丹後の地名

吉原(よしわら)
京丹後市峰山町吉原


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京都府京丹後市峰山町吉原

京都府中郡峰山町吉原


吉原の概要


《吉原の概要》



町の中央部で西は峰山城(吉原山城)址の権現山、東は杉谷の丘陵に接する。府道17号線(網野街道)沿い、桜尾峠の頂上付近にある。
今は小さな場所を呼ぶ地名だが、すぐ近くには峰山小学校があって、当地名を冠した吉原小学校が南方1.5キロも離れた所にあるように、元々はもっと広い地を指した地名であった。

中世の吉原荘は、鎌倉期から見える荘園名で、文永5年の亀山天皇宣旨案に、故覚仁法親王門跡領の1つとして「丹後国吉原庄」とあるのが初見。「丹後国田数帳」には「一 吉原庄 七十八町八段七十七歩内…」と見え、「丹後御檀家帳」には「一 よしわらの里屋す(安) …」とある。
その荘域は小西川流域一帯、今の峰山の市街地のある谷を一番の奥から杉谷あたりまで占めていたものと推測されている。権現山の峰山がもともとは吉原山と呼ばれていたのではなかろうか。
その吉原山(権現山)には、南北朝期に一色詮範が吉原山城を築城、姓を吉原としたの伝承がある。
天正年間、明智光秀・細川藤孝の軍によって落城して以後、長岡興元が城代を勤めたが、細川氏の豊前転封に伴い廃城となった。

近世の吉原庄は、江戸期の広域地名。「慶長郷村帳」では安・西山・小西3か村を「吉原庄之内」と一括、高1、495石余(杉谷村分も含まれていると推定される)。「文化郷村帳」では峰山町村・杉谷村を加えた5か村を吉原庄とし、さらに「丹哥府志」は菅・丹波・矢田・橋木・赤坂・石丸の6か村を加えた11か村を吉原庄としている。
元和8年、峰山藩が立藩、吉原山古城の東麓に陣屋と侍屋敷がつくられ、その南方へ城下町がつくられ峰山町が開かれた。その峰山町の発展につれて、従来の吉原庄の広域地名としての性格は薄れ、「丹哥府志」では「吉原の庄、今の峰山なり」とあり、「天保郷帳」では安・小西・杉谷3か村がいずれも峰山町枝郷とされるようになっている。

吉原町は、明治初期~22年の町名。明治2年、峰山町内の町名改正が行われ、その2、3年後、家中町北谷町・表町が合併して成立した。同17年からは峰山15か町の1町となり、峰山を冠称。同22年峰山町の大字となる。
赤坂側から見たもの頂上付近の府道17号線で↓、左が桜尾公園、右が権現山になる。吉原はダンプの後側の右手側になる。
吉原

吉原村は、明治22年~昭和30年の自治体名。当ページで取り上げている吉原とは場所がちがっていて、安・西山・小西・菅・新治の5か村が合併して成立した村である。今の吉原小学校のある村であった。旧村名を継承した5大字を編成。昭和30年峰山町の一部となり村名解消。村制時の大字は峰山町の大字に継承された。
吉原は、明治22年~現在の大字名。平成16年から京丹後市の大字。

何ともややこしい歴史をもった古代地名のようであるが、舞鶴にも宮津にもここ峰山にもある、丹後の後の城下町、支配の心臓部にはどこにも欠かさずに必ずある吉原とは何を意味する地名であろうか。
舞鶴吉原の場合は「新裏町とも云」と記録されているように「ヨ」は発音上の接頭語で意味はなく、語根は「シハラ」。すなわちソフルの意味かと思われる。もともとは今の権現山の山名だろうか、クシフル嶽の意味であろう。

《吉原の人口・世帯数》 114・37



《主な社寺など》

権現山(吉原山・山祇山・大山祇山)
権現山の地図

 〈 権現山京都府歴史的自然環境保全地域
 権現山は、古くから山そのものが信仰対象であり、14世紀末頃には、吉原山城が築かれるとともに、蔵王権現が祭られてきました。
 指定地城は、この権現山の山頂及びその東方部で、常緑広葉樹林、落葉広葉樹林等のすぐれた天然林が見られるなど古くから自然が保持されており、市街地に接しているにもかかわらず、貴重な存在となっています。
 また、これらの自然環境が吉原山城跡等の歴史的遺産と一体となって歴史的風土を保持しています。
 このようなすぐれた歴史的自然環境を府民の財産として守り、育てていきましょう。
 特別地区では、土地の形質の変更、土石の採取等の行為は許可なくできません。
 野生動値物保護地はでは、貴重な植物の採取はできません。  〉 

権現山の現地案内板↑。京都府がつくっている。
歴史的自然環境地域 権現山

さらに古くは山祇が祀られていたといい、和泉式部も詣でたと伝わる。
権現山登り口
府道からの登り口↑
和泉式部が登ったのなら、わけもない簡単な山道のはず…
と考えるとダメ、よほどに脚力に自信がない限りは一番楽な林道、地図で言えば一番左の道、車の登れる広い道を行って下さい。右を選ぶほど嶮しくなります。整備はされていて、どの道でも頂上(本丸跡)まで行けます。昔は林道などはなかったはず、恋の歌うたう式部がこんな急坂を登ったのかと驚かざるを得ないもろい花崗岩の斜面をいくきついきけんな道です。権現山の案内

 〈 権現山
京都府歴史的自然環境保全地区
平成元年3月24日指定(京都府中郡峰山町)

 権現山は、古くは山祇山と呼ばれ、和泉式部が参詣し、歌を詠んだと伝えられています。14世紀末頃の一色氏の吉原山城築城にあたって、蔵王権現社のある頂上付近に本丸が置かれました。吉原山城は、慶長五年(1600年)の関ケ原の合戦の後、京極氏の領有となりましたが、城は再建されませんでした。また、本丸に祭られていた蔵王権現社は、明治二年に金峰神社と改称されましたが、今もこの山は権現山と呼ばれ、親しまれています。京都府  〉 


悪戦苦闘で頂上、吉原城本丸跡に金峰神社奥宮が鎮座している。山祇を祀るものは見当たらない。この祠の裏にまわると日本海が見える。
網野方面、その先に日本海
二ノ丸跡からみる日本海、もやっていた…
それよりそこの↑山肌の赤味が気になる、花崗岩の色ではない、これは水銀だぞ。蔵王権現は彼ら吉野の金峰神社を信奉する水銀集団によって祀られたかも知れないなどと思わされるのであった。久美浜の女布権現山とか伊根町にも権現山がある、誰も言わないが、山祇といっても蔵王のことであろうから、もともとこのあたりは面白そうとは考えていたがこれはどうもいよいよアヤシイぞ。

『おおみやの民話』
 〈 殿さんと蛇体  奥大野 山添 とめ子
 峰山の権現さんは、がさい力のある人で、それはそれこそ、大蛇体で、大けな池があったそうな。峰山の殿さん屋敷に、その殿さんは力ある殿さんで、権現さんに、
「今日は相談に行く」いうて、そいで、その池の所へ行って、
「権現、お目にかかろうかあ」いうと、その池が、ゴウーと渦が巻いて、その渦のまん中からザアッと大蛇体の頭が上った。
 殿さんが、
「権現、それでは見苦しいぞう」ちゅうと、蛇体がさあっと若侍になってザアッと上ってきて、対面しなったと。
 殿さんはがさい力のある殿さんだった。  〉 

『中郡誌稿』
 〈 (峰山町誌稿)古城趾、吉原町の西権現山(一に山祇山又吉原山とも云当貶所所在金峰社の内元蔵王権現を合祀す山の名因て起る)の内にあり東西十五間南北三十間石壁等更になしと雖ども盆の時市民集りて踊りを催す場所なりといふ字踊り場と称する辺土を鑿つ者稀に焼米等の出るを見る興廃年月明瞭の書類なし然れども古老の伝記に云々(全文と同じ故に略す)慶長六年移封(細川氏)城廃すと其頃城中より市街への通路は権現山の南当時善明の尾つたい今の古殿町へ出と云
(同上)権現山 元大山祇山又吉原山とも云高二十六丈周囲九十一町三十間吉原町の西方にあり嶺上よの四分と東北二分は吉原町に属し其最北僅に赤坂村に属す西一分山端に至り北は赤坂村に属し南は安村に属す南一分吉原町に属し其西南端僅に安村に属する所あり山脈西切畑嶽に連る樹木鬱葱登路二条一は吉原町中央の西字大蔵谷より登る是を本道とす高四町二十五間険にして近し一は古殿町の北全性寺墓地の傍より登る元吉原城本道の由高九町余易にして遠し渓水四条一を大蔵川と云山の東谷より流出し吉原町を歴て赤坂の田に潅ぐ広処幅一間深凡三寸一を猪の谷川と云北字猪の谷より発し赤坂村の田に入る幅凡三尺深六七寸水勢強し一を桜川と云西の方字金松谷より発し安村耕地に潅て小西川に入る広さ深さとも猪の谷川と同じ一は山南字蛇谷より発し安村の田に潅ぐ四条の内川幅最狭水勢弱し  〉 

吉原城
吉原山城跡(権現山頂上付近)

吉原山城跡

『丹後路の史跡めぐり』
 〈 吉原城は嘉暦二年(一三八八) 山名満幸に建部山本城より追われた一色詮範、満範父子の築城したもので、満範が山名を亡ぼして建部山へ帰った後も奥丹のおさえとしてこの城に支城をおき、代々血族を配して吉原左京太夫と名のった。
 天正十年、義俊が殺された後は吉原城にいた叔父の義清は弓木城へ入城し、第十一代目の国主となった。同年九月工日田辺を発した二八○隻一万五千の細川玄蕃興元の軍勢は経ヶ岬を廻って竹野郡浅茂川、三津浜、熊野郡湊宮とと三手にわかれて上陸し、奥丹三郡の一色輩下の山城へ殺到して次々に陥し、九月二○日三軍合同して吉原城を攻めたてた。城兵は一色氏の最後を飾るべく力戦したが多勢に無勢城代近藤玄蕃頭善明ら二七○人が枕を並べて討死し、九月二三日ついに落城した。その後は興元が居城して吉原を嶺山と改めた。慶長五年(一六○○)七月十九日石田方の小野木縫殿介に味方した一色の残党杉原伯耆守、石子紀伊守、近藤山城守ら六七三騎の攻撃を受けたが、城兵志賀兵衛尉の内通によって火をかけられ、城将沢田出羽守は討死しついに七月二三日落城した。城にあった興元の妻は網野の沢田次郎助の妻ら僅か二○人の仕女に守られて、小野木方の包囲の前に脱出して田辺城へ入った。
 元和元年(一六一五)八月、京極高知の二男高通(養子で福知山藩主朽木宣綱の二男)が一万二千石で封ぜられ、吉原城の麓を開いて陣屋とした。その後京極氏は一度も移封されることなく、高通の子高供-高明-高之-高長-高久-高備-高倍-高鎮-高景-高富と経て雅雄の代に明治維新を迎えた。このような一藩一家のつづいた例はめずらしい事で、幕府の農業国本策にかかわらず峰山藩は享保五年以来縮緬を奨励し、高之のごときは道倫様とよばれ、博学知識で善政をしき、領民から親しまれたという。
 そのためか宮津領が京極高広以来、幕府の政策に忠実に従って機業を圧迫し、領主が次から次へと変って一揆が続発し愁訴をあわせると二○回に近い圧政であったのにくらべて、ただの一回も一揆を起していない。
 明治元年正月二六日、宮津藩を出発して口大野村高橋六右衛門方に小休止した西園寺公望の一行は峰山に到着し、本陣を若松屋寺田惣右衛門方におき、湧屋富田兵三郎、姫路屋小右衛門方を宿所として、家老高木彦左衛門より誓詞を受けて一泊し、翌二七日久美浜代官所領内に向った。その後明治十二年郡区編制法実施とともに中郡郡役所がおかれた。  〉 

建部山や弓木とは比べられない巨大な険しい敷地をもつ山城である。小西の奥吉原城主もそうだが、ここの城主・吉原殿は舞鶴にも関係を持っている。『丹後田数帳』に、
 〈 加佐郡
一 池内保 十九町二段内
  八町三段百八十歩     吉原殿
  八町四段百九十七歩   成吉越中
  □□五段        庶子分 下宮四良左衛門  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【吉原山築城】満範は八田にかえると、父祖二代で築いた建部山城に拠って、丹後を治める足場を固めたが、父の一色詮範は、所領の今富には行かず、やはり吉原山にとどまって、本格的な築城を始め、北方の守りを固めた。
まず、和泉式部が祈願をこめたという吉原山頂の山祇社の境内(人呼びの嶺という)を本丸と定め、八間に八間半。ここに蔵王権現の社があり、それに近く四間に十二間、ここに山祇の小社がある。その西方、切通しをへだてた少し低い嶺に西丸、三間に十一間を置き、六間に十四間の廓をもうけた。西丸の西南の表に、三間に十五間、四間に八間、三間に十五間の三段の砦をつくり、常の往来は、近藤の持ち場から松尾の尾根づたいに、寺谷の上を通って丸山(古殿)に出る山道で、これを搦手口とした。本丸から東南に下る大手通には、ここにも三段の砦があり、それを経て東の砦の下、馬場前(今の赤坂峠西の丘)に通じ、後、天正年中に篠箸大明神(今の赤坂の咋岡神社)を久次村から移したというのはこの付近である。
この中の砦の下に城主の館をつくり、館の西裏の山腹に武者屯を置き、侍屋敷は、大部屋の谷と搦乎口の茶園場に置いた。茶園場は、今の紅葉ガ岡(本名、竜ヶ岡)付近の谷で、茶畠であったからこの名が生まれた。茶園場から、丸山砦と薬師山砦の間の小峠をこえて、吹矢の谷(吹の谷とも)に出て、今の寺坂を下り、鉄砲町を通り、小西川の土橋(今の御旅橋付近)を渡り、田圃中の新治道を経て吉原小学校の前を通り、新治へ出て北国街道(若狭、丹後、但馬をつぐ道)に接続したもので、宮津、田辺、京都方面へは、長岡の金田に出て、長岡善王寺、口大野、奥大野、常吉から幾地へ下る道が、当時の往還であったと思う。
小西川の土橋の南(御旅市場と加工場の付近)に馬場ができたのもこの頃であり、橋詰から新治道にかけて松並木を育てたのもこの頃であろうか。
もちろん、峰山の名称もなければ、市街の形もない。ただ、吉原山城に立てこもる侍を目当てに、ぽつぽつ商人が集まり始めたのであろう。その他は、杉谷出城の付近の山かげに杉谷の農家があり、大部屋の谷(後の北谷町、今の吉原町の北部)に赤坂村の農家が住みついていたようである。
杉谷一帯を口吉原といい、小西(西山を含む)を奥吉原と呼んだ。安村はけっきょく奥吉原口ということになる。
嫋手道の東の谷を寺谷と呼んでいるが、寺谷の名が、当時あったかどうか、あるとすれば、全性寺の前身である曹洞宗全昌院があったであろうし、御堂殿の位置に何か草庵かあるいはお堂があったのではなかろうか。常立寺の前身の光明寺も、妙経寺、増長院もまだ存在していなかった。
吉原山城は、城といそも自然の天険を利用した山城で、切岸や堀割の上に平坦地をつくり、柵をめぐらし、木戸を構え、敵襲の場合は逆茂木を理め、陣屋を建てて寄手を防ぐといったきわめて原始的なものであったが、四方を山岳にとりかこまれた丹波郡の北部にそばだつこの吉原の山祇山が、一色、細川、京極三氏の城地として五百有余年の間後方鎮護の役目を果たし、奥丹の政治、軍略の中心となったことは、郷土発達史上特筆すべきことである。  〉 

吉原城跡の碑吉原山城二の丸跡の石碑→
鏡面仕上げの黒御蔭石なのか、見事なカモフラージュ。
二の丸跡は広い、名勝「紅葉が丘」の公園になっいて今もモミジ樹が多い。里村紹巴の『天橋立紀行』で取り上げられるのが「峰山」地名の初見と書いてある。
里村紹巴「天橋立紀行」永禄12(1569)年6月21日条に、「嶺山よりの御迎をともない」、6月24日条に「嶺山より迎馬に乗りけるに」「嶺山の城にのぼりぬ」とある。
馬に乗ってここまで登ってきたのかも知れない、城といってもあちこちにあるが、ここだったかはまったく確かではない。ここは馬でも登れるようなところではない。


京極時代の陣屋跡
陣屋跡
権現山への登り口にある。
小学校のグランドくらいの広さ、1万3千石でこうした規模のよう。3万5千石ではこの3倍くらい、ああした大きな城門などがあるはずもない。権力のやる事は疑え、歴史とはウソである、舞鶴人が大好きな言葉でいうなら、権力の歴史は偽書である、要するにこのリクツが歴史の本当の勉強ということのかも知れない。峰山陣屋跡


桜尾公園
府道からいえば権現山の反対側の金峰神社のある小さな丘である。以前はトリデがあったようで、それらしい遺構が残っている。
桜尾公園の案内板
案内板があるが、木々に埋もれて読めない。だいたいこういうことのようである。↓
『峰山郷土志』
 〈 【桜尾公園】 桜山・桜尾・桜尾山などというのがこの丘で、峰山小学校の裏の森である。桜尾は、明治六年以後、峯山小学敷地を拓くまでは、表町と札町の間に長く突き出ていて、その山鼻に佐々木神社がまつられ、山鼻の下に御高札場があって、街道はそこから折れ曲って横町となり、三十間程東に入って、さらに北に曲って札町の坂にかかっていた。
桜山は、一色当時からの城廓の一部で、細川入城後、部将正源寺大炊介の出張となった。
中院通勝の『配所日記』に…吉原ノ郷、嶺山の城外に正源寺大炊介の出張がある。天正十一年の春、吉野の桜苗を移植したが、今は見事な花盛りであると伝えて来たので、先日石井五右衛門と共に彼の出張に入って、その付近の古い事を尋ねあるいて・和泉式部が「男を恨みて」と題して作った歌のことを思い出し、その桜山の峰にしるしの石を建てた。通勝卿にも、勅勘の身を遠慮しないで、勧進の歌(建碑対する篤志)一音を興元の妻のもとに贈ってやって下さいと、玄旨法印(幽斎)のところから申して来た。-とある。
紅葉が岡の項であげた『天正記』によると、二の丸の紅葉の便りに心をひかされて、下宮津の出張からやって来た幽斎が、和泉式部の歌碑を建て桜を多く植えて置いたことになっているが、この『配所日記』では、正源寺大炊介が、天正十一年に吉野桜の苗木を移植して、その桜の花をみに来たことになっている。石井五右衛門は、細川の重臣で、一説に石井五郎右衛門とあるのがこの人であろう。下宮津の出張で幽斎と同居していたともいい、また、宮津の館(役宅)にいたともいうが、幽斎が石井を伴って嶺山へ来たことはうなずかれる。興元が嶺山を経営した翌年の天正十一年に植えた桜が、見事な花盛りをみぜたのは、何年後のことであったろうか。細川が九州に国替えとなった慶長五年までには、十七ヵ年よりない。まず八年目としても、天正十九年前後か、それとも十年目の文禄二年から慶長五年の間五、六ヵ年の間のことであろう。中院通勝は、号を也足軒、素然といい、何かの事故で丹後へ流されていたようで、和歌の方では幽斎の弟子であったというが、幽斎のすすめによって、興元の妻へどのような歌を勧進したかは明らかでない。
また、天保二年『峯山古事記』は、『丹後旧事記』の文を引用して、「桜山は不断町峠の西の高い処をいい、吉原郷、峯山ノ城外に、正源寺大炊亮の出張があり、天正十一年春、吉野の桜苗を移植したという…道倫様御代(元禄十二年から享保八年まで二十四年閭)にも、また桜を多く植えさせられて、御遊山があったと聞いている。石浮図(石碑)があるが、台に比丘尼性心と彫ってある外に文字はない。もと、五箇村の奥の常吉の枝郷である車の谷にあったものを、道倫様(四代高之)が山遊びに行かれたとき、御目にとまり、御供の者に命じて持ち帰ったということである」と記している。
これによると、細川幽斎が和泉式部の歌を刻んだという歌塚はすでになく、元禄以後、高之が車の谷から運ばせた碑が、天保二年にこの山に存在していたことになる。これが「比丘尼性心」の碑なのであろう。また、高之が植えたという桜は、百四十年後の天保二年には、どのような大木になっていたのであろうか。
明治四十四年(一九一一)、金刀比羅神社百年祭のとき、芦原中佐、松下区長ら有志の発起で、桜山を清掃し、峰山にただ一つの公園をつくって桜尾公園と呼んだが、婦人会の手で、散乱していた苔石を集めて歌塚を再興した。当時を記念する詩歌集に和泉式部に対するその感慨をのせている。その中から……。

山上には、明治十年西南の役以後の陣没英霊をまつる記念碑があり、中腹にお山稲荷の小社およびお山蔵王権現である金峰神社の御旅所があったが、大正三年、維新以降の中郡全体の忠魂をまつる銅柱の忠魂碑が建立され、震災後、金峰神社を遷座。戦時中、忠魂碑の銅柱は応召し、名物の天狗松は枯れ、公園もいつしか荒廃し、椎の老樹等におおわれつくして、桜山のおもかげはどこにもない。西側の一段下に、石塔婆が一基、その傍に別の石塔婆の上部がころんでいる。…  〉 

和泉式部の歌碑ともされている宝篋印塔↓
和泉式部の歌碑(桜尾山)
頂上の忠魂碑↓
忠魂碑(桜尾公園)

金峰神社
公園とは名ばかり草木がぼうぼうだが、金峰神社は清掃が行き届いている。
金峰神社(桜尾公園)
権現山の頂上に祀られていた蔵王権現をここに降ろしてきたもの。
蔵王権現は、役小角が吉野の金峯山で修業中に示現したといわれる。金剛蔵王菩薩とも呼ばれる。
舞鶴では白杉神社がそうだし、本家の金峰神社(吉野町・名神大社)が金山彦を祀るように、後の城下町峰山町が祀ったというよりも、もともとは反対側の赤坂や生野内などの金属・水銀集団から祀られていたものではなかろうか。

『中郡誌稿』
 〈 (丹哥府志)蔵王権現(祭八月二十七日)…略…
 按、峰山の氏神は安村にあり祭り六月十四日
(増信覚書一)一峰山権現は金峰山の末社
 蔵王大菩薩にて往昔は国峰にて山伏の修行候由申伝へ候事
一天正年中に吉原殿と申領主彼山を被築城地に権現を外の峰に被移置候然るに天正八年庚辰細川越中守御入国にて所々の地頭職関所被成同年(九脱カ実ハ十年)八月二十日に吉原殿切腹被成候其後細川殿御舎弟玄蕃頭殿一万石にて城主被成候其節当城之鎮守にて候とて本丸に勧請被成候則縁城寺同領分其上鬼門に当り候故折々法楽に上り候由先師盛舜上人物語被申候事
一寛永十四年丁丑高通殿御家来原次右衛門と申仁権現信心被致自分に小社を取立被申候其節茂盛舜上人上遷宮下遷宮被勤候事
(増信覚書二)一権現様吉原殿城主の時(社ハ古来より只今ノ所ニ在之由イ)迄は只今の所に御座候処細川玄蕃殿御代幾野内境おぜか尾へ御引被成候由玄蕃殿御所替以後無程近在の者只今の所へ移申候由
 按、同一人の覚書にして相反する事如此孰れか是なるか知らず
(峰山古事記)如幻旧事記曰宮津府志(田辺府志)に曰菅峠の西に大山祗山有云々、則誠按に権現山と不云山祇山と云は山祇の社は古代より有り権現の社は後に勧請せるならん(此文宮津府志に見当らず)
 按、則誠案の通り往古此山は大山祗神(即ち三嶋大明神なり)を祭られたるならん然れども両部習合より多くは皆権現となり修験道に帰するに至りて蔵王権現と変するに至りたるなるべし、しかもなほ山祇社を存し本地を維持したるは殊勝なりといふべし
(明細記)蔵王権現御社別当増長院  祠官今西越後 神子同人妻 内膳
一御祭礼八月廿四日より同廿七日迄尤廿四日御旅所増長院え渡御廿七日迄増長院に御逗留廿七日に御帰山右廿四日廿七日渡御之府志増長院并越後内膳神輿御供仕候
一…略…
一権現御敷地之内小祠四社
 雄金八王子社 支配 越後内膳
右祭礼九月二十二日晩より廿四日昼迄越後内膳神楽殿へ相詰候散物平日共越後内膳納候 一雄金社修復右両人より仕候
 山祇社 支配 越後
右祭礼六月廿五日越後神事相勤平日共御初穂相納候御祭礼鳥目貮拾疋 上より被差上是又受納仕候 右社御修復従 上被仰付候
 大黒天社 支配 越後
右祭礼初子正五九月子ノ日年中四度越後於宅神事相勤候其節供物 上より被差上候右社へ上り候散物越後納申候 右社御修復 上より被仰付候
 若宮社 支配 若松屋惣左衛門
右祭礼正五九月二十八日越後於宅神事相勤候 右散物御初穂越後へ納候 右社修復若松屋惣左衛門より仕候
一雄金山祇大黒三社之上屋従 上御修復被仰付候
一神楽殿 支配 越後内膳
 右神楽殿屋根修復之節は赤坂村より縄藁差出し赤坂村之者修復仕候
  右之通
    宝暦五年乙亥十一月  増長院印
(丹後旧事記)
大山祗社  丹波郡吉原峯山地
 祭神雄金大権現
 合神八王子
 神記雄金神者尾加根の隠字也田畠守命奉崇
按、前条峯山明細記には雄金八王子と山祇社と二社に祭るとす聊か合はず
(明細記)峰山町…略…
(峰山町誌稿)金峰山、村社社地東西五十間南北六十間面積三千坪吉原町の西権現山の頂上にあり往古より峰山鎮守の社と称す其創建年月等詳ならず安閑天皇金山彦命等を祭る祭日九月二十七日境内老樹多し、同境内末社二社、一山祇社祭神五男三女命祭日九月二十三日、一若住社祭神誉田別命祭日五月二十八日、
 按、前文増信覚書に金峰山の末社蔵王大菩薩とあり依て金峰社金峰山の号ありなり大和の吉野と同じ又前文四社の中大黒天を撤し雄金山祇を合せ若宮を若住とし祭神も新たに定めてりと覚ゆ
(頭註・峰山の地名も亦金峰山の略称にあらざるか但し是れ憶測のみ)
(峯山古事記)一慈眼堂、御館山上に有安置観世音
(峯山町誌稿)一豊川社、村社社地東西八間南北九間四尺面積六十六坪吉原町の西元陣屋跡の上にあり倉稲魂の神を祭る祭日八月十五日  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【金峰神社(元村社、峰山、吉原町、祭神 金山彦命、例祭 五月五日)】
初代京極高通が、霊夢によって蔵王権現をまつり、橋木村縁城寺の塔頭である般若院の盛舜上人に別当(支配)を命じたが、後、この般若院を峯山に移した僧長院二世(寛文十二年~元禄八年)増儒の覚書によると、寛永十四年(一六三七)、高通の家来の原次右衛門が権現を信仰して、自分で小社を建て、開山盛舜上人が遷宮をつとめたとあるが、これは藩主高通の内命によったものであることが『峯山旧記』にでている。
蔵王権現が、金峰神社と改名されたのは、明治維新で神仏分離の際、大和の国、吉野の金峰山蔵王権現の山号を取って「金峰=かなみね」と読みかえて神社名とし、昭和五年五月二十七日、御山に分霊を残して現在の場所に遷宮した。
蔵王権現の勧請(お迎えする)については、別に資料はない。しかし、一色氏がこの山に山城を構えてから、丑寅にあたる本丸の人呼の頂に蔵王権現をまつって、吉原山城の鎮護(おまもり)としたものである。橋木村の縁城寺も、やはり吉原山城丑寅の鬼門で、代々の城主は縁城寺をあがめ、権現別当を命じた原因となったのであろう。また、人呼の頂とは、諸方に命令を伝える場所で、山城の頂(本丸)の位置の別名であろう。
しかし、吉原山は、はじめ、吉原ノ里山祇山(やまずみやま)と呼んで、人呼の頂には山祇の神(大山祇神)がまつられていた。治安二年(一〇二五)、丹後守藤原保昌とともに丹後に下った和泉式部は、後、保昌と別れて、板列の舘(与謝郡男山か)にいたが、館を出て吉原ノ里、山祇の神に参詣して、心に思うことを神に告げ、七日間あまりお籠りして祈念したと、召使の女に語っている。
その時の歌、
悪しかれとおもはぬ山の峯にだに 多ふなる物を人の心は(一説、おふなるもの……人の願は)
この事情は、『詞花集』にのっているから、山祇の神は藤原保昌が丹後守になる以前から、この峯にまっられていて、それが山の名称となっていたものであろう。『三代実録』によると、陽成天皇元慶元年(八七七)十二月二十九日乙未、正六位上山伎神社に従五位下を授く-とあり、古史に記された由緒の深い神であったが、平安朝末期から鎌倉にかけて山嶽仏教が盛んになり、高山霊地に権現がまつられるようになって、かえって権現の末社に扱われるようになったのである。和泉式部は、『三代実録』などによって、この吉原ノ里の山伎神を知っていたのであろう。『三代実録』は大蔵善行らの撰で、清和、陽成、光孝天皇三代の歴史(八五〇~八八七)である。ただし、元慶元年乙未とあるが、元慶元年は丁酉で、乙未はその二年前の貞観十七年に当たる。和泉式部が丹後へ下ったのは、一〇二一年、治安二年の頃である。なお権現については、野間の小金山、切畑の権現山、女布の権現山などもその一例で、切畑の蔵王権現は、明治維新の時、祭神を広国押武金日命(安閑天皇)として、社号を吉野神社と称した。これも吉野の金峰山にかたどったものである。
また、『増信覚書』に、峰山権現は、金峰山の末社、蔵王大菩薩であって、国峰で山伏の修行があったと申し伝えている-とあって、大和の吉野の金峰山蔵王権現から、分霊をお迎えしたことをほのめかし、修験道の行場として山伏が行を行なったようである。しかし、国峰とは何の意であろうか、この峰ということであろう。
これは、いつの時代であったか明らかではないが、その後、細川興元の家臣正源寺大炊介が、吉野から桜の苗木をとりよせ、自分の持ち口(砦)に植えたことを考えても、吉野山との関係が深かったことが想像できる。
なお、同覚書に、天正年中に吉原殿という領主が、この山に城を築き、権現を外の峰に移して置いたが、天正八年(一五八〇)、細川越中守忠興が丹後に入ってから、所々の地頭(領主)がなくなり、同年八月二十日、吉原殿切腹。その後へ忠興の弟の玄蕃頭興元が、一万石(一説、一万五千石)で城主となったとき、この城の鎮守として権現を本丸にお迎えし、領分内の縁城寺は鬼門(丑寅)にあたるので、時々法垂楽(仏式による祭事)のため、お山に上ったと、師匠盛舜上人が物語った-と書いている。
吉原殿とは、宮津川の岸の漁家の木かげで切腹した一色藩をさしており、天正八年(一説、九年)八月二十日は誤りで『縁城寺年代記』にも、天正十年とあり、十年が正しいであろう。
また、切腹の月日は、すでに一色氏の項で述べたとおり、『丹後旧事記』などには、五月二十八日、義清が切腹して、一色氏が滅亡し、八月二十日に細川氏が丹後に入国したとあるが、忠興は八年の八月二十日に入国したのが正しいと思う。
また『峯山旧記』などは、九月二十三日吉原城がおち、同月二十八日、義清が切腹したといい、『丹後旧事記』は、興元は戦功により十月二十四日、一万五千石で吉原ノ里峰山の城主になったと記している。
ところで、この『増覚書』によると、一色が吉原山築城のとき、権現を外の峰に移し、細川興元が本丸に迎えて鎮守とした…とあるが、『同覚書』の二および『峯山古事記』には「権現は吉原殿(一色)の城主までは、今のところにあったが、細川玄蕃頭の代に、幾野内の-おせが尾-へ引きうつし、玄蕃頭が九州へ所替した後に、近在の者たちが今の処へ移した」とあって、同じ増信覚書の中で、喰い違っている。しかし、いずれにせよ、京極氏が入国した時は、すで人呼の頂の本丸跡にまつられており、ことに、近在の人々の信仰があったもので、初代高通は、この権現の霊夢に会ったのであろう。…
小金権現は雄金大権現ともいい、『丹後旧事記』には大山祇社、祭神雄金大権現、合神八王子とあり、雄金は尾ケ根の意味で、田畠を守る神である。この神が千年近く、この山上にまつられていた山祇の神で、一色、細川の頃から、ずっと、城郭本丸の内にとどまっていたが、京極氏の頃となって、蔵王権現に圧迫されて、下の段に八王子と合杞され、ささやかな祠の中にまつられるようになったものであろう。

慶応四年四月、神主今城越後からの届書(神社事務局届書)によると、「吉原ノ荘、峯山の里、小金山の里、小金山にいます神二座。祭神金山毘古命御霊実幣、安閑天皇同」とあり、なおこの二柱の神を「今の者は皆金剛蔵王権現などといっているが、それは誤りで、金山彦命と、広国押武金日皇子尊で、大和国吉野郡金峰山の神であり、この里の名を峰山または小金山などよぶのは、小金峰山というべきを略して小金山とも峰山ともよびわけたのである」と峰山町名の起源を説明している。慶応四年(明治元年)頃、峰山を小金山などと呼んでいたのであろうか。聞きおぼえはない。
明治二年、増長院によってまつられていた蔵王権現の本地仏金剛童子の懸仏(二十ニセンチ)は、別当であった増長院に引き取られたが、金剛蔵王権現の名はここから起こったのであろう。明治六年六月、「豊岡県貫属(注、戸籍の所在地)峰山組吉原町絵図」によると、本丸跡の金峰社の向かって右下の段に社殿一棟があり、さらにその左下の段に籠堂があり、堂から少し下ったところに烏居がある。この鳥居は震災のために倒壊したものを、桜尾の金峰神社前に運びおろして再建した。また、三ノ丸には慈眼堂がなく、豊川社がえがいてあり、社前に五、六段の石段があって鳥居が建っている。この場所は現在、峰山城趾碑の真上の中腹で、堂舎はもとより、鳥居も石段も残っていない。…  〉 

『峰山旧記』
 〈 一、蔵王大権現社
領主御館の背権現山の頂ニ有、別当増長院、神主今城日向、神子内膳、祭神金峰山蔵王大権現。吉原山城本丸人呼之頂に一色家代々吉原城の鎮護として祭る、勧請年暦定かならねど和泉式部が茲の山祇の社に参籠の事詞花集に見ゆれば、藤原保昌任国より古るかるべし。細川興元之時生野内村おせケ尾へ遷されたれども、京極家御入部以来元の屋鋪に戻し奉る。営初橋木縁城寺御法楽相勤めたるも後も縁城寺塔中般若院を峰山へ引移し、増長院と改めて御法楽相勤ひ、祭八月廿四日より廿七日迄、廿四日増長院法印神躰神輿に遷し是を舁さて山を下り御館の後御蔵門にて行列を為し裏門を出でゝ札町を通り上町中町を通り田町寺坂町増長院に入る、増長院に三日間御逗留此間毎日御代拝、殿様御在館の節は御参詣御直拝被成、廿七日又前の如く行列を作り鉄砲町より横町を通り下町に田で、中町上町を通り表門へ入り御館の前に到る、神主神子亦是に従ふ、此日家中各々幟を立て神輿の前後に従ふ。是より山に上り増長院法印神輿より神躰を社に遷し御法楽相勤め、神主神子舞殿にて神事相動、此日御領内町人百姓に御門内通行御山参詣を許さる但し女人結界不浄の者登山を許さず。増信覚書、尊光補忘録、永井日記、寺社帳。  〉 


浄土宗京都智恩院末安泰山常立寺 
常立寺(吉原)
常立寺案内(吉原)
縮緬始祖の森田翁や京極家の墓所がある。
『峰山郷土志』
 〈 【安泰山常立寺(浄土宗、峰山、吉原、本尊 阿弥陀如来木彫八十センチメートル)】明治二年『峯山旧記』によると、常立寺はもと真言宗で「玉葉山光明寺」といい、後奈良院の天文二十四年(弘治元年=一五五五)に徳及阿闍梨によって創建され、現在の寺地の東北にある桝形の南にあったが、初代京極高通が入国して、その居館を造営するため、この寺を今の場所へ移転させ、その跡を表町通り家中屋敷(武家屋敷)に敷いてしまった。そのうえ、京極家の菩提所は浄土宗であるところから、光明寺にも真言から浄土宗に転宗を命じた。現在、京都智恩院の末寺である。
寛文五年(一六六五)高通が没し、法名を安泰院道仙といい、次いで、延宝二年(一六七四)、二代高供が亡くなり、法名を常立院道栄といったので、三代高明は、この父祖の法名をとって、玉葉山光明寺の山寺号を「安泰山常立寺」と改称した。延宝四年(一六七六)二月のことである(一説、五年二月)。境内に峯山藩主の御廟所があり、藩主は、寺領として安村で高十石、外に御施餓鬼料米一石を与えた。
玉葉山は、また玉養山ともあり、年代の上から考えて、真言宗当時が玉養山で、浄土宗に転じて玉葉山と改めたものか、その点明らかでない。もとの寺地は桝形の南で、その跡を表町通り家中町に敷いたというから、現在の土木工営所から北の民家一帯に相当するようで、この表町通りの道は、このつきあたり、桜尾の下の坂道で桝形(鈎の手)をつくり、北谷町に入っていた。  〉 
京極家の墓所
常立寺(吉原)


日蓮宗京都本圀寺末法喜山妙経寺
妙経寺(吉原)
『峰山郷土志』
 〈 【法喜山妙経寺(日蓮宗 同、吉原、本尊 宝塔釈迦多宝、京都本圀寺末)】明治二年『峯山旧記』によると、慶長の頃(一五九六~一六一四)、僧日顕がこの地方に日蓮宗をひろめに来たとき、杉谷の田中陳左衛門(弥左衛門の誤記か)がこれに帰依し、妙法の精舎(日蓮宗の寺院)を建てたが、三代高明の時、初代高通の室(高知の女)法喜院の御法楽(供養)を勤めたため、その法名を山号にいただいて「法喜山妙経寺」と称し、寺地の年貢を免除された。寺は、その後、元禄五年(一六九二)三月に再興した、とある。
ことについて、天保二年『峯山古事記』は、「法喜院御菩提のため、地面を賜わり建立あり」といい、同十二年『丹哥府志』は「京極高道(通)の室は京極高知の女なり。法号を法喜院殿という。法喜山妙経寺の開基なり」と記している。
三代京極高明は、延宝二年(一六七四)家督を継ぎ、元禄十二年(一六九九)に隠居しているから、妙経寺に法喜院の供養を依頼して山号と寺地を与えたのはこの間のことであり、『峯山旧記』のいう元禄五年三月の再興と、『峯山古事記』のいう「地面を賜わり建立」とは一致しているのではなかろうか。とすると、慶長年間に杉谷村の田中弥左衛門が寄進したという堂舎を藩主のお声がかりで改築し、はじめて寺院としての格づけができたものであろう。法喜院は高明の実祖母にあたり、日蓮宗の信徒で寛永十三年七月二十一日江戸邸で没し、谷中の感応寺に葬り、法名を法喜院慈母日保尼(大姉とも)とよんでいる。…  〉 


臨済宗天竜寺派臥竜山全性寺
全性寺(吉原)

『峰山郷土志』
 〈 【臥竜山全性寺(臨済宗、同、吉原、本尊 聖観世音 木彫一尺八寸)】明治十六年『峰山町誌稿』に「この寺は何時代に創建されたか明らかでないが、一時衰微していたのを慶長元年(一五九六)、天竜寺十一代の賢渓和尚によって再建された。昔は曹洞宗で『全昌院』と呼んでいた」とある。
慶長五年の関ヶ原合戦に、城主細川興元が出陣中、一色の残党に包囲されて、吉原城嶺山御陣屋は焼け落ち、この戦いに町家と寺院を焼き払ったと『丹後旧事記』にあるから、吉原山の下にあった全昌院も、その難にあったのではなかろうか。しかし、この記事は『丹後旧事記』以外の郷土史『峯山古事記』、『丹哥府志』、『峯山旧記』等には見当たらないようである。
明治二年『峯山旧記』によると、全昌院は、竹野郡網野村(注、往古は松原村)湖秀山竜献寺末寺で、承応二年(一六五三)、宮津城主京極丹後守高国が、網野村の離島に、一覧亭を建てるに当たって、竜献寺をつぶしたので、本寺を失った全昌院は、峯山藩主初代高通の養母(高知の室)惣持院智源禅尼の位牌をまつって、宮津の曹洞宗永平寺派智源寺(寛永二年、京極高広の子高国建立)の末寺となった。高通の室は高知の女である。『竹野郡誌』によると、湖山の奇絶を愛して、一覧亭を離島(小浜の離湖)に建てたのは寛永八年(一六三一)で、高国の父高広の時であって、それが原因となって寺が衰えたとあるが、また一説には、その後、高国がこの一覧亭で魚を捕って遊び、寺に持ちこんで寺僧に注意されたため、立腹して寺を焼いたので、寺僧は、ようやく本尊だけを抱いて木津ノ庄に脱れ、天和三年三月(一六八六)木津ノ庄の岡田に竜献寺を再建した…とある。
高広が隠居して高国が宮津城主となったのが承応三年頃であり、その十二年後の寛文六年に所領を没収されて奥州南部藩へおあずけとなったのだから、竜献寺の焼滅はおそらく承応三年から、明暦頃の三、四年の間の出来事だったと思う。
ことに、承応元年には、本山永平寺開山道元和尚の四百年大遠忌をこの寺で行なっていることが、竜献寺古文書で明らかであり、湯茶代を指し上げた末寺三十八ヵ寺の中に、莎村(菅村)常泉寺、峰山全昌寺(今、全性)、安村慶善寺(今、溪禅)、善王寺村長福寺(今、三要)、五ヶ村慶徳院などの名がみえる。本寺を失った三十八の末寺の中、全昌寺(院)は智源寺に、慶善、常泉の二ヵ寺は新治村十方院の末寺に加わったというが、あるいは単独でおしとおしたもの、または、荒廃したものもあったろう。奥丹後の曹洞宗にとって、全くの受難時代であった。
臨済宗に改宗 次に大きな出来事として、曹洞宗から臨済宗に改宗した事がとりあげられる。『峯山旧記』によると「延宝二年(一六七四)四月、鉄岑和尚の頃、領主三代高明が御家督の際、故(ゆえ-事情)があって済宗(臨済)に改めるよう御頼みあり、智源寺との掛合い(交渉)むつかしく……元禄八年(一六九五)正月、ようやく埓明き(解決)へ末寺を離れ、済宗に改宗し、全性寺と号す。-御領内の洞家(曹洞)皆済家に改宗し、以来御領内の禅宗皆当寺(全性寺)の末寺に加えらる」とある。
三代高明がどうした事情から改宗を「お頼み」になる必要があったものか、幕府の問いに対し領内の宗派を誤って臨済宗であると答えたからだともいい伝えられているが、余程の事情があったものにせよ、峯山領内の曹洞宗の寺院ことごとくを改宗したことは大変な問題である。改宗の交渉は、延宝二年鉄岑和尚に始まり、二十一年後の元禄八年二世溌堂(?堂とも)和尚の時になって解決し(一月十七日)、智源寺末を離れて天竜寺派に属したことが『寺社日記』に残されていた。…
この改宗にともない、三代高朋の命によって全性寺の末寺に加えられた中郡十一ヵ寺のうち、当時、すでに臨済宗であったものに、禅定寺(小西)と長安寺(矢田)があり、改宗はしたが、竜献寺末でなかったものに、安穏寺(長岡)、少林寺(荒山)、林光寺(林香-内記)の三ヵ寺があるから、もと竜献寺関係は、残りの渓禅(慶善-安)、常泉(菅)、慶徳(五箇)、三要(長福-善王寺)、万休(河辺)、相光(丹波)の六ヵ寺となる(注、竜献寺古文書中、善王寺村長福寺とあるのが今の三要寺である)。
とにかく、これらの改宗を余儀なくさせられた寺院は、延宝から元禄の間に新しく生まれ変わったわけで、当時の住職は、中興開山ということになろう。ことに、全性寺は十一の末寺を加えられ、天竜寺派、中本山格になり、「全性寺鎮護天満天神威徳記」によると……当山の開山鉄岑禅師に、本寺および十余ヶ寺再興の賞として、寛文二年(一六六二)、菅原道真親筆の画像を本山天竜寺から与えられ、これを全性寺の鎮護神としてまつった。この真像は、後醍醐天皇から、天竜寺の開山である夢窓国師に賜わったものである……という意味のことがつづられている。
天竜寺はもと暦応寺といい、暦応二年(一三三九)八月十六日、後醍醐天皇が吉野で崩御になったとき、夢窓国師が足利尊氏にすすめて、天皇御供養のため、寺を建てさせたもので、尊氏は、光明院の勅許を受け、自ら土石を運んで、貞和元年(一三四五)に完成し、庄園一万貫を寄進し、夢窓国師を懇望して開山とし、後に天竜資聖禅寺と改称、国師は、天竜寺船を中国(元)に送って貿易し、その利益を寺の維持費にあてたといわれている。しかし、威徳記による寛文二年は、初代高通の時代にあたり、改宗は三代高明の時であるから、その間に十二年のくいちがいがあるようである。
また、こうした宗派の改変が直接信仰に影響する筈はない。御本尊はやはり聖観世音である。当時末寺に加えられた十一ヵ寺の中、渓禅寺、相光寺、長安寺の三ヵ寺を除く八ヵ寺は、明治十一年頃ある事情のため全性寺末を離れて、天竜寺の直末となったという。
なお、開山鉄岑和尚は、天竜寺十一代賢渓門下で、生家は峰山の不断町の井筒屋、細川某であった。…  〉 


《小字》
吉原 石ノカラト 切通し 権現山 桜尾 善明東側 谷 寺谷 場馬


《交通》


《産業》



吉原の主な歴史記録


『田辺府志』
 〈 吉原は今の峰山也  〉 

『丹後国田数帳』
 〈 吉原庄 七十八町八段七十七歩内
      加公文分(割注・地頭領家)在之
      五丁五反定
 卅九町四段卅九歩      地頭 吉原殿
 卅九町四段卅九歩      領家 住心院  〉 

『御檀家帳』

 〈 一 よしわらの里屋す
御一家也大なる城也  御そうしや
 吉  原  殿    藤田彦三郎殿
 後藤新治郎殿     後藤総左衛門尉殿
              (朱書)
              「ふく」
こにしのしやうしゅん坊さいさい□□山ぶし  〉 

『丹後旧事記』
 〈 一色兵部少輔詮範(左京大夫と云)。後円融天皇応安年中父範光当国を譲る、加佐郡大内山に篭りて市街をひらく嘉慶年中山名時氏と戦ひ遂に討負没落に及び丹後吉原へ引城を築き楯篭る。  〉 

『中郡誌稿』(総説)

 〈 …略…元来足利氏は丹波の上杉村が母方の起った土地で、丹後境であり、両丹は其策源地ともいふべき関係があるばかりでなく、京都に幕府を開けば、両丹地方は所謂搦手の要地であるから、自分の一門の一色氏を丹後の守護にした、一色氏は相伴衆の家柄で、室町幕府に於ては、相伴衆は管領家に亜ぐ重き家柄で、武家の大饗礼である所の、将軍が正月椀飯(ワンパン)の大饗に臨まるる時、其席に陪することの出来る家筋で、是は斯波畠山細川の三管領家と、赤松山名京極六角下細川と一色の九家よりはないのである、その上武家として最名誉なる。侍所の長官即ち所司にもなる家柄で、侍所の所司となるのは一色と赤松山名京極の四氏で、是を四職といふのである、それで一色範氏(入道道猷)は尊氏の時、九州探題となって一方の重任を負ふたのである、範氏の子の範光が始めて丹後守護となって慈雲寺殿といひ、其孫満範も又丹後国を賜って慈光寺殿といふので、慈雲寺慈光寺の名は丹後田数帳にも見えて居る、其間に山名との争があって、一時丹後は山名の領分となってが、明徳の役に山名滅び、しかも一色詮範父子の手に山名氏清の首を得たるより、更に満範に丹後国を賜ったので、此山名との争のうちに峰山権現山の城も出来、奥丹後に於ての鎮城となったやうである、…略…
尤も丹後の中心地は昔から加佐郡で、国府も加佐郡であったが、後に与謝郡に移ったので、武家時代になっても一色氏は足利の名門として京都に居なければならず、代官を加佐郡に居いたのであらう、…略…  〉 

『丹後路の史跡めぐり』
 〈 吉原城は嘉暦二年(一三八八) 山名満幸に建部山本城より追われた一色詮範、満範父子の築城したもので、満範が山名を亡ぼして建部山へ帰った後も奥丹のおさえとしてこの城に支城をおき、代々血族を配して吉原左京太夫と名のった。
 天正十年、義俊が殺された後は吉原城にいた叔父の義清は弓木城へ入城し、第十一代目の国主となった。同年九月工日田辺を発した二八○隻一万五千の細川玄蕃興元の軍勢は経ヶ岬を廻って竹野郡浅茂川、三津浜、熊野郡湊宮とと三手にわかれて上陸し、奥丹三郡の一色輩下の山城へ殺到して次々に陥し、九月二○日三軍合同して吉原城を攻めたてた。城兵は一色氏の最後を飾るべく力戦したが多勢に無勢城代近藤玄蕃頭善明ら二七○人が枕を並べて討死し、九月二三日ついに落城した。その後は興元が居城して吉原を嶺山と改めた。慶長五年(一六○○)七月十九日石田方の小野木縫殿介に味方した一色の残党杉原伯耆守、石子紀伊守、近藤山城守ら六七三騎の攻撃を受けたが、城兵志賀兵衛尉の内通によって火をかけられ、城将沢田出羽守は討死しついに七月二三日落城した。城にあった興元の妻は網野の沢田次郎助の妻ら僅か二○人の仕女に守られて、小野木方の包囲の前に脱出して田辺城へ入った。
 元和元年(一六一五)八月、京極高知の二男高通(養子で福知山藩主朽木宣綱の二男)が一万二千石で封ぜられ、吉原城の麓を開いて陣屋とした。その後京極氏は一度も移封されることなく、高通の子高供-高明-高之-高長-高久-高備-高倍-高鎮-高景-高富と経て雅雄の代に明治維新を迎えた。このような一藩一家のつづいた例はめずらしい事で、幕府の農業国本策にかかわらず峰山藩は享保五年以来縮緬を奨励し、高之のごときは道倫様とよばれ、博学知識で善政をしき、領民から親しまれたという。
 そのためか宮津領が京極高広以来、幕府の政策に忠実に従って機業を圧迫し、領主が次から次へと変って一揆が続発し愁訴をあわせると二○回に近い圧政であったのにくらべて、ただの一回も一揆を起していない。
 明治元年正月二六日、宮津藩を出発して口大野村高橋六右衛門方に小休止した西園寺公望の一行は峰山に到着し、本陣を若松屋寺田惣右衛門方におき、湧屋富田兵三郎、姫路屋小右衛門方を宿所として、家老高木彦左衛門より誓詞を受けて一泊し、翌二七日久美浜代官所領内に向った。その後明治十二年郡区編制法実施とともに中郡郡役所がおかれた。  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【吉原山築城】満範は八田にかえると、父祖二代で築いた建部山城に拠って、丹後を治める足場を固めたが、父の一色詮範は、所領の今富には行かず、やはり吉原山にとどまって、本格的な築城を始め、北方の守りを固めた。
まず、和泉式部が祈願をこめたという吉原山頂の山祇社の境内(人呼びの嶺という)を本丸と定め、八間に八間半。ここに蔵王権現の社があり、それに近く四間に十二間、ここに山祇の小社がある。その西方、切通しをへだてた少し低い嶺に西丸、三間に十一間を置き、六間に十四間の廓をもうけた。西丸の西南の表に、三間に十五間、四間に八間、三間に十五間の三段の砦をつくり、常の往来は、近藤の持ち場から松尾の尾根づたいに、寺谷の上を通って丸山(古殿)に出る山道で、これを搦手口とした。本丸から東南に下る大手通には、ここにも三段の砦があり、それを経て東の砦の下、馬場前(今の赤坂峠西の丘)に通じ、後、天正年中に篠箸大明神(今の赤坂の咋岡神社)を久次村から移したというのはこの付近である。
この中の砦の下に城主の館をつくり、館の西裏の山腹に武者屯を置き、侍屋敷は、大部屋の谷と搦乎口の茶園場に置いた。茶園場は、今の紅葉ガ岡(本名、竜ヶ岡)付近の谷で、茶畠であったからこの名が生まれた。茶園場から、丸山砦と薬師山砦の間の小峠をこえて、吹矢の谷(吹の谷とも)に出て、今の寺坂を下り、鉄砲町を通り、小西川の土橋(今の御旅橋付近)を渡り、田圃中の新治道を経て吉原小学校の前を通り、新治へ出て北国街道(若狭、丹後、但馬をつぐ道)に接続したもので、宮津、田辺、京都方面へは、長岡の金田に出て、長岡善王寺、口大野、奥大野、常吉から幾地へ下る道が、当時の往還であったと思う。
小西川の土橋の南(御旅市場と加工場の付近)に馬場ができたのもこの頃であり、橋詰から新治道にかけて松並木を育てたのもこの頃であろうか。
もちろん、峰山の名称もなければ、市街の形もない。ただ、吉原山城に立てこもる侍を目当てに、ぽつぽつ商人が集まり始めたのであろう。その他は、杉谷出城の付近の山かげに杉谷の農家があり、大部屋の谷(後の北谷町、今の吉原町の北部)に赤坂村の農家が住みついていたようである。
杉谷一帯を口吉原といい、小西(西山を含む)を奥吉原と呼んだ。安村はけっきょく奥吉原口ということになる。
嫋手道の東の谷を寺谷と呼んでいるが、寺谷の名が、当時あったかどうか、あるとすれば、全性寺の前身である曹洞宗全昌院があったであろうし、御堂殿の位置に何か草庵かあるいはお堂があったのではなかろうか。常立寺の前身の光明寺も、妙経寺、増長院もまだ存在していなかった。
吉原山城は、城といそも自然の天険を利用した山城で、切岸や堀割の上に平坦地をつくり、柵をめぐらし、木戸を構え、敵襲の場合は逆茂木を理め、陣屋を建てて寄手を防ぐといったきわめて原始的なものであったが、四方を山岳にとりかこまれた丹波郡の北部にそばだつこの吉原の山祇山が、一色、細川、京極三氏の城地として五百有余年の間後方鎮護の役目を果たし、奥丹の政治、軍略の中心となったことは、郷土発達史上特筆すべきことである。  〉 

『中郡誌稿』
 〈 (峯山町誌稿)丹後国中郡峰山町 本市街古時何郷に属するや分明ならず往古吉原と称す峰山と改称するは何れの年間か又詳ならず(慶長七年検地以前には峯山の称見当らず其後称するならんといふ)中古町名北町表町四軒町不断町上町中町下町古殿町(丸山町又茶園場と云)田町出町等の称あり文化四丁卯年更に一ケ町を増置白銀町と唱ふ明治二己巳年町数を分合改称し吉原町(北町表町を合)織元町(中町を分つ)室町(同上)呉服町(下町を分つ)浪花町(同上)富貴屋町(田町を分つ)境町(同上)御旅町(出町を改む)泉町(白銀町の内を分つ)光明寺町(菅村地内菅峠に在る民家を峯山町に属す)四軒町不断町上町古殿町白銀町と共に十五ケ町となる(付云吉原町の内字桝形以北元北町と称する辺元和八年以前は赤坂村の農家あり今桝形と唱ふる所小峠にて赤坂村と峯山との境界のよし京極氏陣屋を建築するに際し民家を今の赤坂村へ移すと云又元田町は延宝年中組屋敷を町家とし元出町は其後に置るならんと孰れも古老の伝記にあれども詳ならず  〉 

峰山町図(『中郡誌槁』『峰山郷土志』より。明治6年頃という。)


『京丹後市の考古資料』
 〈 峯山陣屋跡(みねやまじんやあと)
所在地;峰山町吉原町小字馬坊
立 地:竹野川中流域、支流小西川左岸丘陵裾
時 代:江戸時代
調査年次:なし
現  状:完存
遺物供管:なし
文  献:A001、A101、E028
遺構
 峯山陣屋跡は、元利8(1622)年以降、明治維新まで続いた峯山藩の陣屋跡である。陣屋跡は、峰山の町並の北側に分布する丘陵裾に立地しており、周辺にあった武家屋敷から比高差約5mを測る高台となっている。現状は、畑として利用されている。
 丹後国は、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦以降、京極高知が受け継いでいたが、高知没後に遺言こより三人の嗣子に分割相続された。このうち京極高通が受け継いだ峯山藩は、廃藩置県まで京極氏が藩主であった。峯山藩主京極氏は、戦国期~織豊期に吉原山城があった権現山の麓に陣屋を築き支配の拠点とした。
 陣屋の建物配置は、『峯山旧記』『丹後国中都誌稿』所収の「御館絵図」(原資料所在不明)から判明する。陣屋への入口には御門と番所があり、防禦用に小屋が設けられている。小屋は、石垣の上に建っていたようであり、明治初期の各種絵図、地籍図(峰山図書館郷土資料)には、石垣が捕かれている。陣屋建物の裏手には池があるほか、蔵や馬場が設けられていたようである。
遺物
 特に知られている表採遺物はない。
意義
 峯山陣屋跡は、久美浜代官所跡(157)とともに、市域では数少ない近世城郭遺構である。幸いなことに陣屋跡の現状は畑となっており、石垣が撤去された以外には大きな改変などが見られないため、遺構が良好に残されている可能性が高い。今後の調査に期待したい。  〉 

峯山陣屋の見取り図(『丹後国中郡誌稿』より)




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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