丹後の地名

佐野(さの)
京丹後市久美浜町佐野


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京都府京丹後市久美浜町佐野

京都府熊野郡久美浜町佐野

京都府熊野郡佐濃村佐野

京都府熊野郡上佐濃村佐野

佐野の概要


《佐野の概要》



国道312号で比治山トンネルを抜けたところの集落。佐濃谷川とその支流佐野川の合流点付近に位置し、佐野甲、佐野乙、佐野丙の3行政区から成る、かなり広い集落。
古代の佐濃郷の地で、「和名抄」丹後国熊野郡五郷の1つ。時期は下るが、久美浜町円頓寺山の神1号経塚より出土した嘉応2年(1170)9月20日在銘の経筒に「丹後国管熊野郡佐野郷大治村円頓寺」と見える。
中世の佐野荘で、平安末期~戦国期に見える荘園名。石清水八幡宮寺領。保元3年12月3日付で石清水八幡宮寺領に対する違乱を停止すべきことを命じた官宣旨に、「丹後国 佐野庄」と見える。
「丹後国田数帳」には「佐野郷」25町9反102歩、「佐野庄」9町、「佐野一色」13町5反8歩が見え、「丹後御檀家帳」には「佐野のひじ山」「佐野のとりいいしのしろ」が見える。
天正12年7月22日には、細川忠興が、西川十郎右衛門に小牧・長久寺平の戦の忠賞として「熊野郡佐野庄之内百石」を宛行っている。現在、久美浜町佐野の小字地シワに八田八幡神社が鎮座するが、佐野別宮とは狭義には同社を、広義には佐野荘を指す。荘域は佐濃谷川の上流域一帯を占めたか。江戸期には佐野・尉ケ畑・二俣の3か村が佐野庄のうちとされていた。
佐野村は、江戸期~明治22年の村。「慶長郷村帳」「延宝郷村帳」には佐野庄と見える。佐濃谷川上流に枝郷の尉ケ畑・二俣がある。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上佐濃村の大字となった。
近代の佐濃村は、大きな意味のもので、昭和26~33年の自治体であった。上佐濃村・下佐濃村が合併して成立したもので、合併各村の14大字を継承し昭和27年村役場を新築した。同33年久美浜町に合併。村制時の14大字は久美浜町の大字に継承された。
佐野は、明治22年~現在の大字名。はじめ上佐濃村、昭和26年佐濃村、同33年からは久美浜町の大字であった。佐野乙は明治43年頃から一行政区を成し、また佐野丙も昭和15年一行政区となって、以後地内は佐野甲・佐野乙・佐野丙の3行政区より成っている。平成16年からは京丹後市の大字。

近代の上佐濃村は、明治22年~昭和25年の自治体。尉ケ畑・二保・小桑・佐野・安養寺・野中の6か村が合併して成立したもの。旧村名を継承した6大字を編成。昭和26年1月1日佐濃村の一部となった。
近代の下佐濃村は、明治22年~昭和25年の自治体。永留・丸山・女布・竹藤・長野・坂谷・円頓寺・郷の8か村が合併して成立したもの。旧村名を継承した8大字を編成。上佐濃村の下流域およびその支流域に位置する。昭和26年1月1日佐濃村の一部となった。

《佐野の人口・世帯数》 308・110

《主な社寺など》

矢田八幡神社
矢田八幡神社(佐野)
佐野の真ん中あたりの山の上に鎮座する、国道から参道が続いている。宇佐八幡宮を勧請したと伝えるが、中世佐野庄は石清水八幡宮寺領であったので、足利義詮御教書に「佐野別宮」とある石清水八幡宮別宮かも知れない。もと14ヵ村の氏神で、現在の社殿は文政3年(1820)に再建されたものである。祭日は鹿野の八幡神社と同じ旧暦8月15日であったが、明治27年から4月15日。渡御・長刀振・太鼓打・太鼓台・相撲・芝居などで賑わったという。

『京都府熊野郡誌』
 〈 矢田八幡神社 村社 上佐濃村大字佐野小字地シワ鎮座
祭神=応神天皇・仲哀天皇・武諸隅命。
由緒=当社は往古宇佐八幡宮を勧請せりといひ伝ふ。而して元十四ケ村の氏神として崇敬せる処にして、今尚例祭に参加せる古例を存せり。現社殿は文政三年九月の再建造営に係る事は棟札により明なる処にして、境内樹木の状態より察するも古社たるを知る。而して設備財産等夙く完成を告げ、大正五年十二月幣饌料供進神社として指定せられし処なり。
氏子戸数=百八十六戸。
境内神社。高良神社。祭神=武内宿禰。
     水無月神社。祭神=月読命。
     若宮神社。祭神=卯の御神。
     御霊神社。祭神=応神天皇。
   右社は元小字シワに鎮座ありしが、明治四十一年九月許可を得、境内社として移転せる処なり。  〉 

浄土宗光明山極楽寺
極楽寺(佐野)

『京都府熊野郡誌』
 〈 光明山 極楽寺 上佐濃村大字佐野小字中良 浄土宗鎮四派智恩院末
本尊=阿弥陀仏。脇立=観世音菩薩・大勢至菩薩。
由緒=当山開基は不詳なれど、元禄七年来誉了円和尚の中興に係れる処にして、元久美浜本願寺末なりしが、現今本山智恩院の直末となれり。   〉 

浄土真宗本願寺派西念寺
西念寺(佐野)

『京都府熊野郡誌』
 〈 上佐濃村大字佐野小字神末岡 真宗本派本願寺
本尊=阿弥陀仏。
由緒=当山の由緒を按ずるに、小字神谷の山麓に寺屋敷と称する処あり、当山の元地にして現在の地に移転せし年代は明ならず。されど前面の石階に文明六年と刻せるを見れば、其の当時伽藍を再建移転せる者ならんか、爾来百八十余年を経、慶安三年三月釈惠了再建を図り、寺運益々挙れりといふ。  〉 


佐野城趾
比治山峠から下りてくると佐野集落へ入る手前の右手の山の上にあったという。通称城山(しろやま)といい、裏手には城跡に通じる切通しが残り、中腹には井戸跡があり、殿谷(とのだ)・的場などの地名が残るそうである。
「一色軍記」に「佐野城 佐野備前守 足利の浪土、本名不知、落城の後油池城にて打死」。「丹哥府忘」は「佐野備前守は一色氏の部将なり、天正十年四月六日長岡玄蕃頭興元の為に討死。法名常楽院殿広林禅定門といふ、位牌極楽寺に納む。其一族に佐野佐吉といふものあり此処の城主なり。天正十年長岡の軍起るにより佐野備前守一色の命をうけて油池の城よりここに移り長岡の軍と力戦す。落城の後油池の城に帰りて自殺すといふ」。丹後国御檀家帳に「ゆうけ 家百軒斗 大なる城主也 佐野殿」の佐野殿との関連が考えられる。 丹後国田数帳に「元重保 十二町二段 佐野四郎」「海土郷 四十四町六段百九十八歩 佐野四郎」また「佐野郷 廿五町九段二歩内…十三町六段三百八歩 佐野四郎」とあり、同族と思われる佐野四郎の名がみえる。

『京都府熊野郡誌』
 〈 佐野城は字佐野に在り。田数帳に佐野郷佐野四郎海士郷佐野次郎とあれば、備前守親縁の者たるを知る。天正年中落城の後意布伎城にて戦死す。
佐野城址。通称城山といひ大字佐野の東方に聳える丘陵にして、山の裏手には本城に通ずる古道切通し等あり。山の中腹に井戸あり、小字には殿谷射場等の名称を存し頗る要害の地たり。丹後国惣田数帳に依るに、佐野郷の内参町六段三百八歩佐野四郎とありて、当地方に於ける豪族たりし事を知らる。されば此の城山といへるは佐野四郎の古城跡にして、後佐野備前守一色の命を受け、油池の城より移りしが、天正十年細川氏の軍と力戦し、落城の後油池の城に帰りて自殺せりといふ。佐野小国家(現戸主粂蔵)「先祖仏霊記」を按ずるに、佐野備前守は建武年中源義教鎌倉を退去し、山陰道伊路の郷(現今の佐野)に降り住む、其の十二代の嫡胤を佐野備前守源祐昌といふ。天正十年四月朔日(丹哥府志六日とあり)戦死せる趣を記せり。(按ずるに義教は足利六代の将軍にて応永元年の生なり、建武は六十年前の年号にして、足利義教は満祐の為に弑せらる、されば丹後に降れりといへるは、或は同名異人にして鎌倉に仕へし武士の一人たらんも知るべからす。筆者が建武といひ義教といへるは誤ならんも佐野備前守の来歴を考ふる一助たれば暫く茲に記す)。法名を常楽院殿広林禅定門といひ、極楽寺に位牌を納むと丹哥府志にあれど今存せず。佐野の旧家小国粂蔵氏は備前守の末孫なりといへり。而して佐野備前守の妹に喜といへるあり、小国和泉守源宗詮を聟とし家名を継がしむ。和泉守の女を登代といふ、大阪落城の後木村長門守の姪木村主計重郷家臣と共に丹後に逃、登代女木村主計を聟とす、其の家臣等の記事は尉ケ畑浪人隠所の部に述ふる事となしぬ。…  〉 

佐野城趾

《交通》


《産業》


佐野の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 熊野郡
一 佐野郷  廿五町九段百二歩内
  六町八段百五十四歩       安養寺
  十三町六段三百八歩       佐野四郎
  三町六段              式部少輔殿
  一町八段              井上主計
熊野郡
一 佐野庄  九町
熊野郡
一 佐野一色  十三町五段百八歩   八幡領  〉 


『丹後国御檀家帳』
 〈 一佐野のとりいいしのしろ 加藤次右衛門殿
           かへしする人
一佐野のひじ山        三 郎 兵 衛 殿  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 佐野郷・佐野一色・佐野荘・近末保
佐野郷(現在の上佐濃・下佐濃)に成立した荘園公領は、前掲永富保および為延・吉岡・竹藤保のほか、万寿年間(一〇二四~二八)に丹後国衙の寄進という石清水八幡宮領佐野一色・近末保(九、一〇)があり、『丹後国惣田数帳』の段階まで石清水八幡宮領として維持されている。建武五(一三三八)年。足利尊氏寄進状(二三)では、佐野別宮とあるが、これも佐野一色・近末保のことと推定される。一方、佐野郷・佐野荘として表記されるのは、佐野郷内の石清水八幡宮領以外の領域に成立した荘園と推定され、開発領主とおぼしき佐野氏は佐野郷に所領を維持していた。佐野氏はこのほか熊野郡内の元重保・海士郷にも所領を有した(表1)。佐野氏はまた鎌倉時代の文永三(一二六六)年には禅僧無象静照を招いて宝林寺(宮津市小松付近にあった。現在廃寺)を開くなど、その文化的活動にも足跡をのこしている。  〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎佐野村(宮津街道、是より比治山を越て中郡鱒留村へ出る、西は野中、永留の二村を通りて川上谷橋詰村に出る、古名井地、佐野備前守落城の後佐野村といふ)
佐野備前守は一色氏の部将なり、天正十年四月六日長岡玄蕃頭興元の為に討死、法名常楽院殿広林禅定門といふ、位牌極楽寺に納む、其一族に佐野佐吉といふものあり此處の城主なり、天正十年長岡の軍起るによって佐野備前守一色の命をうけて油池の城より爰に移り長岡の軍と力戦す、落城の後油池の城に帰りて自殺すといふ。佐野備前守の家老に小国和泉といふものあり備前守の聟なり、小国和泉木村主計といふものを以て養子とす、木村主計は木村長門守の姪なり。大阪落城の後山川帯刀、北川治郎兵衛、松田利助丹後に遁れて小国主計を主とす、小国主計旦らく之を城ケ畑と云處に匿す、然れども天下の法忍ぶべからず遂に之を官に訴ふ、右の士人後に皆罪を免れて山川帯刀は肥前の平戸松浦備前守、北川治郎兵衛は肥前の大村因幡守、松田利助は伊予の宇和島伊達遠江守へ各百人口を以て御預けとなる。(是時主計介も永く土民となり候と申上候處何方にても住居可致と御免の御書出し被下置候其後大阪諸浪人御構無之と内觸も無之候)今佐野氏の子孫民間に残りて二三代前迄互に文通に及ぶ、其家に古き御朱印といふものあり、其文に曰、八幡庄内において十二石九斗三升全可令所務者也慶長五年五月廿六日妙貞名当にて御朱印あり、其妙貞といふは江州園町にあり、恐らく佐野氏の祖にあらず木村家の一類なるべし。
【八幡宮】(祭八月十五日)
【光明山極楽寺】(浄土宗)  〉 


『丹哥府志』
 〈 佐野谷の庄(川上谷の東)
◎佐野村(宮津街道、是より比治山を越て中郡鱒留村へ出る、西は野中、永留の二村を通りて川上谷橋詰村に出る、古名井地、佐野備前守落城の後佐野村といふ)…略…
◎安養寺村(久美浜街道、佐野村の西)…略…
◎野中村(久美浜街道、安養寺村の西)…略…
◎永留村(久美浜街道、野中村の西、是より川上谷橋詰村に出る)
◎小桑村(是より以下四ケ村野中村より南へ入る一ツ谷なり)…略…
◎二俣村(小桑村の次)…略…
◎奥山村(二俣村の次)…略…
◎尉ケ畑村(奥山村の奥、是より川上谷市野々村へ出る)…略…
◎郷村(野中村より北へ入る、是より以下村々相続きて海浜へ出る)
◎円頓寺村(郷村の次)…略…
◎坂谷村…略…
◎長野村…略…
◎竹藤村…略…
◎丸山村
◎女布村…略…
◎一分村…略…
◎大井村…略…
◎関村…略…
○左内村(関村の端郷)…略…
◎岡村
◎三原村(以下二ケ村を二分かた関の道といふ)…略…
◎三分村…略…
◎平田村…略…  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 下村岡古墳 遺跡番号三七
字佐野小字下村岡に所在する。
古墳は佐野谷川中流域右岸の丘陵先端部の台地上に立地する。下村岡古墳は大正年間に調査が行われ、「佐野ノ古墳」中の「小字千鳥岡」の古墳として報告されている。当時この古墳は俗に「穴サン」と称されていた。現在下村岡古墳の墳丘はほとんど削平され石室周辺の一部を残すのみであるが、大正年間にはまだ原型を推定しうる程度には残っていたらしく、直径「七、八間」(約一二・六~一四・四メートル)、高さ「二間内外」(約三・六メートル前後)の円墳であると推定されている。内部主体は両袖式の畿内型横穴式石室で、玄室長約四メートル、玄室幅約一・八メートルを測る。現在羨道はほとんど残っていないが、大正年間には羨道が玄室よりも長く残存していたらしい。副葬品は出土していない。古墳時代後期後半の築造になると推定される。  〉 


『京丹後市の考古資料』
 〈 佐濃小学佼保管資料(さのしょうがっこうほかんしりょう)
所在地:不明(久美浜町佐野周辺か)
時代:飛烏時代後期~奈良時代
遺物保管:市教委
文献:AO25、C089.E002
遺物
京丹後市立佐濃小学校には、軒丸瓦、丸瓦各2点、須恵器2点が保管されていた。古くは『京都府の古瓦』展示図録に図版掲載され、後に堤谷窯跡群発掘調査報告書の中で肥後弘幸が図化、報告を行っている。資料自体にネーミングなどは残されておらず、『京都府の古瓦』展示図録にも「佐濃谷出土」と伝えるのみで出土地は不明である。また同書では、軒丸瓦は1点と記されており、軒丸瓦(1)が図版掲載される。そのため、軒丸瓦(2)は、同一地点からの出土資料かどうかが不明である。
軒丸瓦は瓦当面上半を欠失するが、復元径約13・8cm、厚さ2・7cmを測る。周縁はみられない。文様は、凹線表現される中房を中心に凸帯を放射状にめぐらしており、14本分残る。中房に蓮子みられない。軒丸瓦(2)は摩滅が著しく一部を欠失するが、複弁八葉蓮華文と椎定され、復元径14・4㎝、厚3・5㎝を測る。中房には蓮子、外区内縁には珠文が見られる。丸瓦)3)は玉縁式のものが2点ある。凹面は玉縁部先端まで布目痕を残し、凸面は横ナデする。側面、狭端部は、ヘラ削りする。須恵器は、杯蓋(4)、杯身(5)がある。
意義
軒丸瓦(1)は類例が見られないが、周縁のない点が堤谷窯跡のものと類似するため8世紀前葉の所産と思われる。軒丸瓦(2)は、同一地点からの出土資料かどうか不明であるが、平城宮6235型式と類似し1より時代の下がるものと思われる。肥後が指摘するように窯跡出土の可能性が高いものか寺院に伴うものかは不明であるが、熊野郡内に飛鳥時代後期~奈良時代に古代寺院が存在したことをうかがわせる資料として評価できる。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 矢田八幡神社所蔵資料(やたはちまんじんじゃしょぞうしりょう)
所在地:久美浜町佐野
時代:飛鳥時代後期~奈良時代前期
調査年次:なし(表面採集)
現状:不明
遺物保管:矢田八幡神社
文献:C089
遺物
 矢田八幡神社には、辻明山宮司が採集した質料群が残る。採集地点ではなく、資料種別で分類、保管されており、個々の出土地点は記録されていない。
 この一群の資料に丸瓦1点と平瓦30枚点がある。全体に軟質焼成であり、摩滅しているものが多い。
 丸瓦は、広端部に破損が見られるものの、他はほぼ完存している。狭端部幅9.5cm、長37cmを測る行基葺きのものである。凹面は布目痕が残り、凸面は広端部から狭端部へ向けてヘラ削りする。
 平瓦は、凹面に布目痕と模骨痕が残るものが見られることから、樋巻作りの可能性が高い。凸面は、4㎜四方の細かい格子叩きと8~10mm四方の粗い斜格子叩きが混在するものが見られる。
意義
 矢田八幡神社所蔵の瓦類は、軟質のものが多いため、肥後弘幸が指摘するように瓦窯跡出土資料の可能性が高いと思われる。平瓦の叩き板原体は、格子叩きと斜格子叩きが併存しており、横枕窯跡出土平瓦の特徴に近い。一方、堤谷窯跡出土平瓦は、斜格子叩きのみが見られる。これらの点は、同郡内、同河川流域に所在する窯跡の中で異なる叩き板が用いられていることを示すものであり、工人集団が異なる可能性が考えられる。  〉 




佐野の小字一覧


佐野(さの)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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