丹後の地名

千原(せんばら)
福知山市大江町千原


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京都府福知山市大江町千原

京都府加佐郡大江町千原

京都府加佐郡河東村千原

千原の概要




《千原の概要》
千原の採石場
由良川右岸、南有路の上流に位置する。丹後風土記残欠に「血原」とある。血のように赤い土地でチハラと言ったのを千原と書き、やがてセンバラと読むようになったものか。

千原の採石場の表土が赤いが、近づけそうにないので、↓その対岸の上野の山の表土。上野の山腹
これは確かに血原の地名がつきそうな色をしている。千原だけでなく、この周辺の山々は全部血の色をしていそうである。

千原村は江戸期〜明治22年の村名で、天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年宮津藩領、元和8年からは田辺藩領。渡船場があった。
由良川は大きく蛇行して、千原のあたりでは州は北へ出張って広い氾濫原をつくる、今は荒地だが、そこはかつては一面の桑畑で、桑は高さ八〜九メートルもある立木であったという。日露戦争頃までは春蚕だけを飼ったので収穫の少ない立木でよかったが、明治末より一年に三回飼育するようになると桑葉の需要が増え、年に何回も摘葉できる刈桑に切り替えられた。明治初期、当村の松尾五郎兵衛は自費で関東の養蚕先進県に行き研究を重ね新品種を生み出した。これを「千松桑」とよぶ。
千原村を通る河東街道は由良川に近接した難所で通る者を寒心させる所が多かったという。
千原村は江戸期〜明治22年の村名。千原は明治22年〜現在の大字名。はじめ河東村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。


《千原の人口・世帯数》77・26

《主な社寺など》
中岡右京進の居城と伝える山城
三宝荒神
檀那寺は北有路の曹洞宗光明寺


《交通》
府道舞鶴福知山線

《産業》

千原の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
 〈 川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原(今の千原)ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原(今の蓼原)ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山(大江山のこと)ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占(由良の石浦)ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食)  〉 

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 原村
三宝荒神あり、昔中岡右京之進居城せし跡あり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免八ツ一分
千原村 高百九石弐斗九升四台
    内万斗六升弐合四勺 万定引
    六石御用捨高
 古城 中岡右京之進
 三宝荒神 氏神 鍵取 小左衛門
 権現  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎千原村(二ケ村よの東へ入る)
【八幡宮】
昔京極侯の丹後に到りたる時?田某請ふて墾田を開き之を順す、子孫今に残る、某祖先の為に小祠を建て称しで八幡といふ、牧野侯の図書あり。  〉 
↑これはここのことかどうか?

《大江町誌》
 〈 松尾五郎兵衛
弘化三年十月、数代大庄屋を勤めた千原村松尾家に生まれる。幼名を杢之助、父は福知山士族河瀬某を家に招いて算筆を幼少の彼に学ばせたというから相当財力のある家庭に育ったといえる。
 明治五年(二三歳)から第十四大区第二小区一○か村戸長を始めに、加佐郡第一組一町二二か村戸長、続いて河東、河西一○か村連合戸長を勤めた。明治十六年戸長引退後も六年間役場にあって次期戸長を助けた。若くして当地方行政の重鎮の一人であった。
 こうした行政にかかわる傍ら養蚕業を営み、養蚕の先駆者として多くの業績を残している。宮津に養蚕伝習所を創立して済涼育と温暖育を最初にとりいれたのも彼であった。千松桑の発見や蚕種製造については先にふれた。
 明治十四年東京で第一回内国博覧会が開かれた。彼は府に出願して全国老農老大集談会にも出席、私費で五○日間東京に滞在して製糸について学んだ。生糸結束器と揚枠器を買い求めて帰り、郷土の製糸家たちに使い方を教えるなど製糸業発展にもつくしている。
 明治十七年九月朝鮮政府要人、金玉均等が来日した際、蚕業開拓のために教師派遣を京都府知事に懇請した。府は直に松尾五郎兵衛を推した。彼は三○万本の桑苗を用意して長崎から出航した。朝鮮についたが折悪く朝鮮国内の動乱にあい、朝鮮に在ること三日で退去を命ぜられた。退去に当たり朝鮮政府要人朴泳孝、金玉均等九人の日本亡命を助けた。長崎に帰り彼らを保護、服装姓名を変えさせ、旅費支度を整えて彼らを無事横浜に送り届けたという逸話が残っている。
 明治二十年九月、京都府蚕糸業取締所(当時福知山に在り)副頭取に就任、在職二年で退いた。その後任が波多野鶴吉であった。
 明治二十二年ごろから自宅で近隣農家の蚕種の催青と掃立を引き受け、やがて千原・河守・常津・在田の農家の掃立も無料で行い、共同掃立の道を開いた。また一齢、二齢の試育をしてみせて飼育法を郷土の人々に教授している。
 彼はまさに郷土における養蚕の先覚者といえる。しだいに産を失い、明治二十五年五月一家を大阪に移し再起を計った。老後は孫たちを相手に平穏に過ごしたというが、大正十二年七九歳で京都にて没した。 教育編に登場する小墻近太郎を幼少の頃自宅に引き取って養育したのも松尾五郎兵衛であった。小墻近太郎は河東小学校長として、また退職後も村長になり、終生を河東村に尽した。河東公民館にはこの二人の頌徳碑が立っている。  〉 

《大江のむかしばなし》
 〈 負うてくれえ地蔵の話  千原 山下 三好
 これは、わしの母が、まんだ生けっとったときに、よう話してくれた話じゃけどなあ、どうやら、母の爺さんか、ひい爺さんのことらしいんじゃで。その時分には、千原から有路へいくんに、まんだ、今のじゃくの道がなかったで、いんだぬきからえんど坂を越いて行ったんじゃがのう、野上へおりたとこに堤があってのう、そのそばに地蔵はんが立っとったんじゃ。その地蔵はんは、晩、人が通るとじきに、
「負うてくれえやあ、負うてくれえやあ」言うっちゃで、『負うてくれえ地蔵』という名がついとったんじゃげな。
 春のこっちゃか、秋のこっちゃか、とにかく、時候のよいときのこっちゃったんじゃろが、お爺は用があって、有路のいっけへ行ったんじゃなあ。そして、そこで、ご馳走や酒をよばれとって、もどるんが遅うなってしもて、地蔵はんのそばまで来た時分には、夜中も近なって、もう真暗んなってしもとったんじゃげな。お爺はここまで来ると、一服しとなったで、地蔵はんの前で腰かけて休んどったんじゃが、一人で、話し相手もなしに歩いて退屈しとったし、一杯機嫌もてっとうて、地蔵はんに、
「あんなあ、地蔵はん、おまいは、人さや見たら、じきに、『負うてくれえやあ、負うてくれえやあ』言うちゃげなが、今夜はうらが負うたげるで、負われてみないな」言うたけど、地歳はんは、ちっとも負われっちゃなかったんじゃげな。ほれからは、お爺は地蔵はんの話をするたびに、だれやかいに、
「あの地蔵はんはなあ、『負うてくれえやあ、負うてくれえやあ』言うけど、あれはうそばっかりじゃ」言うとったげなで。  〉 




千原の小字


千原(センバラ) ヲクシミズ コダキ モチノベ 江口 タグチ 下嶋 大坂 下ケ岡 小田岡 柳原 中岡 上ケ岡 五間割 中割 北南 上嶋 家下

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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