丹後の地名  資料編


大丹生
(おおにゅう)
京都府舞鶴市大丹生


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大丹生の地誌


《大丹生の概要》



大丹生は舞鶴湾の入口、海に面する。大浦半島西端に位置する。村中を大丹生川(イギス川)が流れる。古くは千歳の出村であったという。

《人口》145。《世帯数》38。

手前は石炭火電、右手の集落が大丹生
《主な社寺など、古蹟》
氏神は山王(現日吉神社)で、奥宮に熊野権現を祀る。山王神社を大丹生神社とする書もある。
奥宮棟札に「天文十四年 奉造立五社大明神 大工忠右衛門」とあり、別の一枚によれば元治二年に再建されている。奥宮には二対の石造狛犬があり、その一対に「元和七年正月吉日、越前国三国新保助左衛門寄進」と銘があるという。
田井海臨寺末洞春庵

大丹生遺跡。大丹生川の旧河口(現在の海岸線より約一二〇メ−トル内陸寄り)付近から、古墳〜平安の土師器、須恵器、黒色土器、製塩土器の破片。

《交通》
市道平瀬崎線。

《産業》
農漁業。


大丹生。こんな興味引く地名であるにもかかわらず、あまり研究した人がない。有名な松田寿男氏くらいのものである。
こんな所を研究しないでどこを研究するのか、やはり大変な遺跡が出た。まだまだ眠っているのでなかろうか。

さて『京都新聞』(071116)は、(写真も)
ミカン狩り20年ぶり復活 舞鶴市・大浦地区大浦みかん園
日本最北端の温州ミカン産地のひとつとされる舞鶴市の特産「大浦みかん」のミカン狩りが約20年ぶりに復活、17日からスタートする。舞鶴市農業公園「ふるるファーム」が地域振興を狙って企画し、生産農家の協力で実現した。
 大浦みかんは同市瀬崎、大丹生、千歳で生産。甘みと酸味のバランスが良く、最盛期の3、40年前には約六十ヘクタールで栽培していたが、オレンジの輸入自由化以降は次第に姿を消し、生産組合は解散した。生産量は年間で推定約200トンで、ピーク時の3分の一。得意先用に絞って生産している。
 ミカン狩りは瀬崎地区の6農家の農園で実施する。協力農家の一人、秋安寛さん(66)は「後継者不足に悩んでおり、目玉企画として地域が元気になれば」と話す。生産者の高齢化が進んでいることから、ミカン狩りに限定して販売する。…
少し昔までは、道路ぶち、道路に覆い被さるほどにミカンの枝が伸びていて、車から手を伸ばせば、一つ二つくらいは簡単にシッケイできるくらいに実っていた。大浦ミカンこうてくれや、などと友人たちが何かの運動の資金稼ぎにとかで箱単位で売りにきていたこともあっが、そのミカン山を削って火電が建設されてしまい、今はミカン畑は、道路からは見えない、どこかに今もわずかに生産しているのか、それも確かなことはわからない。

水銀とミカンの関係。松田寿男氏は「即身仏の秘密」で、
…この場合、植物体が土壌中から吸収する水銀の量は、その土壌が含有する水銀の品位に比例し、かつ葉部にとくに多く蓄積される。もちろん果実にも大きな影響がある。一例をあげよう。和歌山県の有田といえば、有名な紀州ミカンの本場であるが、わけても有田郡の丹生に産するものは甘味が強いとされている。何故か。それは、この土地の果樹が土中から水銀を吸収し、その水銀が作用して果実をとくに甘くするからである。丹生という地名は、そもそも私の古代水銀文化追求の手掛りとなったもので、現在では全国にわたって五○ほど残っている。それらは私の調査と矢嶋博士の分析とをへて、いまや一つの例外もなく、水銀産地であったことが証明されている。このような土地で、そこの果実の味が優れているという自慢話を、私はたびたび聞かされた。語り手はその理由を知らず、またその秘密をさぐる気もないようであった。しかし私たちはそのような土地に産する植物の果実や葉部からの水銀検出作業をすすめている。
舞鶴はこうした地名の所だけに限らず案外に土壌に水銀は多いようで、これは果実栽培などには適している土壌なのかも知れない。しかし天候や気温もあるし、国際情勢があり、たよんないノー政があり、簡単ではないのかも知れないが、…。せっかくの土地を荒れるにまかせるしかないのか。公害発生発電所の敷地にしか使えないのか。




大丹生の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
大丹生村
本寺右同所洞春庵。熊野権現宮立有。山王権現宮有。

《丹後国加佐郡旧語集》
洞春庵、海臨寺末。山王、氏神。熊野権現、氏神、鍵取 治郎左衛門。大将軍。稲荷。荒神。午頭天王。

《丹哥府志》
◎大丹生村(瀬崎村の次)
【熊野権現】
【慈雲山洞春庵】(臨済宗)
 【付録】(山王権現、大将軍宮、稲荷、荒神、愛宕、天王、薬師堂)

(神社旧辞録)
大丹生神社 祭神 大山咋命 同市字大丹生
旧語集には、熊野権現 二社を載す、当社は山王権現の改称である。
      山王権現


《舞鶴市史》
大丹生の大年龍リ

十二月三十一日、正月迎えのこしらえを終わって、氏神へお礼参りをし、舞堂で大年籠りをする若衆に年取り米を託して戸主は帰る。
年籠りの若衆は、夜半も過ぎて夜明けまでに三回にわたって、一番ごり、二番ごり、三番ごりと斎戒沐浴て、村中を一ヵ所で三回ずつ、中座敷といわれた中若衆の音頭によって、数ヵ所触れて回った。
 夜具は若衆各自が持参し、焚火の丸太は各家から提供した。焚火は夜通しなので、火の粉が炉の周囲へ飛散し、夜具を汚さないように、また敷物が舞堂の火災の原因にならぬように、若衆が交替で不寝番をし、用心水や火の粉払いの草ぼうきなどの準備もした。
 昔は大火を焚き、舞堂が火事になったことがあるという。

《ふるさとのやしろ》
…村にはこのほか、大山祗命・木花咲耶姫をまつる大将軍社があり、「山の神」として旧暦十一月三日(現在十二月三日)にお祭をしている。また二月一日には、子どもたちが、ワラで大蛇をつくり、大丹生神社で祈祷を受け、千歳口、平口、瀬崎口と村の出入口三方に魔除けとして置く珍しい行事も受け継がれている。

《丹生の研究》
丹後の丹生
 丹後の舞鶴湾の咽喉部に大丹生がある。いまは舞鶴市域に加わっているが、近ごろの市域のことであるから、東舞鶴港から1時間も船にゆられなければ行きつかない僻地で、もとの行政区画の京都府加佐郡西大浦村大丹生と表示する方がふさわしい。訪れてみると、この大丹生は、舞鶴湾口の狭い海峡に面しているが、それでも小さな入海を抱いて波静かであり、海岸から2.5kmの谷奥まで楔形に耕地が拡がる。この谷のなかを大丹生川が流れているが、河の左岸つまり南側は黒色の土壌であるのに、右岸は水銀の鉱染をうけて赤い土があらわれ、それは部落の北にそびえる赤坂山につづいている。この土壌には水銀0.00051%が含まれ(昭和別年7月30日採取)、この僻地に大丹生が存在する理由を頷かせた。
 大丹生部落の南隅には海辺の白砂の上に大丹生神社が鎮まる。しかしこの社名は明治になつて郷名に基いて呼称されたもので、実体は山王社にほかならない。この村には別に海辺から約1kmの奥に今は奥の宮と呼ばれている熊野社がある。それからさらに奥に進んだ丘陵面に宮の尾という地名も残っているが、これ以上むかしの大丹生の人たちに信仰された神の正体を捜ることはできない。丹生の実状に即したニウヅヒメ祭祀は、すでに村民の生活が変つている以上、追求できなくなってしまった。古記録はむろんない。ただ古老(堂本松之助・上林新吾の両氏)に訊ねて、大丹生に対比して考えられがちな小丹生の名がどこにもないことは、確かめることができた。
 ところで、大丹生の北、舞鶴湾の湾口部に湾に面して浦丹生という小部落がある。これは丹後半島の東北岸に見出される蒲入(がまにう、与謝郡本庄村)とともに、丹後のどこかに丹生を設定しなければ解けない名称である。この疑問に対して、私は舞鶴市の南郊に位する女布(にょう)をまず取上げた。ここは国鉄西舞鶴駅から西南に2kmをはなれ、もと丹後国加佐郡中筋村に属していた。私は昭和37年11月6日に、前章で紹介した丹後の伊加里神社を探求に行ったとき、偶然足を踏みいれることができたが、そこは300m級の丘陵に包まれて北向きの姿を見せる別天地であった。部落の背後の山のかなたには、真言系修験の形跡を留める高野(こうや)の地があり、またこのあたり一帯の山の腰には水銀の分析値0.009%を示した試料が得られたほどの土壌が歴然としている。したがって、朱砂の産出を意味するニフという地名を漢字で女布と表記したと考えることができる。
 その後、友人の永江秀雄氏の指教によって、私は女布と称する地点がこの附近になおいくつか存在することを知った。京都府竹野郡網野町木津の下和田に女布(にょお)谷がある。これと山すじ1つを距てた西側の熊野郡久美浜町には、旧の田村の関部落に女布(にょお)という小字があり、女布権現山(343m)がそびえ、“女布の赤土”が有名であったという。しかしこれらの女布を丹生の異字とする考えにブレーキをかけたのは「出雲風土記」であった。この書の意宇郡の条に、神武官が配されていた48の官社を挙げてあるうちの1つ売布(めふ)社がそれである。今日、同名の社は上記の竹野郡や熊野郡の女布にも鎮座しているし、但馬・出雲にかけて分布している。この神社の正体を究明してみないと結論を急ぐことにはできないと、痛感している。


《古代の朱》(松田寿男1987)
福井市の西、直距離で一八キロをはなれて丹生がある。日本海に臨む海浜で、もとは鮎川を中心として国見村をつくっていた。丹生川(現地では一光川と称する、上流の渓谷に上一光(いかり)と下一光があるから)の河口をはさんで、左岸が小丹生、右岸が大丹生と分かれ、大丹生の北二キロの海岸が鮎川だ。鮎川の役場に保存されていた地籍図を見ると、鮎川の小字として大入、東大入、北大入、西大入、中大入、上大入、奥大入、大入口などがあって、鮎川をふくめた大丹生の存在が考えられる。小丹生は大丹生から分置されたものであろう。
大丹生は、むかし大丹生浦という港市として栄えたところ、しかしなぜこの港が大丹生と呼ばれたのか、まだ判明しない。ただ、この大丹生浦の影響を受けて舞鶴市大丹生ができたことは確かであろう。
 この港には東舞鶴港から船で一時間近くかかって湾を縦断しなければならない。湾口を狭める半島の西端に位するからである。ここは大丹生川を軸として耕地がクサビ形にできていて、住民は漁と農との二本立ての生活をしている。部落の北には赤坂山がそびえ、朱砂の産出も考えられるから、この地に丹生氏の居住が見られなかったとはいえない。しかしここが大丹生とよばれるようになったのは、前記の福井市の大丹生浦との海上連絡のせいだと私は思っている。舞鶴市の大丹生の北には小湾があって、奥に浦丹生という港がある。
奥丹後半島の北端にある蒲入(がまにゅう)(京都府与謝郡)はこの港と関連する漁港として発展したのであろう。


《大丹生校閉校記念誌》
「大丹生」の地名雑感
 大丹生に住んでいる人は、誰でも「大丹生」の地名を世間の人が正しく読んでくれない。又書いてくれないと言う経験をしておられることと思う。「大丹生」の「丹」と言う字を「丹後、丹波」の「タン」と読んでも「青丹によし、寧楽の都は咲く花の」の「ニ」とは読みにくいようである。私も物心がつくようになってから、どうして自分の村はこのようにむずかしい名前なんだろうと言う疑問を抱いてきたように思う。
 これは先輩の堂本松之祐さんの話であるが十数年前京都の大学から先生がたずねて来て、大丹生の古文書の拝観を求められたそうである。その先生の話に「丹生」の字のつく地名は全国に十数個所あって、どこにも広峰さんを祭っている。「丹」とは、朱の塗料のことで「丹生」の地名の所は、そうした人達が住んでいた所でしょう……
 広峰さんのことは、白糸浜神社の坂根さんが「調べておきましょう」と言ってくださっているので後の楽しみにして。
 試みに「丹生」の字の地名を拾ってみると、となりの福井県には美浜の原電の所が「丹生」であり、丹生郡、越前岬の先に大丹生、小丹生がある。滋賀県には余呉湖の北東丹生渓谷に上丹生、下丹生が古い社を祭っている。醒が井の養鱒場へ行かれた方は、やはり、上、下丹生を通っておられる筈である。三重県松坂から南へはいった「丹生」は古くは伊勢神宮と結んで水銀塗料を独占生産していたそうで、すでに八、九世紀に水銀公害が発生していた事で有名である。和歌山県にも高野山のふもとを紀の川に注ぐ丹生川や丹生都比虎神社他に丹生谷、丹生図、丹生の川等の地名がみえる。しかし「丹生」の本場は奈良県のようで、宇陀郡の丹生鉱山はかなり有名である。吉野郡には「丹生」があり、降雨、止雨の神として格式の古い「丹生川上神社」の上、中、下社がある。柳生の隣の丹生の神社は、奈良の観光案内書などにも出ている。その他「丹生」の地名は、岐阜、兵庫などにもあるようだが総じて大和朝廷成立時の勢力圏内に限られているようである。
 それでは「丹生」とは、一体何であろうかと言うことであるが、語源は中国から来ていて、丹の生産を意味し、又、丹とは、がいして赤色をさすようで万葉と同時期のある風土記にも「昔の人は山の沙(すな)を取って朱沙に用いた。それで丹生郷という。」と書いたのがある。朱沙とは、建物の塗料にもちいるベニガラのことで原料が共通するところから、いつのころからか「丹生」が水銀をもさすようになったらしい。滋賀県などは、琵琶湖の水銀汚染の原因を農薬流入と共に県内、二か所ある「丹生」の地名を水銀に結びつけて、その責任を古代に転嫁してしまっている。
 話は変わるが大森神社の田中さんに神社の祭神をたずねたところ、その昔、天孫系の部族が青葉山のふもとで先住部族と一大決戦を行い、勝利を収めてこの地へ進出してきて一族の祖「天御影命」−アメノミカゲノミコトを祭ったのが弥加宜神社−ミカゲジンジャ(通称大森神社)で、その古墳が、今の倉梯第二小の丘ですと答えておられる。
 私達大丹生の祖先達も、或は其時一緒にこちらへ移り住んだのかも知れない。奈良東大寺、お水とりの行事も、隣の小浜市神宮寺の水が東大寺の若狭井へ湧き出る、のいわれのように、此の地方は京都へ都が移るずっと以前から、中央と交流があり文化も栄えていたのだろうと勝手に想像の夢を楽しんでいる。     (高田 政彦)


大丹生の伝統行事
 「夏が終わったら冬が待ちどおしい」とよく言います。待ちどおしいのは冬にある伝統行事の事です。それは『へび作り』と『こもり』という行事です。
 へび作りという行事は今から六百三十年ほど前というと鎌倉時代か室町時代の間くらいの時代です。そのころ元冦によって武士の力がおとろえて鎌倉幕府がほろびました。そして、再び新しい時代に入り、建武の新政が始まろうとしていたころです。大丹生ではひどいえき病が大流行して、たくさんの村人が死んでいきました。そこで大丹生にえき病のばいきんや災害等の悪いものが入ってこないように魔除けの大きなわらのへびを作るようになりました。三匹作り、町につながる「川しり」と「奥村」と「坂地」の三つの道の際に置いておくようになりました。そのへびにおまじないをはさんだ竹をさしておくとそのへびに命をふきこんだ事になるのです。そして悪いものがくるとへびがおいはらってくれるので安心して暮らせます。そのへびの作り方の紹介をします。始めにお正月が終わると三匹のへびを作るわらを集めに村をまわります。集まるとわらを精米所においてわらをそぐります。そぐるというのはわらのたばの中に指を入れて引きわらのかすをとるのです。そしてよいわらのたばでへびを編んでいきます。たばをひもで吊ってぐるぐるまわって編みます。それを続けていくと長くなり、十メートルくらいのを作ります。あとの方はわらを少なくして細くします。その胴体のへびを三匹つくるとそのどう体に今度は頭をつけます。頭はベテランのおじさんに編んでもらいます。それに目や耳、毛等をつけます。目はちゃわんの底の部分を使い、かみの毛は海草をつけます。耳はびわの葉をわらの間にはさんでさしておきます。
 頭を胴体にしばりこむとへびのようになり、完成です。その三匹のへびを二月一日の夜中四時ぐらいに、
「わっしょい。わっしょい」
とかついでへびを置く各場所に持っていきます。

 次に『こもり』という行事はどんど焼きと大きな関係があり、はじまったのはどんど焼きを始めたころだと推測できます。どんど焼きをする前の日の晩に神社のお堂のいろりで火をたきます。その火を絶やさずにしながら一晩を過ごします。その火を次の日の朝、一月十五日に海のそばに運んでしめかざり等をもやしに来る人達を待っています。おばあさんなどが来られて、燃えた灰と海水をひしゃくでとってもって帰られます。
 その灰を家のまわりにまくとその家は安全になると言われています。その火は消すといけないのです。消すと効果がありません。一晩燃やし続けた神聖な火が必要なのです。
 お堂にいると寒いので毛布を持ちよって体にまいて火の番は大きい人にしてもらいます。ぼくたちは火にあたりながら一晩過ごすのです。






大丹生の小字

《舞鶴市史》より

大丹生 粟崎 シンバ 上ノ山 家ノ脇 小川 ユリ下 宮ノ脇 小谷 赤坂 仲田 オド口 二反田 神坂 イ子ゴ 火ノ口 川尻 大石谷 ツナギ 花迫口 細谷 シノキ サガキ 仲ノ 宮ノ下 宮ノ上 下滝口 宮ノ向 イギス オナル 栃ノ木 ユノ谷 花迫 峠 傍示竹 短谷 西後 オドウ 笹部横道 長畑 畑谷 ヤドジ川 高尾 サイノ上桃林 サイノ上 ボガ奥 白土 イギス山 長谷 墓ノ向 八原谷 ミョウガ谷 エゲ 小向 シル谷 オチダラ 桐ケ坂 オゼガ谷 上滝 作リ道 小森 小堂ノ本 ヘダラ尾 長シロ 大瀬 赤坂裏 オドウ裏 石ケ坪 和田美 仲地



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関連項目

千歳 浦入

大丹生





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