丹後の地名

久美浜(くみはま)
京丹後市久美浜町久美浜一区


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京都府京丹後市久美浜町久美浜一区

京都府熊野郡久美浜町久美浜一区

京都府熊野郡久美浜町

久美浜の概要


《久美浜の概要》



KTRの久美浜駅のある市街で、十楽(じゅうらく)・仲町・土居・東本町・西本町・新町・新橋・栄町・向町がある。久美谷川・栃谷川の河口で、北は久美浜湾に面している。西の河梨峠・三原峠で但馬国(兵庫県)に抜け、また久美浜湾を経て外海の日本海に通じる交通の要地である。
久美の地名は丹波道主命の国見剣の国見より起こると一般には唱えられている。米だろうとか、熊野郡のクマと同語だろうとか、ミはミミ族のことする説などもある。
古代の久美郷、中世の久美庄の地。十楽の地名のあるのは、中世末に港町として楽市楽座のあったことを示すと考えられている。
十楽橋
府道何号線かわからないが本町通りと呼ばれる街道に架かる「十楽橋」から東向きに写したもの。本願寺のあたりからこの川(栃谷川)までが十楽だそう。
「一遍聖絵」には「同(弘安)八年(1285)五月上旬に、丹後の久美の浜で念仏を唱えると、龍が波の中より出現した」とある。「久美の浜」といっても範囲は広かったようで、今の当地かは不明。
一遍聖絵
『京丹後市の伝承・方言』(写真も↑)
 〈 【コラム】一遍上人と久美の浜
 時宗の開祖一遍上人は、各地を遊行してまわった聖として知られているが、その記録に「一遍聖絵」十二巻という大部な絵巻が残っている。その一コマが、熊野郡久美の浜で、上人が海中から龍が立ち現れたのに出くわしたことを伝えている (巻八)。
同八年(注:弘安)五月上旬に、丹後の久美の浜にて、念仏申し給ひけるに、龍波の中より出現したりけり。聖の他は、時衆嘆阿弥陀仏、結縁衆高幡の入道と云ふ者、これを見る云々。それより他所へ移り給ひける道にて、沖の方を見給ひて「ただ今の龍の供養をなさむとするぞ、供養には水を用いる事なり。ただ濡れよ」との給ひければ、やがて雨降り雷鳴りて、人皆濡れにけり。
と詞書に語っている。絵の右端で背を向けているのが、一遍上人。久美の浜の砂洲が描かれている。絵の左側に「久美浜」と注記がしてあるが、これは但馬の久美の里のことである。  〉 

久美浜村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年からは幕府領。享保20年当村に久美浜代官所を設置、天保期頃で丹後・但馬両国の幕府領6万7、000石余を管下としていた。
明治元年久美浜代官所は官軍陣営、次いで官軍出張所となる。同年久美浜県が設置されてその管下となり、久美浜県庁が置かれた。同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年市制町村制により単独で自治体を形成した。
近代の久美浜村(明治22~27年の熊野郡の自治体)は、大字は編成せず。同27年町制施行。
久美浜町は、明治27年~平成16年の自治体。大正14年5月の北但震災で、倒壊家屋69戸、半壊および破損家屋無数。死者7名・重軽傷者多数という。昭和2年丹後大地震による被害は、死者6、負傷者74、家屋全半壊417戸・1、473棟であった。
同26年久美谷村と合併。旧町域久美浜と旧久美谷村の6大字を合わせて7大字を編成。同30年1月1日川上村・海部村・田村・神野村・湊村と合併し、合併各村の32大字を継承。同33佐濃村と合併し、大字は旧佐濃村の14大字を継承し合計53大字を編成した。
久美浜は、明治27年~現在の久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《久美浜の人口・世帯数》 1775・595

《主な社寺など》

式内社・神谷神社(太刀宮)
神谷神社参道(久美浜)
神谷神社(久美浜)
久美浜駅の駅前から西に向けて長い参道が続く。参道の突き当たりは磐座がある八幡神社で、本殿はその手前に参道に向かって鎮座している。
大刀宮本殿
本殿は真四角の大社造り。出雲型式の社殿は丹後では当社だだそう。
磐座(大刀宮)
磐座(大刀宮)

背丈の二倍もありそうな岩がここだけゴロゴロしている、何かの堆積岩のよう。人一人がギリギリ通れるほどのスキマが迷路のようになっている、どうしたらこのように割れるのだろう。
「磐座(いわくら) 古代には社殿祭祀以前に神様をお祀りした神聖な場所です。特に、この石段付近は近年まで女人禁制の所でした」と書かれている。しかし古代は女性が祭祀していたのではなかろうか、女人禁制は男尊女卑思想も加わったずっと後代のものではなかろうか。
「室尾山観音寺神名帳」「熊野郡八十四前」
 〈 正三位 神谷(ダニ)明神  〉 

「丹後国式内神社取調書」
 〈 神谷神社
【覈】久美浜太刀宮ノ合殿ニ祭ル国図ヲ按ルニ今モ久美濱村ノ続キニ神谷ト云アリ国人佐治云此辺スベテ久美郷ニテ神谷村モ今ニ太刀宮ト産土神ト崇ムル由云ヘリ然レハ元ヨリ此太刀宮ト申シヽガ神谷神社カハタ後ニ合祭リシニヤ其證タシカナラズサレド他ニ似寄タル地名神社モトモニ無クレバ爰ト究ムベシ【明細】久美濱祭日九月二ノ午日【道】久美浜町太刀宮ト云【豊】同上字小谷九月中午日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は田辺府志)  〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 神谷神社の旧跡。現久美浜町小字小谷に鎮座せる郷社神谷神社は、創立極めて古く、人皇第十代崇神天皇の代、丹後道主命山陰道巡視の際、前途の武運長久を祈らんが為め、出雲国なる八千矛神を迎へ、神谷の地に斎き祀られしを始めとす。其の旧社地なりといへるは、久美谷村字神谷小字明神谷といへる山林中、平坦なる土地ありて、社地に適当の地なり。中古久美浜大刀宮に合祀す。されば今日に至る迄毎年例祭の節、字神谷より大幟をたつるを例とせり。この地旗指神社あり、大刀宮の旗持なりしといふ。

神谷神社 式内郷社 久美浜町小字小谷鎮座
(神谷社考)祭神・八千矛神・旦波道主命・天神玉命・天種子命。
由緒 当社は崇神天皇十年秋九月、四道将軍旦波道主命、出雲国なる八千矛神を迎へ奉りて、字神谷の地に斎き祀られしを始とす。垂仁天皇の代道主命薨去後国人同命を追慕し、久美の地を卜して神社を創建し、佩かせ給ひし国見剣を神霊として此処に斎き祀る。世呼んで太刀宮と称す。古来久美は国見の仮字也といひ、国見は宝剣より起れる名称也と言ひ伝ふ。斯の如く神谷神社と太刀宮とは、全く別社なりし事は、神社覈録丹哥府志丹後旧事記等に記せるが如し。而して創立後壹千年間に於て、神谷神社は大破に及ふや、之を太刀宮に合祀せしは、遠く延喜以前に属す。爾来一般には神谷太刀宮又は省略して単に太刀宮と唱ふ。奉額神実祭器等に神谷太刀宮とあるは、両社合併の古を物語れるなり。古文書等は省略せる通称に做ひ、太刀宮を以て称するを例とし、現今一般にも太刀宮と唱ふ。諸書記述せる処大同小異なりと雖も、多くは実地史実の片影を誤れり。太刀宮は道主命を祭神とせるものなれど、神谷神社と太刀宮とを合併せる以来、八千矛神と旦波道主命との事歴を混同せるは、甚だ遺憾とする処なり。神祇志に大己貴命刀を奪ひ巨巌を割断せられたりといへるは、太刀宮即ち旦波道主命の事歴にして、現社地中剣岩として特に保存し、古来清浄の地となせる処あり、これ実物を以て保存せる一の伝説記念物と見るべき乎。同社の例祭に字奥馬地より大根を奉るは、剣岩の伝説より起れる事柄なり。
神谷神社の旧社地なりと言へるは、久美谷村字神谷小字明神谷にして今尚存す、右等の関係上毎年字神谷より特に幟を建つるを例とせり。抑も当社は頗る風致に富み、枝うち交はす森林に連続して堺域を成し、長き松畷は千古の状を語り、境内楓樹多く、秋の紅葉は一層風趣を添え、冬の雪景色亦頗る佳なり。前面は田園遠く開け野気溢れんとし、社後は町を隔てて…太刀宮は旦波道主命の宝剣を神霊として祀れる処なるも、其の真剣は夙く紛失して、更に據るべきものなし。行基菩薩の事跡中如意寺建立の記事に『太刀宮の宝剣海中に沈没しあらん事を恐れ、漁夫に命じて網を以て探しむるに玉を得たり、依て宝珠山如意寺を起す』とあり。されば今を距る事既に千百有余年前、奈良朝の頃夙く紛失せるものの如し、現今存せる宗近荒身の太刀は、宝剣紛失を欺き、京極丹波守より特に寄進せられしもの也といひ伝ふ。此外各代官寄進の刀剣燈篭等数多ありて、地方に於ける崇敬の中心たりし也。現社殿は妻入造向唐破風向拝付桧皮葺にして、天明元年の再建に係る。而して明治六年郷社に列せられ、明治四十年三月神饌幣帛料供進神社として指定、同四十二年一月会計法適用神社として指定せられし処なり。

孝古館
 古文書古器物を始め、歴史的記念物を蒐集し、過渡に於ける地方史考に資せむが爲、元久美浜懸の庁舎たりし建物を兵庫懸有たる城崎郡役所改築に当り、特に請ふて譲受けて、大正十二年に建設したるものなり。

境内神社
寒川神社  祭神 応神天皇
 由緒 古俗元久美浜の氏神なり、されば参拝する者先づ寒川社に賽し、後太刀宮に賽するを例とすといへるは、往古の参道は鳥居先現今の松畷は表の参道にして、中古道路の改修と共に、境内地を横断し、太刀宮と八幡宮との境内を分割せるものなれば、松畷より参拝する者は勿論、府道より参拝する者も古例を重んじ、先づ寒川社に賽する慣例を為せるより生せし誤伝なり。
川裾神社  祭紳 瀬織津姫命
 由緒 不詳明治十九年八月無格社三柱神社を壹宇中に合併せり。
蛭児神社  祭神 事代主命  大巳貴命
 由緒 往古より有名なる古松あり、明治十八年暴風の爲倒木となるや、恰も蛭児神社を覆へるが如く、社殿には少の損傷なかりき。此の奇瑞を後世に伝へんとて、同古松の株上に安置す。
稲荷神社  祭神 保食大神
 由緒 右社上家一宇中に、諾冊二尊と猿田彦神の両社あり、諾冊二尊は元石像にて海中より出現せりと
言伝ふる者なりしが、維新後神仏引分に際し、之を円照寺に移し、別に神霊を奉安す。猿田彦神社は元小
字袖ボヂキとて、神社境内の一端の残れる土地に安置しありしを、維新後移転せり。
神職佐治氏
 累代の神職にして、同家に存する長方形の箱の裏書に、慶雲三年八月十九日執行佐治姓藤原源太夫等あ
り、古くより神職として奉務せり。今寛保元年の神道裁許状を挙ぐれば左の如し。
…  〉 

神谷神社と大刀宮とは本来は別の神社ではないかと言われる、八千矛神(大国主命)を祀る出雲系の神社だとか、むつかしい問題で、簡単には答えが出そうにもないが、元々は何も大和系統民だけの一社だけではなかったということは間違いはないと思われる。元々は他民族多文化の多様な別系統の人々の地がいつの時代かに次第に一つにまとまっていった歴史が当社にも反映しているものと思われる。
それ以外にもまだまだありそうですよ、ということで付け加えれば、寒川神社は三分の意布伎神社境内にもあるが、讃岐国寒川郡や下野国寒川郡と郡名にもなっているし、相模国一宮は寒川神社である。舞鶴の佐武ケ岳のサブと同じでソブ、たぶん砂鉄の川を言っているのではなかろうか。今の社前を流れる久美谷川は古名を寒川と呼んでいたのではなかろうか。久美というのは古くからの海人の村であったろう蛭児神社や熊野神社を祭祀者であったが、その後鉄の集団が背後の山にやってきてその彼らが祀った社ではなかろうか。川裾神社もその一族の鳥取氏がその祖神を祀ったものか、
末社など(大刀宮)
本殿前から参道を振り返る。久美谷川が参道を横切る、御手洗川か。あそこには大きな見たこともない大きな蛇がおりますで、という。右手の一番奥が川裾神社、その手前が寒川神社のよう、地図にはそう書かれているが社殿が覆い屋にすっぽり隠れているので確認ができない。
八幡神社
八幡神社と磐座(神谷神社)
『京都府熊野郡誌』
 〈 八幡神社 無格社 久美浜町小谷鎮座
   祭神  応神天皇 神功皇后
 由緒 当社は神谷神社に接し、元神谷神社の境内たりしが、中古道路改修の際道路を境内に通せし爲め、現今独立の無格社となれる也。創立年代等不詳なれど、久美浜代官所の設置せらるゝや、代官の崇敬と共に、祭典には御輿の渡御ありて殊に殷賑を極め、余興には太鼓台又は屋台狂言を演ずる等、最も盛儀
を尽せり。

境内神社
 皇大神宮 祭神 天照皇大御神
 秋葉神社 祭神 迦具土神
 巌島神社 祭神 多紀埋昆売命 狭依毘売命 多岐都比売命
  由緒 明治二年字弁天より西浜へ移転せる竹島神社あり、明治十九年当社に合併せる所なり。  〉 

『丹後路の史跡めぐり』
 〈 神谷神社
 久美浜の町はずれ、河梨峠を越えて豊岡へ通じる道のそばにある神谷神社(かんたにじんじゃ)は元式内社で、この神社は丹後で唯一の大社造りの様式であることに注目したい。この地方が出雲族の支配を受けたことを物語るものであり、河梨には熊野神宮神社があるなど、出雲系の神社が多い。
 この社は太刀宮ともいい、丹波道主命がこの地方へ来た時、天神主命、天種子命を祀り、その後八千矛の神を迎え祀ったという。いまの社殿は天明元年(一七八一)の建造である。
 境内に明治三年に建てられた久美浜県庁の建物があり、いま参考館となっている。  〉 

『古代への旅-丹後』
 〈 神谷(かみたに)神社 久美浜町新町
この神社に参拝したとき「太刀宮(たちのみや)さん」と題したパンフレットを頂いた。宮司さんの労作なのか、この宮とこの地の由来が書かれていた。少し長くなるが引用してみよう。
「御祭神 丹波道主命 八千矛神(大国主命) 天神玉命 天種子命
『神谷太刀宮さん』『明神さん』特に『太刀宮』と親しまれております社が、神谷神社でございます。
むかし、主祭神であります丹波道主命は、四道将軍の御一人として山陰地方平定開拓のおり、御本社の西南約二キロの所、丹後と但馬の国境である神谷の里、明神谷に、八千矛神、天神玉命、天種子命の三座の神々を出雲の国より迎え、当時、強力な文化を有する出雲の人々の歓心を得、前途の平安を祈願し、大和朝廷に従がわせるよう社を創建してお祭りしたのが創始と伝えております。
丹波道主命は、山陰地方平定開拓の後、国人となって永くこの地、久美の里に留まり、幽遂の地で海を駆け、野をひらき、国土万物の生成、人心の安定、殖産興業につとめられ遠き都人にとって常世につながる幻想の隠国(こもりくに)、熊野の郷の豪族の娘、河上麻須郎女をお迎えになり、五子をもうけ給い、垂仁天皇五年十月に後宮として、それぞれ朝廷にお入りになりました。その御一人第一子日葉酢姫(ひばすひめ)は第十一代垂仁天皇十五年、皇后に上られたと語り伝えられております。
丹波道主命が御薨去の後、御恩徳を慕び、久美谷川の清流にそった久美浜小谷の清地に社殿を造営し、常に佩帯されておられた神剣『国見剣(くにみのつるぎ)』を神魂として明神谷の出雲国から迎えた三座の神をと合せ祀り、お鎮まりになられて以後、近郷の衆庶の信仰次第に篤く『神谷太刀宮大明神』『厄除・方除の太刀宮』とたたえ仰ぎ祭られています。
道ぬしの神のみことのこと向けし
剣()つるぎ)の太刀の宮居かしこし
(中略)延喜式の神名帳に列する由緒深い社で、境内外に十数余の社を鎮祭し、境内の一角に巨岩、奇岩がならびたち、神秘なたたずまいを見せております。これが古代に崇敬された『磐座』で、社殿祭祀以前に神様をお祀りしたところです。(後略)」
パンフレットを手に森林浴を楽しみながら広い境内をゆっくりと散策してみたが、かえでの木の多いのに気がついた。パンフをもう一度読み返してみると、「参道は約百メ1トルほどの松並木が続き樹齢数百年の老松が繁茂していたが、戦中、戦後、境内の杉、檜を供出し、(中略)カエデがよく育ち秋の紅葉が美しく『楓が丘』とも呼ばれております。」とあった。このようなところにも戦争の爪あとが…。あらためて平和の尊さ、戦を起こしてはならないと確認させられた神社であった。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【太刀宮】(町の南)
宮の左右燈籠廿八対、宮の正面駒犬一対、石灯篭五対、門の前に石灯篭一対、門の左右井垣卅間余、門の正面籠堂一宇、籠堂の東に小社二社、宮の四方森々として老樹林を成す、宮の西に当りて石階二、三十級山に登りて八幡の社あり、八幡の下より南三十間斗りの處に社司某の宅あり。宝物古代の随神二体、同駒犬一対、太刀一振(長サ二尺六寸、中ゴ六寸七分)、又県臣塩谷氏より奉る美濃国金重の(身長二尺一寸八分)折紙付金七十枚とあり。崇神天皇十年旦波道主命四道将軍に任ぜられて国土巡見し給ふ、既に巡見し給ふて後天下泰平のため天照太神の宮を造る、此時佩たる釼を其宮に納む、依て其宮を太刀宮といふ。此庄を国見と名付くと風土記に見へたり、今久美といふは国見の仮名也、後の世に神谷の神社を爰に合せ祭る、又恵心僧都の事あり如意寺条下に出す。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【籏指大明神】(祭九月九日)
延喜式に所載の神谷神社元此處にあり、乱世の頃修復も出来かね太刀宮に合せ祭るといふ、今太刀宮にあり。  〉 

『郷土と美術20』(昭15)
 〈 出雲神族前衛遺蹟 太刀宮社社 山本文顕

久美浜駅についた。こゝは丹後の西端街で昔天領だったといふ特別の市邑である、町はかなりの向ふにあるらしく駅の背画に豪勢なる御殿建築があって度膽を抜かれんばかりなる異風景である、事変に緊要なる鉱山業で成功された人の住居ときくからに一は敬意を表し一は郷土のため浄財寄与の尠からざらむ篤志を念じた。私の脚はなにゝしてもすぐと古社寺に向ふ、即ち駅前を西折して並木の参道に入り丹塗の神橋を通って太刀宮社に賽する、こゝは丹波道主命を奉齋すときくも神殿の造構は出雲造りである、ハテなと首かしげ折柄神苑清掃の神官に乞ふて縁起書を頒けていたゞき拝するに主神は八千予の神に在はし大国神によしますため出雲造りであるのであった、丹波道主命は双殿の祭神にあらせらるゝがかくあると天津神国津神の合祀社である、天神地祇渾然一体の同座に在はし郷土史眼の異とするところである。
 熊野郡中の一ノ宮、太刀宮社が出雲造りの神殿であることは丹後の上代史にとって重要なる啓示を与ふるものだ、出雲朝廷の勢力が但馬の日槍族を抜いて円山川を越へ丹後国の西端にまで伸びた證左である、鳥居龍藏先生がおっしゃったには丹後は面白いところですよ、伊勢系神と出雲系神とが交錯して祭祀されてありますよとのお説を深く想起する、太刀宮社々家の宅地より神域の方が低地になってゐたはなにをかたるか、境内風致木の将来にもいまより備へんこしをも併はせ記して地方敬神家の一考を煩はしておく。…  〉 


磯辺神社
磯辺神社
『京都府熊野郡誌』
 〈 磯辺神社 無格社 久美浜町字十楽鎮座。
祭神=倉稲魂命、句々廼知命、軻偶突命、埴山姫命、埴安彦命、金山彦命、金山媛命、速秋津彦命、速秋津媛命。
由緒=創立年代不詳なれど、一宇中に稲荷神社をも奉祀せり。俗に荒神といひ廿八日を祭日となす。
霊験=いつの程より言伝へしか、当社境内の樹木の小枝を住宅に安置すれば、鼠族恐れて害を為さずとて、養蚕の時期には多くの賽者ありて、樹木の小枝を携へ帰れる者多し。  〉 


高野山真言宗宝珠山如意寺
如意寺山門
もと久美浜湾の西、宝珠山の山腹にあったが、昭和39年現在地(同寺の日切不動尊の祀られていた飛地)に移り、続いて同51年山門・本堂を移したという。
如意寺不動堂
境内の日切不動尊は如意寺が宝珠山にあった頃から境外仏堂として祀られてきたもので、日を切って祈念すれば必ず霊験があると信じられ、丹後・但馬・丹波各地から参詣者が多いという↑。久美浜は立派なお寺が多いが、無檀家であるにも拘わらずいつ訪れても参詣者は当寺は多いよう。
天平年中行基が当地に滞留中、宝珠山上から火が出て海に入り、また海から火が山に登るのを見た。不思議に思い海士に網を引かせたところ如意宝珠を得たので、この山に寺を建てて納め、宝珠山如意寺と名付けたと伝える。永仁3年(1295)伏見天皇は勅使藤原定成を遣し勅額を下賜した。その頃寺領五〇石、院家二一坊を数えた。しかし応永34年(1427)兵火のために伽藍を焼失、宝蓮院の一坊だけが残ったという。
如意寺千日会は毎年8月9日に行われる郡内最大の夏祭で、水天流し(灯籠流し)は寛政の頃代宮塩谷大四郎の創始によると伝える。 甲山の大文字に火が入り、花火が打ち上げられる。
甲山・如意寺の海岸から
境内の案内板境内の案内板
如意寺縁起
 天平年間(奈良時代)、行基菩薩が当地に留錫の折、山上より火出て海に入り、海より火出て山に昇るを見て網を引かせたところ如意宝珠を得た。菩薩は伽藍を建立しこれを納め、宝珠山如意寺と号された。これが当山の開基である。本尊は菩薩一刀三礼三年と伝えられる十一面観世音菩薩である。
 鎌倉時代後期、伏見天皇は当寺に深く帰依され、正四位行左馬頭藤原定成を勅使として「如意寺」墨書の勅額を下賜された。当時は寺領五百石、院家十二坊の伽藍を有し栄えたが、応永年闇(室町中期)の兵火でその多くを消失した。しかし、戦国期の天文、江戸期の寛文・寛延・寛政、また明治後半に大復興事業が行われるなど、往時より参籠・参拝する者常に絶えず、萬人帰依の寺院として今日に至る。宝永六年(一七一〇)に宝珠を、大正七年には銅尖塔(平安後期)を伽藍より出土し銅尖塔は国の重要美術品に指定されている。現在の伽藍は、参拝の便も考慮し、昭和三十八年より観音山から末寺大円寺跡であるこの飛地境内の地に順次遷徒したものである。
 ご本尊は霊水「閼伽井の水」と共に眼守護のご利益で知られ本尊会である「千日会(八月九日)」には花火・燈籠流し大文字焼きなど町を挙げての夏祭となる。不動堂は昭和五十八年新改築で、当地出身の名工中村淳治棟梁の手による、和・唐・天竺の三様式融合、日本唯一の珍しい重層宝形造である。堂内には弘法大師爪彫と伝えられる日切不動尊をお祀りする。
 庫裡の阿弥陀如来は平安後期、恵信僧都作と伝えられる桧の一木造りの美しい座像である。仁王門の金剛力士像は鎌倉初期の木像で重文級とされる。
 また、当寺は「関西花の寺二十五カ所霊場」の第七番札所であり、年間約五百種類の花木や山野草が咲く。特に、境内周辺に密生する(みつばつつじ)の自生林は四月初~中旬満開となり、一帯をピンク色に染めて見事である。
 如意寺は高野山真言宗で無檀家。初詣をはじめ、厄除・安産・病気平癒・交通安全・所願成就・七五三等の〈祈祷〉)〈永代供養〉、また〈花寺巡り〉の団体参拝など、年間約十万人の参拝者が訪れるr花とご祈願の寺」である。


『京都府熊野郡誌』
 〈 宝珠山 如意寺 久美浜町小字如意谷 真言宗正智院末
本尊=十一面観世音
由緒=如意谷の山腹に在り参道に山門にあり、運慶の作と唱ふる仁王を安置す。山号を宝珠山、寺号を如意寺といふ。天平年中行基菩薩の開基にして、菩薩久美庄に留錫の程、山上より火出てて海に入り、海より火出て山に登る、これ太刀宮に蔵せし道主命の宝剣沈没の兆ならんと海士に依頼して網を曳き如来宝珠を得、依て伽藍を建立し如意宝珠を納め、宝珠山如意寺と号す。本尊十一面観世音は御丈二尺八寸にして行基菩薩の作なりといふ。永仁三年八月人皇九十一代の帝伏見院の御宇、勅使として正四位行左馬頭藤原定成を下し、勅額を賜ひて永く宝祚長久の旨を祈らせ給ふ。寺領五十石院家十二坊を修造せり。然るに応永卅四年の頃兵火の爲回禄し、諸伽藍焼失して、漸く宝蓮院の一坊を留めぬ。今の如意寺是也、とは寺記の伝ふる處なれど中郡縁城寺年代記抄に「寛文十年庚戌久美如意寺本堂建」とあれば同年代改築せる事は明にして、建築の様式より推するも、永仁頃の建造物とも思はれず。爾来幾多の雪霜を経、寛政三年三月再造営荘厳なる入仏式を行ひしが、大正七年九月十四日大暴風雨あり、各所に山崩を生じ未曾有の惨状を呈し、偶然本堂裏手の土崩烈しく、遂に倒壊の厄に罹り、古名刹をして頽破の止むなきに至らしめぬ。現今再建の挙ありて進捗中に属す。
 天文廿一年祐鑁法印、寛延元年覚祐法印、寛政三年祐道上人等皆中興の高徳にして、衆生を済度し、教法を広め、万人帰依の中心となりて、益々寺運の隆盛を来し、参籠する者常に絶えず、以て今日に至れ
り。
 宝永六年九月四日当山中より一個の壺を掘出せり。開山行基の納めし宝珠なりといひ伝ふ。中には唐金の器物棗の如きもありて、其の中に舎利五六顆顕を存せりといふ。現今宝塔内に之を納む。
 仏体
一 十一面観世音菩薩 立像木製二尺八寸行某菩薩作
……  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎甲坂村
【宝珠山如意寺】(久美より陸卅三丁、海上十八町、麓より本堂まで四丁余、峰迄十五丁、真言宗)
行基菩薩の伝記曰。道主命のいはひ祭りし釼といふものいかがなりしといふ事をしらず、我彼国見の里に住みし機、山の上より火出て海にいり海に火出て山に登る事あり、若ち彼釼ならんと海士人をたのみ網をいるるに、釼にあらで過去七仏舎利塔を得たり、かかるめでたき仏法のためしある處に伽藍を造らんと三とせがほど笈をとどむ(下略)。寺記曰。行基菩薩海中より得たる如意真珠を此山に納め伽藍を建立す、よって山を宝珠山と名づけ寺を如意と號す。伏見院御宇勅使正四位行左馬頭藤原定成をして勅額を賜る、夫より以来宝祚長久の祈念奉りて永く勅願處となりぬ。昔は寺領五十石、塔頭十二坊、最も七堂伽藍になりとかや、応永の頃兵火の為に焼失して漸く宝蓮院の一坊残りぬ、今の如意寺是なり、本堂にかけたる鰐口は当時の品の残りたるものなり。銘云。如意寺白山宮敬白応永三十年九月廿八日とあり。又宝永六年九月四日此山より掘出したる壷あり(今損じて形を失ふ)、其壷の中に唐金の如きものにて鋳たる器物あり、其中に漆にてぬりたる棗の如きものあり(掘りたる時分に既に損ず、今夫に似たるものを以て形を示す)其中に舎利五六顆あり、今高サ二尺斗もある宝塔を惣塔として其内に納む、昔行基菩薩の埋し宝珠なりと申伝ふ。今其銅器を見るに黒かしうるしの如く取手ありて形火入の如し、年数歴たるものと見ゆ、よって其図を下に出す。此外宝物とて古代の書図夥し。  〉 
如意寺本堂
本堂↑ 閼伽井↓
如意寺・閼伽井
『熊野郡伝説史』
 〈 如意寺閼伽井の水(久美浜町)
昔神嵜の猟師が久美浜に舟を漕ぎ出して、山禽などを探してゐる内、ふと西の方を見やれば如意寺より不意に白鳥が一羽飛び出したので彼の猟師は得たりとばかりに直ちに銃を肩より下しすかさず放つち一弾よく彼の白鳥の眼に命中したかと思へば猟師の眼は盲になつてしまったまである。
眼玉き打たれる白鳥は直ぐに如意寺の一つの泉に飛び下りその泉で病んだ眼を洗ふと見る間に元のやうに癒ってしまったといふ事である。
之より此の泉は眼病の雲薬であるといふので同病者來合する者が極めて多く、殊に千日会の時は雑踏をきはめる。
彼の猟師の家にはそれ以來眼の悪い者が絶えないといふことである。  〉 

本堂の十一面観音は眼守護の仏様、そしてこの伝説。当寺は元々は眼を患った「白鳥」(鍜冶屋)の寺院であったことがわかる。


浄土真宗本願寺派林光山長明寺
長明寺
左は久美谷川河口、北側(裏)に久美浜湾が広がる通称土居にある。山号は林光山、浄土真宗本願寺派。もとは字島にあり、松嶺院とよんだ。
『京都府熊野郡誌』
 〈 林光山 長明寺 久美浜町小字土居 真宗本派本願寺末
本尊=阿弥陀如来
由緒=山号を林光山といふ。元海部村字島に在りて松嶺院と唱へしが、毎夜山中より光を放つ、奇瑞なりとて発掘せるに一寸八分の黄金仏を得、依て之を胎蔵して本尊阿弥陀を作り、林光山長明寺と改む。建久元年三月唯信房来りて草創す、之を開基と唱ふ。天正年中久美城主松井佐渡守康之の帰依により、久美浜に移転せり。現在の本堂は元禄十二年の再建に係る。大正七年水災の為鐘楼倒壊流失せし、梵鐘は屋根と共に字狛犬に押上げられて沈没を免れしを以て、大正十一年再造営復旧せり。  〉 

浄土宗霊鴫山本願寺
本願寺


境内の案内板本願寺案内板
霊鴫山(れいでいざん)本願寺(浄土宗)
重要文化財、本願寺、本堂(建造物)所在、奈良時代、聖武天皇の天平二年(七三〇年)行基が行脚の途一樹に鴫が群集し経文を唱える如く飛ぶのを見て、その一樹で阿弥陀仏と千体仏を刻み開山されたという。
平安時代、寛弘元年(一〇〇四年)恵心僧都(源信)が中興され当寺六坊があったと云う、鎌倉幕府が開かれた年即、後鳥羽天皇の建久三年(一一九二年)浄土宗の開祖、法然上人が来住し後白河法皇追福の大法会が開かれ勅使か参向せられた。本堂勅使門は鎌倉時代の建築で特に本堂は平安時代の名残りを感じさせる優雅な建物で重要文化財に指定れている。
本願寺


『京都府熊野郡誌』
 〈 霊鴫山 本願寺 久美浜町小字古神谷 浄土宗総本山智恩院末
本尊=阿弥陀仏。脇立=観音菩薩、勢至菩薩。
由緒=山号を霊鴫山といひ、開山行基の奇瑞に因み命名せりといふ。聖武天皇の代天平二年庚午年行基菩薩諸国行脚の途、久美庄に来り当山に登りけるに一樹あり鴫の群集せるを見る。暫くして悉く仏と化し呪文を唱へて西に去る。行基深く感ずる処あり、爰に一宇の精舎を建立し、鴫の群集せし一樹を以て本尊阿弥陀仏を刻し之を安置す。尚其の余材を以て千体仏を刻し、堂の梁上に安置せりといふ。現在の千体仏は後世の補作に係る者多きも、少数の仏体は古作にして優秀のものあり。寛弘年中惠心僧都来りて爰に留錫し、化仏千体を刻し前後二千体を安置したりしが、爾来諸方に譲与し、漸次その数を減じ、天正十二年には三百五十八体の阿弥陀像ありし事は、同寺の文書によりて知らるる処なり。惠心僧都は堂塔の頽廃せるを歎き、本堂各坊等悉く大修理を加へ、深く弥陀の本願を信じ、専ら念仏を勧奨せられしより中興開山と唱ふ。当山は元清水坊、亀井坊、前ノ坊、岸本坊、北ノ坊、上ノ坊の六坊ありて、論番本坊へ交勤せりといふ。後鳥羽帝の御宇建久三年、浄土宗祖法然上人当山に来り安居し、後鳥羽法皇追福の大法会を修す。此の事鳥羽帝の叡聞に達し、勅使を下向せしめらる。当時の勅使門今尚現存せり。道俗上人の教を受くる者多く、一山谷坊の衆徒悉く浄土門に帰依す、されば法然上人を伝法の開山と唱ふるに至れり。
 口碑の伝ふる處によれば、久美浜町の内十楽といへるは、往生要集より出で、法然上人の命名に係れりといふ。尚表門煎栃谷川に一の小橋あり、上人留錫の時来迎会の儀式を行ひし時架橋し、爾来供養の橋と唱へ、当山より修理せる慣行あり。而して当山境内の一隅には雨除の名号と唱ふる大石あり、法然上人の筆になれる六字の名号にして、数十年の後尚墨痕鮮かなりしと。後世湮滅せん事を恐れ彫刻せりといひ伝ふ。…  〉 

『丹哥府志』
 〈 【霊鴫山本願寺】(金毘羅の次、浄土宗)
寺記に云ふ。聖武皇帝天平十三年行基菩薩国分寺(与謝郡にあり)を建立して亦但馬の方へ行とて暫く爰に留錫して此寺を草創す、寛弘年中(天平十三年より凡二百六七十年)恵心僧都又与謝の方より(恵心僧都与謝郡府中村大乗寺にあり)来りて又爰に留錫す、其後二百四年を経て円光大師住山せられてより以来念仏修行相続して今に至る、依て行基菩薩を当山の開基とし、恵心僧都を中興の開山と称し、円光大師を伝仏開山と称すといふ。本尊阿弥陀如来仏は行基菩薩の作なり、内仏にある阿弥陀如来は恵心僧都の作なり、円光大師の尊像は鑑の御影として大師御自製の肖像なり、諸国廿五ケ所にある其一なりといふ、最親はしく思はるるは恵心僧都百万遍の数珠、円光大師の礼盤、同じく木征など当時を想はれて自ら菩提の心起る、又善道大師の図像、金色の観世音、行基菩薩の三躰仏、恵心僧都の三躰仏、同じく山越の弥陀如来、親経の曼荼羅、同三尊来迎仏、円光大師雨除の名號、此外蔵宝挙て数ふべからず。後白川帝追福の為に勝会行はれし時鳥羽院より勅使を遣はし其勅使門とて今に存す。其門の聯に云。聖武天皇天平御宇行基菩薩則建此寺。後白川帝追福勝会鳥羽勅使親入此門。其後は勅使久しく絶といへどもおめぶいかなど今に残りてあり。
(校者曰)本願寺は固と一山塔頭六ケ寺(清水坊、亀井坊、岸本坊、前之坊、北之坊、上之坊の六坊)あって各坊交勤の制であったといふ。宗祖法然上人当山に留錫中、後鳥羽天皇建久三年後白河法皇追福の大法会を厳修するの趣、天聴に達して勅使を御差遣あらせられ其勅使門及び大法会を厳修した本堂が現存している。…  〉 

浄土宗寂静山西方寺
西方寺
久美浜本願寺の隠居寺で、寛永2年(1625)の創立と伝え、天和二年の丹後国寺社帳にみえる。
『京都府熊野郡誌』
 〈 寂静山 西方寺 久美浜町小字仲間町 浄土宗本願寺末
本尊=阿弥陀如来。脇立=観音菩薩、勢至菩薩。
由緒=山号を寂静山といふ。寛永二年七月五日の創立にして、徳誉東順和尚の開基なり。久美浜町本願寺の隠居寺にして智恩院派に属す。寛永十二年九月四日徳誉寂す。  〉 

高野山真言宗嘉会山円照寺
円照寺の石造
新町の少し高い所にあって見晴らしがよい。境内の二体の石像は五尺二寸の伊奘諾・伊奘冊尊両神の像で、もと太刀宮に祀られていたものだが、明治3年の神仏分離で太刀宮から同寺に移されたという。
『京都府熊野郡誌』
 〈 嘉会山 円照寺 久美浜町小字新町 真言宗正智院末
本尊=観世音菩薩
由緒=高野山正智院末真言宗にして、安永二年四月の改築に係る、創立は天平年中行基菩薩の開基なりといへり。  〉 


臨済宗南禅寺派常喜山宗雲寺
宗雲寺(久美浜)

境内の案内板
宗雲寺
 開山千畝周竹和尚は、もと久美浜町小字多茂ノ木にあった常喜庵を永享四年(一四二三)京都近衛家の庇護により、現在の宮谷の地に移し宮谷山常喜寺を建立したと伝える。以後丹波の天寧寺、安芸の仏通寺と共に禅宗愚中派の三本寺として栄えた。
 天正十年(一五八二)松井康之が松倉城主となり、父正之、「清月宗霊禅定門」菩提ために叔父の南禅寺住持玄圃霊三和尚を中興開山として招き、天正十五年に再興された。尚、文禄元年(一五九二)の豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、松井康之、与八郎父子と共に玄圃和尚も外交僧として従軍している。
 当寺は、以上の由緒により開山当時や玄圃霊三に関係する資料など多くの歴史資料が保存されている。また庭園には蓬莱石を中心に多数の石組と心字池を配し、小規模ながら枯淡な造りとなっている。そのほかに長禄二年(一四五八)の銘の残る宝篋印塔や松井康之の父正之、母法寿をまつる肥後の墓などの文化財が伝えられている。
宗雲寺庭園 京都府指定文化財 昭和五十九年指定
絹本著色松井康之像 京都府指定文化財 昭和六十三年指定
玄圃霊三関係資料 京都府指定文化財 平成十一年指定
宝篋印塔 京丹後市指定文化財 平成三年指定
肥後の墓 京丹後市指定文化財 平成三年指定
京丹後市教育委員会


立派なお寺。もとは常喜寺といい、安芸の仏通寺(広島県三原市)・丹波の天寧寺(福知山市)とともに愚中派の三本寺と称し、独立本山として輪番交住すること九世に及んだという。中世末の丹後国御檀家帳にも、「くみの宮谷、常喜寺。大寺也、丹後国僧衆の本寺也」とある。
天正年中に松井佐渡守康之が久美浜に城を構えると、叔父の南禅寺玄圃霊三を請じて常喜寺を再興し、天正一五年父山城守正之の墓を山城国綴喜郡松井より当山に移して改葬した。正之の法名前城州大守清月宗雲大禅定門にちなんで常喜山宗雲寺と改称し、南禅寺に属した。こうして多くの末寺をもち、寺運は再び隆盛に向かったという。
『京都府熊野郡誌』

 〈 常喜山 宗雲寺 久美浜町小字小谷 臨済宗南禅寺派
本尊=釈迦如来。脇立=文珠菩薩、普賢菩薩。
由緒=山号を常喜山といふ。丹後国御檀家帳には「くみの宮谷常喜寺大寺也丹後国僧衆の本寺也」とあり。由緒を案ずるに元天台宗にして、小字多茂ノ木に常喜庵の一小宇あり、恕菴和尚留錫の地たりしが、寺門頽廃に及ぶや、地を宮谷に相し、千畝周竹和尚を請し法衣を改めて禅刹と為し之を開山と唱へ今日に伝ふ。千畝和尚は近衛家の公達なり、本郡谷村に山居せるが、人皇三代後花園之御宇永享四壬午年常喜院を興し、宮谷山と号せり。殿堂伽藍は近衛家の建立に係り、愚中派の三本寺内と称し、寺門益々興隆に趣けり。天文十年兵火の爲回禄す、天正年中松井佐渡守康之松倉城主たりし時、当寺の頽廃せるそ慨き母方の叔父玄圃和尚を請して常喜院を再興し、天正十五年父山城守正之の墳を綴喜郡松井の里より此の地に改葬す、法名を前城洲太守清月宗雲大禅定門さいふ、現今肥後の墓といへるは即ち是なり。後松井氏肥後八代に移りたればなり。此の時より寺号を改めて常喜山宗雲寺と為す、蓋し正之の戒名を採れる也。依て玄圃和尚を中興開山と唱へ、寺基を革めて南禅寺に属し、多くの末寺を有して寺運益々興隆に及ぶ。寛政十一年十二月十日夜寺中学寮より出火し、方丈庫裡等三棟を焼失せしが、爾来再建し以て今日に至れり。  〉 

日蓮宗糸崎山寿量院
寿量院
国道178号線添いの少し高い所にある。
『京都府熊野郡誌』
 〈 糸崎山 寿量院 久美浜町小字松ノ谷 日蓮宗妙音寺末
本尊=法華経宝塔並十界曼陀羅形像
由緒=宝暦七年の創立に係る。久美浜代官佐々新十郎日蓮宗を信し、当郡字新庄妙音寺十五代日進師を請して法莚を開く、聞法の信者日の増し、或は浄財を投し或は田圃を寄付す、代官の帰依殊に厚く、一院を興し日進を開祖とし寿量院と号す。代々代官の崇敬厚く蓑笠之助の母堂の他界に際しては当院境内に葬り墓碑を建つ、其他代官に属せる墓碑多し。  〉 

松井佐渡守の居城・久美浜城城跡(松倉城跡)
城山
本町通りを西へ突き当たると久美浜小学校(代官所・久美浜県庁跡)。その裏山(城山)にある。天正10年(1582)熊野郡の一色氏支配下の諸城は、細川藤孝の将・松井康之によって落城し、その後松井氏は久美浜に城をつくり熊野郡を支配したという。その城跡という。
松井氏築城以前には松倉周防守の日村丘(ひまおか)砦(日間岳砦)があったと伝え、松倉城跡ともいわれる(丹哥府志)。しかし「一色軍記」には「日村岳砦、松倉周防守、久美庄湊大向の地なり」とあり、永禄元亀天正頃一色家諸将地侍居城図(「田辺旧記」所引)にも、現在の大向の地に「日間丘、松倉周防守」と記される。久美浜の地には「久美浜、一色宮内少輔、清水治左衛門」と記入されている。いずれが正しいか確実なところはわからない。
城山の中腹に稲荷の祠があり、初代久美浜代官海上弥兵衛を祀っている。城跡は現在城山遊園地となっている。
『京都府熊野郡誌』
 〈 松倉城は久美浜に在りて、一に日村(ひまおかの)岳砦と称す。松倉周防守の居城にして、香久山勝右衛門、小西入道宗雄は其の臣下なり。天正七年松倉周防守松井佐渡守の為に戦死するや、松井の居城となる。松井康之は諸所に転戦して功あり、采邑一万三千石を賜ひ久美を守らしめらる。香久山勝右衛門は細川氏に降り、小西宗雄は民家に落ち、再び仕へざりき。而して字湊宮小西家の祖となりといふ。後小野木縫殿之助田辺を攻むる時玄師法印命じて之を焼かしむ。慶長五年徳川氏忠興を豊前に封ずるや、松井康之も之に従ふ。)、349(松倉城址は久美浜町の西端にありて、小字を古城山といふ、中腹に稲荷の祠あり、風景絶佳にして金刀比羅遊園と共に、久美浜町の経営に係り城山遊園ともいふ。東は市街を俯瞰し北は内海に面し、眺望の優起せる事は多く他に其の比を見ざる処なり。史を案ずるに松倉城といへるは足利時代松倉周防の居城にして、香久山勝右衛門小西入道宗雄等之を護れり。一に日村岳砦(ひまおかのとりで)といへるに、丹哥府志に言へるが如く、久美は庄の総名にて日村は今の湊村なれど、内海に沿へる西岸一対の地を概括して日村岳といへるが如し。さて、天正七年(丹哥府志に六年とあり)松井佐渡守康之の為に討死し、香久山勝右衛門は細川氏に降り、小西宗雄は民家に落ちて再び仕へざりといふ。康之は胃助後新助と改む。代々山城国綴喜郡松井の里を領せしより松井を以て氏と為す。康之幼にして将軍足利義輝に壮ふ、松永久秀三好義継等乱を興し義輝を弑す康之の一門之に死す。たまたま康之叔父玄圃和尚と共に、伊勢に参宮して其の難を逃る、時に永禄八年正月なりき。細川藤孝義昭を奉じて江州に居る、康之遂に藤孝に拠る。諸所に転戦して功あり、天正七年丹後を滅ぼす、藤孝康之の功を嘉し采邑一万千三石を腸ひ、元老と為して久美を守らしむ。是に於て康之松倉の城主となれり。秀吉の鳥取を囲むや、藤孝康之を遣し水軍を帥ゐて之を援けしむ。康之捷を報じ爾来諸所に戦ひて功あり、藤孝老ゆるに及び世子忠興嗣て立つ、秀吉忠興の封を益し且つ命じて封内七千石を以て康之の采を増し、二万石を保食せしむ。康之松倉城に在るや、玄圃和尚を請じて常喜院を再興し、父山城守正之の墳を改葬し常喜山宗雲寺といふ。宗雲寺肥後墓といへるは則ち是なり。天正十三年秀吉康之の功労多きを以て、特に其の姓豊臣氏及び菊桐章を賜ふ。十六年帝緊楽に幸し、特に康之に従五位下佐渡守を授けられぬ。文禄元年朝鮮を伐も巌山昌原を陥れ、二年登来を攻め昌安を陥れ、晋州を攻め先登して之を陥る。朝鮮より帰るや累年大功ありし故を以て、秀吉石州の半を割き封じて列侯と為す。康之固辞して曰く、陪巨寡君に仕ふる事久し、今肩を比べて同じく朝す、豈に人臣の義ならんや、と其の事遂に罷む。後細川氏豊後杵築に封ぜられ、慶長五年関ヶ原戦役の功を以て、二十万石を加賜豊前小倉城を治むるや、康之に命じ往て杵築を鎮せしむ。是に於て康之前後二万六千石を領せり。十六年冬康之病む、家康之を聞き三度秘薬を賜ふ、人皆之を栄とせりといふ。慶長十七年正月廿三日遂に残す年六十三、法号を春光院殿前佐州太守英雲宗傑大居士といふ。細川氏肥後熊本城を治むるや、子孫世々細川侯に客たり、而して八代城を治め三万石を食む、明治の後男爵に列せられぬ。斯の如くして松井佐渡守関係文書は、久美浜町社寺に現存するもの多し。 (大日本人名辞書、丹哥府志、聞書)  〉 
『丹哥府志』
 〈 【松倉の城墟】
松倉の城一に日前岳砦と称す、久美の庄湊大向の地なりといふ。是によって考ふれば久美浜のいまだ府を開かざる以前は今の久美浜も此湊大向の地ならん、久美は庄の惣名なり、日前は今の湊村なり、大向は湊村の西南の地なり。天正の初め足利の浪人松倉周防守これに居る、香久山勝右衛門、小西入道宗雄おなじく此城に居りしといふ蓋周防守の臣ならん、天正十年松倉周防守松井佐渡守の為に討死す、香久山勝右衛門は細川氏に降る、小西宗雄は民家に落て再び仕へずといふ、天正十年小野木縫殿介田辺を攻る時元旨法印命じてこれを焼かしむ。  〉 
久美浜城跡

久美浜代官所跡
久美浜小学校
本町通りの西に突き当たった所、道路がクランクのなっていて何ともヤバイ所だが、これが城下町の道割りなのかも知れない。堀もあるはずなのだがよくわからなくなっている。現在のそこの久美浜小学校の敷地の一帯が跡地である。かつては久美浜県庁があり、その以前は天領だったため幕府の代官所(陣屋)があり、その以前は松倉城の館(殿)があったと推定される。
現地の案内板。代官所跡の案内板
久美浜代官陣屋と県庁跡
 この地は元亀、天正の頃足利氏が滅亡するや細川氏が丹後に入り郡内の諸将も亦一色氏と運命を共にした、町内各所の城砦は当時の歴史を物語るものである。
 天正年細川の臣松井佐渡守康之久美浜の松倉城を根拠として勇名をとどろかした(現八代市住)元禄十年代官の設置、当時陣屋は大津・京都にあって丹後代官を兼ねていた。亨保年間湊宮船見番所を陣屋と改め享保二十年海上弥兵衛の時陣屋をこの地に移した、以来明治維新までこの地を代官所として権勢をほこった。その所管は、丹後、但馬石高7万石明治元年置県の制が設けられて久美浜縣となり県庁の所在地として大いに繁栄した。代官の頃はその坪数一六〇〇坪 陣屋川、陣屋清水、陣屋橋、殿町と当時の名残をのこしている
 久美浜縣庁はこの地に松倉山をくずし整地し構内、実に七〇〇〇坪石高も丹後・但馬・丹波・播磨・美作の五ヶ国二十三万石以上となり明治四年迄大いに発展した。建築も宏壮で当時の正面玄間棟は現在神谷神社境内に現存し正門は豊岡市本町に現存しありし日の面目を今に残している。
昭和五十七年十月
京丹後市教育委員会


北は海で三方に堀があったそうだが、享保20年(1735)代官・海上弥兵衛の時、湊宮から久美浜に代官所を移し、役人も江戸詰7人、丹後詰11人と強化されたという。元々は加佐郡大江町波美の庄屋家に仮陣屋があったのであるが、天領のほとんどはこちらにあったから移したという。
『京都府熊野郡誌』
 〈 久美浜代官所は町の西端小字殿町に在りて、庁舎を御陣屋といへり。天保四年代官和田主馬当時の陣屋の製図を見るに、総坪数千六百四坪壹分貳厘、間収其の他により、当時の状態を想察すら好資料たり。陣屋に附随せし郷藏夫食藏等の図面も現存せるが、右等は海岸に治ひて建設せられ、八番の倉庫ありし事を知らる。
…維新前の刑罰は総て代官役所にて執行せり、犯罪者の探偵捕縛其の他の警務に従事する者を非人番といひ、久美浜に在る番人を小屋頭又は番頭と唱へ警務上常に官吏に使役せられ、事ある時は部下を招集せり。代官所に属する牢屋は、小字糸崎と松ヶ崎間の山麓に在りて非人番に管理せしめ、且つ囚徒の賄等の事を取扱はしむ。而して番頭の宅内には、別に留置場を設けしなり。獄門の刑場は網野街道なる小字狛犬に在りて、墓地を負ひ海に面せるより、行旅者をして鬼気人に迫るの感あらしめしといふ。  〉 
慶応4年(1868)正月、代官所は官軍陣営となり、二月に官軍出張所と改称、同年閏四月久美浜県が置かれ、官軍出張所は久美浜県庁となった。明治3年(1870)新しい久美浜県庁舎が完成し、久美浜代官所は完全に姿を消す。
『京丹後市の考古資料』(図も)


 〈 松倉城跡・久美浜代官所跡(まつくらじょうあと・くみはまだいかんしょあと)
所在地:久美浜町小字殿町、古城山
立地:久美浜湾南岸丘陵上(松倉城跡)
   久美谷川左岸河口部(代官所跡)
時代:室町時代後期(松倉城跡)
   江戸時代中期~明治時代初期(代官所跡)
調査年次:なし
現状:半壊
遺物保管:市教委ほか
文献:A003、E029
遺構・遣物
松倉城跡は、天正10(1582)年に細川藤孝(幽斎)の重臣である松井康之が築城したと伝え、関ヶ原の合戦後の慶長7(1600)年11月まで機能した山城跡である。
明治時代以降、松倉遊園として整備されたため、遊歩道部分の残存状況はよくないが、郭平坦面はよく残っている。郭は、『丹哥府志』にも図化されており、近世段階から城跡として認識された可能性が高い。最高所の主郭には、礎石がいくっか残っており、本丸御殿が建っていたものと推定される。
康之入城以前の久美浜は、天文7(1538)年の『丹後国御檀家帳』に記載されるように、丹後守護一色氏の「国の御奉行」であった伊賀氏が在住していた。松倉城跡は、その段階に存在した戦国期の山城を康之が再利用し、主郭に本丸御殿を造営したものと推定される。しかし石垣や虎口などの織豊期城郭を特徴付ける遺構は見られず、織豊期城下町の様相を示す麓の久美浜の町並み(城下町)とは対照的である。
久美浜代官所は、松倉城跡の麓に享保20(1735)年に設置された。この場所は、戦国期に伊賀氏の居館、織豊期に康之の家臣団屋敷が推定される場所である。代官所の平面図は『熊野郡誌』に図版が掲載されている。代官所は明治維新時に新政府に接収され、明治3(1870)年5月には久美浜県庁が新たに造営された。県庁の平面図は、『久美浜町誌』に
図版が掲載されている。県庁の建物は、明治4年11月の久美浜県廃止に伴って豊岡県庁へ移築され、現在は正門が旧豊岡県庁の所在地である豊岡市立図書館に残る(豊岡市指定文化財)。県庁舎玄関棟は、大正12年に神谷神社境内へ移築され、戦後問もなくまで収蔵展示施設「考古館」として利用された。建物は京都府指定文化財(建造物)に指定されている。
遺物は、松倉城跡採集の丸瓦が1点知られるのみである。瓦については、ほかに「織田考古館目録」(織田家文書)も記載があり松倉城跡の本丸御殿に伴うものと推定される。
意義
松倉城跡は、礎石や瓦の存在から本丸御殿の存在が推定できる。廃城後も代官所管理下にあった可能性が高く関係する遺構が存在す可能性がある。
久美浜代官所跡は、周知の埋蔵文化財包蔵地としては登録されておらず、発掘調査は実施されていない。あわせてこの場所は、松倉城跡の麓に位置するため、戦国期の伊賀氏の居館や織豊期の家臣団屋敷の存在が推定され、今後の調査により内容が解明されることに期待したい。  〉 


久美浜県庁跡
久美浜県は、明治元年~4年の県で、丹後熊野郡と丹波何鹿・天田・丹後与謝・加佐・竹野郡の各一部と但馬にわたる久美浜・生野両代官所支配地と旗本の知行地をもって成立したもの。初代知県事は伊王野治郎左衛門。小字殿町の代官所の土地を中心にして北と東に拡張し、構内敷地およそ7千坪、庁舎の建坪約250坪となった。庁舎の裏、城山の麓に官宅などが並んだ。庁舎の造営は、元代官所の規模が小さくて不便であることに加え、窮民救済の事業としても考えられたという。久美浜県の管轄は、旧代官所支配区域を拡張したもので、丹後・丹波・但馬・播磨・美作の五ヵ国にわたり、給石高23万余石であった。明治4年府県統廃合により豊岡県に編入された。久美浜県庁正門は現在豊岡市京町にある。玄関など建造物の一部は、いま太刀宮の考古館に利用されている。
久美浜県庁舎(大刀宮考古館)

稲葉本家
稲葉家
ここでもらったパンフに、
豪商 稲葉本家
 当家初代喜兵衛は、織田信長の家臣団、美濃三人衆の一人稲葉一鉄一族の縁者といわれている。
 稼業は代々「糀屋」を生業とするが、北前船貿易を営み隆盛を極めた。久美浜代官所設置の享保二十年(一七三五)には、幕府の公金預かり所となり、以降は近隣諸藩の金融を独占する豪商となった。
 一方、天明大飢饉前後には、多額の金穀を献納し苗字帯刀を許された。
 十二代市郎右衛門の事。明治維新山陰道鎮撫総督西園寺公望公の本陣となり、数百名の関係者が昼食をとった。慶応四年、久美浜縣(丹後・但馬・丹波・播磨・美作 計五ヶ国二十三万石)が設置されるや、勧産用掛頭取、熊野郡区長、但馬区長を務め、さらに京都府議会開設時の府議会議員、衆議院議員ともなる。
 明治十七年には、地租七八〇円(約三億円)を納める府下一の多額納税者であった翁は、金融・殖産のために努力、町の発展にも努力を惜しまなかった。歌、書をなした文人でもあり、『過渡の久美浜』を著した。
 十三代市郎右衛門の事。府議会議長(二回)、久美浜町長等を歴任し、京都府農工銀行頭取など、本町はもとより京都府の金融産業振興に貢献した。
 また、先代の意志を継ぎ、多大な私財を注ぎ込み、昭和四年念願の久美浜・豊岡間の鉄道開通を実現させた。
 合併前の旧久美浜町は、第十五代当主より屋敷・建物を譲り受け改築、平成十五年四月、歴史的建造物を活用した交流施設として再出発した。
十楽橋のたもとに分家の東稲葉家がある。
この一帯は街の景観が美しい。波が穏やかなのか伊根の舟屋あたりの景観に似ているように見える。
栃谷川の河口

久美浜湾
久美浜湾は、松江の浦ともいい、山陰海岸国立公園の一部。周囲28キロ。熊野郡内河川を全部受け入れ、湾口の水戸口を通して日本海に続く。湾の中央に大明神岬が突き出し、東に兜山(権現山)、西に如意寺岳(宝珠山)が水面に影を写す。
内湾漁業が行われてきた。蛤の養殖が行われ、牡蠣の養殖が行われてきた。 大正2年久美浜湾口改修工事が完成し、大型の漁船も出入りできるようになった。湾口は幅30メートル、深さ3メートル、長さ300メートルという狭く、外海の干満の差が少ないため、内湾と外海との水の交流が悪い。このため湾内は年々淡水化し、海底には厚い泥層が堆積し老化現象を起こしているという。
『京都府熊野郡誌』

 〈 久美浜湾は一に松江ともいひ、周廻七里にして風光絶佳真に久美の名に背かず、久美浜町は湾の南岸に浴ひ東西に連る。古来文人墨客の来遊せし者多く、其の遺墨遺詠亦少しとせず。松江といへるは出雲の松江に因めるものゝ如く、鱸魚亦名産の一たり。湾内浪静にして垂釣に適す、鰻?黒鯛等を産し、味は頗る美なり。而して常に鏡上脂を流すが如きは、詢に神境に在る感を抱かしむ。…  〉 


《交通》


《産業》



久美浜の主な歴史記録


『丹後国御檀家帳』
 〈 一くみの宮もと  家八拾斗
かうおや 宮の神主也
 田中弥太郎殿    執  行  殿
 たいた助左衛門殿  三良左衛門殿
 田 中 太 夫 殿 ゆうしやう庵
 〆

一くみのどいはま  家六拾軒斗
 竹の内三上三郎助殿 やとめされかへしする人
 竹の内六郎左衛門殿
 〆

一くみのはま  家五百軒斗
 伊賀殿国の御奉行也
 御はつをの外、毎年かり神馬五六匹ツゝ御まいらせ候、
 又さいさいくわふんのわうくわんあり、いはハ竹野郡・
 熊野郡二郡御持候
ほか殿おとな也
 鳥居右京亮殿   牧  隠  軒
 伊藤宗右衛門尉殿
 おとな也    おとな也
 佐 久 良 殿   吉 田 と の
 志 万 四 郎 殿   萩  野  殿
 此人おはつをの外、おや子四人の月参とふ四貫八百文
 ツゝ御参候、又毎月十五日二月々御供まいらせ候と承
 り候かけ入つゝ也、壱貫三百廿文つゝあり、閏月あれ
 ハまた其分為此外さいさいりうくわんニて物を御参り
 候
 おきの殿御内
 弥 治 郎 殿  小野藤左衛門殿
 鳥居初右衛門殿  志万右京亮殿
しまのとの御内
 森 新 三 郎 殿  毛呂与三右衛門殿
 はしつめの又六殿
  此外と禰衆あまた候へ共、毎年音信不申候、地下も壱
  人も会の衆へまきれなき所□□余方をしし□□
             
 一くみのひきつち   彦  七  殿
 六郎左衛門殿     又  介  殿
 〆

一くみのによい寺  坊数弐拾軒斗
          かいけニ家五十斗
如意寺本坊也
 お く の 坊   西  之  坊
伊賀殿御代参    伊賀殿御代参
 岩  本  坊   くわんさし坊
 と く ゆ う 坊
 〆

一くみのほんくわん寺 家卅軒斗門前共ニ
 本  願  寺   宿  水  坊
 〆

一くみのいとさき  家十四五軒斗 むかい殿

一くみのたちばな  家三軒斗
大寺也
 常  楽  院  むかい新次郎殿
 直  林  庵
 〆

一くみの宮谷
 永 泉 院 大寺也  常 喜 寺 大寺也丹後国
 禅 昌 寺 大寺也         僧衆の本寺也
 〆  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎久美浜(峰山へ三里、宮津へ九里、田辺へ十五里、但馬城崎へ三里、豊岡へ三里、出石へ六里)
享保廿己卯年初て久美浜に於て知府を造る。始め慶長五年京極丹後守高知信州高遠より移封の命を受て、同六年加佐郡田辺の城に遷る、同七年丹後一国を校地せしめ高拾貮万三千一百七拾五石と定む。元和八年高知の二男京極修理太夫高三に三万五千石余を頒ち田辺の城に居らしむ、又一万石余を以て猶子主膳正高道に与へ丹波郡峰山に館を造りこれに居らしむ、残り高七万八千百七十余石を以て嫡子丹後守高広に譲り与謝郡宮津に城を築かしむ。寛文六丙午年高広の子高国故あって所領没収せらる、(寛文六年より同九年の至る凡四ケ年、其間在番交代)寛文九己酉年五月六日永井右近太夫尚征山州淀より采地七万三千六百石余を以て宮津に遷る、於是四千五百七十石丹後国に於て初て公領となる、但馬生野に隷す。延宝八庚申年六月廿六日尚征の子尚長亦故あって所領没収せらる、是時の県令市岡理右衛門、小野長右衛門宮津領の延高二万二千石余是を高に結ぶ、同九辛酉四月廿五日阿部対馬守正邦武州岩槻より九万九千石を以て宮津に遷る。元禄十年阿部公宇都宮へ遷る、奥平熊太郎采地九万石を以て宮津へ来る。享保二年奥平公豊前中津へ遷り、同年青山大膳太夫采地四万八千石を以て宮津へ来る。於是公領初て大なり、因て新に県令を置く、飯塚孫二郎をして丹後に来らしむ、是を丹後県令の祖とす、先是幾野に隷する時湊村に船番所あり、其跡を襲ふて館舎を造り以て府とす。享保年中海上彌兵衛丹後の県令、是時湊村より府を久美浜へ遷す。
…  〉 

『丹後半島の旅』

 〈 久美浜の語源であるが、まず地形語としておさえておくと、「クミ」は「クマ」と同じく「入り組んだ地」 の意があり、小天橋と呼ばれる砂嘴に囲まれた入江の奥にある久美浜の地形をよく表している。隠岐島の五箇村久見も入江の奥にある。しかし南方語でいうとクミの「ク」は接頭語で語根は「ミ」にある。「ミ」は「ミミ」の略語であって、始めにのべた如く但馬出嶋(出石)の太耳や前津耳のミミに通じる。つまり久美浜とは「クミミハマ」であって、南方系ミミ族海人の住んでいた所の意である。このあたりでミミ・ミのつく地名を探してみると、久美浜ゴルフ場のある河内から郡境三原峠をこすと兵庫県三原にでる。この三原ももとは「ミミハラ」であったと思われる。但東町の三原も同様である。なお海人族は一つの船にのってきたものが、原則として一つの集落をつくるという伝承がある。函石浜を中心とする砂丘地帯にあったと伝えられる幻の村「おんごの」「しばこ」の人々も冬の飛砂に堪えかねて四散し、鹿野・葛野・上野・俵野・溝野などみな野のつく五村に分れ住んだということであるが、それはミミ族海人の風習によるのかも知れない。  〉 


須地の唐津山の磁器窯跡は、文化-文政の頃、代官塩谷大四郎の援助で松島力蔵・丹山青海が焼いた久美浜焼の窯跡。丹山青海はのちに京都の粟田で大成し、その作品を「丹山焼」と称したという。
『京丹後市の考古資料』
 〈 久美浜焼窯跡(くみはまやきかまあと)
所在地:久美浜町小字須地
立地:久美浜湾南西岸丘陵裾
時代:江戸時代後期
調査年次:1978、1950年〔踏査〕
現状:半壊
遺物保管:市教委
丈献:B023、G017、G018
遣構・遺物
発掘調査が実施されていないため、詳細な遺構の状況は不明である。
伊万里焼系の染付皿、椀、鉢、湯呑などが採集されている。そのため磁器を中心に焼成していたものと推定される。文様には、山水楼閣図、柳こうもり文、牡丹文、雪輪笹文、岩に柳文、岩に牡丹文、雁金草文、七宝つなぎ文、梅に鷲図などがある。また見込部分には、絵や記号のほか、「寿」字文崩しゃ「井」「田」など文字を記すものが見られる。重ね焼き痕を残す個体のうちの皿の一部は、内外面に残る痕跡から、直接重ねて焼かれていたことがわかる。
ほかに窯道艮と窯壁が採集されている。窯道具は、大型の捧ツク2点、小型の三角焼台1点、小型の円形焼台2点が残されている。円形焼台は、径6㎝、5㎝を測るものであり、前者には製品の溶着痕が見られる。
意義
但馬国および丹後国では、18世紀後葉~19世紀にかけての磁器窯として、半田(舞鶴市)、出石(豊岡市出石町)、高屋(豊岡市)、円頓寺、久美浜が知られている。久美浜焼は、山口久喜によって高屋窯跡とともに検討されており、特に崩し寿文の検討から出石焼との関係が強いと推定されている。
久美浜の12代稲葉市郎右衛門英裕(翠窓)が記した「随得随記」では、文政年間(18世紀前葉)に久美浜代官蓑笠之助の寵愛を受けた力士松島力藏が窯業を始めたと伝える。また京都粟田の丹山青梅(久美浜町大向出身)は松島の窯場で丁稚をしていたという。
これらの記述と採集資料から山口は、丹山が京都に出た天保9(1838)年には、久美浜焼きは廃絶したものと推定されている。
窯道具のうち三角焼台は、円頓寺焼窯跡出土のものと同様に、上面に円形の凹みが見られる。同じ郡内に位置し、いずれも稲葉本家との関係が伝えられる点から見て、両窯跡の工人の抜術的な交流が伺えるものである。なお稲葉本家に残された資料群については、目録が刊行され、全容がようやく明らかにされたところであり、文献史料による両窯との関係の検討は今後の課題である。  〉 




久美浜の小字一覧


一区(いっく)
古神谷 十楽浜 縄手東 縄手西 川畔 島替 明ケ谷 祖父ケ下 糸崎 松ノ谷 段亀 井上谷 大森 飯田 広瀬 土居後 元貞 鳥居崎 籾谷 太刀鼻 和田 河原明 河原田 多茂ノ木 別土 稲口 大刀ノ尾 金性寺 小谷 新町東 東堀 新町西 城下 弁才天 池ノ谷 須地 三原谷 古道 河内谷 如意谷 庄谷 松花 東谷 結 向磯 坂部 生長 深原 武蔵谷 小浜 犬ケ崎 駒犬 東浜 十楽町 仲浜 仲町 仲間町 土居町 西浜 東本町 新橋 新町 西本町 殿町 東山 一本松 西山 観音山 古城山 多茂木 太刀尾十楽 柳岸

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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