丹後の地名

一分(いちぶ)
京丹後市久美浜町一分


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京都府京丹後市久美浜町一分

京都府熊野郡久美浜町一分

京都府熊野郡田村一分

一分の概要


《一分の概要》



佐濃谷川中流部西岸の山麓に位置する。北は大井、南は女布に通じる。

戦国期の「丹後御檀家帳」に「一 一ふんかた 上野治郎太輔殿 おはつをの外毎年かぐらせん壱貫弐百文ヅツ御渡候」と見える。
同帳より若干下った時期の状況を示すと思われる「一色軍記」に「一分城 氏家大和守 一色家代々の一族にて佐野庄の陣代なり」とある。地内には本丸と称する地があり、同地に近接して大井城址がある。
近世の一分村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年幕府領、宝暦13年但馬出石藩領、天保6年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年田村の大字。
一分は、明治22年~現在の大字名。はじめ田村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《一分の人口・世帯数》 189・49


《主な社寺など》

南谷古墳群

持田神社
持田神社(一分)

『京都府熊野郡誌』
 〈 持田神社 村社 田村大字壹分小字椎ノ坪鎮座
祭神=倉稲魂命。
由緒=当社の創立年代等徴証すべきものなければ、正確に知るを得ざれど、往古より氏神として尊崇し来れる処なり、神輿の渡御三番双の式次第現今尚行はるる処にして、四百年前屋根換の棟札を存せりが、現在の社殿は天保十一年の再建に係れるなり。
氏子戸数=六十戸。
境内神社。稲荷神社。祭神 倉稲魂命。  〉 


高野山真言宗極楽山泰平寺
泰平寺(一分)

『京都府熊野郡誌』
 〈 極楽山 泰平寺 田村大字壹分小字新福寺 真言宗高野派
本尊=観音菩薩。
由緒=当山の開基を恵光法院といふ、元応年中法印山城国東寺の辺に在院せしが、自から観音の尊像を奉じて山陰道を行脚し、湯島に留錫し丹後国壹分郷太平谷は弘法大師冷泉湧出御祈の霊地なりと聞き、壹分に来りて一宇を建立し観音の尊像を安置し、頽廃せる泰平寺を興して極楽山泰平寺と号し、九十七才にして文和三年遷化し給へりといふ。而して現在の本堂は、明治初年但馬城崎温泉中ノ坊中性院を移せるものにて、其の構造建築様式等亦見るべきものあり。
境外仏堂
 不動堂 本尊 不動尊  〉 
泰平寺仏像(一分)


一分城跡
『久美浜町史』
 〈 大井城址。大井城址は字大井壹分の境に聳てる山上にして、大井より大井城といひ、壹分よりし壹分城といふ。  〉 

大井城跡


《交通》


《産業》


一分の主な歴史記録


『丹後国御檀家帳』
 〈            一宮御一家也
 (一 分 方)    上野治部太輔殿
一一ふんかた
 おはつをの外、毎年かくらせん壱メ弐百文ツゝ御渡し候、  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎一分村
【持田大明神】(祭九月十四日)
【極楽山太平寺】(真言宗)
【観音寺】(村より十七、八町山に登る)
極楽山太平寺といふ真言宗の寺もと爰に在り、其寺跡なりとて観音堂あり。抑此観音堂大士は何人の作なりや詳ならず、されども霊験あらたかにして利生多かりしよし。
【氏家大和守城墟】
氏家大和守は一色氏の一族にて熊野郡の陣代なり、大江大和守為氏を祖とす。  〉 


『京都府熊野郡誌』
 〈 地形の変遷其の他に就いて考ふるに、字平田三分関の耕地佐野谷川沿岸一帯の地は、上古海面の入込みし処なりとは、口碑の伝ふる処にして、嶋、海中、中江等の地名を存し、当時の状態を推考するに好資料たり、且つ上代松桧等森林到る処に鬱蒼たりしが、大地変の為め埋没せりとは一般に伝ふる処なり、されば文化文政頃より嘉永安政年代の期間に於ては、平田三分一部の者は冬季より早春にかけ、根木堀と唱へ多数の埋木を採取するを副業とし、但馬方面に移出するを常例とせりといふ、されば近年迄埋木を以て製作せる桶様の物多数存せりといふ。現今存せる善福寺の板戸は一枚板にして、埋木を以て製作せるものといふ。而も田園到る処埋木を存せりといへば、略上代森林の状態を想察らせるるなり。
…村落の異動に就いて按ずるに、各部落共多少の変遷あれど、一々文献に徴する事困難なれば、伝聞せる事項の概要を記述するにとどめんとす。…字壹分も元壹分方といひし事は檀家帳に記載せる処の如し、而して小字も古字古一分又は大門といへる附近に散在し、一団は分れて大井に移住し、一団は現在の地に部落をなせり。  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 南谷古墳群 遺跡番号一八四・一八五・三〇六
字壱分小字南谷に所在する。
古墳群は佐野谷川中流域右岸の丘陵上に立地する。B-一号墳は直径一五メートルを測る円墳である。組合式箱形木棺を直葬した主体部を一基設ける。棺内には鉄鏃一〇点、刀子一点、鏡の模造品と見られる円形の小型銅製品一点を副葬していた。墓壙上から転落したと見られる位置から須恵器の有蓋高坏と広口壺が出土した。古墳の時期は須恵器から古墳時代後期前葉と判断される。
Bー三号墳は直径七メートルの円墳である。墳頂部には箱形木棺を直葬した主体部を一基設ける。棺内には勾玉・管玉・土玉・ガラス小玉からなる玉類と乳紋鏡、刀子が副葬されていた。墓壙上の両小口上に標石と考えられる直径五〇センチほどの巨礫が一点ずつ置かれている。古墳の時期は鏡と主体部の形態から古墳時代後期前葉と考えられる。  〉 




一分の小字一覧


一分(いちぶ)
石原 口坂井谷 坂井谷 反田尾 アカラベイ谷 アカラベイ 滝ノ谷 ベイ谷 ヘイ谷 坂井谷口 ヘイ谷口 坂井谷川原 坂井谷アゲシ ベシヨ谷 ヌマ谷 坂井谷道ノ奥 尾ツキ谷 岩谷口 坂井谷大ツベ口 坂井谷大ツ奥 南谷口 南谷 中石原 松ケ向 七ツ町 林ノ下 古川 林ノ下古川ノ上反田口 反田谷 反田谷小谷 反田本谷 庄谷 五ツ町 深田 広ク 駒畑宮ケ谷口 宮ケ谷 宮ケ谷口小谷 宮ケハナ 宮ケ谷口 宮ノ谷ジヤ谷 シウジヤク 三反長 シイノ坪 小垣 車田 ユリクゴ 十王堂 ユリ口 ユリ口道ノ上 ユリ谷 ユリ 小垣ノ上 岡 大門口 大門 田バタ 椎ノ坪 初穂田 フクレ柿 ヲクビ口 ヲクビ ヲクビ小谷 ヲジガ谷 ヲジガ谷小谷 ヲジガ谷東小谷 ヲジガ谷西小谷 ユノ木 ホフノ木 松山 松山口 朽ケ作口 朽ケ作 権右エ門 斉ノ坂 小神谷 大ナル谷 四町田 大ナル四町田上 大ナル四町田 大ナル 大ナルバヤ 大ナル谷バヤノ下 大ナルシイノ木尾口 大ナル口ヅラ キリノ木ベライ 山ガタ 山ガタホウジヨウデン 山ガタウシロ谷 山形中谷 山形クス堀谷 山形溝マタゲ 山形河守田 山形中江 ミノ口 前田 ヅヘ 三十八 中道 梅ノ木ケ谷 古壱分 堤谷 経塚 薬師下 丸山崎 新福寺 新福寺口 薬師ノ段 陽谷 ヲコリ落 ウバガ谷 石谷中谷 石谷 二ノ段 二ノ段下 円谷 円谷口 大谷 前田クゴ 大谷口 大谷丈小ノ谷 大谷中谷 大谷中ノ谷 大谷奥ノ谷 大谷尾 大谷畑 森 森ノ下 ギヤクシユ ベンシヨウ谷 ハツウテン ハツウテン 石谷小谷 ウルチサク 深田下 深田下丈町 駒畑 三段田縄手下 タモノ木カ下 タカナハテ 二ノ谷ノ下 ホフノ木谷 坂井谷川向 ヘイ谷通アゼノ下 ベシヨ谷口 ヲツキ谷 松ケ向堂ケ畑 林ノ下谷 林ノ下古川ノ下 反田谷口 フカ田 フ力田下 フカ田下丈町 三反町堂ノ上 掛ケ田 小ユリ口 小ユリ口ノ下 ヲカ ヲクビ谷 柿ケ作口 柿ケ作 井子クビ 四町川原田 大成四町田川原 大成バヤ向 四町田上 大ナルトリノ谷 車田道上 高縄手 薬師段 中道ノ上 梅木ケ谷口 ウバ谷 ヨフ谷 コダニ ホジヨデン 山形クツ 堀谷口 山形クツ堀谷 山形 山形後谷 カコ下 岡田 ヲジケ谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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