丹後の地名

俵野(たわらの)
京丹後市網野町俵野


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京都府京丹後市網野町俵野

京都府竹野郡網野町俵野

京都府竹野郡木津村俵野


俵野の概要


《俵野の概要》



KTRの「木津温泉」駅の先から踏切を越えて左へ入った谷間にある集落。砂丘地帯にある畑は、府下で最も早く潅漑設備が設けられ、夏期は梨・ブドウ狩り、芋掘りなどにぎわう。
田原野とも書いた、俵野川流域に位置する。小字家の下より塔の礎石、丸木柱、大量の布目瓦破片、舎利壷と認められるもの1個が出土し、いずれも奈良後期の遺物で、俵野廃寺と呼ばれる。
俵野村はかつて函石浜を中心とする砂丘にあったという「おこう野村」の一部であったが、西風のたびに海岸から吹き寄せる飛砂のために現在地に移転したと伝える。
俵野村は、江戸期~明治22年の村。当初木津庄のうち、江戸後期に分村独立したと思われる。はじめ宮津藩領、元禄10年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年木津村の大字となる。
俵野は、明治22年~現在の大字名。はじめ木津村、昭和25年からは網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。
俵野は伝説収集などで有名な井上正一氏の里。


《俵野の人口・世帯数》 174・45



《主な社寺など》

俵野廃寺
俵野廃寺の塔の礎石
網野郷土資料館の入口にある塔礎石の半分。あと半分は俵野集会所の震災祈念碑の台石になっているとあるが、そんなものは探せども見当たらなかった、誰かに聞こうにも誰も見あたらない。
俵野廃寺跡
俵野廃寺跡↑(今は何もない)。『京丹後市の考古資料』↓
俵野廃寺発掘調査
俵野集落の中ほどにあり、奈良時代後期の寺と思われる。大正11年(1922)俵野川改修工事の際発見された。地下約1メートルに、約1・5メートル間隔で一列に並んだ丸木柱の柱根と思われるもの6本(径約60センチ、高さ約1メートル)、大量の布目瓦(鬼瓦・軒丸瓦・平瓦)の破片、平安時代後期のものと思われる塔の礎石1基、舎利壷(径約15センチ、高さ約11センチ)1個を出土している。
この川は寺院があった当時はここを流れていなくて、もっと写真で言えば右手にあったと考えられている。右手の道路、少し先やや白く見える道路あたりの下から遺物が出土している。塔礎石は左手山手へ登る坂道が見えるが、そのチョイ先から出土したという。ここだけしか発掘されておらず、規模や伽藍配置などは未詳。谷幅は300メートルばかりしかないし、中を川が流れている、どうした寺院だったのだろう。伝説も何一つ伝わらない。
丹後国田数帳に
  木津郷 卅五町六段百八拾歩内
  一町三段               且経寺
  十八町五段百八十歩        同帰院
  十五町八段     不知行之由申侯同領
とみえる「且経寺」、あるいは「同帰院」に比定する説もあるが、不詳。 礎石出土地を塔(とう)の坪という。

『網野町誌』
 〈 ・俵野廃寺の礎石と瓦
 震災記念碑が俵野集会場前にあり、その台石となっているのが俵野廃寺の礎石である。これは大正一一年(一九二二)に俵野川から掘り出されたもので、直径一・五一㍍、厚さ五七㌢で、中央に直径一六㌢、深さ一七㌢の円筒形の穴がある。この中に紫色や金色の液状のものが入っており金属製の壷もあった。この礎石と同時に出土したのがあぶみ瓦、すなわち平瓦を並べた上に押さえとして載せる瓦で、製作時に布を使ったため表面にその跡が残っているので、布目瓦と呼ばれている。
「網野町文化財目録」には〝旦経寺や同帰院は俵野に出土した布目瓦や礎石に関係のある寺ではなかろうかといわれている。〟とある。  〉 

『網野町誌』
 〈 俵野廃寺-丹後最古の寺院-
六世紀に仏教が伝来したことにより寺の造営がはじまるが、日本で最古の寺は奈良県明日香村の飛鳥寺で西暦五八八年にその造営がはじまっている。その後、寺造りは各地の豪族によって全国各地に広まっていく。それは、七世紀中ごろに終わった古墳造りに代わって権威の象徴としての寺の造営へと代わっていったものであろう。そしてこの寺造りは、西暦七四一年、聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔へと結びついていく。そしてこの時期には全国で七○○近い大小の寺が造られていたことが明らかになっている。
 丹後の国分寺は、天の僑立を真正面に見ることのできる宮津市国分の景勝地に建立され、室町時代初めに再建された金堂跡と塔跡が確認されている。この丹後国分寺よりも早く造られたのが網野町木津の俵野廃寺で、丹後の最古の寺院である。
 俵野廃寺については、昭和六一年発刊された『木津村誌』に、発見された当時の様子が発見の際に立ち会った人たちによってまとめられている。それによると次のようなことがわかる。
① 俵野廃寺は、大正一一年に俵野耕地整理組合の事業として、谷の中央を流れていた俵野川を集落沿いに移し変える工事が行われた時に発見されたものである。
② 塔の心礎石は、直径約一八○センチメートル、厚さ五八センチメートルで円形の自然石の片面を削って平たくし、その中央に直径一五~一六センチメートル、深さ一六センチメートルの穴を穿っている。この礎石が出土した時はこの穴の上部に薄い石の蓋があり、それを取り除くと中に麻織物のようなわずかな布片と薄い金属製の壷状容器の首部が三分の一ほど残っていた。
③ 建物の柱と考えられる手斧の削り跡も生々しい丸木柱の根っこの部分(直径五○~六○センチメートル、長さ一メートル)が、一間半の間隔で出土した。
④ 須恵器壷が一個出土しているが、土手にすくい上げられた土の中からみつかったものである。
⑤ 礎石が出土した付近に、布目瓦が粘土層の中に差し込まれたような状態で層をなして埋まっており、瓦積み基壇の可能性がある。
⑥ 昭和一四年ころには、礎石の出土位置より約一○○メートル下流を護岸工事した際、柱の根部数本と鬼瓦一個が出土しているが、この鬼瓦は現在、所在が不明である。
⑦ ⑥の位置より一○○メートル東方の水田の地下一メートルのところに、南東から北西の方向に向かって基壇らしい遺構がある。
 以上が『木津村誌』に記載されていることの要約であるが、このうち、須恵器壷については、これまで塔の心礎石に納められた舎利容器と報告されていた。しかし、この木津村誌の記載が事実とすれば②で明らかなように金属製の壷状容器こそが塔心礎石に納められた舎利容器であり、須恵器壷は舎利容器とは考えられず、このことは須恵器壷の年代が平安時代前半であることとも矛盾しない。また、遺跡の周辺には塔の坪・寺口・寺屋敷・防垣などの地名が残っており、寺域の大きさは東西、南北共一○○メートル以上に広がりそうで、相当大きな伽藍配置が推定できるが、詳しくは今後の調査を待つよりない。
 また、昭和五八年には俵野川改修工事で、礎石の出土した位置の少し上流のところから、川の水面のレベルで軒丸瓦や軒平瓦などが土器片多数とともに出土している。
 俵野廃寺から出土している瓦は、軒丸瓦、軒平瓦、平瓦、丸瓦と鬼瓦である。軒丸瓦は鋸歯文のある複弁八葉蓮華文軒丸瓦、軒平瓦は二重弧文軒平瓦と三重弧文軒平瓦であり、丸瓦や平瓦に見られる布目痕や格子状のたたき目痕の特徴とともに、川原寺式と呼ばれる瓦の形式で白鳳時代の典型的なものであることから、俵野廃寺は奈良時代に建立されたことがわかる。
 それではなぜ、木津地区の中でも狭小な谷あいの地に丹後最古の古代寺院が建てられたのであろうか。古代寺院を造った勢力は、古墳時代に有力な古墳を造ることができた豪族の末裔であろうとする考え方で理解しようとしても、この木津の谷には取り立てて挙げることのできる有力な古墳はみつかっていない。網野町全体に範囲を広げてみても、網野銚子山古墳や離湖古墳とは二○○年以上、岡一号墳とは一○○年前後の時間的隔たりがあり、地理的条件とともに直接結びつけることはむずかしい。むしろ、地理的な条件から考えると、俵野の谷は桜尾峠を越えて熊野郡へ通じる古代の道筋であり、熊野郡の佐濃谷川流域の勢力との関連を考えたほうがよいかもしれない。いずれにしても、現在の時点では確かなことはいえず俵野廃寺建立の謎は今後に残された丹後の大きな歴史上の課題である。このほか、網野町における奈良時代の遺跡としては、島津のテヘン田遺跡と郷の大字賀神社南窯跡の遺跡と掛津の土馬がある。  〉 
『丹後王国の世界』(写真も)出土瓦
 〈 丹後唯一の白鳳時代の仏教寺院 俵野廃寺
 古墳時代が終わり飛鳥・奈良時代に入ると、仏教の伝来とともに、全国的に豪族による権威の発揚方法が、古墳づくりから寺院づくりへと変わっていきます。しかし丹後国には、この時期、寺院を造営できるほどの力を持った豪族がほとんどいなかったようです。聖武天皇の命によりつくられた丹後国分寺を除くと、白鳳時代(7世紀後半)に、つくられた俵野廃寺(京丹後市網野町木津)が知られるのみです。これは丹波国に存在した、9ケ寺と比べてもはるかに少ない寺院数で、古墳時代後期から引き続く丹後地域の豪族の凋落ぶりが一段と目につきます。なお、俵野廃寺から出土した瓦は、稚拙な文様のものが多く地元で生産された瓦と考えられますが、瓦を焼いた窯跡はみつかっていません。  〉 

巨大古墳を作った丹後人は、最初期は仏教を受け入れなかったのか。先進地の俵野は取り入れたが、うまくいかなったよう…
仏教導入は寺院造営だけのものでなく、古墳に続く新社会システム装置の造営で、この当時なら天智・天武・持統の飛鳥政権へのゴマスリのしるしみたいなものとも見えるが、大陸輸入の大社会システムが機能して丹後社会全体を更新するまでには至らなかったか。
この時代の仏教は支配者専用のもので一般庶民のものではなく下々の救済などは頭にはない、今のような民間に支えられた民間の信仰に根付いた寺ではない、このあたりのごく一部の中央ベタベタの地方支配層だけの先進文化であったと思われる。その層の人口が少ないため長続きすることなく地域に根付くこともなく伝承を残すこともなく消滅してしまったものか。川原寺式の瓦というが、その飛鳥の川原寺がナゾだから、どうにもならない。俵野廃寺も官的な寺であったのだろう。
新宗教など上からやっても根付くはずもない。上から君が代・日の丸・愛国心みたいなもので、オマエらクソどもには言われ強制されとうないわい、ウサンクサイハナシと嫌われて当然である。丹後の地方豪族が疲弊していて作る財力がなかったのか、それとも逆で強くて独立心旺盛で意識的に受け入れなかったか、もう少し研究が必要かも…
寺院を作るのはいいことばかりではない。仏像の金メッキは水銀アマルガム鍍金法で、金1に水銀5をまぜて塗り、周囲から火をたいて水銀を飛ばすという方法であった、飛んだ水銀は人々に吸入されて水銀中毒を引き起こした。奈良の大仏もこうして作られ、周辺で発生した水銀公害患者は5000から50000人にもなっただろうとする推測もある、水俣病を思い起こそう。仏像が銅製なら銅も公害を引き起こす(足尾銅山の例)。片目になるくらいのことでは済まないが、俵野はどうだったのだろう。

八柱神社
写真で言えば左手の山(桜尾山)の上にありそうだが、行くヒマがない。
『丹後国竹野郡誌』
 〈 八柱神社 村社 字俵野小字桜尾鎮座
 (神社明細帳) 祭神 須佐之男命
 由緒 不詳 明治六年二月村社に列す
  社 殿  梁行三尺三寸 桁行三尺
 上 屋   梁行一間五尺一寸 桁行二間二尺二寸
 拝 殿   梁行二間三寸四分 桁行三間三尺八寸五分
 境内坪数  五百二十八坪 
 境内 神社
  稲荷神社 祭神 宇賀魂神
  金刀比罷神社 祭神 大物主命
  須川神社 祭神 不 詳
(丹哥府志) 八大荒神  祭九月十日
(沿革) 元本社は字砂山に鎮座ありしを今の地に移し祀れるなり  〉 

『網野町誌』
 〈 村社 八柱神社 俵野村小字桜尾
 社史の略記(『八柱神社』井上正一)より
寛文一二年(一六七二)「三宝荒神」社創建、はじめて神社らしい社屋が建つ。
元文二年(一七三七)現在地に移転。
寛政元年(一七八九)「八大荒神」の社名となる。
明治一八年(一八八五)「八柱神社」の名で「神社明細帳」に現われる。  〉 


勝田池(丹池)


桜尾峠(フルーツ・ライン)の本線から枝道に入って少し下ったところ。ここからは何も見えない。
そこの案内板には、
勝田池(かったいけ)
勝田池は、俵野地区の西側、桜尾峠の北麓にある広さ2ヘクタールの池です。この池は、背面の山地と峠の谷間から流れてきた水が砂丘によって堰き止められたものと思われます。この池には次の話が伝わっています。
難波の長者鴻池の娘は、この池に身を投じて大蛇になり、毎日、人を困らせていました。その後、大蛇は木津村の三五郎に退治されました。その時、水が赤くなったので「あか池」と呼ばれるようになったということです。京丹後市教育委員会


勝田池(丹池)
この池が郡界になっていて、手前側は竹野郡俵野、対岸は熊野郡鹿野になる。
『丹後国竹野郡誌』
 〈 丹池  大字俵野にあり
(木津温泉誌) 熊野郡に通ずる街道の俵野峠の頂上に達すれば小丘濤の如く起伏する間に一碧鏡の如き大池を見る之れなり、一名蛇の池と称し周囲十余町あり、里人の説に此池は丹波国名の起れる丹池なりといふ、金波銀波に四山の影を浸し水禽芦辺に魚を覗ふ風光頗明媚にして小画幅を観るが如し、池には尺余の鯉鮒数多凄み釣漁に最も妙なり。
(丹哥府志) 勝田の池とあり  〉 


《交通》


《産業》



俵野の主な歴史記録



『丹哥府志』
 〈 ◎俵野村(松ケ崎の南、是より熊野郡三分村へ出る、凡廿七八丁)
【八大荒神】(祭九月十日)
【地蔵堂】(奥この山)
【勝田の池】  〉 

『郷土と美術4』(昭和14.7)
 〈 郷土の伝説 丹池(あかいけ)物語 井上正一
俵野の丹池
 竹野郡の西端、木津村字俵野に丹池といふ面積二ヘクタールばかりの溜池がある。
 昔、大阪の鴻池にきれいなお嬢さんがあった。フト気が狂って、丹後に好きな人があるからそこへ嫁入したいと云ってきかない。そこで鴻池家では娘の云ふがまゝに、立派な駕籠でこの土地まで送って来た。池の附近が峠になってゐるので、一同一休しやうと駕籠を降すと不思議やお嬢さんは蛇身となって、するすると池の中へ入ってしまった。以来、土地の人は恐れてジャ(蛇)の池といひ近づかなかったといふ。
 池の主、大蛇は時々出ては人を悩まし、農作物を荒しなどするので、或る時、木津村有田部落に住んでゐた三五郎といふ者が氏神加茂祁牡に祈請して之を退治ることになった。三五郎は貫裸となり、剣を口にして池深く潜ってさがしたがそれらしいものは見つからず、だゞ不思議なことは池の中に大きなヘダラ(木令-ひさかき)の大株が沈んでゐた。試に之を斬ったところ、忽ち池の水は真赤となった。久しく水が赤かったので人々は「あか池」といふやうになり遂に丹後の国の名が起りとなった。その後、大蛇は姿を見せず村人は大変悦んだ。剣は加茂神社に奉納し、人名づけて蛇切丸といったが、元禄四年何者にか盗まれて今はないといふ。  〉 

『郷土と美術91』(1988.1)
 〈 金工史の視点から 古代丹後の伝承地名を歩く 小牧進三
網野町の丹池(あかいけ)伝説
 この丹という金工の視点から『奥丹後民俗覚書』(『郷土と美術』所収井上正一編)の丹池伝説をみつめると、この伝説もやはり水銀伝説が横たわる。
 丹後の木津温泉で有名なこの木津に隣りする網野町俵野、この地は奈良時代の俵野廃寺としてもすでにその名が知られている。
 この山あいに、周囲四キロばかりの「丹池」というふるくからの池、「かった池」がある。
 この池が、丹池となった伝説はその昔、このかった池に一匹の大蛇が住んでいた。ところがあるとき、武勇にたけた三五郎という人物が、この池の主である大蛇を斬り捨てこれを退治した。ところがそののち大蛇の血が流れだし血で池が真赤に染まっていつまでも赤さが消えなかった。そののち里人は、この池を俵野の丹池とよび、丹波の国の国名起源は、この俵野の丹池に由来すると伝える伝説があることを井上正一氏がまとめている。
 この伝説を一読すると、大和の宇陀の血原、豊後の血田伝承と近似する同系の語りであって池の赤色を大蛇の血にことよせ語られていることがまずわかる。
 四年前の晩秋のある日、一人でこの丹池の池ぶちに佇ずんでみたが、崖の斜面の地肌は、たしかに赤い。鉄系の赤色ではない赤さを今でも認める。その足で井上正一氏宅を訪れ、同氏から近傍地名について教示をうけた。
 この丹池がある谷あいを「丹谷(たんだに)」と呼び、また続いて丹地(たんじ)地名も近接するという地名の原理から察すると、ほぼ水銀地名であることが推察できる。しかし察するだけでは証明不足でその理解がえられない。
 ところが一方さきほどの網野町郷地区内に奇妙な牛伝説が語り伝えられている。
 この伝説は、井上正一氏のまとめによると… あるとき、郷村の牛洗い場で、飼い牛を洗っていたところ、牛のからだが深みの淵にずるずると沈んでしまい、とうとう姿が見えなくなってしまった。ところが数日後のある日のことその牛の屍体が、俵野の丹池に浮き上がったという話が「奥丹後民俗覚書」(井上正一編)に採録されている。ついで郷の牛洗い場と俵野の丹池とは池の底がつづいているという口碑をともに紹介している。
 この網野町郷の「牛洗い場」とは、かって松田寿男氏の取材に同行した地元の史家、後藤右ェ門(故人)翁の教示によると、大宇迦神社の境内「丹生土」がそれであるという。今日ではもはや見るかげもない小さな池に縮小されているが、明治末期ころはかなりの広さがあってその池の深さを知らずと言い伝られていたという。
 この丹生土は、さきのとおり、○・○四オーダーを示す多量の水銀産出地であったことは、松田寿男氏の検証結果できわめて明白。
 網野町の俵野の丹池も、わざわざ「丹」の文字をあて、池水の赤さを表現しいることからも血のしたたりを思わせる水銀朱の赤さを表現するため「丹」の字をあてたことを知り、丹谷、丹地地名がこれを傍証する。
 このことから、郷の牛伝説も、俵野の大蛇伝説も、語りの媒体として牛と大蛇が主人公にされたのであって、もともと双方に横たわる水銀伝説の語りであったとみるとその謎も容易に氷解する。
 ただし郷村の「牛」は、労働力からみた牛で把握する物語りが単純となる。
 ここで朱という文字を漢字分解すると、「牛とハ」の記号から朱文学が成立していることがまず明瞭だ。
 中国の最古文字である殷代の甲骨文字「朱」の字体をみると、朱は(牛)の文字の真中に横棒を一本加えたかたちで、ばっさり牛を胴切りにした形である。胴切りにしたとき、ふきだす血の色がアカ、天然水銀の赤色なのだ。つまり牛は古代において朱の代名詞でもあったわけである。
 こうした理解に立つとき、郷の牛伝説と俵野の大蛇、丹池伝説は、古代水銀を媒体とし金工の視点からここで自然融合する。このわけから郷の牛の屍体が数日後、俵野の丹池に浮き上がった理由の謎もこれで氷解する。
 また双方の池の底がつづいているという語りも、郷の丹生土の水銀の赤さと、俵野の丹池の池水の赤さが同色であった表現の語りであったとみなされる。
 ただしこれがいつ頃の時代のことであったか、あくまで伝説であるためその推定はむずかしい。ところが、かつて俵野の丹谷から湧出し流出した天然水銀が、かった池に浸透し池水を真赤に染めあげた。この赤色が、大蛇の血にたとえられ、大蛇伝説が生まれ、丹池伝説となって今日に語り伝えられたと把握したい。  〉 


『網野町誌』
 〈 <上野と俵野と溝野>
 この三部落はもと海岸に近い「おこう野」から移転したというが、「うえの」又は「うわの」という地名の所は、川底の低下によって出来た谷の両側の高い平地をいうのでありまして、上野部落は今はあのような低地にあるが、三百年ばかり前までは裏手の砂丘の岡、天王山に元村がありました。ここは「うえの」の地名にふさわしい台地であります。上宇川村にも上野があります。川の上の岡で同じような地形になっています。
 「たわ」は普通名詞としても残っていて、年とった人たちは今も用いるが、若い人々にはもう殆んど忘れられています。たわはクボ地のことであって、山嶺のへこんでいる土地、従って山越に便な箇所であります。俵野の元屋敷は今も元俵野という地名で残っていますが、砂の移動によって地形はすっかり変りましたが、かつては「たわ野」の地名にふさわしい土地であった筈です。
 溝野は「おこう野」に元村のあった時代の地名か、今の地に移ってからできた地名かはよくわかりませんが、文字通り溝の様な細長い耕地のある土地を云ったのではないでしょうか。今の溝野の地形は丁度そのような土地であります。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 俵野廃寺(たわらのはいじ)
所在地:網野町俵野小字家ノ下
立地:木津川支流、俵野川左岸沖積平野
時代:飛鳥時代後期~平安時代
調査年次:2006~2008年(府センター)
現状:調査範囲は消滅(河川および護岸)
遺物保管:府センター、丹後郷土資料館、市教委、個人
文献:A108、AO19、C141、C145、FO70、F252
遺構
俵野廃寺は、丹後地域において、7世紀末葉に創建が確認できる唯一の寺院である。
『木津村誌』によれば、1922年に俵野川の河川改修工事が行われた際に、通称「塔の坪」より塔心礎と思われる礎石が発見され、大きいため半割して運んだと伝える。半分は現地に残されており、残り半分は網野郷土資料館前にある。
礎石は、中央部に孔があり.その中に布片と壺状の金属製容器片があったと伝える。礎石周辺は、多量の瓦が層状に埋まっていたと伝え、瓦積基壇の可能性が考えられる。また約3m間隔に杉材の丸木柱があったとされ、この材を使って作られた桶が網野郷土資料館に現存する。
1939年には、礎石出土地点より約100m北側より、丸木柱と鬼瓦が出土している。その後、1983年に行われた護岸工事に際しても瓦が出土しており、林和広により出土遺物の報告が行われている。
2005~08年に初めて発掘調査が実施され、礎石発見地点周辺より瓦堆積と礫敷遺構、溝が検出されている。調査地点よりすぐ西側には、丘陵がせまっており、東側は俵野川の旧流路が位置する。遺構の検出状況や立地から見て、瓦堆積や礫敷遺構は、俵野廃寺の東限を示すものと見られる。
遺物
発掘調査出土資料およびこれまでに報告された採集資料には、軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦、鬼瓦、須恵器、土師器などがある。 軒丸瓦は2種類見られる。一つは過去の表採資料から知られていた複弁八葉蓮華文のものであり、中房に珠文が、縁に3本一組の鋸歯文が入る(Ⅰ式)。もう一つは、発掘調査によりはじめた確認されたものであり、稚拙な素弁七葉蓮華文である。中房は無紋、縁にはまばらに珠文が見られる(Ⅱ式)。軒平瓦は、型引きにより二本の弧線を描く三重弧文のものが見られる。丸瓦は、玉縁式のものが少数であり、行基葺のものが多い。平瓦は、凸面にナデ、削り調整するものが多い。叩き痕跡を残すものは、平行叩き、斜格子叩き、正格予叩き、長方形格子叩き、縄叩きのものがあり種類が多い。凹面には模骨痕が見られるため、桶巻作りと推定される。また熨斗瓦も一定量出士している。鬼瓦は、1939年に表採されたものが1点知られる。全体に稚拙な印象を受けるが、全身を表現したものである。
瓦は、型式から見て7世紀末葉~8世紀初頭のものが多いが、縄叩きの平瓦を含めて奈良時代以降の補修瓦が一定量含まれていると考えられる。このほか平安時代の須恵器椀、壷や土師器椀が見られ、墨書土器が含まれる。これらの土器は、俵野廃寺の廃絶時期を示すものと推定される。
意義
俵野廃寺は、瓦や出土遺物の内容から、7世紀末葉に創建され、2棟以上の瓦葺建物が順次建築され、小規摸な補修を加えながら10世紀には廃絶したものと推定される。出土した軒丸瓦や鬼瓦は、周辺に類似した紋様をもつものが見られず、その系譜については今後の検討課題である。また『木津村誌』が指摘する周辺の丘陵に残るテラ地名は、いずれも小字地名であり、俵野廃寺に直接関係するものではなく、別の中世寺院跡の痕跡を示すものと思われる。
俵野廃寺周辺には.古墳時代後期後半の古墳群や飛鳥~奈良時代の横穴墓は見られない。一方、寺の所在した木津郷は、平城宮出土木簡にも郷名が見られ、古代にさかのぼる地名であることがわかる。「津」という地名から見て本廃寺周辺には、古代の港湾機能を有する施設が存在したことが推定され、これらを掌握した在地有力者が創建したものと思われる。  〉 




俵野の小字一覧



俵野(たわらの)
明神□□切谷(みょうじんきりたに) 上勝田(かみかつた) 勝田(かつた) 川尻(かわじり) 川尻向(かわじりむかい) 下フヅツ(しもふづつ) フヅツ ユリガ下(ゆりがした) 向ヒ田(むかいだ) 立ヲサ(たておさ) 市ケ谷(いちがたに) ハシカ 困リ山(こまりやま) 高原(たかはら) 百牛町(ももうしまち) 湯舟(ゆぶね) 下和田ノ下(こわだのした) 家ノ下(いえのした) 高苗代(たかなわしろ) 溝谷(みぞたに) 丹ノ谷(たんのたに) 五反田(ごたんだ) 小谷口(こたにぐち) 東中島(ひがしなかじま) 西大田(にしおおた) 小湊口(こみなとぐち) 仲田(なかた) 五段田(ごたんだ) 堂ノ下(どうのした) 柿ケ谷(かきがたに) 月谷(つきだに) 家ノ尾(いえのお) 丹地(たんじ) 屋敷ノ内(やしきのうち) ヲクジ ヲテ 石バシ(いしばし) 松原(まつばら) オケハナ ボウガキ 寺口(てらぐち) 小谷(こたに) 寺屋敷(てらやしき) 中島(なかじま) 湯舟口(ゆぶねぐち) 上リ山(あがりやま) 坂本(さかもと) スダノ下(すだのした) 清水(しみず) 新砂山(しんすなやま) 砂山(すなやま) 釜原谷(かまはらたに) 元俵野(もとたわらの) ハサマ 百子町(ももこまち) 桜尾(さくらお) 大谷(おおたに)


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福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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