丹後の地名

三日市(みっかいち)
舞鶴市三日市


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京都府舞鶴市三日市

京都府加佐郡加佐町三日市



三日市の地誌

《三日市の概要》


三日市は舞鶴市の西部。由良川下流右岸に位置する。東部の山すそを府道舞鶴福知山線が南北に走る。沿道の東側に集落がある
人家の集まる谷に二瀬(ふたせ)川(運河)が流れ、由良川に合流、この二つの川の舟運により交易物資が運ばれた。三斎市が開かれ、三日・一三日・二三日の市日をもっていたと伝えるが、今はその痕跡をとどめない。
三日市村は、江戸期〜明治22年の村名。同22年東雲村の大字となる。昭和3年八雲村、同30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字。


《人口》144《世帯数》48。

《主な社寺など》
曹洞宗桂林寺末因福山法心寺は天和二年(1682)の丹後国寺社帳にその名がみえ、三日市村と大川村の檀那寺であった(旧語集)
縄文中期の三日市遺跡がある。
熊野神社
愛宕神社
秋葉神社

《交通》

《産業》


三日市の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
三日市村
因福寺法心寺禅宗、熊野権現愛宕山これあり。

《丹後国加佐郡旧語集》
定免七ツ六分
三日市村 高三百三拾四石四斗
     内九石五斗六升六合四勺 万定引
     三拾五石御用捨高
 法心寺 因福山 桂林寺末 三日市大川ノ寺
 熊野権現 氏神
  未社 八幡宮 稲荷
 愛宕
 毘沙門

《丹哥府志》
◎三日市村(久田美村の次)
【熊野権現】
【因福山法心寺】(曹洞宗)
 【付録】(愛宕社、毘沙門堂)

《加佐郡誌》
東雲村。往時凡海郷由良庄に属したもので、今の名は大雲川(由良川の一名)の東岸の意から出たものである。三日市、上東、下東、中山、水間の五ケ字から成っている。参考。中山の名は古くから著はれている。足利氏の晩年に一色氏の臣沼田幸兵衛が此処に居城を築いて居たが、天正六年四月に一色義通が之に依って細川氏に攻められた。

《舞鶴の民話1》河守源助の慰霊碑(法心寺境内)
河守源助さん  (三日市)

 むかしは由良川にそって殿様の竹やぶが、三百メートルほどありました。
その竹やぶか日光をさえぎり、そのために田に日影になって、米がとれませんでした、その年の年貢は高く、村の人達は困っていました。
 そこで我まんしきれず、河守源助さんとほか、四、五人の人か代表に殿様に上訴することになりました。その頃の殿様は牧野さんといいました。
 庄屋を通して、代官所にいき、源助は、 「村人の願いです、どうか年貢をへらして下さい。今年は米がとれませんでした。」源助さん以外の代表の人びとに、「ほんとうにその通りか。」と役人はたぜねました。村の代表は役人の手が刀にかかって、すごいけんまくに、「はい」というはずの返事をしませんでした。すると役人は、「源助一人で言っているのだな。」ときめつけて、「源助覚悟はいいか。」源助は村の代表の方をみた。その人たちはただ下をむいているだけです。源助はうらめしそうに再び代表の方を見た。
「どうぞ私がいいだしたことです。」と役人の方をみた。とたんに役人は大刀をふりあげ源助の首を打ちおとした。時に天保二年十一月十八日のことでした。源助さんの首は、くいの上にのせられ数日間さらされたが、由良川の増水でくいと共に流れていってしまった。村人がそのあたりを通ると、川面に源助さんのうらめしそうな顔がみえるといいます。
 その年は本当に凶作で米や野菜もとれなかった。村人は源助さんのたたりのせいだと、うわさするようになった。
源助さんの霊をなぐさめるために、あたごさんのふもとに源助さんをまつりました。
 その後藩からの年貢米も少しへらしてもらえました。これも源助さんのおかげと、最近になってお寺内に慰魂の石碑も建てられました。
源助さんをまつった時の祭文も、庄屋さんだった家に残っています。殿さまの竹やぶは、耕地整理で今はなくなっている。

『八雲のれきし』
河守源助一揆
 田辺藩牧野節成(八代)の治世当時(天保年間)藩財政は極度に逼迫し、苛酷な年貢の取立てによって、米騒動、強訴が随所に行われるに至った。この時三日市住民である源助という人は決然として奔騰し、部落を代表して年貢米の減額を強訴したのである。
 しかしその目的は不幸にして達せられず、千古の恨を呑んで悲壮極りない最期を遂げた。この時天保二年(一八三一)十一月十八日と伝えられている。(法心寺過去帳に記載)
 部落区民はこの美挙を讃え、その霊を供養するため、愛宕山々頂に秘かに碑を建て(外部に知られないところを選んだと思われる)慰霊の誠を献げていたが、山頂のため区民は不便を感じていたところ、河守浩翁の寄進により、昭和四十四年法心寺境内に移築された。源助の生命はとことわに生きて、この里の繁栄を見守ってくれているにちがいない。源助のさらし首の跡として三日市の川辺りには近年まで柱が建っていたという。…

『由良川子ども風土記』
河守源助さんの碑
舞鶴市・八雲小六年奥野和久
ぼくたち、三日市のお寺の境内に河守源助さんの慰魂の石碑が建っています。源助さんは、江戸時代の徳川十二代将軍家斉のころ三日市に生まれ、性格は熱血感があり、ものごとの正しいすじ道を通される人だったということです。そのころの大名は、田辺藩で、第八代牧野節成の時代で、年貢米のとりたてが非常にきびしくて、お百姓の生活は大変苦しく困っていました。
三日市には、川にそって近江籔(殿籔)という殿様の竹やぶが三百メートルほどありました。その竹やぶのために田が日かげになって、米がとれない上、年貢が高く、村の人たちはたいそう困っていました。
この様子にがまんしきれず、源助さんたちが代表となって殿様に申し出ることになりました。源助さんは、「村人の願いです。どうか年貢を減らしてください」とたのみましたが、村のほかの人はおそろしくなってだまっていました。役人は「源助がただ一人で言っているのだ」ときめつけて波止場につれていかれ打ち首の刑にされました。
時に、天保三年十一月七日のことでした。その年は、米のできが悪くて村の人たちは源助さんのたたりのせいだと思い、愛宕山のふもとに源助さんをお祭りしました。その後お殿に慰魂の碑を建てて毎年、八月二十三日に供養がおこなわれます。また、殿籔は、耕地整理によって村のものとなりました。







三日市の小字

《舞鶴市史》より
三日市 雲清 榎割 九畝割 薮際 上野 麻町 上雲 朝 後明 中坪 堀町 後道 大針 前田 竹下 番戸地 深田 長者谷 池下 林ケ花 大原 戸之尾 浦山 因福谷 奥谷 由里下


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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