丹後の地名

倉谷
(くらたに)
舞鶴市倉谷


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京都府舞鶴市倉谷

京都府加佐郡余内村倉谷

倉谷の地誌




《倉谷の概要》

倉谷は舞鶴市の中央部。府道小倉西舞鶴線(白鳥街道・若狭街道)とJR舞鶴線が通る。
伊佐津川に架かる二ツ橋の先、日本赤十字病院の付近である。保健所やキリンビバレッジや健康マヨネーズの工場もある。
佐武嶽(さぶがだけ)連山の北麓、大泉寺の東方、通称かじやまの丘陵頂に丸山古墳があり、頂部に石室、下部に玄道に使った石が散在している。
古代は大内郷、中世は大内庄の地であったと考えらていれる。
当村はもと南の山際に発達していたが、慶長の頃に北方の平野中に移ったという。享保12年2月、大庄屋武左衛門の願によって、以前の場所へ還住を許可されたが、実際には11人が引き移ったのみという。享保12年の「丹後国田辺之図」によると二ツ橋以東の倉谷は大内新町と称されている。現在は「倉谷向ノ丁」と呼んでいる。
倉谷村は、江戸期〜明治22年の村名。同22年余内村の大字となる。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字となる。
 明治30年舞鶴要塞砲兵大隊(同40年重砲兵大隊と改称)第1中隊が地内の東山寺で事務を開始したが、翌31年営舎完成により上安久に移転した(現在の日星高校の地)。昭和16年倉谷一帯7万坪が買収され、ここに同18年舞鶴海軍工廠第2造兵部が建設された。同21年民営に移管された。第2造兵部の庁舎は、同22〜23年には田辺中学校(現城南中学校)校舎、こののちは舞鶴赤十字病院に転用された。

↓舞鶴工廠の造兵部の跡地。今は薔薇の花が咲いて、ようやく平和の感じがする。旧海軍関係の跡地の周囲はすべて薔薇を植えるべしとかいう条例でつくるといいかもー



《倉谷の地名の由来》
この地名もかなり古く古代の渡来系のものと思われる。現在では意味が不明となっているが、「クラ」は鉄を産む谷を呼ぶ地名のようである。「地名学」でもすっきりしていないが、まずそう見て間違いがないだろう。
南に位置する佐武(さぶがたけ)ケ岳のサブと同じ時代の地名と思われる。サブはサビで鉄の意味と思われる。鉄の山の北麓になる五十里村(天台)から福来、倉谷の一帯はすべて鉄地名と考えてよいと思われる。現在もイモジやカジヤの小字が残るし優秀な刀鍜冶がいたのも、あるいは瓦師などがいたのも優れた産鉄民の末流かとも思われる。
泉源寺の倉谷」参照


《人口》1484《世帯数》597(倉谷・倉谷東・倉谷西の合計)


《主な社寺など》
飯田左馬之丞の山城であった倉谷城址
桧ノ谷に朝禰神社
奥ノ谷に三柱神社
馬場に北野神社

小字カジヤ前にある大泉寺(臨済宗妙心寺派)は慶長二年の開創、本尊釈迦如来、寺領四・六石余を有した。
大泉寺の大屋根(舞鶴市倉谷)
『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 済禅宗。西京木辻正法山妙心寺末。…人王百八代後水尾院御宇慶長十甲寅歳。開基 琢堂和尚。本尊 釈迦。脇立 文珠、普賢。…開基琢堂和尚慶長二丁酉年細川越中守忠興侯御時肥後国ヨリ来建立之由。山上ニ古城跡有三上相応当所ニ居。本城ハ佐武ケ嶽。…  〉 

『加佐郡誌』
 〈 臨済宗の妙心寺派であって、慶長二年六月十一日に細川越中守源忠興が建立したものである。そして勅諡本真寂禅師琢堂和尚を請して開山とし境内の山林と地方の七十二石を付与したので、これから細川家の香花寺となった。然るに其の後細川家の国換となったに付三世勅諡空恵賢明禅師大円和尚付添で熊本県熊本市の泰勝寺を開創して細川家の香花寺とした。爾後当山は四世の再住妙心貞山和尚が寺門を経営する事となり興隆の基盤を作ったので領主の京極高三が境内の山林と地方の四石六斗五升四合を付与したが以来は代々判物があり今は公税地に属している。又二世の別源和尚は宮津の国清寺切渡の智恩寺・伊根の正法寺等を開法して開山となった。当山は琢堂から別源、大円、貞山、融谷、天柱、梅珪、八世禅峰に至り再建したもので現今の須弥檀は享保十年の作である。安政二年四月に十四世の龍田和尚が寺を現今の地に移して本堂庫裡を建立してから、十六世の獣応和尚に至るまで三百十八年間(大正十二年まで)法燈は連綿としているのである。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【曹渓山大泉寺】(臨済宗)  〉 

『舞鶴』
 〈 曹谷山大泉寺
 これも余内村倉谷にある禅刹で妙心寺派に属する、慶長二年六月細川忠興の創建にかゝり琢堂和尚の開基である。  〉 

『与謝郡誌』
 〈 慈雲山顕孝寺
 養老村字大島にあり本尊釈迦如来昔時大島城主千賀山城守赤松氏に攻められ落城一族戦死又は離散し其息女は難を岩瀧邑に避く故に同邑に千賀氏を名莱るものは蓋し此の血脈を統くるものなり而して千賀氏の家老小島氏乱軍の中に死し其遺子母と共に伊根に逃れ出家し宗調と號す長ずるに及んで諸方を遍歴し後田辺大泉寺琢堂禅師の法嗣となり国主細川越中守に帰依せられ請ふて開山となす細川氏の肥後に封せらるゝや開山禅師故郷に在り曾て大島に到り故主の城跡を見て感慨無量即ち亡君並に戦死者菩提の爲め一宇を建立し以て孝道を顕す云々即ち顕孝寺なり然るに五十有餘歳を経て吟某再興の志を発し岩瀧邑千賀氏に図り再建す時に慶安二年三月なりと。  〉 

細川忠興時代からの歴史しかあまり知られないが、クラタニのような古い地名の鉄の地に臨済宗は合わないと考えていたのだが、倉谷の意外なロストワールドはどんなものだったのだろう。
大泉寺の北向かいの山裾には大光寺という真言宗の寺院があり、それ以前には日光寺があったという。
『神社旧辞録』
 〈 八幡神社 祭神 誉田別尊 同市字福来
 福来は氏神は古来より宮谷神社(須佐之男尊)で昔は牛頭天王と称した。
八幡宮はこれより北方小字大光寺の平地に社はある。
廃寺大光寺は真言宗であったので神宮寺としての関連がみられるのではないか。
この社も氏神様以上に外部的には知れ祭も賑っている。
境内には摂社ではなく大光寺廃寺のもう一つ前身日光寺の本尊薬王権現を祀る薬師堂が竝ひ建っている。  〉 

『舞I市民新聞』(89.4)
 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈108〉*大泉寺「薬師伝説めぐり」*日光寺に発する興味深い開創伝説*一帯に色濃く残る村の歴史*
 大泉寺は、慶長二年(一五九七)に、細川忠興によって禅宗臨済の寺として寺基をととのえるまで、どんな寺であったかを伝える確かな記録はのこっていませんが、興味深い開創伝説が、地域に語り伝えられてきました。
 時はいつのころかさだかではありませんが、天清川の北、福来・上安間の山塊、天王山の台地にその名をのこす「大光寺」という寺が、大泉寺の前身といわれ、また、はるか昔にその寺は、福来南の山地中腹の「ダン」とよばれる地にあった「日光寺」という寺であったと伝えます。
 このように、この地域には、口伝えによる伝承がいくつかありますが、この日光寺が、七仏薬師の寺であるという伝承を、はじめて文章化したのは、大泉寺七世の梅珪(ばいけい)和尚で、江戸時代中期のことです。
 現在、福来の八幡神社境内にある福来薬師堂の薬師如来由来書の原本は、今も尾崎家に伝わる梅珪和尚の手になるもので、正徳五年(一七一五)に書かれています。

七堂伽藍誇った薬師の霊場

 「夫丹之後州伽佐郡大内庄福来村薬師如来者同国高野郡斎大明神造立七佛安置于国中七箇寺則其一寺一尊也云」
 丹後の国の加佐郡大内庄福来村の薬師如来は、昔、丹後の国の七ヵ寺に安置された七仏薬師のうちのひとつであるといわれている、と記し、そのあとに、薬師如来を祀った丹後の七ヵ寺を記しています( 第一に義郡加悦庄滝村の施薬寺、第二に加佐郡河守庄清薗等、第三は竹野郡宇川庄願興寺、第四は同郡同庄吉永村神宮寺、第五は同郡溝谷庄等楽寺村等楽寺、第六加佐郡大内庄福来村日光寺、第七同郡白久庄多禰寺村多補寺。そして、
 「日光春者(は)昔七堂伽藍而(として)如来の霊験益(ますます)新(あらた)也」と記します。
 こうして、この地に建てられ七堂伽藍を誇った薬師の霊場も、そののち、国内が乱れるにつれ戦火にまみれ、すたれてしまいました。
 時は流れ、正徳五年の秋のある日、福来村の人、安久平左衛門(現尾崎家の先祖)が、山中から薬師の尊像をみつけ出し、二間四面の草堂をたてて祀ったといいます。

大泉寺の寺基は遠く七、八世紀

 七仏薬師の信仰が、奈良時代の鎮護国家の祈願に始まるものとされることから、大泉寺の寺基は、遠く七・八世紀にまでさかのぽることになります。
 かつて、大泉寺の信仰域であったとされる清道、天台、福来、倉谷は、そのどこをとっても古代につながる伝承をもち、それぞれに六・七世紀にかけての古墳をもつ地域でもあります。また、小字地名に、古代の条里制にかかわる「坪(つぽ)」のつく地名が多いことなどから、古く開かれた土地であったとみられます。
 このことから、古代寺院の存在の可能性はあり、「ダン」の地に、薬師信仰の寺があったとしても不思議ではありません。
 大泉寺の開創伝説にかかわる地、日光寺のあった南の山、また通称「元薬師」の地、現在の薬師堂、大光寺のあった北の山などを歩いてみました。

今も残る「せいさつ」は制札場の跡

 福来にのこる明治六年・七年など、いくつかの地租改正時の古地図によると、福来村は、十字に交わる道路にそって、集落がひろがっていたことがわかります。
 東西にはしる「御海道(おかいどう)」は、田辺城下から白鳥峠をこえて若狭にむかう「大道(だいどう)」でこれをよぎり、南北に村道通称「なわて」が通っていました。
 この二つの道が交わる場所は、古地図の上に「御制札場」と書かれています。現在も、なわて道といわれる畑地の中の農道と、旧街道といわれる村なか道の交わる場所は、「せいさつ」とよばれています。この地が地図にのこる御制札場で、キリシタン禁令などの制札が高だかと掲げられた、村の広場であったと思われます。村の常夜燈としての大灯籠と地蔵堂がのこり、いまも、この地区の共同作業などの集合場所として生きています。

せいさつは村の中心として絶好

 地蔵堂の中には、本尊地蔵菩薩の石仏のほかに、坂碑(いたび)型の如来石仏が六体と、五輪塔の一部が祀られ、地蔵以外は中世にまでさかのぼる古いものです。
 灯籠も、無銘ですが自然石を積み上げた古いもので、笠石の下部には、亀の甲に似た六角の彫りこみがあり、吉祥を重んじた江戸中期のものと思われます。
 この「せいさつ」に立つと、ま北に五老ケ岳、ま西に建部(たてべ)山、東は白鳥峠、南には、日光寺があったという「ダン」の山を見とおすことができ、かつて、福来村の中心として絶好の場所であったことがわかります。
 ここから「なわて」の道を南へすすむと、右手に小高く木の茂る一角が地図にえがかれています。これが「元薬師」の地で、現在は日石ガソリンスタンドの南隣の畑地で、地籍は「墓地」となっています。礎石らしいものと、墓石の一部とみられるものが、数多く散乱しています。
 さらにこの道を南へ、卸売団地の横から、氏神宮谷神社の前をすぎると、山道になります。「福来の不動さん」のある滝ケ谷を左にみてさらに登ると、古地図にかかれる「桐畑(きりはた)」らしい石積みがつづいています。
「水呑場(みずのみば)」で谷川とわかれ、竹薮の道を登ると「石仏が肩」の峠に出ます。
 峠から山の稜線にそって右へ「今田道」、左へ「行永道」があり、江戸時代にはさかんに利用されたらしく、この道の利用権について争った文書が、宮谷神社にのこされています。

伝説もつ薬師如来は八幡神社に

 この奥谷の竹薮の左に、「寺がサコ」の地名がみられ、これが現在西町にある浄土寺の故地である、と伝承されています。さらに、この浄土寺は、もと大浦半島の多禰寺下の赤野にあったといわれ、赤野では、この浄土寺が、大和絵の祖、巨勢金岡(こせのかなおか)の館であったと言い伝えています。
 多禰寺が、薬師如来を本尊とする真言宗東寺派の古刹であることから、幻の七仏楽しの寺「日光寺」との関係がうかがえます。
 日光寺があったとされる「ダン」の地は、この「寺がサコ」より西方の、大泉寺寄りの中腹といわれ、今も、「鐘つき堂」の地名がのこっています。
 「せいさつ」から北へ、なわての道は、天清川にかかる「いもじ橋」を渡り、上安に通じています。いもじ橋手前左に、福来八幡神社があり、伝説の薬師如来は、現在この境内の薬師堂に祀られています。
 今では神社西側に府道が通り、福来と上安を結ぶ主要道路になっています。この道は福来では通称「戦争道路」とよばれ、昭和十七年に設置された倉谷の海軍工廠第二造兵部のための軍需輸送道路として、急きょつくられたものです。

大光寺跡は一時軍の病院に

 この道を天清川の北へ、民家の間をぬって天王山へ入ると、地番に「大光寺」とある台地に出ます。ここは、明治十二年の「福来村山林野 原由慣行取調書」には、「百四十二番字大光寺 野山反別弐畝弐拾四歩 柴生」と記される土地です。古老尾崎仁平氏によると、明治三十六年のころ、日露戦争にそなえ、戦傷病者のための、三棟からなる軍の病院がここに建てられ、その後、余内村の避病院として伝染病にそなえたが不要となり、大正初年にはとりはらわれて、もとの山林にもどったのだそうです。
 大光寺跡はいま、春の野草におおわれています。薬師信仰の旧地にふさわしく、ゲンノショーコやドクタミが生い茂り、そのかげに、日露の戦いに傷ついた兵士たちのために植えられたのかもしれない「連銭草(れんせんそつ・強壮薬)」の小さな花が、紫色をのぞかせていました。  〉 

東山寺も臨済宗妙心寺派で元和九年(一六二三)の開創、本尊釈迦伽棟、「寺領四・五石余があった(同書)
東山寺(舞鶴市倉谷)
『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 済禅宗。西京木辻正法山妙心寺末。妙心寺開山 開山国師。…禅堂。二間四方、今観音堂ト唱。…人王百八代後水尾院御宇元和九癸亥年開基梅天和尚。本尊、釈迦。…大竜山之額堂前ニ有。佐々木万次郎筆 開山梅天和尚 元来雲州松江の円成寺春竜和尚の法嗣也。当所京極家之臣横田某旧蔵之由依之大泉寺江来れる京極修理太夫高三侯聞召而止め給ふ。梅天曰一寺開基あらハ仰に従ひ可申由任望大泉寺隣山接木畑を給る。則創建す号大竜山東山寺。于時寛永三丙寅年梅天遷化ハ承応四乙未年三月十三日。京極伊勢守高盛侯代但州豊岡江所替其時檀叢和尚引越ニ付無住。其頃阿州徳島の慈光寺の旭峯和尚故有て退院丹波山家領大唐地村江来徳雲寺を建て暫時住居之処幸檀叢と法縁故東山寺江招請中興紫衣也。右記禅堂の観音堂ハ徳樹院様御庭の観音堂を此所へ被移也。古来ヨリ当寺に有之観音堂ハ其節大泉寺へ被移なり。観音祭 七月十七日 是を東山寺祭といふ御家中御門留なり。右東山寺徳樹院様御存生之節依御遺命当寺の東の山中段を引均と尊骸を奉納。御廟所出来御菩提所と成。諸事以前ニ替寺格も見樹寺之次ニ列す。  〉 

『加佐郡誌』
 〈 天龍山東山寺。禅宗の臨済派に属して寛永年間に梅天和尚が開山せられたものである。此の梅天といふのは、出雲松江円成寺の春龍和尚の法嗣であって、百十歳の高齢を以て遷化した僧であった。それから当山には牧野三代の主である徳樹院の墓がある。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【大龍山東山寺】(臨済宗)  〉 

『舞鶴』
 〈 天龍山東山寺
 余内村字倉谷にある禅宗の寺院で寛永年間梅天和尚の開山にかゝるところである、梅天和尚は出雲の松江圓成寺の春龍和尚の法嗣で百十歳の高齢を以て僊化した有名な大徳である、本山に牧野家三代目の主徳樹院殿の墓がある。  〉 

『舞I市民新聞』(89.)
 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈112〉*大泉寺・東山寺「東山寺開創由緒」*東山寺*大泉寺と信仰を一にする兄弟寺*中世城主たちと深いかかわり*
 大泉寺に関係ふかい牧野英成公の墓所は、寺の裏山、西側にあって、東山寺境内地につくられています。
 「大竜山東山寺」は、大泉寺と寺域を接し、同じ禅宗臨済、妙心寺派に属しています。
 大泉寺と東山寺は、時の藩主の菩提所としての寺格や、梅珪和尚のように住職のかかわりもあって、二寺に分かれながら、信仰を一つにする兄弟寺の関係にあります。
 丹後旧語集によると
 「もとは京極家の臣の横田某がもっていた土地で、出雲国松江の円成寺より梅天和尚が大泉寺へやってきた。藩主の京極高三侯はそれを聞き、強く止め給うた。梅天は京極侯に、一寺を建てることを請うた。望み通り大泉寺隣山と畑を給わった。こうして大竜山東山寺は寛永三丙寅年(一六二六)に開かれた」。
 寺に伝わる明治初年の寺籍調査表には、古い開創伝承が興味ぶかく記されています。
 「後村上天皇のころ、貞和元甲酉年(一二四五)に、佐武ケ嶽(さぶがだけ)城主であった島津下野守(しもつけのかみ)は、城の鬼門を鎮めるために、この地に寺を開いた。
 のち、宝徳年間(一四四九〜五二)には、坂根修理亮が佐武ケ嶽城に入り、このとき、寺の堂宇を改修、完備した。その後、星移り世変じて、茅院(ぽういん・あばらや)がのこるだけとなった。慶長五年(一六〇〇)、京極高知公が入国し、その十一月、ここに雲州松江府園成精舎より僧を招いた。ついで、その子高三公、総泰院殿が椿ケ谷の地千八百坪及寺領七十五石を寄進し寺を整えた。元和九年(一六二三)五月、本河小左衛門尉安利に命じて、方丈・庫院及び山門等を創建した」。
 この文末に、「棟記抜粋(ばっすい)」とあり、寺にのこされた記載をまとめたものらしく、史実に近い伝承を記していると思われます。
 これらの記録から、東山寺は、大泉寺とともに、南北朝のころから、中世の戦雲の中で、佐武ケ嶽城とのかかわりでつくられたものとみられます。
 言い伝えでは、城主の館(やかた)であったとされ、炎上、再建をくり返しながらも、その様式は継承され、いまも本堂には、禅寺方丈のつづきに「城主の間」があります。
 中世城主たちのかかわったこの寺は、館のおもむきを時とともに変え、京極氏の時代には、菩提所となって復興し、牧野氏時代には、三代英成公の遺体を葬り、りっぱな墓所が設けられました。
 舞鶴市教育委員会の遺跡分布調査で、佐武ケ獄の山頂には、大規模な山城の遺構がのごり、北側をくだった「ダン」の地には、五十b以上の幅をもつ人工の平担地があることが確認されています。
 また、山ろくには、小さい出城が展開されていて、余内小学校南側の、くずれかけた小さい丘は、その出城のひとつとして、重要な遺構であることもわかっています。
 中世から近世はじめにかけて動いた国人(こくじん)といわれる在地の武力集団の意向と、新しい領主たちの配慮が、大泉寺、東山寺と、隣りあう二つの寺を生み出したともいえましょう。…  〉 



小字カジヤ前の臨済宗妙心寺派曹渓山大泉寺、裏山丘陵端に大泉寺裏山古墳、丘陵頂に丸山古墳。
椿ケ谷に臨済宗妙心寺派天竜山東山寺、その墓地にも古墳が現存。
余内小学校


《交通》
府道小倉西舞鶴線(白鳥街道・若狭街道)

《産業》



倉谷の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 倉谷村
大龍山東山寺禅京妙心寺末寺、開基、梅天和尚、元和九癸亥年より元禄十丁丑年まで七十四ケ年になる、本尊釈迦如来。
同村曹渓山大泉寺禅本寺京妙心寺琢堂和尚慶長十丁丑年まで八十四年、本尊釈迦如来。朝禰大明神氏神なり。曹渓山天神宮、大泉寺持分。佐武ケ嶽三上飛鳥之助後三上相応居城、村中山城、飯田馬之丞住めり。
  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ七分
倉谷村 高六百二拾七石弐合

    内九拾二石五升九合 万定引
    百五拾石御用捨高
   定免七ツ三分三厘
    高三拾石九斗 同村町分
    内三石一斗弐升七合 万定引
当村往古南の山際に有り百弐拾年斗以前北の村江
移る 享保十二丁未年二月に大庄屋武左衛門依願昔
の場所江引移す 百性拾壱人引越残ハ場所無之未移
らず
 朝寝大明神 氏神祭 六月六日ヨリ七日 湯立斗 前々ハ
           八月廿五日    神楽  前夜
 当社ハ元来古天神の下田の中に有り 其後近所元
宮と云所江移又其後東山寺の西森の内江移 是ヨリ百
弐十年余に成 武左衛門依願今の山上に移し山を社
地とス 拝殿造営同十九甲寅年二月十三日新宮江奉
遷座当日神楽奉幣因茲社参群集す社参之人に饌酒饗
終日宴す 元の宮跡を神領とす八畝斗之地斗代一石
一斗ニ而百性に預ケ毎年神納始終武左衛門成功なり
亀井氏なり
尾崎とも名乗
  天神宮 大泉寺持
 五百年斗以前鎮座之由伝来る開基不知 正徳五乙

未年徳樹院様御再興山を引均し社前広拝殿鳥居額絵
馬被為掛九月廿五日祭日とし角力有近国ヨリ集る
大泉寺ヨリ角力取雇ひ当日赤飯饗す社領壱石弐斗御寄

  天王宮 祇園牛頭天王ナリ 大内町山伏泉光院持 六月六日 夜祭 神楽
   天神山の上東方にあり 上安村 福来村 倉
   谷村 天台村の宮

           
  済禅宗      西京木辻正法山
  東山寺 大竜山  妙心寺末  妙心寺開山
     関山国師   
   当寺境内千八百坪其外山林有り 寺領四石五
   斗五升六台 末寺二ヶ寺有り 人王百八代後
   水尾院御宇元和九癸亥年開基梅天和尚
   本尊 釈迦
   客殿
   方丈 七間半ニ五間
   庫裏 九間ニ四間
   禅堂 二間四方
    今観音堂卜唱
   鐘棲
   門 二間ニ一間

  大竜山之額堂前ニ有 佐々木万次郎筆 開山梅天
和尚也 元来雲州松江の円成寺春竜和尚の法嗣也
当所京極家之臣横田某旧蔵之由依之大泉寺江来れり
京極修理太夫高三侯聞召強而止め給ふ 梅天曰一寺
開基あらハ仰に従ひ可申由任望大泉寺隣山接木畑を
給る 則創建す号大竜山東山寺 于時寛永三丙寅年
梅天遷化ハ承応四乙未年三月十三日
 京極伊勢守高盛侯代但川豊岡江所替其時檀叢和尚
引越ニ付無住 其頃阿州徳島の慈光寺の旭峯和尚故
有て退院丹波山家領大唐内村江来徳雲寺を建て暫時
住居之処幸檀叢と法縁故東山寺江招請中興紫衣也
 右記禅堂の観音堂ハ
 徳樹院様御庭の観音堂を此所へ被移也 古来ヨリ当
寺に有之観音堂ハ其節大泉寺へ被移なり
 観音祭 七月十七日 是を東山寺祭といふ 御家中御門留なり
 右東山寺徳樹院様御存生之節依御遺命当寺の東の
山中段を引均し尊骸を奉納 御廟所出来御菩提所と
成 諸事以前ニ替寺格も見樹寺之次ニ列す
  済禅宗
            西京木辻正法山
  大泉寺 曹溪山    妙心寺末
   当寺境内千七百坪其外山林有り 寺領四石六
斗五升四合境内共
人王百八代後水尾院御宇慶長十九甲寅歳
開基 琢堂和尚
本尊 釈迦
脇立 文珠菩薩
客殿
方丈 七間ニ四間半
庫裏 八間ニ四間
観音堂 二間四方
鐘楼  八間四方
弁財天社 三尺四方
門   二間ニ一間
開基琢堂和尚慶長二丁酉年細川越中守忠興侯
御時肥後国ヨリ来建立之由 山上ニ古城跡有三
上相応当所ニ居 本城ハ佐武ヶ獄  〉 


《丹哥府志》
 〈 ◎倉谷村
【喜藤大明神】(祭六月七日)
【大龍山東山寺】(臨済宗)
【曹渓山大泉寺】(臨済宗)
 【付録】(観音堂、天満宮)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 倉谷はもと南の山際に発達したものであるが後陽成天皇の慶長十一二年の頃北方の平野中に引移った。(京極氏の時代)中御門天皇の享保十二年二月(牧野英成の時代)大庄屋武左衛門の願に依って昔の場所へ帰り移ることとなったが十一人引き移ったのみで他の者は場所がなかったから見合せたといふことである。其後戸数次第に増加して舞鶴町字大内の内となっていたが明治九年に今の様に分離したのである。  〉 

《まいづる田辺 道しるべ》
 〈 倉谷
 倉谷の地名について、岡野允氏が次の様に述べておられる。
 「佐武ケ岳を馬首として倉谷山背を鞍部と見たて、鞍の下の谷で『クラタニ』となった」倉谷は元もと南の山麓に発達した村と伝えられており、
旧語集に、
 「当村往古南の山際に有百弐拾年斗以前(慶長十一年頃、一六○六)北の村江移る。享保十二年(一七二七)丁未年二月に大庄屋武左衛門依レ願、昔の場所江引移す。百姓拾壱人引越残ハ場所無し之未移らず」と書かれており、慶長十一年(初代京極高知侯の頃)頃まで住んでいた倉谷南側山麓、即ち、俗称荒神鼻と呼ばれていた辺りに住んでいたが、北の平野部小字浦、煙硝倉(舞鶴保健所裏辺り)が有った辺りへ移住したとある。その後、享保十二年(三代牧野英成の時)に亀井武左衛門が藩に願い出て、元の荒神鼻辺りへ帰りたいと申し出て十一人だけが移り、残りの者は小字浦辺りに残ったと伝えられている。
 口碑によると亀井武左衛門の先祖は、源義経が兄頼朝とことを構え、身の危険を感じて弁慶以下数人を従え山伏姿に身をやつし、金売吉次のお供をして奥州落ちする時、義経の四天王の一人と謳われた亀井武左衛門は倉谷の地に落ちのび、山内右衛門の家に匿われ、ここに住みついたと伝えられている。
 武左衛門は江戸時代池内組、祖母谷組の大庄屋を勤めた家柄であり、今も広大な屋敷と屋敷を囲む石垣が残っており、往時の殷盛を偲ばせている。今も同屋敷には子孫の方が住んでおられる。
 この屋敷の石垣にまつわる話に、当時、地元の百姓達が青谷より手頃の石を運んで来て積んだ石垣といわれ、運び賃としてなにがしの小遣銭を貰ったという。
 さて、若狭街道であるが、二ツ橋を渡ると伊佐津川沿いに土手道あり、上流へのぼる道は「水清(みずし)道」といい、下流の土手道は「安久道」と呼ばれていた。
 若狭街道は二ツ橋を渡ると真っすぐ東へのびている。二ツ橋を渡った辺りは大内新町と呼ばれ、道の両側には紺屋、鍛冶屋、居酒屋等々の商家が並んでいた。橋の袂北側には泉光院(尼寺或いは山伏寺ともいう)あり、寺の前辺りの若狭街道を別名「泉光院縄手」(ニツ橋より約三百メートルの間)とも呼ばれていた。
 この泉光院は、元治元年(一八六四)に出火焼失しており、この時消火に雲龍水(手押しポンプ)が使用された記録が竹屋町史に残っている。
 これより若狭街道は大内新町の稲荷神社、煙硝倉前を通り俗称「丁ジ(下ジ)」小字二十人町の町屋に入る。この町名の由来は、ここに二十人の人が住んでいた所からこの名が付けられたとか。
 この「丁ジ」には、下駄屋、桶屋、酒屋、豆腐屋、煙草屋、瓦屋、鍋屋などの商家が街道筋に並んでいたという。
 二十人町には江戸時代面白い怪談話が伝えられている。「愛宕山上にあがった火の玉が東の方向に飛び、やがて倉谷二十人町に落下したことから『この地に吉祥ことがあるであろう』と、田辺城主より倉谷大庄屋へ伝えられた」とか。
 「下ジ」を通り抜けると現在の福田氏元たばこ店前の旧道に入る。この辺りで道巾は約二間(三・六メートル)ばかりであったという。
 福田氏宅より約五、六十メートル東へ行くと右へ曲がる小道あり、その角に当市では非常に珍しい瓦造りの常夜燈が立っている。この常夜燈には、
  天保壬三年辰(一八三二)六月吉日
    秋葉山
    寄進 瓦屋大月佐右衛門
          峯穹
と火袋にへら書きで記されている。寄進者大月佐右衛門は藩の御用瓦師で倉谷の人である。当時、倉谷周辺には瓦屋が多くあったらしく、中でも佐右衛門、伊右衛門、吉田忠右衛門(大内新町)など名のとおった瓦師が居て、当地を始め藩外の寺院などに彼等が焼いた鬼瓦が今も残っている。
 地元の伝承によると、この常夜燈は村中で毎日順送りに常夜燈なる木札を廻して毎夜種油と燈芯をもって献燈し、火伏の神に対して村中安全を祈ったと伝えられる。
 この常夜燈より更に二、三十メートル東へ行くと天神道と交叉する。
 享保十二年の丹後国田辺図を見ると、ハリノ木縄手より現伊佐津川に架かるJR橋りょう辺りに有った橋を渡り、天清川の右岸沿いの道を遡上、天神社(北野社)の前に至り、これより天神道を下ると先述の若狭街道と合流する。この道筋が古い若狭街道であった様に記されている。
 この天神道筋に俗称「ジゲジ」(小字村の内北辺り)と呼ばれている所あり、此所には、うどん屋、そうめん屋、こんにゃく屋、提灯屋、左官屋、大工、京飛脚などの商人が住む町屋があった。
 天神道と若狭街道が交叉する辻より更に東へ行くと、福来村との境を流れるサンデ川の手前小字石戸に至る。この石戸より右へ分かれる道あり、この道を水清街道と呼び、大泉寺、東山寺の門前を通り、山裾づたいに荒神鼻、観音坂を越えて境谷の水清観音(仁寿寺)に至る。更に、これより伊佐津川上手道に出てニツ橋迄下る。この道筋を水清街道と呼んでいた様である。
 この「石戸」は不侵の霊地といわれ、人々から怖れられていた場所であった。ここには、行き倒れの人の墓標などが祀られていたと地元の古老が話してくれた。
 この不浸の地といわれる「石戸」の名称に以前からなぜか引かれる思いがしていた処、平成二年六月、この「石戸」に於いて発掘調査が行われ、飛鳥時代から奈良時代の堅穴式住居二棟、堀立柱建物跡六棟が複合して発見された。同地の地形、位置等から大内郷時代の中心的集落が在った所でなかろうかと考察されており、又、近傍に「大道」なる地名があり、当初はここに若狭へ通じる大道が存在していたのでなかろうかと思われていた。
 しかし、福来に「大道」と称する刀工鍛冶集団が居たらしいことが「宮津府志拾遺」の中に見える。
 「大道安輝 其先勢州関(三重県津市)住人、細川時代(一五八○〜一六○○)田辺地下に来住す。関にては、大道(ダイドウ)という、丹後にては大道(ヲヲミチ)と称す。
 後年京極侯に従い宮津に来住す。高国侯(京極)の時、江戸に出て安定といへる名鍛冶の弟子となり安輝と名乗る。子孫干今有り代々安輝と名く」とあり、「田辺地下」とは、当地の「福来小字大道」で
なかろうかと思われる。
 大道の周辺に当たる倉谷の大泉寺、東山寺辺りに「小字カジヤマエ」の地名が伝えられており、ここに、大道刀工鍛冶集団が細川侯の招きにより、来住していたものと思われる。
 その後、細川侯が九州へ転赴された際、大道集団の一部が肥後へ移ったとみえる。「肥後御入国宿割」によると、豊前より肥後へ移る際の刀匠として「拾石刀鍛冶大道左兵衛」「五人仝才次郎」の名が見え、この方達は田辺より肥後へ移った人達であろうと思われている。
 一方、田辺に残った「刀工大道」は、京極家に従い宮津へ移住している。
 これ等の状況により、福来の「だいどう」は「ををみち」ではなく、大道鍛冶集団が居住していたため、今に、「だいどう」の地名で呼ばれて来たものと推察される。 (余内小史千坂哲雄氏、大道刀工高田守氏の資料を参考にさせていただく)  〉 

倉谷の小字


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


《まいづる田辺 道しるべ》より
明治五年当時の倉谷





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