丹後の地名

泉源寺(せんげんじ)
舞鶴市泉源寺


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京都府舞鶴市泉源寺

京都府加佐郡志楽村泉源寺



泉源寺の地誌

《泉源寺の概要》


泉源寺は志楽谷の出口にあたる。ここもひろくて現在の泉源寺・愛宕・龍宮・市場・松ヶ崎などにあたる。だいたい東舞鶴高校のあたりから志楽川の河口まで、海自の教育隊がある所も当地である。
『加佐郡誌』によれば、地名の由来は往古寺院が千軒あったことによるとも、氏神愛宕神社の本社が浅間の奥の社であったことによるとも、地下水が湧くので千軒が集ったことによるとも。
しかし本当は泉源寺という寺院があったからで、泉源寺(寺院)の名は永正10年(1513)四月五日付の恵和田地作職宛行状(梅垣西浦文書)にみえるのが早く、村名は永禄4年(1561)正月四日付の西浦抱分田地指出(同文書)を初見とする。泉源寺(寺院)がいつ頃退転したか明らかでないが、小字名に寺屋敷・坊中・坊中奥などが残る。なぜこうした寺号になっているのかは不明。
『角川日本地名大辞典』は、「丹後国加佐郡志楽荘春日部村のうち。「梅垣西浦文書」中に所見。当村には「郷政所」を称する西浦氏が居住していた。永禄10年4月29日には「泉源寺上垣」が、天正2年3月7日には「鹿原宿の次郎太郎」が、同4年5月6日には「泉源寺村上垣三郎次郎」が、それぞれ田地を「泉源寺(村)」の西浦氏に売却している。永禄4年正月4日付の西浦抱分田地指出、同年2月28日付の西浦抱分名田年貢等注文が残されているが、それによれば西浦氏は泉源寺村内に安弘名10分の1・武元名10分の1・末寺名6分の1などの抱分を有している」としている。
泉源寺村は、戦国期の「梅垣西浦文書」中に所見。当村には「郷政所」を称する西浦氏が居住していた。
近世の泉源寺村は、江戸期〜明治22年の村名。田辺藩領。枝郷に市場村があり、「慶長郷村帳」には端村として「志楽」の名が見える。明治4年舞鶴県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。
泉源寺は、明治22年〜現在の大字名。はじめ志楽村、昭和13年東舞鶴市、同18年からは舞鶴市の大字。明治40年新舞鶴町市場に編入された。昭和15年地内の松ケ崎に舞鶴海兵団が新設された。同26年一部が愛宕浜町・愛宕上町・愛宕中町・愛宕下町・竜宮町となった。

竜宮町付近(昭和初期) 川面を小船がゆくのどかな情景。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)


《人口》570《世帯数》210


《主な社寺など》
八幡神社2社
熊野神社
御霊神社
真言宗鹿原村金剛院末智性院
『加佐郡誌』
笠松山智性院、真言宗、志楽村


臨済宗南禅寺派日円山龍興院
『加佐郡誌』
月円山龍興寺、臨済宗、寛永八年創立、志楽村

『舞I市民新聞』(06.4.11)
臨済宗南禅寺派・日圓山龍興院(その一)
十王図(地獄図)住職 一常恵州
 志楽谷の泉源寺地区は、南北朝時代には奈良西大寺(南都六宗のうち律宗)の荘園としてその支配下にあった。しかし時代が下ると鹿原の徳蔵院(永和二年・一三七六)、小倉の桂昌庵(享禄三年・一五三○)と、そして当院であるところの龍興院は弘治年間(一五五五〜五七)に創建され、同地区は時代毎に栄え、あたかも門前町の様であったという。しかしこの頃になると、西大寺の支配も次第に弱体化し、臨済宗南禅寺派の寺院として移行していった。
 現在の龍興院もまた同宗である。当院のその頃の来歴は「よく解らない」とご住職はおっしゃる。「ただこの寺院が創建された少し前の時代に、若狭勢(若狭武田氏)の侵攻があり、それを迎え撃った丹後勢(一色丹後守護)との戦(文明元年一四六九〜天文九年一五四○)が十数回繰り返され、周辺の疲幣と困窮は散々であったし、敵味方の遺骸は野にあり惨状は眼を覆うばかりであったと伝えられ、そして戦の主戦場は泉源寺でした」と。
 龍興院には「十王図」が伝来している。当院の創建より古いとされる泉源寺十王堂に寄進されていたものだという。
 舞鶴では、その存在が珍しいとの事だが、ようやく修復が終ってもどってきたとお聞きした。私も早速拝観させて頂いた。まだ木の香りの残る本堂脇の部屋に、軸物に表装してかけてあった。都合十幅である。どの軸も四百年を経ているとは思えない位、彩色も素晴らしく、相当傷んでいたという痕跡も見えない程である。
 縦百四十七センチ、横八十センチの堂々たる彩色図である。一般に「地獄図」と言う。 人間は死ねば一度は冥界に行き、地獄の閻魔さまに生前の裁きを受けねばならぬという。
 閻魔大王が、亡者に対して生前の罪を裁く図(場面)である。勧善懲悪と因果応報を過酷なまでに暴き、閻魔さまが下す罪科は棲惨を究める。「悪いことをすれば、こうなるぞよ」という図解である。…


梅垣西浦文書
大谷城址

《交通》

国道27号線

《産業》
泉源寺銀山
泉源寺の地名からも、片目の鎌倉権五郎を祀る御霊神社が鎮座(当地)することや、東隣(田中)には金山彦神を祀る鈴鹿神社が鎮座する、これらはどう見ても鉱山だし、さらにまた「倉谷」「金焼」という小字があり、『ふるさと泉源寺1』にその考察として、
(金焼) 金気で作物が傷んでしまう所……
これはその通りと思う。倉谷が古い鉱山で明治期には再び採鉱されたのである。私の小さい時倉谷の山へたき木とりをすると言ってその実は山遊びによく出かけた。古いマブ(穴)がしだでかくれているから右側へは登ってはいけないと何度も注意された。そのころマブには名がつけられていたが(お○○マブというような女性名であったと思う)記憶に残っていないのは残念である。


『舞鶴市史』にも
加佐郡内の鉱山は、中世、南山村に銀銅山が存在したことが「田辺藩土目録」によってわかる。すなわち、
  定免四ツ四分
   一  高八石六斗九升   同村銀掘跡
とあり、江戸時代は畠になっている。
江戸時代は「瀧洞歴世誌」に次のように記している。
 延享元年(一七四四)
   四月より池の内銀山はしまる 同むろ谷ニ而掘ル同せんげじ村ニ而ほる昔こわぎ長助と云者の掘し古まぷのよし
とあって、延享元年四月、藩内に三か所の採鉱が始められたのであるが、鉱石は池内の銀と室尾谷・泉源寺も同様と思われる。

文献的にはこの時代のものしか見当たらないが、たぶんもっと古くからこうした「古まぶ」の銀山があり、最近では明治になってからも一時再開発されたようである。
「金焼」といえば、山椒太夫の「金焼地蔵」があり、この地蔵は元々は金剛院にあったと言われる。焼きごて痕を治したというより、鉱山に関係した地蔵でなかろうか。

せんだって、「鉱物ド素人」を自称される谷口徹さんよりメールをいただいた。シロートなんかでなくプロだと私は思っているのだが、「理学部のゴミ箱(副題 鉱物才集日記)」のブログも立て上げておられる。
各地を現地調査されているが、泉源寺にも足をのばされ、そのメールによれば、東舞鶴高校の裏の倉谷の奥に舞鶴鉱山の暮谷にあった様な石積みの堰堤が二段、鉱山施設跡、坑道とズリがある。坑道は結構深そう。赤煉瓦が落ちており、窯の跡か。カラミも少量。鉱石らしい物はほとんど残っていないが、極少量の方鉛鉱があり、これから銀を取ったと思われる。大きな施設の割に、産出量は少なかったと思われる。また、堰堤の作りが、舞鶴鉱山の堰堤と良く似ているので、何らかの繋がりがあったと思われる。
とされている。
それらの写真も数枚添えられているが、詳しくは紹介できない。なぜならまず危険、工事現場のように所だからシロートが入るのは本当にヤバイ。それにあるいは遺跡が傷つけられたり、ヘタすれば破壊されるかも知れない。学術調査などは期待できそうにない、何時の日かその日が来るまではこのままで残しておかねばならないからである。



泉源寺の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
泉源寺村
龍興院は鹿原村徳蔵院末寺禅、智性院は真言鹿原山金剛院末寺なり、熊野三所権現氏神なり、笠松山愛宕権現社、同山白山権現社、同山稲荷明神夷社あり。

粟屋山城古一色左京家来大嶋但馬守居住す或る説に粟や丹波守共。
大谷城矢野藤市居住、信長の御時なり、泉源寺堂奥の境にあり。
人皇四十三世之帝日本国の郡里名付を成下し給ふとかや、其頃白楽の谷を春日部村と云て南都領なり後同所西大寺へ光明真言料として寄附せらるるとなり正平七年二月十三日先規を改め光明真言料に之を寄附すと、後村上天皇寄附状下し給ふ、又後醍醐天皇吉野へ都落之時神璽宝剣内侍所を持たせ御幸給ふ、王代四代立わかり年数五十六年の間天下相い戦い静 セイヒツならず、百一代の帝後小松院御威勢強く渡らせ給ふ故、後亀山院和睦の上三の宝平安へ渡し給へば則ち大上天皇と尊敬し給ふ。
是より天下太平に治まれば春日部村もいよいよ南都領変波もなかりけり、天文年中義治の治世に至りて南都寺領米収納せざるに付て庄官どもへ催促ありといへとも用ひざるの故に、奥丹後熊野郡一色伊賀守へ西大寺より之を頼むらよりて、家人志万遠成゙を指越し春日部の寺領奉行して二、三年納銭す、天下乱世の節なれば遠成よき折柄と思ひ南都へ申遣様若狭、丹波、丹後の境なれば中々某が下知を用ひざるらん、是非なく候と申遣し候、春日部を押領し泉源寺に居住する。
彼遠成、仁勇の三徳そなわりたる者の故に、伊賀守頼しく思ひ君臣の間も浅からざりき然るに遠成一国の領主とも成べしと思ひ、所為を企て縁を催すれば志楽の庄も大形随身す、其頃粟屋久慶は河州に於家房を堅め居住する、遠成思ふやう粟屋久慶名高記兵なり、彼に申合せんと近付歎る旨越語れば能こそ仰候ものかな風前の燈のこと記士ふの習殊に若州へ帰なん事こそ望なれと悦びにける、急記家房に由を申けれは、最至極なり志からば加勢すへしとて、熊谷彦三郎、中村一家加勢して既に打立ける、粟屋丹後守、同馬之丞、同又四郎、同甚九郎、其勢都合三百騎、天文二十三年九月朔日田辺の郷へ着陣する、其時志万遠成は白楽シラクの庄特崎丸山に居たりしが申合しごとく急記罷集屋記のむね相触けるに依て、西浦権守知中加賀守、垣内伊賀守、山本備前守、各馳集る、其外庄官のこらす招寄せ軍評定をぞしたりける、白楽の庄をかため倉橋の郷大内庄田辺郷をかたらひ、四百余き都合七百余き天文二十三年甲寅九月三日勢揃、特崎に城を構へ各示合て、この上若州へかとんてに、高浜へ押寄、逸見駿河守を踏つぶさんと内談す。
この事若州へ聞しかは内々望所なり、敵に勢のつかざる内に是より押寄うちとらんと、国中越前の国まで相催す、是又かくれあらざれは遠成聞て定て急に寄来らん、城の廻り能かため、山の尾崎尾崎に矢ぐらをあげ、平地にはらん杭ししがき結まわし、丸山渕嶋までかためたり、時を移さず三千余騎天文二十三年寅の霜月中旬寄せ来のよし聞ゆ、先手合の待城に、うばが山、北は村田山に陣をとり道をとめ、らぐいししがきゆひまわし、両所より打出陣をとる、若さの先陣は吉坂へうち出、在家放火して三千よきを以て無二無三に責ければ敵に取りまかれては叶まじと一手陣を引きたりける。

《丹後国加佐郡旧語集》
定免八ツ二分
泉源寺村 高五百四拾石五升弐合
     内拾石三升弐合 万定引
     七拾五石御用捨高

古城 粟屋丹後守 信長公御代 矢野藤市
智性院 笠松山 泉源寺 金剛院末
竜興院 日円山 徳蔵院末
愛宕権現
白山権現 愛宕未社
熊野三所大権現 氏神 鍵取 智性院
御霊明神    氏神
八幡宮 市場村 氏神
淵島八幡宮
地蔵堂

《丹哥府志》
◎泉源寺村(市場村の北)
【御霊明神】
【笠松山泉源寺】(真言宗)
【日円山龍興院】
【粟屋丹後守城墟】
 【付録】(三社権現、愛宕、白玉権現、八幡宮、浅間権現、智性院)

《加佐郡誌》
泉源寺は昔寺院が千軒あったからと村の名としたといふことである。市場は単に西方の一部であった由。城址があるが、これは織田信長が覇を称へた頃栗屋丹後守の居城であったといひ伝へられている。泉源寺は愛宕神社を氏神としていたによって、本社は浅間の奥の社であるから、浅間を泉源に改めて村名にしたのである。(旧語集)

《舞鶴の民話4》
京極マリヤ(泉源様ともいう)(志楽)
 細川幽斉が田辺の殿様にきて、息子忠興と共にいたとき、忠興の嫁として、明智光秀の娘をむかえた。娘は当代きっての賢女であった。そのころキリスト教が布教され、この嫁も信者となり、世の人はガラシャ夫人といった。このガラシャは有名で現在、いろいろの出版社から本がでている。細川氏の次に田辺の殿様になったのが京極氏であった。なかなかよい政治をしたそうだ。その高吉の嫁もキリスト教信者で京極マリヤと言われていた。彼女の息子は小浜城主の高浜、田辺城主の高次であり、兄の浅井長政の妻は織田信長の妹のお市の方であり、秀吉の側室の茶々(淀君)の叔母である。世は江戸幕府で、キリスト教は邪教だと信者に対し圧迫をなし、はりつけになる信者もあったそうだ。そこで、京極マリヤにもその手が迫ってきた。息子の田辺の城主の高次がその身を案じ、城下の泉源寺に身をひそめさせたのである。マリヤ自身棄教を迫られたとき、果して信仰を守り通すことができるかどうか疑問であった。自分の信仰故に、京極家を守り、信仰を棄てぬと言い切ることができようか。
 大阪のキリシタンについては、その後もおりにふれてマリヤのもとに情報がもたらされた。神父のポロは、煙でひどく眼をいためながら大阪城を脱出、トレスは死体の山をこえて岸和田に逃れたという。マリヤは思う。戦略にたけた高山右近が大阪にいたならば、豊臣もこのような亡び方はしなかったであろう。その右近も、ジュリアの兄内藤汝安も、大阪冬の陣の始まる前マニラに追放されたときく。これも神のみの摂理というべきなのだろう。ただ戦いに死んだ多くの人々のために祈るだけだ。
 マリヤも七十をこえてからは、この地で布教に活躍することはできなくなった。此御堂に人々を集めては「キリスト教の教えを」読んできかせるのが習慣となった。
 「まことに、キリスト教を奉る人は、何もおそれることはありません。完全な愛は、安心してキリスト様へ信頼をもって近づき奉るということなのです」と熱心にといた。
 マリヤはこのことを言うだけが精一杯であった。
 元和四年(一六一八年)もなかばを過ぎようとしていた。此御堂をとりまく、草花のなかで鳴く虫の声は、まだ去りぬ夏の暑さをましているが、此御堂におけるマリヤたちの信心生活は、ジュリアの「みやこの比丘尼たち」にならい「泉源寺様の比丘尼たち」の生活でもあった。
 「泉源寺様がひどく悪くなられたそうな」
 「そういえば氏方様の奥方様もおみえになった」
 「この間の泉源寺様のお話は、何やらご最期が近いのをご存知の上のようでした」
 村人たちの間でもマリヤ(泉源寺様)の病状を案じながら、此御堂の前に集まってきた。日ごろ彼らのいたみを己のいたみとして、彼らのために祈ってきたマリヤの思いやりに感謝しながら。
 マリヤはそばにいる人にたずねた。
 「泉源寺に来て何年になったでしょう」
 「はやいものでもう十二年になります」
 泉源寺マリヤは、枕頭のマグダレナ、竜子に「そなたたち、この此御堂で、祈りと犠牲の信仰生活をつづけて下さい。キリスト様はいつも祈る人々と共におられるのです。そして京極家のためにも、ご加護を祈って下さい。キリスト様のみ旨ならば、京極の家は、末長く栄えつづけるでしょう」
 野菊にかざられた聖母像が、マリヤを見守り、おつげの鐘ともきいた智性院のかねの余韻が、くれいく泉源寺のあたりにただよい泉源寺様マリヤは死の前に夢幻の世界にいた。
 キリシタン京極氏のまことの母なる京極マリヤが神に召されたのは元和四年七月朔日(一六一八年八月二十日)のことだった。
 舞鶴に骨をうずめ、舞鶴の土となった舞鶴の人に自分の信じるキリスト教を残しながら今ではすっかり舞鶴の人から忘れ去られようとする薄幸の佳人がひそと眠っているところ、それが現在の泉源寺の此御堂あとなのです。

『まほろば逍遙』
京極マリア
 NHK大河ドラマ「葵徳川三代」の時代を生きたキリシタン女性として細川ガラシヤと共に、今ひとり、当時の宣教師は熱心に布教活動をした敬虔な信者京極マリアの名を書き残しています。彼女は丹後国主で田辺城の主京極高知の母であり、晩年を丹後若狭境の泉源寺の地で送ったのでした。
 京極マリアは近江小谷城主浅井久政の娘で、淀君たち信長の妹お市の娘には伯母に当ります。一五六二年浅井家のために四十近くも年上の京極高吉に嫁ぎ、五人の子をもうけました。京極氏は近江源氏佐々木氏の系譜をうけた名門ながらすっかり衰微していました。高吉は再興を願って嫡男高次を岐阜の信長のもとに送りますが、浅井氏は信長に背き越前朝倉氏を援けたために一五七三年ついに滅ぼされてしまいました。久政長政父子の死だけでなく、母までも指を一本ずつ切り落した末殺されるという悲劇に遭ったのでした。
 娘の竜子もまた戦国乱世に翻弄されることになります。夫若狭国主武田元明が明智光秀の誘いに応じたと疑われ自害させられた後、好色な秀吉に京へ連れていかれます。しかし、秀吉の側室松の丸となった彼女は、光秀に加担した兄高次の命を救い京極氏の再興に努めたのでした。やがて高次は大津城主となり、関ヶ原の戦の折の大津籠城の功を高く賞されて、若狭八万五千石を与えられます。一方、次男の高知は徳川方についての勇猛な戦い振りにより、細川氏転封後の丹後十二万三千二百石を領国とし、一六○一年田辺に入城いたしました。
 信長が安土に城を築き宣教師を招いていた頃安土に住み、一五八一年に夫京極高吉と共に洗礼を受けた彼女は、京極マリアの名で歴史に残ることになります。夫の死後は大坂へも赴き、救いを求める人びとの心の支えとなり、多くの人を信仰に導いていきました。しかしながら、九州のキリシタン隆盛に怖れを抱いた秀吉が一五八七年宣教師追放令を出してから、主君よりも天主の命に従うという教えは邪教として禁止、信者の迫害となっていきました。
 戦乱の世とはいえ京極マリアには、秀吉の勧めで娘松の九と有馬へ湯治に行くなどの日々もあり、大名の母として、また弟の娘たちは長じて淀君は秀吉側室・秀頼の母となり、初は京極高次室のちの常高院であり、末娘お江(小督)は徳川二代秀忠室・家光の母というそれぞれ確たる地位を築きつつありましたから、かなり自由な恵まれた生活であったことでしょう。
 しかし、信心厚い京極マリアの生き方はキリシタン禁制の厳しくなる中で次第に難しいものとなり、一六○六年娘マグダレナ(朽木宣綱室)の葬儀をキリシタンの礼式で取り行った後、京を離れて高次の居城小浜へ住むことになりました。高次は病をえて一六○九年に亡くなりますが、その前に高知の領国丹後の若狭国境近い泉源寺に隠棲地を定めたようです。京極マリアは智性院近くの、愛宕山登り口の十坪ほどの「此御堂」を修道院のようにして、侍女たちと共に祈りと信心の生活を守りながら一六一八年七十六才の生涯を終えました。
 都との交流は続いていたこと、泉源寺様のお顔は見てはいけないので村びとは出会っても知らん振りすることにしていたという話が伝えられています。一方、キリシタンを隠すためでしょうか、泉源寺さんは豪の者で大飯食らいだとか、死人の墓を暴いて食べると恐れられたなどという話も語り継がれています。
 此御堂は昭和五十三年取り壊されましたが、それまでそこには持仏と思われる阿弥陀如来坐像と位牌が安置されていました。位牌には「養福院殿法山寿慶大禅定尼」の法号とその右に佐々木京極若狭守同丹後守御母と記されています。此御堂跡を少し山手に入った所に泉源寺様の埋め墓があり、今に守り続けられています。         (二○○○・六)




泉源寺の小字

《舞鶴市史》より
泉源寺 古清水 向坪 沖手 松尾田尻 下リ度 松尾田 塩金田 古川 長谷口 岩ケ谷口 土井ノ内 道下 マガリ サソツ 白戸 石橋 上川田 井根口 樋ノ本 天神田尻 天神田 福西 才ノ神 前田 薬師前 堂前 越リ 古尻 立田尻 金焼 河原浦 河原 立田浦 通リ堂東 堂東 大柳 御霊ノ下東 薬師東 御明 山ノ腰 御霊ノ下 三味口 女夫石 地蔵 馬場 立田 金田 大将軍 引地 車脇 堀口 平林口 三石田 上井根 下井根 長畑 日焼田 的場 赤迫口 尼ケ谷 野ノ上 殿ノ奥口 殿ノ奥 御霊東 御霊ノ艮 大矢方 御霊ノ上 御霊ノ西 堂ノ奥 村中 村上 上寺口 大迫 上寺下 宮ノ奥 宮ノ前 窪田 引屋敷 古橋 宮ノ下 寺屋敷 坊中口 坊中奥 坊中尻 投網山下 高屋 佐古田 小島 上垣 足谷 毛ミ谷 桜ケ谷 上垣口 下高屋 特崎 小谷 助ケ谷 四十八 知中 フラケ谷 別当坂 東ノ奥 東ノ奥口 椿原 西ノ奥 椿原下 山ノ神 西堂田 西ノ谷 坂尻 西ノ谷奥 松ケ崎 月ケ浦 志楽畑 倉谷 大館 坊中 向山 安長口 岩ケ谷 公文 フキノ坂 垣ノ内 東仙房 尼ケ谷口 縄手 百性谷 溜池ノ下 赤坂口 倉谷奥 峠口 御霊 西ノ坊 足谷口 元舟屋 西ノ奥口 西ノ谷口 ウサミ

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