丹後の地名

中浜(なかはま)
京丹後市丹後町中浜


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府京丹後市丹後町中浜

京都府竹野郡丹後町中浜

京都府竹野郡
下宇川村中浜

中浜の概要


《中浜の概要》



中浜漁港


中浜港での漁獲(丹後町・昭和10年頃) 浜のあちこちで陸上げされた魚を手にする人びと。
(『舞鶴・宮津・丹後の100年』より キャプションも)

久僧の東に続く日本海に面した村。国道178号線は海岸段丘上を走るので見えないが東に友ヶ鼻、西に大島の突出した岩礁があり、その間に入江と白砂の海浜がある。この浜辺と後背段丘のあいだに集落がある。
中世後期の当地は20~30戸の小村であったが、永正の頃若狭国日向村(三方郡の水中綱引きのある村)の漁夫が当地で試漁して好結果を得たので、大永の頃30余戸が移住し以後漸増し、江戸初期には竹野郡内で最も漁業の盛んな村で漁具・漁法も近在の漁村で匹敵するところがなかったという。若狭からやってきたと伝わる村は当村の周辺にも多い。
中浜村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領。当初宇川村の枝郷、のち分村独立。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下宇川村の大字となる。
中浜は、明治22年~現在の大字名。はじめ下宇川村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《中浜の人口・世帯数》 397・159


《主な社寺など》

大野神社
大野神社(中浜)
中浜集落の南に大野山があり、国道178号線からも大野神社の鳥居が見える。社殿は上の方だとか、行ってみる時間がなかった。竹野郡式内社大野神社に比定する説がある。愛宕神社や五神社と合祀されている。大野神社の祭神は、宇気持神・大荒田別命のよう。
もとは海岸近くに鎮座していたといい、社蔵文書では、「中浜村の乾の海岸に大野と名くる地有、其れに一小祠有て大野大明神と称し奉る、是大野神社の神跡纔かに存する所なり、今の俚俗訛て大呂大明神と称す、又此神祠の西南坦平なる松山有て大野口と名く、想ふに古昔の大野神社も亦此辺にありしならん」とある。
竹野郡式内社大野神社は、郡違いだとして丹波郡口大野の大野神社に比定する説や碇高原にあったとする説もある。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 大野神社 村社 字中濱小字大野山鎮座
 (延喜式) 竹野郡大野神社
 (丹後舊事記)
  大野神社  祭神 宇気持神
 (神社明細帳)
 一祭  神  大荒田別命
 一合祀神五社 明治十七年合祀す
   賀具土神 天照皇大神 須佐廼男神 白山神社
 一由緒 創立年月不詳 建替寶永七庚寅年、享和三癸亥年、明治十三年五月、明治四年五月村社に列す、境内百四十三坪、社殿の桁行三間梁行三間、拝殿桁行三間梁行二間半、神寶刀一腰、氏子百九十七戸
 (いはろ字類抄) 大野神社は丹後国竹野郡
 (大日本地名辞書) 延喜式大野神社も此郷にあるべし
 (神名帳考證) 大野神社姓氏録に云ふ大野朝臣は豊城入彦命四世孫大荒田別命なり
 (伝説下宇川村誌稿) 中古以来何れの御代にて在りしか、北丹の海岸未曾有の地妖にて地裂け潮溢れて浦村数里一時に潰壊して波底に入ると今尚神社を南に去る大約五町にして池田の名のみ存せりと伝へいふ、池田村の民屋千餘戸ありしが可憐此地全村廃絶して空しく蒼田と変じ今更に其形跡得て考ふべからず、
同社調文書中左の一節あり茲に掲ぐ、
中濱村の乾の海岸に大野と名くる地有其れに一小祠有て大野大明神と称し奉る是大野神社の神跡纔かに存する所なり今の俚俗訛て大呂大明神と称す又此神祠の西南坦平なる松山有て大野口と名く想ふに古昔の大野神社も亦此辺にありしならん云々  〉 

『丹後町史』
 〈 大野神社 中浜小字大野山
宇気持神、大荒田別命、賀具土神、天照皇大神、須佐迺男神を祭る。
宝永七庚寅年、享和三癸亥年、明治十三年五月にそれぞれ再建が行われた。明治四年五月村社となる。明治十七年五神社を合祀した。  〉 

当社が式内社だとすると、竹野郡小野郷もこのあたりでなかったかと考えられる。当地とする説や小野を生野(生野内)の誤りとする説などがあるが、いずれも推論の域を出ず不明である。

一万度明神
大島
村の西の端にある岩の上にある。一番東側の岩の頂上。
一万度明神
当社は俗に船玉といい舟人の信仰する神という。
このあたりは大野神社の故地ともするようである。
大島(中浜)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 一万度明神 字中濱一万度岩
 (丹哥府志)一万度明神  祭八月朔日 大籠崎といふ所にあり
一万度明神は俗に船玉といふ、舟師の信仰する神なり祭の日は船を粧ひ酒肴を載せ多く参詣す、北戸録に南方除夜以陶詞舟神呼爲孟会蓋此類なり、
 (口碑) 伊勢神宮より出さるゝ一万度大祓を請けて毎年一回大呂崎に祀れるに起る  〉 


曹洞宗慈眼山福聚院
福聚院(中浜)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 福寿院 臨済宗  濱詰にあり
 (同寺調文書) 宗派は禅宗臨済宗にして檀徒二百七十餘戸む有す、由緒左の如し
  寺籍調査表
 直末 京都府丹後国竹野郡浜詰村字浜詰万久山福寿院
 開創由緒 維時覚永十九年白峰石牛創立す、同国輿謝郡文殊村智恵寺開山勅諡心燈妙照禅師別源宗調和尚を似て勧請開山とす、往古は同国本郡木津村万松寺の末寺なり、四世喝厳祖什の代寶暦元年三月山門建立す、五世一乗恵南の代寶暦十四年三月庫裡再建す、安永三年八月双方示談の上小本寺万松寺を離末し、同国輿謝郡文珠村智恩寺の末寺となる、六世玉海智玲の代寛政八年十月中本寺九世雄嶽師の法系を承嗣して法地となる七世説川智言の代文化十年三月檀越協議の末本堂再建す、十一世研宗禅磨の代明治十七年十月双方示談の上中本尊智恩寺を離末し、大本山直末となる、仝十九年四月八日本派寺班四等地へ昇進す、仝二十二年六月廿二日寺班三等地へ昇進す、現十二世揚宗恵順の代明治廿九年三月十四日寺班二等地へ昇進す
 本尊 準堤観世音菩薩
 開山勅諡心燈妙照禅師別源宗調和尚
 法派開山 開山恵玄
 智恩九世 雄嶽子原伝法師
(木津山中氏伝来寺社御改帳) 本寺万松山 万久山  福聚院

 此寺五十三年以前    寛永十九年
  開 基 僧     宗  讃
   元禄五年申六月廿二日

  按、元禄の頃は福聚院と書きたるものか
 什寶 狩野友松筆?、臨済三十三世黄檗即非 和尚筆書、曾我?白筆梅、狩野安信筆毘沙門門、白隠和尚筆達磨、遂翁和尚寒山拾得、白隠大禅師観音大士墨跡、唐居其山水双幅、山田屏山筆亡者双幅等あり  〉 

『丹後町史』
 〈 慈眼山 福聚院 中浜小字上の山 曹洞宗
本尊、聖観音菩薩座像
貞享三丙寅年(一六八三)頃創立、開祖橘州宗曇和尚から現在二十四世山本祖道師に至る。  〉 

浄土真宗本願寺派聖灯山浄念
浄念寺(中浜)
『丹後国竹野郡誌』
 〈 浄念寺 眞宗  字中濱小字山根
 (同寺調査書) 真宗本願寺派末本山は西本願寺にして聖燈山浄念寺といふ、
  本  尊  阿弥陀佛
  由緒、抑丹後国竹野郡宇川庄中濱村聖燈山浄念寺の由来は往昔文明年中御本廟第八世の善知識蓮如上人北国御経回吉崎より若州小濱へ越玉ひ妙光寺にしばらく御滞在し、それより常随昵近の御弟子教聞御房御連れありて?坂を越へ鳥羽谷へ御越こゝかしこ御遊覧しさて山の内と云ふ在所に至り玉ふ、此處に飛権之守重宗と云ふ郷士一宿し玉ふ、彼處にて弥陀の本願念佛の大旨を御化益在しに忽一念発起の安心決定しける、重宗永く上人に御別れ申ことを深くなけきしゆへ御形見として自六字の名號御染筆遊ばし重宗に下さる、難有頂戴し感涙のあまり称号諸共御別れ申しつゝ、上人はそれより丹波を通り摂州富田へ御越在し上人御上洛の後権之守在所に一宇建立致度願に付教聞御房御下し在て御法義相績して、近在近郷普く盛にして則山の内村に一宇を造立し、蓮如の御舊跡退転なりし、かの権之守の二男同苗重正深く本願を仰ぎ、出家得度して法名宗安と改め、重宗頂戴致したる御名号を供奉し同国遠入といへる在所に住し専修念佛の一法を弘通しけるが、大永年中の頃漁翁の勧めによりて便船に乗じ宗安法師吾が有縁の地なりとて此所に錫をたれ玉ひ享禄二年已丑三月廿八日造建し則聖燈山浄念寺と號し五百軆の御本尊と供奉の名號を安置し奉る、もとより若州より来る同行の漁人もこゝに住居し念佛勤行おこたる事なく、しかるに天文二十年辛亥九月三日歳霜つもりて五十五歳にて潔く念佛の素懐を逐け玉ふ、吾老父の血脈伝来たるゆへことにかヽる宿縁目出度名號安置致すこと後の人々に當寺由来を告知らせし爲め書記するものなり
   弘治二年再辰三月廿八日
                   浄念寺 二代
                   釈永安誌
 境内二百三坪、建物桁行六間半梁行五間半
(御本尊裏書)       釈寂如  花押
   木 仏 尊 像 佛性寺門徒丹後竹ノ郡宇川庄中濱村
                 浄    念    寺
              願 主   釈  祖 伝
(丹哥府志) 聖燈山浄念寺 一向宗  〉 

『丹後町史』
 〈 聖灯山 浄念寺 中浜小字山根 真宗西本願寺派
本尊、阿弥陀如来
創立は享禄二巳丑年(一五二九)宗女法師を開祖として現在十四世飛昭念師に至る。  〉 


《交通》


《産業》


中浜の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎中浜村(尾和村の次)
【一万度明神】(祭八月一日、大篭崎といふ處にあり)
一万度明神は俗に船玉といふ、舟師の信仰する神なり、祭の日船を粧ひ酒肴を載せ多く参詣す、北戸録に南方除夜以陶祠舟神乎為孟会、蓋し此類なり。
【慈眼山福聚院】(曹洞宗)
【聖燈山浄念寺】(一向宗)
 【付録】(鈴若大明神、三宝荒神、庚申堂、愛宕社、地蔵堂)  〉 

『大日本地名辞書』
 〈 【小野郷】和名抄、竹野郡小野郷。○今詳ならず、蓋宇川の山谷を指せるに似たり、竹野郷の東にして、一境を成し、与謝郡日置郷の西とす、延喜式依遅イチ神社は今上宇川村大字遠下オンゲに在り、同式大野神社も本郷内に在るべし。  〉 

『丹後旧事記』
 〈 …此国分国なるが故に神社の郡違い多し国造以後の事を不知して撰集なしたる延喜式の誤なり或は大野の神社多久の神社揆枳の神社を竹野郡とし三重の神社を與謝郡に出せし也是皆丹波国の神なり。  〉 

『丹後史料叢書』「丹後国式内神社取調書」
 〈 大野神社
○【姓録】大野朝臣豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也 ○【和名抄】丹波郡ニ大野アリ
【峯】中郡峯山【覈】丹波郡奥大野村口大野村尋ヌベシ【明細】中浜村又峯山町【考案記】郡違ニハアレト丹波郡口大野村十二神社境内岡野神社ニ相違ナシ【道】大野村丹波郡【式考】同上サテ此村ノ人民中古ヨリ日蓮宗トナリテ神社ニハ少モ心ヲ掛ケズ、故ニ児生ルト先ヅ且那守ヘ初参リモ正月元日最初ニ寺参リ其他娶聟ノ悦ビゴト等総テ且那寺ニテ事ヲ済シ神社ハアルノミ祭リモ名バカリニテ無キガ知シ、既ニ御復古来人民ニ守札ヲ渡ストキニ此村人民ハ氏神ハナシトマデ答ヒシ程ノコトナリ、.故ニ大野神社ハ衰頽シテ岡野ト云フ處ニ小祠ト也テ存スルノミ.中古来法華勧請ノ十二所大横現ヲ土地ノ氏神ト称セシハイトモノゝ長キコトニテ悲シキコトノ極ミナリ、サレドモ村老ノ口傳ニハ尊ク古キ社ノヨシ申傳ヘマタマレニハ古帳ナドニ大野大明神トアルハ尊キコトナリケリ。
【豊】口大野村 今属丹波郡 祭神大荒田別命九月廿五日【姓氏】大野朝臣豊城入彦命四世孫大荒田命之後也【和抄】丹波郡モ大野アリ)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 (京都府漁業誌)
中浜部落は文亀の頃迄は二三十戸なりしが永正の頃若狭国日向村の漁夫此地に来り試漁したるに好結果を得しを以て大永の頃三十余戸此地に移住し来たり後漸々戸数増加し今日に至れり当時は延縄漁を主とし傍ら磯窺業及僅かに畑の耕作にて生計を営み居たり慶長年間の頃は宮津領に属し当時漁業は竹野郡中最も盛んにして漁具漁法に於ても近部落中比敵するものなかりしが如し元和の鱈、つのし、鱶等の漁獲多くシイラ漬漁業は朋暦万治の項盛なりし鰈漁業は永禄の頃より鱈漁業は遠く大永の初年若狭日向浦の移住者之を創め永録慶長元和の頃尤も盛んに水窺鏡漁は永禄の頃始まりし如く伝へらるれど其以前より行はれ居りしものならん  〉 

『丹後町史』
 〈 中浜部落も室町時代すなわち十六世紀の中頃文亀(一五〇一)の頃迄二、三十戸のわびしい漁村であった。この村は耕地は少なく、永正(一五〇四)のころ、若狭日向村の漁夫がこの地に来て試漁して好結果を見て、十五、六年後の大永の頃三十余戸移住してから漸次戸数が増加し、今日の基盤がつくられた。当時は延縄業を主とし、そのかたわら磯窺(いそのぞき)業も行われた。漁業専一を生計の中心と考え、慶長年間(一五九六~一六一四)にその隆盛を見て、竹野郡の沿岸では漁具、漁法ともにすぐれ近村部落随一といわれた。特に鱈・つのじ・鱶・鰈等豊漁であった。
弘化二年(一八四五)天領中浜村には和船八艘積高二百七石の記録(峰高中川正哲先生資料)がある。
直乗船頭 儀平太二五石(二人乗) 武太郎一五石(二人乗)
茂平一八石(二人乗) 九郎左衛門一九石(二人乗)
藤助一五石(二人乗)惣平六〇石(三人乗)
徳兵衛五〇石(二人乗)文右衛門五石(二人乗)
当時間人についで、和船による回漕業で諸地万と商取引がなされたことがうかがえる。
大正から昭和にかけて一本釣、烏賊・鯖の漁獲も多かったが、袖志と同じく漁法の進歩により乱獲の結果一時衰微の兆が表われ、国費と府費により港湾の改修、漁法の改良、機械化の方向に進み現在(昭、四七・一二)動力漁舶総数八十二隻を数え、その昔の歴史にふさわしい活気をみせている。
代々の大庄屋であり、しかも酒造家として享保年代(一八〇一)から実に百七十余年の歴史を持つ永雄文右衛門氏宅を訪ねると古くからの古記録が沢山保管されている。天保・弘化・嘉永年間のものが多く、御運上先銀見付帳・御納所米銀請取帳・海岸御見分豊岡御役人様止宿帳・宗門御改人別帳・御運上先銀名主帳・諸夫銀割合帳、運上海懸諸入用割合帳・御運上海稼人別帳等の文書が多く残されている。
明治二十五年大火に見舞われ、百七十五戸を焼失。当漁村は殆んど潰滅に瀕した。  〉 




中浜の小字一覧


中浜(なかはま)
欠ノ下(かけのした) 東浜(ひがしはま) 欠ノ上(かけのうえ) トヲシキ 東浜岩ノ上(ひがしはまいわのうえ) 片岩(かたいわ) 水ケ本(みずがもと) ゴウド 堂ノ前(どうのまえ) 西ノ沢(にしのさわ) 堂ノ西(どうのにし) 友ケ崎(ともがさき) 家ノ下(いえのした) 浜田(はまだ) 前田(まえだ) 袖志ノ上(そでしのうえ) 山本(やまもと) 尾和ノ上(おわのうえ) 尾和道ノ上(おわみちのうえ) 尾和道ノ下(おわみちのした) 石ケ谷(いしがたに) 東石ケ谷(ひがしいしがたに) ソブソブ 小坂(こさか) 愛宕ノ下(あたごのした) 宮ノ前(みやのまえ) 岡ノ角(おかのかど) 寺ノ後(てらのうしろ) 寺ノ東(てらのひがし) 坂ノ上(さかのうえ) 坂ノ下(さかのした) 家ノ脇(いえのわき) 中浜(なかはま) 峠(とうげ) 家ノ上(いえのうえ) 山ノ下(やまのした) 池ノ上(いけのうえ) 上ノ山(うえのやま) 小屋(こや) 松崎(まつさき) 中道(なかみち) 塚畑(つかばたけ) 池田(いけだ) 丸山(まるやま) 南欠(みなみかけ) 小谷(こたに) 砂田(すなだ) 中川原(なかかわら) 菖蒲谷(しょうぶだに) 落山(オチヤマ) 小豆谷(あづキだに) 吉野(よしの) 白石谷(しらいしだに) 岡ノ宮下(おかのみやした) 竹ケ鼻(たけがはな) 沖ノ野(おきのの) 千町ケ野(せんちょうがの) 浜(はま) 城岩(しろいわ) 穴ノ東(あなのひがし) 横山(よこやま) 赤ハゲ(あかはげ) 芋ケ谷(いもがたに) ダラヌケ 落シガ谷(おとしがだに) 大野山(おおのやま) 東カンダ(ひがしかんだ)


関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2014 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved