丹後の地名

丹波(たんば)
京丹後市峰山町丹波



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京都府京丹後市峰山町丹波

京都府中郡峰山町丹波

京都府中郡丹波村丹波



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丹波の概要


《丹波の概要》

丹波小学校↓
丹波小学校(京丹後市峰山町丹波)
「丹後のド真ん中に丹波小学校がある、なんでやろ」と素朴な疑問をもたれる方も多いとか。
今、丹波といえば亀岡や篠山、あるいは福知山や綾部あたりを広く指す地名である。そのはずなのになぜ丹後にもあるのか?
そうした疑問すらもわいてはこないという人も多かろうが、歴史の勉強というのはこうした素朴な所から始まるよう。場所はKTR「峰山駅」のあるあたりである。
 当地一帯は古くは丹波国丹波郡丹波郷丹波里丹波村の地であり、「丹波」とは本来は当地を指した地名であった。当地こそが総本家丹波、元祖丹波の地である。
和銅6(713)年、丹波国から北部5群が分割されて、丹後国が置かれ、残った部分はそのまま丹波国とした。それはおかしいでないか、こちらを丹波国として、あちらは丹前国とかすべきだろう、本来はここが丹波なのだから、という考えも強いしそれは当然の声と思われる。『丹哥府志』なども本来は「丹後府志」なのだが、丹後の言葉を嫌ってこうした書名にしたといわれる。地名はよ〜く考えて付けないと歴史認識を誤らせアイデンティティーを失うことにもなる。京であろうはずもないのに、京丹後などと言っているのだから、ホンマの丹波国だのに、丹後国にしくさってと、古代官人どもに文句が言える立場ではないが…。
(「平成の大合併」で新市名の一般公募が平成14年10月1日から31日までのあいだ行われ、1270種類、3809通の応算があった。その結果、1位は「丹後市」で456通(全体の12%)、2位は「北丹市」で167通、3位は「京丹後市」で160通であったという。その後第11回総務・企画・議会小委員会で、「北都市」「丹後市」「京丹後市」の3点に絞り、平成14年12月24日の第7回合併協議会で表記方法も含めて投票が繰り返され、最終的に「京丹後市」と決定されたという。ダントツの「丹後市」の民意に反してその1/3しかなかったにもかかわらず官僚どもが勝手に「京丹後市」と決めたようである。地名は地域を愛してもいない官僚どもが勝手に決めてもまったくダメなものになるの好事例であろう。のちのちの子孫たちがナサケネーヤと冷笑することであろう。)

奈良の都が710年だから、丹後国もそう変わらない古い歴史になり、2013(平成25)年は丹後国生誕1300年になる。当時の国庁はこの付近にあっただろうといわれている。

 扇谷に弥生前期末〜中期初とされる環濠集落遺跡があり、隣接の杉谷には丹後最大の円墳・カジヤ古墳がある、当地には最古の前方後円墳かもと見られる湧田山古墳を盟主に40基以上の古墳群があり、そこには弥生環濠集落も推測されていて、このあたり丘陵地一帯が古くから開けた「王家の地」であったとも推測される。丹波小学校の裏山一帯こそが「旦波大縣」の心臓部だったのかも知れないが、未調査である。
丹後国割置以前は大丹波国の一中心地であり、丹後国丹波郷となってからは郡家の所在地であったとされる。
旦波大縣主由碁理や丹波道主命の時代の丹波は当地かあるいは川上の五箇のあたりであったかも知れない。もともとは磯砂山麓の聖地の地名であったものが、後の中心地の当地へ移動したものかもわからない。油碁理の名に見られるように、この一帯は金属地帯であり、その族長のしきる国であった、大和の権力とは同盟関係にあり、その二つして当時の日本全国をリードしたようである、ようやく日本がまとまって来る時代は当地の強大な金属勢力ぬきにはありえなかったのである。「丹波・旦波」の名の由来は「和名抄」に「太邇波(たには)の訓があり、「田庭」の意味とされる。ではその「田」とは何かとなると、豊受大神の故地でありフツーには水田、稲田と理解されている、だから丹波とは「稲田庭」と理解されている。丹波国という最初の国家が誕生してくるには水田による余剰生産物と定着による稲作文化の成立が不可欠であろう、さらに生産には直接従事しない特権階級も生まれてくることが求められよう。水田を大規模に国家をささええるほども開発していくには鉄器の農具が欠かせない。「田」は炭田とか油田、塩田というように、鉱物資源が取れる土地も「田」と呼んでいる、何も稲を植える水田だけとは限らない。油碁理や彦湯産隅王などを考えても丹波の田は金田とでもよぶべき金属の採れる土地を言っているのではなかろうか、丹波とは金田庭ではなかろうか。その金田のカジヤの大将が国王となっていったと想像される。

 古代は、『和名抄』の丹波郷の地で、奈良期〜平安期に見える郷名。丹後国丹波郡七郷の1つ。「丹後国風土記」奈具社条には「丹波の里の哭木の村に至り、槻の木に拠りて哭きき」と見える。
天平10年但馬国正税帳に「丹後国少毅无位丹波直足嶋」、平城宮跡出土木簡にも「丹波直」が見える、『続日本紀』に、「783年丹後国丹波郡の人で正六位上の丹波直真養を丹後の国造に任じた。」とある。丹波直氏は丹後だけでなく、丹波国天田郡にも見られるが、尾張氏系で海部氏とも同族の当郷にいた丹後国造家と思われる。より古い旦波大縣主家との繋がりはわからない。
 中世の丹波郷の地で、鎌倉期〜戦国期に見える郷名。建長2年の沙弥行恵(藤原道家)家領処分状案に「丹後国丹波庄」と見える。
元弘3年の熊谷直経代直久軍忠状によれば、「道後郡丹波郷」の後藤佐渡次郎入道の城を破却、南北朝期の年未詳の伊賀直達書状にも「丹波郷」周辺での合戦の記事が見える。貞和元年幕府奉書では榎並七郎以下の輩の丹波郷押領が停止が見えるという。
縁城寺文書の寄進状にも名がある。嘉元2年(1304)に「丹後国丹波郷光吉名田内壱段」が寄進され、暦応2年(1339)光明講田寄進状に「丹波郷地頭土居殿」の名が記されるという。
「丹後国田数帳」に「一 丹波郷 百八十町七段三百八歩内 六十町 段銭致沙汰此外御免之由申候 結城越後」と見える。
丹後国御檀家帳に「たんはのかう(丹波の郷) 和田殿一城主也、宮津小倉殿の御内の人。云々」とみえる。

 近世の丹波村は、江戸期〜明治22年の村名で、はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同17年丹波村ほか5か村連合戸長役場を設置。同22年丹波村の大字となる。
 丹波は、 明治22年〜現在の大字名。はじめ丹波村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

 丹波村という場合、小さな意味の丹波村(今の大字)は上のようなことだが、大きな意味の丹波村は、 明治22年〜昭和30年の中郡の自治体名で、丹波村・矢田村・橋木村・赤坂村・石丸村・杉谷村が合併して成立。旧村名を継承した6大字を編成した。大正7年杉谷全域を峰山町に分離編入。同30年峰山町の一部となり、大正7年以降の5大字は峰山町の大字に継承された。

《丹波の人口・世帯数》 864・281




《主な社寺など》
扇谷遺跡
湧田山古墳群

式内社・多久神社
多久神社(丹波)
 丹波郡式内社の多久神社。「室尾山観音寺神名帳」の「丹波郡二十九前」にも、「従三位 多久明神」とある。
向かって右は国道482号で、その先を竹野川が流れる。左が湧田山で、ここに奥地という所があり、そこを汚すとたちまち大雨が降るという、そこが旧鎮座地で、そこに田畑を開くために現在地に移されたという。
多久神社案内板
↑多久神社境内の案内板↓
 〈 多久神社
 多久神社は峰山町丹波小字涌田山に鎮座する。祭神である豊宇賀能メ命は『丹後国風土記』にいう比治山の天女とされ、万病を治す酒をつくったことから、明治期まで天酒大明神とも称した。
 当社の祭礼で行われる神事芸能の芝むくり(ちゃあ)は、京都府無形民俗文化財に登録されている。境内は南西から北東にかけて広がり石段を上がった高台に神饌所兼神輿庫、拝殿、本殿覆屋及び境内社が建ち並ぶ。
 現在の本殿は文化八年(一八一一)に火災に遭った機再建されたと伝わり、文化一一年(一八一四)には完成したことが擬宝珠銘より判明する。一間社隅木入春日造、こけら葺、建物を彫刻で飾り、軒桁を持ち出して屋根を大きく見せ、正面に唐破風をつける。大工は丹後を中心に活躍した吉岡嘉平で、また細部を飾る彫刻が優れている神社本殿遺構として重要であり、京都府登録文化財に登録されている。
 本殿背後には、全長一〇〇メートルに及ぶ前方後円墳を盟主として約四〇基の古墳が集中しており、うち一号墳から四号境が京都府史跡「湧田山古墳群」に指定されている。
 山腹に鎮座する多久神社の社叢と背後に広がる森林約一・七六ヘクタールは、芝むくりが奉納される本殿を中心に、それらを取り囲む杜が歴史的景観を形成し、また約四〇基の古墳が集中する貴重な保全すべき地域であるとして、京都府文化財環境保全地区に決定されている。
   丹波の芝むくり
 芝むくりは『丹後史料叢書』所収の文化一三年(一八一六)録の丹後峯山領「風俗問状」にも記述されている丹波地区の氏神多久神社の秋祭り(十月)の祭礼(神輿祭)に行われる由緒ある神事芸能である。
 先導一人、太鼓打六人、猿役二人の構成で巡行する神輿に先行し、所定の要所で演じられる。組み合って連続回転技をみせたりする猿役の演技が印象的である。その際かけられる「ちゃあ」という掛声によって芝むくりは「ちゃあ」ともよばれている。
 丹後に広く流布した、笹ばやしの一つであるが、笹ばやしに伴った棒降芸が特異な展開をみせたものであり、民俗芸能として貴重である。京丹後市教育委員会  〉 

竹野川
多久神社境内から竹野川を見る。↑

 今では竹野川はこんな小さな水量もない川であるが、江戸時代の金毘羅(峰山町泉)参りは、間人の方からなら、この神社の下まで、だからこのあたりまでは舟でやってきたといわれている。当時は古い竹野湖の面影がまだいくらかは残っていたようである。
古代の丹波入江復元図古代では丹波までは海が繋がっていて海の船がここまでは遡上した、そう見て丹後古代史は復元するべきと思われる。高野川から25メートル堆積土を取り除けば荒山あたりまでは海である。→
笑ってはならない、丹後町大山の式内社・志布比神社(塩干大明神)に次のような伝承があるという。
大昔この付近の村々はみな高い山中にあり、竹野川の流域は海の底であったという。その頃大山(志布比神社の裏山)に神様がいて、海水を飲み干し田圃をつくろうと考え、一口飲むと中郡の、二口目に現弥栄町の、三口目に現丹後町の田圃が開かれた。(『京都府の地名』より)
古い伝承もバカにはならないことが理解できる、塩干大明神を、逆さまにしたのか干塩大明神が大宮町の「セントラーレホテル・小町の湯」の近くにも祀られている、あるいはこのあたりまでは海だったのかも知れない。25メートルは最低で30メートルを見て、弥生初期の海岸線は考えた方がいいのかも知れない。
黒部の式内社・深田部神社にも、神社の下は海だったの伝承がある。

 『出雲風土記』にも多久社が見えるが、タクとは何であろうか。普通栲機千々姫命の栲、ヌルデという木、あるいは梶の樹皮で織った布、白栲、和栲のこととされている。日本語で考えればそうしかならないかも知れないが、古い地の古社は日本語かどうか何も自明ではない。日本にあるから日本語だろうと勝手に後世人が信じているだけのものである、日本語では意味がわからないものは、今ではすっかり忘れられた渡来語と見た方がいいのではなかろうか。
竹野川の竹野はタケノとかタカノと呼ばれる、多久ではなくタコ谷だと論社があるそうだが、タカもタケもタコもタクも同じであろう。丹波もあるいはそうかも知れないが、上の写真で言えば川上側に荒山集落があるが、そのAR地名の類語とされるTARK地名ではなかろうか。ar神社の麓にar川、その先にar山があるわけである。地名や神社はポツンと一つだけがある場合はあまりなく、周辺には関連する名があるものである。全体をよく見て一部を判断し定めねばなるまい。森をよく見てこそ一本一本の樹の意味もわかってくるのではなかろうか。それとも竹野神社は竹を祀り、タコ谷では蛸を祀り、多久神社は栲を祀っていたのであろうか。
開化妃の竹野比売・旦波大縣主由碁理の娘は、この多久神社に仕えた姫だったかも知れない、タカタケとタクは通音だから、必ずしも下流の竹野神社の姫だったとは限らないと思われる。


 「芝むくり」神事。坂根正喜写真集『心のふるさと丹後』より↓

丹後国峯山領「風俗問状答」は祭礼日を九月八日として、
  …丹波村天酒明神祭礼、年柄により芝むくりと申事仕候。子供両人猩々の如くに拵、小竹の長三尺計是れを赤白の紙にて包み持ち申候て、かるわさのやう成事仕候。又四人太鼓を打ち、ちやうちやうとかけ声を仕囃子申候。何等の訳と申儀は不申伝候旨祠官今西石見申出候。と記している。
「ちゃア」と掛声するところから、今はこの行事を「ちゃア」とよんでいる。芝むくりの一行は神輿渡御に先行し、定められた十字路などで歌を歌って演技する。歌は
  ひだから舟が三艘のぼる 先なる舟にはなにつみこ
  めた ひだわさごをつみこめた 中なる舟にはなに
  つみこめた 糸綿錦つみこめた 後なる舟にはなに
  つみこめた こがねのわさごをつみこめた
というもので、祭礼に造酒家が多く参詣したという。

『丹後の笹ばやし調査報告』
 〈 丹波・ちゃあ
峰山町丹波に伝えられるちゃあもやはり笹ばやしの一つである。氏神多久神社の十月十日の秋祭に奉納されている。
 ちやあは、先導一名、囃子方六名、猿役二名で構成される。先導は青年の役でワサゴ竹と呼ぶ大きな笹を持つ。それには「神歩」と書いた飾団扇がつけられていて、この役がもと、シンボチであることを物語っている。囃子方、猿役は少年の役で、囃子方は腹に締太鼓をつけ(皮面上下)両桴でそれを打ち、猿役はシャグマ姿で、はやしに合わせ棒を振り、ついで逆に組合って回転技を見せたりする (『京部の民俗芸能』)。これは由良脇にも行われていた。
 伝承曲は「宮入り」に当る一曲のみであるが、それをもって、ねり込み(太鼓拍子のみ)−はやし(宮入りの歌)−猿の演技(太鼓拍子)−はやし(宮入りの一節)のかたちに構成したのがちゃあてある。資料として必要なので、地元で近時筆録されたものをここに収録することにした。(略)  〉 

『子どもがつづる丹後の歴史』
 〈 芝むくり神事
丹波郡丹波の郷(中郡峰山町字丹波)の多久神社は祭神を豊宇賀能売命と申し、比治山の天女であります。
この神社に古くから伝えられている「芝むくり神事」があります。
祭礼のさいに、子供が二人、猩々(猿)のような身仕度をして、長さ三尺(約一メル)ばかりの小竹を赤と自の紙に包んで持って軽業のようなことをします。他に五人の子供か紺がすりの着物に白布で胸前に小太鼓をつるし、テンテコテンテコちゃぁ−と打ちながら囃します。この「ちゃぁ−」という掛声ににあわせて、二匹の猿が演技をします。
この神事は、「芝むくり」のシバは縛る、ムクリは蒙古のことで蒙古族を縛る意味があるとして、弘安四年の蒙古襲来に際し、神々に必勝を祈願したので、戦勝感謝の供物として、蒙古賊を縛る有様を演技するものであるという説がいわれています。
しかし.神事歌は、むしろ、もっと原始的なかおりの高いものからして、神に奉仕する猿が御輿の渡御に先ださて道の芝をむくり(とりのぞく)また、先導をつとめる若者一人がわさご竹(今年の若竹)で、道筋の悪鬼を払い清める様からして、古事記にある、天孫降臨のとき、土地の神・猿田彦が途中までお迎えに出て、道案内をしたという古例にかたどったのではないでしょうか。
この郷土芸能は、万国博に出演したことがあるだけに、いついつまでも大事に保存し伝えたいものです。(藤村多宏 記)  〉 

『中郡誌稿』
 〈 多久神社
(丹波丹後式内神社取調書)多久神社、〔姓録〕神魂命男多久豆玉命按賀茂建玉依彦命歟○〔年中行事秘抄〕多久須玉依姫
(丹哥府志)多久神社今天酒アマサケ大明神といふ(祭九月十五日)
(丹後旧事記)多久神社 丹波郷 神主今西駿河守
       祭神 天酒大明神(豊宇賀能(口編に羊)命也)
(峯山明細記)(六尺社)天酒大明神(祠官)今西権頭 上屋三間四面 舞殿一間半に二間半 境内長百二十間程幅二十六間程 右祭礼九月八日河部村神子相模相雇申候
(村誌)村社 字涌田 多久神社 祭日十月十九日 祭神豊宇賀能(口編に羊)命
由緒 社記録等存在せされとも里老口碑に此れ多久神社の旧跡なり今に祠を祀る途前に内地と唱る地有てをく多久の訛なと神内の義又神官屋敷を今は今西屋敷と云ふ又は神子屋敷も今は有て奥地を少にても穢し觸るものは神の御荒ひを蒙るとかや世代詳かならされとも昔例祭日は橋木村矢田村内記村荒山村共に同日の祭也しと云々の事有り今祭日は当村のみにて御旅所は内記村境に大櫛ありて此枝を手に経れは神の祟を受ると云々(此文章誤字多きが如き元のまま也実地聞書と照合すべし)
境内東西九間 南北十七間 面積百三十五坪(下略)
(実地聞書)明治の始め多久神社号を許さる又社記類は百年程以前に焼失したりと、又旅所は字川向といふ地にて大なるつつじの木ありと、此社祭日には中郡のみならす諸方の造酒家多く参詣すといふ又曰く本社はもと由利の城跡にありしなりといひ今の地より西方城跡の丘下を字多久と称し今は字奥地と呼ふ同所に字大門といふもあり又今西藤村山本等は当村の旧家なりと云
(実地聞書)子守歌 矢田や丹波の郷の天酒さんのおした通るもあり有がたや
−−−−
(峯山明細記)(小祠)八幡宮(一尺に一尺二寸)祠官今西権頭 境内五十歩程度 神子河部村相模持
(村誌)(多久神社境内)一社祭神和賀日売命、無格社祭神天鷲命、無格社八幡神社(字丸田) 無格社八重垣神社(字笠ノ尾) 無格社大宮宜神社(字小骨) 無格社平賀岡神社(字尉ケ谷) 無格社愛宕神社(字小骨)
(祭神及境内省略す)  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【多久神社(式内社、丹波、湧田山、祭神 豊宇賀能売命)】
この神社は、『延喜式』による多久ノ神社で、丹波郡九座一神の比治山の天女、豊宇賀能売命をまつっている。
宝暦三年(『峯山明細記』)
六尺社 天酒大明神、祠官 今西権頭、上屋 三間四面、舞殿 一間半に二間半、境内 長一二〇間幅二六間程、右祭礼九月八日、河部村の神子相模を雇って神事を行なった。
ところが、同じ宝暦十一年(一七六一)、『宮津府志』には、竹野郡船木の奈具社と混同したものか、「奈具社…今天酒大明神と称し、竹野郡にあるが、今考えると中郡丹波郷村にある」とし、祭神、祭日などは、『明細記』と同じであるが、社の起原について次のように説明を加えている。
『延喜式』にいう丹後国竹野郡奈具の社は、豊宇気比女神である。この神は、よく酒をつくるので、伊勢の末社として移しまつって、「酒殿ノ神」と称し、また、よく稲を植えるので大膳職に移しまつって「御食津ノ神」と申し上げているが、どちらも豊宇気比女神のことである。
また、『神社啓蒙』にいう。この神社は、竹野丹波郷にあって、里の人は斎宮の酒造りであるといっている。この神は宇賀之メ命である−と。『元元集』にいうには、『丹後風土記』にいう比沼ノ山頂に井があって、その名を真井という。…(中略)これらの説から考えると、この話は、駿河国の羽衣明神の由来とよく似ている。荒塩村とい5のは、今の荒山村であろうか、一説には、周枳村の荒塩大明神がその遺跡であるといっているが、まだはっきりしない。哭木村は今にいう内木村である。比沼山は今、比治山という。どちらも中郡である。船木村は竹野郡にある。荒山村、内木村、船木村ともに小さな社があり、ただ丹波郷にある社だけがすこぶる大社である。今、天酒大明神というのは、天女がよく酒をつくることからうまれたお名前である。
文化七年『丹後旧事紀』
多久神社、丹波郷、神主 今西駿河守、祭神 天酒大明神、豊宇賀能メ命なり。
天保四年(『丹波村記録』)
三月八日から、天酒明神で「一万度の祓」が行なわれた。神主は今西石見であり、八日から十日までの藩の見回役は、小頭小田廉次と長谷川権兵衛であった。費用は同村および町在から寄付 勧化)をあつめた。三月二十三日には、御家中や藩主・女中衆も参詣し、茶酒を出してもてなした、石見の一万度祓について村方の入用は多かった。
飢饉の際、御蔵米を無断で施した罪で、口大野へ追放されたという長谷川権平は、この見回役の長谷川権兵衛であったろう。酉八月付の申渡しの書付けを保存しており、天保四年以後の酉年は天保八年、嘉永二年、安政八年……に相当する。天保十二年(『丹哥府志』)
延喜式、多久神社、今、天酒大明神という。行事は奈具社のところにある。祭九月十五日(丹波、丹後式内神社取調書)。姓録、神魂命、男多久豆玉命。按ずるに加茂建玉依彦命か(年中行事秘抄)。多久須玉依姫。
明治二年(『峯山旧記』)
天酒大明神、豊宇賀能売命、祭九月十五日。この日、近郷の酒造家が多数参詣する。
明治二年『改号相殿窺書』には「神主今西伊予通清から神祇官御役所に提出した同書によると、多久神社、祭神多久都玉命とし、一般には天酒大明神と称し、豊宇賀能メ命と申します」と付記している。また、相殿の神々には、「一、八幡宮、祭神 品陀和気命(注、誉田別)、一、立地社(立地荒神改号)、祭神 須賀明神、一、八重垣社(八大荒神改号)、祭神 八重垣明神、一、平賀岡社、祭神 保食命」とある。
多久論争
明治二年頃、政体御一新によって、寺院の別当を免ずるとともに、神社の俗称を廃して、古神道による神社号に改めた。この改号が原因となって、神社故地の論争が各地に起こっている。荒山、新町村には「たこ谷」「たこ千軒」という地名があるが、丹波(たには)のニハを逆転するとハニとなり、さらに二をミに読みかえて、ハミ=波弥、すなわち食=はむ=食の神社となるから、丹波は波弥と同じで、この理由から、丹波の多久神社の故地は、荒山、新町の「たこ」すなわち、多久の地であるなどの説が現われた。これに対し、当時、多久神社の今西伊予は、丹波は、古書にもあるとおり、「たには」にちがいなく、けっして波弥ではないことを明白にしてほしいと藩の社寺司(もとの寺社奉行)に申し出ている、その結果、社寺司がどのような証言を与えたか資料は残っていない。同じ年に、社寺司にさし出した、『神社取調帳』の中に、多久神社の由来と、旧社地から現在の社地に移った理由を記しているが、その次に「その当時、橋木村、矢田村、内記村、荒山村は、御祭日の祭礼は一しょに勤めて来ましたが、大争論から祭日が別々になりました。この村でも、よく聞き伝えて知っていると思いますが、今も丹波村と内記村の境の御旅所跡に、槻の木があって、その枝などを損じると、たちまち神のおとがめを受けると申し伝えています」と書いている。これから想像すると、論争は五百年前からあったことになる。また、この論争は、地元の誤解ばかりではない。「丹波郷村また荒山村にタコ川というあり、依って多久神社は荒山なるべしとも言へり」との説を『神社取調書』にのせている。当時、祭礼は、毎年九月八日であったが、荒山村は七日さかのぼって九月一日、内記村は七日下って九月十五日に変更した。現在の例祭は十月八日、十日で、八日は例祭式典、十日は神幸、還幸(御輿の渡後)の祭礼である。明治三十八年から、中郡一円、この十日を秋の例祭に統一したといっている(『丹波村記録』)。
ただ、この中で、注意を要することは、最初、社寺司へ願い出た時は、多久神社の祭神を豊宇賀能メ命、別称天酒大明神。付祭、大若子命、酒解命としていながら、次の『取調帳』には「多久神社、式内……祭神 多久津玉命。同社相殿、式外 天酒社、祭神 豊宇賀能メ命』として、式内式外の両社に分け、天酒社は式外としている。これを前記の窺書とくらべると、同じ明治二年に、しかも、同じ神主の調書であることからも、当時、明治初年の大改革が、いかに混乱をきたしていたかがうかがわれよう。…  〉 


臨済宗天竜寺派仏日山相光寺
相光寺(京丹後市峰山町丹波)
慶長18年の開基創建と伝える。もとは曹洞宗で竜献寺(網野町)末であったが、元禄8年臨済宗に改宗して全性寺末となったという。

『峰山郷土志』
 〈 【仏日山相光寺(臨済宗、丹波、本尊 十一面観音)】『峯山旧記』等によると、後水尾院の慶長十八年(一六一三)八月、悠山和尚によって開基創建され、当時は曹洞宗竜献寺(網野の離湖、今は木津)の末寺であったが、承応年間(一六五二〜)竜献寺が廃せられて本寺を失ない、元禄八年(一六九五)、臨済宗に転宗して全性寺末となった。『峯山旧記』は、竜献寺の没落を寛永八年といっているが、寛永八年は、宮津藩は京極高広の時で、寺を焼かれたのは二代高国の承応三年以後のことになり、寛永八年から二十年後の承応元年には、竜献寺で道元和尚の四百年忌を営んでいる…  〉 

 お寺の裏山の一帯が由利氏の居城・丹波城址、笹ケ尾城(笠ヶ尾城)とも呼ぶ。府道を挟んで西側の山城は丹波郷地頭職後藤氏歴代の居城と伝える、本丸・二の丸・濠の跡がある。近世には城山は峰山藩のお台場となり、藩主勧請の保食稲荷(のち平賀岡神社)が祀られたと伝え、鶴ヶ尾城(平ヶ岡城)と呼ぶ。何ともややこしい、答えは一つなどとは絶対に考えてはならない見本のような話である。伝不詳の丹波城主・由利氏は由碁理の遙かなる末裔であっただろうか。どこがそこなのか知らないが「由利」というところが旦波大縣主由碁理名の居館跡であったかも知れない、名が似ているしおそらく鍜冶屋ではなかっただろうか。慎重に掘ってみるべしと思う。

『峰山郷土志』
 〈 【鶴ヶ尾城趾(『峯山旧記』)】鶴ヶ尾は城山で、本丸、二の丸、堀の趾が残っている。後深草院の建長の頃、丹波郷の地頭(豪族)後藤七郎兵衛基綱があって、代々丹波郷に住み、後花園院の文安、宝徳の頃は、一色の旗下後藤七郎兵衛基春、その後に後藤八郎兵衛、同新兵衛、同右京進が相継ぎ、天文の頃、後藤大和守が居城したが、晩年、間人村の城に移り、後藤下総守がそのあとを継ぎ、元亀、天正の頃、後藤駿河守が城主で、代々一色氏に仕えていたが、天正十年九月二十日(二十一日頃とも、一説五月)細川興元の本隊の先手と有吉四郎兵衛の連合軍が、吉原山城大手口に向かう途中、まずこの城に攻めかかり、表と裏から切り込んだので、城主は討死した(一説、細川興元の先手有吉将監ともいう)。
この城を平ヶ岡城と呼んだともいい、堀のあとは田となり、城山は峯山藩のお台場として練兵に使用されていた。藩主が勧請したというお台場の保食稲荷は、ここにまつられていて、後に平賀岡神社と改称した。橋木の縁城寺の過去帳に、「常泉 丹波郷後藤駿河守 逆修、正仏 丹波郷駿河守女中 元亀四年四月二十日逆修、妙貞 丹波郷後藤駿河守内室ノ父五月九日…」などとあることから考え合わせると、常泉は細川興元に滅された後藤駿河守の法名で、丹波村字行人塚に、天正十六年九月の古塚があって、常泉等の名がきざまれている。常泉等のための経供養塔であろう。しかし、この鶴ヶ尾の平ヶ岡城については、『丹後旧事記』にも、『丹哥府志』にもみえないし、『一色軍記』では、丹波郷城、由利采女正、今西和泉守の築く城とも、後藤新兵衛住すともいう−とあって、笹ヶ尾城と混同している。なお、後藤の祖先については源平時代に述べた。
笹ヶ尾城趾(『峯山旧記』)】後柏原院大永(一五二一〜一五二七)の頃、一色家の被官(直属の武官)小倉播磨守の内人(身内)和田和泉という者がいたが、数年後、和田野城に移り、その跡へ一色義清の家人(けらい)由利助之進が住み、天正十年九月(一五四一)、鶴ヶ尾とともに落城し、細川軍は谷をさかのぼって、吉原城の大手口(おいと口)に攻め入った−という。
『一色軍記』では、和田和泉が今西和泉、由利助之進が由利采女正となっているが、付近に由利という地名も残っているし、居館は笹ヶ尾の山上ではなく、西方の谷間にあったといい伝えられている。
また、『丹後国御檀家帳』にある「一、たんはのかうの城主は、宮津の小倉殿の御内の人で、和田殿、和田八郎殿」とあるのは、この小倉播磨守の内人和田和泉…と合っており、大永、天文の頃は和田和泉の居城であったことがわかる。  〉 

『中郡誌槁』
 〈 (村誌)本村の北の方に古城跡字笠の尾に有り文亀の頃一色の旗下由里輔之進居せしが天正九年に細川藤孝の為に亡ひ今其屋敷跡のみ残れり
(実地聞書)笠ケ尾の城跡の西方の谷間に由利の字あり近傍に由利の鼻といふ小字もありて此所は由利の屋敷跡と唱へ山上より下りては茲に住せるなりと言伝ふ、此谷間を隔てて西の山を鶴ケ尾といひ又城跡あり字本丸といひ平ケ岡城なりと言伝ふ此城跡の堀のあとを田にすき更に峰山藩の時台場に作り練兵の場所に使用したり山下西南方を字城の腰と云ふ
(同上)丹波村東南隅字由木内といふ所にて合戦ありし山云伝ふれども詳ならず  〉 

丹波城跡  丹波城


《交通》


《産業》




丹波の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 丹波郡
一 丹波郷  百八十町七段三百八歩内
  六十町 段銭致沙汰此外御免之由申候  結城越後  〉 

『丹後国御檀家帳』
 〈 一たんはのかう
 和 田 殿 一城主也宮津小倉殿の御内の人
 和 田 八 郎 殿
わた殿御内
 湯浅源三郎殿
一たくと申里にて 土方総六殿御屋方様御内
  〆  〉 

『丹哥府志』

 〈 ◎丹波の郷(杉谷村の次)
【多久神社】(延喜式)
多久神社今天酒大明神といふ、事は奈具神社の下にあり、祭九月十五日
【仏日山相光寺】(禅宗)
【由利采女城墟】(伝不詳)  〉 

『中郡誌稿』
 〈 丹波
(一)沿革及村制
(古事記伝)開化天皇の妃竹野比売の父旦波之大県主油碁理は丹波郡丹波郷などに住み其所を大県といひ国の大名も此県よりぞ出けむ
(日本地名辞書)…略…
 按、上古丹波の一重地なりしを諒すへし天神茲に下降せられ帝妃茲に出て将軍茲に食み茲に館す古史研究鑚上大和と並馳すへし而して其根本地は丹波郷にあるなり其地固より今の如き一小地区の謂にはあらじ
(日本地理志料)丹波、按古事記、有旦波大県主油碁理、蓋治此、国名因起、後郡家在焉、(中略)建長二年関白道家記、丹波国丹波荘地頭基綱、康正二年造内裏段銭引付、丹州丹波郷地頭結城越後入道、(下略)
(縁城寺過去帳)常泉(丹波郷下宮左京助於世野戦死 弘治二年五月二十八日)
       常泉(丹後郷後藤駿河守) 逆修
       正仏(丹波郷駿河守女中 元亀四年四月二十日) 逆修
      菊壇 妙英(丹波郷後藤右京方の子谷内の山口藤十郎方の妻二十歳にて死 元亀元年九月十二日)
         妙貞(丹波郷後藤駿河守 内室の父 五月九日)
 按、右後藤氏に付ては尚橋木縁城寺観音の条参看すべし

(五)古墳及古塚
(実地聞書)当村字由利の谷間に丸山と称する所あり土器を掘出せしことあり又村の西隅なる字大糸の丘陵より素焼土器を掘出せしことうりといふ共に古墳なるべし字行人塚に古塚一基あり土中に埋没し僅に塚頭を見るを得へし嘗て大なる松二本ありしも明治八年伐取たりといふ即ち之を発掘したるに三百年前の経供養塔なりき高さ約三尺幅約二尺
…略…  〉 

『峰山郷土志』
 〈 丹波村(杉谷、丹波(桜内〉、矢田、橋木、石丸、赤坂)
『丹後風土記』から考えると、丹波、矢田、石丸、赤坂は、内記を含めて丹波の里であり、橋木は竹野郡で、発枳の里(撥枳、撥枳)であったといい、杉谷は地形からみて吉原の里であったろう。また『和名抄』の丹波郡七郷の所属については『日本地理志料』は、丹波、桜内、杉谷、峰山、安、西山、小西、赤坂、石丸、橋木、矢田を丹波郷の地域としているし、丹波村一円が、丹波郷であった点については他の説も同様である。では『和名抄』の完成した承平四年(九三四)頃、今の橋木、いわゆるカラタチの里は丹波郡の丹波郷に属していたものであるといえる。この点については、橋木の項にゆずるが、どうも割り切れないものがある。
正応元年『丹後国田数帳』には、丹波郷百八十町七反三百八歩の内に、時武、蜜光、久次、則松、成友、益富、成久、末成、元依、吉田の十保(十部落)をあげているが、久次、益富の外に、現在のど部落に当たるか想像できないし、石丸保は新治郷に入っている点からみても、これらは必ずしも地勢の上から三分したものとは思えない。
ところが『丹哥府志』の丹波郡五庄の区分では『地理志料』による丹波郷の村々に菅村を加えて吉原の庄として、丹波の名称は全くみえない。さらにまた、慶長の『拝領郷村帳』になると、丹波郷は字丹波郷(桜内を含む)という小地域の名称となり、吉原の庄は安、小西、西山の三村に、峰山、杉谷を含めた小範囲に圧縮されている。
明治十七年、杉谷、丹波、矢田、橋木、石丸、赤坂の六ヶ村は連合戸長役場を丹波村に置き、両二十二年合併して丹波村をつくり、大正七年七月一日、杉谷全地域を峰山に分割した。なお、丹波村五部落はすべて峯山領であった。.

丹波村(丹波郷、桜内)】
『古事記伝』に、「開化天皇の妃、竹野比売の父、丹波大縣主由碁理は、丹波郡の丹波郷などに住み、そこを大県(おおあがた)といい……」とある。この丹波郷は、前にも述べたように、丹波村と吉原村の大半にまたがる広大な地域であろうが、丹波郷の中心は、あるいはこの字丹波郷に置かれていたと思われる。『日本地名辞書』には、「開化天皇と竹野比売の御子が、彦由牟須美命で、丹波道主命(四道将軍の一人)の祖である」と、諸例をあげて説明しているが、『古事記』では、竹野比売ではなく、開化天皇と御祁都比売の御子が日子坐王(彦坐王とも)で、日子坐王と息長水依比売の御子が丹波比古多須美知能宇斯王(丹波道主)となっている。直接の関係はなくとも、丹波道主の祖父開化天皇の妃竹野比売の父が、大県主として住んでいたところといえば、古代史の上に重要な役割をもつ土地である。大将軍という地名は、こうした昔を物語るのではあるまいか。
なお、『同辞書』は、丹波ノ郷を「古の丹波道主貴の故墟であって、中古の郡家(郡を統治する役所の所在地)である」といい、『日本地理志料』でも「古事記から考えると、この土地を治めたという旦波大県主由基理から、丹波という国の名が起こったもので、後に郡家が在った」と説明し、さらに建長二年(一二五〇、北条時頼代)、関白道家記、丹後国丹波荘地頭基綱。康正二年(一四五六、足利義政代)造内裏、段銭引付、丹州丹波ノ郷、結城越後入道−と付記している。北条時頼が鎌倉の執権の頃は丹波郷は後藤基綱の所領であり、足利義政が室町幕府の将軍の頃は結城越後入道が地頭であって、京都御所(内裏)の造営のため領地の田畠一段当たり何銭かの献金をしていることがわかる。この建長二年から七年目の正嘉元年(一二五七)七月二十三日に丹波守藤原頼景が入国している。頼景は、はじめ新治郷に居住したが後、丹波郷に移ったといっている。
正応元年(一二八八、鎌倉執権北条高時時代)、『丹後国田数帳』によると「丹後郷百八十町七反三百八歩内六十町、段銭致沙汰、此外御免之由申候、結城越後」とあり、また、時武、安光、久次、則松、成友、益富、成久、末松、元依、吉田の十保の所有者には、楠田、武部、土方、後藤、宇野、倉橋らの豪族と足利の一族と思われる千福殿、大万殿、および八幡領などがある。また、天文七年(一五三八)『丹後国御檀家帳』には「一、たんはのかう(注、丹波ノ郷)一、城主也、宮津和田殿、小倉殿の御内の人和田八郎殿、わた殿御内 湯浅源三郎殿」とあり、それに続いて「一、たくと申里にて、土方孫六殿御屋方様御内」とある。当時、丹波郷と多久の里とは、区別されていたようで、多久の里とは、延喜式の多久ノ神社の所在地であったろうし、丹波郷の名称は字丹波郷(俗にタンバノゴ)の一小区域の字名となっていた。
慶長、元和を経て、延宝八年の『郷村帳』をみると、丹波郷は丹波村となっており、あるいはまた、文化十三年の「郷村帳』になると、丹波郷五ヵ村(丹波村、矢田村、赤坂村、石丸村、橋木村)として、再び大区劃による丹波郷の郷名を持ち出してはいるが、これは峯山領を吉原庄、丹波郷、五箇谷、河西、河東の五地域に大別した名称にすぎなかったし、各大地域中二十の村々はそれぞれ独立していた。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 湧田山1号墳(わくたやまいちごうふん)
所在地:峰山町丹波小字湧田山、矢田小字田中
立 地:竹野川中流域左岸丘陵上
時 代:古墳時代前期
調査年次:1983〜85年
   (測量調査、同志社大学考古学研究会)
    2007、2008年(市教委)
現  状:完存(府指定史跡)
遺物保管:市教委
文  献:B110、F283
遺構
 湧田山古墳群は、竹野川中流域西岸の低丘陵上に立地する、総数42基からなる古墳群である。
 古墳群中最大の規模となる湧田山1号境は、北西に突出する前方部をもち、前方部の短小な、全長約100mを測る前方後円墳である。1981年の分布調査により存在が確認され、1983〜85年にかけて同志社大学考古学研究会が行った測量調査により古墳の詳細が知られることとなった。2007年からは市教委による範囲確認調査と墳丘再測量を実施している。
 後円部は正円形でなく、丘陵主軸に平行し長軸を、直交して短軸をもつ、基底部で92×73m、高さ12〜14mの楕円形を呈す。後円部に取り付く前方部は前端までの長さ28m、前端部幅40m、高さ4〜6mを測る。前方部平坦面はほぼ水平かつ直線的に伸びるが、周縁基底はくびれ部から前端にかけ開き気味に伸びる。前方部に段築はなく、後円部のみに場幅4〜8mの段築を持つ二段築成である。前方部墳頂平坦面の尾根基底部からほぼ水平に後円部の段築テラスへつながり、前方後円墳の墳丘の上に円形壇を乗せたような構造になっている。また後円部裾は完周せず、南側端は段築部から自然地形へとつながる。平野部ないしは竹野川を望む東側に比べて西側の基底部は明瞭でない。また埴輪および葺石などの外表施設は確認されていない。1988年には、周辺の4号墳までを含んだ一帯の大半が京都府指定史跡に指定された。
 2007年より前方部からくびれ部にかけての範囲確認調査を実施している。2007年調査では、墳丘裾と思われる傾斜変換点を検出している。しかし埴輪、葺石などの外表施設は見つかっておらず、古墳築造時期を示す土器なども出土していない。
 1トレンチでは、墳丘裾より溝状遺構が検出されているほか、旧表土と思われる黒色土層を上下2層確認している。2トレンチでは、前方部平坦面のすぐ下より旧表土と思われる黒色土層と溝状遺構を検出している。両トレンチともに溝状遺構からの出土遺物は皆無であったが、1トレンチ黒色土層(下層)直上からは、弥生前期および中期後葉の土器片が出土しており、下層遺跡が存在する可能性が考えられる。黒色土(上層)上面には、古墳盛土と推定される明黄褐色土層がある。なお黒色土中(上・下層)炭化物のAMS年代測定を行ったところ、暦年校正後の数値は、上層はAD130〜AD330年、下層はBC170からAD30年にほぼ収まる値が示されている。
意義
 湧田山1号墳は、竹野川中流域の狭隘部、いわゆる交通の要衝に立地する大型前方後円墳である。墳丘の形状からは、大田南古墳群の分布する北側を意識した立地となっている。前方後円墳の墳丘の上に円形壇が乗るような形状をしていることに加え、前方部が短小である点は、丹後地域のほかの前方後円墳と比べ構造上大きな違いが認められる。
 出土遺物がないため、編年的位置付けについては、いくつかの説が存在する。かつては帆立貝式古墳の一種と考えられ、中期古墳として位置づけられていた。しかし現在は、後円部が長楕円形を呈するこがカジヤ古墳、蛭子山古墳(与謝野町)に共通する要素とされることなどから、古墳時代前期中葉から後葉と位置づけられている。これとは別に近年は、周辺から大田南2、5号墳という古墳時代前期初頭の古墳が確認されたこと、前述の墳形要素に加え葺石、埴輪を共に欠く点を重視し、古墳時代前期初頭まで遡る編年案が提示されるようになった。
 以上のように湧田山1号墳は、弥生時代後期末の大型墳墓の成立から網野銚子山古墳をはじめとする大型前方後円墳へとつながる首長墓の可能性がある古墳と位置づけることができる。
 また下層より出土した弥生土器は、前期と中期後葉の遺跡が存在することを示すものである。立地から見て扇谷遺跡のような高地性集落の存在が推定される。今後の調査により内容が解明されることに期待したい。  〉 

丹波の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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