丹後の地名

西方寺(さいほうじ)
舞鶴市西方寺


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京都府舞鶴市西方寺

京都府加佐郡加佐町西方寺



西方寺の地誌

《西方寺の概要》


西方寺は舞鶴市の西部。由良川左岸に位置する。由良川の支流岡田川の中流域。地名の由来は、かつて真言宗の古刹西方寺が地内にあったことによるとされる。
上・下・平の地区に分かれる。北部の平から流れる平川を合流して岡田川が中央を南流する。下地区に岡田中小学校、隣接して猪蔵神社、西方寺公民館。上地区内の小字往語は西方寺跡といわれ、山すそに観音堂を祀る。(だいら)地区は上地区の北にある山を登った山腹のやや平坦なところで、養鶏事業が盛ん。
西方寺平の棚田の様子(ここは天空の村)
西方寺村は、江戸期〜明治22年の村名。西方寺は明治22年〜現在の大字名。はじめは岡田中村、昭和30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字となる。

《人口》148《世帯数》60。

《主な社寺など》
岡田中小学校
隣接して猪蔵神社
西方寺公民館
上地区内の小字往語は西方寺跡といわれる、山すそに観音堂を祀る、十一面観音木像は伝承や過去帳によれば、文亀2年(1502)没の大俣城主荒木摂津守幸盛がこの地に伝えたもので、鎌倉時代の作といわれる。

《交通》


《産業》

《新名所・大庄屋上野家住宅》
上野家住宅(西方寺)
大庄屋の屋敷など、私め貧乏人のハシクレとしては何の興味もないのだが市などが最近懸命に宣伝にあい勤められるので通りがかったついでに写真だけ写しておいた。税金ではではなく、電源の交付金で作ったようである。皆さんの電灯料金でできています。
案内書には次のようにある。
 〈 江戸時代後期の建築。天保十五年(一八四四)、弘化三年(一八四六)の年代が入っている鬼瓦が使われているところから、この頃建てられたものと考えられます。主屋を中心に長屋、マヤ、土蔵群からなり、屋敷の正面から東側にかけて長大な塀が巡らされています。
主屋は茅葺きで、瓦茸の下屋庇が周りにあります。オクザシキは大正時代に増築されたもので、元は土間に沿って二室が二列並ぶ「田の字」型の間取りでした。ザシキには床の間を構えて大庄屋としての威儀を正しています。土間にはオクドサンのほかロクダイがあって丹後型の特徴的な炊事設備の形式となっています。
庭園は、客人をもてなす格式も備えた書院庭園で、庭内を散策することもできます。

上野家と当主「彌一郎」
上野家は、初代上野宗信が室町時代に伊賀国から丹後国加佐郡岡田庄西方寺村に移り住んだのが始まりで、代々農業と養蚕を営む豪農でした。江戸時代、九代目当主宗永の時(文化七年・一八一〇年)に田辺藩から由良川流域十四ケ村の庄屋を取りまとめる大庄屋に任命されました。以後代々の当主は「彌一郎」を名乗ります。
 明治維新後、「十二代目彌一郎(宗愛)」は京都府議会議員を二十一年間務めた後、衆議院議員に当選し、三期六年にわたり、国政に参与しました。京鶴鉄道の敷設や京都大学設置などへの業績を残し、引退後も八十歳で亡くなるまで地域の振興に大きく貢献しました。また約七万点にも及ぶ近世・近代の資料を残し、現在、上野家資料として、府立丹後郷土資料館に寄託されています。  〉 
上野家の内部の様子
映画のロケーションなどいかがなものか。




西方寺の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 西方寺
猪蔵一宮大明神 河原下見谷大峯八大今剛童子 村中氏神に仰ぎ奉る 夷堂あり  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免六ツ七分
西方寺村 高弐百五拾九石三斗壱升三台
     内弐石壱斗三合三勺 万定引
     六石御用捨高
 猪倉一ノ宮明神 西方寺村
         河原村 ノ氏神  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎西方寺村(下見谷村の北、是より由良村へ出る)
【猪蔵明神】
【桂宮明神】
 【付録】(荒神、山王社、八幡宮、観音堂、地蔵堂)
○平村(西方寺村の枝郷、是より与謝郡今福村へ出る)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 岡田由里、富室、西方寺、河原の四ケ字は中古猪熊村を成していたものである。)、159(西方寺は古志託郷又は凡海郷に属していた由、今観音堂がある。土人言ふ、「昔は西方寺と言ふ真言宗の一寺院があったが或時代京都に移して此一字と名称を残すだけであると」と。

応徳元年久田美村の城主村上陸奥守岡田庄を配して、猪熊村、熊之美(見)村とし、猪熊村は又字由里、西方寺、富室、漆原の四字に分ち、熊之美村は地頭、大俣、高津江の三字に分った。所が寛治元年に改めて、由里村、富室村、西方河原村、下漆原村、上漆原村の五箇村を以て猪熊村を配する事とした。そして後更に仁治元年西方寺村の内字河原、下見谷、寺尾を以て河原村と称し、一村を配する様にしたのである。  〉 


伝説など

《舞鶴の民話5》
 〈 古藤の森
岡田由里より北へ、岡田川をさかのぼっていくと西方寺村につく。川幅のやや広くなった山間低地にあり、村内に古く真言宗寺院西方寺があったことから、その寺名によってつけられたと伝えられる。当村には上野家、小嶋家の旧家がある。
 小嶋家ゆかりの若宮さんがあった。中程に大きな池があり、まわりには、うっそうと大木がおおい茂っていた。その中に一きわ大きい藤の木があり、枝は岡田川をこして向う際の地蔵尊の裏山までのび、昼でも暗かった。村人たちは古藤の森といっていた。
 何時の頃からか、この地に大蛇が住みついて古藤にたむろし、通りかかる村人たちがおそわれることがあった。
 文明五年(一四七三年)乙年十月、この地に疾病が蔓延し、多くの人が床に臥した。やがて誰いうとなく、この病は大蛇のなせるためと。村人は大蛇を退治するために、古藤を切り、火をかけて焼きはらい、その上池をうずめた。けれども病はおさまらず、かえって病は重くなった。
 小嶋家の当主は若者を集め、妖怪、病魔退治の行事をはじめた。これが正月十四日、きつねがりのはじまりになったという。
 この行事は村の若衆や男の子らが、火縄をふり、ホラ貝、鐘、たいこをならし、「きつねがりに候。わいらが参じ候」と大声で叫び村中をねり歩く。家々からは火縄銃、銃のない家はたき火の火を高くあげたり、使いふるした鍋つかみをきつねとみたてたのだろう、外にほりだして、この行事に気勢をあげた。
 この行事は小嶋家から出発し、上は河原境、下は小俣峠頂上までとし、長い間行われていたが、太平洋戦が終わるころからとだえてしまった。

槻の木 (西方寺)
 長治二年六月(一一○五)、猪蔵神社は落雷によって祠が焼失した。村人たちの信仰の厚かった社で、村人たちはこれは何かのたたりで、米の不作か、大水がくるのではないかと思った。
 この火事のとき、どこからともなく夫婦の白ばとが大空より舞いおり、御神体を社前の大槻の枝にいざない、難をまぬがれた。
 槻の樹齢は数千年をへているだろう。その幹回りは十米、高さは三十五米、一の枝は十五米も
ある。森の屈指の大樹であった。しかし、年老いた木であり、まもなく枯れてしまった。
 霜尾富太郎は深くこの木にみせられていたのか、よくにた槻の木を求めて、全国各地を廻りさ
がしていたが、みつけることができなかった。槻の木の想いは、ますますつのり、そこで筆をと
り次の歌をかいた。
  「遠代の神宿りましけん幻の
    槻の大樹は天霧に立つ」
 この歌を石にかき、ていねいにほし、歌碑とした。昭和五十年、猪蔵神社の境内に槻の大樹を永久に伝えようとたてたのである。
 槻の木とは欅の巨樹のことであって、現在舞鶴の木として、大樹は大切にしめなわをはり、横綱、大関、前頭などと立ふだを立て保存されている。  〉 

西方寺の小字


西方寺 松ケ鼻 和田 長井 西山 小俣峠 ウツギノ 西山ズエノ迫 桐ノ木迫 馬場 山王 滝 猿谷 ウツギ谷 大田 前田 五明 棒谷 高畑 オサ 堤 居船 出合 小右衛門田 嘉市 仏谷 茅野 平尾 北 茅野下谷 茅野家ケ奥 茅野中林防 往語 宮ケ市 東谷 小谷 堂ノ奥 中須 田尻 東河原 尻ケ谷 野田 幸盛 堂垣 平 伝右衛門畑 長井谷 置田河原ノ上 野田河原 シホカキバ 口和田 奥和田 平田 平大上 平中川 杉ノ木口 小俣峠口 ダラリデン 仏谷口 小屋場 中川 蒲ケナル 向井杉木 家ケ奥 バス 勢蔵 八幡口 水 タイガケ 桐ノ木迫上 迫田西陵

《ふるさと・岡田中》
 〈 西方寺
住昔、西方寺には真言宗の往悟山西方寺という寺院があり、信仰者大俣城主荒木摂津守幸盛が戦場に出た時、当寺の一部として残っている観音さんの御利益によって、命が助かったと伝えられ、この寺院の名称がそのまま字西方寺小字往悟となり、また、幸盛の名前がそのまま小字幸盛(こうもり)となった。
 猪蔵神社に関係のある地名は、岡田川と平川が合流する地点を出合いといい、社はここにあったが洪水のために流され現在地に移された。社地を出舟か陵と呼び、この山麓を宮の馬場、前面の田圃を前田と言い、前田の一部で土砂が多く入って水田にできなかった河原を野田、出合の宮跡地を宮替地(宮嘉市)というようになった。
 度重なる洪水に悩まされたこの地区には、それに関係した地名がある。数々の出水記録を残す岡田川も和田あたりまで下ると、由良川水位との差が僅かとなり、狂奔する溢水も和んでくるので和田という地名か生まれたとも、また、山麓が半円状になっていることから輪(和)田とつけられたともいう。長井は洪水のため長池ができていたので地名となったと伝えられている。茅野・桐之木迫の地名はそれぞれ作物名、小右ヱ門田、清蔵、嘉市等は開拓者の名前を地名としたものであろう。
 仏谷、仏谷は道なき不便な谷で村人たちは利用することがなかったので「放って置け」と言われていたが、人口の増加と共に道をつけ産物も多くなり、いつの間にか放って置け谷が仏谷に変わっていたという。
 西方寺の中央部に坊谷、堂奥、五明等の小字がある。山獄信仰の盛んであった時代の宿坊跡地や、護摩を焚いた場所ではないかといわれている。
 茅野は平通(だいらみち)の両側で、沢山な谷々の総称であるが、菖蒲ケなる等は優美な地名だが実は六部(旅僧)が真剣勝負をしたという物騒な、勝負がなるであった。
 蛇谷 平の坂尻から少し上がったところに、蛇谷がある。ある日一人の村人が蛇谷に近い宇瀧で手を洗っていると、美しい白蛇が現れた。形も小さく可愛いいので捕らえようと追いかけた、白蛇は百メートルも流れにそって上り断崖にへばりついたので、してやったりと近ずくと白蛇はみるみる大きくなり、断崖の上から下までとどくようになった。男はビックリして一目散に逃げ帰った。翌日も同じ様子に、恐る恐る近づいてみると、白蛇と思ったのは白い飛沫をあげて落下する滝の姿であった。これこそ白蛇の化身であると思った。蛇谷に帰ろうとしたが隣の細谷で力尽きたのである。細谷の滝ではあるが、白蛇の滝とも言っているそうな。
 ウツギノ 元農協の加工場のあった所は、昔尼僧の御住居であった。連なる田圃は一面の荒野で、美しい野草の花が咲き乱れ、赤岩の山容を借景にした美しい野原であった。春の若葉を摘む庵主様の姿は王朝の絵巻物を見るような美しさだった。何時までもこの美しさが忘れられず、美しい野、時を経てウツキ野に変化して地名になったという。
 西方寺平には、平、中のなる、阿久瀬と大別して三つの平地がある。平は現在住家のある所で、中のなるは赤岩山と宇野山の水を受けて平の主な水流の源になる所であり、一番西側を阿久瀬といい、久瀬とは陸の背とも書き、三か所共なだらかな地勢であることから付けられた地名である。
 西方寺は昔上西方寺と下西方寺に分かれたことがある。境は延命地蔵さんの付近であった。地蔵さんの上手、愛宕山麓は西方寺で一番の大迫である。その意味で大迫、現在は発音が変わって、大佐といわれている。大佐の向こうが田尻である。上西方寺の一番下に当たるところで自ら田尻の名称で呼ばれるようになった。
 檜皮田と呼ばれる処があるが神社の内神の屋根に使用した槍皮の産出地であった。  〉 




関連項目






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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