丹後の地名

湊宮(みなとみや)
京丹後市久美浜町湊宮


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府京丹後市久美浜町湊宮

京都府熊野郡久美浜町湊宮

京都府熊野郡湊村湊宮

湊宮の概要


《湊宮の概要》



西天橋(小天橋)砂嘴先端にある湊宮と、その東側の函石、さらに神戸(ししど・しど)の海を隔てた西側の河内(かっち)、廃村になった山内(さんない)から成り、東は網野町境から西は兵庫県境に及ぶ広い所である。箱石・河内はそれぞれ一行政地区を成している。
湊宮村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。葛野・大向・蒲井の枝郷がある。「慶長郷村帳」では湊村と称したが、「延宝郷村帳」より改称した。
宮津藩時代は船見番所、幕府領になってからは享保5年頃から同20年まで代官陣屋が設置された。当村は朝日(旭)港を利用した千石船による廻船業の中心地として栄え、延享3年の湊村明細帳に廻船19艘(420~850石積、10~14人乗)・艀下4艘(40~50石積、3人乗)・丸木船30艘・廻船大工8人が記されている。江戸後期の廻船業者には五軒家と総称された本座屋・新屋・下屋・木下・五宝があった。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年湊村の大字となる。

湊村は、明治22年~昭和29年の熊野郡の自治体で、湊宮村・大向村・蒲井村・葛野村が合併して成立し、旧村名を継承した4大字を編成した。昭和30年久美浜町の一部となり村名解消。村制時の大字は久美浜町の大字に継承した。

湊宮は、明治22年~現在の大字名。はじめ湊村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《湊宮の人口・世帯数》 571・184

《主な社寺など》
大明神古墳群
大明神岬(だいみょうじんみさき)は、久美浜湾の西岸から東に突き出す岬で、先端部の最高所は標高約30メートル、岬の中央部は標高6-9メートルで、南から北にかけてゆっくり傾斜する平坦地が広がり、現在畑地になっている。岬の先端部や南部に前方後円墳があり、それを中心にして岬全域にわたって八基ほどの古墳が分布する。これらの古墳は規模の小さい、横穴式石室を有する古墳後期の群集墳。岬は陸続きだが、道はなく船を用いて上陸する必要がある島に近い状況である。発掘調査はなされていない。
地元の案内板案内板
大明神古墳群
久美浜湾の西部に突き出た大明神岬は、古くから人々の信仰の対象でした。ここには合計十一の古墳が散在しており、大明神古墳群と呼ばれています。古墳のなかには、表面に石を並べたもにや、埋葬施設として横穴式石室を採用しているものなど、様々な古墳を見ることができます。
 この古墳群のなかには、古代の丹後半島の平定に派遣された、丹波道主命の墳墓であるという伝承をもつものも含まれており、雄大な岬の景観とともに神秘的なロマンを演出しています。
 これまでの分布調査で、この大明神古墳群には直経三〇mを超す規模や古墳が数基確認されており、さらに須恵器の杯・壺・甕などが出土していいます。しかしながら、本格的な調査が行われていないため、この古墳群について詳しいことはわかっていません。久美浜湾を取り巻く集落の、どこからも見えるこの岬に葬られたかつての権力者とは、一体どうじてた人たちだったのでしょうか。神秘的な姿の大明神岬は、私たちに何を語ってくれるのでしょう。
平成十年三月
京丹後市教育委員会


『熊野郡伝説史』
 〈 大明神岬の古墳(湊村) 
宮村の南西から突出して視界を障ぎるものは神戸(しどの)岬であってその突端の鬱蒼たる森林は大明神の古墳である。古老が伝えて四道将軍丹波道主命の墳墓であろうと云ってゐる。宣なるかに郡内に古墳は多いけれども之に比肩し得る雄大なる実に群第一位である。
古墳は岬を利用して作った大円墳であって封土の高さ六間、其の頂上は蒼蒼たる森林である。附近に陪塚と認むべきもの多く大豪族の墳墓たるを肯かせ先の伝説も荒唐無稽として一概に葬り去ることも出来ない事を思はせる。数十年前村人某が附近の畑から壺発見し私用しやうと考えて海で洗った所朱壺だったので神戸浦の海水が赤く流れたと云ふ。
又近年某は耕作に従事中金環、管玉各二個を発見し今宮某氏が之を保存されてゐる。
其の他具足刀剣類の発見を伝へてゐるけれども凡て湮滅し今は知る由もない。
景勝の地規模の灘大暗塚の存在等より考へれば確に大豪族の墳墓であらうけれども資材の湮滅不足………確と断言出來ないのは遺憾である。  〉 

蛭児神社(ひるこじんじゃ)
蛭児神社(湊宮)

右に見える「境内の案内板」 蛭児神社案内板
 〈 蛭児神社
御祭神 天津日高彦穂々出見尊 火遠理命 豊玉毘売命
由緒 当社は住吉日留居大明神と唱え、四神ヶ嶽に奉斎されておりましたが、鎌倉時代の建暦年間(一二一一~一二一三)、勅諚に依り、将軍・右大臣源実朝公が、現在の地に移転したといわれています。『玉葉集』に鎌倉右大臣の歌があります。「神風や 朝日の宮の宮移し 影長閑なる代にこそ有けれ」とあります。朝日の宮は即ち当社のことで、当時の造営が成り遷宮の有様を詠んだものであります。後年社殿の炎上によって大永二年(一五二二)壬年八月十八日再造営がなされた事は、丹後旧事紀其の他の記録により明らかであります。幕政時代、湊宮に船見番所がありましたが、享保二年代官飯塚孫二郎の代に、船見番所を改めて陣屋が置かれた。其の当時、代官の崇敬があった様で、御剣一口の奉納の記録があります。日留居大明神は延喜式の所載(第六十代醍醐天皇の時代八九七~九二九に編修された神社明細帳)の村岡神社との説があります。日留居は蛭児であることから後年社名を蛭児神社と称するようになった。明治四十三年拝殿を改築し、玉垣・石垣をも改修、其の他の設備も加えて、摂社大川・日御碕神社の整備も整い境内の面目も一新した。境内社稲荷神社は元稲荷山にあり、小泉市太夫代官の奉祀崇敬する社で、明治維新の際、現地に移転した。
 さらに、平成二十一年六月御本殿廻りの玉垣を僅か取り除き改修、其の他狛犬、燈籠の移設をも施した。正面のみ石垣を新調し周囲は旧石垣を積み直した。境内西北程にも四神ヶ嶽山項に向かい蛭児神社御鎮座の跡の遥拝所を造営し鳥居を建立した。
 四神ヶ嶽(ジジラともいう) 蒲井村より大向村へ越える処の右の方に当り、この山上に村岡ノ神社がある。日留居大明神と云うとある。
 「丹哥府志」に、次のような記述があります。関が原の役のとき、福知山の城主小野木継殿介が、細川越中守の留守に乗じて、田辺の城を攻めた。是に於いて、玄旨法印は、長岡玄蕃頭の妻及び松井佐渡守の妻子を皆、田辺城内に呼び寄せ、その居城に火を放ち、一国一城のほかは、更に城塁を破壊し、悉く田辺城内に籠った。しかし、なにぶん急なことであり、久美より田辺に待機する時間はなかった。そこで、久美にいた佐渡の守の妻子は山深く隠れるように下知された。よって、大西三郎佐衛門、大西惣兵衛などお供してこの山に隠れたとあります。
摂社  大川神社
      御祭神 五元五柱神
        保食神 大已貴神 少彦名神 埴安姫神 大土御祖神
    日御碕神社
      御祭神 天照皇大神 素盞嗚尊
境内杜 稲荷神社(天満宮合祀)  〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 蛭児神社 村社 湊村大字湊宮小字日間鎮座
祭神=火遠理命、豊玉毘売命。
由緒=当社は元日留居大明神と唱へ、四神が嶽に奉斎せしが、建暦年間現在の地に移転せりといへり。玉葉集に鎌倉右大臣の歌あり「神風や朝日の宮の宮移し影長閑なる代にこそ有けれ」とある朝日の宮は即ち当社にして、社殿の造営成り遷宮を詠ぜしものにて、後年社殿の炎上により、大永二年八月再造営せし事は、記録により明なり。日留居大明神は延喜式所載の村岡(岳)神社なりとの説あれど、確証を得ざれば定がたし。明治四十三年九月拝殿を改築し、同四十四年五月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
氏子戸数=二百二十戸。
境内神社。大川神社。祭神=五元五柱神。由緒=明暦二年五月当国加佐郡大川神社より勧請す。
       日御前神社。祭神=素盞鳴命、天照大日・貴命。由緒=勧請年月不詳なれど、古老の口碑によるに、出雲国日御前より勧請せりといふ。
       稲荷神社。祭神=倉稲魂命。由緒=享保二年山城国紀伊郡稲荷山より勧請せりといふ。
古式。船卸。寛政七年以後毎年陰暦正月十一日、社頭に於て船謡を謡ひ帆を揚げ、水夫等船を漕ぎ進水の状を爲し、海上の安全豊漁の祈願をなすを例とせり。
神宝。神面三個。劒一口。   〉 

遥拝所(蛭児神社)
そこの案内板に、
 〈 蛭児神社御鎮座の跡 遥拝所
今から凡そ七九八年前の建暦年間(順徳天皇の時代)に蛭児神社が四神ヶ嶽(ジジラ)の山頂に奉斎されていたものを、現在のこの地に鎮座されたといわれております。この石垣と神明鳥居は、その本宮であった四神ヶ嶽の山頂に向かい遥拝所として平成二十一年六月吉日造営建立した。平成二十一十月吉日  〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 四神か獄
 大向より蒲井に達する道の中間に在り、丹哥府志に曰く「福知山の城主小野木縫殿介細川越中守留守に乗じて田辺の城を攻む、於是玄旨法印長岡玄蕃頭の妻及松井佐渡守の妻子皆田辺城内に呼寄せ其城に火を放ち。一国一城の外更に城塁なからしめ、悉く田辺城内に籠る、是時事急なり、久美より田辺に到る暇なければ、佐渡守の妻子は深山にかくるべしご下知せらる。よって大西三郎左衛門大下惣兵衛など供奉して此山に隠る」と当時は雑樹生ひ茂り日かげだに洩ざる程なりきといふ。  〉 

先のグランドは湊小学校のもの。この場所にはかつては小西家本家があった。
蛭児はエビスと読まずにヒルコ(日留居)と呼んでいる。ヒルは今は昼の意味になっているが、朝鮮語では日をイルと読むように、本来は日の意味で、蛭児は日の子ということ、ラーの子のエジプト王や天照神の子になるという天皇さんのような神格をもつ元々は最高神の太陽神かと思われる、天照の前身、海(あま)照らす神ではなかろうか。いまではてるてる坊主になって残っているが、意外やこれがもともとの蛭児神かと思われる、舟のマストに吊して天候のよい事を願ったのかも知れない。ひとつ間違うと船乗り全員の命にかかわる、大事な大事な神であったのではなかろうか。

千石船も奉納されている。寛政7年(1795)以後明治まで陰暦正月11日には船下しの行事を行った。社頭で船謡をうたい、模型の船に帆をあげ、水夫らが船をこぐ様をして海上の安全・豊漁を祈願したという。この千石船三社丸の模型はこのときに使ったもので、寛政7年に奉献された。三社丸は蛭児神社・日御前神社・大川神社の三社にちなんで名付けられたという。 千石船案内板

 〈 府重要民族資料
千石船三社丸 長さ二、九八m 幅 0、八〇m 深さ〇、九〇m
 江戸時代湊宮には回船問屋が多くあった。この千石船三社丸は回船問屋仙助ほか氏子崇敬者四名が寛政七年正月(一、七九五年)奉献したものである千石船は米千石を積むのであるが、船の大小は帆の大きさで決まり、帆二十反が千石 この船は千四百石の 大きさの模型として作られている。
 三社丸は当区の氏神、蛭児神社と摂社 日御前神社、大川神社の三社に因んだものである。 明治時代までは旧暦正月十一日船おろしと言う行事がおこなわれて海上の安全と 豊漁が祈願なされていた。久美浜町・蛭児神社  〉 
千石船案内板

 〈 千石船の由来
 正親町天皇の天正十年、湊宮が時の城主一色守護の領地であった頃、同地に 五軒家(木下、本小西、浜小西、下家、新家)という回漕業を営む豪商が住み、土地の大半はこれらの家々が屋敷として所有し、住民とは親方子方の関係を結び、子方は全て五軒屋に衣食さし持船三十八隻に乗り組ませて旭の港を根拠地にして外国と貿易を成し盛威を振るっていた。
 寛永十三年、幕府の命令で(鎖国時代であった)船の型を千石船に制限された。それ以来国内貿易に転じ、北はエゾ松前(北海道)から西は下関(萩)兵庫(神戸)難波(大阪)江戸(東京)までをその活躍の範囲と成した。
 これがため、家運は以前にも増して益々繁盛し、津々浦々にその威勢を知られるところとなった。
 その後寛政十一年、住民が豊漁祈願と併せて五軒家の全盛時代の遺跡を記念するため この船の模型を土地の氏神様に奉納したものである。蛭児神社  〉 

安曇・住吉系の当地の海人系の人々が祀った社であろうか、後には千石船を繰って活躍したとみられる。

摂社・大川神社
摂社・大川神社
加佐郡の名神大社も祀られている。由良川河口の由良や神崎の北前船交易の関係で祀られているのではなかろうか。


早尾神社
早尾神社(湊宮)
『京都府熊野郡誌』
 〈 無格社。湊村小字長砂
祭神=素盞鳴命、猿田彦命。
由緒=不詳。崇敬者=三十人。  〉 
早尾(速尾)神社は丹後のこの辺りあちこちに見られるが、天湯河板挙命を祀る鳥取氏の神社である。鳥を捕ったのか、鉄を採ったのか、この辺りにもいたのてあろうか。少し高くなった砂丘の頂に鎮座する。


臨済宗妙心寺派神鼇山海隣寺
海隣寺(湊宮)

『京都府熊野郡誌』
 〈 神鼇山 海隣寺 湊村大字湊宮小字本町 臨済宗妙心寺派智恩寺末
本尊=釈迦如来。脇立=文珠菩薩。
由緒=当山は後奈良天皇弘治元年の創建にして、開山を禅悦首座といひ、堂宇を海隣寺と号せしが、中興の祖松柏寿禅師伽藍を修築し、正鼈山海隣寺と号せしなり。寛政元年七世邃巌和尚山号を改めて神山と称せり。抑も当寺は微々たる一小庵に過ぎざりしが、寛永の末年湊宮の豪士木下長左衛門氏の一子出家当山に住するに及び、木下氏の寄進により本堂庫裡鐘楼等の再建をなし、二十石の田園を寄付し、以て美観を呈するに至れり。然るに嘉永元年村内火起り、類焼して殿堂悉く灰燼に帰せるより、嘉永五年狭小なる仮堂を建設し、慶応二年現在の堂宇を建立し、幾多の困難を拝しつつ漸く今日に及べるなり。
境内仏堂
権現堂 本尊 蔵王権現
地蔵堂 本尊 六地蔵大士  〉 

臨済宗南禅寺派霊松山宝泉寺
宝泉寺(湊宮)
『京都府熊野郡誌』
 〈 霊松山 宝泉寺 湊村大字湊宮小字仲ノ町
臨済宗南禅寺派宗雲寺末
本尊=観世音菩薩。脇立=薬師如来。
由緒=当山は康正年中千畝周竹大和尚の創建に係る道場にして、本尊観世音は慈眼大士の作といひ伝ふ。千畝和尚は近衛公の公子なり、夙く仏門に帰依し愚中和尚の法嗣となる、久美浜宗雲寺の開祖たり。されば永享四年宗雲寺竝に当寺は近衛家の寄付造営に係る処にして、後松倉城主松井佐渡守康之の帰依せられし処なり。玄圃和尚の宝泉寺に住せらるるや、康之の嫡男与八郎父と共に朝鮮征伐に従ひ病を得て帰国し、文禄二年八月十五日遂に卒す。遺骸を当寺に葬る。天明三年五輪塔を建設せしも、皆松井家の造営に係るものなり。爾来寺運益々隆昌なりしも、嘉永元年正月偶祝融の災あり、湊宮の過半類焼に及べる際、当山も亦其の厄に罹り、漸く山門及び観音堂を残せるのみ、されば当山第廿世良哉和尚民家を購入して庫裡に充てしが、容易に伽藍建築の気運に到らず、益々寺運の頽廃を来し、現住耕月深く之を嘆き、遂に再興を企画し、三千余円の浄財を募り、大正三年改修の慶讃供養を修行し、多年荒廃に委せる堂宇は勿論仏具法具等を新調し、全く従来の面目を一新せり。大正六年基本財産二千三百余円を造成し、寺運漸く隆昌に向ひつつあり。
境内仏堂
観音堂 本尊 薬師如来 三十三所観世音
右薬師如来は明治維新の際、小島庵境内より移転せし所にして、恵心僧都の作といひ伝ふ。
地蔵堂 本尊 地蔵菩薩
弁天堂 本尊 弁才天
貴重品=霊松寺殿月湖禅定門書像賛竝序。月湖正円禅定門は松井康之の嫡男与八郎の法号なり、右賛竝序は玄圃和尚の筆にして、松井与八郎朝鮮征伐当時の状態を悉く記らるは、好史料として見るべきものたり。
宝物の重なるもの
一 狩野永徳陶淵明画幅
一 雪舟観音堂
一 狩野常信釈迦画幅 等数十点あり  〉 


 〈 松井與八郎墓
 松井與八郎は松倉城主松井佐渡守の嫡子にして、豊公の命により佐渡守朝鮮征伐の軍に加はるや、與八郎父と共に出征し各地に転戦して偉功を奏せしが、病を得て名護屋に帰り遂に卒す。時に文禄二年八月十五日なりき。是に於て遺骨を丹後に送り湊宮宝泉寺に葬る、法号あり霊松寺殿月湖正円禅定門といふ。今宝泉寺に玄圃和尚の法語を録せる画像あり、資料とするに足る。  〉 


饑餓塚(群霊曝骨墓)
東側から行くと、府道49号線の広い道路の三叉路から旧道に入り、少し行った村の入口あたりにある。粥が出された「五軒屋」(社寺や学校があるあたりにあった)まではあと1㎞ばかり…。天明大飢饉のとき、多くの人々がここまではたどりついたのだが、飢えて力尽きて死んだ。その累々たる白骨をここに埋めたという。
饑餓塚(湊宮)

群霊曝骨墓(湊宮)
饑餓塚の案内板

 〈 饑餓塚 文化六年(一八〇九)建立
湊宮の五軒家華かなり頃、徳川文化の退廃期、打ち続く天変地異に五穀あげて実らず、全国的に襲った饑餓は当地方も決して例外ではあり得なかった。
犬猫の類はもとより木の葉、草の根まで掘りつくした人々は近在に充満し、天を仰いで死を待った。
幕府は急救の術を知らず、各地の藩主も又頼むに足らず、ここに五軒屋は座視するにしのびず、その全倉庫を開いて飢えた人々をうるほすべく決心した。
湊へ行けばお粥が食べられる。米のお粥が…
「米のおかゆ」という言葉がどれほど魅力をもっていたか、今はたゞ一杯のお粥を得ようと決心をした人々の群れが郡内勿論うわさに聞いた丹後但馬一円から集まり、葛野から湊への一本道は人で黒く続いたという。
しかし弱りきった身体で遠い路をどうして湊まで達し得られよう。飢えに飢え疲れに疲れた人々はまるで朽木のように倒れていった。
遂に五軒家の当主達の提議となり、福田・山根・高田三医師の手により悲運に倒れた多くの人々を一所に葬ったのがこの墓である。
昭和五十九年(一九八四)九月 湊宮老人クラブ  〉 

『久美浜町史』
 〈 群霊曝骨
 江戸時代三大飢謹の一つといわれる天明の飢謹は、天明二年(一七八二)に始まり天明七年まで続いた。三年卯年になると、初夏から秋まで数度の大風雨、洪水に見舞われた。凶作が米価の暴騰を生み、新米一石が銀九八匁という高値になった。
 翌四年になるといっそう高くなり、一石が銀一二○匁というとほうもない暴騰ぶりで、当時の記録も、
  右に付、御領分一同、別して町方や難渋人の餓死人おびただしく路傍や辻堂にて倒死し、語りつくし難き困窮なり-(「宮津旧事記」)
と述べている。
 湊宮入口の路傍に残る石碑には、
     群霊曝骨墓
         文化六己巳四月日
と記され、碑文に
 平 沙或海浜所汰上曝骨雖寸骨見之者拾聚以乞納此墓者也
         発起人
             医師  福田氏
                  高田氏
                  山根氏
とある。
  「熊野郡伝説史」では、次のように紹介している。
   餓死者の続出を不憫に思った湊宮の五軒の大廻船業者(五軒家)が、倉から米を出して粥をふるまった。そのうわさをきいて人々は、一杯の粥を得ようと、杖をつき、最後の力をふりしぼって湊宮に向かった。小天橋の長い松の道は、郡内郡外から集まる人々で綱になった。しかしその途中で力尽きて倒れる者数しれぬ有様だった。
 この餓死者は、白骨となって風雨にさらされていたが、後になって五軒家の提議により、医師福田・山根・高田三氏達が中心になって白骨を集め、一所に葬った。
と。
 またそのことを裏付ける話として、「後に新道を造ったとき、何十人ともしれぬ白骨が塚から出てきた」と述べている。
 文化六年は、天明の飢謹より二○年ばかりたっている。この碑に伝えるものが天明の飢謹であったかどうか確証はないが、しかし当時の惨状を知ることはできる。  〉 

この当時の「金持ち」はエライ、勃興期の資本らしく社会的役割をそれなりに果たしている、打毀を怖れたのかも知れないがまあまあ道義的にしっかりしていると言えるし、活動が若々しく溌剌として周囲をよく見ている。最末期になる近頃は避難して帰れない住民がいまだ13万人もいるし、廃炉見通しも立たないのに、電力会社には大モウケをあげるものすらいて、全倉庫を開いて粥を出すなどは決してしてしない、それどころか電気料金値上げ、原発再稼働して儲けるなどとふざける、こんなクズばかりがいて、クソモウケしたからといって、経済大国などとどこが自慢できるだ。悪辣なことをすればそれは儲かるかもしれんわい、そんなことが自慢できるのか。放射性廃棄物の捨て場がない、オマエらが使って大モウケした電力を生産するためにできたものだ、あれを全部引き取ってくれ。そうした道義的責任があろう、儲けるだけ儲けて、不始末の処理はそれはまったくしようともせず何を寝ぼけているのか。
富は社会的なものである、一人で大モウケなどができるワケがない、たまたまその人間どもに仮に預けてあるだけのもの、必要となれば持てるすべての富は母体の社会に戻さなければならない。戻さなければ母体共々滅びるだけである。すべてはき出せ、それが唯一のオマエらクソでもが今を生き延びられるかも知れない最後の道だ。今以上にふざけてやらないようば、むしろ旗を立てて電力会社打毀し、世直し一揆が求められることになる。

大石塔大石塔(湊宮)
饑餓塚のさらに東側の路傍にある。
案内板に、案内板(湊宮)

 〈 大石塔 享和元年(一八〇一年)建立
これは建立の年、天変地異相続き、先はどうなるだろうと人心が怯えたその時、五軒家の当主小西伯煕氏が仏に安穏を祈願して建立されたものと伝えています。小西伯煕氏は当時字内に聞こえた有徳の学者だったのである。
昭和五十九年(一九八四年)九月 湊宮老人クラブ  〉 

西天橋(さいてんきょう)あるいは小天橋(しょうてんきょう)
葛野から西に突き出し、久美浜湾と日本海を画する巨大な砂嘴で、葛野・湊宮の集落がある。日本三景の天橋立に対して卑下したような呼び名になっているが、規模は当砂嘴の方がはるかに大きく、丹後にあるもう一つの巨大天橋立、「スーパー天橋立」である。
西天橋の松林は日間ひま)の松原といわれ、天橋立のようなクロマツ林が見られる、「みなと悠悠」のあたりが立派で、木々はみな南側に傾いている。これは自然に生えたものでなく、砂防のため3期にわたり村人の賦役によって植林されたものという。慶長7年より10年計画で、毎年松500本・菜英300本。文化元年より15年計画で、1戸4人の賦役で松1、000本・菜英500本。文政2年よりまた植林が行われたという。昔の人の苦労で今はこのように美しい。それに引き替えてワレラといえば、一千兆円の借金!10万年先までの放射能!出口も見えない核軍事超大国アメリカへの属国化!ワレラが未来に残したものはそうしたクズ以下のものでしかない。子孫へは顔向けできないクズ以下の情けない世代であるよう…
クロマツの林(西天橋)
『京都府熊野郡誌』
 〈 西天橋
 海の内外を割する一帯の白砂青松は宛も天橋立を遠望するが如きを以て天の橋立に対し、西の天橋と呼ぶ。湊村の地域に属し、北は日本海南は久美浜湾にして、風光の明媚なる事比類稀なり。西端には海水浴場あり、内外海に浴し得、而も水清く遠浅にして理想的の浴場たり。東端には葛野の桃林ありて、白砂青松の間に隠見する様など筆紙に尽し難く、諸所砂丘を為し雅趣に富む。林間に松露を探、雄大なる北海の潮風に浴して天然の風光を味ふも亦興味深し。  〉 


山内(さんない)
三内とか書くが、こうした地名はもとは鉱山労働者の村だと思われる、寺があって山内ではなく、鉱山があって寺が出来たのであろう。三内丸山遺蹟とか聞くが、やはりそうした村ではなかっただろうか。
山内(さんない)ヶ嶽の山麓の小字山内に迎接(こうじょう)寺跡がある。迎接寺はもと但馬境の「鉢がなる」にあったが、仁治2年(1241)山内の地に移し、享禄2年(1529)大向の地に移すまでここにあった。山内集落は昭和40年代前半に離村した。

かつて村があった近くに「山内部落離村之碑」が建てられている。どなたが手入れされているのか雑草一本ない。
迎接寺の旧跡
『京都府熊野郡誌』
 〈 迎接寺の旧跡。湊村の内山内といへる部落は、迎接寺の山内といへるより命名せられし地名にして、村中より六町余の険路を登り行けば迎接寺の跡あり。本堂屋敷は荊刺繁茂すれど、今尚礎石の点在せるを見る。此の付近各坊の跡を存し、鎌倉時代の古刹たりしが如く、享禄二年此の地より字大向に移動せりといふ。檀家帳にいへるいま山寺は、迎接寺の異名にして大向に移転せし後の名なり。此の旧跡は山内が嶽鎮守がなるに在りて、実地を調査すればそぞろに当時の面影を偲ばれ、寺運の隆昌たりし程も想察せらる。
寺跡中最も有名なるは、迎接寺の旧蹟にして、山内が嶽鎮守がなるは元迎接寺の在りし処なり。今現状を述んに、字大向より河内に達する道路を右にとり、山内が嶽に向って進む事十二三町にして山内の部落あり、村中より四丁程の峻路を登り行けば二王門屋敷あり、夫より約二丁にして弁天の森あり、古木鬱蒼として昔を語る。此の附近寺屋敷とて各坊あり、現今畑地として開墾せるも、四囲の状態に照し其の当時の面影を偲ぶるに足る。尚進む事七八十歩にして本堂屋敷あり、礎石の点々存在せるを見る。今草生地となれるも約三十坪程の地にして、本堂は東面せる如し。此の本堂屋敷の上を鎮守が平ナルといふ。元鎮守の祠ありし処なりといへり。此の山内が嶽の頂上に登れば、西方には但馬妙見山を望み、北方には隠岐国、東方には遥に越前御崎若州二子山を望める等、実に偉観にして形容の辞なきょ恨む。さて丹後国檀家帳を按ずるに「くみのいま山寺十ケ寺斗云々」とあれど、そは字大向今山に移転せし後の事にて、此の鎮守がなるに七堂伽藍の存せしは尚以前の事に係る。今徴証すべき記録を存せざれど、仁治二年鉢がなるより山内の地に移せりといへは、恐らくは鎌倉頃の古刹てりしならん。足利末世には既に存せし事は檀家帳により明にして、移転の年代は享禄二年なりといへり、伝説によるに、此の鎮守が平より火の玉出でて字大向今山に落ちしは、移転の前兆なりとて先ず鎮守の祠を移し、次で堂塔伽藍を移せりといふ。此の鎮守の祠は爾来永く屋根の修理は山内部落より奉仕せしも由緒ある事なり。現今迎接寺の寺内に其の遺跡を留むるのみにて、祠は数年前廃絶となれるは遺憾の極みなり。而して檀家帳にいへるいま山寺は迎接寺をいへるものにて、山を今山といへるよりの名なり。大向迎接寺亦大破に属し、二王門を入れば左右の彼所此所に堂坊の跡を存し、回顧して今昔の感にうたれぬ。  〉 

『丹哥府志』
 〈 今大向村にあり。其旧蹟山内ケ嶽鎮守ケなるといふ處にあり、塔頭杯は焼け、石或は泉水の模様残りて今に杜若春夏の気候を忘れず、やさしく覚ゆ。  〉 

河内(かっち)
ゴルフ場や大明神崎古墳群があり、海では蠣の養殖がされている。
神戸の海
裏山に展望所があった、そこからのながめ、大明神崎は右手の半島。

神戸の海
神戸の海
天橋立でいえば「九世戸の渡し」の回旋橋がある海になる。左側が西天橋で右側が対岸の大向。神戸はシンドとかシドと読む、神の戸、神様が出入りされる海という意味か。
西天橋の先端、久美浜湾と外海をつなぐ水路を水戸口という。旧水路は湊宮と大向の間の神戸をまっすぐに北東に抜けていたが、たえず砂がたまって浅くなり、船の出入りが困難であったため、江戸時代の御城米も旭港まで艀で運ばなければならなかった。そこで神戸から北西に向けて岩山を掘り、水路をつくることを決め、明治38年着工、大正2年に完成した。しかし潮の干満が激しく、湾口に岩が伏在し、水路の幅員が狭いなど、船舶の出入りになお困難があったので、昭和7年から同12年まで水路の途中から湾口を北東に開く工事が行われた。湊宮から大向までの80メートルの神戸は渡船で通っていたが、同30湊大橋がつくられて、渡船は姿を消した。
湊大橋は左手の道路をまっすぐに行った所に架かる、右手の橋は歩行者専用の橋。
『京都府熊野郡誌』
 〈 神戸(しどの)湊
 丹哥府志に曰く大向村より海を隔っ僅に二三十間、松江の潮水是所より大海へ通す、神戸の名蓋し是より起るならん、猶九世戸の戸の如し。栗山先生の詩に一帯長沙横海門北溟萬里吐遠呑といふは是處をいふなり。此村一に日間の湊といふ、又日間の浦と称す。俗に湊宮村といふ今略して湊村といひ宮村といふ、実は皆一つの處なり云々とあり。
 歌にも多く詠み出だされし名所にして、其の歌は第一編に挙ぐ。然るに大正二年湾口の改修工事完成するや、此の湾口より魚族の出入すらもの多く、潮水は透明にして、魚族の游泳せる状を熟視するに足る、実に水族館に入れるものゝ如く、一奇観を呈するに至れり。人呼んで天然の水族館といふも宜なり。  〉 


湊小学校
蛭児神社の隣にある。ここも昨年度を以て閉校だそう。昭和20年舞鶴の三笠小学校の集団疎開学童を受け入れてくれた学校である。ワタシも三笠校だから、もしあと十数年早く生まれていたなら、ここにお世話になっていたかも知れない。しかしその三笠校も今は与保呂校より少ないくらいになっているので、このままで推移するならばあと20年もしないうちに閉校となるかも知れない。ワタシの学年は6クラスもあったのだが、超ノータリン政府や超ノーナシ政治屋どもが悪すぎるのである、どこかで歯止めがかけられるか、国の将来がかかった大問題である。
湊小学校

『舞鶴市史』(写真も)

 〈 学童疎開
空襲が一層激しくなり、防空上の必要から児童の疎開を急がねばならぬ情勢となったので、昭和十九年六月、閣議は国民学校初等科児童の集団疎開を決定した。七月東京の外一二の都市が疎開都市として指定され、実施に当たっては、防空上最も重要な八都市(東京都区部及び横浜・川崎・横須賀・名古屋・大阪・神戸・尼崎の各市)の児童をまず疎開させた。その数約三五万人であった。
 京都府では同二十年三月、京都府立第一高等女学校に関係国民学校長等を緊急招集し、学童疎開について指示した。これは学童集団疎開強化要綱に基づいて京都、舞鶴、広島、呉の各都市が追加されたためであった。
 京都府は次のような学童疎開促進要綱、実施要領及び実施細目を疎開受け入れ国民学校長、市町村長、地方事務所長あて通牒した。…
 学童疎開はまず縁故疎開を原則とし、児童を含む世帯の全部もしくは一部の疎開、または親戚その他縁故者のある学童の単身疎開を強力に勧奨することを第一とした。次に縁故疎開により難い学童については集団疎開をさせることにした。集団疎開の対象は国民学校初等科三年以上六年までの児童とし、疎開先は京都府管内としている。
 舞鶴市では新舞鶴、三笠、倉梯、中舞鶴、明倫、吉原、余内、中筋の八国民学校が指定された。指定を受けた各学校では、直ちに緊急職員会議等を開いてその準備を開始し、当該学年児童保護者会を開いて学童疎開の説明を行い、縁故、集団疎開のいずれにするか調査を行った。集団疎開地が決定するや、学校はそれぞれ疎開地及び宿舎状況を視察し、受け入れ町村や国民学校と打ち合わせる一方、縁故疎開児童の乗車券購入打ち合わせの保護者会も開催した。集団疎開児童が確定すると、その班分けや付添い教員の決定、あるいは寮母、作業員等の選定も急がねばならなかった。
 疎開児童の家庭では、児童一人当たり蒲団を含めて二○キロ以内一個程度という規定にしばられながら、携行させる寝具・着換え・下着等の身回り物品を調えるのに大わらわであった。これらは出発の二日前には、学校の校具類とともに貨車に積み込み輸送することになっていた。
 学校はまた、児童用、教師用の机、腰掛を始め校具類や宿舎用炊事道具類等の必要最少限度のものを輸送することになり、疎開児童に合う机、腰掛の選定から必要品の調達、荷造り、貨車への積み込み、現地への運搬等多忙を極めた。学童疎開の指定を受けた日から学校は瞬時の暇もない毎日が続いた。
 四月四日には新舞鶴、中舞鶴、明倫、余内各国民学校、翌五日には三笠、倉梯、吉原、中筋各国民学校の児童合わせて一、三三二人、付添い教員六二人その他寮母、作業員等が疎開先の熊野郡、竹野郡へ向け出発し、当日無事受け入れ式を完了した(写真79)。
 学童疎開について学校日誌は次の通り記述している。…
 一方、集団疎開受け入れ地に指定された加佐郡岡田中村、岡田下村、八雲村は、三月三十日、京都市の国民学校疎開児童合計一九○人を受け入れた。なお、加佐郡の受け入れ状況は表129の通りである。…
 その後、六月には余内国民学校児童七人が追加疎開し、七月に入ると敵の本土上陸に備えて、海岸近くに疎開していた新舞鶴、三笠、中舞鶴各国民学校の一部疎開児童は同郡内または他郡内へ再疎開の指令を受けた。
また、明倫、余内両国民学校では第二次集団疎開を実施し、計九三人の児童が余内校は熊野郡へ、明倫校は加佐郡岡田上村へ八月八日と同十日に疎開した。
 なお、学徒勤労動員や学童疎開後の校舎は、軍用倉庫や宿舎等に当てられた。昭和二十年度におけるその一例を示すと次の通りである。…  〉 
歴史に謙虚に学ぼうという姿勢に欠ける上から目線のエエカッコシイ的クソ市史?のためか、学童側から見た記述がない。
「2014年平和のための舞鶴の戦争展」の展示は、

 〈 学童集団疎開
 昭和十九年六月、政府は一般疎開を図る外、特に国民学校初等科児童の疎開を強力に促進することを決定。対象としたのは国民学校初等科三年以上六年までの児童で、保護者の申請によるものとした。
 昭和二十年三月九日、「舞鶴市ノ明倫、中筋、余内、吉原、新舞鶴、中舞鶴、三笠、倉梯各国民学校児童ハ、縁故並ニ集団疎開ヲ早急ニ実施スルコト」との京都府の通達を受けた。
 疎開児童の身の回り物品の携行は、寝具、食器、着替えその他当座の必需品にとどめ、列車内持込みを除き児童一人当たり二十キ○以内(蒲団を含む)一個程度と定められた。舞鶴市の集団疎開先は京都府下の竹野郡及び熊野郡であった。
 四月四日に新舞鶴校、京都府竹野郡浜詰村、木津村、郷村)、中舞鶴校(同熊野郡久美浜町、海部村)、明倫校(同熊野郡上佐濃村、田村)、余内校(同熊野都下佐濃村)が、翌四月五日には三笠校(同熊野郡神野村、湊村)、倉梯校(同熊野都川上村)、吉原校(同竹野都島津村)、中筋校(竹野都竹野村)が舞鶴を出発し、汽車でそれぞれ疎開地に向かった。
 一方、加佐都岡田中村、岡田下村及び八雲村の三が村は学童集団疎開受け入れ村に指定され、京都市の疎開児童一九〇人を同年三月三十日に受け入れた。  〉 
当時にこうした会もあったそう(挿図も)

 〈 〝学童疎開〟を語る会のご案内
70年前、小学生たちに何があったのか?
 終戦の年、4月に実施された「学童疎開」は、舞鶴では8つの国民学校から1300名余りの児童が、丹後の地に集団疎開しました。縁故疎開はその3倍に達しました。
 「疎開」とは、軍事用語で「分散をして戦いを進める」という意味。国民学枚3年から6年生の児童が対象となりました。
「食糧増産」として農作業に精を出し、空腹とノミ・シラミの集団生活を7カ月間、一度も帰ることなく、我が家に着いたのは、なんと終戦50日間後のことでした。
 戦後の荒廃は、辛かった疎開生活とは違った形で再びおおいましたが、懸命に生き抜いて来たのも私達の子供の時代の貴重な体験です。
 私どもも、既に傘寿を迎えるころになりました。この体験を語り継ぎ、後世に記録を残そうと思います。子や孫にもあまり語ることが少なかった「学童疎開」、みなさんの胸の奥底にある疎開の記憶をお聞かせください。きっと真剣に聞いてくれる子や孫に出会えると思います。(「国民学校」とは、昭和16年3月に小学校という名称があらためられたもの。)  〉 

疎開にお世話になった学校は現在はすべて閉校になっているよう、宿舎は周辺の寺院に置かれていたようである。重ねて御礼。
次の戦争では丹後はもう安全ではない、安全な疎開先はもうない。しかし歴史に学ばない愚か者どもがまたまた繰り返したいようである。

《交通》



《産業》
みなと悠悠
みなと悠悠(湊宮)
「自家源泉の湯を開放感あふれる大浴場や露天風呂で堪能できます。湯上がりには日本海と久美浜湾の絶好の展望スペース、最上階のラウンジへ」(案内より)
少し歩くと海水浴場にでる。7㎞も続くロングビーチ。自然が残された見通しもきかないほどの広~い長~い浜で、これなら全日本人が泳ぎに来ても大丈夫。ワタシどもが子どもだった頃は海水浴場といえば芋の子を洗うような大混乱状態だったが、今はこうしたスキスキ。少子化の影響が出てるのかも知れない。将来世代までを喰ってワレラは「経済成長」なるものに呆けたきたのかも知れない。子どもよりゼニが大事、ワレラは狂っている。天罰が下されるのであろうか。
小天橋海水浴場
小天橋海水浴場
西にある円山川の砂であろうか、日本海側は沿岸流が強く、河口に三角州を作りにくい、その砂は流されて、ここに堆積し長~い長~い浜を作った。また強い北風に浜の砂は吹き上げられて背後に広大な砂丘や砂嘴を作った。小さな砂粒が長~い長~い時間をかけて積もりに積もったものである。



湊宮の主な歴史記録


「丹後国御檀家帳」
 〈 一くみのみなと   家五百軒斗
   此里にわきわきニかうあまたあり
 小西彦左衛門殿  かうおややとめされ候
               かへしする人
              鳥居総左衛門殿
 小西彦太郎殿
 鳥居神五郎殿    かうおや(祝 カ)
                   ほうり殿
かうおや         かうおや
 八郎右衛門殿    木 の 下 殿
〃            〃
 中 兵 衛 殿    孫 兵 衛 殿
〃            〃
 えひすの神主殿   別  当  殿
〃            〃
 かつしろの左衛門殿 西  村  殿

 彦 助 太 夫 殿    せ い は ん 寺
 〆  〉 


 〈 一くみのいま山寺  家拾ヶ寺斗
 岡の坊 尾崎坊 向坊  〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎湊村(古名日村)
大向村より海を隔つ僅に二、三十間、松江の湖水是處より大海へ通ず、神戸(しど)の名蓋此處より起るならん猶九世戸の戸の如し。栗山先生の詩に『一帯長砂横海門北溟万里吐呑遠』といふは是處をいふなり。此村一に日間の湊といふ又日間の浦と称す湊宮村といふ、今略して湊村といひ宮村といふ、実は皆一ツの處なり。配所日記に、湊と斗り詠じて名所となるは熊野の宮神戸の浜なり日間の湊にあらずといふ、古名日村といふは和名抄に出たり。
配所日記 旅心しどの湊の夕暮は  残る芦の葉風さわくにも   みなとといふ處を過るとて
金葉集 思ふ事なけれは濡ぬ我袖は  かたしいる野の秋の露哉 (能因法師)
珠葉集 夕汐のさすに任せて湊辺の  味間に浮ぶ海士のすて舟 (丹後守頼景)
続千載集 友さそふ湊の千鳥聲すみて  氷にさゆる明かたの月 (和泉式部)
風雅集 浦風は湊の芦に明しほり  夕くれ白き浪の上景 (伏見院御製)
【日留居大明神】
順国志云。伊奘諾尊を日之少宮に祭り日留居大明神と称す、俗に蛭子と称するは誤なり、日本記云。伊奘諾尊神功既に畢後一度天登報命給宇日之少宮に留居是なりといふ。日留居大明神は延喜式に所載の村岡神社是なり、村岳は日田村岳なり、日村岳は朝日村の後山四神ケ嶽是なり、元是處にありしが建暦の頃年月未詳将軍実朝公四神ケ嶽より今の處へ遷し奉る。玉葉和歌集云。みなとといふ處にて
神風や朝日の宮の宮うつし  景長閑なる代にこそ有ける (鎌倉右大臣)
【朝日長者】
【味日間潟】
成務帝四年諸国に長を立てて稲置をおく、是時味鎌麿を以て丹波国熊野郡葛野浦日村に於て朝日長者とす、是より味日間潟の名あり(日本国史談註)。朝日村は湊村一庄の内蓋枝郷なり、今幸に古名を存す。
【霊松山宝泉寺】(臨済宗)
康正年中千畝周竹和尚の開基なり。千畝周竹和尚は元近衛藤公の公子なり、世を遁れて愚中和尚(仏徳大通禅師の勅號を賜る、愚中派といふ一派あり)の法嗣となる、長禄二戌寅年閏正月十五日寂す。天正年中松井佐渡守松倉の城にありし時玄圃和尚(玄圃和尚は三長老と称せし人、南禅寺に住す)宝泉寺に住す、其頃米持助二郎松井佐渡守の嫡子松井与八郎と共に朝鮮の役に従ふ、文禄元年十月十日米持助二郎晋州に於て戦死す時に年十有八才、法名丹心正誠禅定門といふ、翌年の夏松井与八郎病に罹り肥の名護屋に帰り八月十五日死す、於是与八郎の遺骨これを丹後に送り湊村宝泉寺に葬る、難松寺殿月湖正円禅定門と號す米持助二郎の父宜深、助二郎の与八郎と素より友たるを以て其肖像を図て与八郎図像の傍に掛く、其図像の上に各玄圃和尚の法語あり、皆惜しむべき人なり。
【薬師堂】
【十二楼】
十二楼は小西伯?といふものの楼なり、松江の勝景十二を集めて当時の名家に寄題を乞ふ、文化の初栗山先生但馬の温泉に浴する頃両三日も此楼に遊ぶ、其扁額は則ち先生の手跡なり。辛丑の夏余其楼に遊びて多く諸家の題詠及図書を見る、寛政前後人物の傑出する実に享保以後ならんとも覚ゆ、偶一絶を得たり。其詩云。…略…
【仁斎先生の詩】…略…
【神篭山臨海寺】(臨済宗)
 【付録】(金毘羅、稲荷大明)
【長沙】
神湊村より東葛野に至る凡廿丁余、南北七八町、湊村の辺に至りては僅に四五丁、其間左右に海を受けて一面の白砂なり、其中央松樹相連る、其趣略天橋に相似たり。  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎山内村(久美の西北、如意寺の裏に当る)
【大福大明神】(祭九月九日)
【迎接寺旧蹟】
今大向村にあり。其旧蹟山内ケ嶽鎮守ケなるといふ處にあり、塔頭杯は焼け、石或は泉水の模様残りて今に杜若春夏の気候を忘れず、やさしく覚ゆ。  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎河内村(山内村より山路難嶮を歩りて河内村に至る)
【清水権現】(祭九月廿日)  〉 


湊宮船見番所跡
「御料所旧記」の記すところでは、元禄10年(1697)より生野代官所出張陣屋が置かれており、のち大津(滋賀県大津市)・二条(京都市中京区)代官所の出張となった。さらに享保4年(1719)-20年代宮陣屋が置かれたという。
『京都府熊野郡誌』
 〈 代官所跡。本村は日本海に面せる要地たれば、幕政時代湊宮に船見番所の設ありしが、享保年間代官小泉市太夫の代船見番所を改めて陣屋を置けり、湊宮の海辺湾口に臨み約四反あり、現今畑地となれるも、石垣等の存するあり、北日本海に面せる要害の地にして、小高き丘陵あり稲荷山といふ。代官所の稲荷を奉祀せる地にして、古を偲ぶ資料たり。享保二十年代官海上弥兵衛陣屋を久美浜に移さるるまで、七八年間代官所の所在地として、頗る殷賑を極めしといふ。  〉 


『京都府熊野郡誌』
 〈 湊村は…湊宮、大向、蒲井、葛野の四大字より成り…
湊村は往古久美郷に属し、帝室の御料所たりし事は、丹後総田数帳にも久美庄四拾壹町八段九拾歩御料所とあるにても知らるるなり。丹後国御檀家帳を按ずるに、くみのみなと、くみの大むかい、くみのかまい、くみのかつら野とありて、元久美庄たりし事を明記せり。爾来細川氏の丹後を領するや、久美浜なる松倉城主松倉周防守は松井佐渡守の為に戦死す。此の時松倉の臣小西宗雄民家に落ちて、再び仕へざりき。これ湊宮小西家の祖なり。慶長五年細川氏封を豊前に移され、京極高知代りて丹後守となり、以来多少の変遷ありしが、元禄十年徳川幕府に直属し、享保年間代官小泉市太夫の代、従来湊宮に在りし船見番所を改めて陣屋を置き、享保二十年陣屋を久美浜に移ししなり。而して宝暦十三年本村の内字葛野は出石藩の所領に属せしが、天保八年出石藩故ありて半地を削らるるや、本村各字と共に久美浜代官の支配に復し、爾来明治維新に及び、久美浜県豊岡県を経、京都府の管轄に属せる事は、郡内に共有せる沿革の大要なり。地形の変遷其の他に就て考ふるに、葛野より湊宮に達する一帯の沿岸内海面は、漸次侵蝕を受けつつあり。開墾地としては、函石の約十二町歩、浜中の六町歩等は近く開墾せられしものにて、新田としては、字葛野に於ける新田は中新田、下新田等称し最も名高し、其の内名称の最も参考になるべきは、年代を以て命名せる新田にして、享和、天保、嘉永、文化等の名称を存し、何れも其の年代に開墾せる所に係れり。村落の異動を按ずるに、口碑の伝ふる処何れも海岸より多少位置の転ぜる事を伝ふ。これ風波の関係上自然の結果ならんと推察せらる。而して湊宮の内弥陀の種族は、神戸岬の小字牛飼といへる地に居住せしが、現地に移住せりと言ひ伝ふ。神戸岬(大明神ともいふ)には規模広大なる古墳あれば、或は此の御陵守にては無かりしか、尚考ふべし。  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 湊宮遺跡 字湊宮に所在する。
湊宮遺跡は縄紋草創期ないし早期の遺跡として紹介されている。
縄紋早期の遺物としては、町内で有舌尖頭器が一点確認されている。久美浜町誌(昭和五十年)によれば、昭和二十八年ごろ、久美浜高等学校の生徒により表採されたものとされている。大きさは最大長一〇センチ、最大幅二・ニセンチ、最大厚は〇・九センチである。材質はサヌカイト製で表採時、漆黒だったと伝えられる。
遺物の詳細な年代については不明であるが、縄紋時代早期のものと考えられている。
久美浜町では、海岸部で縄紋時代の遺跡が多く見られるが、湊宮遺跡もその一つである。遺跡の立地や所在など、函石浜遺跡との関連がうかがえるとともに、久美浜町の歴史が現在の海岸砂丘地帯から始まったことを示す貴重な遺跡と考えられる。  〉 


湊宮の五軒家
『久美浜町誌』によれば、(地図も)


今でいえば海隣寺から蛭児神社に至る本町通りの南側一帯と、蛭児神社の西側湊小学校の一帯が跡地にあたる。
五軒家とは、湊宮の小西家の本家本座屋(ほんざや)、分家の新屋(あたらしや)・下屋(しもや)、それに木下・五宝(ごほう)の両家を加えたものである。五軒家という呼び名は江戸後期のもので、廻船業のほかに両替商や酒造業も兼ねていたという。五軒家は天然の良港旭港を利用して廻船業で富を蓄積した。
小西家は日村岳(ひまおか)砦に松倉周防守と同居し、天正10年(1582)落城後武士を捨てて湊宮に住んだ小西宗雄の子孫と伝える。小西彦左衛門尉智信(小西宗雄の子か)の頃、徳川家康の自由貿易主義に乗じて湊宮村を本拠にし、朝鮮・満州方面に出航し、貿易の巨利を博して小西家の基礎を築いたといわれている。
鎖国になってからは主として沿岸貿易に従事し、北は直江津・酒田・松前、西は下関・丸亀・兵庫に回漕した。また奥州若松藩に塩を用立てるため、三田尻(防府市)に塩田をもち製塩業を兼業した。今なお三田尻に湊屋敷の名が残るという。また因幡鳥取藩などには金銭を融通したといわれている。
江戸末期には廻船業のほかに両替商や酒造業も行った。幕藩体制の基礎がゆらぐと、近隣の各藩は五軒家から金を借りたが、結局踏み倒してしまった。新政府が一時の融通のため直轄地の豪商に紙幣発行権を与えると、五軒家は一時の苦境を脱するため「五軒家札」を発行した。しかし明治5年の禁止によって現金と引き換えるため多くの家財を失う結果となった。
木下家は湊宮に海隣寺を建立し、大向村に薬師堂を建て、また甲坂(こうさか)の一乗寺を修理し、のちに平田村に再建するなど、数々の記録を残している。




湊宮の小字一覧


湊宮(みなとみや)
神戸野 大明神 中ノ池 宇島 六本松 六本松横浜 神戸野火打畑 廻リ上 堀切 宮崎 牛飼 蔦ケ崎 赤坂石 半賀 半賀崎 片淵 片淵奥 小田ケ鼻 小田 小森 大森 塩谷 籠谷 当田 当田川向 木曽 逸串 大谷 中曽根 大谷清水 大谷間谷 大谷築谷 小峠 小峠コボ谷 小峠口 小峠奥 草谷口 草谷 中田 藤浪 藤浪奥 川内 藤浪口 前田 前田横町 前田井戸 川内家ノ上 半谷 半谷小路ケ谷 半谷崎 二間所 波底 隠谷 高崎 半谷岡崎 半谷石原 半谷川南 ビシヤカタ 栃ケ谷 家ノ上 鎮守ケ下 鎮守ケ城 半谷尾 稲木場 山内 西山 本屋敷 家ノ下 垣ノ内 北谷坂ノ下 岩ケ本 上岸 油石口 油石 ダハラ口 ダハラ 清水 空下 橋爪 猿楽 波木谷 熊ケ谷 韮ケ谷 空下鈴岡 鈴ケ岡 韮ケ尾 ビシヤゴ 空下長町 空下井戸 ハブ谷 塚本 円崎 小鹿ケ谷 鹿ケ谷 日出 中嶋 寺ノ下 タヒタ タチ 浦表 洲崎 下所 本町 中ノ町 西ノ町 山王町 浜 白浜所 長砂 東町 中浜 日和山 墓ノ下 中浜 高山沖 日和山下 南山牛飼 南山堀切 南山宮崎 南山宮崎東側 南山宮崎西側 大明神森 大明神鼻 南山石 南岩 赤坂 南山 臍嶋 南山半賀 南山半賀谷 南山片淵 片淵西側 片淵南側 片淵奥 南山小田 南山小森 南山塩谷 南山籠谷 大谷木曽 大谷五串 大谷神田谷 大谷脇谷 小峠大田 大谷峠大田 大谷小峠大田 大谷小峠 大谷高谷 小峠ノ口 大谷草谷 大谷小峠五右工門谷 大谷コボ谷 大谷中田谷 大谷藤浪口 藤浪大成 河内大谷 大谷藤浪 空下半谷 空下半谷横道 空下大半谷 空下地蔵半 空下半谷崎 弐間所 空下韮ケ谷 空下ビシヤコ 空下地蔵ノ尾 空下西山 空下北谷側 裏表円崎 裏表鹿ケ谷 高山 カコ谷 箱石 カコ谷ヲク 半谷大成 半谷上 山内ノ上 地獄谷 タワラ口 当田新田 半谷樋口 ビシヤガタ 下町 西町 中田口 円山嵜 空下ダワラ 大谷流谷 廻リ正 臍嶋 半賀嵜 コボ谷 半谷嵜 高嵜

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2014 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved