丹後の地名

二俣(ふたまた)
京丹後市久美浜町二俣


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京都府京丹後市久美浜町二俣

京都府熊野郡久美浜町二俣

京都府熊野郡佐濃村二俣

京都府熊野郡上佐濃村二俣

二俣の概要


《二俣の概要》



尉ケ畑から少し下った所で、佐濃谷川が支流二俣川と二俣に別れる所にある。二俣川をさかのぼれば奥山の集落があり 、その奥に「奥山自然たんけん公園」がある。
奥山は二俣の端郷で、昔は18戸あったと伝える。カンナ流しやタタラの跡がある、「奥の鍛冶」にはたたらの跡が残る。伝説の地に「鉈ケ淵」があり、「奥山千軒・大路千軒」と語り伝えられる。

二俣村は、江戸期~明治22年の村。佐野村の枝郷。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上佐濃村の大字となった。
二俣は、明治22年~現在の大字名。はじめ上佐濃村、昭和26年佐濃村、同33年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《二俣の人口・世帯数》 71・28
《奥山の人口・世帯数》 11・5


《主な社寺など》

奥山自然たんけん公園
案内図
奥山自然たんけん公園
季節が早くまだダ~レもいなかった。あちこちにバンガローなどが見えた。ここに来る前に橋があって「大呂口橋」とあったが、公園のあたりが大呂のように思われる。裏山を越えれば峰山の鱒留で、そこもまた大路である。大炉のことだろうか。
奥山自然たんけん公園

たたら跡
公園の奥のほうである、大きな花崗岩ゴロゴロの地に杉(檜)が植林されている。しばらく進むと、この案内。
たたら跡



どこにあるんじゃいな、杉の落ち葉で覆われていてわからん。あとはカンで進むより仕方がない。この看板の後が10メートルばかり登って行くと
これだな。50㎝ばかりの穴がある、石組されている穴、これが「小舟」のよう。少し高くなった炉心を囲むように3箇所にこうした穴のようなものがある。
たたら跡(奥山)
原子炉と同じで溶けた鉄が水と接触すれば水蒸気爆発を起こしてとても危険である、それを防ぐ目的があったよう。
炉は建屋に覆われていたのでないかと思うが、杉の枝葉でわからない。あちこち見渡すと溝で囲まれた場所があって、ここだけでなく炉はもっとあったのでないかと思われた。いつの時代のものか土器でもでればわかるだろうか。比較的新しい製鉄炉である、もっと古いものが知りたいが特には調査はされていないよう。
「案内板はちゃんとありましたか」「こけとりましたね」「市教委もかたらんとほったらかしにしてますんでね」などと言う話であったが、どこの教育委員会も似たようなことで、ロクでもないモンにはごっついことカネかける割には、鉄なんかはまったくほったらかしにする。
案内柱
こうなると困る。どう行けばいいのやら途方に暮れる。ポイと投げ捨てただけのものなのか、それとも多少なりとも正しい方向を示しているのか、すなわちこの柱の頭の指す方向へ行けばいいのか、あとはカンで進む。
資本だけでなく教育と政治もまた国をほろぼしていくよう、しかし久美浜はまだしもマシかも知れない。

大森神社
大森神社(奥山)

公園の中央にある。この名の神社は舞鶴にもあって、私が神社に興味を持ち始めた神社なのだが、舞鶴あたりでは大きな森に囲まれた境内があるからとか、言っているが、それしか言う人もないが、しかしこうした名の神社は一般に金属系の神社のようである。舞鶴の大森神社は式内社の弥加宜神社で、天御影命=天目一箇神で、一つ目のタタラ師神を祀っている。当社も間違いなく鉄の神社で、祭神は天目一箇神であろう。

『京都府熊野郡誌』
 〈 無格社。祭神=大山祗命。
由緒=不詳。崇敬者人数=五十六人。
境内社。稲荷神社。祭神=保食廼命。
  〉 

賀子(かし)神社
賀子神社(二俣)
二俣から奥山へ行く道の途中道淵にある。小字順出(じゅんで)に鎮座する賀子社は、安達越後なる者が筑前香椎宮より勧請したと伝えている。越後の住居跡といわれる越後谷、子の六郎の屋敷跡といわれる六郎屋敷の地名が残る。賀子は慶長年中香椎を誤記したものといわれているが、詳細は不明という。
賀子神社(二俣)
立派な神社で史家ではなく野生の鹿がヤシロのモリをしていた。
香椎はどうだかわからないが、近くの比治や久次系の転訛かと考えていたが、どうやら鍜冶神社のことでなかろうかと思われる。これは農業の富ではなかろう。

『京都府熊野郡誌』
 〈 無格社。祭神=仲哀天皇。
由緒=往古安達越後といへる者筑前香椎宮より勧請せりと言ひ伝ふ。今越後谷といへるは安達越後の住居の跡にて、其の子に六郎といへる者あり今六郎屋敷といふ。慶長年中村役人香椎を賀子に書誤れりと古老の申伝あり。
氏子戸数=五十六戸。
境内神社。稲荷神社。祭神=保食廼命。
     山神社。祭神=大山祗命。  〉 

 中谷の小字道心(どうしん)にあった道心庵は、寛文4年(1664)の七ヵ村庄屋謀議の場所であったと伝えられる。
『久美浜町誌』
 〈 寛文の謀議
七人の庄屋
  前掲の「丸山野村家文書」のなかに、寛文の謀議についての記事がある。
宮津御公儀、京極丹後守様、理非の弁別なく、慈悲心に疎く、ただ目前の利を以て御年貢・御掛り金などの御取立ての厳しいこと、畜頭の食を争う如くであった。下民はその邪政に苦しみ、上を恨む心を禁じ難く、そこに集まり、ここに寄り合い、その困難を話し合ったが、俗にいう“赤子と地頭には勝ち難し”のたとえのように、いかんともなし難く日を送っていた。しかしものには限りあり、人の心にもまた限りがあるもので、ついに堪忍の緒が切れた。
寛文四年(一六六四)三月、当郡の庄屋並びに百姓代など、二俣に会合し、種々談合中、竹野郡小浜村の喜斉坊という者、乞食体に身を偽して同場の様子をさぐり、ただちに宮津表へ走り『熊野郡の庄屋ども二俣村に集まり、強訴の談合をしています』と訴えた。
(丹後守は)かねて悪質短慮の性質だったから事実か否かも正さず、直ちに捕り手の役人二、三十人ばかりさし向け、主な庄屋七人を召し捕り、縄付きで引き立てた。大内峠まで来ると、そこまで役人が出張して待っており、その地において打ち首とし、七日間”さらし首”にした。いかなる理由によるものか人々は訳がわからなかった。いかに理非をわきまえない役人とはいえ、事の次第を正さず直ちに断罪にするなどは、自分の意志ではなかったであろう。とにかく圧政もまた甚しいと言わなければならない。聞く人がその非道を思わない者はなかった。わが祖助兵衛こと法号「円諧院宗悦日悟」は、忍ぶにたえず、下男を引きつれ大内峠に馳けつけ、昼間見定めおいて、夜に入って父吉左ヱ門の首を持ち帰り村陰にこれを葬った。
しかし七人の者は無念の心去り難いのか、或村では不思議なことがあったという。そこで慈悲心ある有志の者はこれを神と崇め、七人神と称えて村々に祀った。当村にては「先代明神」と称し、永代九月二十三日を祭日と定め、半日休んでその恩を謝した。そのことがあって後、丹後守の悪事が露見し、江戸御公儀より御取調の上御知行をことごとく御取上げになり、その上丹後守殿は召し捕りとなり、寛文四年七月湊宮村において関東より御役人が御出張になり、御役所が設けられた(この役所が代官所の始まりである。)。ついで寛文五年二月丹後守は流罪になったことが達せられると、農作業中といえども仕事を忘れ、鍬は打ち込みながら抜取る暇もなしに馳せ帰り、誰が命ずるともなく三日間ばかりも祝言休みを行ったという(丸山「野村(大屋)家文書」より)。

「宮津旧記」によると寛文六年五月三日江戸の御公儀より宮津の領主京極丹後守高広に対して領地没収の沙汰があった。
 その理由は二つある。
  ① 家督相続以来親不孝に加え兄弟不和であること。
  ② 領内百姓への政治は邪道が多く領内の者難儀いたしておること。
 丹後守高広は領地を没収され、南部大膳太夫にお預け、住民の運動は功を奏したのである。
 「野村家文書」には京極丹後守である高知・高広・高国の混同や年号に不正確さはあるが、当時語り伝えられてきた話の筋はいちおう納得できるものである。
 七人の庄屋については辻源太郎氏の調査がある。氏の調査によれば、七人のうち四人まではほぼ明らかであり、それぞれ荒神として祀っているのが特徴であるという。
 一 丸山村庄屋「野村吉左ヱ門」
 一 二俣村庄屋「岡田藤右ヱ門」
 一 郷村の庄屋「山形   某」
 一 長野村庄屋「松本   某」
七人の庄屋の首はそれぞれの血縁者が盗み帰って小祠を建ててひそかに祀ったという。
 二俣-岡田家の荒神として祀る
 丸山-野村家を中心として「地主荒神」として祀る。
 郷--山形家で屋敷の角に小祠を建て荒神社として祀る。
 長野-松本家で屋敷内に小祠を建て荒神社として祀っていた(今は氏神へ合祀)。  〉 


《交通》


《産業》


二俣の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎二俣村(小桑村の次)
【八幡宮】(祭八月十五日)  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎奥山村(二俣村の次)
【大森大明神】(祭九月十六日)  〉 


『京都の伝説・丹後を歩く』
 〈 奥山の蛇ヶ淵  伝承地 熊野郡久美浜町奥山
 奥山集落からさらに一キロばかり奥に、鉈ヶ淵という、とても深い淵がある。この淵はいつでも青黒く淀んで渦を巻き、周囲には老木や竹が生い茂って、見るからに不気味な淵であった。
 ある日、村人がただ一人、懸命に大鉈をふるって竹を切っていた。ふとしたはずみに、あやまって手にした大鉈を深い淵に落としたので、大変悲しく思い、数本の竹を継ぎ合わせて引き上げようとしたが、底なしの淵に落ちた大鉈は、再びこの人の手には返らなかった。
 その後数日を経て、その淵には、世にも珍しい大きな緋鯉が悠々と泳ぎ回っている。これを見た村人たちは、それを釣ろうとして、我先にと釣り竿を垂れた。やがて、そのなかの一人は、みごとに大緋鯉を釣り上げた。喜んで近づいたところ、緋鯉は大きく跳ね上がると同時に大鉈と変わり、その釣り人の頭を二つに割って、たちまちまた深い渦巻きの底に沈んでしまった。
 それ以来、この淵を「鉈ヶ淵」と呼び、大緋鯉の主の祟りを恐れて、だれ一人近づく者もいなくなったという。   (『熊野のたび』)
伝承探訪
久美浜町の東部を流れる佐濃谷川の支流、奥山川は産鉄の川である。かき混ぜてみると錆の黒い濁りを生じ、川砂が砂鉄を含んでいることを同行の友人山本健一氏が教えてくれる。
 奥山の集落から四、五百メートル、川に沿って谷を上ったところにはタタラ(鉄精練所)の跡があり、奥の鍜冶屋と呼ばれている。そこには今も窯などに使ったとみられる大きな石が数多く山の斜面に残り、またカナクソ(鉱滓)も付近に散らばって残る。
 川の水を流して砂鉄を採ったカンナ流し(砂鉄のまじった砂を流して選別する装置)の跡もあちこちにある。そこからおよそ三百メートル下流の鉈ヶ淵の上にもその石組みがあって、水を落としていたものとみられる。このあたりにあった中の鍜冶屋と呼ばれるタタラに用いられたものであろう。
 これらの地には、石仏や墓などもたくさん残っていたといい、この産鉄の村は奥の千軒と呼ばれて栄えていたと伝えられている。
 鉈ヶ淵はこの川にあるただ一つの深淵だという。その直径、十メートル近くはあろう。滝となって流れ落ちる水が切り立った岩を削り、淵を作る。その水は深く碧い。
 伝説ではこの淵に鉈を落としたという。鉈や鎌、ちょうななどを淵に落とし、それが淵の呼び名とされるようになったり、主となったりしたとするものは各地にある。ここでは、その鉈が鯉に化したとする。淵の上から見ると鉈が見え、下に下りてみると鯉であったとも伝え、それらの形の類近性が思われる。むろん、それだけではなく、川の主を鯉とする伝承が重なっている。
 しかし、鉈ヶ淵の伝説で印象深いのは釣り針にかかった鯉がはね上がって再び大鉈に化し、釣り人の頭を割ったとするところである。そこには、その淵への畏怖ばかりでなく、淵にカンナを流すことに対する水神の怒りへの怖れが重層し、刻印されているのだ。  〉 

二俣川
この淵がどこなのかわからない。急流の渓流だからもうとうの昔に消えたのかも知れない。写真は「大呂口橋」から奥山川を見たもの。このあたりではチョロチョロと花崗岩の岩の間を流れていて、大きな鯉が棲める川ではない。




二俣の小字一覧


二俣(ふたまた)
下リ松 モリ ヤス谷 田中 上ノ山 隠谷 広野 大田 順出 ヤクシ田 シヨウブ谷 中畑川原 三反田 中畑 小三郎口 掛橋 コヤ田 六郎 小嶋 北ノ段 丈野 丈野武平衛屋敷 越後谷 大モリ 身舟 大畑 上ノ段 中谷 山本 ノボリ立 一ノ谷 下モ後越 深田 アシ田 東小山 西小山 沓谷 竹ノ下 焼峯 川原田 彦六 マガリ ハカタ 石本 五反田 大畑口 汁谷口 コヤ田甚五郎屋敷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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