畑(はた)
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京都府京丹後市久美浜町畑 京都府熊野郡久美浜町畑 京都府熊野郡川上村畑 |
畑の概要《畑の概要》 川上谷川の上流域、川上小学校のあるあたりの集落で、東畑・西畑に分かれる。 東畑には伊勢肥前守の居城であったと伝える畑の城跡(城山)があり、鯰ケ淵(ねんがふち)がを通って福知山に通じる街道があった。 畑村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年川上村の大字となる。 畑は、明治22年~現在の大字。はじめ川上村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《畑の人口・世帯数》 15544 《主な社寺など》 畑大塚古墳群 菅森神社 開化天皇の時、川上摩須が大山咋尊を砥鞍(とくら)ヶ嶽に祀ったのを初めとし、中世現在地に移転したと伝える。 左に川上小学校、右には川上谷川が流れる。砥鞍ヶ嶽が西に見え、境内に遥拝所のような石組がある。舞鶴の建部山に似た山容。菅は須田などと同じ意味と思われ、菅原道真は関係がない。 『京都府熊野郡誌』 〈 菅森神社 無格社 川上村大字畑小字菅森鎮座 祭神=菅原大神。 由緒=按ずるに大山咋尊を祀れるものならん。 人皇九代開化天皇の御宇川上摩須大山咋尊を砥鞍ケ嶽に祭る、これ当社の創始にして、中世現社地に移転せりといふ。されば古来例祭に際しては、此の山上に御幸せらるるを常例とせりとは口碑の伝ふる処なり。神社明細帳に祭神菅原大神とあるは、菅森の社名より菅公と誤れるものにて出所明ならず、大山咋尊を正しとす。 崇敬者人数=六十七人。 〉 金剛寺跡 当地に鸚鵡谷という音が対岸に反響する地があり同地には往古金剛寺があったが、暴風雨で倒壊し須田の地に移ったと伝える。現在の須田の金剛寺の故地のようである。 畑城跡(金谷城跡) 東畑の裏山小字城地(しろじ)に畑城跡が残る。金谷村の谷に向けて道があり、城主の居館は金谷にあったとか、畑・金谷は一村であったなど説がある。金谷のケンケン寺谷には本丸とよぶ小高い山がある。畑城主は丹後国田数帳にみえる「川上本庄」のうち二六町九段三〇二歩を所有する伊勢肥前守とされ、のち暦応年中(1338-42)に野村氏が城主になったと伝える。丹後国御檀家帳に「川かみのかなや…、一城の主也 野村殿」とある。暦応年中、野村忠興が足利尊氏より丹後に1万石を拝領、天正年中、野村監物が豊臣秀吉に討ち滅ぼされるまで16代当地に住したという(天竜山大雲寺記録)。 『京都府熊野郡誌』 〈 金谷城は字畑小字城地に在り。元来金谷畑は通じて金谷といひしが、後両字に分離せるなり。檀家帳に川かみのかなや一城の主也野村殿とありて、今を距る三百八十余年前の古城たりしなり。 大字畑小字城地に在り、元来字金谷及び畑は同一の大字にして、共に金谷といひしが、後世分離して畑区を為せる所たり。されば丹後国御檀家帳にも、川かみのかなや一城の主也野村殿とありて、大正十年を距る事三百八十余年前の古城たりしなり。城主を野村監物といへり。其の菩提所たる大字須田大雲寺に石碑及び位牌を存すれど、そは天明元年二百年之遠忌に際し作製せるものにて、野村監物卒去天正当時のものにあらざれば信をおき難きも、位牌の表には「当山開基天祥院殿高山宗桂大居士之位」とあり、裏には「畑村城主野村見物源忠通天明元丑天九月十五日 修二百年之遠忌立石塔竝木牌者也 現住相翁」とありて、遠忌を修せし事を知る。さて金谷城は元伊勢肥前守の居城にして、野村氏其の後を襲へるものの如し。以上は史乗に現はれたる古城址にして、其の他布袋野にも現今愛宕神社を奉斎せる城山あり、落城の際の遺物として現今尚焼米の土中より出づるあり、大字出角にも城山といひ小字を城の谷といへり、安達兵庫之輔居城の跡なりといひ伝ふれど文献の徴すべきものなし。 〉 川上小学校 立派な学校だけれどこの三月を以て閉校になったそう。バラ色の経済大国政策とえんえんの努力がとうとう行き着いた先がこれである、ゼニに呆けて経済大国とやらにはなったかも知れないが、周囲の深刻な負の影響が見えなくなった、小手先の選挙目当てだけの思いつきの「修正」くらいでは、さらにさらに閉校に追い込まれる学校は増え続け、日本には小学校が一校もなくなることであろう。金持ち栄えて国亡ぶの愚。軍備と同じでそこそこに制限せず野放しにすれば国が亡ぶ、当校は警告する、このまま突っ走れば本当に国が亡ぶぞと。 国の研究所の推計でも50年後には全国で8674万人、これは全国だから、地方はその千倍万倍も深刻でたぶん半分以下からゼロになることであろう。パソコンでもっと簡単に計算した人の推計によれば、もしこのままで行くなら西暦3000年には全国で1189人になるという、この小学校に全員が入れる程度になってしまう。3222年にはとうとうゼロ、全滅だそう。もう遅いこれは止められんぞ、それなのにまだわかっていない、政務調査費流用とかヤジとかの情けないのキワミに多かれ少なかれ象徴されるが、日本の政治屋はあの程度なのだが、こうしたバカどもでは絶対に止められんの絶望感が強くなってしまう、誰が全滅させるのでもないワレラ自身による自滅である。ワレラに全責任がある、馬鹿げた政策に賛成賛成ばかりで、今のように問題にドしんけんに向き合わないならばホントに終わるのである。 国の富を食いつぶした大資本はさっさと国外へ逃れてしまう。国など亡びたって彼らは何も困らないのである。 当校には昭和20年は舞鶴の倉梯校の139名が学童疎開でお世話になったそうである。 《交通》 《産業》 畑の主な歴史記録『丹後国御檀家帳』 〈 一川かみのそうが 貴志宗兵衛殿 〉 西金谷の南側に松山谷があって現在畑の全耕地の約半分を占める。昭和初期に古墳と思われるものを掘り出したと伝えられ、大塚という地名もある。この谷には古屋敷などの地名もあり、古い石地蔵も多いことから、昔ここに集落があったと思われる。小字古屋敷を「そうか」ともいうので、中世末の丹後国御檀家帳に「川かみのそうが 貴志宗兵衛殿」とみえるのは当地とも考えられるという。 『丹哥府志』 〈 ◎畑村(是村より以下海士村に至る凡十ケ村川上谷東側なり) 【菅森大明神】(祭九月十三日) 【城墟】(末考) 【鸚鵡岩】 〉 『京都府熊野郡誌』 〈 鸚鵡谷 大字畑に在り、布袋野市野々に達する道路の傍にして、大字畑の村外れ、城址と小字小幡との中間の谷を謂ふ、小幡に於て歌舞音曲を行へば、其の対岸なる城地に於て歌舞音曲せる如く、所謂鵜鵡返しに其の音響の反響するより命名せるが如く、一の名所となれるなり。丹哥府志等に畑村鸚鵡巌とあれど、特に巌石あるにあらず、展望良き丘陵地なり。伝説によるに往古二百十日の厄日に暴風雨あり、土崩甚しく、此谿間より大蛇現はれ一層猛威を逞しくせりとて、土人恐怖せりといふ。されば現今に至る迄大字畑区に於ては、二百十日の厄日を休業せずして、其の以後休業するを常とす。 〉 〈 鯰ヶ淵又右衛門 大字畑に淵あり鯰(ナマズ)ヶ淵といふ。此の淵大鯰住めり、某日某伊労参宮の途、又右衛門と友たり、旅舎に宿りて入浴せず常人に異る處ありしが、帰途鯰ヶ淵に於て別を告げ、忽ち姿を隠せりといふ。是より先龍の鱗皮製の財布を与へしとて、現今海部村大字品田森甚蔵の所蔵に係れるものあり。此の鯰ヶ淵は如何に旱天に際しても、水の減ずる事なかりしが、某年代旱魃するや、此の淵の水を以て耕地に潅ぐ、偶々火災あり採る者も取敢へず現場に到り見れど、一場の夢にして何等火災の跡を見、再び淵に到れば水満々た り、而して前同様の奇瑞ありしかば、人恐怖して再び淵に手を触るゝ者なかり言となむ。 〉 『久美浜町史・史料編』 〈 畑大塚古墳群 遺跡番号二三四 字畑小字大塚に所在する。 古墳群は川上谷川上流域、川上谷川の支流松山谷川が形成する扇状地上に立地する。 一号墳は昭和五一年の関西考古学研究者連合の報告によると直径一二・三メートルの円墳である。内部主体は畿内型横穴式石室である。左側に袖部を作るが、右側は破壊が及んでいるため左片袖か両袖式かは不明である。奥壁技法はC類、側壁は二段目以上を欠くが、やや大振りな石材を横積みする。袖石は立柱石を用いる。床面には川原石を敷き詰めている。石室中央奥壁よりに直径三〇センチの円形の穴が穿たれていた。石室内の副葬品は当初の状況を留めており、玄門部付近には棺台石も残っている。副葬品には須恵器蓋坏・高坏、土師器椀、鉄刀、ハバキ、鉄鏃、刀子、鉄鉗、耳環二対(銅地金貼り一対・銅地銀貼り一対)がある。須恵器の型式にはTK四三・二〇九・二一七があり、この古墳は古墳時代後期後半に築造され、七世紀前半まで追葬が続けられた。 二号墳は直径一〇メートルの円墳である。内部主体は掘込み墓壙の内部に横穴式石室を構築しているが、玄門部は破壊されているため袖構造は不明である。奥壁構造はA類、側壁構造は小振りの石材を小口積みしている。石室床面には川原石による敷石が見られる。副葬品は床面から多数出土したが、左側玄門部付近に片づけの痕跡が見られる。またこの部分には敷石が欠けている部分がある。副葬品には須恵器蓋坏・高坏・ハソウ・細頸壺・短頸壺・提瓶、鉄刀、鍔、鉄鐵、鉸具、板状立聞素環鏡板付轡、刀子、鉄斧、砥石、耳環二点(銅地銀貼り)、瑪瑙・緑色凝灰岩・土製勾玉、碧玉製管玉、碧玉製棗玉、土玉がある。須恵器の型式はTK一〇及び四三・二〇九があり、この古墳は古墳時代後期中頃に築造され、後期終末まで追葬が行われたと考えられる。 〉 『京丹後市の考古資料』 〈 畑大塚古墳群(はたおおつかこふんぐん) 所在地:久美浜町畑小字大塚 立地:川上谷川上流城左岸丘陵先端 時代:古墳時代後期 調査年次:1987年(久美浜町教委) 現状:消滅(耕地整理) 遺物保管:市教委 文献:B037 遺構 畑大塚古墳群は、川上谷川へ張り出した丘陵先端に立地する2基の古墳群である。 1号墳は削平を受けており、規模は不明である。埋葬施設は両袖式横穴式石室であり、基底石を残すのみであった。羨道部の大半は破壊されていた。玄室は長さ5.32m、最大幅1.65mを測る。床面には径10~20cmの河原石が敷き詰められていた。奥壁から1.3mの部分には径30cmの円形穴があり、そこに落込むように9個の敷石が放射状に並べられていた。 2号墳は、畑の開墾により削平を受けていたが、径10mの円墳と推定される。横穴式石室は、上部および玄門部が失われており、型式、規模は不明である。奥壁幅は1.5mを測る。床面には、径35㎝を測る河原石が敷かれるが、一部に欠く部分がある。 遺物 1号墳からは、須恵器杯、高杯.土師器杯、椀、鉄鏃、刀子、鉄鉗、耳環が出土している。須恵器は、TK217型式のものが見られる。2号墳からは、須恵器杯、高杯、台付椀、長頸壺、短頸壺、ハソウ、提瓶、鉄刀、鍔、刀子、鉄斧、鉄鎌、鉄鏃、砥石、馬具の轡、鉸具、勾玉、管玉、棗玉、小玉、耳環が出土している。須恵器は、TK43型式からTK209型式のものが見られる。 意義 畑大塚古墳群は、出土遺物から見て、2号墳が6世紀後葉に築造され、1号墳が7世紀前葉に築造さたと思われる。両者は、規模、内容が類似しており、同一集団による造墓と推定される。上流では、ほぼ同時期の経塚古墳、塚本古墳が単発的に見られる。上流では、湯舟坂2号墳をご中心に市域で最大の群集墳が展開し対照的である。両者の違いが何に起因するかは不明であるが、当該期の首長墓の様相を考える上で貴重な事例と言える。 〉 畑の小字一覧畑(はた) ヂケンゲ トチノ木 ヤケ谷 ヒロツク 甲坂 岡田 下岡田 ヤイチ 谷田 但馬谷 シイノ木 イカミ谷 松山 大塚 椿原 クワノヘ 古屋敷 鳥奥 外道 轟 河原田 水木 五反田 豆田 上五反田 平屋 今瀬 北五反田 馬馬田 鯰ケ淵 管森 ガラガラ 仲坪 灰屋 三反田 平崎 稲葉 トクジア ラン戸 麻町 ヤクシ タナ田 横枕 石熊 東ケ坪 力世塚 中ケ谷 大谷 小幡 大ム 城地 下城地 ヒジリ ヒヂリ カセ塚 シル谷 椎ノ木 ラント シルタニ ヒロク 牛ケ谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『京都府熊野郡誌』 『久美浜町史』 その他たくさん |
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