丹後の地名

登尾(のぼりお)
舞鶴市登尾


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京都府舞鶴市登尾

京都府加佐郡朝来村登尾



 

登尾の地誌

《登尾の概要》


登尾は舞鶴市の東北。朝来谷の奥、東北部。
塩汲峠を越えると高浜町へ。杉山を経て松尾寺へ繋がる。
明治になって、一時学校、連合戸長役場やこの地方で珍しい製材工場も設立され、朝来谷の中心をなしていた。

《人口》119《世帯数》32


《主な社寺》
八幡神社が鎮座、正平8年銘の御正体鏡がある。
境内に稲荷神社・秋葉神社。

《交通》
村内を高浜・舞鶴線が通る。


《産業》
農業


登尾の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 登尾村
御経所宮 氏神と仰奉る。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免 六ツ
登屋村 高弐百六拾三石八斗壱升
    内拾弐石三斗七升八合 万定引
    五拾石御用捨高
 経所大明神 氏神 祭九月十五日
  只今ハ八幡宮ト唱由  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎登尾村(笹部村の次)
【経所大明神】  〉 

《朝来村史》
 〈 登尾
 此の大字は昔石浦谷の川境東に部落し当時八軒の戸数にて倉谷村と称へたと謂う。今の字朝来中の東端人家より二、三町を離れ田圃を横切って大師山の方に向ふ小径あり其頃倉谷村は其道までの地域を奥より所有耕作したるものであると。而して其時分現在の倉内宇平家の屋敷下まで榛木林にして夫れより奥一帯は深き深き森林なりしと謂う。然るに其頃猪鹿の害甚しきに堪へす為に谷の口の倉谷村より漸次密林を伐払ひ、開拓し其内追々に移住して登尾村と称するに至ったとの事である。其頃の俚謡に「深い谷ぢやが登尾の奥は、居らぬ間もなし杣の衆」と謂うがあり此謡は後世吉野村との山論に於て非常に有利なる口證となり大に役立ったと。
 倉谷村より登尾へ移住の当時八軒の家数の内二軒行方分からすと書き傳へてあるが、思ふに此の行方の知れぬ二軒と謂うのが笹部へ移り住みたるものであらうと古老の言である。尚登尾に於ける舊家は 長九郎 久左術門 與右衛門 徳兵衛 五郎右衛門 勘兵衛 嘉兵衛 喜右衛門 仁右衛門此九軒の内誰と誰とが倉谷村時代の六軒であったかゞ分明でない。
 古川清右衛門家は大山から移住したものとの事である。
 岸田仁右衛門家屋敷の前方山上に射的場らしきものがある。殿さんだいらと称し、山を切分け人工を施しあるが何の時何の用に役立てたか明かでない。
 登尾は舊高二百六十三石八斗一升で五ツもの成詰である。杉山の九ツものに比較し負担は軽かった上に、土地豊沃、水利潤沢、畑地は尠いけれども疾くに野山を私有とし各家所有面横多く住民甚だ恵まれて来た。往年火災頻發又精神病者發生せしことがあったけれども近年全く其れ等の故障あとを断ち安楽の郷土となった。
 此字は往年村聯合戸長役場設置され学校あり医者あり、又松尾寺及若狭方面への通路とし一時朝来村の各部面の中心を爲して非常に殷賑であった。尚明治二十四、五年頃林次郎兵衛氏経営の地方唯一の製糸工場もあった。
 登尾の舊時代の戸数は火災焼失による大高帳等なき爲分明でない。今五十餘年前明治二十年頃の日向傳蔵氏所蔵名寄帳人名を記せば
参考 −略−  〉 


登尾の小字


登尾 堀境 無名谷 石浦谷 三ケ森 フケ 細谷 松尾 中ケ谷 坂ケ谷 森見京 池ケ首 桂ケ谷 青蓮田 白畑 三野 登谷 森ケ迫 村中 元山 ハリノ木田 柿ノ木谷 桜ケ谷 上野 大田 番匠谷 ウハソ 桃ノ木谷 細迫 大石谷 森浦 京田 鎌倉谷 畦高 樋ノ口 ヒエ田 百町 鳥越 四反田 平野 ムサ谷 大上口 牛野 岸田 込谷 大水谷 鈴ガダラ 六呂 鳥口 後ケ谷 堂屋敷 兵呂谷 梅ケ谷 鎌倉 大舟谷

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