丹後の地名

旧・海部村(かいべ)
京丹後市久美浜町海部地区


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京都府京丹後市久美浜町海士・油池・坂井・友重・品田・橋爪・島・芦原・新谷・谷

京都府熊野郡久美浜町海士・油池・坂井・友重・品田・橋爪・島・芦原・新谷・谷

京都府熊野郡海部村

旧・海部村の概要




《旧・海部村の概要》
海部村は、明治22年~昭和30年の熊野郡の自治体。川上谷川中流域の海士・油池・坂井・友重・品田・橋爪・島・芦原・新谷・谷の10か村が合併して成立し、旧村名を継承した10大字を編成した。大正9年の戸数385・本籍人口2、366・現住人口2、104。
昭和30年久美浜町と合併して村名解消。村制時の10大字は久美浜町の大字に継承された。遺称としては海部小学校がある。
海部小学校(橋爪)
平25年度で閉校になった。

古代の熊野郡海部郷の郷域をほぼ踏襲した村であったと思われるのだが、その海部郷、しかしその読み方すらもわからない。
各地に「海部」の地名はあるが、訓注の残されているものを拾うと、
隠岐国海部郡 (武田本にアマ、吾妻鏡に阿摩郡)
隠岐国海部郡海部郷(刊本に安末)
紀伊国海部郡(刊本に阿末)
上総国市原郡海部郷(高本に安万、刊本に阿萬)
筑前国宗像郡海部郷(高本に阿末、刊本に安萬)
尾張国海部郡(高本にアマヘ、刊本に阿末)
信濃国小県郡海部郷(高本に阿末ヘ、刊本に安末無倍)

このように海部と書くがだいたいはアマと呼んでいたようであるし、当地「海部郷」域のセンターと考えられる現「海士」はアマと呼ぶので、「熊野郡海部郷」の海部もアマと読むのではなかろうか。その確率はずいぶんと高い、少なくとも50%以上あるように思われる。
そうだとすれば各地の海部は「部」ではなくなる、海部は海産物を貢納したり航海に従事した部民とされる、アマベはそうだったのかも知れないが、アマはそれとは違う。
大和朝廷に古くから服属したなどとして何かそれをホコリにしたりするムキも見られるが、それは皇国史観の妄想なのかも知れない。アメリカに服属して独立も怪しく全世界から情けないヤツらだとバカにされているのに、それを何かホコリに思ったりする愚かな現代日本人の己が姿の過去への投影像なのかも知れない。歴史とは鏡であって、のぞき見た者の姿がそこに見える、それ以外は写らない、時代を超越した客観的科学的歴史的真実などが見えたりはしない。
丹後国田数帳に「海士郷 四十四町六段百九十八歩 佐野四郎」とある。佐野四郎の名は田数帳の「元重保」「佐野郷」にもみえ、有力な土豪であった。また丹後国御檀家帳に「ゆうけ 大なる城主也 佐野殿」とあって両者の関係が考えられるが、神服連海部直との関係は不明である。


旧・海部村の主な歴史記録


『京都府熊野郡誌』
 〈 海部村は…熊野郡の中央に位し、坂井、友重、品田、新谷、蘆原、谷島、橋爪、海士、油池の十大字より成り、…

海部村は往古海部郷にして、和名抄海部郷とあり、田数帳には海士郷と誌し、檀家帳には川かみのあま川かみにい谷などとありて、現今の川上村海部村は古来総て川上谷といひし事を知るに足る。さて現今大字品田の地名にアマサカイ(俗にアマサケ転じてアマガ嶽と唱ふ。)と唱ふる処ありて往古海部郷川上郷の区割を知るの資料たり。吉田氏の大日本地名辞書に曰く、固より沿岸の地にあらず而も海部といふは蓋し余部の仮借のみ、久美郷の剰戸なるべし文字に拘はるべきにあらず。と言へるは只現在の地形のみに囚はれたる憶説にはあらざるか、抑も海部村は上古海面の耕地深く入り込みし事は諸般の状勢に照し疑ひの余地なき処にして、大字に於ても海士といひ芦原、島の如きは、皆其の古の地形を語れるものにて、小字に於ても、ブレウジマ、フナツ、カキマチ、ヒメジマ、出島等皆沿海に因める地名たるは勿論、口碑に伝ふる処も亦沿海の地にして、現今地中深く発掘せば往々貝類海藻の現はるるは珍らしからずといへり。されば海部の名の起因する処は剰戸にあらずして、沿岸より起れる名称たる事も、略ぼ推定するに難からざる也。現今平地をなる多くの田圃は上古の海面にして、爾来多くの年月と共に漸次陸地をなし、新田の経営と共に漸く現今の地形を成すに至る。大字芦原は葦の繁茂せるるより命名せる処にして、現今中市場、下モ地、岡地の三ケ所に分れ、中市場は古名あし野といひ、東西三拾五間南北六拾間にして、小丘をなせし事は大字芦原の文書にも記せる処なり。殊に大字海士は上代神服連海部直館跡の存せし処にして海部直は孝霊天皇の代夙く地名をわが名とせらるるものの如く、而して丹波但馬の国造にして、此の地方の統治者たりし也。且海士には海部族の祖先を祀れる矢田神社あり、海部族の繁栄せる史実を物語れるものにて、海部の名称の起因せる処明なると共に、史的研究上興味の津々たるを覚ゆ。此の地方は交通不便にして、学者先輩も実地の踏査をなさず、単に在来の著書のみを基として立論せらるるは、洵に遺憾の極にして且つ誤を後世に遺すものといふべし。村落にては字島は友重より、字芦原は品田より、字新谷は新庄より何れも分離移転せるものなりとは古来一般に唱へらるる処なるも、文書の徴すべきものなく、正確に断定するは困難なれど、移転せりとい各部落には、大家と唱ふね旧家なく、且つ氏神を一つにし且つ諸般の習慣等により考察するに、蓋し信憑するに足らん乎。  〉 




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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