丹後の地名

竹野郡(たけのぐん・たかのぐん)
京丹後市丹後町・弥栄町・網野町


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京都府京丹後市丹後町・弥栄町・網野町

京都府竹野郡


丹後国竹野郡



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竹野郡の概要


《竹野郡の概要》



平成16年の京丹後市の成立によって消滅した郡だが、それまで、一般には「タケノグン」と通称されていた。しかし古く正式には「タカノグン」であった。『和名抄』には「多加乃」の訓注があるし、延喜式にも「タカノ」、郡名の初見といわれる「丹後国風土記」逸文奈具社条にも「タカノ」とある。
筑後国竹野郡があり、ここも「多加乃」の訓注がある、今の福岡県の筑後川中流域、「磐井の乱」の磐井の近くである、 何か関係があるかも知れない。近くでは但馬国美含郡竹野郷があるが、ここは美含金山があるし、式内社の丹生神社もある。
丹後国竹野郡の郡域は、竹野川下流域北部の旧丹後町、同南部の旧弥栄町、福田川流域の旧網野町の3町からなり、北は日本海に面し、沿岸部には砂丘が発達する。

〔縄文~古墳時代〕
縄文・弥生時代の主な遺跡は、平遺跡・竹野遺跡、宮ノ下遺跡・浜詰遺跡・林遺跡・柳谷口遺跡などがある。
古墳は、前期前方後円墳の神明山古墳、銚子山古墳、黒部銚子山古墳があり、中期円墳に産土山古墳、後期円墳に大成古墳群などがある。前方後円墳三基は日本海沿岸の他地域の古墳に比べて特に大きく、古墳前期に大規模な古墳を築造できたほどの権力を有した勢力があったことを物語る。

〔古代〕
藤原宮出土木簡に「且波国竹野評」とみえる。和銅6年(713)丹波国の竹野郡など5郡が割かれて丹後国が設置された。天平11年(739)の正倉院宝物赤あしぎぬには「丹後国竹野郡」とある。
古くから記録に見えて、懿徳記に「当芸志比古命は、血沼の別、多遅麻の竹別、葦井の稲置の祖」とあって、竹別は但馬国美含郡竹野郷にあった別(カバネか)氏であり、但馬竹別の勢力が当地にも及んでいたとも考えられる。
開化記に「此の天皇、旦波の大県主、名は油碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命」とある。
由碁理は旧中郡より竹野郡付近を領有した大県主であろうか。「丹後旧事記」に「旦波大県主油碁理は開化天皇の御代竹野郡竹野里を国府とし、館を造りし人也」とあって、竹野里(旧丹後町竹野)付近を本貫としたとみられている。
開化が竹野比売を妃とした縁故からか天皇の皇子、建豊波豆羅和気王がこの後「竹野別」になっている。開化記に「建豊波豆羅和気王は、(割註・道主臣、忍海部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖なり)」とある。
建豊波豆羅和気王が、丹波の竹野別の祖であるなど、竹野郡の地は古くから但馬の竹野とともに大和大王家との特別の関係を伝え、竹野神社も同種の所伝をもっている。

漂着ライター(鳴き砂館)

竹野郡の海岸は漂着物が多いことで知られる、ウラニシ吹く冬期秋期が特に多く、フェーンの南風吹く夏期はないという。使い捨てライターだが、これでは↑よくわからないが、日本は2段、韓国、中国は3段、どこかの高校が精密に調査したところ、国別で言えば、日本の倍以上も中国や韓国のものが漂着するという。竹野海岸は中国、韓国の海岸である。マレーとかはほとんどないよう。
椰子の実(鳴き砂館)
ライターがなくとも、名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実なども漂着するから、南方と繋がっていないのではない。

遺跡から中国の銭貨が出土する例から、難破船の漂着みでなく、大陸との意図的な交易があったと思われる。
少なくとも弥生時代から交易を行っていたと思われる丹後地方でもとくに竹野郡は地形上日本海流によって早くより大陸との交通があったようで、文献的には奈良時代にその例が多い。
 細羅国人五十四人来着竹野郡松原村(「三代実録」貞観5年11月17日条)
 異国船一捜、長六丈、広一丈五尺、漂着菅竹野郡 皆悉破損、無有調度 (「三代実録」元慶3年3月13日条)
 勃海国入朝使文籍大夫斐?著 丹後国竹野郡大津浜 (「日本紀略」延長7年12月24日条)
  丹後国言上渤海客到来由左大臣参、被定召否之由、 件客九十三人、去年十二月廿三日、著丹後国竹野郡 (「扶桑略記」裏書延長8年正月3日条)
こうした記録にはないものもまたあったものと思われる。
「和名抄」は竹野郡に木津・網野(刊本は納野とする)・鳥取・小野・間人・竹野の六郷名を記す。そのほか芋野郷・船木郷の名が平城宮出土木簡にみえる。郡家は竹野郷にあったと考えられている。
「延喜式」には「竹野郡十四座(大一座、小十三座)」として、「大宇加神社・奈具神社・溝谷神社・久尓原神社・網野神社・依遅神社・大野神社・竹野神社・生王部神社・志布比神社・深田部神社・床尾神社・発枳神社・売布神社」が記される。

〔中世〕 文治元年(1185)後藤兵衛実基は、源平合戦の手柄により安徳天皇の守り本尊と、網野庄一七ヵ村および吉沢村を源頼朝から拝領したと伝え、また吉沢村には後藤新兵衛基清供養碑があってほぼ同様の伝承を後藤基清として伝えている。
「吾妻鏡」建久6年(1195)に「丹波国志楽庄、并伊禰保領家雑掌解到来、地頭後藤左街門尉基清」とあり、後藤基清をさすとも考えられるが、つまびらかでない。なお後藤基清は鎌倉御家人で、頼朝の妹婿一条能保の家人であった。
元弘3年(1333)足利尊氏は丹波で軍を起こし、山陰道に残存する鎌倉幕府軍の討伐を命じた。安芸国三入荘の熊谷氏が後醍醐天皇の綸旨を奉じて熊野郡から当郡に入り、浦富保・木津郷・丹波郷・木津荘・船木荘で北条氏の属城を攻めて、丹波郡・与謝郡に向かい、都合11か所で城郭を攻め落とした。
建武4年上杉朝定が守護となり、そののち今川・山名・上野・仁木・高の各氏を経て貞治4年以降は山名師義・義幸・満幸が守護を勤めた。満幸は明徳2年(1391)明徳の乱に敗れ、敗走して木津庄細陰の城にたどりつき、再起をはかろうとしたが、国人一人も来援する者なく、伯耆国に落ちた。翌3年には一色満範が丹後守護となり、その後はおもに一色氏が代々守護を継いで近世を迎えた。
中世の竹野郡には、丹後国田数帳によれば以下の郷・庄・保が存在した。竹野郷・吉永保・是安保・間人郷・三津保・吉里保・徳光保・女布・国久保・木津郷・恒枝保・黒戸保・宇川保・芋野郷・吉沢保・網野郷・木橋村・木津庄・鳥取庄・嶋庄・船木庄、所在地未詳なものに楽音寺庄・武元保・近沢保・重富保・吉末保・武行保・吉富保・浦富保・成富保・松吉保・恒光保・為久保がある。
戦国期には、丹後は明智氏・細川氏によって攻略されたが、天正8年、丹後が織田信長によって細川藤孝に宛行われ、同9年、検地の実施が命じられた。

〔近世〕
慶長5年12月、細川忠興が豊前中津へ転封、京極高知が丹後5郡12万3、200石を拝領した。慶長7年検地が実施され、丹後5郡で村数292・小村数106・高12万3、175石、竹野郡は村数37・小村数29・高1万9、565石余とされた。元和8年、丹後は宮津藩・田辺藩・峰山藩の3藩に分かれたが、竹野郡はすべて宮津藩に属した。宮津藩は、寛文6年京極氏除封後、譜代大名の更迭が繰り返され、永井氏時代、延宝3年には竹野郡64村・1万5、730石余が、阿部氏時代、天和元年には同じく69村・2万4、465石余が、奥平氏時代、宝永2年には同じく71村・2万4、797石余および拝領後改出新田19石余が、青山氏時代には(年不詳)同じく7村・4、163石余および73石余が、本庄氏時代、宝暦9年には同じく22村・1万3、318石余が宮津藩に属した。また宝暦13年~天保6年の間、当郡のうち9村・2、752石余が但馬出石藩に属したことがあるが、その余の時期、その余の地域は幕府領に属した。これよりさき延宝8年宮津藩永井氏改易の後、幕府による検地が行われ全体で約3割の増石をみたが、当郡の宮津藩域64村分もその対象とされた。
網野町域内の数村を比較すると次のようである。
         検地前(単位石)      検地後
 宮津藩領網野村 七〇七・八三   一〇一一・五八
  〃  浅茂川村 三〇〇・〇〇    五一四・三九
 幕府領  郷村  七七一・〇三    七七三・〇六二
  〃   公庄村 一〇五・七五    一〇五・七五
いずれも近世の網野郷内の近接した村々でありながら、一方は宮津藩領として検地され、他方は幕府領で検地が行われなかった結果である。以後このような不均衡が190年間続いた
そののちは幕末に至るまで、顕著な石高変化はみられない。郡全体の村数・石高は、元禄12年郷帳で77村・2万5、017石余、天保5年郷帳で73村・2万5、250石余、明治元年旧高旧領で76村・2万5、223石余。
宮津藩領では文政5年(1822)藩による万人講という日銭の徴収に対する不満、追加先納米の取立てとそれにかかわる不正の露見などが原因で、全藩域にわたる強訴が起こっている。同年12月13日夜より庄屋・手組と称する役宅などの打毀が始まり、当郡関係では溝谷村・木橋村、成願寺村・徳光村、島溝川村・網野村・浅茂川村・岡田村などの庄屋・手組の家が打ち毀された。

〔近現代〕
当郡の幕府領は慶応4年(1868)5月久美浜県となり、宮津藩領は明治4年(1871宮津県となった。11月両県は豊岡県になり、同9年豊岡県が廃止されて京都府の管轄となった。
同12年網野村に竹野郡役所が設置された。同22年町村制施行によって、網野村・浅茂川村・島津村・郷村・木津村・浜詰村・間人村・徳光村・八木村・竹野村・上宇川村・下字川村・溝谷村・吉野村・鳥取村・深田村の16ヵ村となった。その後町制施行・合併などで3町となった。平成16年、京丹後市の一部となった。




竹野郡の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 竹野郡
(宇川の庄、竹野の庄、網野の庄、木津の庄、黒部の庄、凡五庄)
凡丹後五郡の内独り竹野一郡に知府ある事あり是以て首に宇川の庄を載す、蓋竹野郡は与謝郡筒川の庄の次なればなり。宇川、竹野、網野、木津の四庄は海浜に連る、独り黒部の一庄は中郡に隣る。  〉 

『大日本地名辞書』
 〈 【竹野(たかの)郡】中郡の北にして、海洋に面す、面積凡七方里、十六村、人口二万九千、郡衙を網野に置く。竹野は和名抄多加乃と訓み、六郷に分つ。開化天皇の妃に丹波竹野媛あり、其王孫を竹野別と称し、但馬国造家と同一にして、又丹波道主と称し、古山陰の豪貴と為す、謂ゆる浦島子も亦此門族に出づと云ふ。其海岸西に向ひて開き、古来外洋遠地の往来、時々に之ありし者のごとし。  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 竹野郡歴史地理考
京都府立第四中学校教諭加藤鉄三郎氏は本郡誌編纂に同情を寄せられ数章の稿を寄せられたり故に其厚意を謝し爰に編入す
第一章  地形と歴史
竹野郡は丹後の中で最広く外洋に面してをる所で、従て其歴史的事実に於ても海洋の影響を受くる事は最多いのである。然るに此海洋はいかなる様にあるかといふに。彼の日本海流は我が郡の沖合を流るゝがその気候等に変化を及ぼす事はさておき、最も歴史上に関係あるのは此海流の媒介によりて沿岸各地との交通の点である。我が丹後の国は比較的早く歴史上にあらはれたのは、必竟此に外ならぬと思ふ、然らば、則此日本海流はいかなる方向に流れいかに郡史上に影響するやといふに、先づ順序として海流の事をのべ、次にそれに関する史的事実をのべようと思ふ。
此頃和田博士は日本海海流につき深く研究しをるがその結果によると、赤道近傍より北上する暖流は対馬西水道を出で、北東より少し北に折れ朝鮮の東岸迎日湾の北方に至り、欝陵島辺に達するやうである。それより段々東南におれて隠岐島近傍よりして本州の海岸にそひ、出雲から丹後の辺までゆき遂に北にすゝみて津軽海峡及北海道の西岸を通る。此外日本海には今一つ寒流は流るゝが、これはリマン海流と称して満州及朝鮮の東岸を洗ひ南下して鬱陵島の附近に行き、南より来る暖流と合し隠岐嶋方面に転じそれより此二つの海流は日本海岸に沿ひ相並行して流るゝやうである。尚同氏はこれを證するため日露戦争当時布設せし機械水雷の漂着及日本海へ投入せし瓶を拾得せし地方につき統計をあげてをるが、それによれば丹後近傍では因幡六、但馬二○、丹後二○、若狭一九で、我が竹野郡は二○の中機械水雷八、瓶八、残りは与謝郡の割になってをるこれによれば、丹後国は日本海流により満州、朝鮮等の国々と早くより交通あり、ことに竹野郡はこの地方と大なる関係あることは見易き理であると思ふ。
次に実地歴史上に照して見ると、太古はさておき我国史上に見江るのは左の通りである。
清和天皇、貞観五年十一月十七日丙午、先途丹後国言、細羅国人五十四八来着、竹野郡松原村、問其来由、言語不通、文書無解、其長頭屎烏舎漢書答云、新羅東方別島細羅国人也、自外更無詞。
陽成天皇、元慶三年三月十三日癸卯、丹後国言、異国船一艘、長六丈、広一丈五尺、漂着管竹野郡、皆悉破損、元有調度。
醍醐天皇、延長七年十二月廿四日、渤海国入朝使英請太夫斐謬著丹後国竹野郡大津浜。
延長八年正月三日戊辰、丹後国言上、渤海客到来由、左大臣参、被定召否之由、件容九拾三人、去年十二月廿三日、著丹後国竹野郡、廿日乙酉渤海客船修造料並若狭但馬結番、以正税可饗同客也。(扶桑略記)
延長八年四月朔日、唐客称東丹国使、著丹後国、令問子細、件使答状前後相達、重令複問東丹使人等。(扶桑略記)
後一条天皇、万寿三年四月比、女長七尺余、面長二尺余、乗船寄丹後国浦、船中有飯酒、觸過之者悉以病悩、仍不合著岸之間死去云々。(古事談)
尚我地方は上古天女の話や、竹野媛、丹波道主命、浦島、海直等の事蹟のあるのは或は朝鮮などと関係はなかったらうか。韓史に新羅の昔脱解王はもと多婆那国の人、倭国の東北一千里にあり云々とあり。普通多婆那は九州の玉名郡させるが、倭の東北とあるより見れは、丹波国とも考へらるゝのである。
又海東諸国記によると
戊子年(応仁二年)遣使来駕、書称丹後州田伊佐津平朝臣四郎家国以宗貞国接待とあるから間人と朝鮮との交通があったことはわかり、秀吉の朝鮮征伐の時も間人の谷三左衛門氏の祖先はその先鋒であったと云伝へられてをる。これ等は事実がどうか知らぬが、久美浜在城の松井康之は渡韓してをるから此先鋒かも知れぬ。
此外隠岐国と当国との関係は上山寺の開基は隠岐の佐々木氏といひ、竹野神社に神馬を寄進する等、数へ来れば此外多くあるであらう。…  〉 



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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