丹後の地名

須田(すだ)
京丹後市久美浜町須田


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京都府京丹後市久美浜町須田

京都府熊野郡久美浜町須田

京都府熊野郡川上村須田

須田の概要


《須田の概要》



川上谷中央の西の山麓に位置する。伯耆谷川が東流、同川に並行して府道703(永留豊岡線)が走り、西の大阪峠(370m)を経て豊岡市に通じている。(府道とは名ばかりの細い道で、カーナビによっては表示されるようですが、この道は車は通り抜けできません)
伯耆谷は「王家の谷」と呼ばれ弥生後期の須田遺跡や古墳群がある。「古事記」に見える「美知能宇志王(丹波道主命)、丹波の河上の摩須郎女を娶して…」の河上は、本居宣長の「古事記伝」には「熊野郡川上庄須郎(スラ)の里に館を造る」といわれている(丹後旧事記)。東方の市場はもと須田のうちであったという。
須田村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年川上村の大字となる。
須田は、明治22年~現在の大字名。はじめ川上村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《須田山の人口・世帯数》 222・73


《主な社寺など》
「王家の谷」と呼ばれるくらいだから、古代遺跡や古墳は目白押し。
案内地図
特に有名なものは、
湯舟坂2号墳

須田平野古墳
須田平野古墳
湯舟坂2号墳の少し下側の南側に張り出した尾根上、どうやってあの巨石をあそこまで引き上げたもんだろな、などと言われている。道がついていて誰でも登れる。


式内社・衆良神社
天王谷にある衆良神社は川上摩須の勧請と伝える(丹後旧事記)。文化元年(1804)の棟札に「河上牛頭天王」とみえ、牛の神として近隣の信仰厚く、さなぶり(田植じまい)には近郷近在から牛を引いて参詣する者が多かったという。祭礼は9月1日で、近くの村々から餅を供え、それをまいたので、大いに振ったという。
衆良神社(須田)
川上摩須の住居跡というのは当社のすぐ近くだから、その一族がその祖神を祀った社ではなかろうか、須良とか真須とか真須良神社と呼ばれていたのではなかろうか。当時の発音ではシュラであろうが、今の須田の意味である。川上の須田という地名を名乗った一族であったと思われる。今のどなたの苗字でもたいていは地名で、元々そのご祖先が住んでいた場所の地名のことが多い。
発音上の接頭語マが付くとマスラ、語尾のラが脱落すればマス、マもラもたいした意味はなく、スさえ落とさなければどう呼んでも意味は変わりない。スは菅森神社などのスで川の洲のこと、砂鉄が堆積した所ではなかろうか。川上須田の大将一族は産鉄鍜冶専門の集団であったと思われ、大和の産鉄集団の大将、ずっとのちに天皇と呼ばれている、と通婚した。もし何かウンあれば、当地のこの集団が天皇族となっていたかも知れない。

垂仁大后の比婆須比賣(日葉酢媛・比婆須比賣・氷羽州比賣・日葉酢根命)のバスもよくあるBM交換でマスのことと思われ、当地の人であったと思われる。記紀などによれば、父は丹波道主命、母は丹波之河上之摩須郎女で当地の人のよう。三男二女を生み、その第一を五十瓊敷入彦命、第二を大足彦尊(景行天皇)、第三を大中姫命、第四を倭姫命(「倭姫命世紀」の当人)、第五を稚城瓊入彦命という。
比賣は垂仁三十二年に薨じた、天皇はその葬にのぞみ、野見宿禰の進言によって、陵墓に生きた人を埋めたてるのをやめ、出雲よりめした土部百人に、埴をとり人馬や種々の物の形をつくらしめ、いわゆる土物を、はじめて媛の墓にたて、これを埴輪と名づけたという。この大后のとき、石祝作と土師部を定め、狭木之寺間陵に葬られたという。姓氏録左京神別下に、石作連は、垂仁天皇のとき、皇后日葉酢媛命のために、石棺をつくり献じたので、姓石作連公を賜わったとある。
日葉酢媛陵は、佐紀盾列古墳群(奈良市)中の一番古い佐紀陵山古墳とされている。網野銚子山古墳はわずかに小さいが、日葉酢媛陵と相似形に作られているという。
日葉酢媛がヨメに行く前には、当社のこの辺りを歩いていた姿があったかも知れない。記録には残っていないがもちろん「物々交換」であって大和の比賣たちが当地へヨメにやってきたいたであろう、あるいはその陵墓が網野銚子山古墳かも知れない。
須田は古来から現在の須田や市場の範囲であったかは不明だが、おそらくもう少し広く須田と呼んでいたと思われる。
『京都府熊野郡誌』
 〈 衆良神社 無格社 川上村大字須田小字東側鎮座祭神不詳。
按ずるに河上摩須を祀れるものの如し。
由緒=式内小社にして、延喜式には衆良(モロヨシ)神社とあれどスラの仮名なるべく、地名須田と音相近し。丹後一覧記には垂仁天皇の朝の勧請と伝ふ、所在に就ても諸書異説あれど信憑するに足らず。大字須田は河上摩須居住の地にして、小字下山は其の館跡なりといひ、古来平民の此山に居住するを忌む。又殿垣、オノミヤ(王の宮か)などの地名ありて、此処を館跡なりともいへど、下山の方正しきが如し。河上摩須は丹波道主王の外舅にして、上代地方の豪族たりしなり。祭神を按ずるに当国式社考に河上摩須良とあり、良は摩須郎女の良にて正しくは河上摩須なり、恐らくは真に近きが如し。元八坂神社と相殿なりしが、明治十八年八坂神社を末社とし、別に社殿を造営安置せり、大正十年上屋を改築し、新に拝殿を設け設備大に整ふ。
崇敬者=六十五人。
境内神社。八坂神社。祭神=須佐之男命。  〉 

「丹後国式内神社取調書」
 〈 衆良神社
【覈】旧事記ニ馬地衆良村ニ在ト云フ国人佐治摂津云馬地ヰナルバ村岡神社ナルコト決シ馬地ニ衆良村ト云處今ハナシ印本ニモロヨシハスラト云フ仮字ナルベク今須田村ニ牛頭天王ノ社アリ是ナラン但馬国城崎郡ニ緒吉村アリ同ジ唱ナルベキニヤ【道】未考モロヨシト訓ハ非ナリ須良ト訓ベシ【豊】湮埋不得確徴)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

「室尾山観音寺神名帳」「熊野郡八十四前」
 〈 従三位 衆良(モロラ)明神  〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 (古事記)美知宇志王娶丹波之河上之摩須郎女。生比婆須比売命云々。(古事記伝)河上之摩須郎女。河上は和名抄に丹後国熊野郡川上の郷あり是なり摩須の義は未だ思ひ得ず郎女は郎姫此を異羅菟(口編に羊)(イラツメ)又は伊羅都売(イラツメ)、伊良豆売(イラツメ)、郎媛(イラツメ)、娘(イラツメ)などもありて、男を郎子(イラツコ)女を郎女(イラツメ)といふ。(丹後旧事記)開化崇神垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎ノ里に館を造る。丹波道主命は摩須郎女を娶る。編者按ずるに、川上摩須郎の郎の字は郎女の郎にて、川上摩須と呼ぶ方正しからんか、之り古事記伝に説けるが如し。さて旦波道主命の五女日葉酢媛、渟葉田瓊入媛、真頭野媛、薊瓊入媛、竹野媛は川上摩須郎女の産む処にして、日葉酢媛は垂仁天皇の皇后となり、三女は共に皇妃となる、独り竹野媛は醜ければ、家に帰らしめられたるをいたく慙ぢ、葛野に至る時自ら輿より堕ちて死にたり。因って其の地を堕国(オチクニ)といふ。と古事記には円野比売となせど、大日本史の説けるが如く、竹野媛の方正しからん、竹野媛といへるは、旦波大県主油碁理の女にもありて、堕国の故事は、恐らく油碁理の女の竹野媛ならん。さて道主命摩須郎女を娶られしが、館跡其の他に就ては、村誌須田葦原の部参照されたし。  〉 

河上麻須の屋敷跡
『京都府熊野郡誌』
 〈 川上村字須田小字シモ山は、川上麻摩の屋敷跡といひ伝ふ。現今薮地にして、数段より成れる高燥の地なり。四方の展望殊に佳、屋敷跡として比類なき適地なり、尚小字オノ宮を一に屋敷跡ともいひ伝ふ。現今畑地にして土中石垣の痕跡をも存し、広濶にして名族の屋敷跡たりし事は、一見して其の当時を物語れるものの如し。何れも徴証すべきものなければ確定する事は困難なるも、地形上より推考するに、小字シモ山の方真に近からん乎。

河上摩須の屋敷跡
川上村大字須田に在りて小字をシモ山といふ。現今薮地にして数段より成れる高燥の地なり。四方の展望殊に絶佳にして、頗る要害の地たり。屋敷跡としては比類なき適当の地といふべし。此の丘陵北端には古墳あり、多くの土器馬具等を出し、南端の畑地には経塚ありて土器の経筒鏡面等を出し、鏡面土器等は考古館に保存せり。尚別に屋敷跡といへるあり、小字をトウ屋敷オノミヤ(王ノ宮か)等いひ現今畑地となれるも、近年迄多少の石垣をも保存せりといふ。今徴証すべきものを存せざれば、其の正否を断する事は困難なれど、位置四囲の状況等より考察すれば、恐らくはシモ山の方正しからん乎。暫らく両説を挙げ河上麻須の屋敷跡として、後人研究の資料に供せんとす。  〉 

『丹後路の史跡めぐり』
 〈 河上摩須良の屋敷跡
川上の須田に丹波道主命の妃となった河上摩須良女(かわがみのますらめ)の父摩須良(ますらお)の館跡があり、衆良(すら)神社に記っている。またこの付近に古墳がある。川上族は海部族とともにこの地方土着の豪族であったが、同一族とも考えられる。旧五箇村の鱒留はこの摩須良女の名をとった地名という。  〉 


臨済宗南禅寺派天龍山大雲寺
大雲寺(須田)

大雲寺は暦応元年畑城主・野村氏の再建と伝え、室町期の「丹後国田数帳」の川上本庄の項に「一町六段 大雲寺」と見える。
「天竜山大雲寺記録」によると当時は野村氏と深い関係があり、暦応頃には荘園を寄進されたという。同書は続けて欠のように記すという。
于茲、当寺末寺三ケ寺有り、一は猪ケ島神宮寺とて、三島田明神の裏にあり、二は長尾山地蔵寺とて牛頭天皇の口にあり、三は比霊山高山寺とて塔垣の向の谷にありけれ共、かく迄没落しぬれば彼三ケ寺をこぼち一ケ寺と成侍りしとかや
『京都府熊野郡誌』
 〈 天龍山 大雲寺 川上村大字須田小字寺ノ谷 臨済宗南禅寺派
本尊=観世音菩薩。脇立=大聖不動明王、毘舎門天王。
由緒=当時の創立等は文書の徴すべきものなく、明確に知るを得ざれど、丹後国諸庄郷保総田数帳川上本庄の部に大雲寺領壹町六反とあれば、当時寺院の存立せし事明にして、当寺の略縁起に「弘治元年之比丹後国熊野郡河上庄畑御城主野村監物源忠通之草創也抑当寺野村氏菩提所申伝也年号月日不分大雲寺十四世、柏翁正栄和尚改之置者也」野村監物草創と断するは菩提所たりし関係より誤れるものにて、柏翁和尚が菩提所の伝説を草創と改めしは、調査の不充分なりしものならむ。野村氏の城主たりし田数帳より約七十年余後の丹後国御檀家帳に出づる処なれば、其の以前の草創たりし事明なり。さと当寺は臨済宗南禅寺派に属し、天文元年洞巌祖蔭和尚堂宇を再建せらる、此の以前歴世不明なれば開山を洞巌和尚と為す。明暦元年七月不幸にして火災に罹り爾来三十余年を経て、元禄参年笑嶽和尚堂宇を建立せしが、星霜久しく大破に及ぶや、明和八年古関和尚庫裡一宇を建立し、天明五年柏翁正栄和尚方丈一宇を再建し現今に伝ふ。而して現在の庫裡は慶応二年鉱堂祖瑾和尚の再建に成れる所なり。  〉 


浄土真宗本願寺派一心山金剛寺
金剛寺(須田)
『京都府熊野郡誌』
 〈 一心山 金剛寺 川上村大字須田小字上地 真宗本派本願寺末
本尊=阿弥陀仏。
由緒=真宗本願寺派に属し、天明十五年開基宗閑の草創せる処なり。伝説によるに大字畑の鸚鵡谷に在りしが、暴風雨の為土崩と共に倒壊、現地に移転せりといふ。  〉 


浄土真宗本願寺派法喜山専教寺
『京都府熊野郡誌』
 〈 法喜山 専教寺 川上村大字須田小字下坪 真宗本派本願寺末
本尊=阿弥陀仏立像。
由緒=真宗本願寺派に属し、安永八年五月専順の開基なり。  〉 

《交通》


《産業》


須田の主な歴史記録



『丹哥府志』
 〈 ◎須田村
【一心山金剛寺】(一向宗)
【天龍山大雲寺】(臨済宗)  〉 


久美浜町史・史料編
 〈 須田平野古墳 遺跡番号六七
字須田小字東側に所在する。
古墳は川上谷川上流域、川上谷川の支流伯耆谷川右岸の丘陵上に立地する。
古墳は直径一六・四メートル、墳高四メートルの円墳である。内部主体は南西に開口する、両袖傾向の左片袖の畿内型横穴式石室である。奥壁構造はD類で側壁構造は大振りの石材を用いる。玄門部は立柱石を用いるが、天井石付近は調整石を用いている。石室の規模は残存長九・五メートル、玄室長四・六メートル、奥壁幅二メートルを測る。古く開口していたらしく、副葬品は知られていない。従って古墳の正確な築造時期は推定できないものの、石室の構造から古墳時代後期後葉と見られる。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 須田平野古墳(すだひらのこふん)
所在地:久美浜町須田小字東側
立地:川上谷川中流域、支流伯耆谷右岸丘陵上
時代:古墳時代後期
調査年次:同志社大学考古学研究会測量調査
現状:完存
遺物保管:なし
文献:B037
遺構・遺物
平野古墳は、湯舟坂2号墳より東側(下流側)に位置Lており、標高75~80mの丘陵上に立地する。本墳は、伯耆谷川上流側の古墳群に比して、平地との比高差が大きい場所に立地している。墳丘は、径16.4mを測る円墳と思われる。両袖式の横穴式石室は、全長9.78m、玄室長4.6m、幅1.96~2.36m、羨道幅1.96mを測る。出土遺物は、特に知らていない。
意義
平野古墳は、横穴式石室を埋葬施設とする伯耆谷の古墳群の中で一番東側(下流側)に立地しており、石室の形態から最も古く位置づけられる。伯耆谷川筋の谷部では、川上谷川に近い東側には、平野古墳墳以前に築造されたと思われる古墳群が展開しており、谷の入口側から奥側へと墓域が移動していった可能性が考えられる。伯耆谷の古墳群は、市域最大の群集墳であり、その初期に単独立地で築造された首長墓として評価できる。  〉 




須田の小字一覧


須田(すだ)
来迎田 平野 若桑 柳ケ坪 山サキ 大坪 セスジ カセ田 家ノ下 ユリノ下 五反田 日冷谷 岡 上路 寺ノ谷 下路 下坪 小屋ノ谷 小屋ノ奥 天王谷 東カキ 九反田 川原田 奥ケ谷 興市谷 鴻田 上日冷谷 鴻ノ巣谷 二枚谷 北垣 壱町田 鳥ノ奥 湯船坂 伏見谷 大成谷 暮石 梨ノ木谷 九十九塚 紋谷 司伝谷 大坂谷 下山 西側 東側 由利ノ下 山崎 興一谷 カウ田 二枚田 平屋 九十九坂


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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