丹後の地名

郷(ごう)
京丹後市網野町郷


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京都府京丹後市網野町郷

京都府竹野郡網野町郷

京都府竹野郡郷村郷

郷の概要




《郷の概要》


昭和2年の丹後大震災の震源地となった所として有名。新聞紙面は「呪はれた丹後半島の光景実に凄惨を極む」「峰山、網野の両町、全く焦土と化す」などとある。そのときの断層は今も見ることができる。村は全滅し、郷では67名が亡くなっている。網野、嶋溝川に次いで多かった府道17号(網野街道)側から見たものと思われる。
郷村断層(小池断層)
上は昭和2年の当時の写真。下は現在の同じ地点。

郷は、福田川中流域で、府道17号(網野街道)が走る。
郷村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文9年より幕府領、宝永2年再び宮津藩領となる。
明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年市制町村制施行により成立した郷村の大字となる。

近代の郷村は、明治22年~昭和25年の竹野郡の自治体。郷・切畑・生野内・公庄・高橋・新庄の6ヶ村が合併して成立し、旧村名を継承した6大字を編成した。昭和25年網野町に合併、村制時の6大字は網野町の大字に継承された。

郷は、明治22年~現在の大字名。はじめ郷村、昭和25年からは網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《郷の人口・世帯数》 463・150



《主な社寺など》

大宇賀神社
大宇賀神社(郷)

古代金工を研究した先人達が注目した社である。小字入道(にゅうど)の大宇賀(おおうが)神社は「延喜式」神名帳の竹野郡「大宇加(オホウカノ)神社」に比定される。由緒書には創立年月日不詳、寛保3年(1743)再造とある。
入道は丹生土のことで、水銀含有0.0010%、朱の産地であったことがわかる。また早尾神社(祭神・天湯川板挙命)や市杵島姫命神社も合祀している。
大宇賀神は藤社神社から勧請したと伝わり、祭神は豊受大神のようである。古くは丹生神社であったのかも知れないが、それはもうまったく伝わらない、ただ鎮座地の「入道」地名と当地の含有水銀量分析から古来の朱の産地とされている。元々ここに鎮座あったものか不明だが今は別に赤いとかいうことは見られない。
境内社
境内社:左・金刀比羅神社、右・大神宮社

「丹後国式内神社取調書」
 〈 大宇賀神社
 〇宇加御玉命
【峯】ト標シタルハ丹後国峯山藩管轄神社取調帳也【覈】黒部村【道】郷村宇賀大明神風土記ニミヱタル豊宇賀能売命ニテモアランカ【豊】所在祭神同上十月二十日【式考】郷山村祭神大宇賀乃売神ナル由丹後舊事記ニ丹波道主命ノ勧請也云々同書黒部村城ノ下に天正以後大宮売神ノ社ヲ此ニ遷ストアリコレヲ考ルニ城主松田摂津守ガ崇敬セシ故ニ分社ナドヲ勧請セシモノト知レタリ式内固有ノ社トハ云へカラズ然則郷山村ハ此社ノ固有ノ地ナラン)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 大宇賀神社 村社  字郷小字入道鎮座
  (延喜式) 竹野郡 大宇賀神社
(神社明細帳) 祭神 大宇賀能売命
 由緒 創立年月日不詳寛保三癸亥年七月吉日奉再造明治六年二月村社に列せらる
一本 殿 梁行五尺二寸  桁行六尺
一拝 殿 仝 三  間  仝 五間
一上 屋 仝 三間四尺一寸 仝三間七寸
一境内坪数  二千四百五十九坪
一氏  子  百十六戸
境 内 神 社
 大神宮社
   祭神 大口霊(?)命
   由緒 不詳
 金刀比羅神社
 祭神 大物主命 市杵島姫命 天湯川板挙命 砂田社祭神不詳
 由緒 往古當村字入道に市杵島姫命社早尾社砂田社鎮座有之處當社へ合祭になる
(郷村誌稿) 字郷の氏神にして大宇賀能売命を祭る、文明年間の創立にして明治六年二月村社に列せらる、社殿古く彫刻緻密にして見るべきものあるも、工夫不詳なるは遺憾なり祭日は陰暦九月十一日なり、  〉 

『丹生の研究』
 〈 丹後の丹生
私は次の2事実から丹後における丹生の存在を主張する。その1は、竹野郡網野町の郷に鎮座する武内大字賀神社の社地が、郷の小字として丹生土(にうど)と称されること、その2は、竹野郡豊栄村(いまは丹後町に編入されている)の岩木に丹生神社が厳存することである。この2事実は、網野町郷に住む後藤宇右衛門氏が、氏の郷土の地籍図(昭和2年7月再製、竹野郡郷村大字郷「字限図」)から前者を、また網野町立野家に蔵される「丹哥府誌」(写本)から後者を発見して、私に教示されたもので、昭和42年11月5日に行った私の現地調査にも同氏は導者の役を買われ、たいへんお世話になった。
 このとき丹生土から採った試料は、水銀含有0.0010%であった。この地点名が朱産の現実に基く命名であることは疑いをいれない。この土地の隣りに小字を入道という土地があるのも丹生土の訛転としておもしろいし、ここには真言宗明光寺址がある。思うに丹生土の名は、但馬の丹生に隣して丹生地(兵庫県城崎郡香住町奥佐津地区に所在)があり、あるいは紀伊の有田の丹生と有田川の流れをはさんで丹生図(にうづ、和歌山県有田郡吉備町の御霊地区にあり、東丹生国と西丹生図に分れている)があるのと同様な事情にあったが、その附近に存在した丹生の本地はすでに亡んでしまったのであろう。  〉 

『網野町誌』
 〈 大宇賀神社(式内)  郷小字丹生土(にうど)(入道)鎮座
 祭神 大宇賀能売命  〔豊受大神〕
 由緒  『竹野郡誌』掲載の「神社明細帳」によれば、「創立年月日不詳、寛保三癸亥(一七四三)七月吉日奉再造、明治六年二月村社に列せらる」とある。なお『丹後旧事記』には「丹波道主命の勧請なり」とみえる。その後、昭和二年の丹後震災により社殿が倒壊し新築された。倒壊前の本殿に棟札があったが今は不明。(式内社調査報告第十八巻)
〈伝承〉
大宇賀神は元奥山(小字名御伊勢山あり)に居られしが、ある時天王(今の祇園天王)と住み場を替へんと考へられ谷より降りて来られ(今天王山分岐点道を隔てし南側に自然巌が露出其の上に株古きタモの老木一本あり、之神休岩と伝ふ)この地にて一休み両神談合、何れに住せんやと計り給ひけるに、天王神は此の山の上に住むといわれ大宇賀神は此の向の山に往くとて互に宮を定め給ひけるなり。
注 右社(大宇賀神社)御神体「木像」一基、昭和初年中郡三重村の人永浜宇平君拝して曰く、作鎌倉中期以前ならんと。なお境内地内を旧新二条の導水路横断す。大正一五年冬新水路改築に際し社の西南(宮ノ谷)掘さく中弥生式土器窯跡と思へる口径四尺くらゐ壷型焼土層現はれ、付近に「かねくそ」を混ずる土器破片堆積せるをみる。神社造営以前の跡なるべし。
右の伝承は白翁後藤宇右衛門記録の「郷村探古」による。
(上巻二三三ぺージ参照)
○境内神社
 大神宮社 祭神 大日霊命(おおひるめのみこと)
 由緒不詳(「神社明細取調書」)
金刀比羅神社(こんぴらさん)
 祭神 大物主命(大国主命の別名)
 由緒 往古当村字入道に市杵島姫社・早尾(はやお)社(天湯川板挙命)・砂田社(祭神不詳)有之処、当社(金刀比羅社)へ合祭となる。(「竹野郡誌』)  〉 

『郷土と美術91』
 〈 金工史の視点から・古代丹後の伝承地名を歩く・小牧 進三
網野町の丹生
日本海沿岸最大級の網野町銚子山古墳が、近代化への変貌いちじるしい網野の町並と昔日の入江湖を見おろし身を横たえる海ぎわのまち網野。
この町なみを流れる福田川の中流域に地質学上有名な郷断層をみる網野町字郷がある。
今日網野の町名由来である網野郷は、奈良東大寺仏が竣工なった 、天平勝宝四年(七五三)東大寺要録にすでに記載があって地名は奈良時代に端を発している。
かつての中心的役割をとどめるのが、この郷で村内に水銀地名「丹生土」があるが、喧騒と情報化の波間にかき消され埋もれて久しい。
この郷にれっきとした平安時代の古社、大宇迦(オオウカ)神社が鎮まり、鎮座地は網野町小字丹生土二一四で「入道」と記された文書もある。そのほか入道、入道口という地名も併存し、この入道は、丹後町岩木の乳道と同義の丹生氏とかかわる地名であることを知る。このほか丹後には、中郡大宮町字明田の入道、与謝郡加悦町字明石の須代銅鐸出土地としてすでに著名な須代神社の近くに入谷(にうだに)古墳群の入谷地名があってこれらは、丹生土、丹生谷から「入」への変化と考えられる。が、しかしそれを裏付けるたしかな傍証資料がなくその証明はいたってむづかしい。
ところで、網野の郷に鎮座する「大宇迦神社の大ウカの神」は峰山町字鱒留に鎮まる古社で、丹後国風土記逸文がのべる豊ウカノメを祀る藤社神社から勧請された古伝を残している。
しかし、この郷の丹生土で、丹生とウカがペアであり、大和の吉野のウカシのウカと丹生とが、重層し丹生とウカとの関係には、なにかがありそうだが、いま深入りはしない。
いまから二十年前の昭和四十二年十一月のこと丹後町の岩木と同様、松田寿男氏はこの神社の境内「丹生土」にたたずみ赤土を採取。○・○四オーダーというまさに目を見張る多量の水銀が検出された。松田寿男氏が着目した地名、丹生土は、松田寿男氏の期待をそこなわなかった訳だ。
同氏の検証成果をふまえると、郷の丹生士は、地名といい神名ウカといい、古代水銀の採掘にたずさわる一群の丹生氏が、かってこの地に土着していたことを如実に語りかける丹生氏の古代から現代へのメッセージでもある。
このことから、柳田国男が主張するように地名は、二人以上の人間が、生活の便宜上、人間がひとひらの大地の「一隅」に命名するものなのだという述懐があらためて念頭に浮かぶ。
よって前述のとおり、血原、血浦、血田、「爾保、ニホ、二尾、ニヲ」「新井、ニイ」「乳道、二ウジ、丹生土、ニウド」「丹生、二フ、ニウ、ニブ」「井光、一光、碇、イカリ」等々の地名が、それぞれ、朱砂採掘の民たちのかかわりによって命名された地名であることが理解された。
そこでつぎに丹後にのこる口碑、伝説から水銀伝説を抽出し、検討したい。
網野町の丹池(あかいけ)伝説
この丹という金工の視点から『奥丹後民俗覚書』(『郷土と美術』所収井上正一編)の丹池伝説をみつめると、この伝説もやはり水銀伝説が横たわる。
丹後の木津温泉で有名なこの木津に隣りする網野町俵野、この地は奈良時代の俵野廃寺としてもすでにその名が知られている。
この山あいに、周囲四キロばかりの「丹池」というふるくからの池、「かった池」がある。
この池が、丹池となった伝説はその昔、このかった池に一匹の大蛇が住んでいた。ところがあるとき、武勇にたけた三五郎という人物が、この池の主である大蛇を斬り捨てこれを退治した。ところがそののち大蛇の血が流れだし血で池が真赤に染まっていつまでも赤さが消えなかった。そののち里人は、この池を俵野の丹池とよび、丹波の国の国名起源は、この俵野の丹池に由来すると伝える伝説があることを井上正一氏がまとめている。
この伝説を一読すると、大和の宇陀の血原、豊後の血田伝承と近似する同系の語りであって池の赤色を大蛇の血にことよせ語られていることがまずわかる。
四年前の晩秋のある日、一人でこの丹池の池ぶちに佇ずんでみたが、崖の斜面の地肌は、たしかに赤い。鉄系の赤色ではない赤さを今でも認める。その足で井上正一氏宅を訪れ、同氏から近傍地名について教示をうけた。
この丹池がある谷あいを「丹谷(たんだに)」と呼び、また続いて丹地(たんじ)地名も近接するという地名の原理から察すると、ほぼ水銀地名であることが推察できる。しかし察するだけでは証明不足でその理解がえられない。
ところが一方さきほどの網野町郷地区内に奇妙な牛伝説が語り伝えられている。
この伝説は、井上正一氏のまとめによると… あるとき、郷村の牛洗い場で、飼い牛を洗っていたところ、牛のからだが深みの淵にずるずると沈んでしまい、とうとう姿が見えなくなってしまった。ところが数日後のある日のことその牛の屍体が、俵野の丹池に浮き上がったという話が「奥丹後民俗覚書」(井上正一編)に採録されている。ついで郷の牛洗い場と俵野の丹池とは池の底がつづいているという口碑をともに紹介している。
この網野町郷の「牛洗い場」とは、かって松田寿男氏の取材に同行した地元の史家、後藤右ェ門(故人)翁の教示によると、大宇迦神社の境内「丹生土」がそれであるという。今日ではもはや見るかげもない小さな池に縮小されているが、明治末期ころはかなりの広さがあってその池の深さを知らずと言い伝られていたという。
この丹生土は、さきのとおり、○・○四オーダーを示す多量の水銀産出地であったことは、松田寿男氏の検証結果できわめて明白。
網野町の俵野の丹池も、わざわざ「丹」の文字をあて、池水の赤さを表現しいることからも血のしたたりを思わせる水銀朱の赤さを表現するため「丹」の字をあてたことを知り、丹谷、丹地地名がこれを傍証する。
このことから、郷の牛伝説も、俵野の大蛇伝説も、語りの媒体として牛と大蛇が主人公にされたのであって、もともと双方に横たわる水銀伝説の語りであったとみるとその謎も容易に氷解する。ただし郷村の「牛」は、労働力からみた牛で把握する物語りが単純となる。
ここで朱という文字を漢字分解すると、「牛とハ」の記号から朱文学が成立していることがまず明瞭だ。中国の最古文字である殷代の甲骨文字「朱」の字体をみると、朱は牛の文字の真中に横棒を一本加えたかたちで、ばっさり牛を胴切りにした形である。胴切りにしたとき、ふきだす血の色がアカ、天然水銀の赤色なのだ。つまり牛は古代において朱の代名詞でもあったわけである。
こうした理解に立つとき、郷の牛伝説と俵野の大蛇、丹池伝説は、古代水銀を媒体とし金工の視点からここで自然融合する。このわけから郷の牛の屍体が数日後、俵野の丹池に浮き上がった理由の謎もこれで氷解する。
また双方の池の底がつづいているという語りも、郷の丹生土の水銀の赤さと、俵野の丹池の池水の赤さが同色であった表現の語りであったとみなされる。
ただしこれがいつ頃の時代のことであったか、あくまで伝説であるためその推定はむずかしい。ところが、かつて俵野の丹谷から湧出し流出した天然水銀が、かった池に浸透し池水を真赤に染めあげた。この赤色が、大蛇の血にたとえられ、大蛇伝説が生まれ、丹池伝説となって今日に語り伝えられたと把握したい。
このほか、伊根町の蒲入、大浦半島の大丹生、冒頭でふれた丹波の国名由来も検討したいが紙面の都合で割愛し後日にゆずりたい。  〉 

そちら側だけでなく、福田川をこのままさかのぼって切畑峠を越えて、久美浜町側に下れば、そこには「郷」という当地と同名の集落があるし、その北に「女布」もある。

『網野町誌』
 〈 須恵器の窯跡
式内社大字賀神社の南西側丘陵斜面から、奈良時代の須恵器の窯跡が発見されており、窯体一基と灰原の一部がみつかっているが、付近の地形の様子からすると数基の窯跡の存在が推定できる。この遺跡は須恵器の窯跡としては当町唯一のものであり、奈良時代、郷において須恵器が生産されていたことがわかる貴重な遺跡である。  〉 
「大宇賀神社南窯跡」といい、8世紀中葉~後葉の須恵器杯、杯蓋、甕が採集されたという。
当社には以前にも来たことがあるが、いい天気なのに、あの時も道がドロンコ、この日もドロンコで、足を伸ばしてみようかという気がしなかった。

高野山真言宗岩倉山明光寺
明光寺(郷)
元々は川上の岩石ゴロゴロの山間にあったという真言宗の大宝2年(702)開基と伝える古代寺院。すごい場所である。生野内の大慈寺と同じように行基開基と伝える。丹後立国より11年古いことになる。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 明光寺  眞言宗にしで字郷にあり
 (同寺調文書) 本尊十一面観世音菩薩由緒不詳なるも口碑に人皇四十二代文武天皇の御宇行基菩薩諸国巡行の砌當山に留錫而観世音菩薩の尊像を自ら彫刻して峨々たる巌洞に安置し給ふ、其山を岩倉山と號す、其後年を経て日夜光明十方に照燿す里民驚き怪み其處を覓るに彼の観世音菩薩の眉間より放ち給ふ光明なることを覚知し仮りに草堂一宇を創建して明光寺と称す、霊験あらはれ且つ弘誓深如海の碑文虚しからず遠近の諸人道俗男女帰依渇仰し堂塔伽藍僧坊等悉く完備し亦時代の領主祈願所として田畑山林等の寄附有りて一旦は繁栄し国内屈指の霊場なりしが中古数回の兵乱に焼亡せられて古記文書類諸伽藍と共に烏有に帰したりと今の明光寺の西南八町許り隔てゝ岩倉山あり是即ち明光寺の舊跡にして爰に往古より五輪の塔ありしが往年今の明光寺に移して現存せり、其銘に曰く當山開白大寶二壬寅年九月廿五日開創地也爲?基菩薩四百回忌追善造立之久安二年二月二日願主仁寛敬白又曰ふ住昔岩倉山の東方一町を隔てたる山面に平等寺と云ふ真言宗の寺ありと、其鎮守たりし牛頭天王の社現存せり平等寺は天文以来の乱世に炎焼したり、其舊跡ほ明光寺の領地たりしも字切畑と山論起り今は切畑の所有となれり、正長元年快盛法印中興とあれ共今の明光寺を岩倉山より引移したるものか不詳、慶安二年京都嵯峨大覚寺門跡の末寺に属す、現今の状態 本堂七間五間庫裡六間三間半土蔵一鐘楼一間七分四方門一間七分一間境内反別八畝二拾一歩、境外所有地九反二十七歩、檀徒字郷全部
(宇川上山寺蔵年代目録)元禄十一年三月本堂再建、同寺中興第三世秀海法印ノ代也
  元禄十四年三月観世音ノ一千年忌チ営ム
  享保元年門再建
  明和二年庫裡再建  〉 

『網野町誌』
 〈 岩倉山明光寺 真言宗 郷
 本尊 十一面観世音菩薩
注 明光寺の本尊安置は三尊形式で、本尊は十一面観世音菩薩(立像)、脇士は毘抄門天(向かって右側、立像)、不動明王(向かって左側、立像)の二尊である。本尊は天保年間に修理を施した記録があり、この時に金箔を張り替えているが元禄一一年(一六九八)本堂落慶のときに新しく作ったものかどうかは不明である。しかし修理された前後の状況から判断して、岩倉の旧地から当寺が移転したときに移動させたものであろうと考えられている。
<由緒・伝承>
(同寺調文書)当山は文武天皇の御宇、大宝二年(七〇二)九月二五日行基菩薩が諸国を巡行の際に丹後国網野郷岩倉の里に留まり、観世音菩薩の尊像を自ら彫刻し峨々たる巌洞に安置した。その後、年を経て岩倉より日夜光明が十方に照り輝き、それをみた村民は驚き怪しみ周辺を注意してみると、そこは観世音菩薩の安置してある場所であった。目を細めてみると尊像の眉間から光明が燦然と輝いていたので、仮に草堂一宇を建立して明光寺と称したと伝えられている。
 この岩倉の故地は切畑地区と郷地区との境に位置する山岳地帯で、古くは巌蔵とも書かれ、そこは岩石を蔵し神が鎮座する険しい山地を意味するところであった。
 網野町郷字岩倉は宗教的意味では古墳時代(三~七世紀)には祭祀場所として、巨岩に神々が必要に応じて下界の人里近い岩場に降臨する場所、神と人とが共にいます聖地であった。此の地に「寺谷」というところがあり、そこに七堂伽藍僧坊などが立ち並び、霊験あらたかにして遠近を問わず多くの善男善女が集い仏法に帰依渇仰した。また、ときの領主も田畑山林などを寄付するなど、寺門は大いに興隆した。しかし、室町時代、戦国時代を経ての度重なる兵乱により伽藍は焼亡衰微し、当山を記録した古文書類、什宝などは散逸してしまった。
 岩倉から現在地の郷・寺ノ下に寺を移したのは江戸時代、一代宥範法印の世代と推測される。彼の師は元和二年(一六一六)に遷化、それ以前の住持は宥賢法印(元和元年八月八日没)、真海阿闍梨(慶長元年七月二一日投)が挙げられ、真海阿闍梨は岩倉山にあった明光寺の住持とみなすことができる。現在地での再建は慶長元年(一五九六)から元和二年(一六一六)の間の出来事のようであり、移転当初は庫裡のみの質素なものであったと思われる。元禄一一年(一六九八)に本堂を再建し、享保三年(一七一八)五月一九日平等院門落慶、明和二年(一七六五)庫裡再建をもって整備が完了した。しかし、昭和二年(一九二七)三月七日の奥丹後震災により秀圓法印は遷化、また堂宇も鐘楼を残し、他は全壊、本堂、庫裡は昭和七年に再建されたものである。なお弁天堂が同二六年(一九五一)に建立された。
なお、本堂の屋根瓦葺き替え修復工事が平成七年(一九九五)一二月に完成した。
注 当山先住墓地に石塔(五輪塔)がありそれには不明瞭ながら次の刻銘が認められる。
『當山関白大宝二王寅年九月二十五日開創地也 爲行基菩薩四百回忌追善造立之 久安二年二月二日 願主任寛敬白』
 これが、明光寺が行基菩薩を開基とする根拠となっている。この石塔は、当山が岩倉山の旧跡から現在地に移されたときのものとされているが、かなりな部分に修理(替石)の跡が認められる。
『竹野郡誌』には、〝(前略)又曰ふ往昔岩倉山の東方一町を隔てたる山面に平等寺と云ふ真言宗の寺ありと、其鎮守たりし牛頭天王の社現存せり平等寺は天文以来の乱世に炎焼したり、其旧跡は明光寺の領地たりしも字切畑と山論起り今は切畑の所有となれり、(後略)〟と記載されている。
<縁城寺年代記>
・大宝二王寅年九月二五日 郷村岩倉山明光寺建つ
・元禄一一戊寅年三月 岩倉山明光寺建つ(本堂再建?)同寺中興三世秀海法印の代なり
・元禄一四辛巳年三月 明光寺観世音の一千年忌を営む
・宝永元甲申年三月一日より七日まで明光寺法会
・正徳二壬辰年 明光寺秀雅と塔婆論あり
・正徳三癸巳年 成相寺吉祥寺院より来りて明光寺第五世法印を祐義とす
・享保三戊成年五月一九日 明光寺平等院門再建
・寛政九丁巳年三月二三日 明光寺鐘鋳
<旧『網野町史草稿』>
 明光寺は昔岩倉に本堂があり、郷小学校の近くに大門(小字大門)、仁王門(小字仁王門)があり、その間に平等院、十千坊など多くの寺坊を有し権勢をふるっていた一山地であったものと思われる。当寺は慶安二年(一六四九)に京都嵯峨大本山大覚寺門跡の末寺となった。縁城寺の故書には岩蔵山明光寺とあり、縁城寺分の末寺であったが〝大覚寺様御直末に差上申に付云々″とある。なお、昭和二一年(一九四六)に明光寺は高野山真言宗に所属した。  〉 

浄土真宗本願寺派安龍山真福寺

『丹後国竹野郡誌』
 〈 眞福寺 眞宗にして字郷東方にあり
 (仝寺調文書) 本願寺末派なり寛政十二年十月廿日僧貞観なるもの開基本尊阿弥陀如来は金色燦然として立派なれとも由緒不詳  〉 

『網野町誌』
 〈 安龍山眞福寺 浄土真宗 郷
本尊 阿弥陀如来
<由緒・伝承>
(同寺調文書)当山は本願寺末派であり、寛政一二年(一八〇〇)一〇月二〇日に僧貞観の開基になるものである。本尊は金色燦然として立派なものであるが、その由来は不詳である。本堂には、本尊を中心にして、向かって右の隣室には親鸞上人、左の隣室には蓮如上人と中田眞教五世の像(掛軸)が奉置されている。
『日本史辞典』(角川書店)によれば〝開基とは宗教や寺院を建てること、また創建した人。開山ともいうが、禅宗などでは開創の僧を開山、その際の大檀越を開基と呼び、開山と区別する。浄土真宗では宗祖の親鸞を開山といい、末派寺院を始めた憎はすべて開基という″としている。したがって真福寺の開山は親鸞上人である。禅宗とは、現在では曹洞宗・臨済宗・黄檗宗などである。
注 旧『網野町史』には、真福寺の開基僧を摂喜、開基の時期を寛政一二年一月二〇日と記載されている。既述同寺調文書中の開基時および開基僧は『竹野郡誌』に所載のものである。
 真福寺は、以前は現在地の南方約五〇㍍離れた山の中腹にあった。旧跡は、南側の山を背景として高橋・網野方面を展望する高台の平地で、現在はその半分が畑地となっているが、そこに立派な堂宇が建てられていたと伝えられている。しかし、繹(木本)正轍代務住職の代、昭和二年(一九二七)三月七日の奥丹後震災により、本堂や庫裡は全壊し、石崖も半壊の状態となったという。記録には〝……当寺亦一物ヲ残スナク倒潰ス……‥″と記され、震災被害の凄まじさを伝えている。
 震災一年後の昭和三年、真福寺は本堂、庫裡を現在地すなわち府道一七号線に面するところに再建した。
 旧郷村の震災の状況について、『奥丹後震災誌』には次のように記している。
〝郷村は震源地と目される郷村断層の発生地とて、その震動の激裂であったことは他に類例を見ぬ。字高橋の中央から郷・公荘・生野内等の各区を過ぎて、峰山方面へ南下してゐる断層線、並にこれに伴なふ地層変動の状態を見、字郷学校前の道路の喰ひ違ひ、字生野内の渓間水田に現はれた大断層など、実に驚異に値ひする大きな地変を、一目見た丈けでも、いかに当時の震動が猛烈で、それから起った破壊力の偉大であったかといふことが首肯かるゝのである。(以下略)〟
 中田真数五世は真福寺の中興法師ともいうべき住職であるが昭和四三年(一九六八)五月一六日に遷化、西本願寺より院号が下付されている。その後代務住職の期間が二世代(藤岡隆信・木本正信両住職)続いた。
 真福寺では昭和五五年(一九八〇)六月一日に住職継職奉告法要を執行し、総本山本願寺管長よりの辞令により、浮網善昭住職が六世を拝命し現在に至っている。
 蓮如上人像(掛軸)の上部には、次のように墨書されている。
観彼如来本願力
凡愚過無空過者
一心恵念速満足
真実功徳大宝海
 寺の旧跡地前の舗装道路を上っていくと、墓地がその周辺に整然と並んでいる。下りに差しかかった右手には、当山先住の墓地がある。  〉 

郷城趾
郷城趾
 郷村断層
郷村断層


《交通》


《産業》



郷の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎郷村(高橋村の次)  〉 

『大日本地名辞書』
 〈 【郷村】是れ網野の南なる山村なり、延喜式大宇加神社在り、是れ蓋吉佐宮の調御倉の神にして、倉稲魂ウカノミタマ命を祭れる所なり。〔神祇志料〕
補【大宇加神社】○神祇志料、今郷村にあり(神社道志流倍・豊岡県神社取調帳)蓋伊奘諾尊の子倉稲魂命を祀る(参酌、日本書紀・延喜式)
 按、神名秘書鎮座本紀云、調御倉神は宇賀之御魂神を祭り、酒殿神は豊宇賀能売神を云ひて、調御倉と并べる由太神宮延暦儀式帳に見え、又神宮の禰宜十二月晦の神事に此二坐を合祭ると然るべき由ありて聞ゆるに、又奈具社も酒殿神也といへるに附て思ふに、延喜式にこの宇賀神社と奈具神社を并載られたるも、極めて由ある事なるべし、姑附て考に備ふ。  〉 


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郷(ごう)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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