箱石浜遺蹟(はこいしはまいせき)
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京都府京丹後市久美浜町湊宮箱石 京都府熊野郡久美浜町湊宮箱石 京都府熊野郡湊村箱石 |
箱石浜遺蹟の概要《箱石浜遺蹟の概要》 函石とも書かれ、こちらの表記が古いようだが、今はだいたい箱石と書いているよう。組合式箱式石棺が出土したので、この名があると言われる。 「貨泉」が出土したことで大変に有名な国指定史蹟であるが、広い砂丘の中にある遺蹟で、草や防砂用に植えられた木々の間に眠っている。こうしたヤブの中にある。↓ また当遺蹟からは「明刀銭」が2枚出土したと伝えられている。、明刀銭といってもいろいろあるようで、どうしたことかその肝腎のブツが今は見られないようなことで残念なことなのだが、それが本当ならば、可能性としては秦に滅ぼされた「燕」(えん・中国戦国時代の南満州あたりにあった国)の交易圏に当地も含まれていたと思われ、「貨泉」よりも「徐福」よりもさらに古い大陸交易の歴史を持つことになる。『山海経』に「倭は燕に属す」とあるのはこうしたことかも知れない、古い記録はあなどれませんぞ。燕本国や中国東北部、朝鮮半島から沖縄、九州でも出土するそうだが、当地は燕経済圏の東限に当たるのかも知れない。そうならば当地こそ丹後発祥の地であるが、米軍基地など作らせると「倭は米に属す。倭は米の属国なり、倭は大資本の属国なり、ハナクソゼニで国を売ったためなり」とか名誉な記録が残される情けないこととなるやも知れんぞ。さらに拡大解釈して米のために倭の若者の命も捨てさせることになろう、倭国の歴史始まって以来の属国以下の歴史が始まろうとしている。人間には歴史というものがある、ワレラの行いは子孫達のきびしい批判に永久に曝される、バカはよいかげんにしておこう。 『山海経』の「倭」が耶馬台国の前身ならば、耶馬台国がどこにあったのかのだいたいもわかるのではなかろうか。耶馬台国は中国の古い記録に残る幻の国で、現代日本の考古学的知見とイコールとは限らない。考古学の知見は記紀の記述とすら合わない、まして中国古代の史書の記述と合うわけない、推測に推測を積み上げて危う過ぎる推測としてのハナシである。 明刀銭を持って何を買い付けに箱石までやってきたのか、そこが問題だが、誰も解いてはいない。水銀だ、これか当サイトの見方である。 『久美浜町誌』(写真も) 〈 函石浜遺跡出土とみられる古代中国周代の刀銭「明刀」(めいとう)がある。 刀銭は、紀元前五~六世紀ごろの、中国周代につくられた刀の形をした貨幣である。函石浜出土といわれている刀銭は、燕の国でつくられた青銅製で、側面に「明」という字が記されている。長さ一四・一センチメートル、幅は一・一~一・九センチメートルである。現在神谷神社に保管されている。 函石浜遺跡の発掘のとぎに、刀銭が二枚出土したという。この二枚は、さびなどの状態から、二枚重なって出土したことが明らかになっている。その一枚は、発掘に参加した人が持ち帰り、一枚は、佐治家に保存されたと言い伝えられている(毎日新聞四十七年十月二十八日より)。この刀銭が、函石浜出土という確証があれば、王莽の貨泉より更に古く貴重な研究資料になる。 〉 『中学校社会科副読本・京丹後市の歴史』 〈 函石浜遺跡 中国の新の「貨泉」出土 函石浜遺跡(久美浜町湊宮)は、日本海に面した砂丘にある弥生時代を中心にした集落遺跡です。採集された資料には、縄文土器、弥生土器、銅鏃(銅のやじり)、土師器、須恵器や鉄鏃(鉄のやじり)、石剣、石やガラスの玉類、皇朝十二銭(708 年から963 年にかけて日本で作られた十二種類の銅銭のこと)、明刀銭のほか、中国「新」王朝(西暦8年~ 24 年)のとき「王莽」が作った通貨の「貨泉」が出土しています。この中には大陸からもたらされたと思われるものも多く、日本海に面して港としての役割を持っていた遺跡と思われます。 〉 「箱石街道」のなかほど、西側を向いて写したもの。この先にかつては佐濃谷川の河口があり、大陸交易で賑わう水門(みなと)があったと思われる。砂にすっかりと掩われて今では皆目不明だが、地図から判断すれば、大陸文化流入の水門はそのあたり、この先の少し低くなっているあたりにあったと思われる。いつ頃からこのように砂に埋もれてしまったものか、明や宋の古銭も出土し、おこう野村から分村して村人が去っていく時代となるというならば意外と近い時代まで機能していたのかも… 国指定史跡函石浜遺物包含地 一、指定 大正十年三月三日 本史跡は縄文時代後期から室町時代に至る複合遺跡である。 明治三十六年に「王莽の貨泉」が採取されたことで注目を集め、その後に行われた京都大学の調査でも多数の出土遺物が確認された代表的なものに次のようなものがあげられる。 石器類=石鏃・石斧・石錘・石剣・砥石等 土器類=縄文式土器・弥生式土器・須恵器・土師器 装飾品=勾玉・管玉・ならびに原石(メノウ・ビスイ・碧玉)等 金属器=銅鏃・鉄鏃・貨泉等古銭類 貨泉は中国「新」朝の王莽が西暦十四年に作ったと伝えられるもので、弥生時代の年代推定に重要な意義をもつものである。 この史跡からはさらに古い中国戦国時代の明刀銭が出土したとも伝えられており確証が得られるなら、大陸との交流を伺わせる貴重な資料である。また装飾品用の原石は出雲や北九州との交易品とも考えられ、後世の久美浜が海運によって栄えたことと合わせて興味深いものがある。 なお現在ある鹿野・葛野・上野・俵野・溝野の各集落はこの地にあった御五野(おんごの)から分かれたものと伝えられている。 平成五年四月」 京丹後市教育委員会 広いのでもう一ケ所に同じ案内板がある。箱石集落と衛生センターの中程であるが、この看板の奥のほうが「製造場」と呼ばれる「貨泉」が出土した遺跡のよう。遺蹟は全域が道があってないような所で車では入れない。この案内板がある所は駐車場にできる広さがあり、ここに車を止めてあとは「歩き」であるが、葉が落ちた時期がよいように思う、今では何も見えまいと思え踏み込むのはあきらめた。 今は草木が生えて、遺蹟を訪れるヒマ人は、かえってジャマくらいに思っているが、人間が植えたもので、明治31年の頃は一帯はまったくの不毛の砂漠であったよう。(『京丹後市の考古資料』より↓) ここに木を植えた。エライ立派。江戸時代からずっとずっと続けられてきた大事業であった。こうした体験が世代を越えて積み重ねられないと、「すぐ木を切る」「チャンポランな植え方をする」という目先のビジョンしか描けないどこかの町のような悪癖から抜け出せないよう。木を植えることは、単に砂漠の不毛の味気ない地をみどりの野に代えるだけではない、空気や水を浄化し温暖化も防いでくれる、タダで人間の技術よりもかるかに高能率で安全で持続可能な超先進技術を駆使してやってくれる、さらには郷土も育ててくれる。 10メートル海面を上げて作図したもの。↑ 遺蹟が作られた頃は佐濃谷川はまっすぐに北流して日本海にそそぎ、河口には北九州や大陸と連絡した港津が存在していたと考えられている。弥生土器の中には大和系のものもあり、瀬戸内との交流があったことも推定される。その河口東岸の古砂丘上に当遺蹟があったものと思われる。西岸には浦明遺蹟がある。 やがて砂州が発達して河口を塞ぎ、川の流れは東へ向かった。箱石のあたりは砂州で埋められ、河口も湊も埋められ近世に入るころには千年以上の歴史を有する「おこうの村千軒」も放棄され、人々は東西の海岸部やさらに内陸部に移住するに至ったものと思われる。 箱石浜(函石浜)。いにしえは、おこうの、おんごの、しばこ、まさかりのはま、とも呼ばれる竹野郡網野町と熊野郡久美浜町にまたがる海岸で、湊宮から浜詰に続く約7kmのロングビーチと呼ばれる海岸砂丘のほぼ中央部をさす。西に小天橋(西天橋)と呼ばれる砂嘴が続いているが、その付け根附近にある。 名高い天橋立に遠慮して小天橋(西天橋)と呼んではいるが、長さといい幅といい規模は小学校があるくらいだから、こちらの方がはるかに立派であるし、しかも昔は鳴き砂であったというし、歴史もこちらが古く重要なものになりそう。丹後大天橋である。 木津の方から国道178号を行くと「柴古」、ここは浜詰になるが、箱石集落以降に作られた村である。 もうしばらく西へ行くと箱石になるが、一帯は雑木林のような感じである。 小天橋はクロマツがあるが、このあたりは育たないのか、こうした様子↑土壌があまり養分豊かだとかえってダメなものという… 箱石浜遺蹟 この浜の標高約20mの砂丘部に遺物が出土することは明治20年頃には知られていた。大正10年ここから箱石式石棺と王莽期の貨泉が出土し、東西約800m・南北約600mの地域が同年3月「函石浜遺物包含地」として国史跡に指定された。しかしその位置となると… ただ平坦な所に広がる防砂林といえばカッコいいが、ヤブである、その中の遺蹟で写しようもない。一番高そうな砂丘に登ってみる。左側奥の平坦な所あたりになる。 坂根正喜氏の『心のふるさと丹後Ⅱ』より↑。小天橋を西側から見ている、その付け根附近の日本海側(左側の海)の海岸部になる。 遺跡からは縄文時代から平安時代に及ぶ遺物が出土した。 ①鉄山、②貝塚、③石原、④人形ケ岡、⑤骨山、⑥製造場、⑦白石、⑧新開場の8地区に分けられ、各区域の出土品は… ①鉄山。貞観永宝・富寿神宝破片・弥生式土器片・須恵器片・勾玉・鉄鏃・鉄滓・木炭・青磁および染付磁器破片。 ②貝塚。貝殻・須恵器片・人骨・弥生式土器壷・錘石・明宋の古銭。③弥生式土器片・鉄片・管玉・硬玉製勾玉。 ④石原。人形のようなもの。⑤骨山。人骨・中古の五輪塔が出土したといわれ、旧墓地と推定される。 ⑥製造場。銅鏃・石鏃・石剣・勾玉・管玉が出土し、材料の硬玉の破片が石器の材料の燧石の打欠き破片の中に発見され、石器製造所であったと推定されている。そのほか明治36年に「王葬の貨泉」2枚(京都大学蔵)、「函石」の名の起りという扁平な岩片、箱式石棺があり、棺内に四個の斎杯、伸展葬の遺骸があった。 ⑦白石。石鏃・銅鏃・縄文式甕の破片。 ⑧新開場。石鏃。 区域ごとに遺物に差異があり、縄文時代から平安時代に至る千数百年に及ぶ複雑な様相を示す。 今は当地の東側には函石という砂丘地農業を営む小さな集落がある。 《箱石の人口・世帯数》 26・10 もと湊宮の内だが、一行政区となっている。 意布伎神社(箱石鎮座) 郡誌には記録がない。砂丘地農業をやっておられる農家が集まる地区の砂丘上に鎮座している、まだ新しいようで、ここに新たに二次的に入植された方々の故郷にあった神社を分けてもらったものではなかろうか。たぶん式内社・意布伎神社のある三分の人達ではなかっただろうか。郡誌など読んでみればその通りのようであった。函石浜遺跡の東にある箱石は、明治12年(1879)頃から三分の西垣正左衛門が砂丘荒蕪地の開墾を始め、同21年には20町歩を桑園とした、大正末期には移居戸数9戸となったという。 函石浜の海岸に出るには、この村の途中から北へ入る細い道を行く。案内板があるが、はげていて読めないので注意。 まぼろしのおこうの(おんごの・しばこ・マサカリの浜)(御五野と漢字で書く) 函石浜を中心とする砂丘地帯にあったと伝えるられる。当時も今のように草木もまばらな砂丘であったかわからないが、今の函石浜は東は浜詰より西は葛野の小天橋に至る府下ナンバーワンの大砂丘で、西北方からの強風が吹き寄せる飛砂によって、田畑から家屋敷まで埋められたため、全村が移転したと伝えている。 この伝承を有する村は、鹿野・葛野・上野・俵野・溝野で、この五村は分村の時、いずれも村名に「野」をつけたという。この地には「いつもりの長者」の伝説が残る。 江戸時代初期頃より、年々砂防のための植樹がなされてきた。小天橋では慶長7年(1602)以来10年間にわたり毎年、松500本、茱萸300本を植えたと伝えている。 また寛政元年(1789)俵野村明細帳(俵野区有文書)に字あがり山の宝暦4年(1754)以来の防風植林の事績が記される。 砂防垣や砂防林の仕立は、江戸時代より明治~大正の頃まで継続実施された。その後、しだいに松は成林し、現存100ヘクタールに及ぶ砂丘松原となり、風害はなく、一部は開墾されて、まず箱石集落、これに接続して浜詰柴古集落が誕生した。戦後もまた続けられている。 水田がないので、何かニッポンの農村というよりは北海道かどこか外国の開拓農業地のような感じだが、砂丘畑には梨・葡萄・桃などの果樹、西瓜・メロンなどの果菜類、チューリップなどの花夲類が栽培されていて、明日の日本農業の手本にもなるような蜂蜜とミルク流れる希望の約束の沃野の感じもするのだが、しかしこうなるまでには大変な苦労があった。 『網野町誌』 〈 砂丘と農業 人が砂丘地で農業をすることには大きな障害があった。飛砂と潅水である。桶を肩にかついで行う潅水作業は「嫁ごろし」といわれるほどの厳しい労働であった。丹後砂丘に人が住むようになったのは大正末から昭和の初めだといわれる。網野湖口地帯で桃などの果樹がつくられていた歴史は古いといわれる。丹後砂丘では、明治四○年ころ網野丹治山での前川平治郎氏と相前後して、木津上野の谷口源太氏が近くの砂丘地に水蜜桃を植えたのが砂丘果樹のはじまりであり、砂丘農業の発祥だといわれる。 丹後砂丘は丹後では最も活気のある農業地帯である。毎年のチューリップ祭りは盛会を極め、スイカ・メロン・長芋・甘藷などの野菜類やナシ・ブドウ・桃などの果物は農家の直売店・観光農園として海水浴客や観光客に受けている。砂丘農業が飛躍的にのびたのは、スプリンクラーによる潅水、防風垣や防風林による飛砂防止が解決されたことが第一の要因であるが、加えて砂丘砂は農業上すばらしい特性をもっていたことである。それを列挙すると次のとおりである。 ①春早くから地温が上昇し、早期作付、早期生産が可能である、②通気排水が良好である、③耕耘作業が容易で、適期作業や農業機械の稼働率を高めることができる、④栽培管理が容易で雑草は少なく、除草作業も容易である、⑤根菜類は形状がよく、果菜類は糖度が高く、品質のよいものができる、⑥土壌浸食の恐れはほとんどなく、土壌管理が容易である、⑦収穫作業およびその後の洗浄・調整などの作業が容易で生産物の清潔度が高いなど。そして砂丘砂は「くせ」がないため、技術の高い人なら思い通りに栽培しやすいといわれている。反面砂丘砂は腐植が少なく微量成分に不足し、肥料成分が流れやすく、土壌緩衝性に欠けるなどの欠点をもっている。 丹後農業研究所砂丘試験地は昭和二九年に現在の木津川口に移転し、砂丘農業の栽培技術や経営について研究を行っている。京都府農業振興構想(昭五六)では、「丹後沿岸部は砂丘農業の有利性を生かしつつ観光客に目を向けた地場流通と広域流通を組み合わせた野菜・果樹の振興を促進するとともに、促成用チューリップ球根の品質改善や産地の拡大を図る」としている。丹後リゾート構想と合わせ、海と砂の特性を生かした、先進的であると同時に特殊な農業の展開が期待されている。 〉 『ふるさとのむかしむかし』 〈 おこうの村の分村 ずっと昔、浜詰海岸から、葛野にかけての海岸ぞいの地域に、おこうの村があったといいます。ところが、西北風のたびに海岸に打ち寄せる砂を吹き飛ばし、田圃も屋敷も砂で埋められて居住できなくなりました。 そこで葛野・鹿野・俵野・溝野、上野の五つの小村はそれぞれ集団分村することになり、鹿野、葛野は熊野郡側へ、その他の三か村は竹野郡側へ、それぞれ山裏の風のやさしい土地を選んで分村いたしました。 分村の年代は記録によると、上野村は三百年前、俵野村は二百五十年前と、おおよその時代はわかっているが、その他の村の移転年代は不明です。 分村のとき、氏神の岩船神社は葛野付きとなり、薬王寺覚性院は上野村の管理となったようです。また仏の年忌供養のとき、道端などに建てられた地蔵尊像、五輪塔などは一か所に集められて、そこを地蔵山といい 之は俵野村が管理して今日に至っています。 地蔵山の祭りは毎年八月二十三日に行われるが、江戸時代より明治初期ころまでは、元村だった五か村の人々が参詣し、相撲など盛大に行われたそうです。 なおこの地の名称を、熊野郡では「おんごの」とも言います。 (原話 井上正一) 〉 〈 「おこうの村」といつもり長者 網野町の浜詰から、久美浜町と葛野部落にかけての海岸砂丘地帯を、往古には「おこうの村」と称した。そして家が千軒もあって栄えていたとの伝承があります。 この村に「いつもり」という長者がありました。この人はもと伊賀の上野の出身で 裕福な家であり、深く観世音を尊信していたそうです。 ある年 屋敷に植えた杉苗が、僅かの期間に大木に成長して この不思議なできごとに長者は驚きましたが、前代未聞のできごとだとで、遠近の人々が毎日見物にやって来たといいます。 そこで長者は念のため、占師にうらなわせましたところ 「これは、み仏の因縁じゃ、この木を伐って観音の像を刻んで祀れとのお教示があった」と言う。そこで長者は仏師に依頼し、この木を伐って観音像を刻ませました。 三体の御像が出来上りましたので、一体は大和の長谷寺に、一体は但馬の湯島(今の城崎)の温泉寺に寄進し、一体は、わが家に祀っていたのです。 その後、ある年、長者は国主の意に逆う事件に関係したため、その地に住めなくなり、観音の尊像を背負って霊地を廻国し、ついに丹後のこの浜に留りました。おこうのの地に、住居をつくり、別に一寺を建立して観音の像を祀ったのであります。 ところが、たった一人の娘の頭に二本の角らしいものが生えるという奇病にかかり、それがだんだん延びてゆきます。長者は医師にも見せ、充分な手当てをしたが効なく、この上は神仏にたよるよりほかないと考え、村の氏神であった岩船の神に毎日日参して祈願しました。 ある夜、岩船の神が、長者の夢枕にあらわれ 「その方の善根と熱巨な願いにより、その願いは聞きとどけたいと思うが、わしの力では一本しか落すことができない。残りの一本は観世音に頼め」と告げられた。 長者はたいへん喜こび、それからは伊賀より移して祀った観音堂に娘を日参させましたところ、ちょうど百日の満願の日の帰りに、途中で最後の一本もころりと落ちました。 村の衆は、その角の落ちた所を、娘の名をとって「さいが鼻」と言うようになりました。娘の名を「おさい」と言ったようです。 さてこの霊験あらたかな観音堂は、上野岡の天王の地の薬王寺境内に祀られていたのですが、強い西風のたびに海岸の飛砂が境内を埋めるので、慶安四年(一六五一)に、現地に移され、寺名も真言宗、薬王寺覚性院と号していました。 その後、明治五年(一八七二)無檀家の故にて廃寺になるところ、久美浜町大向の迎接寺内から中性院を移したことにして、今日では寺名も改め、真言宗中性院となっています。(原話 俵野 井上正一) 〉 箱石浜遺蹟の主な歴史記録『丹哥府志』 〈 ◎湊村 【長沙】 神湊村より東葛野に至る凡廿丁余、南北七八町、湊村の辺に至りては僅に四五丁、其間左右に海を受けて一面の白砂なり、其中央松樹相連る、其趣略天橋に相似たり。 (校者曰)葛野の北東方地先竹野郡浜詰村交境付近に函石といふ一小聚落がある、古来オンゴノ、シバコ、またマサカリ浜と謂って海浜通有白砂青松の仙境であるが聚落から約二百米西北に松林を徒ふと長者屋敷といふのにぶつつかる、夕日の長者の伝説の伝説があり之れより西方約八百米ばかりの間、不毛の砂浜で方今無人の境となってゐるけれども、往古は聚落の好適地で付近に爺が池なる清泉が湧き出でて飲用水源地をなし、風潮の影響もあって大陸との交通が早くより開け、大陸文明が夙とに輸入せられて前出木津の売布神社に絡まる伝説の葉祖神、田道間守命が垂仁天皇の勅を奉じて常世の国から不老不死の非時香菓を齎らし、八竿八縵の宝物を陸揚したといふのも此のあたりであるからその当時にか可なり発展した所であったらしい。 図に見ゆる新開場より石鏃を多く出土し、その南方白石付近は特に先史住民の遺品中重要の役割を持てる縄文土器を始め、弥生式土器、石鏃、銅鏃等を出土し、この西北方大窪の凹地を距てた製造場は遺跡遺物の最も多く存在する地点で、瑠璃や燧石の破片多く散在する点より製造場の呼称も起ったのだとのこと、発見された遺跡は箱式石棺を主体とする古墳、及び函石の名称の據って起れる扁平なる石片所謂「函石」、それから石鏃、石剣、石斧、石槌、錘石、砥石、凹石、勾玉、管玉、小玉などの石製品、玉類及び其の未完成品、高杯形、壷形等の弥生式土器、各種斎瓮類、並びに泉貨その外の外銭などであって、殊に泉貨は支那の前漢と後漢との間に一時帝を称した王莽の鋳造せるもの恰かも我が崇神、垂仁期に該当する。この泉銭が我国に舶載されたのも当代を去ること余り遠からざる時代であったらうことは、右の垂仁朝から景行朝に亘っての史実である田道間守の上陸などと併せ考ふれば興味津々たるものがある。製造場の西方骨山は人骨多く埋没されて明治中期までは骨格殆ど具備せるものが相当あった由、今なほ地表に大小無数の骨片が散乱して命名の由来を想はしめる。その西南の人形岡も其のかみ人形の如きもの多く並列してゐたので名づく由、今から逆?も許さぬだろうが矢張り人骨の岡であったらう。 以上は函石より湊宮への通路の南側であるが通路の北側に貝塚がある。蛤、蜆、牡蛎その他の貝殻が一帯の高峯を成し、人骨、弥生式土器、斎瓮等の破片、錘石その他石製品唐の開元通宝を始め宋の皇宋通宝、嘉祐通宝、?寧元宝、元祐通宝、咸平元宝、政和通宝、大観通宝から降って明の永業通宝に至るまでの銭貨が発見され、その北西の鉄山は鉄鏃、鉄滓等の鉄片特に多い所から命ぜられた由であるが、鉄製遺物だけでなく銅製品も混じ弥生式土器から斎瓮の破片、勾玉、稀に青磁及び染付磁器も混出し、なほ我が平安朝十二銭の一なる貞観永宝、富寿神宝も出土した處である。その北の石原は石が多いので名づけられたのであらうが、出土品は前者鉄山と略ぼ同様のものが現はれ、硬玉製の勾玉なども此所から出たといふ。けれども如上の遺物が夫々の場所に単独に出土されたのではなく、如上の場所一帯を通じて石器時代から銅器時代を経て鉄器時代に至る各種の遺物が混在する訳で、大体から言へば貝塚から骨山付近にかけて古い時代のものが多く、石原近傍の方に比較的新しい時代のものが現はれる傾向はある。大正九年発行京都府史蹟勝地調査会報告第二冊に「函石ノ遺跡ハ所謂弥生式土器ヲ使用セル民衆ガ石器時代ニ来リ住セル所ニシテ位置ノ然ラシムル所トシテ早ク支那トノ交渉開ケ、銭貨硬玉等ヲ得タルト共ニ文化ノ進歩ノ結果銅ヲ得テ石鏃卜共ニ又コレヲ用ヒタリ、平安朝初期ニ当ル頃鉄鏃ノ使用セルアリ、更ニ後代永楽銭ニ至ル各種ノ古銭ヲ出セル事実アリ。其ノ間ノ年代実ニ前後千数百年ノ長キニ及ベリ。而シテ其ノ発見ノ各種利器殊ニ鏃ノ形式ガ石、銅、鉄ノ三者ヲ通ジテ同ジ系統ヲ襲へルヨリ見、土器ノ同様式ナルハ是等ヲ作レル各時代ノ民衆ガ同一系銃ニ属スルコト殆ンド疑フ可カラズ、平安朝、鎌倉時代ニ此所ニ住セルモノ、日本人ナリシコトハ明白ナレバ、更ニ遡レル石器及と所謂弥生式土器ヲ使用セルモノマタ同ジク日本人ナリトハ容易ニ肯定セラルベキナリ。比ノ点ヨリ見レバ函石ノ遺跡ハ我ガ日本民族ハ古ク石器時代ヨリ此所ニ住シテ支那ノ文化ノ影響ヲ受ケテ漸次開化ニ向ヘルモノトシテ、吾人祖先ノ歴史ノ縮図ト見ルヲ得ベケン。マタ其ノ開化ノ入レル時期ニ就テハコゝニ泉貨ノ伴出スル事実ヲ重要親スベク、真ノ日本文化ノ曙光ハ西暦紀元前後ニアリシト推定スベキナリ」と。斯くて中央学界の注意を惹き長者屋敷より石原に亘れる如上の部分、東西約九百米、南北約五百五六十米、面積四十四百亜余の地域が遺物包含地として大正十年三月三日内務大臣より史蹟地に指定せられた。(校者というのは永浜宇平氏) 〉 『京都府熊野郡誌』 〈 函石浜石器時代の遺跡。函石は廿数町歩に亙れる地域にして、北方日本海に面し、土地起伏して高低あり、遺物は各所より発見せらるるも、位置により多少状態を異にす。同地は石器時代の遺跡として学者の間に認められ、大正十年史績名勝保存法により指定せられし所なり。今其の概要を述ぶれば、金山と唱ふる附近は鉄片特に多く、土器片の散在せるを見る。主として弥生式土器勾玉鉄鏃等あり、貝塚は鉄山の東方にあり、蛤蜆牡蛎等数種の貝類散布す、層浅くして薄雪の降れるが如し。骨山稍丘状をなし、無数の人骨片あり、現今は其の数を減ぜるも、従前は全く人骨の山なすを認め得たり。製造所は遺物の最も多き部分にして、石鏃、勾玉、管玉及び其の未完品等あり、銅鏃も多数に発見せらる。瑪瑙の破片燧石の欠片等多数に存在せり。土器は弥生代のもの多く文様を印せる破片少なからず、而も或部分には斎・の破片多きを見る、斯の如く年代に於ても多様に遺物の発見せらるるは、各年代を通じ民族の住せし事を知らるるなり。此の地縄紋土器の出土せる事あれど、其の数多からず。抑ね函石浜は、古名オンゴノといひ、一にマサカリ浜ともいへり。大正十年史蹟地として指定せられし境界線を距る事東方約一丁にして、長者屋敷といへる地あり、此処より二丁程にして爺(じい)が池あり、函石住民飲用水の水源池たり。尚東方浜詰に達する約一里の松間に清水川あり、流域四五丁にして特に水源と認むべき地なく、水量亦四時異る事なしといふ。右等の地勢より推考すれば、多少先住民居住の状態を想像せらるるなり。西垣正左衛門氏明治十二年頃より函石浜の開墾に従事せしが、開墾中三個の石棺を発掘せるに、一個には完全なる白骨を存し、而も巨大なる体躯なりしといへど、実測を経ざれば、詳記し難く、二個の石棺中には人骨副葬品共存在せざりきといふ。而して石棺は何れも同形式のものにて、組合せ式なりきといふ。此の附近古墳と認むべき所あり、史蹟保存地に連続せる白砂青松の地にして、未だ精細なる調査を経ざれど、史蹟地と相竢ち共に連絡せるものあるが如し。 〉 『郷土と美術6』(昭和14)(地図も) 〈 函石浜伝説 井上正一 宮津線を下りの汽車でお出になった方は、丹後木津駅をすぎて砂丘の切割を越えると窓外が急に展開して、日本海を背景に白砂青松と桃園の点続しに絵の様な景色が見渡されるでせう。こゝが次に申上げる函石浜であります。この浜には考古学上有名な石器時代の遺跡があります。函石浜は石鏃等の如き武器の製造場であったらしいといひますが、今でも石鏃を始め、石斧、石槌、土器、玉、貝製品等の脳土品が発見されます。これら出土品によって調査すれば、この浜の先住民族の居住年代は、石器時代から遥か後代、金属使用期時代に至る、前後千数百年に及び、その問同一民族の居住してゐた形跡があって、こんな長期に亘るのは他の遺蹟に例の少い珍らしいことであるといはれてゐます。 函石浜がそれほど永住に適した住みよい土地であるか、それに何故村が現在まで続かなかったか、そして又近代に至って枯木にを芽を出した様にボツリと函石部落がなぜ作られたか、これは地理学上にも経済史上にも誠に興味深い、実に面白い問題であります。また函石浜には土器の破片と共に夢物語のやうな伝承がごろごろしてゐます。私共の如くこの浜の先住民族を祖先とする者には「函石浜」と聞いただけでも、なつかしさがこみ上げるのであります。 いつもり長者の話 函石浜に小字「おこう野」といふ所がありますこのおこう野にはずっと昔には家が千軒あまりも立ち並んで、大変栄えてゐたと言ひ伝へてゐます。その頃こゝに「いつもり」といふ長者がありましに。沢山の財産を持ち、立派な屋敷に住んで何一つ不自由を知らぬ誠に幸幅な暮しをしてゐました。毎朝黄金の鶏が時をつくったのだとも言ひ伝へてゐます。長老は大愛慈悲深く、人々によく恵みましたので、遠方までもその名が知られ、多くの人々から崇敬されてゐました。いつもり長者の出生地は紀州でありまして、まだ紀州にゐた頃の事、長者の屋敷に一本の杉の木が植ゑられました。不思議なことにはこの杉の木が僅かの期間に太りだし、遂に見上げるばかりの大木になってしまひました。これは誠に前代未聞の出来事だといって、毎日々々見物人がつゞきました。いつもり長者は仏教の信仰に篤い人でありましたから、これはきっとみ仏の導きにちがひないと考へ、占師に占はせました所「この木を以て観音の像を刻んで祀れ」との御心なることが明らかになりましたので、早速仏師に命じて観昔の像をつくらせることに致しましに。第一番に末口で造ったみ像はやりそこなって物にならす、二番木で造ったのが見事に出来てこれを大和の長谷寺に祀り、次に三番木で造ったみ像を屋敷内にて祀りました。その後この丹後の箱石浜に移りましてからは観音のみ像も共に移し一寺を建立して鄭重に祀つたといひます。 同木同作の三観音 話かはって、この観音を刻んだ仏師が但馬の湯島温泉へ入湯に出かけましたとき、円山川を渡舟で渡り、丁度舟が向ふ岸へ着きましたので舟を降りやうとして対岸に足をかけますと、あいにくそこにあった材木が崩れて仏師は川へ落りました。その時この材木をよく見ると、前に自分が観音像を刻んだ残木ではありませんか、これは実に不思議なことである、必ずやみ仏の因縁によることであらうとて、この地に於て、尚一像を刻んで祀りました。これが城崎温泉寺の御本尊であるといひます。後の世の人々はこの長谷寺の観音と、温泉寺の観音と、おこう野の観音と「同木同作の三観音」と言ひ伝へてゐます。 人角 いつもり長者のやうな幸福な人にも、こゝに一つの悲しい事件が起りました。それは可愛い年頃の娘の頭に角が生えて来たことであります。この前代未聞の奇病に対して長者は大変驚き、その財力にあかして様々治療に手をつくしましたが何のきゝめもありません。この外はたゞ神仏の力を借るより仕方はない、とて函石の氏神、岩船神社に毎朝、毎夕祈願致しました。だが一向にしるしは見えませんでした。或夜長者は夢に岩船の神が現れ「お前の日頃の善根と熱心な祈願によりその願は聞き届けてやらう、だが自分の力では一本しか落すことができん。残りの一本は観世音にお願ひするがよい私は岩船の神だ」と申されました。長者は大いに悦び、観世音にも一心にお願ひしました。その熱心な願ひは遂に神仏に通じて、娘の角はきれいに落ちて、元の美しい顔に立かへりました。いま岩船神社に一本と、中性院に一本保存されてゐる人角がそれであると言ひ伝へてゐます。 函石浜の分村 函石浜はその後幾百年の間に土地の異動もあり又、海岸より人家中へ盛んに砂を吹き寄せるやうになったので、遂に一郷の者がこぞって近辺の安全地帯へ分村移住致しました。各新村の名は何れもおこう野の野を取って、 上野村 (今の竹野郡木津村字上野) 俵野村 (今の竹野郡木津村字俵野) 溝野村 (同 村字溝野) 鹿野村 (熊野郡神野村字鹿野) 葛野村 (熊野郡湊村字葛野) と五ケ村とも野をつけました。 その後の函石浜 おこう野の観世音も分村の時、上野村へ移しましたが、只今中性院に御本尊として祀られてあるのがそれでありまして昔から六十年に一度だけ開扉することになってゐます。数年前京大の西川直二郎博士が取調べられました時、これは実に立派なもので、国宝に準ずる名作であるから厳重に管理するやうにと申されました。おこう野にはいつもり長者の屋敷跡といふのも残ってゐまして先年誰かゞ発掘致しましたが、石器、土器の類は出たが、伝承に残ってゐる黄金の茶釜も金の鶏も一向に出て来ませんでした。 〉 『久美浜町史・史料編』 〈 函石浜遺跡 遺跡番号五 史跡番号K一 字葛野小字箱石に所在する。 現地は日本海に面した海岸砂丘上で、現在では保安林として植えられた松、ニセアカシアによりはっきりしないが、内陸部については起伏に富んだ場所も見受けられる。また、佐濃谷川については、一定期間、この遺跡近辺に河口部があったことが判明している。遺跡は発見時、東西約一キロメートル、面積二五ヘクタールという広大なものであった。大正九年刊行の「京都府史蹟勝地調査會報告第二冊」によれば、縄紋遺跡も含まれるようである。 新開場 石鏃が多く出土する。 白石 石鏃、同族が出土。縄紋土器の破片を採得。 製造場 石鏃、石剣、勾玉、管玉、やその未完成製品が出土し、石器製造所跡と推定されている。 前述したものの他に貝塚が存在したことが確認されており、この一部は縄紋時代のものの可能性もある。 遺物の出土量から考えると、ここが久美浜町でも最も早く居住地として開け、長期間に渡って人々が暮らした場所であることは間違いなく、町の成り立ちを考える上で、外すことの出来ない遺跡と言える。 〉 〈 函石浜遺跡 遺跡番号五 史跡番号K一 字葛野小字箱石に所在する。 遺跡は東から西に突出して久美浜湾を閉塞する砂州の基部に立地する。 大正八年に京都大学教授梅原末治氏及び同大学大学院生辰馬悦蔵氏(いずれも当時)によって行われた小発掘により、出土するものの内容によって地区分けされた。それぞれ石原、鉄山、貝塚、人形岡、骨山、製造場、白石、新開場と名付けられている。この内、製造場付近で出土した遺物には弥生前期の甕、弥生後期の甕、弥生時代に属する銅鏃、貨泉などが出土した。これらの他採集された資料には磨製石剣、石鏃・石斧などがある。遺物は地表面に最も多く分布図し、地表下三〇センチ以下にはほとんど土器すら包含されていない状況であった。久美浜町内においては唯一の弥生前期の遺跡であり、久美浜町への稲作文化の到来を物語る資料として重要であるばかりか、貨泉の出土地として名高い遺跡である。 〉 『郷土と美術79』(1982) 〈 丹後砂丘と箱石浜遺蹟 松田啓三郎 丹後砂丘は山陰海岸の六大砂丘の一で(鳥取砂丘、北条砂丘、弓ケ浜砂丘、大社砂丘、江津砂丘と丹後砂丘)東西の長さ約七キロ、東に浜詰海岸、夕日ケ浦、西に湊宮小天橋、日間ノ松原があり、その浜詰海岸に縄文遺跡、砂丘の中央部箱石浜に箱石浜遺跡がある。その出土品には弥生式土器、縄文土器、薬瓷、青磁、染付、陶器、石斧、石錘、石槌、砥石、凹石、貝製品、勾玉、管王、銅鏃、鉄鏃、貨泉、貞観永宝、富寿神宝など多彩なもので、特に貨泉は前漢と後漢の中間に短期間成立していた「新」王朝の通貨で数が少いので考古学では注目する遺品である。 このように箱石浜遺跡の出土品は大陸との文化交流をあとづける遺品が多い。昨年丹後では黄金の太刀(久美浜須田の湯舟坂古墳)が出たり、日本最古の高地性大周濠(峰山町の扇谷遺跡)が発見されて丹後王国論の展開を見たのであるが、その丹後王国論を支える遺跡の中で箱石浜遺跡は、その原点たる位置を占める重要な遺跡である。ところがその箱石浜遺跡は丹後砂丘のド真中の砂地に埋っていて、多彩な大陸との文化交流地、或は国際交易港址とさへ言われるイメージが全く見出せない。 この古代史のロマンを秘めた謎をとくにはこの遺跡の舞台たる丹後砂丘そのものの生い立ちから見て行かねばならない。 鳥取砂丘の研究で有名な大西正巳氏によると(鳥取市立図書館長)海岸砂丘には砂の供給源たる河川が必ず存在するもので例えば鳥取砂丘には千代川、北条砂丘には天神川、弓ケ浜砂丘には日野川、大社砂丘には神戸川、江津砂丘には江の川がある。 丹後砂丘も例外ではなく佐野谷川が本来は北上して日本海にそそぎ、箱石浜の位置がその河口に当っていた筈だと言う。 このことは上図を見ればUターンして久美浜湾に屈曲してそそぐ姿が、新らしい砂丘の発達に伴って様変りしたものであることがよく分るのである。どこの河川でも河口は変変自在なもので様変りする例は別に奇らしい現象ではない。近くの円山川でも竹野川でも又野田川、由良川にしてもその河口の変遷の歴史は興味深いのである。 丹後砂丘は現況上、砂を供給する河川が見当らない変則的砂丘であるが、もう一点面白い特徴がある。下図のように夥しい漂流物が広大な砂丘に打上げられていてそれは何ともすさまじい光景である。文化果つるところと言うのか世界文化の吹きだまりと言うべきかともかく対島海流と冬期の卓越季節風に乗って丸太や廃舟その他眼を蔽うばかりで原始時代の漂流民或はタジマモリの常世の国往来の故事も如実に思わせる不思議な浜辺ではある。 箱石浜という名は日南海岸青島に似た鬼の洗濯板のような海蝕棚があり、箱型石棺に利用されたので付けられたものである。砂岩、泥岩、凝灰岩などの互層ではがれ易い。 砂丘は新旧二種類の砂によって構成されている。新旧二種類の砂の堆積の中間に降灰土層が挟まれている。古砂丘は洪積世の形成になり、風化が進んでいるので茶褐色をおびており、新砂丘は沖積世の形成になりまだ風化せず白く輝いているからよく識別出来る。降灰土層は洪積世末期日本列島全土に火山活動がざかんだった時期の産物で、一米以上も堆積して古砂丘をスッカリ被覆したという。その為移動性の多い砂丘が安定してその上が草原となり、動植物の楽園と化した時期があったと言われる。 その證固に丹後砂丘でもよく見かける「黒ぼく」と称する層があり、それは降灰土層の最上層の腐蝕土が黒ずんだもので浜詰の縄文遺跡に見られるように魚貝の外に兎やシカなどを追って生活を楽しんでいた様子を物語る舞台なのであった。 箱石浜遺跡が縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良、平安時代とイキの頗る永い二千年以上もつづいた遺跡であったことはこの砂丘上の草原が固定し、佐濃谷川の河口が港湾の機能を果していたからであろう。 しかもまた、王莽の貨泉が物語ってくれているように大陸文化との交流の窓口として日本でも数少い貴重な遺跡として丹後王国論には欠くことの出来ない存在である。貨泉の出土地は箱石浜の外には僅かに近畿では大阪の瓜破遺跡だけ、九州では福岡の松原御床遺跡だけ、飛石づたいに壱岐の原ノ辻遺跡から釜山の金海遺跡と済州島だけである。金海は任那の故地であり、済州島は日本海海女のルーツであった。 さて古代人の楽園であり古代の国際港でもあった旧箱石集落が現在のように荒涼たる砂丘に埋め尽され、そこの住民たちは縄文土器や弥生土器その他を捨て、立去らねばならなかったのは一体いつ頃のことであったか? 残された出土品から見てもさほど太古に遡るものでなく歴史時代になってからであるとは数々の文献からも知られる。やはり地球規模の寒冷期に襲われて海退現象が起り、海水面下に在った沿岸州が海上に現われるとたちまち飛砂現象を起して人家も田圃をも埋没して了うのであった。木津温泉に近く上り山というのがある。一夜にしてその山の為に水田がなくなり俵野から上野への見透しがなくなったという。その上り山とは砂丘の先端で言うならば砂津波のような来襲だったと思われる。前記の大西氏によれば鳥取砂丘にも同様の状況があり、今から千五百年~二千年前のことと推定されている。 木津の上野、俵野、溝野、久美浜の鹿野、葛野などは旧箱石集落からの疎開先で野の字を附し、本村の御五野の記念としたものであるという。そして現在の箱石部落は明治初年に開拓を志した疎開家族の二、三男たちで防風砂林の育成を開始し、その成長によってようやく自然の猛威を喰い止め、果樹園の裁培に成功したものだと言う。 松原に囲まれたチューリップのじゅうたん、桃林や梨園がつづき、温泉郷がそこここにと湧き出て太古の桃仙境が再現している。 スバラシイわがふるさとではない乎!! (奥丹後地方史研究会々長) 〉 『舞鶴市史』 〈 函石浜遺跡は久美浜湾東北部を日本海と区画する東西に伸びる大砂丘上の、松並木(小天橋と呼ぶ)の東に隣接する海岸砂丘上に展開する山陰地力屈指の遣跡てある。明治二十年ころ散在する遺物が発見され、明治三十年ころからの数次にわたる調査の結果、鉄山・貝塚・人形岡・骨山・新開場・製造場等の遺物包含地が確認され、特に弥生時代の遺物に見るべきものの多い遺跡として学界に紹介されて注目をあびた。遺跡の範囲は東西約八○○メートル、南北約五○○メートルの広範囲にわたり、出土遺物は縄文後期の土器片をはじめ、弥生土器・土師器・須恵器・磨製石斧・石剣・石鏃・石錘・勾玉・管玉・各種銅鏃・古銭等である。とりわけ、中国新王朝(紀元八~二三)の「貨泉」と弥生土器、多数の石鏃・銅鏃類は、本遺跡の重要性を示すものであり、丹後弥生文化研究の夜あけをつげる遺跡となった。 〉 『京丹後市の考古資料』 〈 函石浜遣跡(はこいしはまいせき) 所在地:久美浜町湊宮小字高山沖ほか 立地:日本海に面した砂丘上 時代:縄文時代~室町時代 調査年次:1918年(京都府史蹟勝地調査会) 現状:完存(国指定史跡) 遺物保管:京都大学総合博物館、東京国立博物館、久美浜高校、個人所蔵など 文献:C017、C018、E027、F002、F005、F006、F008~F010、F012、F013、F015~F018、F051、F133、G008、G024、G025、G028、G032 遺構 函石浜遺跡は、日本海に面した砂丘地に立地する。現在の箱石海岸には、古砂丘が高まりとして連続しており、内陸側の方が標高は低い。遺跡は、古砂丘の内陸側に立地し、現地の状況から見て点在する微高地状の高まりに位置していた可能性が高い。 本遺跡は、久美浜町の12代稲葉市郎右衛門英裕と宅蔵兄弟が1896年前後より遺跡として認識し、1898年4月に来丹した佐藤伝蔵により東京人類学会へ報告された。その後、大野雲外の来訪、報告や坪井正五郎による管玉未成品の報告が見られる。稲葉兄弟、織田幾二郎、青木義融の採集資料は、織田が1903年に私設で設け、1912年にすべての資料を京都帝国大学へ寄贈した織田考古館に収蔵、展示されていた。 1920年の梅原末治の報告によれば、辰馬悦蔵による伝聞として稲葉宅蔵が遺跡内を「鉄山」「貝塚」「石原」「人形ヶ岡」「骨山」「製造場」「白石」「新開場」「大窪」「砂丘」の十地点に大別していたことを報告する。1922年の梅原の報告では、前年の史蹟指定にかかる内務省測量図(内務省告示図)を捕訂した図が掲載され、各地点の位置関係が示され、あわせて「おこうの(御五野)伝説」をもつ「長者屋敷」が図示されている。また製造場には「古墳」地点が示されているが、これは1922年に不時発見された箱式石棺の出土位置を示したものである。遺跡の中で具体的な遺構が判明しているのは、「貝塚」と箱式石棺のみである。なお悔原は、1918年に製造場と鉄山を発掘調査しているが、顕著な遺構は見られなかった。その後、昭和初期に直良信夫が踏査しており、史蹟の範囲外に遺跡が広がることを指摘し、あわせて出土遺物の報告を行っている。 遣物 梅原による試掘調査出土資料以外は、採集資料である。縄文土器、弥生土器甕、壷、高杯、土師器甕、壼、須恵器杯、鉄鏃、銅鏃、貨泉、皇朝十二銭(貞観永宝、富寿神宝)、銅銭(開元通宝ほか)、明刀銭、玉類(碧石製管玉、ガラス小玉、滑石製勾玉、臼玉)、石剣、大形石錘、砥石などが知られる。弥生土器は、田代弘や丹後古文化研究会により検討されており、前期後葉と中期後葉に位置づけられる。採集資料の出土地点は、資料の付箋に明記されたものが少なく、梅原が織田から聞き取りして報告したものが判明するのみである。 意義 本遺跡は、本格的な発掘調査が実施されていないが、明治30年代以降に稲葉兄弟や織田による採集資料が世に知られていた。遺跡は、大正期に生まれた金石併用時代の認識と貨泉の出土から「日本民族は古く石器時代よりここに住して支那の文化の影響を受けて漸次開化に向へるを示すものとして、吾人祖先の歴史の縮図と見るを得べけむ。」という梅原の評価を踏まえ、1921年3月3日付で「函石浜遣物包含地」として史蹟指定を受けた。 改めて出土遺物を観察すると、その内容から遺跡の存続時期や性格がおぼろげながら浮かび上がる。 遺跡の初源は、縄文土器より見て縄文時代後期前半と見られる。弥生時代は、前期後葉と中期後葉の土器が大半であり、製造場発掘の1点のみ後期前葉のものが見られる。古墳時代は、前期後葉~中期前葉の土器があり、中期後葉~後期前葉には箱式石棺がある。奈良~平安時代には、土器と皇朝十二銭が見られる。 本遺跡からは、弥生時代の鉄鏃、銅鏃が多く採集されている点が大きな特徴である。鉄鏃には、中国系と推定されるものがあり、貨泉もその中で理解できる資料と推定される。続く古墳時代前期後半~中期前半には、滑石製勾玉や臼玉が使われていた可能性がある。丹後地域では出土例が少なく、海辺の祭祀が行われていた可能性が考えられる。平安時代には、皇朝十二銭の出土から、港湾関係の公的施設があった可能性があり、その後、室町時代には廃絶したものと推定される。遺跡は、縄文~室町時代まで断続的に遺物が見られ、出土遺物に貨泉や銅鏃、鉄鏃などの輸入品と思われる資料が含まれる点から、日本海に面した港湾機能を有した遺跡として評価できる。 〉 『網野町誌』 〈 砂害 木津庄の村々は、もとは「おこう野」「おんご野」と呼ばれる浜の集落を起源とし、砂害のために山方に分かれて移住、以来村名に「野」をつけるようになったと(俵野、上野、溝野など)言い伝えられているが、真偽はともかくとして、この話が木津庄村々の共通の利害を確認する大きなより所として人々のあいだに語り継がれてきたことは重要である。そしてその共通の利害とは海から吹きつける風による砂の害に共同で対処しなければならないということであった。寛政元年(一七八九)三月に俵野村から提出された明細帳によれば、字かまわり谷と字上り山の二か所に砂留堤(砂除垣)が設けられ、俵野村、上野村、木津村立ち会いの管理下におかれていたことがわかる。このような共同は時に紆余曲折はあったものの、近世を通じ一貫して追求された。 このことに関して一つの事例を紹介しよう。享和元年(一八〇一)、前年に久美浜代官に就任したばかりの塩谷大四郎正義はこの砂地に着目し、そこを草地に変えて砂害を防ごうと考えた。彼はこの久美浜を初任地としてその後各地の代官を歴任、特に西国郡代時代の河川改修、埋め立て工事などに手腕を発揮し、また、民政においても大きな足跡を残した名代官として後世に伝えられているが、ここでも砂地を草地化することによって飛砂の害から村々を救おうとしたのであろう。 しかしこのような代官の意図は対象とする砂地が木津庄村々の入会地であり、かっこの地では藩領と幕府領とが入り組んでいたことから、思わぬ問題を引き起こすこととなった。まずこの砂地に近接する浜詰村(幕府領)と浜分(宮津藩領)との間で開発地の帰属をめぐる争論が起こった。今まで入会であった砂地を代官所の主導で草地化するということは、その土地が幕府領であることを既成事実化するものであり、それを危倶した浜分が異議を申し立て、自村の土地を確保しようとしたのは当然であったといえる。さらにこの争論はこの二村間だけにとどまらず、木津谷一統の利害にかかわる問題として他村も巻き込んだ争論に発展していった。その村々の協議の経過は不明であるが、結果として谷中寺院の挨拶によって同年二月、谷中九か村役人の連印によって「先前より仕来の通」を定めた済状が交わされ(日和田区有文書)、さらに一一月には浜詰村、浜分を除いた七か村によって以下の一札が取り交わされた(同)。 木津村之内七ヶ村申合一札之事 一此度久美浜御役所より九ヶ村浜地之内草地ニ被成度思召被仰渡候処、浜両村より右浜地分切願出候ニ付出入出来仕、度々相談之上、如何様ニ相成候而も是迄入会之場所ニ御座候得者分切仕候義ハ相成不申、若此上江戸表罷出候而も分切相渡候義ハ相成不申候、右ニ不諸雑用之義ハ七ヶ村持合ニ可仕候、為後日 御料御私領百姓連印依而如件 享和元年 丹後国竹野郡木津村之内上野村 酉十一月 日 平八 ⑳ (以下五人略) これによれば、①砂浜の入会はこれまで通り厳守させること、②代官所と掛け合いに及び、江戸に出向くようなことがあった場合、費用は共同で負担すること、この二点を申し合わせたことがわかる。 木津谷の村々はここで代官所主導の砂防事業に反対の意向を確認したことになるわけであるが、これは決して旧来の入会慣習に固執し、砂防そのものに対して反対したわけではない。というのは、この一件のあった翌年の三月には、逆に木津谷村々の方から砂山の草木植え付けの願書を代官所に提出しているからである。(木津岡田分文書)これは幕府領である浜詰村、上野村、俵野村、宮津藩領である浜分、和田上野分、中館分、岡田分のそれぞれ三役人の連署によるもので、本文によると前年に植え付けをしなかった理由について「無程冬気ニ趣、手入難相成及延引」とし、このたび気候がよくなったため「松・柳其他苗木・植木・稗種并諸草種蒔付」にとりかかりたいと願い出た。そして植え付け場所については「浜詰村境より湊宮村他三ヶ村入会浜地清水之場所迄浪打際より凡二百間余山手[ ]へ退」いた砂地としている。 「俵野区有文書」のなかに残されている砂地絵図はこの時点で描かれたという確証はないが、植え付け対象地の様子がよく表されている。 以上の事例で重要なのは、砂防の事業が所領の違いを越えた、あくまで「木津谷」という単位で取り組むことに落ち着いたということである。代官の塩谷もさすがに在地の慣行を無視した開発がいかに無用な混乱を引き起こすのかを思い知ったのだろうか、翌享和三年(一八○三)三月、支配地に対し各地で伝統的に呼びならわされている庄・郷・領の呼称や入会の有無を調査するよう触を出し、四月に結果を提出させた。(神谷神社文書四六六 享和三年一月『御用留』) 後に河川改修事業などに功績を上げた塩谷の力量はこのような経験を通じて培われていったに違いない。一方、木津谷村々の砂防への努力はその後も引き続き行われ、現在に至っている。 〉 『古代の製鉄』 〈 武帝の漢四郡設置はあまねく知られている。設置は漢の官人や民間人の来住でもあった。そ武帝の漢四郡設置の証拠は、四郡の故地から無数に発見されている。他方において、燕人来住の痕跡も、北部朝鮮から満州(中国東北部)にわたって見られる事実は、『史記』の記述を裏書きするものであり、さらに考古学的にも立証できる。すなわち燕人使用の青銅貨「明刀銭」が平安北道で五か所、平安南道で一か所から発見されたことは戦前から知られており、これに加えて戦後はさらに、金元龍氏の報告によると、いまいちいちあげないが、遼東半島から鴨緑江中流をへて清川江・大同江の流域、および平安北道の椴島、同じく登串などで、「多いときは一度に一、○○○余枚も発見」されている。明刀銭とは、内湾したナイフ型の青銅貨で、表に「明」の一字があり、裏にも種々の文字がある。この貨幣が、燕の故国の河北省内で発見されるのは当然として、上記のように、河北省からはるかに遠い南満州・北部朝鮮でも発見されているほか、海をへだてた琉球の那覇市外城岳貝塚の貝層からも確実に一枚発見されているのである。もとよりこれは北部朝鮮に逃避、建国した衛満によるほか、多数の燕人の移動を考えさせるものである。明刀銭は戦国時代の貨幣であり、燕のほか趙人もこれを使用していたから、趙の民衆も燕人と行をともにしたことが考えられるのである。 〉 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『京都府熊野郡誌』 『久美浜町史』 その他たくさん |
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