丹後の地名

浜詰(はまづめ)
京丹後市網野町浜詰


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府京丹後市網野町浜詰

京都府竹野郡網野町浜詰

京都府竹野郡浜詰村

浜詰の概要


《浜詰の概要》



木津の先の日本海に面した集落、木津川下流右岸の台地に浜詰遺跡があり、縄文時代の住居跡が復元されている。
近世の浜詰村は、江戸期~明治22年の村名。木津庄の枝郷。はじめ宮津藩領、延宝3年より一部が幕府領となる。幕府領は村内の磯・塩江集落と浜詰集落の一部、宮津藩領は浜詰集落の残余から成り、宮津藩領を浜分または木津庄之内浜分と称していた。幕府領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、宮津藩領は同4年宮津県、豊岡県を経て、いずれも同9年京都府に所属。同14年浜分を編入。同22年市制町村制により単独で自治体を形成。 耕地が少なく、漁業中心の村であったという。
浜詰漁港
近代の浜詰村は、明治22年~昭和25年の竹野郡の自治体。同25年網野町に編入され同町浜詰・磯・塩江となった。
浜詰は、昭和25年から網野町の大字名。 平成16年から京丹後市の大字。

《浜詰の人口・世帯数》 1271・403




《主な社寺など》

浜詰遺跡
木津川河口部の右岸にあるちょっと高い丘陵上、リゾートホテルなどに取り囲まれている。何ともアンバランスな風景、うしろは「佳松苑」といい国道178号沿いの目立つ背の高いホテルで地籍は木津、ここは境目になるよう、ホテルの裏側に回るとある。
浜詰遺跡
現地の案内板

『網野町誌』
 〈 縄文時代の終わり-浜誌遺跡-
後期
縄文時代後期になると配石、立石などの大規模な祭祀施設が盛んにつくられるようになり、抜歯の習俗(成年式などの社会的儀礼として健康な前歯を抜去する風習)は全国的に波及するようになった。また、磨消縄文土器(線で器面を区画し区画内に縄文をつけ区画外を平滑に仕上げた文様の土器)が全国的に盛行するのもこの時期である。
 北近畿タンゴ鉄道木津温泉駅から木津川に沿って約一キロメートルいくと木津川の右岸、比高(沖積地からの高さ)一四メートルの台地上に一つの復元住居がある。この住居を中心に日本海へ向かって約一○○メートルの範囲が浜詰遺跡である。昭和三三年、この辺り一帯で造成工事が行われ、貝塚や炉跡(火を使い物を煮炊きした跡)などが発見され同志社大学酒詰仲男教授、同大学文学部考古学教室の学生らにより調査が行われた。当時この洪積台地は、北に開く馬蹄形で、北斜面に比較的大きな貝塚が二か所、南斜面に直径六メートルほどの小貝塚が一か所あり、よく残された南斜面上に縄文時代後期前半の遺物を伴う方形の竪穴住居跡一基が発見された。また、北斜面の東側に二基の住居跡が発見されたが破壊されてしまった。現在では南斜面の一基が復元され残っている。竪穴住居は長辺の長さ八・三メートル、短辺の長さ五・八メートルの長方形で面積は四八平方メートルある。
 貝塚からは土器のほか、石器、骨角器(シカ・イノシシなどの骨でつくった道具)、動植物遺体などが多数出土した。縄文時代後期を代表する磨消縄文土器片のほか、動物遺体はマシジミ・ヤマトシジミ・コイなどの淡水産のもの、ハマグリ・アサリ・サザエ・アワビ・ボラ・フグ・クロダイ・マグロなどの海産のもの、イノシシ・シカなどの哺乳動物の骨、植物遺体はドングリの実などであり、当時の食生活をうかがい知るものが多くある。
 また、矢の先につける石鏃、木を切る磨製石斧、土を掘る打製石斧、穴を穿つ石錐、網のおもりに使う石錘、獣の皮をはぐスクレーパー、木の実をくだく敲石と凹石などの石器、魚を取るための骨針、骨銛の骨角器など、生活に使用した道具が多くある。これらの遺物から、当時の人々が海や川で漁をし、山で獣を追い木の実を採集していた縄文時代の生活を想像することができる。  〉 

式内社・志布比神社
志布比神社
竹野神社の西側にも志布比神社があり、どちらが式内社なのかはわからない。当社近くには塩江(塩井)集落があり、その名は志布比が訛ったようにも思われる、このあたり一帯を広く志布比浦と呼んだとも考えられ、今はこのあたりを夕日と呼ぶが、夕日も志布比の転訛と思われる。
式内社かどうかは別としてこうした地名から志布比神社があったと思われる。写真ではこの道の先が浜詰漁港、その先が塩江漁港となる。
浜詰集落の北側にある魚見山の麓で、社伝によれば、垂仁の代、新羅国皇子天日槍が来朝した折、船を導いた塩土翁の神を但馬国出石郡に祀ったが、社地が人家でけがれたので来朝の折着船した当地志布比浜に移し祀ったという。その後併祭された御来屋(みくりや)神社と称していたが、明治39年に改称したという。御来屋大明神は「昔海上より流れ来る厨子の高さ二尺余内に木像を安置す、塩井の人これを拾ふて為に小祠を建」てたのが始まりという。
志布比は後に塩江とも、あるいは夕日とも転訛したと思われるが本来は古代外国語であり、日本語では解けない。磯や静神社などと共通する意味と思われる。また当浦は潟湖ではない。
新羅王子とされる天日槍の子孫は日本には多い、丹後や但馬は多いとみなければならない、新羅としているが、併合された加耶(伽羅)諸国の中のどこかの国(国々)で王子先頭に国(国々)あげて移動してきたものと思われる、加悦町とかあるし加耶系とされる遺跡もあるし、こうした伝説もある。
志布比はシフ、シヒと呼ばれたものが合わさったと思われるがそれはソフルのことである。「日本人」一部がヘイトスピーチで「半島へ帰れ」などと叫んだりするそうだが、そうしたことを言うならキミも半島へ帰らねばならないのではないか、受け入れて貰えるかどうかは知らんが…、キミの先祖はどこかに来たと考えているのだ。天から降りてきたのか。日本はあちこちから海を越えてやってきた人々の国で、もともとから日本にいたという人はない、キミの先祖もどこから来たのだ。
国内の労働環境をよくしようともしないしその逆ばかりをして国内の労働力人口を減らし続けている政府政権はいかれたクソだが、外国労働力を受け入れるなというのもおかしいハナシである、日本からはすでに他国へたくさん行っているではないか、全世界には270万人の日系人がいるというし、大統領になった日系人子孫すらいるではないか、満蒙開拓移民は500万人が計画されていた、舞鶴に住んでいながら何を言い出すのか。ワシの方からは行くが、オマエの方からは来るなの勝手なことは成り立たない。私の先祖も他国からやって来た者でしょう、どこからでも日本へ来て一生懸命働いて下さい、そして将来は総理大臣になって日本をよくして下さい、あたしゃ日本にも黒い肌の総理大臣が生まれる日を楽しみにしてるんです、ははは、とか言ってないとシャーナイではないか。
神社史や古代史などを研究した先人は多くは国粋主義で一国史家でしかも日本が古来より優れていたと実際にはありえない前提の妄想をしていた、東アジア全体の中で日本を見る視点は欠けているため、こうした「わけのわからない」神社が残り、こうしたわけわからぬ「日本人」さえも生んできた。こうした説の盲点である。
天皇さんを祀った古い神社などは当地には何もない、別に全国どこにもそうなく、そしてこんなわけわからずの神社。皇国史観と侵略正当史観が残る現在よりも、まだ江戸期の平和指向型学者の方が今のおおかたのヤシ史家などよりもまだしも視野が広い。多く江戸期の文献を引かせてもらうが、そうしたことである。

『丹後旧事記』
 〈 志布比神社。塩江村。祭神=若宮売大明神・豊宇賀能売命。合神=御久理屋大明神。神伝曰、合神はむかし出雲国日の岬より流来て此所の里入らいし祭る今も出雲日の岬の船乗り神山の磯に至れば山鳴動する事其例少なからず。  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 志布比神社 村社 浜詰村夕日鎮座
 御来屋神社を志布比神社と改称の義明治三十九年九月十三日許可せらる
 (神社明細帳) 祭神 櫛八玉比女命
            塩推神 由緒創立不詳貞亨元甲子年九月十日再興の若宮神社を合併の義明治三十九年八月三日許可せらる
   由緒 創立不詳再興延宝八庚申七月明治四年三月村社に列せらる
  本殿 染行四尺五寸 桁行五尺二寸
  拝殿 梁行貳 問  桁行参 間
  境内坪数 貳千五百五十七坪
  境内神社  六 社
 愛宕 神 社
  祭神 火産霊神
  由緒 創立不詳享保三丙寅六月二十三日再興す
 建物 梁行壹間四尺五寸 桁行貳間
 籠屋 梁行貳間     桁行貳間五尺三寸
稲荷 神 社
 祭神 宇賀魂神
 由緒不詳
 建物 梁行六尺 桁行一間
金刀比羅神社
 祭神 大物主神
 由緒 不詳
 建物 梁行三尺五寸 桁行四尺
今宮神社
 祭神 不詳
 由緒 不詳
 建物 梁行七寸 桁行八寸
蛭子神社
 祭神 蛭子命
 由緒 不詳
 建物 梁行四寸 桁行一尺三寸
(社伝)
創立年代雖不詳人皇十一代垂仁天皇御宇新羅国王の皇子天日槍命九品の寶物を日本に伝へ垂仁天皇に献せらる、此九品の寶物と有は、日の鏡、熊の神籬、出石の太刀、羽太玉、足高玉、金の鉾、高馬鵜、赤石玉、橘、合せて九品の寶物を御座船に積て来朝成し給ふ、天日鉾命の御座船を導き給ふ大神は、塩土翁の神なり、其来朝ありし所は竹野郡の北浜、筥石のほとりに着船す、日本に始て橘を渡賜故に此辺を橘の荘と名付後に至り文字を替て木津と書なり、天日槍命日本に渡り給て始て鎮座有し處は塩比の濱の清き土地を撰び始て鎮座有し所を宮故(くご)と名付同所に御座を導き来朝成し賜ふ塩土翁の神の叢祠を建て祭り置き給ふと云へり其後天日槍命は但馬国を志し熊野郡川上荘馬次の里の須郎に暫し座して夫より川上の奥布袋野の西の峠を越えて立馬国に越え賜ふなり彼の九品の寶物を馬に付て此峠を越え給ふ 彼此峠を駒越しと名付く、但馬国出石郡宮内村に鎮座まして彼の九品の寶物を垂仁天皇へ奉献賜へり此九品の内橘を禁裏御所紫宸殿の庭前に植置き給へり、此橘を右近の橘と名村天日鉾命来朝の砌り導き給ふ志布比の神の叢祠も同所に建て祭有けれども、天日鉾命但馬国に至り彼此土地に人家日に増して、社地のほとりを穢す、故に人民度々咎を宇け依之此叢祠を志布比の浜の海のほとりに奉還し、同所に今は御来屋神社も併て祭置なり、此御来屋神社は後醍醐天皇隠岐国に坐す特、後醍醐天皇の御守神との申伝なり、祭神は櫛屋玉姫命と云伝ふ、明治四年三月村社に列し明治四十一年四月十日神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる
(同社調文書) 若宮神社は祭神若宮売大明神、豊宇賀能売命、御卸久理屋大明神にして、志布比神社に合せ祭る
(丹後旧事記) 志布比神社  塩江村
  祭神
     若宮売大明神  豊宇賀能売命
  合神 御久理屋大明神
 神伝曰、合神は昔出雲国日の岬より流来りて、此所の里人拝し祭る、今も出雲日岬の船来り神山の礒にかゝれば山鳴すること其例少なからず
(丹哥府志) 御来屋(みくいや)大明神  祭九月十日
 御来屋大明神は普海上より流れ来る、厨子の高さ二尺餘、内に木像を安置す、塩井の惣右衛門と申す人これを拾ふて為に小祠を建つ、後四五年を経て伯州御厨の人来りて船を夕日の浦に泊す、是夜山岳鳴動す、先是御厨(みくいや)の洪水せし時山岳の鳴動する如斯なりよつて怖る、塩井の人これを聞きて其人に問ふて曰、其時神社の流るゝありや、日あり、吾曹の氏神なり是時の洪水蓋神の崇りなり吾曹神をなへがしろにす、よつて神座を遷したまふといふ、於是塩井の人其尊像及厨子の寸法明にこれを語るに一々符合せり、御厨の人留ゐべからず、怖々去りぬ、其霊験往々少からずよつて新に宮殿を造りこれを壮にし徹来屋大明神と称す、其傍に若宮売大明神の社あり、是延喜式に所収の志布比神社なり豊宇賀能売命、豊宇気持命を合せ祭る、
社蔵古文書
 (板札)
  御来屋大明神中興造立
  茲時延寶八庚申七月朔日
 (板札)
 若宮大明神中興造立
 貞享元甲子年南呂吉祥日
 御来屋神社
 若宮大明神
  天保十有一年二月
           正三位右大弁兼勘解由長官
               菅原聰長謹書 印 印
(木津山中氏伝来寺社御改帳) 御来屋 若宮 社
  御年貢地  二 畝
   七十六年以前元和二年浜詰村中造立
    元禄五年申六月廿二日  〉 

『網野町誌』
 〈 志布比(しふひ)神社(式内) 浜詰字夕日鎮座
 祭神 櫛屋玉比女命(御来屋神) 注「みくいや」とも。
    塩土神(志布比神)
    若宮売命(若宮神)
    豊宇加能命(若宮神)
 由緒 いずれの神々も創立は不詳であり、(「御来屋神社」を「志布比神社」と改称の義明治三九年九月一三日許可せらる)と『竹野郡誌』は書いているが、これは本来「志布比神社」が延喜式内社とされていることと矛盾する。また『竹野郡誌』は「神社明細帳」「社伝」「同社調文書」『丹後旧事記』『丹哥府志』「社蔵古文書」などを引用しているが、各文献の内容の不一致、重複が多く判断し難い。
しかし今回、志布比神社高田神官の示唆を仰いで右のように記録することができた。「志布比神社」は御来屋神社・若宮神社と三社合体の神社であり四神(若宮売神・豊宇賀能命同神説によれば三神)を合祀していることとなろう。
注一 櫛屋玉比女命(櫛八玉とも)は海の神で、いわゆる「出雲系」の神である。
塩土神(塩土翁・塩椎神などとも)海神・航海などの神、やはり「出雲系」。
豊宇賀能命(豊受大神・郷の大宇賀神社参照)五穀・食物の神、女神。
 二 慶応四年(一八六八)に加茂神社(木津)の今井神官の太政官御役所の御回状写しによれば、
御来屋大明神 浜詰
若宮大明神  塩江
となっている。これによれば若宮明神は塩江であって浜詰ではない。ところが現在ある地所は浜詰である。並んで建っているお社の一方が浜詰で他の一方は塩江ということは考えられない。現在(注昭和三〇年ころ)浜詰小学校の東方の高みのあたりを塩井地(せえじ)と云って元塩江部落のあった所だという。ここから南方を見れば浜詰のうしろ田んぼである。ここに士心布比のお宮があったとすれば何らの不自然はない。こういう点から考えて元は塩井地に志布比神社があったとみるのは肯けることと思う。両社並んでいたのを明治末期(注先山)合察して一社殿となった。(旧『町史草稿』)

各伝承の概要
天日槍と塩土神(民俗編第三章参照)
第十一代垂仁天皇の御代、(異説あり)新羅国(古代朝鮮東南部)の王子天日槍が九品の宝物をこの国に伝えて天皇に献上した。この時王子の船は筥石に着く。水先案内をしたのが塩土神である。
(2)御来屋大明神
A、神伝曰、(この神は)昔出雲の国日の岬より流来りて、此所の里人拝し祭る。今も出雲日の岬の船乗り神山の磯にかかれば山鳴することその例少なからず。(『丹後旧事記』)
B、御来屋大明神は昔海上より流れ来る。厨子の高さ二尺余、内に木像を安置す。塩井の惣右工門といふ人これを拾ふて為に小祠を建つ。後四・五年を経て伯州御厨の人来りて船を夕日の浦に泊す。この夜山岳鳴動す、先年御厨(伯州の)洪水せし時山岳の鳴動斬くの如きなり、依って怖る。塩井の人これを聞きて其人に問うて曰、其時神社の流るる事ありや、曰く、あり、吾曹(わが仲間)の氏神なり、この時の洪水萱神(かやがみ)の祟りなり、吾曹神をないがしろにす、よって神社を遷したまふといふ、ここに於いて塩井の人其尊像及厨子の寸法明らかにこれを語るに一々符合せり、御厨の人留るべからず、英霊験往々少からず、よって新に宮殿を造りこれを柱にし御来屋大明神と称す、其傍に若宮売大明神の社あり、是延喜式に所載の志布比神社なり、豊宇賀能命、豊宇気持命を合せ祀る。(『丹哥府志』)
注一 「みくりや」地名は「日の岬」には見当たらず、また「日の岬」は伯州ではない。しかし鳥取県西部名和町の海岸部に「御来屋」(古くは(御厨)と書いた)という集落がある。
二「御厨」-古代・中世の神領、主として供膳・供祭の魚介などを献納する非農業民支配の過程で成立。内容は荘園と等しく、伊勢神宮と賀茂社(上巻二四七ページ参照)にかぎられるようである。
三「宮故(くご)」の地名は元来「供御」の意かもしれず、「供御」とは貴人・天皇の食事をいい、平安時代には「御厨」などから貢進している。

○境内社
 稲荷神社 祭神宇賀魂神
 今宮神社 祭神不詳
 金刀比羅神社 祭神大物主命(大国主神の異称)社祠無く志布比神社に合祀か  〉 

臨済宗妙心寺派萬久山福寿院
福寿院(網野町浜詰)
『丹後国竹野郡誌』
 〈 福寿院 臨済宗  濱詰にあり
 (同寺調文書) 宗派は禅宗臨済宗にして檀徒二百七十餘戸む有す、由緒左の如し
  寺籍調査表
 直末 京都府丹後国竹野郡浜詰村字浜詰万久山福寿院
 開創由緒 維時覚永十九年白峰石牛創立す、同国輿謝郡文殊村智恵寺開山勅諡心燈妙照禅師別源宗調和尚を似て勧請開山とす、往古は同国本郡木津村万松寺の末寺なり、四世喝厳祖什の代寶暦元年三月山門建立す、五世一乗恵南の代寶暦十四年三月庫裡再建す、安永三年八月双方示談の上小本寺万松寺を離末し、同国輿謝郡文珠村智恩寺の末寺となる、六世玉海智玲の代寛政八年十月中本寺九世雄嶽師の法系を承嗣して法地となる七世説川智言の代文化十年三月檀越協議の末本堂再建す、十一世研宗禅磨の代明治十七年十月双方示談の上中本尊智恩寺を離末し、大本山直末となる、仝十九年四月八日本派寺班四等地へ昇進す、仝二十二年六月廿二日寺班三等地へ昇進す、現十二世揚宗恵順の代明治廿九年三月十四日寺班二等地へ昇進す
 本尊 準堤観世音菩薩
 開山勅諡心燈妙照禅師別源宗調和尚
 法派開山 開山恵玄
 智恩九世 雄嶽子原伝法師
(木津山中氏伝来寺社御改帳) 本寺万松山 万久山  福聚院

 此寺五十三年以前    寛永十九年
  開 基 僧     宗  讃
   元禄五年申六月廿二日

  按、元禄の頃は福聚院と書きたるものか
 什寶 狩野友松筆?、臨済三十三世黄檗即非 和尚筆書、曾我?白筆梅、狩野安信筆毘沙門門、白隠和尚筆達磨、遂翁和尚寒山拾得、白隠大禅師観音大士墨跡、唐居其山水双幅、山田屏山筆亡者双幅等あり).
『丹後町史(昭51)』P.712→(慈眼山 福聚院 中浜小字上の山 曹洞宗
本尊、聖観音菩薩座像
貞享三丙寅年(一六八三)頃創立、開祖橘州宗曇和尚から現在二十四世山本祖道師に至る。  〉 

『網野町誌』
 〈 萬久山福寿院 臨済宗 浜詰
本尊 准胝観世音菩薩
<由緒・伝承>
(同寺調文書)当山は寛永一九年(一六四二)、白峰石牛首座禅師(寛永二〇年七月二一日没)が創建したもので、与謝郡文殊村(現宮津市)智恩寺中興開山別源宗調大和尚(慶安四年六月一七日没)を勧進開山とした。もとは木津村万松寺の末寺で、宝暦元年(一七五一)三月、四世喝厳祖汁の代に山門を建立し翌二年四月五世一乗恵南の代に庫裡を再建し、また明和元年(一七六四)五月に山門を造営した。(「木津山中家伝来寺院御開帳」)
本寺萬松寺 萬久山福聚院
此寺五十三年以前 寛永十九年
開基僧 宗讃
元禄五年申六月廿二日
注一 元緑のころは〝福寿院〟を〝福聚院″と書いていたものであろうか。
 二 上表中の宗讃は宗調とは別人で、後者は当山の勧進開山である。(補注一参照)
 安永三年(一七七四)八月、福寿院は万松寺と示談のうえ離末して智恩寺の末寺となり、寛政八年(一七九六)一〇月、六世玉海智玲の代に中本寺(智恩寺)九世雄嶽師の法系を承嗣して法地となった。七世説川智言は寛政一一年(一七九九)に本堂再建を発願、文化六年(一八〇九)五月に完成した。
 十一世研宗禅磨の代明治一七年(一八八四)一〇月、双方示談のうえ中本山智恩寺を離末して大本山妙心寺の直末となり、同一九年四月八日に本派寺班四等地、同二二年六月二二日に三等地、同二九年(一八九六)三月一四日に二等地、さらに大正一〇年(一九二一)に一等地となった。
 当院では明治三四年(一九〇一)五月三日(旧三月一五日?)梵鐘を設置、ひきつづき大正八年(一九一九)三月二九日(旧二月二八日)に庫裡再建上棟式が行われるなどしたが、昭和二年(一九二七)三月七日の奥丹後震災により本堂、山門、隠寮、長屋は全壊、庫裡、鐘楼、土蔵は半壊した。寺記には〝今日迫ノ努力一瞬ニシテ無ニ帰ス″とある。庫裡は震災の八年前に建てられたものであったので添え柱により修復したが、本堂ならびに付属建物が再建されたのは昭和八年(一九三三)四月九日のことであった。昭和一六年八月の金属回収令により同一九年九月の彼岸に応召供養を行い梵鐘を供出し、その後二二年を経た昭和四一年(一九六六)九月二五日に梵鐘を再鋳設置、山門は奥丹後震災により半壊したものを修復して使用していたが、同四八年再建立の話が持ち上がり、翌四九年(一九七四)五月一三日完成、同年六月二三日に落慶法要が営まれ、大師堂は移転、再建された。
補注一 旧『網野町史草稿』には次のように記載されている。
開山 白峰石牛(勧進開山・別源宗調)・(法脈開山-妙心寺の開山・関山慧玄)
 二 『竹野郡誌』では〝五世一乗恵南の代宝暦十四年三月庫裡再建す″とあり、〝福寿院記録″と異なっている。  〉 

夕日ヶ浦海岸(浜詰海岸・木津の浜)
浜詰や木津の海岸。木津川河口に発達し、久美浜湾を閉塞する小天橋まで連続する砂浜海岸で、砂浜幅は40~100m、海浜砂が背後の低い海岸段丘(標高5~15m)上に堆積していて、府最大の砂丘地帯(幅約1.1km)を形成している。
木津川河口の東側(右岸)の段丘上に砂丘砂の下に埋もれた古い黒色砂層中に縄文時代の住居跡がある(浜詰遺跡)。
江戸期以来飛砂止めの防砂林が造られている。砂丘地農業が開発されて、果樹・スイカ・チューリップなどの栽培が進んでいる。かつては「ヨメ殺し」と呼ばれた砂丘地農業もスプリンクラーなどができてからは、むしろ砂丘地ならではの栽培法により、ほかでは栽培できない作物が作られるようになっている。
写真の突き出た岬を魚見山といい、ここから北側、塩江や磯は断崖絶壁の浜で、所々に波食棚が発達し五色浜(御志起浜)などがあり、名勝地となっている。
夕日ヶ浦

夕日ヶ浦

夕日ヶ浦(常世の浜)
塩江の五色浜に続く海岸を夕日の浦とよび、一名常世浜ともいう。記録が錯綜していて、じゃあどこなんだ言えば、江戸期以降の文献から厳密には今の浜詰や塩江漁港のあるあたりを呼ぶようである。古くは志布比の浦で、これがいつのときか夕日の浦となったのかも知れない。夕日が水平線に沈む風景が美しいからそう呼ぶとか言われるが、そうではないかろう、それは現代人の都合の良い解釈であろうかと思われる、丹後の日本海に面した海岸線は経ヶ岬から西側はずっと北向きだが、西が南へ東が北になって傾いているので、どこからでも美しく夕日が水平線に沈むのが見える。加佐や与謝からは見えない。
塩江漁港のこの入り江か↓。丹後の古代交易は潟湖から、などが定説だが、ご覧のように潟湖ではない。沖側に島や岩があってこれが防波堤となっている。それらを避けて狭い水路を入ればその奥にこの浦がある。
夕日浦
今は「夕日ヶ浦」はこれでもかというほどにあふれているが、「常世の浜」は誰も語らない。せっかく先祖が残してくれた呼び名で、こちらの方がはるかに大きな意味あるかも知れない重要な歴史地名かも知れないが、今ではすっかり忘れられている。
常世(とこよ)は、永遠不変の国の意だが、道教の神仙思想と習合して不老不死のユートピアされ、東方海上はるかな楽土として浪漫化されていった。少彦名命が常世国に渡ったといい、当地に関係ある伝承では垂仁天皇は田道間守を常世国につかわして非時香実を求めさせたという。伊根町の方では、浦島子がいった国が常世(蓬莱)とあり、ここにも常世浜や常世橋がある。
まさか自分の国が常世とは思えなかったのか、常世がどこかこの海のはるか彼方にあったかのように考えられているが、しかし中国側から見れば、当地こそが不老不死の霊薬豊富な蓬莱国(常世国)であった。永遠の若々しい生命と豊かな富が満ちあふれる楽土とは実は水銀を産した当地であったと考えられる。

またこの辺り一帯、函石浜にかけてを唐櫃越(からとこごえ)という。伝説によれば、垂仁天皇が夢告により天日槍の孫田道間守命を常世国に遣わし、橘の実を求めさせたが、その田道間守命が帰着した浜といわれる。
先進大陸往来の浜であり、不老長寿のユートピアであったと語るようである。
『宮津府志』
 〈 夕日ヶ浦(同所塩江村)  〉 

『丹哥府志』
 〈 【夕日の浦】
浦の左に御来崎あり、左にシイコヤあり、浦の前にジンベタといふ岩あり、南北相連る凡二丁余、岩の左右を通ず、船を此處に泊して風波を凌ぐ。シイコヤより以下皆夕日浦前後の奇観なり。
夫木抄 来ても問へ帰ると思へば下紐の  夕日の浦のかひもなき哉 (読人不知)  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 夕日浦 一名常世浜
(大日本地名辞書)今浜詰村の字に夕日あり、此海岸は北を五色浦と呼び、水江浦に連り西南して夕陽の入海を望むべし
(宮津府志) 浦島子の海天を望みてよめる、常世の浜と云ふも此なるべし
(夫木集)
   いきごふみ見にこそ来つれ入方や
      夕日の浦のあまのはしだて    平 祐挙
   来ても問へ皈ると思へは下紐の
      夕日の浦の甲斐もなきかな    詠人不知
   雲かこひ影戸ひらき我をれば
      とこよの浜の浪かと聞ゆ     仙覚抄
(大日本地名辞書)此の天橋立と云ふは、夕日より熊野郡の湊埼の景状を、与謝の橋立になそらへよめるなり、与謝の橘立は夕日を望み難し
夕日浜
(浜詰村誌稿) 夕日湊は小字浜詰の北岸にあり、水深五尋波静かなれども、中央に岩石あるを以て大船を泊するに足らず、然し航海船の避難するもの頗多く夙に其の名を知らる、物資の集散は数ふるに足らず、
夕日長者の古跡
(浜詰村誌稿)夕日浦の中央に往昔長者あり今猶瓦礫を存す、然れども大概は砂中に埋没す、其の敷地より鏡を得て或る家に伝ふ、此の浦を俗に鉞浜(マサカリ浜)と云ふ、惟ふに海賊の巨魁なりしならんか  〉 

唐櫃越(からとこごえ)
『丹後旧事記』
 〈 橘庄唐櫃越。竹野郡木津庄箱石の浜なり垂仁天皇の九十九年辛酉二月朔日帝御夢見玉ふに依て天日槍の孫君四道間守命をして常世の国に遣し橘実四道間守橘橘を求めて常世の国より帰朝す、景行天皇即位元年三月二日なり垂仁天皇崩じ玉ふと泣花にせしとかや此着船の津なるが故に橘庄といふ。唐櫃越の跡とて箱石といふ岩今も有木津は橘字の仮名がきなり又天日槍は唐土の人にて此国へ流され朝廷へ馬を献上して住める国を奉る馬国と名付るの人なり或は立馬又は但馬田道間等書り田道間守命はたじまの国の造にて物部といふ所にて初て国府を置く其後神功皇后の朝に執政し物部の但馬大連の祖なり。  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 唐櫃越(カラトココエ)
(浜詰村誌稿)橘川(木津川)の口竹野郡熊野郡の境にて日村(湊村の往古の名)に属す、竹野郡木津川の西の方箱石の渚なり、垂仁天皇九十九年辛酉二月朔日帝御夢見給ふに依て、天日槍の孫君田道間守命をして常世の国に遣はし橘実を求め給ふ(此年は垂仁天皇九十年の事なり)日本書記曰九十年春二月庚子朔天皇田道間守命に命じて常世国に遣はして非時香果を求めしむ今橘と云ふ是なり(註に曰く香果は此曰箇倶能未(カグノミ))同九十九年秋七月戊午朔天皇纏向宮に崩す、時に年百あまり四十歳冬十二月癸卯朔壬子 菅原伏見陵に葬る、明くる年春三月壬子田道間守常世国より至れり、宝物は非時香果八竿(ホコ)八縵(カケ)田道間守爰において泣然歎曰命を天朝に奉り玉はり、遠く絶域に往き万里の浪を踏み遙か弱水を渡る、是常世国は神仙の秘区にして俗の棲む所にあらず。是を以て往来の間に自ら十年を経ぬ、鎧期せん獨り峻き濤を凌き更に本の土に向はんと云ふことを然れども聖帝の神霊に頼て僅かに還り来ることを得、今天皇既に崩じて復命するを得ず、臣生といへども亦何の益あらん、乃も天皇の陵に向ふて叫哭し自死せり、君臣聞て皆落涙せり、田道間守は是三宅連の始祖也、貝原の大和本草に是を引て曰く此時初めて日本に来る、常世の国何の地を詳にせずと、八雲抄に曰とこよの国日本記に蓬莱といへり、但ときはなる国といふなり、按に、橘は江南の産にして淮を渡りて枳となる事周礼に見ゆ、中華の日本を距ること是より近きはなし、弱水は書経禹貢に出つ、雍州の地にあり日本を去る事甚遠し、田道間守の近き江南に往かずして遥に弱水を渡て橘を求めしこといかなる所ならん、此着船の津なるが故に橘の庄といふ唐櫃越の跡とて、箱石といふ岩今もあり、木津は橘の字の仮名書なり  〉 
函石浜
現在の函石浜↑同位置から反対側、少し浜詰が見える↓
函石浜


《交通》



《産業》
外湯 花ゆうみ
「滝や庭園を眺めながら湯につかれる露天風呂と寝湯、開放感あふれる大浴場など温泉施設のほか、9600坪の広大な敷地にはレストラン、グラウンドゴルフ場(全芝32ホール)もあります」(案内による)。


浜詰の主な歴史記録


『丹哥府志(巻之五)』
 〈 ◎浜詰村(塩井村の次)
【御来屋大明神】(祭九月十日)
御来屋大明神は昔海上より流れ来る、厨子の高サ二尺余内に木像を安置す、塩井の人これを拾ふて為に小祠を建つ。後四五年を経て伯州御厨の人来りて船を夕日の浦に泊す、此夜山岳鳴動す、先是御厨の洪水せし時山岳の鳴動する如斯なり依て怖る、塩井の人これを聞て其人に問て曰、其時神社の流るるありや、曰、あり吾曹の氏神なり是時の洪水蓋神の祟なり吾曹神をなへがしろにす依て神座を遷し給ふといふ、於是塩井の人其尊像及厨子の寸法明に之に語るに一々符合せり、御厨の人留るべからず怖々去りぬ、其霊験往々少からず、よって新に宮殿を造りこれを壮にし御来屋大明神と称す。其傍に若宮大明神の社あり、是延喜式に所載の志布比神社なり、豊宇賀能売命、豊宇気持命を合せ祭る。
【万久山福寿院】(臨済宗)
【木津の浜】
浜詰より久美の庄湊村に至る凡二里余、浜の広サ八、九丁、其間にうしあげ、川裾、上野の岡、おくこの、くり山、火箱山、地蔵山といふ處あり、皆砂山なり。砂山の間に川二筋あり、一は木津庄の川なり、一は砂山の中間より流れ出る、蓋かつたの池(俵野村にあり)より砂を漉して流るるといふ、其川の西に鶴の嶋及箱岩あり。日本紀云。垂仁天皇五十年辛酉二月朔日帝御夢見給ふに依て、天日槍の孫田道間守命(田道間守命は但馬の国造にして物部といふ處を国府とす、其子孫神功皇后皇后に仕へて但馬大連といふ)を常世の国に遣し不老不死の橘の実を求めしむ、景行天皇即位元年三月二日田道間守命橘を求めて常世の国より帰朝す。丹後旧事記云。此浜は田道間守命帰朝の時着船の處なり、此處に於て帝の既に崩御し給ふと聞き、深くこれを悲しみ遂に死す、抑も田道間守命橘を求めて帰りたる處なれば此庄を橘といふ、今木津といふは橘のかな也。
 【付録】(稲荷大明神)  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 浜詰遺跡(はまづめいせき)
所在地:網野町浜詰小字栗山
立地:木津川河口域左岸砂丘上
時代:縄文時代前期、中期、後期
調査年次:1958年(同志社大学、橘中学校)、1968年(帝塚山大学)、1992年(網野町教委)
現状:半壊(一部、市指定史跡)
遺物保管:網野高校(丹後郷土資料館寄託)、市教委、同志社大学
文献:B055.D001
遺構
浜詰遺跡では、竪穴住居跡2棟、住居跡に伴う石組の炉跡、貝塚などの遺構が検出されている。1958年の同志社大学による調査で検出された竪穴住居跡は、長辺8.3m、短辺5.8mを測る方形の竪穴住居跡である。主柱穴は4箇所ずつ2列あり、床面積約48㎡を測る。住居内には、1辺80㎝の石組の炉跡が存在し、出土遺物から縄文時代後期の竪穴住居跡である。1990年の調査では、方形の竪穴住居跡の一部を検出した。柱穴は3箇所確認されており、縄文時代中期の住居である。この遺跡は、小規模ながら貝塚を検出している。貝類、魚類をはじめ動物の骨などが出土しており、当時の人々の生活の様子を知る上で貴重な資料である。
遺物
出土遺物には、石鏃、磨製石器、打製石器、石錘、石匙、敲石、石皿、スクレイパーなどの石器や土器が多数出土した。土器は、船元式、粟津式、新保式、新崎式、平式などの縄文中期の土器、中津式、福田式などの縄文後期の土器が出土した。
また貝塚からは、シジミ、ハマグリ、カキ、アサリ、アワビ、サザエ、イガイ、レイジ、ツメタガイなどの貝類、ボラ、フグ、コイ、クロダイ、スズキ、マグロ、イルカ、サメなどの魚類、イノシシ、シカ、イヌ、タヌキ、サル、クジラなどの哺乳類やドングリなども検出され、当時の生活の状況をいかがいうる遺物が多く出土している。
意義
平遺跡と共に、日本海に面した砂丘上に営まれた縄文時代の集落遺跡として重要である。 とりわけ貝塚や豊富な動植物の自然遺物は特筆される。また縄文時代の方形の竪穴住居が検出され、検出資料をもとに竪穴住居が復元整備されて市指定史跡として活用が図られている。  〉 




浜詰の小字一覧


元浜詰分(もとはまづめぶん) 塩井地(しおいじ) 大谷(おおたに) 橘(たちばな) 塚本(つかもと) 柳原(やなぎはら) 宗リ谷(そうりたに) 水舟(みずぶね) フヅツ 日湊(ひみなと) 峠(とうげ) ウスギ タキ谷(たきだに) 崩ケ下(くずれがした) 小谷口(こたにぐち) 大迫り(おおせまり) 小部(こべ) 林(はやし) ハケ山(はけやま) 栗脇(くりわき) 栗山(くりやま) 宗リ谷口(そうりたにぐち) 牛揚(うしあげ) 川バタ(かわばた) 川中(かわなか) 東上(とうじょう) 磯ノ上(いそのうえ) 大成ル(おおなる) 西上(にしかみ) 塩江東谷(しおえひがしたに) 牛揚場(うしあげば) 栗谷(くりたに) 柴古山(しばこやま) 赤森(あかもり) 小滝(こたき) 百ケ谷(ももがたに) 中田(なかた) 稲荷(いなり) 高牛(たかうし) 相谷(あいだに) 神谷(かみたに) 塚谷(つかたに) 牛力首(うしがくび) 夕日(ゆうひ) 牛上ケ(うしあげ) 柴山(しばやま) 赤町(あかまち) ウスキ 滝谷(たきだに)

元浜分(もとはまぶん) 塩井地(しおいじ) 塚本(つかもと) 大谷(おおたに) カヱジ 栗谷(くりたに) ヤナグラ ソウリ谷(そうりたに) 上寺ノ下(かみでらのした) 月出(つきで) 日湊(ひみなと) 峠(とうげ) ウスギ 滝谷(たきだに) クラ谷(くらたに) 道ノ谷(みちのたに) タキ谷(たきだに) 小滝(こだき) 滝ノ上(たきのうえ) 百ケ谷(ももがたに) 仲田(なかた) 赤森(あかもり) 切内(きりうち) 林ノ谷(はやしのたに) 長子口(ながこぐち) 祖父谷(そふたに) 小屋ケ谷(こやがたに) 柳原(やなぎはら) 神崎(かんざき) 清水(しみず) 橋詰(はしずめ) 上越口(かみこしぐち) 上越(かみこし) 宮ケ谷(みやがたに) 五色(ごしき) 宮ガセ(みやがせ) 間谷(またに) 下シ長(しもしなが) 田尻(たじり) 浦堂ノ上(うらどうのうえ) 塚谷(つかたに) 本ノ谷(もとのたに) 溝尻(みぞしり) 本嶽(ほんだけ) 牛ノ首(うしがくび) 高原(たかはら) 釜谷(かまたに) 向畑(むかいはた) ハケ山(はけやま) クリワキ 稲木場(いなきば) ヤナグラ道下(やなぐらみちした) 西口(にしぐち) 林下(はやしした) 川中(かわなか) 磯ノ上(いそのうえ) 大成(おおなる) ウシ山(うしやま) スケガヲ 夕日谷(ゆうひだに) 夕日坂(ゆうひざか) 向山(むかいやま) ドラドラ 清水場(しみずば) 東浜(ひがしはま) 宮ケ尾(みやがお) 神谷(かみたに) 丸山(まるやま) 柳原川奥(やなぎはらかわおく) 西ノ谷(にしのたに) フリ坂(ふりさか) 大面(だいめん) カミ地(かみじ) 下地(しもじ) 上地(かみじ) 中地(なかじ) 道ノ上(みちのうえ) 弥堂ノ上(みどうのうえ) 下シ長尾(しもしながお) ニガキ尾(にがきお) 相谷(あいだに) 穴崎尾(あなざきお) 荒畑ケ(あらはたけ) 東(ひがし) 川東(かわひがし) タキ滝(たきだに) 岡地(おかじ) 栗倉(くりくら) 林(はやし) 家ノ下(いえのした) 西浜(にしはま) 草原(くさはら)



関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2014 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved