小字一覧


網野(あみの)
上人(しょうにん) 円崎(えんざき) 黒草(くろくさ) 小川(おかわ) 宮家(みやけ) 岡ノ松葉(おかのまつば) 笹ケ谷(ささがたに) 新宮(しんぐう) 妹(いもうと) 足洗(あしあらい) 桑ケ谷(くわがたに) 浅後(あさご) 斎ノ神(さいのかみ) 白髪谷(しらがだに) 森ケ谷(もりがたに) 平ケ谷(ひらがたに) 障子ケ谷(しょうじがたに) トボケ谷(とぼけたに) 栗木谷口(くりきたにくち) 藪ケ谷(やぶがたに) 栗木谷(くりきたに) 石ケ谷(いしがたに) 餅掲ケ谷(もちつきがたに) 古砂後谷(こさごたに) 戸石ケ谷(といしがたに) 芳谷(よしだに) 方谷(ほうたに) 柏崎(かしわざき) 待谷(まちや) 東池新田(ひがしいけしんでん) 蓮池(はすいけ) 西池新田(にしいけしんでん) 福田後(ふくだうしろ) 雲分(くもぶ) 五反田(ごたんだ) 作リ道(つくりみち) 内ケ森(うちがもり) 上小路(かみこうじ) 中小路(なかこうじ) 藪下(やぶのした) 稲荷町(いなりまち) 尾垣(おがき) 新宮(しんぐう) 園(その) 林(はやし) 大将軍(だいしょうぐん) 待谷 河口(こぐち) 新浜(しんはま) 家ノ上(いえのうえ) 大口(おおぐち) 赤鉢(あかばち) 内ケ森(うちがもり) 京街道(きょうかいどう) 中筋(なかすじ) ハサユ 小川筋(おがわすじ) 西小路(にしこうじ) 下地(しもじ) 東小路(ひがしこうじ) 広小路(ひろこうじ) 新街道(しんかいどう) 笹カヘ(ささがえ) 丹治山(たんじやま) 平浜(ひらはま)


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福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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