丹後の地名

平(へい)
京丹後市丹後町平


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京都府京丹後市丹後町平

京都府竹野郡丹後町平

京都府竹野郡
上宇川村平

平の概要




《平の概要》
宇川河口に位置する、宇川西岸に平、東岸に井上の集落がある。
白砂青松の平海岸はハマナスの群生地で夏の海水浴の民宿も多い。平氏の落人集落という伝承がある。
中世の平荘で、平安末期~室町期に見える荘園名。与謝郡のうちであった。石清水八幡宮の宿院・極楽寺領。地名の遺存や八幡社の所在から当地を中心にした地域に比定する説が有力である。
保元3年の石清水八幡宮并宿院極楽寺領荘園等に対する異論の停止を命じる官宣旨に極楽寺領の一所として「丹後国平庄」と見える。石清水八幡宮文書目録によれば、治安3年の「宮寺判申庄園別記事」を内容とする文書があり、そこに当荘の名が見えるという。
「丹後国田数帳」には「一 平庄 廿二町二段二百四十八歩 八幡領」とある。
平村は、江戸期~明治22年の村名。竹野郡。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領。当初宇川村のうち、のち分村独立。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同20年井上村を合併。同22年上宇川村の大字となる。
平は、明治22年~現在の大字名。はじめ上宇川村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《井上の概要》
宇川の下流東岸、平村の東南方に位置し、四周を山で囲まれる。中世の宇川保の地とされる。近世初期も宇川村の内で、慶長検地郷村帳に「宇川村之内井上村」と記される。
井上村は、江戸期~明治20年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領。当初宇川村の枝郷、のち分村独立。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同20年平村の一部となる。
当村出身の辻井喜左衛門は、明治初年伏見で杜氏として活躍し、丹後杜氏の始祖といわれている。

《平の人口・世帯数》 335・122



《主な社寺など》

宇川
案内板

宇川(遠下のあたり)
遠下下のあたり、この下流が中野。↑このあたりの水を飲んでいれば、世界一の長寿も可能。

宇川は天然鮎の生息地として全国的に有名、私もずいぶん昔になるが、岩波新書の「アユの話」だったかを読んでアユというのは面白い魚なんだと、えらく感動して宇川に興味引かれた思いがいまだに残っている。しかし鮎釣りのあのテグスの細さ、足元に落とせばもうまったく見えない、あれは私のようなガサイもんにはムリ。
この川は天然アユだらけで、解禁日に川へ入れば踏みつけてしまいそうなほどにあふせていたという、混み合いすぎてアユはテリトリーなど作れず、友釣りはムリ、村人は網を持ってとったという。
宇川に限らず田舎のちょっとした川へ行けばアユくらいはたくさんいたもので、私が子どものころだが、親類などへ行けばよく喰わせてもらった記憶がある、しかし近頃は田舎のどんな川でも自然破壊が大幅に進んだようで、もう喰えることはない。何も大都市周辺だけで自然破壊が進んでいるのではない、グローバル規模の事件である。

宇川は、弥栄町字須川小字出合を源とし、弥栄町・丹後町を北流して丹後町平で日本海に注ぐ。流路延長17.89キロ余、流域面積54.2㎢の2級河川。
上流は成谷・木子・太鼓山および駒倉、高尾山などの水を集め、中流の野間地区では大谷川・うば川・来見谷川・吉野川などの支流が流入する。中流部は花崗岩山地で谷幅も広がり、耕地や集落がわずかながら発達する。野間地域を流れるため野間川の称もある。
下流の丹後町に入っては、竹久僧・小脇・三山などの渓流を合し、鞍内を経て遠下に至る。下流部は第三紀の安山岩地帯を嵌入蛇行して流れ峡谷をなす、峡谷は急流が蛇行するため奇岩・巨岩がみられ、美しい光景を作り出している。遠下から下流は平坦地を流れ、田野を潤しながら日本海に注ぐ。
宇川(遠下のあたり)
同じ橋から上流側。遠下上の集落↑。木村ジイさんの生家がある。

ウッカーは沖縄では「大川」と書くそうで稲作発祥の地として信仰されているそう。大きな川は沖縄にはないので川というより泉のようなものが多いという、また王府からお水取りの使者がきて、国王と聞得大君の長寿を祈る若水を首里に送ったと伝えられているそう。当地の宇川もこの意味かと思われる。ウというのは美しいとか大きいとかすばらしいとか、先祖の国、神の国に、常世の国に繋がるとびっきり豊饒で若々しい命に満ちあふれる神聖なものの意味かと思われる。産川といった意味もありそうで、大和の水銀産地、ウガとかウダもこれかも知れない、宇川も碇水銀高原の水を集めている。トヨウカノメ、トヨウケなどのウカ・ウケもあるいはここが発祥かも、竹野川流域を本貫地とする神なら、竹野川もそう渡来人たちによって呼ばれる以前は宇川であったかも、ウカワは真名井とも繋がる南方文化、縄文文化の言葉かと思われる重要な川名であろうがいまだ誰も気づく者もましてや解明した者などはない。丹後発祥の地は北方系も色濃いが、同じように南方系も濃いようで、丹後研究には、さらに言えばニッポン研究には欠かせない地であろう。
鞍内から奥、野間までは先行谷でものすごい渓谷を下る↓
宇川(鞍内の奥)

宇川(鞍内の奥)
実際にも宇川流域は不老長寿の地である、サンキュー・ベリマッチの木村ジイさんは世界最長寿記録を立てていられるし、西側の山手には千年比丘尼の伝説がある、千年若いままで年寄ることがなかったといわれる、両人はこの水を飲んでおられた。
最近ここの水をペットボトルに詰めて「長寿の水」というものを市が作ったそうだが、宣伝がヘタクソ、というか理解が驚くほどに足りない、イメージが超貧困で死んでいる。現代化された官僚くさいアホくさい発想しかない、史家もたいしたことないが、このイメージを表せるのは今は才能豊かな芸術家だけのようだから仕方もないかも。
宇川の水はあふれる命が多様に躍動する生命大爆発の豊饒の水、常世の水、中国の神仙思想で言えば蓬莱の水、不老長寿の霊水である。千年十代の若々しい肉体を保ち、世界記録がつくれるほども長生きができる、もしやあなたの心がけよろしければ…、といった霊水である。常識的にはここまではヘイキで宣伝してもよい。
こんなにありがたい得がたい聖水をまちがってもタダみたいな値段で売ったりするな、ネウチにふさわしい高い値段で売ってこの川の整備にあてよう、この金でアユをふやそう。
宇川とは常世の川の意味である。これとはまったく逆のアジア人殺し米軍には一滴もとられるなよ、属国高官や傀儡の親分どもの、人殺しヘイキの超貧困思想連中どもにはそれにふさわしくトーキョーの腐ったくさいきたないクソのようなものを取り寄せて飲ませておけ。米軍基地から出る汚水はすべて東京に引き取らせろ、一滴も丹後の海にながさせるなよ。
カニもうまいが、アユもうまい魚、常世の川のアユ、丹後の名物にしようではないか。クソどもには喰わせんぞ。
宇川(鞍内の奥)

なお宇川は地名としては、宇川下流域および宇川東方一帯、吉野川流域もを含んだ地域名称としても用いられる。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 宇川
(上宇川村誌稿) 源を與謝郡野間村大功(たいこう)嶽に発し北流して本村に入り、竹久僧、小脇、三山等の諸渓流を併て、鞍内を経て遠下に至る、此間巷湍激流奇巌怪石屹立し、河水岩角に當り泡沫飛散其光景頗る壮絶を極む、これより下流田野の中部を貫流して字平より日本海に注ぐ、長さ大里二十丁幅十五間餘、上、中、下流を通し河床礫にして水清澄なり、然れども一朝降雨に際しては水量頓に増加し濁流滔々として水勢逞しく沿岸の被害尠からず、尚本川は府下の保護川に加はり鮎の産多く七月十六日より漁撈期に入る、年内の産額七百円に及ぶ、  〉 




平遺跡平遺跡


国道178号線から平海水浴場・キャンプ場へ入る海側の道ぶちに駐車場があるが、その西側、今荒地になって草が生えている所である。
ここで3000年にわたって人々が生活していた。
写真は『中学校社会科副読本・京丹後市の歴史』→
平遺跡
案内板↓
平遺跡

平遺跡
平遺跡は、京丹後市丹後町平の宇川河口左岸の日本海に面し砂丘上に営まれた縄文時代前期から中期・後期・晩期の長期にわたる遺跡であり、昭和38年・昭和40年に同志社大学と帝塚山大学の考古学研究室により発掘調査が実施された。これらの調査では、深さ4mにおよぶ砂丘の包含層から多量の土器、石器が出土した。特に出土した土器は平式土器として知られ、近畿地方における縄文時代中期の代表的なものである。
 さらに国道178号線改良事業に伴い、平成8年度(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターが調査を実施し、縄文時代前期から晩期にわたる多量の縄文土器等の遺物が出土した。
また、古墳時代の石敷遺構や製塩土器も出土し、この平遺跡が丹後地域における縄文時代、古墳時代の重要な遺跡であることが明らかになった。尚、平成8年度の発掘調査による平遺跡出土遺物は一括して京丹後市指定文化財となっている。
京丹後市教育委員会

平式土器
地元の中学生が土器を拾い遺物散布は昭和15年頃から知られていた。同38年、40年の2回にわたり発掘調査が行われ、遺物包含層は約4メートルで、層位は11層に分類された。
遣物は縄文前期~晩期・弥生時代・古墳時代にわたる土器と、石器・石鏃・石皿・叩石・石斧・石錘・すり石・石製容器など。このような長期にわたる遺跡は西日本海岸では珍しいという。
なかでも当遺跡の出土が初めてという「平式土器」(縄文中期)の標式が生れた。平式土器は地文に撚りの強い縄文を施し、その上に円形連続波状文の文様を爪形状の細い突帯で施している。口縁内部の屈折は角ばっていて、その上に縄文が施されている五角形の底部をもつ黒茶色の薄手の土器という。


八幡神社
八幡神社(平)
八幡神社の鳥居は集落の中にあるが、社殿はずっと上の方だそう、七曲がりという参道をずいぶんと登るのだそうである、隠原谷という所に鎮座、祭神・誉田和気命。旧村社。
宇川地域(中世の宇川保、近世初期の宇川村)の総鎮守といわれる、宇川における中心的な土地であった。
保元3年(1158)の宮宣旨(石清水文書)に、石清水八幡宮宿院極楽寺領としてみえる「丹後国平庄」が当地が比定されるので、その関係から八幡宮が勧請されたものと推測されている。
社記によれは正暦年間、藤原保昌が丹後国国司として下向巡視の時、源頼光の命により北海鎮護・武運長久を祈るため石清水八幡をこの地に勧請したという。
当社蔵の旗箱に「再興応永廿七年庚子八月廿二日」と記される。また元禄11年(1698)付の棟札が残り、現存の社殿はこの時のものという。
「丹哥府志」は「平村より南三山村に至る凡八ケ村これを宇川の上組といふ、八幡宮は上組八ケ村の氏神なり」と記すが、当社は古来、宇川19ヵ村の総社として崇敬されてきたという伝承もある。
「丹後旧事記」には「天正十一年細川兵部大輔藤孝一郡一社之正八幡宮を祭り玉ふ之一社也」と記される。
永正12年(1515)の奥書のある縁起一巻があり、神輿裏書には「八幡宮 奉新造立御寄進之事 小倉備前守藤原誠藤三十六歳也 右別当鞍内西光寺 住持長雄法印代 天文三年甲午八月十五日」と記される。これによれば当社の別当は鞍内の西光寺であったことがわかる。境内に武内(たけうち)神社(祭神・武内宿禰・天児屋根命)がある。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 八幡神社 村社 字平小字隠原谷鎮座
(社記) 當社正暦年間藤原保昌當国国司として下向巡視の時、源頼光の命により北海鎮護武運長久爲祈、城州石清水より此處に勧請す
(神社明細帳)  祭神 誉田和気命
 由緒 創立不評、再興應永廿七年庚子八月廿二日と旗箱に記載あり、永正十三丙子八月十五日三韓征伐の書書奉納あり、寛文元辛丑八月一日と旗箱に記載あり、元禄十一戌寅八月十五日棟札あり、文政十一戊子年四月十六日上屋建立の棟札あり
一社 殿  梁行 三間半
      桁行 三間
一上 屋  仝  一間一尺九寸
      仝  一間一尺九寸
一輿 庫  仝  二間
         二間
一籠 屋  仝  二間
      仝  四間半
一境内坪数 七百十五坪
一氏  子 八十五戸
 境内神社
  武内神社
  祭神 武内宿禰
     天児屋根命
  由緒 不詳
(上宇川村誌稿) 祭神 誉田和気命
 応永廿七年庚子年八月廿二日再建、今の社殿は元禄十一戊寅年八月の建築なり、本社は古来宇川十八ケ村総社と称し崇敬一方ならざりしが、今は村社として字平のみにて祀る、伝へいふ天正年間細川氏一郡一社の八幡宮を祀るに本社を以てしたりと、氏戸八十戸あり、
(丹哥府志) 八幡宮  祭八月十五日
 平村より南三山村に至る凡八ケ村これを宇川の上組といふ、八幡宮は上組八ケ村の氏神なり
(丹後舊事記) 八幡宮  宇川庄平村
 天正十一年細川兵藤大輔藤孝一郡一社之正八幡宮を祭給之一社なり
(丹後一覧集) 八幡宮  宇川庄平村
 天正十一年細川兵部大輔藤孝一郡一社の正八幡宮を祭り給ふの社なり
 (什 寶)
一縁  起        壹巻
   撰者筆者共不詳  本願 永需敬白
 奥書干時永正十二年丙子八月十五日
      宇川庄八幡宮御寶殿  公門藤原三郎左衛門
      奉籠         日役藤原浄久入道
一甲  冑  (黒糸威)
  慶長年間細川越中守忠輿寄進と伝へ聞
一鑓     (無 銘)
      願 主  小食備前守と伝聞
一剱    (焼刃ミダレ) 装棒鞘 銘蔵光
      願 主  中野村佐助
一八幡宮額  (長三尺巾一尺九寸)
      久我前内大臣道明公御染筆
(神輿裏書)
      八 幡 宮
奉新造立御寄進之事
     大願主
         小倉備前守藤原誠藤
                三十六歳也
   石別當鞍内西光寺
       住 持 長 雄 法 印 代
    天文三年甲午八月十五日  〉 

『丹後町史』

 〈 八幡神社 平小字隠原谷
誉田和気命を祭る旧村社である。元禄十一戌寅年八月十五日の棟札と文政十一戌子年四月十六日上屋建立の棟札がある。
境内には、武内神社(祭神 武内宿禰 天児屋根命)がある。
上宇川村誌稿には、八幡神社の今の社殿は元禄十一戌寅年八月の建築、本社は古来、宇川十八ヶ村総社として崇敬を集めていたが、今は村社として字平だけで祀る。氏子は八十戸余りと出ている。  〉 

三柱神社

『丹後町史』
 〈 三柱神社 平小字丸山(宇川の川尻)
稚産炙神、稲魂神、保食神を祭る旧村社である。  〉 

曹洞宗棲厳山常徳寺
常徳寺(平)
八幡神社の下隣にある。本尊・釈迦牟尼仏。
寺伝によれば当寺はもと井上村小字寺地にあったが、永享元年(1429)現在地に移建、寛永10年(1633)再興、慶安2年(1649)智源寺二世の請により橘州宗曇を招いて開祖となし、智源寺末院となったという。もとは宇川19ヶ村が当寺の檀中であったという。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 常徳寺  曹洞宗にして字平にあり
 (丹哥府志) 栖巌山常徳寺 曹洞宗
 (同寺調文書) 當時は栖巌山常徳寺と称す、往古は井上字寺地にあり永享元年清源常本僧今の地に創設伽藍造営す、寛永十空三月梵長僧再営當寺中興とす、これより十七年を経て慶安二丑年智源寺二世和尚の請により、橘州宗曇和尚を招聘して開祖となし同寺末院の内廿四院の中となる、寛文元年智源寺越本山の許可を得僧縁司となる.元は字川十八ケ村悉く當寺檀中の處、元禄十二年遠下村三山村竹久僧村、享保二年神主村小協村、元文六年袖志村久僧村、延享九年尾和村、明治九年上野村車野村、明治十三年谷内村離檀し、文政七年二月類焼の爲め堂宇不残土蔵に至迄焼失せしにより、古書古器を存せ?由緒不詳なるは惜むべし、境内四百餘坪、現今の伽藍は其後の建築に係ると雖堂宇堅牢頗る美観を極め、本堂、庫裡、衆寮、鐘楼堂、土蔵、位牌堂、山門等の諸建物中々壮大をつくす、郡内屈指の寺院たり、檀家百八十餘戸  〉 

『丹後町史』
 〈 棲巌山 常徳寺 平 曹洞宗
本尊、釈迦牟尼如来
永享元年(一四二九)に創建。慶安二丑年(一六四九)智源寺橘州宗曇和尚を開阻、智源寺末院の内二十四院のうちとなった。
宇川十八ケ村が当寺の檀中であったが、元禄十二年(一六六九)遠下村、三山村、竹久僧村。享保二年(一七一七)神主村、小脇村。元文五年(一七四〇)袖志付、久僧村。延享四年(一七四七)尾和村。明治九年(一八七六)上野村、車野村。明治十二年(一八七九)谷内村が離檀した。開祖から二十二代服部泰寿師に至る。檀家約一五〇戸。  〉 

日蓮宗興栄山妙源寺
妙源寺(平)
八幡神社の上隣。永禄11年(1568)当地の地頭・井上石見守が法華経信仰の結果、一宇を営み妙源庵と号したのに始まると伝える。
『丹後国竹野郡誌』
 〈 妙源寺  日蓮宗にして字平にあり
 (丹哥府志) 興栄山妙顕寺 法華宗
 (同寺調文書) 興栄山妙源寺と称す、人皇百七代正親町天皇の永禄十一年當地地頭井上石見守法華経信仰の結果一宇営み妙源庵と號し、若州の僧法舜院徳者を招請して宗義を聞くこと年久しく文禄四年死亡せらる 興栄院殿妙源日繁大居士と號す、而して法舜院を妙源庵の祖とす。本堂は三間四面庫裡三間に五間の小庵なり、以後相続きて十代無恙、十一代及十二代には火災に遇ふ、然るに寛文十二年十四世日念再興に苦む、十五世に至り諸国修業の僧日典なるもの北国より来って法を説く、衆抑で住持とす。茲に於て日典、寺號、山號りあらざるを告げ乞ふて之を附せんとし石見侯の法号を以て山を興栄、寺を妙源と呼び宮津経王寺を仰で本山となし日典の功徳を称讃して開山となす、而して前に逆り法舜院を二祖に列す。其後高山雪崩の爲めに党宇頽破す。享保二年十六世日賢に至り本堂番神七面の両社及庫裡等更に舊観に復す、昔時什器、什具等寄附者あり、高祖の小本尊亦寄附せらる(こは中濱吉左衛門の寄附せしものにして、洛西鳴瀧の三寶寺開祖、中正院日護上人の彫刻に係り霊験の顕著なること二度の火炎に、毎に先ちて其由を家人に知らしめしと伝ふ、よりて民家に置きて涜さんことを懼れて寺に奉りしとぞ)十九世日義なるもの、本山本国寺の直末たらんことを希ふ、時の管長日解僧正之を許諾す、故に日義の直末願に功ありしを以て人直末の祖と称しき、それより別に変事なく以て今日に至る、抑開基井上侯の後裔は今に當地にありて相当に栄えたり亦妙ならずや、
 現今境内約二百坪、壮大ならざるも、本堂、庫裡、鐘楼堂、七面堂等の建物ありて檀中百戸に足らずと雖信仰するもの多し。
 (上山寺蔵年代目録) 安永三年鐘鋳  〉 

『丹後町史』
 〈 興栄山 妙源寺 平 日蓮宗
本尊、日蓮上人
人皇一〇七代正親町天皇の永禄十一年(一五六八)地頭井上石見守が法華経信仰の結果妙源庵を創建した。興栄院殿妙源日繁大居を開祖としてそれから十五代を経て日典上人を開山、現在四〇代藤崎一明師に至る。檀家約五〇戸。  〉 


浄土真宗西教寺
『丹後町史』
 〈 西教寺 平字小田 真宗西本願寺派
本尊、阿弥陀如来
明治初期に二回の火災に遭い、沿革等一切不詳、平共同集会所一部に祀る。昭和四十四年再建。  〉 

平城趾
井上石見守ならびに松井佐渡守の居城と伝える。


《交通》


《産業》

丹後杜氏(宇川杜氏)
日本三大杜氏の丹波杜氏は有名だが、もともとは同じ国で、その総氏神様の豊受大神は酒作りの神様でもあった。酒造りは古くは女性の仕事で、女家長を刀自(とじ)と呼んだが、それが杜氏となったのではとも言われる。

平海水浴場・キャンプ場
平海岸



平の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 与謝郡
一 平庄 廿二町三段二百四十八歩  八幡領  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎平村(車野村の次)
【八幡宮】(祭八月十五日)
平村より南三山村に至る凡八ケ村これを宇川の上組といふ、八幡宮は上組八ケ村の氏神なり。
【興栄山妙顕寺】(法華宗)
【栖巌山常徳寺】(曹洞宗)
 【付録】(三十番神堂、三宝荒神)  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎井上村(平村より南の谷へ入る)
【三宝荒神】(祭九月五日)
【開雲庵】(曹洞宗、井の谷)  〉 


『丹後町史』
 〈 縄文時代と平遺跡
北は北海道から南は九州に至る全国各地で、縄文以前(約九千年以前又は一万年ともいわれている)のかつてのプレ縄文と呼ばれる時代があった。そこには「土器をともなわない石器群」が発見され、その一部は旧石器時代にさかのぼっている。この先土器時代の文化遣跡は今のところ丹後町では発見されていない。先土器時代の文化の時期は、地質学上では、洪積世の時期であって氷河期の第四期以前とされている。洪積世の第四期以後が沖積世の時代であり、現在私たちの住んでいる自然環境と同じであるとされている。縄文以前即ち無土器文化の遺物として、丹後では舞鶴・久美浜・峰山で尖頭器に類する石器が出土している。現在のところ人間の活動は縄文時代を更に五つに分けて早期・前期・中期・後期・晩期と区別し約一万年前から西暦紀元前二百年前くらいの所まで土器編年により、比較的はっきりと歴史を知ることができる。今から丹後町の平遺跡の発掘調査をもとにして、約三千年~五千年前の祖先の足跡を辿ってみよう。
調査
昭和三十七年九月末、宇川中学校社会科クラブ員が現場附近で拾った土器片から平遣跡を中心に丹後町古代の歴史の研究がすすめられた。現場というのは平の「さんまい」の海岸であり、畑地主(田中半治氏)はかつて(昭和十五年頃)壺一ケを掘出し上宇川小学校に届けている。(昭和二十二年二月上宇川小学校の火災で焼失)これまで耕作中に数多くの土器破片に気付き、昔畳一畳敷きくらいの敷石も発見された事もあったという。
丹後町で縄文時代の土器類が発見されたのは、勿論はじめてであり、府文化財保護課へ連絡して、協議ののち同志社大学考古学教室酒詰教授を中心に十二月二十一日から三日間試掘調査をして翌年春(三十八年豪雪のあと)本調査が進められ。
本調査は昭和三十八年五月一日から十九日迄、同志社大学考古学教室の学生、大阪信愛女学院短大、宇川中学校クラブ員など約三〇余名が参加して同志社大学酒詰仲男教授、堅田直講師(現帝塚山大学教授)を中心に考古学協会会員玉谷哲氏・白石太一郎氏・石附喜三郎氏等によって発掘作業と、それに伴う研究が進められた。
この間およそ五百余点あまりの縄文時代中期~晩期(三千年~五千年)の土器、石器が発掘され、しかも三千年の長い年代にわたる遺物が同一遺跡から出土されたのは、日本でも珍らしいとされ、さらに土中の深さによって年代毎の遺物が埋まっていることなど、学術的に貴重な遺跡であることが確認された。
昭和三十八年堅田講師はこう話された。
「考古学上標式的な遺跡で、古代文化を知る上に、貴重なものである。竹野郡網野町周辺一帯にも遺跡が多いが、縄文代晩期のものは、こんどがはじめてだ。いづれにしても前期より中期・後期・晩期の四期にわたる遺跡は西日本海岸で調査されたのは、ここだけであり、出土品によって、今後この地方の石器時代における全容を解明したい…」と。
帝塚山大学から発表されている「平遺跡」の研究調査結果の報告は次のようである。
遺跡の位置
丹後町平字湊にあり、日本海に面した段丘の上にできた砂丘上にあって、丹後半島の突端部経ケ岬から西へ約七㎞標高約二〇m、海岸から約一五〇mの距離にある松林の南側畑地で、天然鮎の棲息地として有名な宇川の左岸に当っている。
調査の経過
昭和三十七年十二月の試掘調査の結果、これより一段高い畠の上部に厚い土の層があったことが推定されたので、三十八年五月同じメンバーで調査を行った。
その結果土師器・須恵器・弥生式土器・縄文晩期から前期までの遺物が三m五〇㎝の層位になっていることが明らかになった。さらに再調査を必要とし、昭和四十年七月二十八日から八月十日まで帝塚山大学考古学研究室の事業として調査が行われた。
遺跡の断面
トレンチ(部分発掘を行う場合に使われる長方形の細長い溝)は昭和三十八年度に発掘調査を行ったトレンチの東側に並列して、幅約三m長さ一八mのものと、西側に幅約三m長さ六mのものを設定し発掘を行った。発掘は全トレンチを水平に掘下げた。地表面から地中に達するまで、地点によって砂地特有の性格にもよるが、層位の弁別が困難な所もあったが、調査の進行とともに解決した。
調査の結果遺物包含層の厚さ約四mに達し、層位も十一層に分類することができた。その状態は上図の実測図に示す通りである。この実測図を基に地学、地形的に考古学的にその問題点をあげると
地学地形的に--トレンチの北側(実測図では左を上に)南側にさがる傾斜をもつ層が重なりあっているので第一層の直下にある平面はただちに第二層を意昧するのではなく北から第五・四・三・二層とたてに並んだ状態であることがわかった。
また平式土器を出す第五・六層から大歳山式土器を出す第八層までのあいだの砂層の堆積は大で、しかもその粒子が非常に荒い、これは砂の堆積速度が大であったと同時に、砂の補給源が近かったこと、すなわち海岸がこの地点に近づいたことを示すものであろう。たとえば第九層(北白川下層Ⅲ式)の時及びそれ以前は砂の堆積は全くなく、地上の直上に粘土層があり、その中から土器を検出したのである。綱野町宮の下縄文遣跡(早期)においても、砂丘下の地山の直上粘土層中に遺物が包含されていた。これらのことから、早期から前期の中ごろすぎまでは海岸は遠く、前期末から急速に海進か或は地盤の沈降作用が始まったと考えられる。このように、砂の堆積物及びその厚薄によって地形関係の推移をみることができた。
考古学的に--約四mの砂の堆積の中に縄文式前期から古墳時代の土師器に至るまでの遺物が包含していることは図に示す通りであるが、これが文化的に運綿と継続したものとは直ちに断定はできない、大きな文化の流れは、近畿的、時には瀬戸内海へと大きく流動している様子がその中にみられた。
先人の生活
「平遺跡」に縄文時代の人々が住みついていた長い年月のうちには地形、海岸線、気候等による環境の変化も生じたであろう。しかし先人の生活の基調は海、山におかれていたことは、彼等の日常生活品であった出土遣物によって知られるところである。
例えば貝殻・石錘・軽石で作ったウキ等で前面の日本海で魚介、海草類等の海の幸を漁りしたことがわかり、また、石皿や凹石等によって木の実・木の根・いも類等を採ってすりつぶし食糧に供したり、さらに矢の先に石鏃をつけ、シカ・イノシシ等の山の幸を獲ったことを獣骨片の検出とあいまって知ることができた。しかしこれらを貯蔵し、調理するのに用いられたのが土器類であり、木を伐って家を造るのに石斧が用いられたであろう。当時の生活は案外予想以上に豊かなものであったかも知れない。
出土遺物
石器・石鏃・石皿・たたき石・石斧・石錘・すり石・石製容器・土器(縄文前期末~縄文晩期初頭)土師器・須恵器等  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 平遺跡(へいいせき)
所在地:丹後町平小字湊
立地:宇川河口域左岸砂丘上
時代:縄文時代前期~晩期、古墳時代中期
調査年次:1963年(同志社大学)、1965年(帝塚山大学)、1996年(府センター)
現状:半壊(道路改良)
遺物保管:市教委ほか(一部、市指定文化財)
文献:C113、F028、F032、F039
遺構
平遺跡は、宇川河口の砂丘上に営まれた縄文時代前期~晩期及び古墳時代の遺構である。海辺に近い砂丘土壌であるため遺構の検出は容易ではない。1963、65年に同志社大学、帝塚山大学が発掘調査を実施し、厚さ4mにわたり縄文時代前期~晩期の土器、石器が土層ごとに検出され、近畿北部有数の縄文遺跡として知られることとなる。
1996年の府センターの調査では、縄文時代晩期の埋甕および石敷炉が検出された。埋甕は、篠原式の高さ40㎝ほどの土器を使用した大型のもので、蓋、標石をともなうものである。石組炉は、長さ20㎝の棒状石材3点を組んだ上から尖底の深鉢底部を検出しており、石材は被熱していた。古墳時代中期の石敷遺構は、ミニチュア土器を伴うなど祭祀的な色彩の強いものである。
遺物
多量の縄文土器が検出された。縄文前期の北白川下層式、大歳山式、縄文中期の鷹島式、船元式、平式、縄文後期の元住吉山式、宮滝式、縄文晩期の滋賀里式併行期、篠原式の土器のほか北陸の新保式の深鉢などの他地域から流入された土器も出土した。特に1966年に発掘調査がまとめられ、「平式土器」の名と共に縄文時代中期の型式として注目された。土器以外では石鏃、石斧、また海に面した遺跡であり石錘などの石器のほか、縄文時代の玉も4点出土した、そのほか、古墳時代の祭祀にかかわると推定されるミニチュア土器も出土している。丹後地域での古墳時代の製塩土器の出土例は、こくばら野遺跡に次ぐもので、他地域との型式差から宇川製塩土器と命名された。
意義
縄文時代前期~晩期にわたり長期間に継続して営まれた遺跡であり、出土遺物も豊富である。特に縄文時代中期の渦巻文や紡錘文で加飾された土器は平遺跡の出土が初見であり、平式土器と呼ばれ近畿北部の縄文土器の一型式と位置づけられるものである。
縄文時代の土器についてみると、北陸的な土器であると鷹島式、船元式、新保式の土器がみられ、他地域との交流のあったことがうかがえるものである。また、古墳時代の製塩土器の出土は珍しく、能登や若狭の製塩土器との関連が注目される。このように平遺跡は浜詰遺跡とともに海辺の近くに営まれた市域の縄文時代を代表する遺跡であり、平式土器とともに学術的にも非常に価値が高い。  〉 

『京都新聞』(96.11.9)
 〈 *北陸の玉類出土*赤漆塗り木製品も*縄文からの交流示す*丹後町・平遺跡*
 京都府竹野郡丹後町平の縄文時代の前期から晩期中葉(五千数百年前-約三千年前)にかけての「平遺跡」を発掘していた京都府埋蔵文化財調査研究センターは八日、当時、北陸地方で生産されたと見られる石製の玉類や赤漆塗りの木製品の小片などが見つかった、と発表した。「縄文時代から、海上ルートを通じて、丹後と北陸とが交流していた有力な資料」として注目している。
 同遺跡は、宇川河口左岸で、平海岸から南約百㍍の国道178号沿いに位置。一九六五年までの同志社大考古学研究会などの調査で、西日本でも数例しかない、同一場所での二千数百年間に及ぶ縄文時代の遺跡と、確認されている。
 今回調査したのは、調査済み地点の南側の隣接地約千平方㍍で、八月下旬から発掘していた。
 出土した玉類は、黒色の粘板岩や白色の硅(けい)質岩など軟らかい石を加工した平玉などの五点。装飾品ではないかと見られ、直径数㍉の円柱状のものや長さ三㌢、幅二㌢前後、厚さ五㍉前後の長玉状になっている。赤漆塗り木片(長さ五㌢、幅三㌢前後)は、何かの容器だったと判断される。
 玉類は、富山県・馬場山D遺跡出土の玉類と石材が類似。また、赤漆塗り製品は北陸地方では縄文時代前期から生産がおこなわれていたとされており、今回北陸式とよばれる土器破片も多く出ていることから、「両地域の交易を補強する有力資料」と調査員は見ている。
 さらに古墳時代中期(五世紀後半)の、丹後半島では最も古い脚台付き製塩土器や、石を敷きつめた道状(長さ十三㍍、幅十二㍍)の遺構など珍しい遺物も見つかっている。  〉 


『丹後町史』
 〈 丹後杜氏の由来
宇川地方の農業経営は全般的に零細で、秋の取入れ後から三月迄は、農閑期となり、その上積雪期間で冬籠りに均しい状態であったため、出稼ぎが行われるようになった。
伝承によると、出稼ぎの初めは寒天造りで、遠く寛政年間から奈良地方へ足をのばしたとされている。しかし寒天造りの期間が短いため、期間の長い「酒造り労働」に転向したようである。
宇川地方の出稼者が、伏見地方へ入りこんだのは江戸時代の中期であったことが、伝えられている。安永七年に丹後宿仲間(江戸時代には口入屋とか宿とか呼ばれる職の世活屋が、独占的な権利をもっていた)が結成されており、宿の由来によると出稼者の中に丹後・越前・丹波・広島の出稼者が多かったとされている。又天保年間に丹後勝(文化一四年生)という若衆が、「唐臼屋」と呼ばれた米踏(唐臼で米を揚く作業)として伏見へ出ていたことが知られている。
明治一九年鞍内の、谷岡佐喜蔵翁が大和地方へ「唐臼屋」として出稼ぎにでているが、やがて水車動力の出現によって、米踏労働者は姿を消した。丹後の出稼者はそれ以前から「蔵人」として経験を積んでいた者もあったが、この期を転期として、殆んどが酒造りに進出するようになった。
丹後杜氏の技倆を発揮しだしたのは、幕末に近い、文久・文治・慶応の頃で、伏見だけでも二〇余名が出かけており、これと前後して、南山城・大和地方へと広く進出した。
宇川の出稼者の実直な性格と、忍耐強い行動力は、優秀な成果をあげ、明治一四年頃には約五〇余名と次第に増加し、明治末期から大正初期には、丹後杜氏として働く従業者数は三百名余を越え、大正末期から昭和初期には伏見地方の醸造界を牛耳るまでに発展し、丹後杜氏の全盛期を築きあげるまでになった。
丹後仕氏の先覚者
辻井喜左衛門氏(天保二年三月十五日生、明治三十二年九月二十六日没)井上出身
喜左衛門が誰に師事したかは、丹後杜氏の成立年代とともに不明であるが、鳥羽・伏見の戦の頃、杜氏(三六歳の頃)であった。酒造技術を村人に習得させ、後輩を育成する等、又伏見地万への開拓の実力者として活躍し、丹後杜氏の始祖といわれる人である。
岡野甚蔵氏(天保八年二月十六日生、明治九年五月八日没)上野出身
氏は、南山城地方への開拓の始祖であり、下宇川地区出稼者に酒造りの道を切り開き、多くの杜氏を育てている。
細田和吉氏(天保八年二月十六日生、明治二十一年八月十七日没)袖志出身
氏は大和地方への開拓の始祖であり、出稼者が乗物を利用することのできなかった年代に、常時籠に乗って往来するほどの実力者で、酒造技術に秀でており、大和地万で杜氏としての名声が高かったという。
小倉庄助氏(天保十一年三月二十八日生、大正十年十一月四日没)鞍内出身
氏も大和地方で杜氏として活躍し、特に後輩指導に力を尽した人である。鞍内部落から大和地方へは、多くの出稼者がでている。
丹後杜氏組含
丹後杜氏組合は、丹後杜氏の出身が大多数宇川地域であるところから、はじめ宇川杜氏と名づけていた。この宇川郷の出稼者が、「徳操の涵養と技能の修養に努め、以てその名声を発揚する目的」のために、団体的結合と組織の必要を認めて、明治四二年成徳会の組織を見るにいたり、「宇川杜氏成徳会」として発足したが、大正一二年四月-昭和一五年九月と二回改正されて、現在の丹後杜氏組合と改称され、宇川地域以外、丹後町此代四名、与謝郡伊根町大原七名を加えて、組合員二三八名となっている。
役員は組合長一、副組合長二、理事若干名で現在組合長は蒲川保氏(丹後町長)副組合長は岩崎熊次郎・増田晴吉の両氏と理事六名で構成されている。  〉 

『京丹後市の歴史(中学校社会科副読本)』
 〈 丹後杜氏
 丹後杜氏というのは宇川杜氏とも呼ばれます。丹後町字川地区は農業中心の地域ですが、山間部では積雪が多く、冬場の出稼ぎとして「百日稼ぎ」ということで酒造りに出かけるようになりました。古くは江戸時代にまでさかのぼると考えられます。大正から昭和の初めには丹後杜氏として、全国にその名をとどろかすほど活確しました。
 造酒屋で働く人々を総称して、「杜氏」と呼びますが、もとは「杜氏」というのは酒造りの技術集団の頭領のことです。酒造りの一切の総責任者であり、酒の味は杜氏で決まるともいわれ、長年の編験が必要とされます。
 その下に、頭(杜氏を補佐し、蔵内の指揮及び醪の責任者で蔵人の相談相手)、大師、代司(麹づくりの責任者)、酒+元廻り(酒母づくりの責任者)、検査受、釜屋(蒸米の造り方の責任者)、船頭(酒しぼりの責任者)など細かく作業が分業されています。
 酒造りの人たちの生活は、日中だけ仕事をするのではなく夜中に起きだして仕事をしたり、昼から夜にかけても小刻みに作業が入りますので、昼夜をとわず働かなければならない過酷な仕事でした。
「一日の始まりは、朝1時から2時まで麹づくり、2時から4時まで休み、4時から6時まで蒸し取り・朝飯、6時から8時まで休み、8時から11時半まで仕込みその他、11時半昼飯、牛後12時から2時まで雑用、2時から4時半まで仕事・晩飯、6時から8時まで麹の仕事、8時以時は自由時間。3日に1回は夜番があり、毎日が同じ仕事の繰り返しで、眠る時間がないのには驚いた。」(『丹後杜氏誌』より)  〉 


広報きょうたんご(平成18年11月号)
 〈 *蓬莱の郷 京丹後*
*百歳以上のかたがた47名*
 市内において、四月一日現在、六十五歳以上のかたは一万七千七百二十二人で、人口に占める割合は二七・四パーセント、四人に一人以上のかたが六十五歳以上ということになります。
 また、九月十四日現在で百歳以上のかたは、昨年の三十七人から大いに増え四十七人。これは、人口十万人当たりに換算すると七十四・九人となり、全国平均の二十人の実に三・七倍と極めて高く、単に高齢化率が高いという訳でなく、この美しい京丹後の自然や風土、また丹後米をはじめとする海・山・野の新鮮な食べ物などが「健康長寿のまち・京丹後」を育み、「蓬莱(ほうらい)の郷」(※)とも言えるほど、誇り高く喜ばしいことです。
 市としましては今後とも、市民のみなさん一人ひとりが健康に一層関心をもっていただき、いつまでも元気で生きがいや楽しみをもってご活躍いただける施策の充実に努めてまいります。
※「蓬莱(ほうらい)の郷」
 中国で仙人が住み、不老不死の地と信じられた想像上の仙境  〉 


平の小字一覧


平(へい) 野(の) 大久保(おおくぼ) 湊(みなと) サイクゴ 四ツ町(よつまち) 中瀬(なかせ) 長楽((ちょうらく) 上地(かみぢ) 野中(のなか) 松葉沖(まつはおき) カナクソ 下地(しもぢ) 寺下(てらした) 寺(てら) 隠居谷(いんきょだに) 隠源谷(いんげにだに) 大屋敷(おおやしき) スカノ谷(すかのたに) 天神(てんじん) 家ノ前(いえのまえ) 中坪(なかつぼ) 和田(わだ) 五領(ごりょう) ナガヲサ 井谷ノ上(いだにのうえ) 畑奥(はたおく) 牛谷(うしだに) 中ノ坪(なかのつぼ) 差尾谷(さしおだに) 藤谷(ふじだに) 野中(のなか) 小田(こだ) 助ケ下(すけがした) 七本松(しちほんまつ) 六社(ろくしゃ) 千丈ヶ野(せんじょうがの) 千城野(せんじょうの) 上野(うえの) 吉ノ口(よしのぐち) 休場(やすみば) 畑口(はたけぐち) 差ノ谷(さしのたに) 田内(たうち) 入山(いりやま) 尾ノベ(おのべ) 六社下(ろくしゃした)

平元井上(へい・もといのうえ) 家上(いえうえ) 下ジ(したじ) 丸山(まるやま) 尾てじ(おてじ) 宮ノ前(みやのまえ) 竹ノ尻(たけのしり) 家前(いえまえ) 石堂(いしどう) 長楽(ちょうらく) 長楽道下(ちょうらくみちした) 長楽道上(ちょうらくみちうえ) 野中(のなか) 松葉沖(まつばおき) 中坪(なかつぼ) ナカヲサ カナクソ 家ノ下(いえのした) 山崎(やまざき) 畑川尻(はたかわしり) 井谷ノ下(いだにのした) 井谷上(いだにうえ) 山ケ下(やまがした) 小溝谷(こみぞたに) 差尾(さしお) オバガサコ 芋地ケ谷(いもじがた) 切畑(きりはた) 中尾(なかお) 竹向(たけむかい) ホドフ かどのこふ 藤尾谷(ふじおだに) 大坂(おおさか) 休坂下(やすみざかした) ヲノベ スケ谷(すけだに) 大シコフ(たいしこふ) 田内(だうち) 入山(いりやま) 小田(こだ) 六社坂(ろくしゃざか) 千丈ケ野(せんじょうがの) 六社下(ろくしゃした) 六社(ろくしゃ) 六社成(ろくしゃなり) 大成(おおなる) 中瀬(なかせ) サイクコ 湊野(みなとの) ふとふ 休場下(やすみばした) 杉ケ谷(すぎがたに) 差ノ谷(さしのたに) カゴチヨ トビ当リ(とびあたり) コナハテ ヲナメ谷(をめなだに) 休場(やすみば) 大平(おおひら) カドノコブ 毛谷(けだに) 畑フトヲ(はたふとを) ム子キノヲ 岩尾(イワオ) カナヲ谷(かなをだに) 松尾(まつお) 両荒田(りょうあらた) ヲガマ 山ナシ(やまなし) フトヲ 穴フトヲ(あなふとを) 両湊(りょうみなと) 枯松(かれまつ) 左ノ休場(さのやすみば) カラタモ トイシガヲ 二本松(にほんまつ) 岩ブシ(いわぶし) 槍木尾(ひのきお)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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