丹後の地名

境谷(さかいだに)
舞鶴市境谷

付:境谷神社

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京都府舞鶴市境谷

京都府加佐郡中筋村境谷



境谷の地誌

《境谷の概要》


境谷は西舞鶴の中央付近。伊佐津川の東岸。日之出化学工場の南にある。二ツ橋の上流に「境谷橋」という木造の流れ橋が架かっているがそのあたりである。洪水の時は流されるので、ずっと大君の辺りまで探しに行き、見つけると引いて帰り、またここに架けたという。ワタシより年上の年代は、葬輦橋とも呼んでいたのを聞いた記憶がある。その昔は川の東側には墓地しかなかったようである、この橋を葬送の行列が通った時代の橋名であろうか。
境谷橋(舞鶴市境谷)


2017.10.22の台風21号で流された境谷橋↑
伊佐津川のこのあたりの右岸側(東岸側)には堤防がない。増水すれば必ず冠水するところである。

伊佐津川を西に越えた所にも飛び地がある。これは近世初期に京極高知が伊佐津川瀬替えのおりに、佐武ケ岳からこの地の西に延びていた山麓を切断し、河道を北に直進させた。いわばこの大工事で旧境谷村の真ん中を新しい伊佐津川が流れるようになったためである。
切り取られて残った山は切山といわれ、その頂上付近から五世紀頃の古墳が発見されている。また切山の裏山や田畑には平安前期の遺物が散布、切山遺跡といわれる。
境谷村は江戸期〜明治22年の村名。同22年中筋村の大字となる。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字となる。


《人口》《世帯数》切山古墳石棺


《主な社寺など》

切山から土木工事中出土した切山古墳の石棺は、舞鶴市民会館内に移築保存されている。仁寿寺裏山にも古墳があり、日之出化学工場付近に土器片の散布地の境谷・切山遺跡がある。

秋葉神社


臨済宗京都東福寺末水清山仁寿寺

仁寿寺観音堂(舞鶴市境谷)

『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 仁寿寺 水清山 京大和大路 東福寺末
 六月十七日ヲ夜祭ト云御家中御門留
 七月九日千日参リ御門留ナシ
  人王八十九代後深草院卸宇正元二庚申歳 建立
 開基 虎関和尚
             但年貢地
     境内二百四十坪  其外山林あり
 堂 三間四方
 本尊観音 聖徳太子作
 客殿 四間ニ二間半
 廊下 六尺ニ九間
 庫裏 七間ニ二間半
 縁起云むかし一人の上人あり名を真応と云元来山人也常ニ鷹をすへ山林に入或ハ禽獣を取て殺生を業とす 或時法心を思ひ立法衣を着す 九月十一日夜慶雲元甲辰年 神僧を夢見る告て曰汝宿望を成就せんと思ハゝ山に入へしと 夢覚めて独り山に入東西を不弁六日を過る身心労れ臥て現の如くにて冷地に出る 老翁口中に水をそゝく忽に心気募る 是より老翁誘て山を廻り観音の木像を得る 老翁教に任せ修行す 今の所を廻りしに老翁の曰此地霊地なり安鎮すへし冷水あり汝に与ふへし水なりと教て老翁ハ見へす 今の所に堂を建観音を安置す 是迄縁起の意をとる猶委き事ハ縁起を見て知るへし 堂の前入口に古木の杉あり 若木の時堺谷村の百性稲木ニ結ふたるよし伝来百拾年程に成るよし 木のう路に蛇有て木のぬしなりと云伝ふ 或時住持に尋しに蛇一疋に限らす数多出入す冬寵りと云り 又山添より旧縄手に掛る所に松有 後年水清大松といふ 此松五十年以前ハ廻り二尺程も可在か田の中へ横に藤掛り四五尺斗横に成其元よりしん立たり 根の横に成りし所を童共馬乗にし或ハ上をふみ伝ふて遊ひしかいつの程にか真直に立伸たり いつ立直りしや知る人なし奇妙成松なり 神妙を語るハ怪けれ共奇妙者なきにしもあらす 丹波ハ丹後の元国なれハ珍ら敷事を記し置く…  〉 

『加佐郡誌』
 〈 水清山仁寿寺、臨済宗、仁寿元年虎閃国師開基、中筋村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【水清山仁寿寺】(臨済宗、出図)
水清山仁寿寺は本尊観世音菩薩、文武皇帝慶雲元年九月十一日爰に勧請すといふ。会式六月十七日参詣の人々群集をなす。  〉 

『舞鶴』
 〈 水清山仁壽寺
 中筋村字境谷にある臨済宗の古刹で大本山東福寺の直末である、本尊観世音菩薩の佛体は與謝郡世谷山成相寺の本尊と一体分身で開基眞応上人の作と傳へられて居る、眞応上人は文武天皇の慶雲元年(今より凡そ千二百二十年前)與謝郡に居て病に臥し危篤に陥った時一貴僧が現はれて浄瓶の水を飲ましめたところその味甘露の如く病忽ちにして平癒した、その時貴僧が上人に佛道を修行するのには世塵を離れ山林に幽居せよといひ後加佐郡境谷の辺に上人を伴ひ甞て上人の重患を平癒させた清水はこの水である、依て此處を水清と名づけるといった、しかも此處は全く俗塵を離れたところなので上人は此處こそ佛道を修行するのに最も適した土地であると永住の決心をなし成相寺の観音と同じ木を以て観音の尊像を刻み本尊として祀ったのに創まるといはれる、然るに文徳天皇の仁壽年間(今より凡そ千七十年前)時の皇后が御眼を悩み給ひ当観音に祈られたところ霊験忽ち現はれ日ならかして御全癒になったので特に寺號を仁壽と賜ったと伝へられ往昔は堂塔伽藍重畳して壮麗を極めたものであるが今は荒廃して見るかげもない、併し境内は実に岑寂として全く塵外の霊地たるを感ぜしめ眞応上人の蘇生した甘露水の井戸今も存し小祠が建てられて居る又境内の大杉は高さ十二丈周園二丈の大木で附近には珍らしいものである、この寺に関する記録の類も沢山あるが就中信憑するに足ると思はれるものを褐けると茨の通りてある(これは長さ一間半巾四寸 厚さ五分の板に彫刻したものである)
丹之後州加佐郡田辺郷水清山仁寿禅寺者慧日山東福禅寺之末刹而古真応上人草創之霊地観音大士応現之勝境也昔年殿堂華構梵字宇壮麗雖昭耀林巒既歴星霜衰廃豈忍座視乎哉切駕願普按檀門遂従元禄辛己端月斧斤成風至于宝永戊子之暦落成矣因此看読六喩径仰願以如上功勲本郷城主讃州刺史源英成公兼仕十方檀越四輩男女現斉踞座于仁壽之?域当順帰生子宝陀之勝界者也 宝永五年戊子八月十八日現住周牧謹誌 大工藤原末流水島善四郎宗続  〉 

『中筋のむかしと今』
 〈 仁寿寺縁起(伊佐津)
 開山真応上人は奈良時代の人。与謝郡に伝教のため滞在するが病にかかり危篤となりしとき、どこからともなく貫僧が現れ水を上人に与える。すると病たちまちにして平癒す。その水は境谷の谷間より流れ出る水であるという。
 上人境谷の地を尋ね永住を決す。成相寺の観音と同じ木で観音像を刻み本尊とす。平安時代文徳天皇皇后が目を患われ、この水清観音に祈られると日ならずして平癒された。
 この時、元号名を寺号として「仁寿」の名を賜ったという。
 (仁寿元年=八五一)(前述の本尊とは別の平安時代末頃作と推測される聖観世音菩薩座像(斎達禅師彫刻)が平成十四年二月に、舞鶴市指定文化財となる。)    [仁寿寺境内案内板]  〉 

 〈 境谷の水清山仁寿寺の初めは、奈良時代に成相寺を開いた真応上人開創とされ、本尊は天台横川形式の聖観音・不動明王・毘沙門三尊です。聖観音像は平安時代末の作で、市の文化財に指定されました。水清(御厨子)観音と古くから親しまれています。
 江戸時代になって臨済宗の西光寺二世芳寂周伝(寛文五年〔一六六五〕没)が開基となります。東福寺の塔頭海蔵院の開山で、「元享釈書」を著した虎関師錬の法系をひき、東福寺管長となった常栄天倪の弟子です。
 中興三世天嶺周牧の代に、宝永五年(一七○八)本堂が再建されました。四世証宗恵応が明治五年に没して後、廃仏毀釈のあおりを受けて無住となりましたが、二十年をへて綾部安国寺から庶務住職が入り、今は西光寺兼務となっています。戦時中の軍による接収・移転をへて、昭和三十三年信徒の総力をあげた観音堂再建が成就しました。  〉 

仁寿寺案内板

三上宗応・坂根修理・飯田河内らが居城した佐武ケ岳城跡


《交通》
府道舞鶴綾部福知山線

《産業》

境谷神社
↓神額には「境神社」
境神社(舞鶴市境谷)
境谷の村の入り口に小さな森があって、そこに鎮座している。江戸期には天王宮と呼ばれていたが、「室尾山観音寺神名帳」の正三位境明神かと思われる。鳥居にも「境神社」の神額が架かっている。

《中筋のむかしと今》に、
 〈 境神社の由来(伊佐津、境谷・境谷神社)
 境社に奉納されているのは、牛頭天王(除疫神・守護神)という素戔嗚尊である。境社に奉納された由来は、安倍朝臣晴明公は一条院天皇の朝臣として一国の政治、人民をただす役目を賜り、長徳二年(九九六)秋九月に丹後国に来られた折、北川辺に一人の老人が釣りを楽しんでいるのを見られた。晴明公が老人に「貴方はいずれの人か」と尋ねると、老人は「私は牛頭天王と言う者です。この国のあたり一帯は山が無く常に暴風が来て人々の寒さや熱さを煩わすので、多くの人々を救うために、長い間ここに居るのです。」と答えた。晴明公は、この事が真実ならば神をお祀りしなければと、境社に牛頭天王を心から進んで迎えて祀られた。人々が火災や病気に見舞われない様、幸福で毎日が無事でいられる様、守護して下さるというので祀られたのである。        [「境社来由」要約]

境谷には境谷神社が祭られています。江戸時代には天王社といって、氏神として牛頭天王を祭っていましたが、明治政府の命令で素戔嗚命に変えさせられました。
 しかし、正慶五年(一三三六)の東寺文書には「坂合社」とあり、また元亀三年(一五七二)写の神名帳には「正二位上 境明神」とあります。おそらく古くから天神(氏神のこと)が祭られていたものが、荒廃の後延宝二年(一六七四)夢見せにより藩士が北野天神社を造立し、山伏構いで祭った(旧語集)のでしょう。幕末には荒廃し、明治以後は伊佐津構いです。  〉 

祭神は風の神様らしい伝説がある。また近くに日之出化学の工場があるが、そこは仁寿寺の境内であった。本尊は水清観音と呼ばれてその霊水は特に眼病治癒の信仰深き秘仏であったといわれる。成相寺と関係深いのも興味引かれる。元は真言宗寺院か。
ここ佐武ケ岳の西麓ももまた鉄と思われるのである。




境谷の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 境谷村
水清山仁寿寺京東福寺末寺。天王宮。臨川天神、山伏延寿院構なり。
近年まで絵馬あり哥に
都より爰に北野の神なれば
   寅延宝に建る御やしろとあるなれば
  延宝二年とらのとし建立と聞ゆるなり。
  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ七分
堺谷村 高百五拾五石壱斗七升六合
    内百四拾石八斗八升八合村分
    拾九石八斗壱升五勺 万定引
    七石御用捨高
  定免六ツ
    拾四石弐斗八升八合同村小兵衛分

      内壱石八斗六升弐合六勺 万定引
     当村百性ニ陰陽師あり
 天王宮 氏神
 秋葉山
 臨川山天神 天神之発リ左之通
 先々御代延宝二甲寅年香谷孫九郎絵像の天神を夢
見る 翌日絵像天神を売に来る夢に不相替神荘也
奇妙の事に思ひ買求て後人々に申合願を立一社造立
八月廿五日祭日とし角力催し別当に延寿院を定む
御代山林免許し給ひ額を被為掛縁起有額を被為掛
ニ付同志之面々社参し遊宴し俳諧を志て絵馬とス
  絵馬 前書
 臨川山感応院江天満宮ノ額 持明院基時卿御筆
 厳君より被為掛折節各いさなひ詣侍り御酒なと捧
まとひして盃をめくらし時の奥にいざ俳諧して臨納
し奉らんと思ひ思ひの心を顕し面八句とし神前へそ
なへ奉る 余所のそし里もいかかなれとほまれを願
ふにあらす唯誠のそこを述? 是も又感応ならん
  貞享二乙丑年 林鐘中旬
君の徳や感応凉し神の庭  浅野五右衛門 重信
民もゆらゆら田をうゆる頃 柿沼三郎兵衛 正明
心よく水沢山にながれ来て 西尾六左衛門 昌良
 不断めぐみのたへぬ寿き 秋保九郎右衛門 親清
月彰に大盃やめくるらん  中川甚五左衛門 高知
 長き夜あかす諷ふ一帰し 三宅七郎左衛門 盛良
百性の秋に踊を催ふして  幸山金兵衛 長政
 駒はやめかし稲はこふ成 井山武兵衛 重良
   追加
神も君も臣も凉しや境谷  中川甚五左衛門 高知
 富万歳と祝ふ此夏    秋保九郎右衛門 親清
夕風に酒をすすめて楽しふて 井上助太夫 重則
 ゆう気くすりなおはしまの月       直正
臨川の流れに秋の舟あそひ 三宅七郎左衛門 重信
 露志つほりとたるる釣  西尾六左衛門 正忠
奉公の手すきすきになぐさみて 三宅七郎左衛門 盛良
 かわゆらしけに育つ小息子 西尾六左衛門 昌良
 俊次云時移事去祭も中絶宮居疎になりぬ 額も延
寿院に紬置くよし縁記別に記ス
 香谷久当同僚 古河 浅野 柿沼
        寺井 幸山 中川
        永井 三宅 小林
        西尾 秋保 井上
 仁寿寺 水清山 京大和大路
         東福寺末
  六月十七日ヲ夜祭ト云御家中御門留
  七月九日千日参リ御門留ナシ
   人王八十九代後深草院卸宇正元二庚申歳
                   建立
  開基 虎関和尚
               但年貢地
      境内二百四十坪  其外山林あり
  堂  三間四方
  本尊観音 聖徳太子作
  客殿 四間ニ二間半
  廊下 六尺ニ九間
  庫裏 七間ニ二間半
 縁起云むかし一人の上人あり名を真応と云元来山
人也常ニ鷹をすへ山林に入或ハ禽獣を取て殺生を業
とす 或時法心を思ひ立法衣を着す 九月十一日夜
慶雲元甲辰年 神僧を夢見る告て曰汝宿望を成就せんと思ハ
ゝ山に入へしと 夢覚めて独り山に入東西を不弁六
日を過る身心労れ臥て現の如くにて冷地に出る 老
翁口中に水をそゝく忽に心気募る 是より老翁誘て
山を廻り観音の木像を得る 老翁教に任せ修行す 
今の所を廻りしに老翁の曰此地霊地なり安鎮すへし
冷水あり汝に与ふへし水なりと教て老翁ハ見へす
今の所に堂を建観音を安置す 是迄縁起の意をとる猶委こ事縁起を見て知
るへし 堂の前入口に古木の杉あり 若木の時堺谷村の
百性稲木ニ結ふたるよし伝来百拾年程に成るよし 
木のう路に蛇有て木のぬしなりと云伝ふ 或時住持
に尋しに蛇一疋に限らす数多出入す冬寵りと云り 
又山添より旧縄手に掛る所に松有 後年水清の大松といふ 此松五十
年以前ハ廻り二尺程も可在か田の中へ横に藤掛り四
五尺斗横に成其元よりしん立たり 根の横に成りし所
を童共馬乗にし或ハ上をふみ伝ふて遊ひしかいつの
程にか真直に立伸たり いつ立直りしや知る人なし
奇妙成松なり 神妙を語るハ怪けれ共奇妙者なきに
しもあらす 丹波ハ丹後の元国なれハ珍ら敷事を記
し置く
  古来より七不思儀という左之通
  一 遊るきの松 風なきに常にゆるく
  一 しづくの松 晴天ニもしづく落る
  一 御用の柿 天子より御用次第柿なる
  一 藤  正月咲く
  一 萩  正月咲く
  一 竹の子 正月生る
  一 茗荷の子 正月生る
 今者竹の子と茗荷斗残ハなし 今寅の正月下余部
村百性志賀に行見たる趣直咄を聞其年二日茗荷の子
五ツ生る 三日九時竹の子三本生る 毎年如何と伺
ひしに数ハ定りなし免角生る事違なしと云へり 是
慥成る事なり 依て爰にしるす
 佐武ヶ獄 古城 三上相応
  山上ニ城跡有土居石垣ノ形有  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎境谷村
【天王宮】
【水清山仁寿寺】(臨済宗、出図)
水清山仁寿寺は本尊観世音菩薩、文武皇帝慶雲元年九月十一日爰に勧請すといふ。会式六月十七日参詣の人々群集をなす。
【佐武ケ嶽】
山の上に古城跡あり、今其形を存す。丹後旧記に云。三上宗室、坂根修理、南部豊後、飯田河内といふもの此城に居るといふ、其前後次第詳ならずといへども皆一色氏の部将なり。  〉 

《加佐郡誌》
 〈 境谷は大内郷に属し字伊佐津より古く開けたいた。東北の佐武ケ岳(今は左風と書く西の嶺に城址がある。広さ東西二十八間南北三十五間である。)一色氏の臣三上宗翁(宗応にも作る)坂根修理亮満親、南部豊後飯田河内守などがここに居たといひ伝へられているけれども坂根氏が後花園天皇の宝徳中に居て末孫に至り一色氏に従って竹野郡島村の城に篭った後下岡城で討死したひとが判明した外、時代の前後など更に知ることができない。  〉 

『まいづる田辺 道しるべ』
 〈 万願寺村
 万願寺村の村名の由来は、地内満願寺の寺名をとって付けられたものといわれる。満願寺の寺名由来は、僧無円が大和長谷寺にある、観音像を作った際の余木で十一面観音像を彫刻したところ、紫雲がたなびき宿願成就したことから、紫雲山満願寺と号されたという。(丹後旧語集)
 万願寺村は、往古七日市に属していたが、後に独立した村で、延享三年(一七四六)の農家戸数は十五戸であったと記されている。
 さて、万願寺村内の旧道について旧語集に、
「今の寺の下、小川に小橋あり、昔二王門此所に在し由、村の入口制札の有所、昔の惣門なる由、依て其辺田の名を亦惣門と呼よし」
 この「惣門」と呼ばれる場所がどこであったか地元の山口氏よりお聞きしたところによると、
「境谷方面より山麓沿いに万願寺村へ入ってくる旧道と七日市より伊佐津川を渡り万願寺に入って来る旧道とが万願寺内で合流する三叉路の西側に昔、寺あり(寺名不明)。この寺の山門が万願寺川に面して建っていた。地元ではこの山門を惣門と呼んでいた」
 この辺りの地名を地元では「元寺屋敷」と呼び以前まで多くの地蔵さんが祀られていたと伝えられている。ここ、三叉路は万願寺内の交通の要衝にして当然高札があったと思考される。
 この外に昭和三十六年に万願寺川改修護岸工事が行われた際、万願寺下の薮内敏夫家辺りの前の川より山門の礎石三個(長サ約一メートル、幅約五十センチ、厚サ三十センチ)が発掘確認されている。この山門は前記の惣門とは異なる万願寺の山門であると思考された。
 これより池内谷へ通じる旧道は、元寺屋敷の岐路より万願寺川に沿って少し遡り、山口明氏宅前辺りで南側に入る。そこには三尺ばかりの農道があり、この道がかつての上林街道であった。
 ここにでてくる山口明家は、京極時代、伊佐津川瀬替工事奉行であったと伝えられる山口長左衛門の家である。当主の話によると、鎌倉時代から当地に居住し江戸時代には庄屋を勤めた旧家で、伊佐津川瀬替工事で犠牲となった娘の名は「あや」といい、今も丁重に供養を行っているとのこと。  〉 


『中筋のむかしと今』
 〈 万願寺
 地名「万願寺」は、鎌倉時代初期に、当地に開基された寺「紫雲山満願寺」の名に由来すると云われる。七日市村の枝郷「満願寺村」の名が江戸時代に入って初めて現われる。江戸時代中期の村の人口は九○人程度、明治七年九月の戸籍取調べでは農家が主で三三戸、一四一人とされている。
 万願寺地区は、伊佐津川東岸の山麓に位置し、南は池内校区、北は「境谷」と接している。昔の集落は万願寺城址のある「上ノ山」の山裾(旧地名「山ゆり」)」に在り、万願寺川、伊佐津川沿いが主たる農耕地であった。
 「今田」に通ずる村中の南北の道(通称なかみち)が旧京街道(上林街道)であったと云われる。
 この地区は戦後までは近郊農村として、あまり大きな変化もなく推移してきたが、昭和四十年代後半に入り、農地の宅地化が急速に進み、同五十年代中頃、在来の「万願寺」の川下地区に「伊佐津川荘苑」と「菖蒲台」の新町内会が生れた今では世帯総数四○○に迫り、いくつかの事業所もある。都市計画図面では、地区には住居地域と市街化調整区域が混在する。
 明治中頃に約一五町歩あった田畑は、近年の開発と谷田の山林化で半減した。平成十二年度農業センサスによると、農地所有者二六戸の全耕地面積は六・八ヘクタールである。
 在来の「万願寺町内会」は、昭和四十六年頃から六十年過ぎまで世帯数が増え続け、現在二○○世帯前後で隣組は一三組まである。
 この間、五十一年に町内会則を制定、その後平成四年に見直し、現会則の基本が生れた。長の名称が区長から町内会長になり、新会則では毎年次の五年間の会長候補者を決めるなど、新しい役員選出方法をとった。
 新町内会では、住民の親睦と融和が何より大切と考え、共同参加できるスポーツ、お祭りなどに注力した。スポーツでの成果は昭和五十三年以降から最近まで、区民大運動会、親善ソフトボール・ソフトバレー、チビッコソフト大会などでの何度かの優勝の喜びにつながった。
 伝統行事としては、盆踊りで賑わう観音夜祭り(八月十七日)、樽みこしと太鼓やぐらが町内巡行する熊野権現秋祭り(十月)、山の神さん(十二月)があり、こどもたちの大きな楽しみとなっている。
 この地区では戦前から野菜の栽培が盛んで、その代表がこの地で生れた『万願寺甘とう』(舞鶴特産品とうがらし)である。今では「京のブランド産品」の一つに認証されている。
 歴史的に古く貴重なものとしては、「菖蒲谷口遺跡」・「万願寺古墳群」・「満願寺観音本堂(秘仏の本尊十一面観世音菩薩像を含む仏像三躰は市指定文化財)」・中世の佐武ヶ岳城支城「万願寺城址」があげられる。僧弁円上人創建の満願寺については、大伽藍を擁する大きな寺であったと伝えられており、残された地名などから往古の巨刹を偲ぶことが出来る。[山口道夫]  〉 

境谷の小字


境谷 戸田井 小兵衛分 村谷 村中 大谷 切山 奥谷 垣ノ内 桜子 菖蒲谷 長谷エ谷 地子ケ谷 荒神 榎谷 岩節 丸山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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