丹後の地名

小浜(こはま)
京丹後市網野町小浜


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京都府京丹後市網野町小浜

京都府竹野郡網野町小浜

京都府竹野郡浅茂川村小浜



小浜の概要


《小浜の概要》



離湖と日本海に挟まれたところで、新樋越川↓が両者を結んでいる。(旧樋越川・間歩は今も残っていて、上の地図で言えば、「178」と国道が表示されているが、その上の小さな川で、山の下を刳りぬき海に続いていた、海側にも小さく見える川がそれである。)
新樋越川(小浜)
新樋越川↑ 旧樋越川↓
樋越川
伝承によれば、小浜村は小字城山に、わずか3、4戸が農業・塩焼を営んでいたが、永正年間下岡村から8、9戸が移住してようやく村落の形態を整えたという。今の集落は近世はじめのころにそうして再開発されたと伝わるが、当地は縄文から弥生、古墳時代の遺跡もたくさんある。
小浜村は、江戸期~明治22年の村名。慶長検地郷村帳に「下岡村之内浅茂川村・小浜村」とみえ、はじめ下岡村の枝郷、のち分村独立。当初宮津藩領、享保2年より幕府領、宝暦9年再び宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年浅茂川村の大字となる。
小浜は、明治22年~現在の大字名。はじめ浅茂川村、明治37年からは網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《小浜の人口・世帯数》 778・272



《主な社寺など》

宮ノ下遺跡

新樋越川河底遣跡

岡城山遺跡

離湖古墳
離湖古墳の石棺
長持形石棺が出土している。埴輪が立てられていた。
復元図(『網野町誌』より)
復元図
長持形石棺は王者の石棺と呼ばれる。京都府下には5例しか知られておらず、そのうち4例は丹後にある。
離湖古墳群の全景
離山の南側の一番高い所に造られている。右が2主体、左が1号主体、建屋はそこから出土した長持形石棺を保管した小屋。
離湖1号墳の石棺(底石)
現地の案内板↓
離湖古墳群案内板

離湖古墳
 離湖古墳は平成二年の発掘調査により発見された古墳で規模は南北四三m、東西三四m、高さ六・四mの不整形な古墳です。墳丘の裾には、朝顔形埴輪、円筒埴輪を置いています。墳頂部は二つの埋葬があり、長持形石棺と箱形木棺を直接埋葬しています。
 第一主体部(長持形石棺)は盗堀にあったため石棺の底石と副葬品の一部が残っているだけでした。長持形石棺の底石は長辺二・四m、短辺一・一一m(西)、〇・九三m(東)、厚さ十五~十六cmて縄掛突起含む長さは二・七五mです。底石には側辺をはあこも溝があり、長側石が短側石をはさむ形て掘り込まれています。幅の広い南東側を頭にして遺体を埋葬したと考えられます。副葬品の多くは盗堀の際持ち去られましたが、わずかに鉄刀、鉄斧、刀子、鉄鏃、三角板鋲留短甲等の破片が残っていました。
第二主体部(箱形木棺)は長さ四・八八m、幅〇・七m(西)、〇・八m(東)、の棺で仕切り板で三っに区切りその中央に石棺と同じ方向(南東)に頭を向けて葬っています。副葬品は頭部付近の右側から銅釧二、石釧一、勾玉一が、左側からほぼ対象の位置で鏡一、竪櫛一、勾玉、管玉、ガラス小玉多数が出土しました。頭部仕切り板より東から竪櫛一、足部仕切り板より西から鉄刀一、鉄剣一が出土しました。棺外からの出土遺物は鉄鉾一と鉄鏃三てす。
 古墳に埋葬される長持形石棺は「王者の棺」ともよばれ、大阪府大山古墳(伝仁徳陵)や京都府久津川車塚古墳などの大王級の古墳に埋葬されるりっぱなものてす。また、第二主体部(木棺)に副葬された銅釧、石釧、鏡等は京都府下ても数少ない貴重な遺物です。本古墳は、丹後町産土山古墳、弥栄町二ゴレ古墳とともに古墳時代中期を代表する古墳てす。
平成五年三月  京丹後市教育委員会



岡古墳群
岡1号墳(小浜)
そこの案内板には、
 〈 横穴式石室(岡古墳)網野町字小浜
この石組みは横穴式石室と呼ばれるものです。もとはこの地点から約200m北西にあったのですが、昭和42年にこの場所に移築されたものです。
大きな石を組み合わせて横穴式石室を作る技術は朝鮮半島からもたらされたものであり、わが国では6・7世紀に盛んに作られたものです。
岡古墳は7世紀はじめに作られたもので、石室の中から6体の人骨のほかに、環頭太刀・鏃・刀子などの武具、勾玉・管玉・切子玉・丸玉などの装身具、さらに馬具や土器類などたくさんの副葬品が発見されました。
離湖の周辺には、城山古墳・離古墳・くらがり古墳など、岡古墳と同じような時期に作られた古墳がたくさんあり古墳時代にこの地方が栄えていたことを物語っています。
また、樋越川の川口付近の宮ノ下遺跡からは約7、8000年前の縄文土器が発見されており、岡古墳の南方からは約1800年前の弥生式土器が発見されています。
このような遺跡や遺物は、文字のなかった時代の人々のくらしを知るための貴重な資料ですから、大事に保存する必要があります。
昭和56年9月 京丹後市教育委員会  〉 

昭和27年の新樋越川掘削の際発見、翌年発堀調査が行われたという。砂丘腹にあった1号墳は6世紀後半頃とされる。横穴式石室は北東に開口、全長10・8メートル、高さ2・7メートル、幅2・3三メートル。人骨五-六体分が出土し、人骨の前の石の上には馬の骨が置かれていた、肉づきで捧げられたと見られている。出土品の環頭太刀は紋様が朝鮮慶州出土遺物と類似するという。↓岡1号墳出土環頭太刀
金銅装単鳳環頭太刀というのだそうである。国内で作られたものでなく、朝鮮王権から服属の印として贈られたと皇国史観ならば言わねばならないものである。大和王権ならすぐそう言うのだが、こういう場合は黙って語らないようである。
鏡は大和が配布した、おかしいではないか、鏡は中国のものである。その理論でいけば、中国が服属のしるしとして配布したのではないのか。配布すれば手元には鏡がなくなる、鏡が少ない丹後こそが権力の中心ではないのか。鏡の多い大和や北九州を服属させていたのではないのか。
2号・3号・4号墳は平地に築かれた円墳で、計10体の人骨を出土した。2号墳は竪穴式石室、3号・4号墳は組合式石棺で、4号墳の棺内の人骨は頭部を東に向けた仰臥伸展葬で、棺底部に小指大の砂利が厚さ約15センチに敷かれていたという。


離山古墳
『丹後王国の世界』より(写真も)
離山古墳石室

 〈 竪穴系横口式石室の離山古墳
古墳時代後期になると全国的に横穴式石室が古墳に導入されるようになりますが、丹後地域に最初に導入された石室は、羨道面が玄室床面より高くつくられ、短い羨道部には天井石を乗せない竪穴系横口式石室という形態の石室です。この形態の石室は九州型とされ、北部九州を中心に日本海沿岸部に点在します。丹後地域でも6世紀前半~中頃にかけて海岸部や河口部で10基ほどが確認されています。網野町小浜の離湖にある離山古墳もその一つで石室内外から玉類や須恵器、土師器などが出土しています。付近にある岡2号墳やくらがり2号墳などとともに、離湖周辺が丹後における竪穴系横口式石室の分布地域の一つとなっています。
 こののち6世紀後半~7世紀初めにかけて、畿内型の横穴式石室が導入されていくことになります。  〉 
離山の北側の一番高い所にある。
離山古墳

離山古墳案内板

離山古墳
 離山古墳は離山の最も高い尾根の頂上標高二八mにあります。古墳は直径一五m、高さ二・二mの円墳て中央に石室があります。
 石室は基礎に比較的大きな石を横に並べその上に偏平を安山岩の割り石を平積みにし、花崗岩の天井石て覆っています。
 石室の大きとは長さ二・八m、幅は南側奥壁部で一・〇m、北側で
〇・七m、高さは〇・九mです。床面は一部に削り石を敷いており、丸い小石も敷いていたようです。
 昭利二四年地元の青年が石室内を掘り、そのとき出土した遺物は琥珀玉一、ガラス玉三、碧玉製管玉十一、鉄斧一.須恵器坏十一、土師器二、金環一です。
 平成二年七月の調査で石室の北及び南側から須恵器(坏七、高坏一、提瓶一)土師器(高坏五)が出土しました。
 古墳の築造時期は出土した須恵器等の年代から六世紀前半てあると考えられます。
 離山古墳の石室は四世紀代の前期古墳に見られる竪穴式石室とは趣を異にし、横穴式石室への過渡期に用いられる竪穴系横口式石室の系列に入るもので、近くでは岡二号墳、くらがり二号墳等と同じ構造であったと考えられます。また、竪穴系横口式石室は朝鮮半島の伽耶地域から九州、日本海沿いに分布していることから朝鮮半島の墓制であろうと推定されています。
平成五年三月  京丹後局教育委員会



八幡神社
『丹後国竹野郡誌』
 〈 八幡神社 村社 字小濱小字清水鎮座
(神社明細帳) 祭神 誉田別命
 由緒不詳、明治六年二月村社に列せらる
一社 殿 梁行四尺七寸 桁行五尺
一上 屋 仝ニ間五尺五寸仝ニ間三尺
一境内坪数八百六十一坪
境内紳肚
稻荷神社 祭神 宇賀魂神 天湯川板挙神 小島神社
 由緒 往古より當村字清水に小島神社、早屋神社鎭座有之處當社に合併して祭る  〉 

『網野町誌』
 〈 八幡神社 小浜小字清水鎮座
 祭神 磐田別命 由緒不詳、明治六年(一八七三)二月村社に列せらる(「神社明細帳」)
○境内神社
 稲荷神社 祭神 宇賀魂神
 (早尾神社 祭神 天湯川板挙神)
 (小島神社 不詳)
由緒 往古より当村字清水に小島神社、早尾神社鎮座有之処当社に合併して祭る。(『竹野郡誌』)  〉 

曹洞宗松江山大林寺
大林寺(小浜)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 大林寺 字小濱にありて曹洞宗なり
(同寺調文書)宝永二乙酉年三月与謝郡宮津智源寺世代?堂善観和尚を請じて、}堂宇を創立し開祖とす、萬延元庚申年七月十七日火災に罹り、同年十月再建す、
毘沙門堂 字網野にあり
(本覺守調文書)本尊毘沙門天
本堂は元溝ノ奥谷と稱する所に建てられしも砂塵の爲に埋没せらるゝを以て更に現今の所に移せしと云ふも、古老人に於ても更に年代を詳にせす加之書類等更になけれとも餘程の昔よりの鎮座なりと云ふ、
(田数帳)
十九町四段二百五十二歩 毘沙門堂殿
按、本堂は往古頗る盛なりしものと見ゆ、田数帳によりて考ふるに網野郷総田数八十餘町歩の約四分一は本堂の領なり、旧跡は今砂丘となりて桃李の園となり居るより見るも全く砂に埋没せられたるものならん、溝の奥の池は蓋し本堂境内中の池なるべし  〉 

『網野町誌』
 〈 松江山大林寺 曹洞宗 小浜
本尊 薬師如来
(同寺調文書)当山は智源寺末で、宝永二年(一七〇五)三月、与謝郡宮津智源寺十世?堂普観大和尚を勧請して一宇を建立し開祖とした。万延元年(一八六〇)七月一七日、火災により焼失し同一〇月に再建した。
注 天和二年(一六八二)に阿闍梨頼元が収録した「丹後国寺社帳」には〝曹洞宗・小浜村大林寺″との記載がある。したがって、少なくとも宝永二年より二三年以前に大林寺が存在していたことになる。(『丹後史料叢書』第二輯参照)
その後約六〇年少々過ぎた昭和二年(一九二七)三月七日、奥丹後震災が発生し、大林寺はすべて倒壊してしまった。
 「奥丹後震災と小浜」によれば、小浜区民の犠牲者一四人(うち二人は他地域で遭難)の中に大林寺住職も含まれており、当寺に関して次のことが記載されている。
 ○(昭和二年)四月一〇日、総役で大林寺取片付け 〇四月二〇日、隠居寺壊し
 〇五月二日、大林寺で震災横死者追悼法要 〇七月一六日、大林寺の建立について集会
 〇一二月一四日、大林寺庫裡棟上げ
 復興にあたり、工兵第三大隊によって陥没した道路に仮橋を構築、寺の庭にバラック五戸が建てられた。また倒壊した当寺跡には神戸婦人同情会によって託児所兼倶楽部のバラックが建築されている。(旧)網野町が作成した災害調査表では、同寺の被害として次のように記されている。
 本堂、位牌堂、観音堂、土蔵、鐘楼外三棟全壊
 昭和一一年(一九三六)九月、本堂が再建された。屋根替え工事も行われ、その際下ろされた鬼瓦は現在同寺の境内に安置されている。同一六年八月の金属回収令により一七年(一九四二)に梵鐘を供出したが、同六〇年(一九八五)七月、鐘楼を再建、鐘楼と梵鐘は木子(宮津市)の某寺から移奉されたものである。梵鐘には天和三年(一六八三)の銘があり、鐘楼とともに由緒のあるもので、広島県の某寺から木子に運ばれたものである。梵鐘は法縁に従って旧に復し、大林寺の梵鐘は平成七年(一九九五)一〇月七日に設置された。  〉 

龍献寺の旧蹟
中世末の『丹後国御檀家帳』に、
「一 あみの、はなれと申寺 龍献寺 大寺也」とある。
龍献寺は現在は木津にあるが、この当時はここにあった。

建治2年(1276)、永平寺五世義雲大和尚が観音霊場巡礼のため成相山に登山した。三時、山の西北五・六里のあたりに有り難い兆しを感得したので、和尚が現地を訪れてみたところ、そこは小浜の地で、美しい湖があった。水辺の珍しい形をした岩に座して和尚が思いをこらして念仏を唱えていたら、その真心が天に通じたものか、一夜忽然と湖中に島が姿を現した。これが「離島」である。近郷の人びとは和尚の徳を慕い集まり、やがて大殿堂を離島に建立し湖秀山龍献寺と号した。そのころ、龍献寺は丹後国第一の大寺といわれた。という。


離湖(はなれこ)
離湖
網野町の網野・小浜・島津の3地区に挟まれ、待谷川や大橋川が注ぐ。面積388・76平方メートル、周囲3・8キロ、増水期の最大水深7メートル、渇水期6メートルの、府下最大の淡水湖。網野町の上水道の水源であり、観光地ともなっている。
「小浜の河続海(かつみ)」とも称する。かつては入り海であったが砂州で切り離され淡水化したと推定されている。排水が悪く増水すると周囲の稲田が冠水して被害を与えていた。延宝2年(1674)網野村の小左衛門、島溝川村の久兵衛が協力して、離湖と日本海との最短距離にあたる万畳(まんじょう)山の下をくり抜いて水抜穴を掘り、湖の水を海に注ぐ樋越(ひこし)川(まぶ)の開削に成功した(旧樋越川)(竹野郡誌)。その後、昭和27年(1952)新樋越川が完成して冠水の憂いはなくなり、水位も下がった。湖中の離島は陸続きとなっている。この島にはかなりの松林があったらしく、山上の厳島神社付近の伐採松の年輪には、250輪を数えるものもある。また現在は木津所在の龍献寺の旧跡があり、五輪塔など石造物が残される。
なお新樋越川河底遺跡から、縄文中期の土器が多数出土。また離湖を浅茂川湖とともに、「丹後国風土記」逸文の「浦嶋子」の物語に記される「水の江」に比定する説もある。

《交通》


《産業》



小浜の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎小浜村(掛津村の次)
【松江山大林寺】(曹洞宗)
【離湖】
湖の広サ四五丁四方、湖の中心に島山あり、島山の上に寺の跡なりとて礎石残る、今木津の庄岡田村にある湖秀山龍献寺の旧跡なり。寛文の頃京極丹後守高国爰に来り網を湖中に入れ獲る所の魚を以て之を寺の境内に屠り以て肴とす、住職顧て其扈従の者に告て曰、殺生禁断の處に於て唯魚をとるのみならず内に入りて之を屠り以て肴とする甚しからずや固より僧の悪む所なれば請これを寛宥せよ、高国其言を聞て怒を発し曰、領主の所為僧徒これを拒む不恭の者免すべからず、将にこれを捕へんとす、住僧幸に遁れて木津に匿る、於是高国悉く其伽藍を焚焼す、今湖の水底に沈みて石灯籠などの見ゆるは蓋其時のものなりといふ、高国此寺を焚焼してよりいまだ幾何ならずして家の亡ぶるの至る、其故如何なるを明かに知らざれど此業を以て推而可知也。  〉 


『京丹後市の考古資料』
 〈 宮ノ下遺跡(みやのしたいせき)
所在地:網野町小浜小字城山
立地:日本海に面した洪積台地上(砂丘)
時代:縄文時代早期~前期
調査年次:1955年(網野高校郷土史クラブなど)1957年(同志社大学文学部考古学教室)
現状:砂浜
遺物保管:網野高校(丹後郷土資料館寄託)ほか
文献:F023.F029.F075.G042
遺構・遺物
当遺跡の発見は、1955年にさかのぼる。この年に網野高校郷土史クラブが幅1.5m、長さ10mのトレンチ調査を実施した。1.5m以上堆積していた砂を除去すると堅い粘土層があり、住居跡の一部の可能性がある数個の礫石群を検出した。1957年の同志社大学の調査では、幅1m、長さ7mの遺物包含層を確認した。土層中、遺物を含むのは赤褐色粘土層の上面から黒色粘土層の上面までに限られる。
1955年の調査により、炭化物および石錘、石鏃などの石器のほか、貝殻.魚鳥骨片などが出出した。1957年には押型文土器.条痕文土器などの縄文土器片が約300点、石器約10点、獣骨片約80点などが出土した。石鏃は黒曜石、サヌカイトを使用する。
意義
宮ノ下遺跡は縄文時代早期、前期の遺跡であり、新樋越川河底遺跡とともに日本海に近い洪積台地上に営よれた丹後を代長する集落遺跡であり、遺跡がどの程度の広がりを持つのかが今後の課題である。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 新樋越川河底遣跡(しんひこしがわかわぞこいせき)
所在地:網野町小浜小宇城山
立地:日本海に面した砂丘上
時代:縄文時代中期
調査年次:1954年(掘削工事中に遺物採集)
現状:河川(新樋越川)
遺物保管:網野高校(丹後郷土資料館寄託)
文献:G042
遺構・遺物
1954年に新樋越川の付け替え工事に際して発見された。遺跡は日本海を目前に望む低砂丘上に位置する。
昭和20年代の工事に伴う不時発見であり、発掘調査は実施されておらず詳細は不明である。
出土遺物は、重機掘削された砂中から採取された縄文時代中期の土器や石鏃などがある。
意義
離湖と日本海を結ぶ砂丘上位置した縄文遺跡であり、旧潟湖の存在、範囲を考える上でも当遺跡の存在は重要である。遺跡範囲を調査確認するこは今後課題であろう。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 岡城山遺跡(おかしろやまいせき)
所在地:網野町小浜小字城山l
立地:日本海に面した砂丘上
時代:弥生時代後期
調査年次:1963年前後の発見(遺物採集のみ)
現状:畑地
遺物保管:網野高校(丹後郷土資料館寄託)
文献:B029
遺構
岡城山遺跡は、1963年頃、砂丘が削平された際に網野町の郷土史家、中矢徳治により遺物が採集されたものである。岡1号墳の北約100mのところに位置し、一辺約3m、高さ約1mの方形壇上から土器が一括して出土したものと報告されている。
遺物
出土遺物は、完形、あるいは完形に近い土器ばかりで、いずれも大変丁寧に作られている。甕、高杯、鉢、壺、蓋などの器形が見られ、これらの土器群は日常生活に用いられたものではなく、墳墓に供献されたものであろう。器形から弥生時代後期中葉~後期の時期が与えられる。
意義
岡城山遺跡は、その情報は少ないものの、土器の出土状況から集落遺跡ではなく弥生時代の墳墓と考えられる。近年、丹後地域では方形台状墓に代表される弥生時代の墳墓が数多く発見されているが、海岸線に近い砂丘地では例がなく、丹後地域の弥生時代墳墓の一形態をを示すものとして重要である。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 離湖古墳(はなれここふん)
所在地:網野町小浜小字離山
立地:離湖内の離山上
時代:古墳時代中期
調査年次:1990~91年(網野町教委)
現状:完存(市指定史跡)
遺物保管:市教委
文献:B054
遺構
離湖古墳は、北40mに位置する離山古墳の調査時に山城跡ではないかと試掘した際、発見された古墳である。墳丘には戦国時代に改変を受けており、現存する規模は東西34m以上、南北43.4m、高さ6.35m以上を測る不整形な長方形を呈する。南北の墳丘裾部からは埴輸列が検出され、南北長は確定したが、東西裾部には埴輪列は無かったため、その長さは推定値である。また、南側の墳丘裾から墳頂部までの高さは6.35mであるが、北側の墳丘裾は尾根の鞍部になっており、そこからの高さは2.35mである。ただし、墳丘は高さ1m程度削平されていることから、実際の高さはもう少し高くなる。また現存する墳頂部の平坦面は、東西32m.南北35mを測る。埴輪列の内、南側の3本は円弧を描くように配置されていたが、北側の4本はほぼ直線状に並んでいた。なお、段築、葺石は見られない。
埋葬施設は、墳丘のほぼ中央に並行して2基ある。南側の第1主体部は後世の盗掘を受けており、埋土から壊された石棺片や鉄製品の破片や棺底に敷かれていたと思われる白色や緑色の凝灰岩の小石が多数出土した。墓壙底には、長持形石棺の底石のみが完全な形で残存していた。墓壙は、まず長辺5.6m、短辺3.6m(検出時の深さは0.6m)の大きな穴を掘り、その中に長辺3.6m.短辺1、3m、深さ0.4mの穴を掘り込み石棺を納めていた。なお、石棺底石の上面から現地表までの高さは0、8mであった。石棺の底石は1枚の岩で作られており長辺2.48m、短辺O.93m~1.llm、厚さは頭部側で18㎝、足部側で15cmを測る。短辺側にのみそれぞれ2個の縄掛突起がつき、縄掛突起を含む長さは2.75mを測る。底石上面には、幅9~11cm、深さ1.5~2.5cmの側石をはめこむ溝が掘り込まれている。この石棺と棺内に敷かれていたと思われる小石は、軟らかく加工しやすい緑色凝灰岩であり、近くの海岸に普遍的に見られる。
第1主体部の北側に並行する第2主体部は組合式箱形木棺てあり、盗掘されずに完存していた。墓壙は、検出面での長さ7.44m、幅3.48mを測る二段墓壙であり、長さ4.88m、幅0.65~0.77mの木棺が埋葬されていた。木棺は、棺内が仕切り板で三つに区切られており、中央区に遺骸を葬っている。木棺内からは、東区から竪櫛1が、中央区の北側肩部付近から石釧1、銅釧2が重なった状態で出土したほか、銅鏡1、ガラス小玉29、勾玉8、管玉19および堅櫛1が出土した。また床面から遊離した勾玉2、細身の管玉14、竪櫛1があった。西区からは鉄剣1、鉄刀1が出土した。また木棺北側の長側板の外からは、鉄鏃3と鉄鉾1が出土した。
遺物
第1主体部の鉄器はいずれも破砕されており、復元した結果、鉄刀5、鉄斧2、刀子2、三角板鋲留短甲1、鉄鏃9が確認できた。第2主体部から出土した釧は、銅、石、銅の順に重なっており、石釧の材質は硬質の緑色凝灰岩であった。銅鏡は直径7.5㎝の重圏文鏡と呼ばれる小型ボウ製鏡である。また、中央区から出土した玉類は、ガラス小玉だけを連ねたものと勾上と管玉を組み合わせて連ね首飾りとしたものがある。また埴輪は、普通円筒埴輪と朝顔形埴輪がある。
意義
離湖古墳は、段築、葺石がみられないが、埴輪列を持つ大型の長方形墳である。長持形石棺と組合式箱形木棺という異なる埋葬施設を持ち、それぞれの副葬品から石棺は5世紀中葉、木棺は5世紀前葉の年代が与えられる。二つの棺は、墳丘中央部に対置し、南東側を頭部にして平行に埋葬されており、また墓壙底面もほぼ同じ高さであるなど共通性が多く、計画的に配置されている。埋葬時期に差があるものの緊密な関係があったことが推定できる。また出土遺物から、石棺は武器を多く持ち武人的性格が強いのに対し、木棺は装飾品が多く女性的な性格が考えられる。さらに木棺が先に埋葬され、墳丘のより中央に埋葬された石棺がその後に埋葬されており、葬送儀礼を考える上で興味深い。
丹後地域で長持形石棺を持つ古墳は、法王寺古墳、産土山古墳、馬場ノ内古墳、願興寺古墳があり、離湖古墳で5例になるが、畿内地方に分布する竜山石の長持形石棺とは異なり、地元産の石材を使った在地性の強い石棺である。しかしながら、丹後半島沿岸部に玉者の棺といわれる長持形石棺が集中することは、畿内との強い関係がうかがわれ興味深い。また、いずれも古代に潟港として利用されたと考えられる離湖(離湖古墳)、竹野湖(産土山、馬場ノ内、願興寺古墳)、阿蘇湾(法王寺古墳)の周辺に長持形石棺を持つ古墳が存在することは、畿内王権にとって日本海への交通の要衝として丹後半島が重視された結果が反映されたものとも考えられる。
なお離湖古墳は離湖公園内に保存されており、出土した長持形石棺は墳丘上に建てられた覆屋の中に安置され、いつでも外から見学できる。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 岡古墳群(おかこふんぐん)
所在地:網野町小浜小字城山
立地:日本海に面した砂丘上
時代:古墳時代中期後葉~後期
調査年次:1953~54年(府教委)1965年(網野町教委)
現状:1号墳は移築保存(市指定史跡)
2~4号墳は全壊(宅地)
遺物保管:京都大学考古学研究室保管
文献:BOO5、CO33
遺構
岡古墳群は、日本海と離湖と間の砂丘に築造されたものであり、横穴式石室(1号墳)と竪穴式石室(2号墳)および箱式石棺(3、4号墳)からなる。いずれも墳丘規模などは不明である。
1号墳は、無袖式の横穴式石室が北東方向に開口する。石室規模は、全長10.8m、玄室長6.6m、奥壁部幅2.3m、玄門部幅1.2m、羨道長4.Om、入口幅1.2mを測る。石材は万畳石と呼ばれる地元産のものが用いられている。石室内の床面からは、6体の人骨と鉄器類、玉類、馬具類、須恵器などの多くの副葬品が出土した。また、特徴的な遺物としては、馬の前足の大腿骨があり、馬の脚部を肉つきのまま死者に捧げたのではないかとされている。
2号墳は、1号墳の南35mの位置する、竪穴式石室は、内法が南北2.65m、東西1.Om、高さは約1.Omの長方形を呈している。四壁は下一段に万畳石を並ぺ基礎を作り、その上に安山岩の割石を小口積にして壁面を作っている。床面にも一層の割石が全面に敷き並べられており、8体の人骨と鉄器、須恵器などの遺物が出土した。
3号墳は、2号墳の東側1.5mに位置する。箱式石室は大きさが不ぞろいな割石を立て並ぺ四壁を構成し、同じ割石で天井を覆い、さらにその上を栗石で覆っていた。その内法は長さ1.9m、幅O.5m.深さ0.2mを測り、床にも同じ割石を敷いている。中からは、1体の人骨と鉄器などの遺物が出土した。
4号墳は1号墳の北15mの地点に位置する。工事で箱式石棺の半分が壊された状態で発見された。石棺は、3号墳と同様の構造であるが、棺上に栗石がみられず、床には小指先大の砂利が厚さ15㎝にわたって敷き詰められていた。中からは骨盤以下の人骨1体のみが遺存しており、副擁品はなかった。
遺物
1号墳からは、環頭大刀1、鉄鏃26、刀子3、毛抜などの鉄器類、瑠璃製勾玉3、碧玉製菅玉5、水晶製の切子玉とそろばん玉各1などの玉類、一組の轡、釣手2、工具2、鞍(しおで)金具2、飾金具7の馬具類および須恵器の有蓋高杯4、無蓋高杯2、有蓋浅鉢2、長頸壺1などの土器類がある。2号墳からは鉄鏃3、刀子4、碧玉製玉4、須恵器の蓋杯5組、ハソウ1および砥石1が出土、3号墳からは鉄鏃1、刀子1、須恵器蓋杯1組が出土している。
意義
古墳の築造時期は、出土した須恵器からTK47型式の3号墳が最も古く5世紀末、次にMT15型式の2号墳で6世紀前半、そしてTK209型式の1号墳が7世紀初頭の順となる。出土遺物のない4号墳は、石棺の形態から3号墳に最も近いといえる。なお、1号墳からは7世紀中葉の須恵器や6体の人骨が見られることから、追葬が行われたものと判断できる。同じく3号墳の8体の人骨は、2家族分にあたるとされ、一時に埋葬されたとは考えにくいことから追葬が行われたと考えられる。近くの離山古墳の知見からも、3号墳は竪穴式石室ではなく、竪穴系横口式石室の可能性が強い。
また、馬の骨付き肉が副葬されていたことは、全国的にも珍しい事例として有名である。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 離山古墳(はなれやまこふん}
所在地:網野町小浜小字離山
立地:離湖内の離山上
時代:古墳時代後期
調査年次:1949年(地元有志)、1990年(網野町教委)
現状:完存(市史跡)
遺物保管:網野高校(丹後郷土資料館寄託)、市教委ほか
文献:B054
遺構
離山古墳は、戦後間もない1949年に、地元の青年たちにより郷土の歴史を知る目的で発掘調査が行われた。石室内から須恵器杯などの遺物が発掘され、その記録は、当時の網野高校新聞に残されている。
1990年の調査の結果、直径15m、高さ2.2mの円墳で、埋葬施設は北に開口する横口部を持つ竪穴系横口式石室であることが判明した。玄室は、長さ2.77m、幅は北側で0.69m、南側で推定1.Omを測る。横口部は東壁で1.0m、西壁で0、7mを測る短いものであり、外に向かって長さ2mほどの墓道がつく。横口部と玄室の床面とは0.28mの段差がつき、玄室が低くなっている。天井石は6個の花崗岩を用い、玄室の上だけ架構していたようである。それ以外の石材は、すべて安山岩の割石を使っている。また玄室床面には、割石を敷き詰めている。玄門部には、閉塞石が丁寧に績み上げられていた。
横口部東壁の石積みの裏側付近からは、須恵器高杯1点と土師器高杯5点が円形に並べられた状態で出土し、土師器高杯の一つには須恵器杯の蓋身が合わさって載せられていた。このほかそか石室の外からも須恵器の蓋杯が2セット出土している。
遺物
1949年と1990年の出土遺物の合計は次のとおりである。琥珀玉1、碧玉製管玉9、ガラス玉2、鉄斧1、土師器高塚6と壺1、須恵器高杯1、杯身10、杯蓋10、提瓶1がある。所在不明のものとして耳環1、管玉2、ガラス玉2、鉄器がある。須恵器はMT15型式の古相と新相を示す。
意義
出土した須恵器から離山古墳は6世紀中葉に近い前半の時期に造られ、6世紀中葉に追葬されたものと考えられる。離山古墳の石室が竪穴系横口式石室であったことから、同じく竪穴式石室とされていた離湖周辺の岡2号墳とくらがり2号墳についても竪穴系横口式石室の可能性が強くなった。離湖周辺が丹後半島における分布の中心の一つであったことがわかる事例として評価できる。  〉 


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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