丹後の地名

安(やす)
京丹後市峰山町安


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京都府京丹後市峰山町安

京都府中郡峰山町安

京都府中郡吉原村安

安の概要




《安の概要》

峰山の市街地より少し上手の吉原小学校があるあたり一帯である。小西川流域で、同川に沿って上流の小西・西山への道が走る。
地名の由来は、当地が往古小西川の氾濫によってできた砂州から成っていたことによると従来からいわれるが、怪しい話で、吉原のヨシのことでそれがヤスとなったものと私は考えている。舞鶴でも上安に吉囲という所があり、同じ転訛の地名と考えられる。
戦国期の『御檀家帳』に、「一 よしわりの里屋す」と見える。ヨシワラを書き違えたものなのかそれともヨシワリといっていたものかは不明だが、ラかリかはわからないが、よく母音も変化したようである。この御檀家帳を引く書物がヨシワラであったりヨシワリであったりする、どれが本当なのか私もわからない、
よしわりの里やす 『中郡誌槁』 『峰山郷土志』
よしわらの里屋す 『丹後史料叢書』 『宮津市史』 
原典にはいったいどう書かれていたのであろうか。
吉原とも安原ともいい、ヤスともヨシとも呼んでいたのがいつのまにか、今のように固定してきたのであろう。本来はサとかソとかいったものであったろう、こうした言葉が最源流の一滴で、そこから流れ下って流れは下流へ下るほどバラエティー豊かな変化をとげて、何やら日本語に近いものに変化していき最初の一滴などが思い浮かばないような大きな流れになっていく、古い地名はこうした例も多いため、現代人の発想による安易な地名理解はヤバイ、地名の根源までさかのぼろうとする努力が求められる、そうした考察を省くと、大事な歴史を、日本を自ら抹殺してしまうことになりかねない。
『峰山郷土志』は、「吉佐の吉原と呼ばれた」と、どこかで書いていたが、これは文献資料なのか、口承伝承なのかわからないのだが、吉佐というのは与謝郡ということではなく、このあたりもまた吉佐とも呼ばれていたもので、吉原とはまた吉佐原でもあったわけであり、ひるがえって与謝郡や加佐郡の本当の意味もこうしたことからわかってくることになる。ご理解のようにいずれもが意外にもソフル郡ということである。丹後のアスカなる地、皇国史観に大きくゆがめられているにも気づかず、本当の歴史がしっかり理解されていないこともまた、どこかの市長どののような発言を生むことにもつながっていくことにもなる。歴史に学び歴史にまともに向き合ったこなかった悲しき日本人の悲劇の見本のようなことである。
当地の稲代吉原神社に蔵される天正4年(1576)の棟札に「安村」とみえる。
安村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年吉原村の大字となった。
安は、明治22年~現在の大字名。はじめ吉原村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。大正7年に一部は峰山町に編入されて、昭和30年千歳と改称した。


《安の人口・世帯数》 504・219



《主な社寺など》

はずれがえ(細谷)古墳・岩谷古墳群(円墳三基)・桃山古墳、吉原小学校長東側の崖に須恵器窯跡。桃山古墳からは直刀・鏡が出土したと伝える。はずれがえ古墳から出た台付子持壷と有蓋杯の須恵器は完存する。
桃山古墳群
『峰山郷土志』
 〈 【桃山古墳群】安、吉原小学校裏、東から南に並ぶ丘がそれで、中でも、西南端(旧吉原村役場付近)の桃山と東端の谷間にある丘陵(畠)が、もっとも代表的な、いずれも未発掘の前方後円の古墳である。桃山の西端に錦木が一本あって、今は田の中にとりのこされている。古墳は、この木のところまで続いていたもので、木の下から、古鏡と太刀などが出土したといい伝えられ、この木を取り去るとたたりがあると恐れられている、また、枝の紳びる方の村が栄えるともいわれている。  〉 

式内社・稲代神社
稲代神社(峰山町安)

「室尾山観音寺神名帳」「丹波郡二十九前」に、「従三位 稲代(イナシロ)明神」とある。
元鎮座地は現在地から約三町ほど西南の稲代山で、その地を元宮と呼ぶ。かつては吉原庄一円、奥吉原(小西・西山)・吉原(安・峯山・杉谷)の総社であったという。
現在は保食神、素盞嗚神、倉稲魂神の三神を同じ社殿に祀るが、もとは稲代・祇園・狐婦(妙婦)三社の各々の祭神であった。祇園社は天正年中に竹野郡木津庄の売布神社から牛頭天王の分霊を勧請したものと伝える。現在の社より西の方に元祇園という所がある。妙婦社の合祀についても明確でない。明治6年、金刀比羅神社を郷社に昇格するため、峯山の氏子600余戸を金刀比羅神社に引き渡した。稲代神社神額
稲代とは朝代神社や須代神社と同じようにたぶん稲ヤシロのヤが脱落したものと思われる、だから稲神社という意味と思われる。イネと言っても、漢字の意味通りに稲を祀ったものか、伊根町とか、稲とは関係がないような意味を持っているのか、今知られている史料からだけではただちには決めがたい。この奥に久次嶽があるが、ここに天降った神を、九坐一神として、みな豊受大神を祀るとするのは、後の「政治判断」によるものと思われる。
「室尾山観音寺神名帳」「丹波郡二十九前」に、従三位 葦原明神が見える、アシハラと訓があるがヨシハラと読むのかも知れない。アシとヨシは同じ、ヤスとヨサも同じと思われる。足占山というのも同じ事である。

『丹後旧事記』
 〈 稲代神社。吉原の里。祭神=稲荷大明神 豊宇気持命。
此神名伝に曰く稲を植るを以て名とす稲倉持命と云も同神なり吉原の里は峯山杉谷安村小西村の四ケ所にて今も此神を氏神とす。
 合神 祇園牛頭天王  天正年中長岡玄蕃頭興元の家士清源寺大炊の勧請なり。
    日本紀神代の巻宇気持の神之伝。
 天照す皇太神は高天原にいまして宣く吾てらす豊蘆原の瑞穂国に宇気持神座すを汝月読尊は見よと宣く月読尊は宣明をうけ則行て見るに宇気持神宿り玉ひしかばよろこびて月読尊を祭りの為に山にむかふに毛の和物毛の麁物口より出す又大野が原に向ひしかば甘菜辛菜により出す大海原に向ひしかば鰭の麁物はたの狭物により出す是百疋の机上に奉り月読尊は見玉ひて穢ら敷かなきたなき哉汝が口より出る物を吾にあたふ可く食ふやと宣ひて剣を抜ひてうち廻りて高天原にかへりこと申す天照大神は聞し召して汝は思ひ悪敷神なりけふより逢見じと宣ひて天照大神と月読尊は右の辞けふに至るまでひと日一夜を隔てば昼夜をめぐり玉ふ。此後また天照大神くま人を遣して見せ玉ふ時に宇気持死里し形に五色の物種かひこを生じ出したり熊人取持て則高天原にのぼり天照大神にささぐあまてらす大神は宣明してよき哉と宣ひて人民之を食ふて生べき物なりと宣ひて稲穂を以て田なつ物とし粟稗黍大豆を以て畑つ物として則ち天のむら君を定め長田の及び天の狭田を初め田なつ畑つ五色也。下略。 この天降の地を咋石ケ嶽と云当国第一の名山なり。  〉 

「丹後国式内神社取調書」
 〈 稲代神社
○大和国稲代坐神社
【峯】中郡安村【覈】吉原村【明細】竹野郡安村九月十日【道】苗代村ト云又安村ノ方ナリトモ云【式考】安村今ハ稲荷大明神ト云祭神豊受大神ナリ丹後舊事記ニ吉原里トハ峯山.杉谷.安.小西ヲ云則チ此神ヲ氏神トストアリ古老ノ傳ニ此地ハ神代ニ始メテ苗ヲ作リシ地ナリトテ今ニ三ケ月田トモ云テ三畝歩許ノ地田圃ノ中ニ在テ垣ヲメグラシ置ケリト吉岡氏云ヘリサレド祭神豊宇気大神トハ如何ナラン【豊】安村字森替山保食神六月十四日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

『中郡誌稿』
 〈 【稲代神社】
(峰山古事記)祇園社は元木津之庄に有りしを勧請すと言伝ふ今の社より西山之方に元祇園と云処有始に此処へ移し後に稲代社へ合祭せるに今は祇園社と唱る也
(峰山明細記)一祇園社  三尺社  禰宜 安田出雲
       稲荷社  三尺社  同  安田伊賀
右二社之上屋三間ニ三間半、舞殿二間ニ四間半 宮平地二十間ニ十五間程 境内山林間数難相知候 祇園御祭礼六月十四日より十五日迄 稲荷御祭礼九月十日 右平日其御初穂出雲伊賀方へ納申候 右境内に有之小社三ケ所 狐婦社一屋一間四方祭礼二月十一日卯日修覆掃除等出雲伊賀方より仕候 恵比須社修覆同断 天日社修覆等当村与左衛門方より仕候 神楽相頼候節ハ内膳相勤尤神楽料内膳方へ相納候 右三社共御初穂類平日共出雲伊賀へ納候…略…
(古神社調査届)京都府丹後国中郡吉原村大字安小字森替
一、社格 村社 稲代神社
     相殿 吉原神社
一、祭神 主神 保食命
     相殿 進雄命
事由(前略)後世元和五年領主京極家赴任以来本神社を敬礼尊崇ありて享保十五年京極備後守の時本神社修繕等の棟札等社殿内に蔵む抑本神社は維新更政の際迄は氏子は安村を始め峰山杉谷村小西村西山村等に亘りしを安村の外皆都合を申立氏子替をなせり(付箋小西西山の文字を省く按ずるに小西西山なほ信徒にして其総代も此届に連署の付箋あり)是より前文化四年三月十三日当時の氏子協議の上今日の社地の奥地に稲代谷と云地名ありこれに御鎮座ありしを参詣の不便を唱へて現今の社地字森替に遷座の竣功を奏せしとぞ(付箋に曰本社は元小西西山字稲代に鎮座せり然るに文化四年三月十三日都合に依り総方協議之上本社は現今字森替なる小西西山両村落地内に鎮座せり(下略)、因に云相殿吉原神社はの事由を尋ぬれば旧祇園牛頭天皇と唱へたりしを御一新の際御布告により本社号に改む然而本相殿の事由を述ぶれば天正七年当庄吉原郷士清源寺大炊助なる者ありて武運の長久を祈りて同国竹野郡木津庄下和田村鎮座の神は武道の大神なるを知り終に御分霊を奉迎せし所なりと云(余は略之)
(実地聞書)峯山の京極侯は赤坂の篠箸の氏子にして家老以下は安の氏子なり其故はもと陣屋の溝を以て氏子の境界となしたればなりと(按、是又峯山は隣接諸村の地を割き新に出来たる町なるを以てならん峯山誌参照すべし)現今社地の北に渓谷あり之を稲代谷と称し其奥山字大べらを稲代の御霊代の山とし其谷口街道に沿ひて字馬場ケ岡といふあり神祭の地なりと又同所に小山あり稲代山といひ同所を元宮とも唱ふ以前の社地なり又同所より西に当りて字やつかといふ所あり神子屋敷神主屋敷といひ神主安田家の旧跡なりと云又以前京極家家老毎年参拝の格を有したるは領内にて当社と咋岡とみなりとぞ…略…  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【稲代神社、吉原神社(式内社、吉原、安、祭神 保食神、素盞嗚神、倉稲魂神)】例祭七月十四日、十月十日。この三神は、稲代、祇園、狐婦(妙婦)三社の祭神で、現在は同じ社殿の中にまつられている。稲代神社は、延長五年(九二七)の『延喜式官帳』にのせられた丹波郡九座の一つで、大和国稲代坐神社というのがこれで、吉原ノ庄一郷、すなわち、奥吉原(小西、西山)、吉原(安、峯山、杉谷)の総社で、この神を産土神とし、この神の氏子として結ばれてきた。当時、峯山の市街もなければ、峯山という名もなかったことはいうまでもない。前にも述べたように、丹波郡の式内社は、九座一神といって、比治山伝説の天女、豊宇賀能売命をまつっており、竹野郡に属していたという橋木の撥枳の神社、口大野の大野神社(宇気持神)、三重の三重神社も同神で、この祭神は別の名を稲知大明神、稲倉持命、保食神、稲仕老、稲荷大明神、豊宇気持命、大気津比女命など書かれているが、『峯山旧記』、『神社取調』、『丹哥府志』、『丹後旧事記』などは、一様に稲をつかさどるところから生まれた名称で、豊受皇太神と同体であると説明している。
また、垂仁天皇の頃、四道将軍の一人、山陰道の将軍である丹波道主命の孫の稲別命は、吉佐の吉原にいたとあるから、この命をおまつりしたのではないかと『丹哥府志』や『峯山旧記』はいっている。しかし、丹波道主命が一郡ことごとく豊宇賀能売命をまつるようと命じたともいうから、稲別命と同神ではなく、それ以前からまつられていたのではないだろうか。二千年前のこうした出来事は、はるかに遠い神話の世界のことであろう。吉原の庄一郷のものが、五穀の神をまつって、稲のみのりを願った気持に変わりないし、丹波郡はおろか、農業を主とする地方は、皆同じ願いであったにちがいない。稲代神社の元の社地は、今の場所から約三町西南にあたる稲代山で、その土地を元宮と呼び、その谷を稲代谷、小川を稲代川といっている。稲代山は、明治の中頃、その先端をくずして、稲代小学校の敷地としたが、近くに馬場ヶ岡、のぼり杭などの地名が残っている。
祇園牛頭天王の勧請 祇園社は、天正年中に竹野郡木津ノ庄の上野村、下和田の売布神社から、牛頭天王の分霊を勧請したもので、木津ノ庄では、悪い病が流行することを防ぐため、正安二年(一三〇〇)、京都の祇園牛頭天王を分宮した素盞嗚命である。売布神社の由緒書に天正四年(一五七六)七月、丹波郡吉原ノ庄の稲代神社に、分霊を請われてお遷ししたことがみえている。
また、天正年中(一説、天正七年)、長岡玄藷興元の家臣、正源寺大炊介が、下和田から勧請したという説も多いが、細川興元が吉原山城に入ったのは、丹後の一色党が滅亡した天正十年十月二十四日というから、それ以前に正源寺が祇園を勧請するはずはなかろう。現在保管されている棟札の中に天正四年七月二十八日、安村稲代稲荷大明神再興、安村祇園牛頭天王再興の二枚があり、世話方代表は、安村庄屋田中与右衛門、世話人は安村・小西・西山村・杉谷村、町中…大工本嶺山毛呂六左衛門…遷宮の祢宜は喜輔、巫女は吉田惣之一-書かれていて、吉原ノ庄の村々の氏子が勧請したことがわかる。しかし、この棟札の様式や、字句から考えて、天正初年のものとは思えないが、参考にするに足ると、『峰山町誌稿』はいっている。天正四年にはまだ「嶺山」などの町名はなかったはずである。
この点について『峯山旧記』は、稲代神社の項で、祇園牛頭天王は、天正四年七月、木津ノ庄下和国村から分霊を勧請し、別当慶善寺(今の渓禅寺)が御法楽(仏式による祭り)を勤め、その後十年を経て、嶺山城主細川玄蕃頭興元の家臣正源寺大炊介が、心願により祇園精舎(社殿)を建ててまつった…と述べている。天正十四年であれば、時代としては不思議がない。しかし、同じ『峯山旧記』の渓禅寺の項になると、天正十四年六月、正源寺大炊介が、木津ノ庄から勧請するとき、別当として慶善寺を建立し、薬師如来を安置し、当時は真言宗であった…といっている。こうなると、天正四年の棟札以外に、また、迷わざるをえない。やはり、天正四年に民間で勧請し、興元が領主となって四年後の、天正十四年に正源寺大炊介が社殿を建てて、安村の真言宗慶善寺に、別当を命じて支配を依頼したということではないであろうか。
勧請した祇園牛頭天王は、稲代山の稲代神社の境内にまつられたに相違ない。
祇園稲荷の起源 京極氏が細川氏に代わって峯山藩主となってからも、代々、祇園を尊敬され、元禄十一年(一六九八)五月、三代高明は病気全快の祈願を行ない、翌十二年、稲代神社御再建の際、祇園天王の社もこの所に集めて、一棟の上屋のうちに二社をならべてまつった(相殿)。これによって、現在の社より西の方に元祇園という所がある。享保十五年(一七三〇)五月、五代高長によって、上屋が修理され、その棟札は今も神社内に保存されている。祭りは六月十四日で、神輿は峰山町の馬場に渡御され、そこに十五日までとどまり、十五日に馬場を出て出町、新町、下、中、上町を練り、田町からかえられた。
「明治三年、御門内御旅通行御免、表門より入り、御舘前神興徐行、北町より裏門を出で、赤坂口より札町へ戻る」(注、赤坂口は赤坂峠の旧道)。
此の祭り、又、殿様の御代参がある…(『峯山旧記』)
『峯山旧記』によると、元禄十二年に稲代神社が再建され、祇園社も同じ上屋の中に並べてまつったもので、元祇園がその旧地であるというから、稲代、祇園とも独立していた両社を、現在の字森替に移転し、一棟の上屋の中に相殿としておさまったとみてよい。しかし、この元禄十二年の件については、他に資料もないし、また棟札もない。
次に、享保十五年五月三日の棟札は「吉原庄安村祇園稲代両社上屋修覆」とあり、領主は京極備後守源高長、家老辻八兵衛、渡辺太郎左衛門、木村伝左衛門、高木彦左衛門、普請奉行は岡沢壱兵衛、樋口唯右衛門、渡利庄次兵衛。下役湯本次兵衛、祢宜安田与次兵衛、巫女照日、大工棟梁は池内与兵衛と中村治左衛門、小工は藤次郎…等が記載されており、藩の直営であったことがわかるし、稲代は稲荷と名を変え、すでに祇園の方が主体となって、祇園稲荷であり、神輿の渡御も六月十四日で、全く祇園祭りの行事なのであった。
峰山高等学校編『古代丹後文化圏』にもあるように、元禄頃は峯山市街地が小西川筋まで拡がり、安村も森替付近の山腹から、次第に東下へと伸びていったので、従来の元宮(元祇園ともいう)の位置では、西にかたよって不便であるといった理由から、現在の場所へ引きよせられたものであろう。峯山市街地の民は、稲代の氏子を忘れて、祇園の氏子と称していた。
また、『杉谷村誌』は「当村氏神は、安村の稲代神社。祭神豊宇気持神、祭日九月十日。合神祇園牛頭天王、同六月十五日。産土神妙婦神社、同二月、十一月初卯の日……」として祇園、妙婦(または狐婦とも)を、豊宇気持神に合わせて稲代神社といい、その氏子であるといっている。しかし、その祭典については、
いつの頃からか安村は祇園神社の祭日を祭典日とし、六月七日に峰山の馬場の御旅所に神輿をかつぎ出し、十四日まですえおき、十四日夕方安村へかえり、翌十五日御旅があり、よって六月十五日を祭典日とし、親類縁者を招いてもてなし、当村は御供えをして休業し、同神社へ参詣するならわしである。また、稲代神社は九月十日……妙婦神社は当村と安、小西、西山、当日休業、御供えをして参詣……。  〉 

和泉谷
和泉式部が一時隠棲した地との伝説がある。

『峰山古事記』
 〈 和泉谷
旧事記曰和泉式部吹井抄云仕ノ女ハ古郷ニ隠レタル程神山ニ籠リテ男ウラム斯有テアレカシノ歌有今元吉原ニ和泉谷ト云伝フ所有隠居ノ跡ナルヘシ同書曰和泉式部板列ノ館ヲ出テ吉原ノ奥山紙ノ神ニ参詣思フ事神ニ告テ七日程祈願有ケル迚仕ヘノ女ニ語セケル
 悪シカレトヲモハヌ山ノ峯ニタニ
 多フナル物ヲ人ノ歎ニ
 此願ヒ終テ後ハ仕へノ女カ故郷ナル儘吉原ノ里ニ?レテ有ケルトカヤ  〉 

『峰山旧記』
 〈 一、和泉谷
 安村に有。吹井抄云、和泉式部仕の女古郷に隠れたる程神山に籠りて男うらむ斯有てあれかしの歌有、今和泉谷と云伝ふる所式部が隠棲の跡なるべし。旧事記云、和泉式部板列の館を出で吉原の里山祇の神に参詣思ふ事神に告げて七日程祈願有ける迚仕への女に語らせける
    悪しかれと思はね山の峰にだに 多ふなる物を人の歎きに
此願ひ総て後は仕への女が故郷なる儘吉原の里に隠れて有りけるとかや。峰山古事記  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【和泉谷】治安二年(一〇二二)、丹後守藤原保昌につれられて丹後に下った歌人和泉式部は、四、五年後、保昌が任を終えて都へ帰った後も、一人丹後の板列の館(与謝郡男山付近)にとどまっていた。『丹後旧事記』によると…和泉式部は、板列の館を出て、吉原の里の山祇の神に参詣し、思うことを神に告げて七日あまり祈願し、召し使えの女に物語って書きつけて与えたその歌は「悪しかれとおもはぬ山の峯にだに、多ふなる物を人の心ぱ」とあった。この祈願を終えた式部は、召仕えの女の故郷である吉原の里にかくれ住んでいたということである。
その後、兼房卿が次の国司として丹後へ下り、この噂を聞いて吉原の里を訪ねた。式部は、国司が尋ねて来られたと聞き、夢のような気持がした。都の人ときくさえ懐しいと、柴の袖戸をあけてみると、思いもよらぬ兼房卿であったので、庵の中へお通しして、いろいろ話し合っているうちに、どうして保昌に忘れられてしまわれたのかという兼房の問いに答えて詠んだ歌は「人知れず物思ふ頃は習ひにき、花に別れぬ春しなければ(一説、人知れず物思ふことは習ふにも、花に別れぬ松しなければ)」。
兼房は式部の心持を哀れと思って、花波の館(与謝郡府中)へ誘って、丹後守として滞在する間、和歌の友として語り合ったということである。山中村(宮津と栗田の間か)の閑居も、式部の老後を慰めるため兼房が建てて与えたものであるという-とある。
『峯山古事記』は、これに加えて、今、もと吉原に和泉谷という所があり、隠居の跡であろうといい、なお「悪しかれ」との和歌に頭注して、多ふは生ふ-生ずるの意味である。古今集には「人の歎きは生ふなるものを」とある……と説明している。
また『丹哥府志』は、和泉式部の庵跡の項に……和泉式部は越前守大江雅致の女で、和泉守道貞の妻となったので和泉式部といった。和歌が上手で、女子一人があり小式部という。道貞の亡くなった後、上東門院に仕えた。その後、また藤原保昌の妻となった。『詞花和歌集』に「後、保昌に忘られてはべる頃、兼房卿訪いければよめる」として、人しれず……の歌などあげている。そして、さらに『丹後旧記』(『丹後旧事記』か)にいうとして……保昌が任を終えて都に帰った後、式部は与謝郡山中村に草庵をつくって、ここに住んで老後を慰めた。保昌の次に兼房卿が丹後守となり、時々式部の草庵を訪れ、和歌の話などをしたということである。今、その庵の跡に浅黄桜があるが、一般に式部桜とよんでいる-と述べている。
『緑城寺年代記』によると、藤原保昌の次は、治安二年から七年目の長元二年に、丹後権掾守部光武入国、それから二十五年目の天喜二年に丹後介惟宗俊通入国、つづいて同年十月丹後守として藤原師成入国とあって、丹後守兼房の名がみえない。長元から天喜までの二十五年間を守部光武が丹後権掾として代行したにしては長期間すぎる。長くとも五、六年交替したと考えて、あるいはこの聞に兼房が任国していたのではなかろうか。
和泉式部の歌塚は、文殊の鶏塚、峰山桜山の歌塚、その他にもあり、正暦三年(九九二)丹後の地で世を去ったにちがいないと『丹哥府志』はいっているが、年代からみて、正暦三年は承暦三年(一〇七九)の誤りであろうか。
和泉谷の東側に森があった。五輪の石の卒塔婆があって、和泉式部の墓であるとおしえられ、その森の木を切ると目がつぶれると注意されて、こわごわみにいったことを子供心に記憶している。森を切り払ったのは戦時中か、終戦直後であろうが、今は五輪の跡かたもない。もしあったとしても、この付近一帯が一色当時から吉原山城の一廓としての古戦場であるから、式部のものであったかどうか判じがたい。  〉 

和泉式部


黄金千両伝説の「長者が流し」
『峰山郷土志』
 〈 【長者が流し】安、『峯山古事記』に「長者が流し、古説に見えず、言い伝えもなし」、『丹哥府志』「長者が流し」、これらの郷土誌にその名称だけを残している「長者が流し」は、小字地尾堂(安谷口)の山鼻にあって、藪の中に古井戸など住居の跡がある。昔、千軒長者が住まっていたもので、その流し水を落とした溝側に植えていた石菖蒲が、最近まで自生していたという。付近に荒神の祠があり、谷を隔てた東は「青木の下に黄金千両」の伝説があり、一農夫から奮起して、柔術と日置流弓術の奥儀をきわめ、峯山藩の指南役にとり立てられ安谷某の旧屋敷跡は、この安谷であったという。  〉 

寺の城とよばれる地に城跡が残り、吉原城の出城であったと伝える、後藤新治郎の居城であったという。

吉原山城の出城 覚谷城跡

臨済宗天竜寺派全性寺末鳳凰山渓禅寺
渓禅寺(峰山町安)

『峰山郷土志』
 〈 【鳳凰山渓禅寺(臨済宗、安、本尊 聖観世音)】『峯山旧記』によると、溪禅寺は安村の城山の下(寺の城という)にあって、正親町院の天正十四年(一五八六)六月、嶺山城主細川玄頭興元の家臣、正源寺大炊介が祇園牛頭天王を信仰し、竹野郡木津の庄(下和田の売布神社)から分霊を勧請したとき、別当として慶善寺を建立し、本尊に薬師如来をまつった。当時は真言宗であったが、寛永八年(一六三一)二月、何という事情からか曹洞宗に改め、網野の竜献寺(現在は木津)末、三十八ヵ寺の中に加わり、承応年間竜献寺が廃され、しばらく新治村の十方院に属していたというが、東山院の元禄八年(一六九五)、領主三代京極高明のお頼みによって、臨済宗に転宗し、寺名を「溪禅寺」と改め、天竜寺派全性寺の末寺(十一ヶ寺の中)となり、聖観世音を本尊にまつった。今、現在の薬師堂におまつりする薬師如来は、元の当寺の本尊であるという。しかし、祇園牛頭天王の分霊勧請については(安村稲代神社の項参照)異説がある。…  〉 
天和2年(1682)の『丹後国寺社帳』にすでに臨済宗渓禅寺とみえているので、改宗・改名はそれ以前か。


《交通》


《産業》




安の主な歴史記録


『御檀家帳』
 〈 一 よしわらの里屋す
御一家也大なる城也  御そうしや
 吉  原  殿    藤田彦三郎殿
 後藤新治郎殿     後藤総左衛門尉殿
              (朱書)
              「ふく」
こにしのしやうしゅん坊さいさい□□山ぶし  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎安村(峯山の西)
【稲代神社】(延喜式)
稲代神社は稲知大明神なり、稲知大明神一に稲仕老又稲倉持命と称す、俗に稲荷大明神といふ、皆是豊宇気持神の別名なり。垂仁天皇の頃道主命の孫稲別命吉佐の吉原にあり蓋此神を祭るならん、天正年中長岡玄蕃頭興元の臣正源寺大炊亮祇園牛頭天王を合せ祭る、今此社を祇園と称す峯山の氏神なり。(祭六月十四日)
【鳳凰山渓禅寺】  〉 

『中郡誌稿』
 〈 【安】

(実地聞書)寺の上に城趾あり字寺の城と呼びそれより西北山中に字古城といふもあり又寺の城より少く東に字成家ナレイト称するあり皆権現山の内なり蓋し権現山の城の諸砦の跡歟里人は成家は近藤家の城趾古城は興元の臣正源寺大炊亮の居城なりと伝ふ
 按、安にて古城と呼ぶ地峯山の権現山本城と同一地なる無論なり権現山もと当村の地なり又成家は近藤家の驍将大谷刑部右衛門成家討死の所なりと峯山記に見ゆ峯山古城の条参考すべし  〉 

『峰山郷土志』
 〈 吉原村(安、小西、西山、新治、菅、上菅)
【沿革】旧吉原村の全域が新治郷に属していたのか、あるいはそのうちの安、小西、西山は丹波郷であったかの見解はすでに述べたが、吉佐の吉原というのは、安、小西、西山の地域で、それに杉谷を合わせた一帯を、後、吉原の庄と呼んだ。また、『丹哥府志』では、これに旧丹波村の全域を合せて吉原の庄としている。この吉原の庄の安村、杉谷および赤坂村田地の一部を割き合って、峯山市街地や家中屋敷が生まれたものである。

【安】この「よしわりの里やす」が、吉原の里安で、安の語源について『峰高郷土研究誌』には「屋洲(野洲)で、小西川の流域の洲にできた村であろう」といっている。谷一ぱいに大きく南北に曲りくねりながら東流していた当時の小西川の氾濫は、流域一帯にたびたび猛威をふるっていたもので、あるいは、そうしてできた砂洲からヤスの名で呼ばれるようになったのであろう。天正四年(一五七六)の祇園牛頭、天王勧請の棟札に安村、小西村、西山、町中、杉谷村として、安の文字が使ってある。安は、嘉名(おめでたい名前)ではあるが、なぜ二字の慣例に従わなかったのであろうか。この棟札にいう天正四年(細川入国六、七年前)に「町中」の名称があることは疑問で、棟札の真偽が論じられるもとでもある。
寺の城(渓禅寺裏山)は、吉原山の安村出城で、天文の『御檀家帳』によると、当時、一色の部将(または地侍か)の後藤新治郎、同総左衛門の居城であり、これを中心に、森替、和泉谷、成家など丘陵ごとに砦が配置されていた。  〉 


安の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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