丹後の地名

竹藤(たけふじ)
京丹後市久美浜町竹藤


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京都府京丹後市久美浜町竹藤

京都府熊野郡久美浜町竹藤

京都府熊野郡佐濃村竹藤

京都府熊野郡下佐濃村竹藤

竹藤の概要


《竹藤の概要》



佐濃谷川支流の長野川(丸太川・竹藤川)北岸山麓に位置する長い村。長野川に並行して府道永留網野線(20号線)が東西に走る。

竹藤保が室町期に見える。「丹後国田数帳」に「一 為延・吉岡・竹藤三ケ保 廿五町二段九十歩」と見え、7人の知行者が挙げられているが、そのうちに竹藤右京亮の名が見え、これは当地に由来するもののよう。「康正二年造内裏段銭并国役引付」に「一貫文 竹藤五郎殿 丹羽国所々段銭」と見え、文安・永享・長享の各番帳にも竹藤五郎・丹後竹藤右京進の名が見えるが同族か。 竹藤右京進は元応年間(1319-21)平岡城を築いた武藤右京進といわれる。永禄元亀天正頃一色家諸将地侍居城図は「竹藤、元武藤右京進、今野村和泉守」と記す。竹藤から郷村に通じる富貴(ふき)峠(吹峠)の右側に竹藤城跡がある。この城山は段状につくられており、山上は10アールほどの平地で、山腹に井戸跡がある。麓の長野川の対岸には小高い丘陵があり、小字を盛岡といい、通称館(たち)とよぶ。この中腹に城主野村和泉守を祀る小祠がある。
竹藤村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下佐濃村の大字となる。
竹藤は、明治22年~現在の大字名。はじめ下佐濃村、昭和26年佐濃村、同33年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《竹藤の人口・世帯数》 70・22

《主な社寺など》

弥生遺蹟

貴船神社
貴船神社(竹藤)

『京都府熊野郡誌』
 〈 貴船神社 村社 下佐濃村大字竹藤小字大門鎮座
祭神=高オカミ神(雨冠に龍)。
由緒=天明三年九月の再建に係り、寛保三年勧請創立せし事は、再建当時の記録に存する処なれど、社名の起源其の他詳細なる事項は何等徴すべきものなし。
氏子戸数=貮拾八戸。
境内神社。稲荷神社。祭神=保食廼命。由緒=不詳。  〉 

貴船神社の屋根
境内社の小さなホコラの屋根もこの瓦だが、すごい屋根瓦。このあたりで焼いたものだろうか。


曹洞宗智源寺末盛岡山長円寺
長円寺(竹藤)

境内案内板
境内の案内板↑
盛岡山 長円寺
  曹洞宗智源寺 末寺
由緒
 文禄元年(一五九二)野中村・奥田新四郎、本宗に帰依し、実道祖・陽和尚を招き開祖とする。後、享保二年(一七一七)に宮津智源寺より十一世・斤山和尚を招き、中興開山を行った。
 本堂は雄大な天井絵を有する格天井である。また寺の山門は総欅造りで落ち着いた雰囲気が漂う。
 本尊は阿弥陀如来、一木造り、高さ六十一センチの立像である。年代については制作技法から言えば貞観時代もしくは藤原時代とするべきものであるが、像の量感等から室町時代のものと推定される。
 当寺の美術品としては、他に狩野友信作の涅槃像(紙本彩色、縦一六三センチ、幅一三二センチ・江戸中期)ならびに般若十六善神像がある。
 本寺の庭園・松嶋亭は池を中心に鶴、亀や巨石をたくみに配したもので、禅寺にふさわしい簡素な中にも力強さを感じさせるものである。
 境内には、通称宿り木と呼ばれる古木があるが、これは樫の大木にモチ、椎、ネジキ、グミ、ネズなどが絡みあったものである。根回りの直径は十メートルを越えており、久美浜町内でも貴重な存在である。
 寺の境内には他にも、鎮守稲荷の社があり、荼枳尼天を祀っている。
 また、寺の近辺には竹藤右京之進の居城・竹藤城や、野村和泉守を祀る館等、貴重な文化財が多く残されている。
平成五年四月
久美浜町教委
久美浜町文化財保護委員会


『京都府熊野郡誌』
 〈 盛岡山 長円寺 下佐濃村大字竹藤小字盛岡 曹洞宗智源寺末
本尊=阿弥陀如来。
由緒=当寺の縁記を按ずるに、文禄元年野中村奥田新四郎本宗に帰依し、宝道祖陽和尚を請と草庵を結べるを開基となす、享保二年宮津智源寺十一世斤山大和尚を請し再建し之を中興開山となす。境内に中興和尚塔記あり、按ずるに中興義山和尚の記にして、和尚は野中村奥田家より出づ、長円寺に住職たりし事二十二年、席を徒弟良山に譲り、傍に一庵を設け住す、其の示寂せるは天明五年仲春にして、長円寺に僧となるや、田園山林を寄付し、新に伽藍を造営せりといふ。古来享保二年に再建せりと伝ふれば、其の後火災等にてもありしが、年代前後の関係等明確ならざれば、後の考証に稽へ暫く伝来の侭を誌す。
境内堂宇。庚申堂。本尊=青面金剛。  〉 

竹藤城
竹藤城趾
府道20号線とそれから分かれる富貴峠。正面の山に竹藤城があったという。
『京都府熊野郡誌』
 〈 竹藤城は字竹藤に在り。田数帳によるに、左京進は竹藤の城主たりしが如し。鎌倉より足利時代の古城たりしなり。

竹藤城址。竹藤の城址は大字竹藤小字中村に在り、丸山川に沿ひ竹藤を進み行き右折して郷に達する道路富貴峠の右側に城山あり、段階数多ありて山上に登れば約一反歩程の平地を爲す、頗る要害の地にして一見城址たるを知らる。山の中腹に井戸の痕跡あり、丹後国惣田数帳を見るに、五町九反貮百卅九歩竹藤右京進とのりて其の領主を明にせり。されば竹藤右京進の城跡にして、足利時代の古城たりし事は推定するに難からず、此の城山の麓を流るる丸太川を境し、対岸に小高き丘陵あり、小字を盛岡といひ通称館(たち)と唱ふ。中腹に小祠あり城主野村和泉守を祀れりといふ。旧八月十六日を祭日となす、其の子孫といへる字坂谷野村亀藏氏城主の遺物と唱ふる茶釜其の他を保存す。野村和泉守は竹藤右京進落城の後を襲へるが如きも、文献の徴べきものなければ、暫く伝説を記して後証を俟つ。而して盛岡は城跡にあらず、館の名称を存せる如く、付属建物ありしが如し。されば小字盛岡をも城跡と言へるは当らざるならむ。  〉 

竹藤城趾」「盛岡城趾

《交通》


《産業》


竹藤の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 熊野郡
一 為延・吉岡・竹藤三ケ保  廿五町二段九十歩内
  三町八段二百五十二歩  行持分 藤森社領
  五段十九歩           禅高庵
  三町二段七十四歩       氏家遠江
  一町三段十八歩        楠田肥前
  五町九段二百卅九歩  此内三丁九反廿四歩不作之由申候
                  竹藤右京進
  四町六段十八歩        菊阿
  三町八段            久松孫大寿郎
  五段               同人
  一町四段百九十歩     惣保 不知行  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎竹藤村
【盛岡山長円寺】(曹洞宗)
【貴船大明神】(祭九月中亥日)  〉 

『丹哥府志』
 〈 【武藤右京進政清の城墟】
元応元年武藤右京進政清丹波郡平岡に於て初て城郭を築く一色氏に先だつ凡廿年、一色氏の来るに及びて其陣代となる、戦功あるによって佐野庄を賜る、今其庄に武藤村あり。右京進既に佐野に遷りて後金谷右衛門是城に居る、右衛門は金谷五郎とて万松院義清の小姓なり、其子続て居る。太平記曰。元弘三年五月八幡之館に奥州の国司北畠権中納言顕家敗走して武蔵国の住人越生四郎左衛門に討たる、蓋丹後国の住人武藤右京進の為なりといふ、武藤右京進先陣して敵首を取り太刀甲を添へて実検に出す、高師直大に是を観賞すと云々。  〉 



竹藤の小字一覧


竹藤(たけふじ)
小和田 坂本 上小和田岡 森ケ坪 高蓮寺 エリ田 吉岡 アズキ谷 ヨノキ谷 弐反田 丸坪 松葉谷 ホイケ谷 吉田 小西 西 小西口 大門 向川原 中村 森岡 酉ノ奥 吉谷 家敷ノ谷 岡ノ尾 カミナガ 山部 小島 コシマエ 小嶋エ 二反田

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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