丹後の地名

坂井(さかい)
京丹後市久美浜町坂井


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京都府京丹後市久美浜町坂井

京都府熊野郡久美浜町坂井

京都府熊野郡海部村坂井

坂井の概要


《坂井の概要》



境とか阪井とも書くが川上谷川中流域西岸の山麓の集落、国道312号が東西に走り、西は岩出峠を経て久美浜に、東は橋爪。
坂井村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年幕府領、宝暦13年但馬出石藩領、天保6年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年海部村の大字となる。
坂井は、明治22年~現在の大字名。はじめ海部村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《坂井の人口・世帯数》 75・27

《主な社寺など》

陵神社古墳群

陵神社
集落背後の山の高い場所に鎮座している。同社の伝えによると、往古海士から神社への道があり、海士の海部直の子孫は代々祝を職とし、当社に奉仕してきたという。現在坂井と海士の中間辺りを鳥居崎とよび、鳥居の柱石と思われるものが残るそうである。
ミササギ・陵というのはフツーには天皇と皇后の墓所だけを呼ぶ特別な言葉であるが、そうした慣習が定着する以前の名なのではなかろうか。当社鎮座の山の裏側に陵神社古墳群があるが、その被葬者たちを祀るものか。
陵神社(坂井)

『京都府熊野郡誌』
 〈 陵神社 村社 海部村大字坂井小字永助鎮座
案ずるに神服連海部直を祀れるものの如し。
由緒=古老の口碑によれば、往古字海士より神社に達する道路あり、其の中間鳥居崎といへる小字ありて、現今耕地となれるも尚鳥居の柱石と認むべきもの一個を存せり。字海士は海部直の子孫の居住地にして、子孫代々祝を職とし、当社に奉仕せりといふ。尚現今境内社の一たる一宮神社は、元ブレウ島に鎮座ありて丹後の一宮たりしが、中世府中に移転せる処なりと口碑に存すれど、そは神職たりし海部氏が当社より、養老年間与謝郡府中に転し、丹後の一の宮即ち籠神社に奉仕せるより起れる誤伝にして、神社の移転説は文書の徴すべきものなく、神社の資料たる古来の文献に照し根拠なきが如し。陵神社の御祭神は丹波道主命を奉祀し、山頂の古墳は、道主命の墳墓にして、西麓宮の谷なる部落は御陵守なりきといひ伝ふ。されど伝説其の他四囲の事情を考察するに、何れも確証を得ざれば断定する能はざれど海部直の子孫が神職として奉仕し、海部直の館跡所在地たる字海士より通路ありといひ、海部直は孝霊六世の皇孫なれば、陵といふ社名にも適へるより考ふれば神服連海部直の奉斎せりと見る方真に近きが如し。暫く伝説を記して後証に竢つ。
氏子戸数=三七戸。
境内神社=一宮神社。祭神=不詳。元ブレウ島に鎮座ありしを明治十二三年頃現地に移転せり。古来ヤワの神と唱へ霊験著しとて弓を献じ祈願をなすもの多し。
     稲荷神社。祭神=豊宇気毘売神。  〉 


坂井城跡
赤井悪四郎城址があるとされる。この氏は鬼ケ城山や氷上郡春日町黒井の赤井悪右衛門の一族でなかろうか。
『京都府熊野郡誌』
 〈 坂井城は字坂井に在り。丹後旧事記、一覧集等に記載せるも、実地の調査には、城趾と見るべき土地見当たらず。伝説等によるに、小字別野といへる山上の辺なりしか尚考ふべし。

坂井城は字坂井に在り、丹後旧事記丹後一覧集等に坂井城主赤井悪四郎とあれど、実地を調査するに城山と認むべき処なし、恐らくは小字別野の山上辺に小さき砦にても在りつらんと想像せらる、此の別野の麓に赤池とて大なる溜池あり、朱壷を洗へる水流入して、池水為に赤し依って赤池といふとは古来の伝説なれど、そは赤井家に付属せる溜池なるより誤り来れるものなりとは、先輩の説ける処なり。  〉 


《交通》


《産業》


坂井の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎阪井村(宮津街道、友重の東)
【陵大明神】(祭九月九日)
【赤井悪四郎城墟】(末考)
【一ノ宮大明神】
宮の傍に大なる杉の樹あり、其下にて友重の家臣其瘡を病て死す、今瘡を患ふもの祈願をこむ極めて験ありといふ。  〉 


久美浜町史・史料編
 〈 陵神社古墳群 遺跡番号五〇
字海士小字別所に所在する。
古墳群は二一基からなり、川上谷川下流域左岸の丘陵上に立地する。一二号墳は直径一九メートルの円墳である。墳丘の南北それぞれに周溝が残っていた。内部主体は竪穴系横口式石室の系譜を引く横穴式石室である。開口部側に一段高い段差を設け、両袖を形成する。玄室内の一段目は玄門部を除き細長い石材を横置きし、この上に小型の石材を小口積みする。玄室床面には小礫を敷いている。石室の規模は玄室長四・七メートル、奥壁幅一・四メートルである。石室は盗掘を受けていたが、副葬品は本来の位置を留めるものが多い。奥壁付近北東側には初葬時のものと思われる須恵器蓋坏・広口壺が、同南東部には第一次追葬時と見られる須恵器蓋坏・蓋付短頸壺・子持ち器台の蓋、土師器短脚椀形高坏が第二次追葬時以降に片づけられた状態で出土した。また奥壁付近の礫に埋没してヒスイ(硬玉)製の勾玉一点が出土した。このほか、須恵器転用枕の蓋坏が玄室内三ヵ所に置かれ、これに対応するように鉄刀・刀子が出土した。また玄門部の須恵器転用枕の上に鉄鏃が置かれていた。古墳の築造時期は後期中頃で、追葬は後葉から末にかけて行われた。  〉 


『京丹後市の考古資料』
 〈 陵神社古墳群(みささぎじんじゃこふんぐん)
所在地:久美浜町海士小字別所
立地;川上谷川下流域左岸丘陵上
時代:古墳時代前期後葉~後期
調査年次:1990年(久美浜町教委)
現状:12、21号墳は消滅(ゴルフ練習場)
遺物保管:市教委
文献:B023、BO51
遺構
陵神社古墳群は、川上谷川を見下ろす21基の古墳群である。南側の1~11号墳は墳丘をもつ円墳、方墳であり、北側の13~20号墳は階段状の古墳である。12号墳および新たに見つかった21号墳が発掘調査されている。
12号墳は、古墳群の中央より北側の標高31m地点に立地する径19m、高2.5mを測る円墳である。断側は地山整形、東側は盛上により墳丘を造成しており、尾根に直交する北東、南西側には周溝を巡らす。埋葬施設は、墳丘中央に南南西に開口する両袖式のの横穴式石室が設けられている。羨道部は破壊されているが、玄室部より一段高い。玄室は、長さ4.72m、奥壁部幅1.44mを測る。玄室上部および天井石は、過去に取り去られていた。なお12号墳西側の21号墳は、木棺直葬の埋葬施設をもつ小古墳である。
遺物
12号墳石室内からは、須恵器杯、短頸壺、ハソウ、土師器高杯、黒色土器椀、鉄刀、刀子、鉄鏃、硬玉製勾玉が出土している。須恵恭は、TKI0型式からTK209型式のものが見られる。21号墳は、木棺内より鉄鏃、刀子、砥石が出土している。
意義
12号墳は、石室羨道部が玄室より一段高いものであり、いわゆる竪穴系横口式石室と考えられる。このタイプの石室は、離山古墳のように、丘陵上に立地するものが多い。12号墳は、出土土器から見て6世紀中葉に築造され、後葉まで追葬されたものと思われる。
21号墳は、鉄鏃から見て12号墳に先行する6世紀前葉の古墳と思われる。墳墳丘を持つ2号墳は、採集土器から5世紀後葉のものである。12号墳は、古墳群中、最後に築造されたものに竪穴系横口式石室が導入されたものと評価できる。  〉 




坂井の小字一覧


坂井(さかい)
岩手 千ノ坂 坊主谷 二ケ作 二カ作 湯谷 岡田 一枚畑ケ 事田 北外 広長 溝尻 北ノ後 梅田 下河原 上河原 樋口 横長 六郎右衛門 山崎 砂田 山サキ 幸ノ神 万燈山 高尾 永助

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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