丹後の地名

永留(ながどめ)
京丹後市久美浜町永留


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京都府京丹後市久美浜町永留

京都府熊野郡久美浜町永留

京都府熊野郡佐濃村永留

京都府熊野郡下佐濃村永留

永留の概要


《永留の概要》



佐濃谷川と川上谷川の間にある。この谷には古墳が多く、本谷・地家(じげ)・茶屋の3地区よりなる。
中世の永富保で、鎌倉期~室町期に見える保名。
永留村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下佐濃村の大字となる。
永留は、明治22年~現在の大字名。はじめ下佐濃村、昭和26年佐濃村、昭和33年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《永留の人口・世帯数》 277・77

《主な社寺など》
古墳など
谷垣古墳群
永留経塚


高岡神社
高岡神社(永留)

「室尾山観音寺神名帳」「熊野郡八十四前」
 〈 正三位 高雄田明神  〉 
誰がつけたものかタカオカの訓注があるが、当社のことであろうか。。延命寺の山号も高雄山である。

『京都府熊野郡誌』
 〈 高岡神社 村社 下佐濃村大字永留小字藏谷鎮座
祭神=案するに天ツ神を奉祀するが如し。
由緒=当社の創立年代等に就ては徴証すべきものなく、正確なる由緒を記述する事困難なれど、伝説等を考察するに当社は元高尾大明神と言へるは、古き幟等に記載せる文字によりても明にして、現社地の奥山林に高尾谷あり、天つ神の降臨し給へる霊地なりといひ伝ふ。されば天津神を奉祀し高尾大明神と言ひしを、後世高岡と改称せしものにて、鳥居前の小字を矛立といひ、祭儀に際して矛を建てし地なりといふ。境内には目通り二丈余を有する椎の神木あり、一見して其の古社たるを知る。明治四十一年本殿を再興し以て偉観を呈せり。延命寺は当社の別当にして、山号を高尾山といふ、其の関係を物語れるなり。
氏子戸数=九十五戸。
境内神社。鷺神社。祭神=不詳。
     秋葉神社。祭神=加具土命。  〉 

ナガもトメも蛇神のことだろうから、本来はそうした蛇を祀ると思われるが、それらしい神は祀られていないよう。それともその蛇は鷺になったものか。鳥の足を見ればコイツ昔は爬虫類だったな、と想うが、昔の人はもっと観察力があっただろうから、蛇と鳥は同類と見ていたのかも。。。


高野山真言宗高雄山延命寺
延命寺(永留)

『京都府熊野郡誌』
 〈 高雄山 延命寺 下佐濃村大字永留小字小者谷 真言宗高野山自性院末
本尊=観世音菩薩。脇立=不動明王、毘沙門天王。
由緒=当山の由緒を按ずるに、愛宕の山麓に寺屋敷と唱ふる旧跡あり、楊柳山延命寺の旧跡にして、現境内には高尾山長善寺あり、天保十年に祝融に罹り、両寺を再建する事困難なれば、右両寺の山号寺号を併せて高尾山延命寺と称し、嘉永年中一寺を再建せり、現今の寺院は即ち是也、其の創立年代等は文献の徴すべきものなけれど、伝説によるに久安六年解脱上人当地に留錫し、一の草庵を結べるを始とし、天和年中重永法印諸国に勧財し、堂宇を建立せりといひ伝ふ。而して当山は真言宗高野山自性院末に属せり。
古文書。一、大般若経巻軸 六十本写本。伝説に武蔵坊弁慶の筆と言へり、奥書に 応永廿七年 癸子 仲秋日修復 物故道恩禅門 建生 妙仁尼 とありて修復の年代を明にし、裏紙には大般若経勧進友重観音寺の文字諸所に現はるるより推考すれば、元友重村観音寺の所蔵たりし事を知らる。而して観音寺の廃寺と共に延命寺に移れるものの如し。右は貴重なる写経にして、紙質書風等より考ふれば、平安期末鎌倉初期頃のものならんといふ。
大字永留延命寺は元愛宕山麓に在りて、愛宕神社の別当たりしなり、現今の延命寺は元長善寺にして両寺を合併し長善寺の寺号を廃し、延命寺の寺号を存せるものなり、愛宕山麓の寺跡は寺屋敷といひ、現今畑地なり。  〉 

日蓮宗宗覚山妙久寺
妙久寺(永留)

『京都府熊野郡誌』
 〈 宗覚山妙久寺
下佐濃村大字永留小字本谷
日蓮宗妙願寺末
本尊=日蓮菩薩。
由緒=当寺の由緒を按ずるに、小字本谷に野村佐右衛門と言へる豪族あり、祖先は一色家の臣なりといふ。元来禅家なりしが、篤く日蓮宗に帰依し、本山妙顕寺の役僧日栄上人を請して教導の師となし、戒律を受け改宗剃髪して宗久入道と号し、専ら弘法に努むる処あり、天正六年三月一寺を建立し、宗久の二字を以て山号寺号となし、宗覚山妙久寺と号し、多くの田園山林を寄付して弘法の資に充つ、依って蓮生院日栄上人を開基とせるなり。文化十二年の頃祝融に罹り、文化十三年九月庫裡を建立し、文政八年本堂を再建と以て今日に至る。
境内堂宇。鬼子母堂。本尊=鬼子母  〉 

ご本尊の鬼子母神は豊岡藩京極家に祀られていた由緒ある鬼子母神だそう、毎年3月末の日曜日には鬼子母神祭りが行われる安産、子授け、子育てのお寺。夫婦円満にも御利益もあると言われているそう。
妙久寺の蓮
蓮寺と呼ばれ、蓮の名所なので、時期を合わせて、ぎりぎり午前中には行ったのだったが、咲いていたのは池の真ん中にこれ一本きり。だいたい花とは無縁なのかも知れないワイ。

境内にこんな石碑がある。
天明義民追頌碑

天明義民追頌碑
天明二(一七八二)年から続いた凶作は多数の餓死者か出る大飢饉(天明の大飢饉)となった。百姓たちは、野山の土を掘り返し木や草の根、年のスクモ、 藁のハッタイなど食えるものは何でも食い飢えをしのいでいた。
 庄屋たちは 久美浜代官所に対し度々その窮状と年貢の減免を訴えた。しかしその願いは聞き入れれられず、重税に苦しむ百姓たちの忍耐は極限に達していた。
 天明四年十月九日の夜、各村々かち数万人ともいわれる百姓たちが岩手峠に集まり、庄屋たちの制止を振り切り久美浜へ押し寄せ一揆に突入した。
 いち早くこの動きを察した代官真野四郎左衛門は、表向き要求を認め一揆を解散させる一方、近隣の諸藩に出兵を要請し、一揆の関係者を捕らえて代官所へ連行した。
 一揆の主謀者と見られた佐野村小国一角は大坂に送られ牢死、永留村野村佐右衛門は、打首、栃谷村今井又兵衛は遠島になったと伝わる。
 又兵衛は亡くなる前に「丹後郡中一閣騒動の事」に大飢饉の惨状と一揆の全容を書き残している。
 今を去ること二百有余年、この義挙を永く後世に語り継ぐため此処に追頌の碑を建立する。
平成十八年十月九日
京丹後市 有志一同



『久美浜町誌』
 〈 天明一揆
…奉行所が厳しい通達を出したにもかかわらず、翌天明四年(一七八四)に熊野郡を舞台に一撲が起こった。
熊野郡の一揆で正確な文献が残っているのは、この天明四年の一揆だけである。
「御料所旧記」には次のような記事がある。
  御代官真野四郎左ヱ門様は天明六年まで六ヶ年間代官であった。この間、天明四年は餓辰年であった。十月九日のこと、御支配所の昨年分(天明三年)石代銀の上納御免など数々申し立てて、御役所に強訴しようと佐野村幸左ヱ門が発頭で百姓一揆が起こり徒党を組んで狼藉に及んだ。
浦明村庄屋忠右ヱ門は御役所(久美の代官所)へ注進し御指図を受けて岩手峠で一揆徒党の者どもをとりしずめるのに骨折ったが、なかなか治まらなかった。
そこで御役所より近国大名衆へ御加勢を
   豊岡様より 二百四拾人
   峰山様より 百六十人
   宮津様より 六百三十余人
お繰出しになり、一接徒党退散いたし、同十四日より五日にかけ御引取りなされたが、中々の大騒ぎだった。
「宮津事跡記」には、
 (前略)天明四年二月より米が高値になり、更には一匁に七合五勺、一石が銀百廿匁内外になった。御領分一同、わけても町方は極めて難渋に及び、餓死人がおびただしく、道傍・辻堂で倒死し、言語につくし難い困窮の有様だった。
同年十月上旬に久美浜支配所の百姓一同、強訴をおこし、治め難いので隣国へ御加勢を頼んで来た。御上様より軍の用意をして御出張なされたが、ようやく同月十四日治まって、犬の堂から御引取りになり町中の老若男女ども翌十五日に見物に出ました。(後略)
とある。これらの文献以外に詳しいことはわからないが、久美浜では酒屋・米屋・呉服屋などに打ち壊しが行われたといわれている。それにしても十月九日から一揆が始まって十四日まで不穏な状態が続いているのであるから、その様子を想像することができる。  〉 

永留城跡
永留城跡

《交通》


《産業》


永留の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 熊野郡
一 永冨保  十六町百六十五歩内
  十五町一段二百六十八歩     成吉越中
  八段二百五十二歩         同三郎左衛門   〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎永留村(久美浜街道、野中村の西、是より川上谷橋詰村に出る)  〉 


『京都府熊野郡誌』
 〈 抑も大字永留は往古小字郷(さと)といへる地に住し、暫次月の谷辺に移住し、其の後本部落をなし、維新後北国街道の改修と共に沿道に移住する者多く、現今にては茶屋本谷と合せ三カ所に分住せり。而して字永留は八丁畷より野中に達する耕地等往古は杉の森林たりしが、地変のため埋没せるものといひ伝ふ。されば文化より安政年間に於ては、冬季より早春にかけ、根木堀と唱へ多数の埋木を採取するを副業とせりといふ。右等により推考すれば、略上代の地勢を察する事を得るなり。

永留の傘松。大字永留小字を藏谷といふ。延命寺裏山を進む事一町余にして傘松あり、廻り八尺五寸枝の延長十二三間にして、傘を開けるが如きを以て名づく。其の風趣洵に掬すべく、四方の展望亦頗る佳なり、傍に大師堂あり明治四十年頃の建立に係れりといふ。  〉 


谷垣古墳群
「京都新聞」(97・10・29)
 〈 *「球文鏡」2面出土*小型化し携帯可能*被葬者は首長クラス*久美浜・谷垣古墳群18号墳
 久美浜町永留の谷垣古墳群18号墳(古墳時代中期初頭=五世紀前半)の発掘調査をしていた同町教委は二十八日、小型化された珠文(しゅもん)鏡と呼ばれる国産の鏡二面が出土した、と発表した。古墳規模も大きく、「被埋葬者は一帯を支配した首長クラスではないか」と見ている。
 18号墳は、長さ四十㍍、幅三十㍍の台形状。珠文鏡は、二段墓坑(ぼこう)式になった主体部から出土した。一面は、直径六・八㌢、厚さ一・五㍉。外縁から順にのこぎり状の鋸歯(きょし)文様、櫛歯(くしば)文様が刻まれ、一番内側には珠文帯が施されている。他の一面は、直径八・五㌢、厚さ二・五㍉で、同じように順に櫛歯文様、珠文帯が見られる。
 小型化が進み、携帯できるサイズだが、「やはり権力のシンボルではないか」と能勢知生調査員は見ている。
 鏡以外には、埋葬時に枕に転用したと見られる鼓型の土師器の器台やめのう製の勾(まが)玉など多数の玉類や鉄斧(てっぷ)などの鉄器が出土した。
 現場は、佐濃谷川中流域の右岸約一㌔の丘陵上(標高約七十㍍)にあり、調査は国営農地造成に伴って実施された。  〉 


『京丹後市の考古資料』
 〈 谷垣古墳群(たにがきこふんぐん)
所在地:久美浜町永留小字谷垣ほか
立地:佐濃谷川中流域左岸丘陵上
時代:古墳時代前期~後期
調査年次:1997年(府センター、久美浜町教委)、1998年(府教委)
現状:調査範囲は消滅(国営農地)
遺物保管:市教委、丹後郷土資料館
文献:BO86、C121、Cl28、F251
遺構
谷垣古墳群は、永留から女布地区への道に面した丘陵上に立地する19基からなる古墳群であり、1~17号墳が立地する尾根と18、19号墳の位置する尾恨に大別できる。18、19号墳ら4北東へのびる丘陵上には、サト古墳群が分布する。
調査されたのは、1~3、18、19号墳である。
18号墳は標高68mを測る丘陵最高所に立地し、地山整形の長さ40m、幅30mの方墳である。埋葬施設は、長6・7m、幅3・8mの墓壙内に箱形木棺を納める。棺内の2ヵ所からは、土師器鼓形容器の転用枕が出土しており、2体を埋葬したものと思われる。19号墳は、18号墳北東側平坦面に位置し、長4m、幅2・5mを測る墓壙に箱形木棺を納める埋葬施設が検出されている。2号墳は埋葬施設が検出されず、3号墳築造時の残丘と思われる。1号墳は径14m、高1・8mを測る盛土造成の円墳である。埋葬施設は長3・2m、幅1・1mを測る墓壙に箱形木棺を納める。墳丘上には土師製筒形容器を埋納する鎌倉時代の経塚が営まれる。3号墳は径15m、高2~3mを測る盛土造成の円墳であり、2基の埋葬施設がある。第1主体部は須恵器転用枕がある。
遣物
18号墳は、墳丘裾部より土師器器台(3~5)、高杯(2)が、棺内北側より転用枕の土師器鼓形器台、珠文鏡(7)、鉄斧(8)が、棺内南側より転用枕の土師器鼓形器台(1)のほか珠文鏡(6)、ヤリガンナ(9)、勾玉、管玉、ガラス小玉が出土している。また土玉と報告された資料は、後の分析により錫玉と判明した。  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 谷垣古墳群 遺跡番号二七
字永留小字谷垣に所在する。
古墳群は佐野谷川中流域の左岸、丘陵上に立地する。
一号墳は直径一四メートル、高さ一・八メートルの円墳で、墳頂部の中央に木棺直葬の主体部が検出された。棺内には碧玉製勾玉一点、ガラス小玉一〇点、紡錘車一点を副葬していた。また墳頂部では主体部西側に接してまり須恵器杯・壷、土師器椀・マリが供献されていた。
三号墳は直径一五メートル、高さ二~三メートルの円墳で、木棺直葬の主体部を二基検出した。第一主体部は二段墓壙内に割竹形または舟底状木棺を直葬し、棺内に鉄製の大刀、刀子、不明鉄製品、璃璃製勾玉、碧玉製管玉、ガラス小玉などを副葬していた。また棺内に須恵器蓋坏を転用した土器枕が二対置かれていた。木棺裏込め土上には鉄鏃と須恵器、墓壙上にも須恵器が供献され、墓壙上須恵器には革袋形提瓶が含まれていた。第二主体部も割竹形か舟底状木棺を直葬し、棺内に玉類と鉄刀、刀子を副葬していた。時期は土器枕の須恵器から見てTK一〇併行(古墳時代後期中葉)と考えられる。
一八号墳は長軸四〇メートル、短軸三〇メートルの楕円形墳である。墳頂部中央には長さ六・七メートル、幅三・八メートルの墓壙内に箱形木棺を直葬した主体部を検出した。棺内には二点の土器枕があり、双方に玉類(璃璃製勾玉・碧玉製管玉・ガラス小玉と金属製丸玉)と鏡(珠文鏡二面)、鉄製農工具(鋤・鍬先、ヤリガンナ)が副葬されていた。また墳丘裾には鼓形器台、小型器台が供献されていた。これらから時期は古墳時代前期末葉~中期前葉と推定される。
一九号墳は一八号墳墳裾のテラス部に位置し、墳丘を持たない。主体部は二段墓壙に箱形木棺を直葬したもので、墓壙底には二対の窪みが見られたが、副葬品はガラス小玉一点のみである。なお墓壙上に標石と見られる直径三〇~五〇センチの円礫が置かれていた。  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 永留経塚 遺跡番号一三六
字永留に所在する。
遺跡は、永留集落から南西方向の丘陵頂上に立地する。
一九三七年、開墾作業中に石室が発見されたと伝えられる。石室内には土師製筒形容器が安置されていた。石室は地表下約六・一メートルから発見され、加工された五つの石材を組み合わせて構築されていた。石室の底部と天井部は確認されず、直接、封土によって覆われていた。
出土した土師製筒形容器は、筒身部と蓋部からなっており、筒身部の口径約一六・一センチ、高さ約二五・七センチを測
る。筒形を呈し、径は口縁部に近づくほど広がる。粘土紐巻き上げによって成形され、口縁部は不整形なため蓋部と密着しない。蓋部は、笠形の被せ蓋であり、正確な寸法は不明だが、天井部中央に約一・八センチの素鈕がつく。筒身部と同様の成形技法をほどこす。筒身部と蓋部の一部は発見の際に破損され、欠失した。
伴出遺物は確認されず、経筒および経巻も出土しなかった。そのため、埋経遺跡であると断定することはできず、中世墳墓の可能性も考慮に入れなけれぽならない。   〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 谷垣経塚 遺跡番号二七
字永留小字谷垣に所在する。
遺跡は、永留集落の東側に接する丘陵尾根筋上に分布する。
古墳群は二〇基から構成される。発掘調査により、一号墳墳頂部から主体部と重複する形で埋経遺構と考えられる遺構一基が発見された。遺構は、径約〇・六メートル、深さ約〇・二五メートルを測る土坑であり、内部には土師製筒形容器が安置されていた。筒形容器の上部には蓋が割れた状態で乗っており、蓋上には扁平な石が二つあった。土師製筒形容器は、筒身部と蓋部からなり、筒身部は口径約一八・五センチ、高さ約二〇・五センチを測る。形状は筒形を呈し、わずかに丸みのある底部から屈曲して上方にまっすぐ立ち上がり、口縁端部でやや内傾する。外面にはナデとユビオサエの痕跡が認められる。蓋部は、口径約一九・五センチ、高さ約六・八センチを測る。形状は、わずかに丸みのある天井部から内彎しながら下方に降り、口縁端部に至る。内外面ともに、ナデ痕跡が残る。
土師製筒形容器以外に遺物は出土しておらず、時期の特定は困難である。  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 永留城跡 遺跡番号二五六
字永留小字蔵ノ谷に所在する。
遺跡は、永留川に沿って南北に走る谷地形(通称本谷)の西側丘陵に分布する。
標高八八メートルを測る丘陵頂部には、本丸と推定される平坦地と堀切を挟んで幅の狭い平坦地があり、そこから北西・東・南側に曲輪状の削平地が階段状に展開する。城跡の範囲は東西約二五〇メートル、南北約二〇〇メートルと推定される。
東に延びる尾根筋先端(A地点)では、丘陵先端部を削平して造成された東西約一〇メートル・南北約七メートルの平坦地と、三方を急峻に切り落とした曲輪状平坦地が確認された。平坦地からは、幅約二〇~三〇センチの排水溝と三つの柱穴が検出され、建物の所在が推定される。同様に、東側の帯曲輪状平坦地からも排水溝と柱穴が検出され、柱穴の一部は弧を描くように外側に沿っているため、防御柵が設置されていた可能性もある。出土遺物は、平坦地表土中から出土した土師器片一点のみであり、時期の特定は難しい。A地点において確認された遺構は、簡単な防御施設をもつ監視施設と考えられ、今後の調査が期待される。  〉 






永留の小字一覧


永留(ながどめ)
中ノ谷 和田口 知原 砂粉田 松木谷 ユル口 下川原 エコノ谷 フタア 東五斗 西五斗 焼山 好谷 小谷 ヨキウチ 堂カ久宝 海士境 大般若 アゴ谷 出合 柴下 ユリ谷 入道 コロガシ 大柴 伝覚 小伝覚 奈良クヒ 新田 コモワラ 京ツカ 火ヅツ マンダラ カン谷 生カン谷 宮ノ谷 宮ノ岡 宮ノ仲 宮ノ前 ミツク谷 フカタ 左万田ラ 通リ谷 コヲノス 垣田谷 ホコ立 前田 ゾウ谷 下坪 屋ナ谷 小者谷 奥掛 森 坂ノ下 三用谷 ヤノ谷 里 大畑 札ノ下 古ト 奥地谷 ツツミ谷 シヨウ 石奥 岩山谷 地蔵伝 ウスイ ソフシ 反ノ下 シキノ尾 月ノ谷 井尻岡 ミミシヨ 谷カキ 里口 フリ上ケ ミタカキ 黒丸 池ノ谷 テコ谷 谷垣 三反田 コカミ谷 コァシ谷 志水 八上谷 小畑山 チヤシン ス谷 後山 ユレ田 畑山 ヌレ田 九谷 三斗谷 カ子イバ アシ谷 墓ノ下 墓ノ谷 大門 上シ 本谷 松本 ヲコリヲトシ 蔵ノ谷 石川 ナシ木谷 細谷 ハツレ谷 京所 スキヨ谷 クモフ ヨノ木谷 コヲノス谷 林谷 大芝 旭井 ジョウ トリノ奥 谷ガキ アマサカヘ ソラシ 本谷川原 小松木田 好谷南上シ ヨキウチ上 ヨキウチ 中田 サウタロ 大畑ケ道ノ上 反ノ下上シ ミミシヨ小谷 谷カキ左谷 里口北アケシ 里口アケシ 里川原 テコ谷アケシ サンタン太 サンタン太道下 サンタンタ サンタンタ下 サンタン田 サンタン田下 コウシロ コウシロ山 後山小谷 ユレ谷 ユレ田小谷 ハカノ小谷 前田川原 梨木谷 京所川原 京所下 京所上シ 京所谷入 ヨノ木谷奥 中マ谷 中間谷 蔵谷 サウ谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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