丹後の地名

鬼ケ城鉱山
(おにがじょうこうざん)
福知山市大江町南山


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京都府福知山市大江町南山

京都府加佐郡大江町南山

京都府加佐郡河東村南山

鬼ケ城鉱山の概要




《鬼ケ城鉱山の概要》
鬼ケ城(室尾谷山観音寺より)

福知山鉱山・南山鉱山・室尾山鉱山とも呼ばれる、恐らく奈良時代以前より知られた鉱山であったと思われる。『続日本紀』の伝える天田郡の「華浪山」がどこかわからないため、あるいはこの山も含まれたかも知れない。
鬼ケ城山は大江町南山の南方、標高は約545mで丹波・丹後境の要害の地であった。

『丹哥府志』は「茨木童子といふもの爰に住居す、蓋大江酒顛童子の一類なりといふ」と伝える。
鬼ケ城の一帯では古くから採鉱が行われていたらしく、土目録の南山村の項に「高八石六斗九升 同村銀堀跡」とある。
明治中期には山麓に宝満寺(ほうまんじ)鉱山が開発され暫時採鉱した。硫化鉄を主とし銅・銀も含有していたが品位が悪く、第一次世界大戦後の不況と相まって大正9年に閉鎖された。
大正7年には、日本鋼管が福知山鉱山として採掘している。第1次世界大戦後の不況と相まって大正9年閉鎖された。福知山鉱山坑排水処理場

大正期には鉱毒問題が発生している。この地の特産とされる南山梨の栽培は、鉱毒問題を契機として始まったといわれる。
こんな施設↑も稼働している。魚はいるかと在田川を覗いてみたが、どうも魚影を見なかった。


鬼ケ城鉱山の主な歴史記録

《続日本紀》
 〈 天平神護2年7月26日。散位で従七位上の昆解宮成は、白鑞に似た鉱物を入手して献上した。言上した。「丹波国天田郡の華浪山より出土したものであります。その品質は唐の錫に劣りませんでした」と。そこで〔その証拠に〕真の白鑞で鋳造した鏡を呈上した。その後、〔宮成に〕外従五位下を授け、また労役をおこしてこれを採掘させたところ、延べ数百人の〔労役〕で十斤余りを得た。ある人は、「これは鉛に似ているが鉛ではない。どういう名前か知らない」といった。〔そこで〕その時、鋳工たちを召して宮成と一緒になってこれを精練させたところ、宮成はどうすることもできず、悪いたくらみをなすことができなかった。しかし、それが白鑞似ていることを根拠に、〔宮成は錫であると〕強く言いはって屈伏しなかった。宝亀八年、遣唐使の准判官の羽栗臣翼がこれをもって、楊州の鋳工に見せたところ、〔どの鋳工も〕みな、「これは鈍隠(鉛)だ。こちらでにせ金をつくる者が時々これを使っている」と言った。(東洋文庫の訳による)  〉 


《何鹿郡誌》
 〈 …大江山脈一帯より派出せる閃緑岩帯ありて、丹波額田・佐治の間より福知山の北部・鬼ヶ城を経て二條に分れ遂に日本海に達す。本脈中に属する鬼ヶ城、烏ヶ獄一帯よりは大戦当時好況時代に於て金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄等を産出し、山上より石原駅に鉱物運搬用索道を附け等せしも、経済界の不況と共に昔の面影を存せず、山の口等は旧幕時代に銀を出せし事あり。此等の鉱産物は噴出岩中及其の接触部に接触変質行はれ鉱脈を生ぜらものなる可し。
 閃緑岩帯の良く表はるゝは吉美村、西八田、東八田一帯に亙れり、…。

○噴出岩
 鬼ヶ城附近、以久田の東部より吉美全村に亙り、西八田を経て東八田に至る一帯に閃緑岩の露出を
認む。
 本脈は丹波額田。佐治の間より鬼ケ城を経て東々北走し、日本海に達するものにて、性質は部分に依り多少変化ありて。精確に之を云へば、其の内には正式の閃緑岩の外に、 石英閃緑岩、斑糲閃緑岩、輝閃緑岩、斑糲岩、橄欖斑糲岩.蛇紋岩等ありと雖も、是等は互に漸々徐々に相移動し、精密に其の境界を割する能はざるなり、而して斑糲岩の大部は変化して蛇紋岩類となる。
 此等の噴出岩は古生層、中生層を貫通せるものにて其の中には有用鉱物を含み採掘せるは鬼ヶ城を中心として四周、河東村の南山、佐賀村の山ノロ、庵我村猪崎の宮垣銅山等、金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄等を採掘せしことあれ共現今は経済界の不況と同一歩調を取り不況にて鉱石運搬用の索道も空しく手を拱いて存するのみ、山ノロの如きは旧幕時代に銀鉱を採掘せし事ありき。

 佐賀村字山野口小字若松山、大切山、石山に於て鉄鉱を発見し、(発見時代不詳〉已に貞享、元禄の頃盛に採掘せしもの、如く又「鉱山奉行所あり、地頭の代官所あり、其他山師、金掘師、商業人等諸国より入込み居住せし者幾千人、家屋も従って増加し繁栄日に盛なりき」とは従来口碑に伝ふる所なるも、何等文献の徴すぺきなし。今其の跡を探るに金屑と思しきもの積んで山をなし、坑門は到る所に崩壊し、古墳墓亦散乱して転た往古の盛時を偲ばしむるものあり。
其後一時衰退せしが、宝永年間に至りて再び探鉱を企てしも効なくして遂に明治に及べりと。
筆者は、之に関する古文書、佐賀村東田徳治氏方にありと聞き、就て借用を請ひ通覧せしに、天正十六年閏五月十一日本多中務少輔の手になれる金銀山定法式山例之事てふ鉱山法及び鉱山師の保護法の写にて、之に依て推測するに、恐らくは此鉱山にも該鉱山法と、鉱山師保護法の適用せられたらものなるべく、一時は相当殷盛を極めしもの、如し。
 東田氏方古父書の写を左に録して参考に資せん
  諸国金銀山定法式山例之事
  山例五十三ヶ條之儀は於駿州日陰澤ニ、従東照宮君家康公被仰出候御定法之儀者山師金掘師ハ野武士
  輿被仰付候諸国御関所ニ而茂見石斗御改御通被成候
  一、山師金掘師何国ニ而も見立山仕候共国主被仰出候勿論村役人山先相添其砌不限昼夜早速可申達事
       右
  一、家康公大阪御陣以来褒美艸判紙其場所ヨリ四十八町四歩山師金掘師え被下し置候事
  一・御定判有之候得とも御公儀ニ而御預り被爲成御定法ニ而可相斗者
       金 銀 山 格 合
  一、一日売高五貫文ヨリニ十貫文迄御運上差上不申候事

  一、一日二十貫文ヨリ百貫丈迄者売高拾分一御運上指上申候。残り九拾貫文迄十分一通指引残金元ノ
   徳外也



佐賀村の鉄鉱
  嘗て一時隆盛を極めし山野口鉱山は宝永以来一向振はざりしが明治九年に及び石川県士族山原冨久借区願済開坑に従事し、更に又兵庫県川辺郡肝川村西久保光藏及本郡中上林村川北勇等探鉱を企てたるもいづれも遂に其効を奏せずして終れり。然るに大正七年頃に至り日本鋼管株式会社なるもの諸谷鉱山採掘権を得て附近の田畠を高値に買収し、石原駅迄高架索道を架して極めて大規模なる経営振を見せたるも其の事業は期年ならずして中止し、高架索道のみ獨り空しく空に横はり居たりしが、今は之も取毀たれて複た手を出す者なき状態にあり。  〉 

《大江町誌》
 〈 鬼ケ城地域
 十六世紀にはいると、戦国大名による金銀鉱山の開発が各地で急激に進んだ。特に秀吉や家康は、重要鉱山を直轄領として輸出や貨幣鋳造にあてた。しかし乱掘のため、十七世紀中期には金銀の産出は急減し、かわって銅の産出が増えた。鉱物資源は、幕府や藩にとって重要な財源であったので、鉱山は直山(じきやま)、請山(うけやま)、御手山などに区分されていた。採鉱精錬の技術も急速に進歩し、大規模化して、山師と呼ばれる鉱山業者も現れ、鉱山町も成立するようになった。(「日本史辞典」)
 鬼ヶ城の中腹から山麓へかけて、昔の採鉱を物語る古い坑口やズリの堆積が数多く見られるが、その始源はいつごろであろうか。資料不足でしかと断定は下し得ないが、京極氏の丹後領国のころと推定される。
福知山鉱山跡(『大江町誌』)
 今その事例を古記録に求めると次の三つがある。
(1)元和(一六一五)のころ、藩の事業として「室尾谷にて銀を掘」った。その宰領をしたのが市原芦田家の先祖であるという。(「芦田家文書」)
(2)元禄二年(一六八九)、南山村で新しく銀鉱の開発があった。(「常津村庄屋文書」)
  元禄二年三月に岩谷(南山村)で銀の鉱脈が見つかり岩がね(銀鉱石)百貫目を掘り出した。この岩かねは山ノロ村の若松山へ運び、藩役人立会の上で精錬を行ったところ、灰吹銀約一○○匁を得た。その直後、奉行衆は岩谷に小屋がかりをした。と、いうのがその概要である。
 このとき藩からは郡奉行や代官など藩の役人多数が現地に来ていること、奉行衆は岩谷に小屋がかりをして留まっていることなどから推して、岩谷に銀の新鉱脈が発見されたことは藩にとって大事件であったと見える。
 今、南山岩谷の山中には、藩政時代の古い廃坑が数個あり、昔、銀を掘ったという伝承も残っている。
 (註)(4)山野口鉱山
     山野口の若松山・大切(おおきり)山・石山(いしやま)などで採掘されていた鉱山で主として銀を産出した。近世初期より採掘したと伝えるが起源は確かではない。『佐賀村社寺旧跡史考』には、貞享・元禄 (一六八六〜一七○○)のころが最も盛んで、鉱山奉行所や、地頭の代官役所があった。山師金掘師商人等が諸国より入込んだので居住する者幾千人を数えたことなどが記されている(「京都府の地名」)。「滝ヶ洞歴世誌」には、「元禄丁丑十年六月二十一日、富谷ニ河舟一艘を持炭積丹波山の口へ売」とあって、このことを裏づけている。
 (註)(5)灰吹銀
   室町時代ごろからわが国で行われた冶金の方法、灰吹法によって精錬された銀のひとである。
(3)『滝ヶ洞歴世誌」延享甲子元年(一七四四)の項に、四月から舞鶴の池の内銀山がはじまり、同じく室尾谷でも掘ると書かれているので、この年室尾谷で銀を掘ったことは確かである。
 前述したように、元禄二年のころ室尾谷の鉱山では精錬を行っていない。しかし、室尾谷の中央を通る主要道の道路敷にはカラミが大量に使用されている部分がある。また観音寺山門付近の畑の地下からはカラミが出土するので、ある時期には精錬が行われていたと考えられる。これらの文書が示す「室尾谷の鉱山」の位置や規模は資料が乏しいので明らかにできないが、以下に述べる三鉱山はこれと深いかかわりがあるものと想像される。

 (イ)福知山鉱山(鬼ケ城鉱山)大江町字南山室尾谷にあったこの鉱山は、時によって鬼ヶ城鉱山・福知山鉱山と名づけられたが俗に南山鉱山あるいは室尾谷鉱山ともいわれた。ヒモン谷及びミクゴ谷で磁硫鉄鉱などの採掘がなされ五個の坑口がある。これらは地下では互いに連絡しており第三坑が主坑であった。この廃坑からは早くから鉱毒水が流れ出して在田川を赤褐色に染め、鉱害がはなはだしかったので近年鉱害防止工事が行われた。
 沿革 起源は江戸時代にさかのぼる。明治の中頃に古坑第一・第二坑が再掘され宝満山鉱山と称したが長続きせずに終わった。
 大正七年、日本鋼管株式会社が福知山鉱山と名付けて操業を開始した。やがて鉱山規模の拡大が行われ、第三・第四坑が開発されたので産出鉱石量は倍増した。
 鉱山の発展につれて地域はにわかに賑いを見せた。平(だいら)には社宅や飯場が建ちならび、町内の他地域にさきがけて電燈がともり、酒店五軒が開業し、山内には駐在所が置かれた。坑内労働に従事したのは、主として四国方面からの出稼工夫や韓国人労働者であったとは古老の証言である。
 最盛期には、採鉱・選鉱・雑役人夫数十人となり、山内人口は数百人にもふくれあがったという。児童数も激増したので地域に小学校を新設する相談も進んだほどであった。
 採掘された鉱石は、すべて鉱石運搬用索道によって送り出された。索道は室尾谷の起点からサオリ峠を越え、佐賀村を経て由良川を渡り山陰本線石原駅に至っていたのである。
 この鉱山は硫化鉄を主としていたが、埋蔵量も多くなかったので、大正九年第一次世界大戦後の不況のおとずれと共に操業三年で休山となった。昭和二十六年鋼管鉱業株式会社が時流に乗って硫化鉄鉱の再採掘を計画したが、公害対策にかかわって、地元との協議が成立せず実現には至らなかった。昭和四十四年六月採掘権者の死亡によって鉱業権は放棄されたのである。
 地質・鉱床 夜久野複合岩類の南帯に属し、秩父古生層の粘板岩とこれを貫く閃緑岩、段丘砂牒層及び沖積層からなっている。鉱床は、古生層中の粘板岩を母岩とする数条の平行した鉱脈で、脈幅は一五〜二○センチメートルほどであった。東西三五○メート化 南北一五○メートルの範囲内に八か所の露頭と七つの珪化帯が認められている。
 産出鉱物 主なものは磁硫鉄鉱で黄銅鉱。鉄閃亜鉛鉱・硫砒鉄鉱・黄鉄鉱を伴ったが、場所によっては方鉛鉱を産出した。脈石としては石英・方解石を多く産した。
光ヶ谷鉱山跡(『大江町誌』)
 (ロ)光ケ谷鉱山 福知山鉱山のあったヒモン谷の東隣光ヶ谷にあり、谷の入口より約八○○メートル在田川(室尾谷川)の支流をさかのぼった山中に二個の坑道が開口している。主坑と思われる坑道は少なくとも四層以上に掘削されており手掘りである。恐らく江戸期以前の古坑であろう。坑内は崩潰が進みところどころで床がぬけているので危険であるが、坑道延長も長く、ズリも多量であることなどから、そうとう長期間にわたって採掘が行われたものと想像される。主坑のすぐ近くには、山の斜面に沿って周囲を石で築いた数基連続した炉の遺構がある。
 これほどの規模を持った鉱山であるにかかわらず、この鉱山に関する伝承は皆無に近い。産出鉱物は銅・鉄であろうか。この廃坑は昭和五十六年大江高校地学クラブが調査を行った。

六十間鉱山跡(『大江町誌』)
 (ハ)六十間鉱山(銀山) 室尾谷小字堂の奥、観音堂から鬼ヶ城登山道(旧鬼ヶ城峠)を約五○○メートル登った左手の谷間にあり、銀山(ぎんやま)あるいは六十斤(きん)鉱山ともいう。
 この廃坑も、昭和五十六年(一九八一)大江高校地学クラブが内部の探査を行った。以下はその概要である。
 坑道はただ一つである。入口は崩潰していて狭いが内部は高さ幅共に約一八○センチメートルと広い。入口付近からしばらくの間はすみきった坑内水が深くたまっている。坑道の壁面は堅牢な岩盤であるので、手掘りののみ跡も方々に残っており往時そのままの整然とした姿を保っている。
 坑道は約五○メートル進んだ付近から急に狭くなり、約七○メートルの地点で枝別れする。更に奥に進むと坑道は屈曲しますます細くなり、最奥の九九・七メートル地点では遂に幅四五センチメートル、高さ五○センチメートルとなる。細い銀鉱脈を追って最少限の労力で掘り進んだことは理解できるが、このように狭い坑内で、いったいどのようにして作業が行われたのであろうか。
ここにはキクガシラコウモリが生息している。産出鉱物は輝銀鉱である。


在田川
 鬼ヶ城に源を発し、南山西部・在田の集落を経て由良川に注ぐ、流路延長三・六キロメートル、流域面積六・一四平方キロメートルの川である。在田川には十支川と、旧福知山鉱山の排水が流入している。この鉱山排水には多量の鉄気(かなけ)(水酸化鉄)を含んでいるので、ヒモン谷の排水流入地点から下流は、沈殿した水酸化鉄が川床一面に付着して黄赤色を呈している。いわゆる鉄気川である。
 藩政時代、古坑を赤土と石灰を使って厳重にふさぎ毒水の流出を止めたので、全川魚が住むようになっていたが、明治になって宝満山鉱山が開かれて、再び鉱毒水が流れだしたのだという。(南山古老の証言)
 明治十五年の南山村記録(皇国地誌編輯例則ニ據リ一村景状調査)には、
 「日モン谷、(みつ)ヶ谷にある古銅鉱の水抜穴より湧き毒水出る。金気(かなけ)川という。毒水真紅にして紅綿の如し、(稲)植付後赤 くなる。これを「カエル」という。甚しきは株絶となる。水を落し、白く乾かし、石灰木灰にがり等を潅ぎ数日で元に 返す。九年に一度も豊熟得難し」 と、ある。
 福知山鉱山は、大正六年に操業を開始したが、同九年には操業をやめ閉山している。閉山に際して鉱毒防止対策を行わなかったので、鉱毒の流出はますますひどくなり深刻な鉱害をまねくこととなった。
 鉱毒の根源は、赤色の鉄気水ではなく、その中に含まれるカドミウムや砒素などの有害金属である。昭和四十六・四十八年度の二期にわたって、鉱毒の流出防止工事が行われ、その後下流域水田の客土もなされた。昭和四十八年以降は、府衛生公害研究所等による農作物・土壌・水質・飲料水に対する総合的な検査が続けられ、鉱害対策が講じられつつある。

《伝説の研究−金工史の視点から−》(若尾五雄)
 〈 岐阜県吉城郡神岡町、神岡鉱山
この鉱山は、最近では公害を起こすので有名になっているが、そのもとの起りは、この地に鬼ヶ城という山があり、この山を越中の方から越して来た鉱山師が、この鬼ヶ城から銀鉱が出ることを発見したのが、神岡鉱山のはじまりであると伝えている。つまり鬼ヶ城と鉱山の関係を如実に示しているものであって、最初に述べた吉備津神社の鬼ヶ城と同一の関係である.鬼ヶ城という地名は鬼城(陸中)、鬼城(因幡)、鬼城(豊前)、鬼城山(安芸)、鬼城山(伊予)、鬼箇城山(丹波)、鬼城(高天原)などが吉田東伍の『日本地名辞典』にあげられており、これらはすべて鉱石の出る所である。鬼ヶ城という地名はこのほかに諸国に沢山あり、だいたい鉱石と関連性をもっている。ただし紀州の新宮に近い鬼ヶ城のように、海水によって出来た洞穴で、鉱石と関係ないものもあるが、鬼ということは鉱山に関連があり、『和名抄』の隠(オニ)とあるように、本質的には鉱山の坑穴が隠(オニ)であることから出来たもののようである。  〉 


《舞鶴市史》
 〈 鉱業
加佐郡内の鉱山は、中世、南山村に銅銀山が存在したことが「田辺藩土目録」によってわかる。すなわち、
 定免四ツ四分
  一 高八石六斗九升     同村銀掘跡
とあり、江戸時代は畠になっている。
 江戸時代は「瀧洞歴世誌」に次のように記している。
 延享元年(一七四四)
  四月ヨリ池の内銀山はしまる 同むろ谷ニ而掘ル同せんげじ村二而ほる昔こわぎ長助と云者の掘し古まぶのよし
とあって、延享元年四月、藩内に三か所の採鉱が始められたのであるが、鉱石は池内の銀と室尾谷・泉源寺も同様と思われる。藩は同二年二月晦日、銀の採鉱との関係は不明であるが銅山札の発行を認めて、すでに発行の下さつ(銅山当分札か)とともに毎月引換日を設けて、札所にて藩札と引き換えるよう次のように触れている。
 銅山札出来仕候付下さつ共町方へ罷出候而
 取替申候ハゝ無滞受取候而 当札所ニ而毎
 月三日九日十三日十九日廿九日の月五日ツ
(「竹屋区有文書」)
当分札、銅山札は銀壱分札がいずれも白色、銀壱匁札は当分札が鼠色、銅山札は赤色の各々二種類であった。藩が同年五月三日、月行司平野屋町孫右衛門に渡した銅山当分札と銅山札の判鑑は写真213の通りである。銅山は何時休山したのか不明である。  〉 


《福知山市史》
 〈 鬼ケ城鉱山
 市の北東鬼ヶ城は金属鉱物の鉱脈を多く含む。昔から鬼ヶ城鉱山というが、周囲からたびたび採掘し、すべてが大規模とならずに終っているので、明確に一ヶ所を指定し得ない。鉱石は黄銅鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・黄鉄鉱・磁硫鉄鉱等で、閃緑岩を母岩として産出するが鉱量も少なく品位もよくない。昭和十三〜四年ごろ、同山ろくから石英脈中の金銀鉱を採掘したこともあったが永く続かなかった。この山を東へ回れば福知山市字山野口で、美麗な飛白岩(斑?岩〔石材])を産出し、またよほど古い鉱山稼行跡があり、明治の終りごろには新しい鉱山を開き、鉱石は索道によって石原駅に搬出した。大正九〜十四年には索道が室生谷、山野口方面から山を越え、この平地を横断して石原駅にのび、盛んに鉱石を運んでいたものである。鬼ヶ城は福知山地方での有用金属鉱物の産地ではあるが、惜しいことにまだ大鉱脈は発見されない。  〉 

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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