丹後の地名

円頓寺(えんどんじ)
京丹後市久美浜町円頓寺


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京都府京丹後市久美浜町円頓寺

京都府熊野郡久美浜町円頓寺

京都府熊野郡佐濃村円頓寺

京都府熊野郡下佐濃村円頓寺


円頓寺の概要


《円頓寺の概要》



高野山真言宗大治山円頓寺のある集落で、佐濃谷川の支流円頓寺川の上流部、久次岳(541m)の西麓に位置するが、こちら側から見ると高い山には見えない。
地名は地内の古刹真言宗大治山円頓寺の寺名にちなむもの。同寺は麻呂子親王夷賊退治の時、丹後に建立した7か寺の1つと伝え、中世までは末院36か寺を擁していたという。あまり知られていないが、当寺も七仏薬師の寺という。
同寺裏山より出土した経筒の銘には「丹後国管熊野郡佐野郷大治村円頓寺……嘉応二年庚寅九月廿日丁酉 錆師伴成包 願主散位従五位下大江朝臣忠氏女 施主橘氏並子息等」とあり、古くは大治村と称していたものらしい。円頓寺の山号も大治山、久次岳の別名が大治山なのか…
またエンドンとは何か、エントンビキのヘビか炎遁の術か、炎屯、炎の村か、仏教で何か意味がある言葉なのだろうか…
円頓寺は、室町期に見える地名で、「丹後国田数帳」には「一 円頓寺 一町」と見える。
円頓寺村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。
「丹哥府志」は、大治山円頓寺の末院36か寺は文禄年中にすべて廃院となったといい、江戸期には寺より2、3町程下に仁王門があり、往時の繁栄がうかがえたという。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下佐濃村の大字となる。
円頓寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ下佐濃村、昭和26年佐濃村、同33年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《円頓寺の人口・世帯数》 86・32

《主な社寺など》

三柱神社
三柱神社(円頓寺)
村へ入ったところに鎮座。
『京都府熊野郡誌』
 〈 三柱神社 無格社 下佐濃村大字円頓寺小字舟谷口鎮座
祭神=奥津彦命、奥津姫命、火産霊命。
由緒=創立年代等詳ならねど、往古より村の鎮守として崇敬し来れる処なり。
崇敬者=四十四人。  〉 


高野山真言宗大治山円頓寺
円頓寺二王門(円頓寺)
村へ入っていくと立派な仁王門が建っている。仁王様を写したいが、格子が狭くてうまくレンズが入らない。
円頓寺仁王像
円頓寺(えんどんじ)は、山号・大治山、高野山真言宗、本尊の薬師如来および両脇侍日光・月光菩薩像は平安時代の作で重要文化財。
寺伝によれば用明天皇の時代、金丸親王(麻呂子親王)が勅命をうけて鬼賊を平定したあと、丹後国内に七ヵ寺を建立して七仏薬師を安置、国家鎮護の祈願所とした。円頓寺はその一つという。
円頓寺仁王像
円頓寺の東方、小字山の神にある山神神社の再建の際、銅製経筒が出土した。銘に「大日本国山陰道丹後国管熊野郡佐野郷大治村円頓寺如法妙法蓮華経一部十巻奉書写畢 嘉応二年庚寅九月廿日丁酉鋳師伴成包願主散位従五位下大江朝臣忠氏 女施主橘氏并子息等」とあり、境内には大江忠氏の塔と伝えるものが残る。
仁安年間(1166-69)僧祐円が再興し、末院三六坊を数えたという。しかし度々火災にかかり、文禄年間(1592-96)廃寺となり、わずかに大聖院の一坊と仁王門だけが残った。この大聖院の跡が現在の大治山円頓寺であるという。万治年間(1658-61)に城崎温泉寺六坊中の一つ聖福院本堂を移して本堂とし、文化九年(1812)にその修理が行われたと伝えられる。
寺蔵の勧進状に「文亀辛酉秋八月初吉勧進沙門」とあり、「実隆公記」文亀元年(1501)8月19日条に「丹後国熊野郡佐野郷大治山円頓寺惣門修造勧進帳依真光院所望染筆了」とみえる。
円頓寺本堂

境内案内板
境内案内板↑には、
円頓寺(えんどんじ)
 寺伝によると、用明天皇の皇子(一説に麻呂子親王、金麿親王といわれる。)が当地において鬼退治し、その後七ケ寺を建立、薬師如来を安置したことに始まるという。丹後・丹波には同様の所伝を伝え、薬師如来を本尊とする寺院が点在している。
 往時は三十六坊を数える伽藍を誇ったが数度の火災により衰微し、わずかに残った一坊が現在の円頓寺であると伝えられている・現在の本堂は万治年間(一六五八~一六六一年)に温泉寺(豊岡市城崎町)から移築したものという。重要文化財に指定されている本尊薬師如来坐像と脇侍の日光・月光菩薩像はともに平安時代末期の作で、穏やかで優美な作風に特色がある。その他にも、熊野十二社権現懸仏、丹後地域最古の銘を有する銅製経筒、三条西実隆が記した円頓寺惣門再興勧進状多くの寺宝が伝えられている。

木造薬師如来及両脇侍像 平安時代 国指定重要文化財 昭和十六年指定
熊野十二社権現懸仏    鎌倉時代 京都府指定文化財 昭和五十八年指定
銅経簡             嘉応二年(一一七〇) 京都府指定文化財  昭和六十三年指定
円頓寺惣門再興勧進状   文亀元年(一五〇一) 京都府指定文化財  平成三年指定
円頓寺本堂          京丹後市指定文化財 平成三年指定
円頓寺仁王門        京丹後市指定文化財 平成三年指定
京丹後市教育委員会



『京都府熊野郡誌』
 〈 大治山 円頓寺 下佐濃村大字円頓寺小字大滝口 真言宗自性院末 
本尊=薬師如来。脇立=日光月光両菩薩。
由緒=塔寺の創立は最も古く、用明天皇の代金丸親王(丹哥府志麿子親王に作る)勅命を奉じ兇族を退治せられ諸願成就に際し七仏薬師を造り、丹後国内に七ケ寺を建立し国家鎮護の祈願所とし、尊像を安置し給へる処にして、円頓寺は其の一なりといふ。末院三十六坊ありしが、文禄年間悉く廃院となり、僅に大聖院の一坊及び二王門を残せりといふ。其の大聖院を本堂となせるなり。諸願成就の故を以て村名を大治村といひしが、後円頓寺村と改称せるなり、(経簡の銘に曰く大治村円頓寺)爾来数度祝融に罹り、現今文亀年号再興の勧進状を存す。現在の本堂は但馬国城崎町温泉寺より移転せるものなりといふ。文書の徴すべきものなけれど、温泉寺にて調査する処によれば、万治年間一坊を丹後に譲るとあれば、温泉寺六坊中の一福聖院を当山本堂に充てしが如し。而して仁安年代祐円師を中興の祖と言ひ伝ふ。
仏体=本尊薬師如来は座像にして木彫、塗るに金色を以てす。高さ二尺八寸相好端麗にして全体の姿容格備せり、衣文亦流麗藤原時代の作ならん。脇侍の日光月光は共に木彫、姿態の優雅なると纏衣及び衣文の状の柔婉なる、亦本尊と同時代の作にて、日光は高さ四尺六寸月光高さ四尺五寸りあとは、京都府史跡調査報告第一冊に記載せる処の如し。
境内堂宇。庚申堂。本尊=青面金剛。
     大日堂。本尊=大日如来。
     地蔵堂。本尊=地蔵菩薩。

大字円頓寺内には寺屋敷数多あり、元円頓寺は末寺三十六坊を有せりと言ひ、現今の円頓寺は其の内の一院大聖院を本堂となせりと言へば、諸所に寺跡の存するは当然にして、谷の名にも僧都ケ谷、金剛、童子谷等種々あり。  〉 

円頓寺境内
「大江朝臣忠氏の塔」↑なのかナ? うしろは宝物庫のようで、ここに文化財の仏像はあるのかナ。
佐濃谷川は本流も支流も鉄のようである。

円頓寺窯趾

今も瓦を焼いている事業所が多いように思うが、よい粘土も出るのだろうか。

《交通》


《産業》


円頓寺の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 熊野郡
一 円頓寺 一町  〉 

 〈 竹野郡木津郷
一 恒枝保  十四町五段九十歩内
              此外一宮領可有之
  二町七段百八十歩   斎藤弥次郎
  二町七段百八十歩   円頓寺
  九町九十歩   田所分  三上因州  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎円頓寺村(郷村の次)
【大治山円頓寺】(真言宗)
麻呂子親王夷賊退治の時丹後一国に於て七ケ寺を建立す是は其一なりといふ、末院卅六ケ寺文禄年中皆廃院となる、今寺より二、三町斗りも下に仁王門あり昔の模様聊す存す。寺に橘氏の法華経を書写して埋めし唐金の壷あり、先年寺の後山にありし山神の社を再建せし時其壷を掘出しぬ、今是を思へば其山の神といふは法華経塚の事なるべし。其銘云。
南尤大恩教主釈迦尼如来、南尤平等大会一葉妙法蓮華経、南尤富来導師弥勒慈尊、釈迦末法代於南閻浮提大日本国山陰道丹後国管熊野郡佐野郷大治村円頓寺、妙法蓮華経一部十巻奉書写畢、嘉慶二年庚寅九月廿日丁酉鋳師伴成包、願主散位従五位下大江朝臣忠氏女施主橘氏並子息等。
【大江朝臣忠氏墓】
五輪高サ五六尺、四方に梵字を刻す、寺内にあり、伝詳ならず。   〉 

『郷土と美術3』(昭和14)
 〈 「郷土と美術に就いて(永浜宇平)」
…先づ第一に挙ぐべきは圓頓寺である。圓頓寺は熊野郡下佐濃村字圓頓寺にある真言宗の古刹で大治山圓頓寺といふ。昔しは大治村といったらしい。
こゝの本尊は薬師三尊で中尊薬師如来木彫座像漆箔法量二尺八寸、脇侍日光月光両菩薩立像法量四尺互寸、相貌の穏健なる姿勢の整美なる衣文の流麗なる正さに藤原期の造顕と見る優秀な彫刻で後背や持物や瓔珞など江戸時代の後補になったものもあるけれども.法身は実に立沢なもので確かに国宝の資格はある、どころでなく確に国宝に編入された此の地方の三尊仏中、此の右に出るものは恐らくあるまいと思はれるほど貫目を有った霊像である。尚ほ同寺には外に国宝級のものに嘉応在銘の経筒があるが金銅製の素晴らしいもので、胴の周囲に双鈎で「南老大恩教主釈迦牟尼如来云々南閻浮提大日本国山陰道丹後国管熊野郡佐野郷大治村圓頓寺、妙法蓮華経一部十巻奉書写畢、嘉応二年庚寅九月廿日丁酉鋳師伴成包、願主散位従五位下大江朝臣忠氏 、女施主橘氏並子息等」と鐫ってある、嘉応は皇紀千八百二十九年高倉天皇仁安四年己丑四月八日改元、その翌年は今茲昭和十四年より朔ること七百七十年まさに平安朝の末期であるが、此の経筒が丹後としては現存の金石文の最古のものであり又経筒としても本郡屈指の貴重な遺物である、圓頓寺は之れのみでなく本堂が桃山建築であり--多少修補改造された形跡もあるし特建まではゆかぬかも知れぬ--工芸品と謂っては勿体ないか知らぬけれども十三仏の懸仏が三面あり之れも中々見事なもので、此の他板碑、五輪塔、宝篋印塔等室町盛期の石造美術も寺門の内外に点々として存在してゐる。空論でなく図版を示して詳細に紹介したいけれど、其れは可なり銅版代も要ることだし、紙数も相当嵩がることだから私の思ふやうには行かぬ。今日はこれでやめる。  〉 


(『京丹後市の伝承・方言』より)

『郷土と美術87』(1986)
 〈 「民俗断片」(沢村青春)…丹後のやきもの-円頓寺焼
 谷口善太郎さんが健在の頃、宮津の拙宅に小憩されたことがある。そのとき、加賀耿二著(谷口さんの筆名)『清水焼風景』をたまたま所蔵していたので記念にサインをお願いした。快く諾されてその見返しに
  陽はまだ東山の向うにある。
    一九五六年七月     著 者
と書いて下さった。いま大切に保存している。
 またその折、床の間に置いていた壷が目にとまって、「いい壷ですナ」とほめられた。谷口さんは陶器労働者出身である。
 その壷は、戦後間もなく宮津の古道具店で時計と交換で入手したものであるが、高さ二十五センチ無釉焼しめ陶器で古蒼、須恵器のような味がある。
 ところで、郷土研究誌『郷土と美術』の旧号へ通巻三一号 昭和十七年一月発行)に丹波の郷土史家村島渚氏が「郷土民芸やきもの概説」を書いておられ、その中に〃円頓寺焼〃の見出しで、次のように記されている。 われわれが丹波焼をひねくっている間に、古への須恵器にも劣らないような古さと豪快さを持った厚く重たく渋紙面のいかめしい、そのくせ案外肩肱は怒らせていない飄逸味のある壷に見参する。玄人仲間はこれも丹波焼だといって高く売ろうとするが、われわれには腑に落ちない。永い間怪物扱いしていたところ、誰言い出すとなくそれは丹後焼の円頓寺焼というものだとのこと………
 まさにその〃円頓寺焼〃とぴったりである。
 過日、その産地と目される熊野郡久美浜町字円頓寺を訪れた。丹後歌人会の一行と同行であった。古刹円頓寺見学が主であったが平安期薬師三尊を収めた宝物館に円頓寺焼として釉のかかった白磁と青磁が展示されていた。逸品で一見朝鮮李朝風の感じである。
 この地方は古来朝鮮との関係深く、早く文化の開けたところで、近くの箱石浜遺跡からは縄文時代から平安時代に及ぶ遺物が出土、須恵器破片.鉄鏃、青磁、染付磁器片等多種多様で、なおこの浜の東につづく木津俵野には、奈良町後期の寺といわれる俵野廃寺跡があり、塔跡の礎石群の心礎の穴から舎利壷が出土しており、須恵器の変型で平安前期のものと推定されている。
 これらは丹後独特の円頓寺焼を生み出す元となったと思われるのである。円頓寺を上流に控える佐濃谷川は今久美浜湾に注いでいるが、上古は北方箱石浜に流出していたのである。
 いま丹後では、久美浜甲山、橋北大島、須津奥山、宮津辻町などに、新しくやきものが地方土着物産として始められた夫々特色を出しておられる。願わくは丹後の優れた伝統、円頓寺焼、朝鮮伝来の気品風格をもつ独特のやきものを探究して現代に生かしてほしい。
〔補記〕
〃円頓寺焼〃について、大治山円頓寺へその後、手紙を以てお尋なしたところ、同寺住職薮祐清師から丁寧な御返書をいただいたので、ここに記載させていただきます。
   記
(一) 円頓寺焼について
 円頓寺焼は六百年以前から焼かれて居り、古丹波焼として寺僧の楽しみとして焼かれて居りました。収蔵庫の東の田が穏居屋敷ですが、窯をついて焼いて居ります。昨年耕地整理をしました時に、その跡がはっきりしました。但し、耕地整理に邪魔となり写真に撮り破壊しました。
 尚、部落の口の方にも一ケ所築かれて居りました。この時代のものは一つも部落に残って居りません。
 収蔵庫に展示のものは、百五十年程前に久美浜町稲葉家が資金を出して再興せし以後の製品で、十九世紀に入ってからのものと思われます。
 添付しました写真の大型徳利は奥野金輔氏所蔵のもので寺へ寄附されました。
 緑釉のかかった捏鉢は寺に残されて居りました。共に江戸時代末期頃と思考します。
 拙僧も不勉強で余り研究して居りませんので悪しからず。
(二)古代土器として経筒骨がめが有りますが越前焼で五十一年の秋、寺の東の山が経塚であります。約二百年前には青鈍製の熊野本社本地仏懸仏三面と経筒が一個出土しております。懸仏は府指定文化財、経筒は町指定文化財となって居ります。
 五十一年の秋に、山頂まで自動車道をつけて居りました時に、中腹より経筒七個、骨瓶一個が発掘されました。かなり破損して居りましたので、丹後郷土資料館で修復して頂きました。平安時代のものと思考します。尚、鏡が四個一緒に出土しました。
(三) 円頓寺焼については
    第一期 七百年前後
    第二期 三百年前後(寛文年代)
    第三期 百五十年前後(江戸中期)
 以上三期位に楽焼として焼かれたものと思われます。
 完成品としては近辺でお目にかかれませんので、はっきり云い切れませんが、あちらこちらに今も尚存在して居ります様です。
 土は二ケ所で採取して居ります。石も砥石谷(小字名)が有り、磁器も焼かれて居ります。
 寺に製品が残って居りませんので研究するにも根拠が無くいささか持て余して居ります。
 尚序で乍ら申上げますが、熊野郡内(現久美浜町)に云い伝えに残されて居ります円頓寺焼は、土の色が違って居りまして何れとも断定しかねて居ります。円頓寺窯として記入されて居りますのは、土の色は同じです。それ以外は疑問に思って居ります。  以上 …  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 円頓寺焼窯跡(えんどんじやきかまあと)
所在地:久美浜町円頓寺小字弁財天
立地:佐濃谷川中流域右岸丘陵裾
時代:江戸時代後期
調査年次:なし
現状:半壊または全壊
遺物保管:円頓寺
遺構
円頓寺焼は、出石焼.高屋焼(いずれも兵庫県豊岡市)・久美浜焼(158)の各窯跡群とともに、伊万里焼系の磁器窯として江戸時代後期に開かれたと伝える。また開窯にあたっては、久美浜村の糀屋(稲葉本家)が関わっていた可能性が考えられている。
窯跡は、現在の円頓寺本堂の東約50mのところに位置する。地元では、通称「カマ場」と呼ばれるところであり、ほ場整備に伴って炭層とともに窯道具類が出土したと伝える。現状から見て、水田部分に灰原が、その北側の丘陵裾に窯跡が位置するものと思われる。
遺物
円頓寺焼の遺品は、旧稲葉本家所蔵資料に1点見られる。これまで遺品として紹介されているものは、円頓寺所蔵資料2点である。
窯道具類は、大形捧ツク、小形棒ツク、星形焼台、円形焼台、小型円板、小形円形焼台が見られる。大型棒ツクは完形品が2点(長32㎝、径9㎝のものと長20㎝、径8㎝のもの)のみで全形が判明するものが少ないが、受部の直径から10・5㎝、9・5㎝、9㎝、8㎝の4分類が可能である。久美浜焼のものに比べて、受部の高さが低い。小形棒ツクは、受部が両端部につくもの(A類)と受部が片側のみで反対側に凹みが見られるもの(B類)、凹みが見られないもの(C類)がある。A類は、高さから3分類可能であるが、1・5cmほどの差があるのみである。これに対してB類は、大型のものと小型のものに二分できる。A、B類ともに、上面に製品の融着痕が見られるものが多い。また受部に小円板を乗せた上に製品の融着痕が見られるものが1点あり、窯道具の使用方法が判明する事例として貴重である。星形焼台、円形焼台は、いずれも上面に円形の凹みが見られる。円形凹みの反対面には、中央部に棒ツクが置かれた痕跡が残る。また星形焼台は、4本足の先端側に製品の融着痕が見られる。
ほかに小形の円形焼台と小円板が見られる。
意義
円頓寺焼窯道具類は、これまで知られている高屋窯跡のものとほぼ同じものを用いている。しかし小形棒ツクB類は高屋窯跡では見られない。また円形焼台、星形焼台に見られる円形凹みは、高屋窯跡では「十」形凹みとなっている点が特徴である。円形凹みは、むしろ久美浜焼に近いものである。同じ郡内に位置し、いずれも稲葉本家との開係が伝えられる点から見て、円頓寺焼は久美浜焼と技術的に近しい関係にある可能性がある。なお稲購本家に残された資料群については、目録が刊行され全容がようやく明らかにされたところである。文献史料による両窯との完形がわかる資料が含まれる可能性があるが、詳細な検討は今後の課題である。  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 円頓寺経塚 遺跡番号三八
字円頓寺小字山ノ神に所在する。
遺跡は、円頓寺集落の東側に接する丘陵尾根筋先端に立地し、二基の埋経遺構(一・二号経塚)が確認されている。
一号経塚は、江戸時代、祠を再建する際に発見された。宝暦~天保年間に書かれた『丹哥府志』には、「唐金の壷」として経筒の出土が記されている。詳しい出土状況については不明だが、現在、その経筒は円頓寺に所蔵されている。また、同寺所蔵の懸仏が伴出されたと伝えられる。経筒は、銅板製であり、全長三四・五センチを測る。四角い台座の上に環状の蓮華座がのり、その中に筒を立てる。蓮華座は一六弁からなり、小さな釘で台座に固定され、台座の側面にはさらに釘で固定するための小孔が認められる。筒身部には、銅版を固定するための鋲留めが確認できる。蓋部は、平板な天井に四角い台座がのり、その上に宝珠を囲む火炎形の飾りがのる。筒身部には、銘文が刻まれており、次の内容となる。
南无大恩教主繹迦牟尼如來
南无平等大會一乗妙法蓮華経
南无當來導師彌勒慈尊
繹迦末法代於南閻浮堤大日本國山陰
道丹後國管熊野郡佐野郷大治村圓頓寺
如法妙法蓮華経一部十巻奉書写畢
嘉応二年庚寅九月廿日丁酉鋳師伴成包
願主散位従五位下大江朝臣忠氏
女施主橘氏并子息等
嘉応二(一一七〇)年の銘文は、旧丹後国内において最古のものである。円頓寺内には、大江朝臣忠氏の墓と言い伝えられる石塔があり、従五位下という官位から国司級であり、土着した可能性も考えられる。
二号経塚は、一号経塚の西側約三〇メートルの地点に立地する。一九七六年、山道工事中に発見された。詳しい出土状態については不明であるが、もともと径約二〇センチぐらいの礫が散在していたという。遺物は、常滑甕一点、常滑甕破片一点、土師製筒形容器筒身部七点・蓋七点、銅鏡三面が出土した。
七点の筒形容器は、いずれも粘土紐巻き上げによって成形されており、そのうち二点の底部内面には鮮やかな赤色顔料が付着している。これが朱書経の残部であるかは不明であり、いずれの容器にも紙片の遺存は認められない。
銅鏡は、径一〇・五センチを測る桜花双雀鏡一面、径約八・八センチを測る菊花双鳥鏡一面、径約八・二センチを測る草花双雀鏡一面が出土している。草花双雀鏡の鏡面には鏡像が認められる。
二号経塚は、出土した常滑甕の特徴から鎌倉時代前期に造営されたと考えられる。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 山の神経塚(やまのかみきょうづか)
所在地:久美浜町円頓寺清水畑
立地:佐濃谷川中流域右岸丘陵端
時代:平安時代後期~鎌倉時代前期
調査年次:宝暦年間(1号経塚)
現状:全壊
遺物保管:円頓寺(1号経塚銅製経筒:府指定文化財)
文献:EOO3、F058、F095、F111
遺構
山の神経塚は、平安時代後期の木造薬師三尊像(重要文化財)を本尊とする円頓寺から西へ約200mの丘陵上に立地する。杉原和雄は、江戸時代後期の『丹哥府志』に「唐金の壷」と記された経塚を1号経塚、1976年に1号経塚の西約30mのところで山道新設工事により不時発見された経塚を2号経塚と報告する。
1号経塚は、安永6年~天明年問に久美浜村庄屋山本成友が記した「世用応時雑録」(稲葉家文書A23-017)の安永8(1779)年項に「去ル宝暦年中、丹後国熊野郡円頓寺村真言宗円頓寺之境内ヲ堀候処、従土中一壺ヲ堀出ス、内二一ツ之銅筒器ヲ籠テ、其内巻経ヲ納ム(中略)経文ハ如灰腐ニテ文字ノ形不見。只筒而巳存ス」という記述がある(翻刻文は、藤田恒春「糀屋稲葉家文書調査のしおり」10-2006年による)。この記事から1号経塚の銅製経筒は、宝暦年間に掘り出され、当時は経巻が筒状の塊で残存していたことがわかる。あわせて経筒のスケッチと銘文が記載される。本史料により1号経塚は、壷の中に銅製経筒が納められ、経筒内には経巻が残っていたことがわかる。
2号経塚は、不時完見のため詳細は不明であるが、約5m四方の範囲から経塚関係資料が出土している。周囲には径約20cmの礫が散在していたという。
遺物
1号経塚出土遺物は、銅製経筒のみが伝わり、「世用応時雑録」に記される壷〔外容器〕や経巻は残っていない。経筒は銅板製であり、方形の基壇上に置かれ、蓋は火炎宝珠つまみを有する。筒部外面には、
南无大恩教主釈迦牟尼如来
南无平等大会一乗妙法蓮華経
南无当来導師弥勒慈尊
 釈迦末法代於南閻浮提大日本国山陰
 道丹後国管熊野郡佐野郷大治村円頓寺
 如法妙法蓮華経一部十巻奉書写畢
   嘉応二年庚寅九月廿日丁酉鋳師伴成包
     願主散位従五位下大江朝臣忠氏
     女施主橘氏并子息等
の銘文が籠字で刻まれ、嘉応2(1170)年作とわかる。2号経塚からは、越前焼壺1点、土師製筒形容器身7点、同蓋7点、和鏡3面が出土している。2号経塚は、越前焼壷の年代観から13世紀前葉の所産と思われる。
意義
1号経塚は、丹後地域最古の銘をもつ経筒である。願主大江忠氏は、ほかに史料がないため不明であるが、都の官人と思われ、鋳師伴成包は金峯山経塚の藤原道長納経筒の作者と同じ伴姓を名乗っていることから都の工人と思われる。また銘文より、奉納された経典が「如法妙法蓮華経一部十巻」と記され、全国的に経塚に奉納されることの多い如法経供養された法華経を埋納する点から、すでに完成された経典埋納の風習を都の官人が丹後地域へ持ち込んだものと評価できる。
本経塚は、円頓寺の背後に位置する丘陵に立地することから、寺院境内の結界や地鎮の意味をもって造営された円頓寺と関係が深い経塚と評価できる。  〉 


『京丹後市の伝承・方言』
円頓寺惣門再興勧進状
同書にはその全文が集録されているが、以下はその解説文

 〈 「円頓寺惣門再興勧進状」
指定 京都府指定文化財
時期 室町時代(文亀元年 一五〇一)
所蔵 円頓寺(久美浜町円頓寺)
法量 縦三二・三㎝×横二〇三・一㎝。
   巻子。四紙継。 
 題箋に「行能筆」(世尊寺行能のことを指すと思われる)とあるが、『実隆公記』文亀元年八月十九日条に「丹後国熊野郡佐野郷大治山円頓寺惣門修造勧進帳、真光院所望に依り、筆を染め了んぬ」とあり、三条西実隆によって清書されたことが知られている。本文は前後二段に分かれ、前段で「なにがしの皇子」による鬼退治とともに円頓寺の濫觴を述べ、後段では再興する惣門に安置されている金剛力士像の功特製のせんべいももらってしまった述べている。現在の惣門は享保七年(一七二二)に建立されたものであるが、門の左右には鎌倉時代作の金剛力士像が安置されている。寺名から推察するに円頓寺は天台宗寺院であったと思われるが、後段で「大師秘記」(空海著と伝えられる『秘蔵記』のことか)を取り上げており、この頃には真言宗が実権を握っていた可能性がある(現在、円頓寺は高野山真言宗に属する)。  〉 

『くみはまの民話と伝説』
 〈 山の神さん 円頓寺 吉岡吉右ヱ門
円頓寺というお寺から五百米程離れた小山の頂に老松が繁っており、ここに山の神さんの祠がありました。山の神さんは山で働く村人たちの生活を守って下さる神さまで、毎年旧歴の八月九日が例祭で、当日は村の休日で誰も山へは絶体に行きませんでした。例祭の前日の七月八日の午後は有志の人たちや子供たちは祭のため境内のそうじや、参道の修理、祠の屋根の修理に奉仕しました。子供たちは藁一束となた鎌を持参し、参道のそばの空地に小宮を作リました。
翌朝は山の神さまに参った後、小宮にもこわめしなどが供えられ、その出来ばえをほめるのでした。奉仕作業も終り子供たちの小宮も出来上がると、お神酒や餅を頂きます。子供たちはにわか作りの土俵で相撲をとって楽しみ、タ刻嬉々として山を下りました。
翌朝はまた夜の明けきらぬ頃に、灯提をつけて参拝し山の安全・家の安全・息災延命を祈願して山を下リました。
この様に村人たちは心をこめてお祭りをする神様なので、例祭ばかりでなく、不幸があったり、病気になったり、心配ごとがあるとこっそりお参りして祈願をこめる人があります。
そうした霊験を受ける人が多いとうわさされる様になりました。
この頃この村一番の分限者で庄屋を勤める久右ヱ門といふ人がありました。
なに一つ不足のない暮しをしておりましたが、二代も続いて子供がありませんでした。若夫婦は相談し山の神さんに、三七二十一日聞の日切祈講をすることになりました。
毎朝夜の明け切らないうちに起きて水ごりをとって二人で朝参りを続けました。
満願の日が来ました。夢枕に山の神さまが現れ二人の熱心な祈願により、男の子供を授けてつかわすとおっしゃると消えてしまいました。
そのうち二・三ケ月たち妊娠の兆が現れました。家中大よろこびしただけでなく、村人たちも九右ヱ門さんに二代目の子が生まれるげなと大うわさになり、自分のことのように嬉びました。
その後の経過もよく、九月十日も無事にすみ、まるまると太った丈夫な男の子が生れました。
家族の人たちは山の神さんから授った子だ、山の神さんの申し子だとよろこんで大切に育てました。
夫婦は子供を授かったお礼に祠を建てることを発願されました。
村人にも手伝ってもらい、境内の拡張工事中、古い祠の下の石室の中から経筒と十三仏の掛軸が出て来ました。
村人は不思議なものが出て来たと、早速山のふもとの川で土を落し水で洗いました。
経筒の中を洗うと水は真赤に染って下流の郷の方まで赤い川になったと言います。
その経筒と掛仏は寺宝として現在も円頓寺に保存されています。
境内の整地も祠の建築もとどこおりなく終り、竣工の日には村人一同祠の前に車座をつくって、飲めや唄えやの賑やかさでした。
この事があってから村人の山の神さんに対する信仰はいよいよ深くなりました。信仰は今も続いています。九右ヱ門の家ではその後も誰よりも早く参拝することを家訓の一つとされているそうです。  〉 




円頓寺の小字一覧


円頓寺(えんとんじ)
クグリ石 和田 広畑 金田 平谷 休場 通谷 矢入谷 堤谷 五反田 クコ田 クゴ田 ミヘク田 メク田 シヨウブ谷 中場 才谷 クラカ谷 舟谷 大貝 貝尻 川原田 矢入口 峠谷 サユノ下 サコ 小谷 イノヘ分 大門 舟谷口 宮山 池ノ谷 大女房 後山 ヌマノ谷 清水谷 東町 後ケ谷 足立 弥一郎ケ谷 中田 タキ谷 油田 ヤナカ谷 カタキキ谷 伊賀谷越 小谷ノ下 イシヨヲ谷 宮ノ前 大橋爪 宮ノ上 向山 下岡 中嶋 下向地 中向地 向地 門ノ下 上向地 イチカモリ 上筋 上田 上岡 マカリノ上 門ノ奥 上道 中道 シイカハナ 松葉谷 カキノキ元 コモ谷 ホウノキ谷 ナカノテキリ 戸谷 堂谷 ケフソ谷 上ノユリ 一ノ谷 ヒロク谷 サスラ谷 大石ケナル コト下 桑カヘ 砥石谷 甲石 手前荒堀 アラホリ谷 向アラホリ谷 ウヌシカ谷 ウルカ谷 カンシキ谷 セヒタ谷 カヤノ谷 テコ谷 茗荷谷 シタキ谷 ウマノセ谷 大成 金剛童子 セハト スエカ谷 大平 カン子モ口 ヤナガ谷下 シヤリハダニ 岡田 モゝノ木谷 山ノ神 サンシヨノ木 大滝 川イト 隠居屋敷 弁才天 釜場 城坂 石ノ元 シヨアタシ 姥ケ谷 分田 ヨトユロ谷 ソマ谷 イカ谷 大サコ 小滝 コヤカ谷 炭谷 小右ヱ門カリウ コエクヒ 仲場 清水畑 柿木元 カンシキ谷口 萌荷谷 平谷口 シヨウブ谷口 大貝橋爪 サユノ河原 下サコ 上サコ 峠谷林谷 矢入谷小谷 矢入谷トハナ 舟谷分 イシヨウ谷口 舟谷ナワテ 舟谷池上 舟谷地蔵元 舟谷林谷 清水カ谷口 後ガ谷口 舟谷中田 奥舟谷 小谷下川向 ハゲノ谷 下岡下 仲場道上 仲場西谷 仲場東谷 仲場谷口 曲リノ上 下道 ホヲノ木谷口 渡場 堂谷庄助谷 堂谷清治郎谷 堂谷御花木 堂谷奥 ケフノ谷口 川原 市ノ谷川原 一ノ谷道上 サズラ谷口 市ノ谷奥 桑飼サコノ下 砥石谷口 砥石谷口道ヨリ上 甲石川向 三滝 馬ノセ川向 ハセト成ノ所 上ノ由利道ヨリ下 シヤリハ谷口 岡田道上 分田道ノ上 分田道ノ下 ヨトコロ谷口 ソマ谷口川向 大サユ口 小滝口道ノ上 小滝口 大滝ノ口 大滝ノ下 ユヤガ谷口 滝ノ上カ谷 滝ノ上 ククリ石 足谷 中島

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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