笹部(ささべ)
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京都府舞鶴市笹部 京都府加佐郡朝来村笹部 |
笹部の地誌《笹部の概要》 笹部は舞鶴市の東北。朝来谷の一番奥。丹後若狭の国境、現在の「舞鶴カントリー」(ゴルフ場)の入口あたりの山の中腹にある。谷の向側の杉山と向かい合う天空の村である。塩汲峠を控えた丹後若狭の裏街道にあたる。慶長検地帳に篠部村とある。しかし交通不便などの理由により麓の岡安へ昭和47年集団移転し廃村となった。 《人口》23《世帯数》8 (ゼロのはずなのにこの数字がある。理由はわからないが最近になって新たに移転者があるのかも) 《主な社寺》 笹部神社。 田井村海臨寺末昌源庵。 《交通》 栃尾から道がある。 《産業》 笹部の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 笹部村 昌源庵海臨寺末寺禅宗。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 昌源寺、海臨寺末。 〉 《丹哥府志》 〈 ◎笹部村(杉山の次) 【荒神】 【昌源庵】 〉 《朝来村史》 〈 笹部 此の部落は杉山と共に本村の最東方福井縣境に所在し前面に青葉山の秀嶺を仰ぎ東方遥かに若狭海の一部を遠見する空気清澄、眺望絶佳の静郷なり。戸数は久しく十四軒存在せしも二、三戸を減じ現在十一戸にして住民は全部農を以て業とせるが近来軍港方面に職を奉するもの漸く増加し生活も次第に向上するの傾向にあり。 旧藩當時に在りては一時此笹部村は相営難渋の時代ありしものと考へらる。元来此大字に属する地籍は区域極めて狭少にして特に水田に乏しく山林も又多からず。只戸数に比較し稍廣き畑地を有し黍、大小豆等の維穀及蔬菜を生産すると雖全区旧高三十一石八斗の耕地にして他村の一戸の所有高に過ぎず、未だ以て住民の食料を確保するに足らざるなり。此れが為往時の村民は自存自立の必然的要求に自覚し、大に奮起し勤倹努力を継け而して其蓄積の財を以て次第に勢力を発揮し隣接の東大浦村字栃尾に手をのばすに至り即ち我部落に程近くして便利なる地域に漸次水田を買求め山林も又追々近き處を手に入れ斯くて栃尾地籍名負ひと称する分舊高二十七石二斗五升に達せり。此れ誠に驚異の事実にして彼の金銭収入の途甚だ稀少なりし時代に於て自村本地と殆ど同額の耕田を買求め此れによって生産の拡充を計りし當字先人の遺績実に推称に除りありと謂うべし。 文久十一年現在の家名 伊右衛門 長左衛門 久左衛門 清右衛門 伊左衛門 久次郎 孫六 七左衛門 常八 平六 幸七 忠八 六郎右衛門 作次郎 以上の外 寺院 正源庵と謂うがありたり。 此の寺は明治の初年住職死亡し自然廃寺となり、寺院建物は明治七年登尾小学校々舎に寄附したりと謂う。 此の部落は元登尾八幡神社を氏神とし子供の出産には初宮詣りを為し又毎年九月九日にお祭日として全戸挙て参拝する の例なりき、然るに近来或る事情により自字の村社笹部神社を氏神とし奉斎するに至れり。 此字の開創は詳ならざれども往古登尾が今の朝来中石浦谷(いしらだん)東方に住居せし当時八軒の内の二軒行方知れずとあり、此二軒が多分笹部へ移住したるものならんとの伝説あり。 笹部に於ける舊家は 長左衛門、伊右衛門、久左衛門、伊左衛門、作兵衛等にして他は大抵其分家なりとの事なり、但潮見家のみは杉山より此村に入りしなりと。 〉 笹部の小字笹部 杉ノ下 谷道 ムカノ ノカ タキ 前田 稲村 細谷 ウロヤ 中ケ谷 上野 滝山 大石谷 谷 大峰 大峰谷 関連項目 |
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