丹後の地名

公文名
(くもんな)
舞鶴市公文名


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京都府舞鶴市公文名

京都府加佐郡中筋村公文名


公文名の地誌




《公文名の概要》

公文名はクモンナとか単にクモンとか呼ばれている。本来はクモンミョウで公文さんの名田があった所の意味である。
舞鶴市の南部。西舞鶴市街地から南へ続く国道27号線(京街道)沿い。
東南端には真名井の湧水池があるが、弥生時代には、西舞鶴の南部は池内川・真倉川・高野川が合流して沼地を形成していたと考えられている。この地域は全般にわたって地下水面が高く、また清水の湧出する池も多く、この湧水は付近一帯の飲料・農業用水として重要な意味をもっていた。
東南端には真名井の湧水池がある。
田園地帯であったが、最近は商店や事業所、住宅などが増加して、目下人口急増の地。
公文名村は江戸期〜明治22年の村名。同22年中筋村の大字。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字。

《人口》1160《世帯数》434


《主な社寺など》
東南隅の七日市との境に田辺藩の上水でもあった真名井の清水の湧水池がある。「丹後風土記」残欠田造郷の条に見える笠水・真名井の霊泉として古来より有名。
笠水神社
曹洞宗桂林寺末慶徳山公国寺
『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 桂林寺末  〉 

『加佐郡誌』
 〈 慶徳山公国寺、曹洞宗、中筋村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【慶徳山公国寺】(曹洞宗)  〉 

『丹後国加佐郡寺社町在旧起』
 〈 公文名村
慶徳山公国寺、桂林寺末曹洞宗、  〉 

『舞I市民新聞』(051220)
 〈 曹洞宗慶徳山 公国寺
住職 松本亮道
 西舞鶴駅から南に少しばかり行ったところに公文名がある。古来「公文書」を作成する役所があり中筋地域の中心であった。この地に慶徳山公国寺がある。
 ご住職の名は松本亮道師、同寺の九世である。御年三十才と若く、凜々しいご坊である。
 同寺は昔えの沿革は不詳であると云うが、元は笠水神社近く公文名踏切辺りに所在したと云う。この地(二六六番地)に移ったのはいつの頃だったのだろうか。
 桂林寺の十一世鉄堅鑑?(承応元年一六五二年)の開闢と伝え、碓嵒永宗の伝法開山と云う。法地起立は安政六年(一八五九年)である。
 ご本尊は薬師瑠璃光如来である。享保十六年(一七一三年)建立と印されている棟礼が残されている。以来、同寺のご本尊として大いに信仰を集めるに至った由である。…  〉 

中筋小学校
稲荷神社
茶臼山城址


《交通》
国道27号線
JR舞鶴線


公文名の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 公文名村
慶徳山公国寺、桂林寺末曹洞宗、笠水明神、九社の内、伊佐津、公文名両村の氏神。
  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ八分
公文名村 高三百八十四石弐斗五升
     内三石七斗弐升二合五勺 万定引
     三拾石御用捨高
 公国寺 慶徳山 桂林寺末
 笠水明神 公文名村
      伊佐津村 氏神 七月六日夜祭 神楽
      相撲あり  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎公文名村(引土村の次)
【笠水明神】(祭七月六日)
【慶徳山公国寺】(曹洞宗)  〉 

『まいづる田辺 道しるべ』
 〈 公文名
 公文名の地名について、中世荘官(荘園)であった公文が土地を開墾し、名田を作ったことに起因するといわれ、公文名の元来の呼び名は「くもんみよう」という。
 公文名の中程、旧道ぞいに公国寺があり、この寺はもともと公文名踏切辺りにあったといわれており、その境内に、あまり人目につかない石造物がある。この石には「庚申」と彫られており、通称「庚申塔」ともいわれているもので、江戸時代、この庚申塔が立てられていた場所は、主として村の入口で、道路のよく見える所に立てられていた。
 私はこれらの庚申塔を見つけることにより、江戸時代の旧道の発見につながり、庚申塔を「道しるべ」と見倣し、調査してきた。
 では、「庚申」とはいかなるものか。これは、通称「庚申さん」と呼ばれているもので、江戸時代、庶民の間で盛んに行われた庶民信仰の一つである。
 庚申は干支の一つで、「庚申(六十日ごとに廻って来る 一年に六回あり)の夜、身中に居る三尸の虫が、寝ている間に天に上り、天帝にその人の罪過を告げ、その人の命を縮める」といわれ、庚申の夜は寝ずに庚申さん(青面金剛、猿田彦大神)をお祀りする信仰で、「守庚申」「庚申侍」ともいわれている。
 この庚申の歴史は古く、中国の唐時代に登場した道教の教えから来たものといわれ、江戸時代になると「道祖神」「日待」「月待」等々の信仰とも結びつき、庚申講が作られ、 当日は講員が集まり、信仰にかこつけて会食し、夜どうし遊ぶ慰安の場になっていたようである。
 庚申塔は、村へ悪病・悪霊が入らぬよう、村中の安全を願って、村の入口に立てたものといわれ、公文名の庚申塔も村の入口に立っていたのではなかろうか。
 京街道は公文名から田辺城の御用水で知られる「真名井の清水」前を通り、七日市に入って行く。  〉 


『中筋のむかしと今』
 〈 公文名
「真玉、白玉、真名井の泉。湧いて流れてわが中筋の……」と中筋小学校校歌で歌われている真名井の清水源泉の地、それが公文名である。今なお悠久の時を刻み湧きいでている。
 田辺城より南下する京街道沿いの最初の村が公文名。その村内にある笠水神社の「笠水」とは丹後風土記に「宇介美都」と訓み「真名井の清水の湧くところ」と、真名井の名もある。「清潔なること麗鏡の如く、又その味甘露にて、万病主治の機なり……」と記されており、周囲一面湿地帯で水位は高く、飲料水・農業用水として重要な意味を持っていた。
 笠水神社の祭神は笠水彦命・笠水姫命の二柱で、海浜部族の海部直の祖神といわれている。
 その後、慶長十六年(一六一一)京極高知が藩南部一帯の洪水防止と沼地の耕作化を計り池内川と真倉川を合流させ、城の東側に伊佐津川を創る瀬替工事をし、沼地を名田にした。
 「公文名」は鎌倉・室町時代に荘園を管理する荘官への報酬として与えられた田という意味で、その荘官のいた役所を「案主」といい現在では小字案津で残っている。
 田辺荘(福井・中筋・池内・高野などを含む)の中心地が公文名で、「公文名」は荘園内で一番肥沃で日当たりがよく、温暖で農作物の出来もよく、特に米・野菜はその時代から特産であった。
 昭和四十年九月、大和紡績鰍ニ地下水利用の協定が締結され、大和紡が中筋校校庭の南端近くの水源を工業用水として利用する一方、その還元水は京田川(女布川)に戻し農業用水として利用する共存の事業であった。また時を同じくして、住宅ブームと重なり中筋校周辺、国道二七号線沿い、高野川沿いなど従来の京街道沿いの村より同心円状に住宅地が急増・拡大していき、世帯数も七、八○戸が二五○戸以上になり、神話とさえ思われていた名水の地「公文名」に生活水のことが問題になり始めた。
 古来から京街道沿いに村があったのは、生活水として水質のよい層の上に存在していたのであり、その真名井の清水の層は余り幅の広いものではなく、旧真倉川と旧池内川にはさまれた地域であり、それ以外は生活水としては余り適さない所が点在していることが分かり、上水道敷設の要望が年ごとに大きくなっても、従来の真名井の清水依存が捨て切れず、上水道敷設に至らなかった。
 舞鶴市内で非上水道地域で最後の村になり市の上水道化促進事業とも重なり、平成五年六月に公文名上水道組合を設立し、敷設工事に着手した。
 その間、阪神大震災で一時中断したが十一年末に全町内に上水道管敷設工事が完了した。六年余りの歳月と一億九、四○○万円を費やし、いにしえからの自然の恵み「真名井の清水」の源泉の地・公文名町内に均一に上水道が敷設された。一層住みよい町づくりを目ざしつつ、真名井の清水の保護・育成、そして活用し続ける、そんな町が公文名である。         [堀江 要]  〉 

公文名の小字


公文名 宮ノ下 八丁西 馬場ノ下 馬場ノ上 八丁東 五反田 谷 八幡田 上良 大将軍 下地 中地 クンノリ 案津 ドウ上 中島 柳返 蒲風呂 宮ノ上 城ケ鼻 地山 宮ノ下ハシ 山ケ鼻 角田 下大将軍 六反坪

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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