丹後の地名

品田(ほんで)
京丹後市久美浜町品田


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京都府京丹後市久美浜町品田

京都府熊野郡久美浜町品田

京都府熊野郡海部村品田

品田の概要


《品田の概要》



川上谷川左岸の西の山麓に位置する、特に目に付くようなものはない。北は友重、南は新庄。古来潅漑用水に乏しく、各所に溜池が造られ、享保年間の真堂池、安政年間の廟賀池などがある。東方の芦原は当地より分離したものと伝え、芦原から当地の氏神熊野若宮神社への参拝路があるという。
品田は、鎌倉期~室町期に見える地名。「宮寺縁事抄」の天福元年5月日付八幡石清水宮寺申文に「当国御室御領河上品田地頭立河馬允経成」が寛喜元年に神人らを殺害したが、今にその問注が遂げられないという。「丹後国田数帳」には「御品田四十六町三段三百三十八歩内」と見える。
品田村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同年の旱魃に総代小堀芳右衛門は山にトンネルを掘って廟賀谷の水を真堂に移すことを計画、同13年着工、同24年竣工したという。同22年海部村の大字となる。
品田は、明治22年~現在の大字名。はじめ海部村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

京都府綾部市に位田(いでん)という所があるが、それと似た意味、品は位の上位者のみのもの。古代律令制の官位で品階を有する親王・内親王と五位以上の位階保有者に与えられた田地のこと。女子には男子の3分の2が支給されるが、妃・夫人・嬪の場合は男子と同じという。品田、位田は品・位を有している者への支給で、品・位階を得ればただちに支給され、原則として終身のもの。その班田農民の年貢が田地所有者の収入になる。


《品田の人口・世帯数》 147・52


《主な社寺など》

権現山古墳
権現山古墳遺蹟
西明寺経塚

熊野若宮三神社
熊野若宮三神社(品田)
府道からまっすぐ参道が続き、その先の山の上に鎮座している。 兜山頂上の熊野神社の若宮と思われるが、熊野郡式内社・熊野神社に比定する説もある。また三神社というのだから、熊野本宮・速玉・那智の紀伊の熊野神社であろうと思われる。天熊人は『日本書紀』の「一書」に見られるが、死んだ保食神から穀物を持ち帰ったという神である、『先代旧事本紀』にも見られる。何かよくわからない神社である。
『京都府熊野郡誌』
 〈 熊野若宮三神社 式内村社 海部村大字品田小字大宮鎮座
祭神=天熊人。
由緒=式内社にして其の創立最も古く、人皇第十代崇神天皇の代、道主命の勧請に係れりといひ伝ふ。祭神に関しては大日本史神祇志神祇志料共に素盞鳴尊と為す、民間に於ける伝説には、諾冊二神と素盞鳴神を奉祀せりといへり。三代実録貞観十年九月二十一日辛亥授丹後国正六位上熊野神従五位下とあり、往古より尊崇厚き神社にして、現今禰宜屋敷御殿屋敷等の地名を存し、社殿随身等より諸般の状態を考ふるに、其の大社たりし事を知らる。大正二年諸般の施設完備を告げ幣帛神饌料供進神社に指定せらるるに至れり。
字芦原は品田より分離せる処なれば、氏神の参拝する道路ありて水神畷ていふ。道路中鳥居崎といへる小字を存し、元鳥居の建設せられし地なりといひ伝ふ。
当社の祭日は元九日なりしが近年十四日に変更せり。
氏子戸数=五十七戸。
境内神社。白山神社。祭神=橡樟日命。
     八坂神社。祭神=須佐之男命。
     八幡神社。祭神=応神天皇。  〉 
参道脇の稜線上に「大宮谷古墳」がある。
大宮谷古墳(品田)

村の南はずれの六地蔵は、雨乞の行事で知られる。花崗岩製、光背舟底形、肉彫の立像で、高さは光背を合わせて二尺一寸である。像の両側に銘が刻まれ、右に「貞和二年七□□□」、左に「□□□□近弘」とあるそうである。


《交通》


《産業》


品田の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 熊野郡
一 御品田  四十六町三段三百卅八歩内
  廿三町一段三百五十二歩     式部少輔殿
         此内六丁二反二百卅五歩永不
  十一町五段三百五十三歩     氏家遠江
  十一町五段三百五十三歩     斎藤弥次良  〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎品田村(坂井村の南)
【熊野若宮三社大明神】(祭九月九日)  〉 


『古代への旅-丹後』
 〈 権現山古墳 京都府久美浜町品田
湯舟坂古墳から川上谷川を下流へ少し行ったところに権現山古墳がある。
この古墳は一九八一年から三次に渡る発掘調査の結果、前述のように丹後では特異な形態を持つ一辺四五~五0mの方形で、方墳の四隅に一辺一二~一三mの方墳が付加された面取りがされており、八角形の様相をしている。出雲地方によく見られる四隅突出墳のような形態であり、埋葬主体のありかたや鼓形土器を枕に使用している点などから、山陰地方や但馬地方との関連が強く感じられ、被葬者についても川上谷川右岸の他の古墳の被葬者と違い在地の豪族ではないかといわれている。  〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 権現山古墳遺跡 番号二一三
字品田小字ユリに所在する。古墳は川上谷川中流域左岸の丘陵上に立地する。墳丘は長辺五〇メートル、短辺四五メートルの長方形の方墳で、高さは七メートルと推定される。墳丘規模では丹後最大の方墳である。墳頂部には二段墓墳に竪穴式石榔を納める主体部を一基と、木棺を直葬した主体部七基、弥生時代後期前半の墓墳一基を検出した。また埋経遺構(経塚)も検出したが、これは中世編で再述する。中心主体部のGM〇一は二段墓墳に竪穴式石榔を構築し、墓壙底面にわずかに礫を撒く。ここに割竹形木棺を納めていた。しかし内部から全く副葬品は発見されなかった。GM〇一には土器棺GM〇八が随伴していた。こちらは山陰系の内傾する口縁をもつ複合口縁壷二点からなる。GM〇二は長辺六メートル、短辺二・八メートルの長方形を呈する二段墓墳の主体部である。割竹形木棺を納め、二ヵ所に土器転用枕を置いていた。従って複数埋葬であると推定される。北側の土器転用枕の周辺で、水晶製勾玉、碧玉製管玉、ガラス管玉が出土した。このほかGM〇三・〇五でも土器転用枕が使用されている。古墳の時期は、出土した土師器から古墳時代前期後半と考えられる。なお、この古墳は調査時点で四隅突出型墳丘墓の可能性が唱えられたこともあったが、現時点では丹後に類例がなく、四隅の形は十字形に伸びる尾根の頂部を占めるという立地によるものと判断される。
墳頂部から南東部斜面にさしかかる地点にGM一二と名付けられた墓壙が存在する。これは弥生後期前半の墓壙で、把手付短頸壺と甕が供献されていた。  〉 

『京丹後市の考古資料』(図も)
 〈 権現山古墳・権現山遺跡(ごんげんやまこふん・ごんげんやまいせき)
所在地:久美浜町品川小字ユリ
立地:久美谷川中流域左岸丘陵上
時代:弥生時代後期、古墳時代前期、鎌倉時代
調査年次:1981~1983年(久美浜町教委)
現状:消滅
遺物保管:市教委
文献:BO26
遺構
権現山古墳は、地山整形による50×45m、高さ6~7mを測る古墳時代前期の方墳である。墳頂部は一辺20mを測り、第1埋葬施設を中心に計8~9の埋葬施設が築かれている。構成は、竪穴式石室1(第1埋葬施設)、木棺6、土器棺1(第8埋葬施設)、不明1(第9埋葬施設)である。第1埋葬施設の竪穴式有室は、簡素な構造のもので、長さ4.1mを測る割竹形木棺を埋納していた。出土遺物はない。第2埋葬施設では、全長5.4mを測る組み合わせ木棺の内部から鼓形器台2点と高杯1点が枕として利用された状況で出土した。被葬者は2~3人と推定される。水晶製勾玉1、緑色凝灰岩製管玉31、ガラス小玉2が出土している。第3埋葬施設では、全長4.7mほどの組み合わせ式木棺の中から枕として利用されたと考えられる鼓形器台が出土していいる。第5埋葬施設は、全長2.5mの組み合わせ木棺を納めたもので、両小口の内側から、それぞれ鼓形器台と壺上半部が出土しており、2体の埋葬が考えられる。壺の下からは、平縁の銅鏡の小片が出土した。その他の木棺墓からは遺物は出土しておらず時期は不詳である。
墳頂部東端から弥生時代後期の木棺墓が検出された。棺の上から破砕後供献された甕と壺が出土した。
 墳頂平坦面からは、このほかに経塚状の遺構が5基検出されている。5号経塚を除くといずれも直径
1~2m、深さ〇.2~1.〇mを測る円形の土坑(主土坑)とその壁面から掘り込まれたと考えられる経筒の埋納土坑(石室)からなる。報告書では前者の空間が大きいこと、副葬品と考えられるものの存在から古墓である可能性を指摘し、後者をのみを経塚として扱っている。
最も遺存状態の良い3号経塚は埋納土坑内に小石室を築き、土師製の筒形容器を納めていた。主土坑内には土師小皿3、短刀2振りおよび鉄鏃2が出土した。石室内からは土師製筒形容器とその内部に納められた土師小皿1が出土した。なお、1~3号経塚の主土坑内からは、太刀、短刀、銅銭.鉄鏃、土師器小皿が、石室内からは、士師製経筒、鉄製経筒、銅鏡、土師小皿などが出上している。1号経塚では、銅鏡は土師製筒形容器内から、2号経塚では鉄製経筒の外から出土している。
遣物
古墳出土のものとして、弥生土器、土師器、銅鏡片、玉類がある。水品勾玉の先端部が大きく欠いている。経塚出土のものには、土師製、鉄製の経筒、銅鏡、太刀、短刀、銅銭、鉄鏃、土師小皿などがある。
意義
権現山古墳は、古墳時代前期後半に営まれた丹後地域最大級の方墳である。調査当時、四隅突出形墳丘墓の可能性が指摘されたが、四隅突出形墳丘墓の全国的な動向が判明した現在、その可能性は低い。中心埋葬は竪穴式石室とほかの埋葬施設と区別化されているものの、副葬品はなく、優位性が低い。地山整形で多埋葬であることは、弥生時代後期の伝統が強く残っていることを示すのか。
熊野郡は嘉応2(1170)の年銘の銅製経筒が出土した山の神1号経塚をはじめ、丹後地域の中でも特に経塚の多い地域である。品田地区にも、銅製経筒の川土した西明寺経塚がある。権現山経塚は、調査で明らかになった経塚として、大型で、埋納方法のわかる事例として貴重である。学史上、主土坑の規模、遺物の在り方などから、墳墓遺構の可能性が指摘されたことは重要。4号経塚が最も古く12世紀初頭前後の年代観が写えられ、12世紀末まで順次営まれている。  〉 



『久美浜町史・史料編』
 〈 権現山遺跡 遺跡番号二一四
字品田小字ユリに所在する。
遺跡は、品田集落の西側に接する丘陵尾根上に立地する。
発掘調査の結果、権現山古墳墳頂部から埋経遺構一基(GM一一)、埋経遺構と考えられる遺構三基(GM一〇、一四、一五)、中世墳墓と考えられる遺構二基(GMO九、一三)、不明遺構二基(GM一六、一七)が検出された。
GM一一は、墳頂部中央よりやや北東側に立地し、木棺直葬墓GMO二に重なるような状態で検出された。遺構は、GM〇二の北辺を利用して高さ〇・三メートル、幅〇・三メートル、奥行き〇・四メートルを測る横穴を設け、その内部に板石を用いて小石室を築く。天井石はなく、床面に板石が一枚置かれている。小石室の内部からは、鉄製経筒一口・薄双鶴鏡一面・鉄刀一振が出土した。鉄製経筒は奥壁に接して石室のやや東側に、銅鏡は鉄製経筒の西側に接し、鏡面を石室開口部に向けて埋納されていた。鉄刀は鉄製経筒と銅鏡の間に立てられていた。また、開口部を封じる際に、切先を石室に向けた鉄刀一振が納められ、周囲に土師器坏四点と銅銭四枚が置かれていた。
GM九・一〇は、墳頂部中央よりやや北側に立地し、切り合い関係にある。GM一〇は、長軸〇・七メートル、短軸〇・五メートルを測る小石室を有し、石室内には二点の土師製筒形容器が安置される。南隅に位置する筒形容器内からは山吹双鳥鏡一面が出土した。GMO九は、直径一・ニメートル、深さ〇・三メートルの不整形円土坑であり、内部から銅銭九枚と土師器皿四点が出土した。
GM一五は、GM一一の北西に立地する。直径二・二メートル、深さ〇・八メートルを測る正円形土坑を穿ち、土坑内壁から横穴状に掘り、小石室を構築する。小石室は、高さ三五センチ、幅一七センチ、奥行二五センチを測り、開口部を板石によって閉塞する。石室内部には土師製筒形容器一点が安置され、筒形容器内からは土師器皿一点が出土した。正円形土坑底部では、土師器皿三点、鉄鏃一点、鉄刀二振が検出され、石室入口部分からは雁股式鉄鏃一点が出土した。
遺構群は、GM一一→一三・一四→九・一〇の順に造営されたと考えられるが、遺構相互間に時期差は認められない。当遺跡は、出土遺物より平安時代末~鎌倉時代前期に造営されたものと考えられる。GM一一を除き、確実に埋経遺跡であると断定はできないが、土師製筒形容器を有する遺構はその可能性が高い。また、切り合い関係をもつ遺構が三組確認できるが、これらの遺構を墳墓とそれに伴う副葬経と理解することもできる。  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 西明寺経塚 遺跡番号一二四
字品田小字西明寺に所在する。
遺跡は、品田集落西方の丘陵尾根筋上に立地する。大正一五年、地元住民によって発見された。二点の外容器が出土しており、一方の容器内からは経筒一口が、もう一方の容器内からは銅鏡二面が検出された。発見当時、遺構の上には重さ四〇キロ近い自然石が五・六個のせてあり、その直下から外容器が出土した。銅鏡を納めていた筒形容器は、破損のため、遺存していない。現存する外容器は、発見当初から筒身部のみ確認されており、蓋部は存在しない。筒身部は、口径約一四・〇センチ、高さ約二六・一センチを測る、土師質の筒形容器である。形状は、底部からほぼ垂直に立上がり、口縁部は内彎する。粘土紐巻き上げによって成形される。
経筒は、銅鋳製であり、筒身部と蓋部からなる。筒身部は、口径約七・七センチ、高さ約一九・八センチを測る。底部は折り返しにより底板をはめ込んでいる。内部には紙片が付着する。蓋部は、口径約八・一センチ、高さ約二・〇センチを測る。一段からなる盛蓋であり、天井部中央に宝珠紐がつく。
銅鏡は、二面とも和鏡であり、一方が径約一一・四センチ、縁高約一センチ、もう一方は径約九・八センチ、縁高約〇・五センチを測る。図像は、二面とも同じものと考えられ、亀紐をめぐって羽を広げた四羽の鶴が配されている。
また、水晶片二点が伴出している。
時期の特定は難しいが、鎌倉時代前期ごろの埋経遺跡であると考えられる。  〉 




品田の小字一覧


品田(ほんで)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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