丹後の地名

仲禅寺(ちゅうぜんじ)
京丹後市網野町仲禅寺


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京都府京丹後市網野町仲禅寺

京都府竹野郡網野町仲禅寺

京都府竹野郡島津村仲禅寺

仲禅寺の概要




《仲禅寺の概要》

島津から南へ大橋川に沿って弥栄町の方へ入った細長い谷筋に立地する。地名の由来は当地にあった中央山仲禅寺にちなむという。仲禅寺は天安2年智証大師の開基で、永禄6年吉祥院を残して本堂以下の伽藍を焼失。その頃すでに門前村が存在したものと考えられている。

仲禅寺村は、江戸期~明治22年の村名。もと島溝川村(島村)の枝郷、明和5年分村したという。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領、宝暦9年再び宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年島津村の大字となる。
文化11年(1814)配札と修行の途次当地を通った野田泉光院は、内記村(現時山町)から仲禅寺村に向かったとみえ、「日本九峰修行日記」同年7月2日条に「宮津領中善村と云ふに観音堂、円成寺と云ふ大寺あり、寺中多し」と記している。

仲禅寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ島津村、昭和25年からは網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《仲禅寺の人口・世帯数》 24・9



《主な社寺など》

貴船神社
貴船神社(仲禅寺)
集落の一番奥、元は仲禅寺の鎮守か、吉祥院の少し奥に鎮座。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 貴船神社 無格社 仲禅寺字本堂奥鎮座
 (神社明細帳) 祭神 高オカミ神
  創立不詳、明和七缶寅九月、天保十三年丑七月再建
 (森氏蔵古文書) 當村貴布禰大明神之宮及大破候に付明和七寅年六月に御上様寺社御役所様並御支配御代官様へ宮四尺三寸四方古間之通修覆建立仕度奉願上侯て願之通被抑付建立奉仕候、尤代銀之儀者村中宮頼母子仕銀子五百匁懸出し其外人々寄進仕都合代銀一貫目餘外に米三石一斗四升七分四勺入申相済侯以上
  明和七寅年十月吉日    當村庄屋  又左衛門代
               同組頭   治 兵 衛
               同惣代   増左衛門
               頭百姓   兵右衛門
               同 断   孫右衛門
               同 断   忠兵衛  〉 


『網野町誌』
 〈 貴船神社 仲禅寺字本堂奥鎮座
 祭神高オカミ神(「神社明神帳」)
創立不詳
 明和七年寅(一七七〇)九月、天保十二年丑(一八四一)七月、の二度修理・再建の記録あり。
注 「たかおかみの神」は雨を司どる竜神とされる。(『竹野郡誌』)
補注 天正三年(一五七五)竹野郡仲禅寺貴船神社の石碑建つ(『丹後の国』梅本政幸)
境内神社
 若宮神社 祭神不詳
 春日神社 祭神 天児屋根命
 稲荷神社 祭神 宇賀魂神
 大川神社 祭神 豊宇気比女神
               (「神社明細取調書」)  〉 


真言宗中央山吉祥院および同山仲禅寺の旧跡。
吉祥院
集落の奥にホコラのように残っている。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 吉祥院 真言宗 字仲禅寺にあり
(丹哥府志)中央山吉詳院 真言宗
 寺調に曰当寺元は中央山仲禅寺と号す頗る大寺なり、天正の頃回禄の爲に悉く伽藍滅す、唯吉詳の一院のみ残れり、其後密宗の僧宥弁なる者来り住してより天台宗を改め今真言宗となる、観音堂、真宝院遺跡、十王堂、万福寺遺跡あり、
〈森氏藏仲禅寺開闢元来之事)
一、当寺の儀は和銅六年壬丑歳元明天皇の御代智證大師の御開基にて則中央山仲禅寺と称号其節衆僧衆徒の分十一人同児五人座方十一人有之
註、森忠右衛門氏所蔵の記録は天明四甲辰年正月吉日庄屋森又左衛門の書きたるものなり
(宇川上山寺年代目録)第五十五代文徳天皇御宇天安二年智證大師開基也、永禄六年炎焼按、智證大師は延暦寺の座主にして嵯峨天皇の弘仁六年に生れ、宇多天皇の寛平七年寿七十八にして逝す、故に生れたる年より起算して和銅六年に遅るゝこと百二年なり故に和銅の開基は当らず宇川上山寺の年代目録に載する文徳天皇の天安二年を至当とすべし二、永禄六年癸亥閏十二月晦日夜酉刻に後寺中出火有て、本堂寺中仁王門に至迄仏閣不残焼失仕候尤縁起等茂御座侯得共出火の節焼仕舞申候由仁王尊御身体は御残りたまふと申伝候、其後段々及大破今以本堂屋敷塔屋舗並寺屋敷之分中之坊西之坊東之坊南之坊下寺屋敷蓮池風呂屋山内谷と申つたへ候て字許り御座候、外に仁王屋敷鎮守屋敷則貴布禰大明神四尺三寸四方の官有之若宮一ヶ所御座候
三、文明十三年辛己三月中旬仁王脚両尊造立仕候、其後中興の開山宥弁上人開基にて元和十年、甲子四月二十四日御命日当寺吉祥院中興の開山生国土州なり、則ち今の上人塚古木有て其節より是迄年数及二百年に候
四、当村仁王噂大破に罷成候に付三十二年以前宝暦三年癸酉年御再興仕候、仏師京都室町高辻下ル町仏師棟梁水谷作之進同縁仏師甚兵衛並江州高島郡蛙江村平八下細工請負都合三人参候、右細工いたし逼留の内七月七日に琴引の浜へ都合七人一見に罷越琴引を遊ひ申候て帰り懸けに小浜村大林寺様へ立寄柳茶申請給居候之處、右平八離池に子供水泳候を見申候て則平八儀も単衣肌帯までも脱置水泳に入其儘形不相見に、子供近所の人々呼ひ廻り同道の者驚入大林寺様共に駈走り出村中早々集り綱を入舟三艘にて色々道具をいれ探候得共死骸水相見に、彌不意に溺死仕候、右仁王両尊再興代銀二貫三百匁入申候此代銀は当村祖心と申道心者有之千日の隔夜念仏修行いたし諸方の以助力代銀相続いたし相済申候
  宝暦三酉年
          願主  祖心
  同四年戊に成就いたし候
五、当寺吉詳院寺及大破候に付三十年已前宝歴四戊年に中の坊と申所建替へ建立仕候則中の坊畑寺屋敷に仕候に付当村又左衛門所持仕候畑寄進奉仕候、又左衛門所持の畑きせ地の分は当村孫右衛門所持の場所に御座候て是も同断に寄進有之候、当寺其節無住に付橋木村縁城寺十輪院随法師世話になり当村中戊閏十一月十一日に惣村中こふし堅め仕、尤材木等並屋舗引用意有之候も一両年列年より催し仕罷有候、大工棟梁は当村作左衛門同棟棟橋木村助八棟梁の外に大工橋木村喜八同村惣四郎嶋溝川村杢右衛門同村又左衛門同村文左衛門木挽当村重兵衛黒部村善六大工木挽都合九人にて建替建立仕候、此普請料入用米銀合て二貫五百目ほと前後に入申候、其時の村役人年寄又左衛門代立会村長白姓孫右衛門兵右衛門治兵衛利右衛門忠兵衛藤右衛門嘉兵衛増右衛門定使六石衛門其外村中不残世話仕如斯御座候
  宝暦四戊秋月吉日   当寺
              吉祥院 無往
             年寄
                     又左衛門代
                       其節親名忠左衛門と申候
(実地調査)
 貴船神社の向奥山の鼻に寺屋敷の遺跡ありて篠の中多くの古き五輪抔半ば埋れ居れり、神社の近辺にも屋敷跡数多ありて神社の入口右手には天正三年、元緑七年等の大なる石碑二三あり、吉祥院は荒廃とまでにはあらざれども無住なり、上り口の左手に蓮池の一部と、仲禅寺の村中に仁王尊の残れるは往古を偲ふ種なり、尚吉祥院宝物中には古き観音像の幅三四あり、  〉 

『網野町誌』
 〈 中央山吉祥院 曹洞宗 仲禅寺
本尊 不詳
<由緒・伝承>
『丹哥府志』寺記によれば、当山はもと中央山仲禅寺と号し、大地に伽藍の満ちた大きな寺であったが、中古不幸にして火災により、吉祥の一院だけを残し、他の伽藍はすべて焼滅してしまった。それまでは天台宗であったが、数年後に密教の宥弁(元和一〇年=一六二四没)という憎が来て住むようになってから、天台宗を改めて真言宗とした。
注一 『丹哥府志』に記載の〝観音堂、真宝院遺跡、十王堂、万福寺遺跡″は現存しないという。
 二 中古の火災については、その時を〝天正(一五七三~一五九二)のころ〟と表現している文書もある。これは、永禄六年(一五六三)の火災のことであろう。
天和二年(一六八二)の「丹後国寺社帳」に〝真言宗・仲禅寺村吉祥院″と記載してあるところからもわかるように、吉祥院は中央山仲禅寺焼失後の寺で、このことは『島津誌』や「蓮華寺記録」にも同様の記事がみられる。
 中央山仲禅寺吉祥院には、文明一三年(一四八一)造立の仁王両尊像があり、永禄六年の火難をまぬがれたと伝えられているが、中央山吉祥院となってから大破し、宝暦三年(一七五三)に再興した。再興にあたっては、寛延三年(一七五〇)に京都から二人の仏師、江州(滋賀県)から一人の細工師(「蓮華寺記録」では、京都から三人の仏師)が招かれている。その中の一人、細工師平八は再興年の七月七日、小浜の離湖で水死した。なお、宝暦三年の再興後二百有余年を経た昭和五三年(一九七八)に仁王両尊像に大修理がほどこされ、また、平八の供養塔も建立された。
 中央山吉祥院は昭和一七年(一九四二)までは独立した一寺院であったが、現在は無住で檀徒は蓮華寺に合流、吉祥院の建物は仲禅寺地区の関係者により維持、管理されている。
注 真言宗であった吉祥院が曹洞宗に改宗した理由、時期は不明である。
森氏藏仲禅寺開闢元来之事(『竹野郡誌』所載)
(一)、当寺の儀は和銅六年壬丑歳元明天皇の御代智澄大師の御開基にて則中央山仲禅寺と称号其節衆憎衆徒の分十一人同児五人座方十一人有之
注 森忠右衛門氏所蔵の記録は天明四甲辰年正月吉日庄屋森又左衛門の書きたるものなり
(宇川・上山寺年代目録)第五十五代文徳天皇御宇天安二年智澄大師開基也、永禄六年災焼
按、智詰大師は延暦寺の座主にして嵯峨天皇の弘仁六年に生れ、宇多天皇の寛平七年寿七十八にして逝す。故に生れたる年より起算して和銅六年に遅るヽこと百二年なり故に和銅の開基は当らず宇川・上山寺の年代目録に載する文徳天皇の天安二年を至当とすべし
(二)、永禄六年癸亥閏十二月晦日夜酉刻に後寺申出火有て、本堂寺中仁王門に至迄仏閣不残焼失仕候尤縁起等茂御座候得共出火の節焼仕舞申候由仁王尊後身体は御残りたまふと申伝候、其後段々及大破今以本堂屋敷塔屋舗並寺屋敷之分中之坊西之坊東之坊南之坊下寺屋敷蓮池風呂屋山内谷と申つたへ候て字許り御座候、外に仁王屋敷鎮守屋敷則貴布禰大明神四尺三寸四方の宮有之若宮一ケ所御座候
(三)、文明十三年辛巳三月中旬仁王両尊造立仕候、其後中興の開山宥弁上人開基にて元和十年甲子四月二十四日御命日当寺吉祥院中興の開山生国土州なり、即ち今の上人塚古木有て其節より是迄年数二百年に候
(四)、当村仁王尊大破に罷成候に付三十二年以前宝暦三年癸酉年御再興仕候、仏師京都室町高辻下ル町仏師棟梁水谷作之進同縁仏師甚兵衛並江州高島郡蛙江村平八下細工請合都合三人参候、石細工いたし逗留の内七月七日に琴引の浜へ都合七人一見に罷越琴引を遊ひ申候て帰り懸けに小浜村大林寺様へ立寄御茶申請給居候之処、右平八離他に子供水泳候を見申候て則平八儀も単衣肌帯まても脱置水泳に入其儘形不相見え、子供近所の人々呼ひ廻り同道の者驚入大林寺様共に駈走り出村中早々集り綱を入舟三般にて色々道具をいれ探候得共死骸不相見え、弥不意に溺死仕候、右仁王両尊再興代銀二貫三百匁人申候此代銀は当村祖心と申道心者有之千日の隔夜念仏修行いたし諸方の以助力代銀相続いたし相済申候
   宝暦三酉年
    願主 祖心
   同四年戊に成就いたし候

(五)、当寺吉祥院寺及大破候に付三十年已前宝暦四戌年に中の坊と申所建替へ建立仕候則中の坊畑寺屋敷に仕候に付当村又左衛門所持仕候畑寄進奉仕候、又左衛門所持の畑きせ地の分は当村孫右衛門所持の場所に御座候て是も同断に寄進有之候、当寺其節無住に付橋木村縁城寺十輪院随法師世話になり当村中戌閏十一月十一日に惣村中こふし堅め仕、尤材木等並屋舗引用意有之候も一両年列年より催し仕罷有候、大工棟梁は当村作左衛門同棟棟橋木村助八棟梁の外に大工橋木村喜八同村惣四郎嶋溝川村杢右衛門同村又左衛門同村文左衛門木挽当村垂兵衛黒部村善六大工木挽都合九人にて建替建立仕候、此普請科入用米銀合て二貫五百目ほと前後に人申候、其時の村役人年寄又左衛門代立会村長百姓孫右衛門治兵衛利右衛門忠兵衛藤右衛門嘉兵衛増右衛門走使六右衛門其外村中不残世話仕如斯御座候
 宝暦四戌穐月吉日  当寺
            吉祥院無住
           年寄
            又左衛門代
             其節親名忠左衛門と申候  〉 

仲禅寺断層
郷村断層の東側に2、3キロ隔てて平行に走る断層で、大きな意味では郷村断層帯に含まれた枝断層。島津から南へ矢田の辺りまで細長い谷が南北に走るのだが、何とも不思議な谷である。(上の地図参照)
東西の山地から張り出してきた幾つもの支脈を横断しながら府道663号が走る、本来は左右の支脈は繋がったものではなかろうか。府道はこれは仲禅寺断層線の上を走るものらしい。大橋川や矢田川は支脈の山というか丘だが、10メートルばかりあるが、それが府道と同じように支脈を真横に横断しながら流れている。(それとも川より後に隆起したものか)
何本かの断層線が地図からも見てとれる。この断層は郷村断層より古い時代に活動した断層のようで、前回の丹後大地震の際にはあまり活動しなかったが、過去には何度も何度も丹後大地震があったとようだとわかる。縁城寺や仲禅寺の真言宗の大寺院はこうした位置にある。

また温泉伝説
『丹後国竹野郡誌』仲禅寺断層
 〈 仲禅寺温泉  仲禅寺の奥寺屋敷の向側谷地を風呂屋といふこれ温泉場の遺趾なり
(復讐奇談天橋立 東部十辺舎一九編 残缺)
丹後国峰山より、行程一里を阻て仲禅寺といへるあり。むかし弘法大師諸人の難病を助せんが爲にこの山中に涌出する冷水をもって湯となさしめ、普く難治の症をしてこゝに浸さば、すみやかに其功験あるべしと宣言したまひそれよりして万治寛文の比までは湯宿あまた軒をならべて、近編他邦の旅客競ひ集り各名湯の奇瑞を蒙り繁昌日々に超過せしが今は絶てそのあとのみ残れりと言伝ふ。こゝに同国岩谷の城主笠松何某どのに仕へて百五十石を賜る粉骨細身の功を積たる忠信無双の勇士あり。名を日下部藤彌太とて今年六十有余に及ぶまで物頭目附役を兼帯し少しも私なく勤けるが兼て持病の疾のりてしのびがたく、かの温泉ありし時節にやめりけんしばらくの暇を願ひこゝに来り入湯しけるついてに、召具したる娘両人あり一人は藤彌太が実子にして名をおみなといへり。  〉 

さらに、小字をみると、入卜(にゅうどろ) 入卜口(にゅうどろぐち) 入堂(にゅうどう) といった丹生らしい地名が見られる。


《交通》


《産業》



仲禅寺の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎仲禅寺村(島溝川村の次、是より橋木へ道あり又木橋に出る)
【貴布祢大明神】
【中央山吉祥院】(真言宗)
寺記曰。当寺元は中央山仲禅寺と號す頗る大寺なり、天正の頃回禄の為に悉く伽藍滅す唯吉祥の一院のみ残れり、其後密宗の僧宥弁なる者来りて住してより天台宗を改め今真言宗となる。
 【付録】(観音堂、真宝院遺跡、十王堂、万福寺遺跡)  〉 

『京丹後市の災害』
 〈 仲禅寺断層
 仲禅寺断層は 京丹後市網野町島津から、仲禅寺、橋木、矢田の西方、丹波を経て、北近顔タンゴ鉄道(KTR)宮津線峰山駅付近に延び、走向がN15°W、長さが約6・5kmの左横ずれ活断層である。北方延長は網野町島津以北で沖積低地や砂丘に覆われ、南方延長は峰山駅以南で竹野川沖積低地となり、変位地形は追跡が出来なくなる。北方延長に当たる網野町掛津西方で、地質断層の露頭があり、この付近まで延びると指摘されている(活断層研究会編、1991)また、約10km沖合の日本海海底に北北西-南南東方向に雁行する2・3の活断層が指摘され、上下変位の向きも西側上がりである(海上保安庁水路部1994)。したがって、さらこ長い活断層である可能性もある。この場合、延長距離は約30kmに達することから、さらに精しい調査が必要である。
 この断層は仲禅寺から矢田の西方区間で花崗岩からなる丘陵性山地の尾根とそれらの間の河谷を系統的に最大約200m程度、左横ずれ屈曲させる。しかし、さらに大きな屈曲量は変位地形からでは認定し難い。
 矢田西方の断層鞍部あたる低地において、ボリングとトレンチ調査が実施され、仲禅寺断層の活動履歴や断層の角度なとが明らかにされた(地質調査所1986:杉山佃1993図16、17)。このトレノチ壁面では最下部に花崗石、これを覆ってスラノプ層とみられる崩壊堆積物(最終氷期末期:Y1層-Y4層)が、さらに不整合に覆う谷埋め堆積物(約1・2万年以降の完新世堆積物)があり、4本(Fl-F4)の断層も観察された。これらの地層と断層との関係は次のようにまとめられている。1)断層の走向はN20°Wであり、一般走向とよく一致する。断層面は全体として西方へ傾斜し、4本の断層は下部では1つの断層破砕帯に収斂するようである。 2)いずれの断層も最終氷期後期の堆積物(Yl層一Y4層)を切断しているが、完新世の堆積物には変形を与えていない。 3)トレンチ壁面の観察と年代測定の結果から、過去3回の活動(①約1・8万年前~1・2万年前、②約2・1万年前~1・8万年前 ③約2・4万年前~2・1万年前)が推定される 4)こうした推定と考察から、仲禅寺断層は最終氷期の末期まで活発に動いたが、完新世には活動を留めている。また、明瞭な左横ずれ地形は最終氷期末期までに完成し、完新世堆積物により埋増されたと推定している(地質調査所1986:杉山・佃1993)
 しかし、地震調査研究推進本部地震調査委員会(2004)は上記の成果を以下のように再評価した。F4断層は少なくともY2層以下を変位させ、Y1層は断層活動に伴って堆積した崩壊堆積物であり、最新活動はY1層の堆積前とされたが、F4断層とY1層との関係が不明であり、最新活動の上限は特定できないとしている。したがって、過去の活動時期は 最新活動時期①が約2・1万年前以後、この1つ前の活動時期②が約2・4万年前以後で約2・1万年前以前、2つ前の活動時間③が約2・7万年前以後で約2・4万年前以前としている。
 仲禅寺断層は郷村断層と並走する左ずれ活断層であり、明瞭な横ずれ変位地形を伴っている。この活動度は千年に付き0・1-0・01mの変位速度(C級)と推定されている(植村1985)が、活動の間隔は相対的には長いといえる。仲禅寺断層が認められる明晰な区間の長さは約8kmであり、活動度と考え併せて、矢田地点の活動時期に関するデー夕は郷村断層帯の評価にとって参考値としている(地震調査研究推進本部地震調査委員会2004)。  〉 



仲禅寺の小字一覧


仲禅寺(ちゅうぜんじ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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