丹後の地名

蓼原(たでわら)
福知山市大江町蓼原

付:船戸神社

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京都府福知山市大江町蓼原

京都府加佐郡大江町蓼原

京都府加佐郡河西村蓼原

蓼原の概要




《蓼原の概要》

河守の一つ上流側の集落で、河守とは町続きのようになっている。東京と横浜の関係である。
由良川の左岸に位置し、北西の小原田地内に発する蓼原川が由良川に流入する。由良川に並行する国道175号(宮津街道)が山ぎわを走り、府道西坂蓼原線を分岐する。蓼原村はこの付近では最も低地にあたり、古くより洪水の脅威にさらされ「水つき村」の異名があったという。何メートルか地上げがなされたが、それでも当地での営業はあきらめたとか今もスーパーが撤退するとか話題になる。水運には恵まれたのだろうが、水に恵まれすぎて蛙がなくと水がつく事態となるよう。
山間の小谷(こだに)は蓼原から分かれて自治会を組織している。
蓼原村は江戸期〜明治22年の村名で、天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年宮津藩領、享保2年からは幕府領。
『京都府の地名』は、「近世、由良川の物資輸送は有路高瀬船の特権的地位が確立されていたが(「有路船役文書」平野家文書)、寛保年間に蓼原村は久美浜代官所を背景にして舟運の利に割り込もうと画策したが、失敗に終わった(源六心覚書)。しかしこの問題は享和年代にも再燃しており、由良川舟運の利益がいかに多かったかがうかがわれる。」としている。
蓼原は明治22年〜現在の大字名。はじめ河西村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。

《蓼原の人口・世帯数》 159・54

《主な社寺など》
室町期に新治小次郎が住したと伝える山城
富士神社
舟戸神社
愛宕神社

《交通》
国道175号線

《産業》舟戸神社+富士神社(蓼原)


舟戸神社

古代の風土記残欠の時代から由良川舟運が衰頽する明治後期まで、ずっと蓼原の水運と水の神様がこの舟戸神社であった。フナトは船渡のことで、蓼原に限らず、由良川のあちこちの渡場地点にはこの地名が見られるのであるが、残欠の「船戸社」、「室尾山観音寺神名帳」の「正三位船度明神」はこの蓼原のものと思われる。
現在は社地がなく「冨士神社」に居候ということである。蓼原から小原田へ入る道筋、少し入った所の山裾に祀られている。

案内板に、
 〈 冨士神社の由緒
祭神 木花咲耶姫命(木之花?屋姫命)
 富士山の優美な山容と、うちには強力なエネルギーを持つ「活火山」のイメージは、人々の信仰を集め、神として崇拝していましたが、後に祭神を「木花咲屋姫命」と定めました。
 木花咲耶姫命は、「古事記」「日本書紀」の神話に見られる神で、「オオヤマズミノカミ」の娘、皇孫「ニニギノミコト」の妃といわれ、「安産の神、子安の神」としても広く信仰されてきました。
 平安時代(七九四−一一九二)中期には、冨士信仰と富士登山の宗教的風俗が広まり、山頂の浅間神社、山麓の浅間神社(元官弊大社、富士宮市)を中心にして各地に「望拝社」「遥拝社」が建てられ、全国に一三一六社を数えるという。
 当、冨士神社もをの流れに沿い、古来より「富士講」の組織が連綿と伝わり、富士講を催し、富士登山を行うなど、生活と信仰が硬く結びついていたが、昭和初期の戦争や敗戦等の大動乱期の境から衰微したといわれる。


舟戸神社の由緒
祭神 舟戸神
 当地方の最古の伝説「丹後風土記残欠」に「日子坐王」の物語が収められている。(日子坐王は、崇神天皇の弟で四道将軍として派遣された「丹波道主命」の父。)
 崇神天草の御代、青葉山中に「陸耳御笠」、「匹女」を首領とする「土蜘蛛」が人民を苦しめるので、勅命により「日子坐王」が討伐に来ました。「成生」、「匂ケ崎」、「志高」、「千原」、「蓼原」、「河守」などで両軍は戦いましたが、「匹女」は「千原」で殺されました。その後、下流から「日本得玉命」が賊退治の加勢にやってきたので、「陸耳御笠」は川を越えて下流へ敗走しました。
 このとき忽燃と一隻の舟が川を下ってきたので、「日子坐王」の軍勢はをの舟に乗り「由良港」まで追いかけましたが、賊を見失いました。
この舟を地元では「舟戸神」として、蓼原港に近い山腹に祭ったといいます。昭和四〇年、国道一七五号線の改修工事で社域を失い、冨士神社の社域に遷座しました。
平成一五年一二月吉日  〉 

薬師如来を本尊とする「医王山成願寺」もあったという。これは栗田の七仏薬師のお寺と同じ名で、このあたりが水運だけでなく、金属とも、だから土蜘蛛とも関わり深そうな土地とわかる。「土蜘蛛」たちは金属と水運を支配していたと考えていいと思う。



蓼原の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
 〈 川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原(今の蓼原)ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占(由良の石浦)ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食)  〉 



《丹哥府志》
 〈 ◎蓼原村(河守駅の西、丹波街道)
【富士権現】  〉 

《大江町誌》
 〈 蓼原
 天領蓼原河港 由良川下流に点在する天領四か村のうち、早くから船着場を開き、船持のあったのは、蓼原村であった。
 元来、由良川舟運全般に就ては、河口を制し下流一帯を領する田辺藩が、最優位な立場にあった(上巻第五章)ことは当然であるが、中流を占める福知山藩も、丹波の豊かな物産と人口を背景に、多くの町船を動かしていて、やはり、相当な力を持っていた。
 この両者の狭間にあった蓼原河港は、天領とはいえ、常に二大勢力にその活動を抑制されていたといえよう。
 蓼原舟と福知山領川舟のせっしょうを示す次の報告がある。(史談福知山・芦田完稿)
  天明六年(一七八六)蓼原と福知山船持との交渉では、「通過料を支払うことによって川上(大島堰)から米を廻船するほか、米以外の荷物は、福知山より上流に積上げてはならぬ」というとりきめであった。実際には福知山の船仲間へ船継銭を納めて、大島堰(綾部藩)まで運航もしたが、自由を大きく制限されていた。
 一方、有路船による二ケ村河原〜福知山の独占的運航に対しては常に不満で、しばしば久美浜代官にも自由運航を願い出ていた。寛保二年(一七四二)四月には、有路船の遡上を、実力で阻止する事件(上巻参照)を起こし、一一○日間に亙って福知山への運航が止まっている。江戸出訴の結果は、蓼原の全面敗訴に終わった。これは、蓼原船が商い船として公儀に登録されていなかったのを、久美浜代官が認めた結果であろうと思われるが、登録のいかんを問わず、蓼原船は現存し稼働していたのである。五○年後の寛政八年にも、再び有路船差留めの挙に出ており、この対立は維新の自由化まで続けられた。
 以上のように、上下両藩の圧力を受けながらも、宮津藩河守町の外港として、積み出しの物産も陸揚げの物資も、相当量を扱った蓼原船着場とそこにあった船持ちの力は、現実に認めざるを得なかったものと考えられる。
 河守町・関村などの宮津藩領からの年貢米が蓼原の港から廻送されたことは、関村文書(町教委蔵)によって明らかである。関村文書の諸色指出帳では、明和四年(一七六七)から安政二年(一八五五)・明治二年(一八六九)に至るまで、一貫して左のように記されている。
    御年貢附送
  津出ハ御料所蓼原村迄持出 由良船ニ而宮津着 船路拾壱里計リ之由 運賃俵ニ付壱升ツツ 但右御廻米俵ニ付銀弐分宛 田辺御領分有路村ニ而やな役指出候 尤やナ之儀ハ秋彼岸より実ノ入迄
  (註) やな役とは鮭やなを開いて通す通行料である(詳細上巻参照)
 河守町の場合は、貢米を代銀納に願い出ていたことからか、貢米廻船の文書がほとんど発見されていない。
 とにかく、御料所(天領)の貢米だけでなく、宮津藩領の貢米も蓼原から積み出していたことを見ても、河守町や関村の外港であったことは間違いなかろう。
 蓼原の船着場は、古くは舟戸神社下であったと考えられる。(上巻・川欠地争論の図参照)後年の新川掘削以後、これが本流となってからは、舟戸神社下への屈曲部は古河化し、後掲の図に見るように、現在の由良川とあまり変わらぬ位置に、移動したものと考えられる。そこには一番舟戸から五番舟戸までの地名が残っている。

近代の謬原 明治七年(一八七四)豊岡県の船税の対象となった荷船は左のとおり。(第一章三節参照)
  蓼原村・南有路材 各六艘
  二箇村       四艘 五間以上の高瀬船
  北有路村・三河村 各三艘
 蓼原船が、自由化の中で、南有路に匹敵する繁盛ぶりをしていたことがわかる。
 明治後半になって舟運が衰微すると、蓼原は河守町新町の地続きである上、渡し場を接点として河東村にも近い商店街として便利な位置にあった。小原田、小谷への通路が整えられ、役場もここにおかれて河西村の中心になっていった。
 蓼原の町のあたりは土地が低く、水害の頻度も高く、明治四十年の大水には、町筋の家の大半三九戸が流失又は全潰するという惨状であった。
 明治三十年代後半には既に由良川舟運は衰微に向かっていたが、町筋の二一戸が農業以外の商工業を営んでいた(新治一夫調)。四十年の大水のあとほとんどの家は再建し、前述のように、河西・河東両村を主な商圏とする商店街に復活していった。大正末から昭和初頭にかけてが、その最盛期と考えられ、次の町並図に見るように、町筋のほとんど四○戸近くが、何らかの商売を営んでいた。
 「頌徳碑・仁張萬作翁」によれば、昭和四年一月、宅地嵩上を決め、同六年国道改修と並行し、困難を克服して、昭和七年六月これを竣工している。この大工事によって、旧国道筋で二メートル〜三メートル余も嵩上げされ、特別の大水以外は、水難を免れるまでになった。さらに南側は、最近国道パイパスエ事に便乗して嵩上げされ、町筋の家々は多くが道より宅地を一段高くし、一応安心できる状態になった。
 蓼原村昔語り(手記)
  二階から三味線と締め大鼓の音が賑やかに、芸者はんの唄や仲居さんに戯れる客の声も洩れてくる。狭い蓼原の町にこんなお茶屋が二軒もあった。他所の通りがかりの人も、「蓼原は景気のよい村じゃなあ」と思ったげな。七○年程も昔のはなしです。
 その蓼原、由良川舟運の盛んなころは、一番舟戸から五番舟戸までの船着場があって、一寸した港町であったという。(五つの船着場が同時に開かれていたか、年と共に移動したかは定かでない。)お茶屋・餅屋・うどん屋から米屋・酒屋・魚屋・呉服屋などの店、客を乗せる人力車・小荷物は毎日通う常便・大荷物は荷馬車など、ほとんどの家が何かの商売をしていて、ここへ来れば一応何でも調うので、人の往来も頻繁であった。
 蓼原といえば「水つき村」の異名をもつ。昭和七年の嵩上げまでは、今より二〜三メートルも低く、「蛙が一声鳴いたら水つきじゃ」。明治何年か、ドイツの技師が視察して、「川の中に住んでいると思わなあかん」と言い棄てたとやら。それでも人々は、天災じゃと諦めがよいのか、慣れっこになったのか、割合い楽天的で、毎年、梅雨のころから始まって次々と洪水が襲い、家の乾くひまもなく畳を敷くときもないまま夏を越すのが常のこと、壁は崩れ落ち繕いも「又水がつくから」と一時凌ぎの膏薬張りの気楽さまで身についた。
 由良川で帆かけ船を一、二度見たように思うが、舟便はいつの間にか衰えてしまった。
 蓼原の中央を流れて大川に注ぐ上川(蓼原川)。この川は、村人の飲み水であり、洗濯場でもあった。飲料水は朝早く汲みとる。赤ん坊のおしめ洗いは遠慮して、ずっと川下でする。川岸の台状の石の上に洗濯物をのせて、赤い腰巻から白い脚を出して、調子を合せて踏み洗いする。今でも絵のように目に浮ぶ。その上川も世の流れと共に変りはて汚れた感じ。
 夏の名物は水無月祭、余興は毎年浄瑠璃と決っていた。出演は常連の顔見知りで、プロ野球のファンもどきに声援して楽しんだ。いつも露払いをする人気者のKさんも、最年少のMさんも、長命であったが今は亡い。
 今は跡かたもないが、役場の奥の庵寺。六間半に三間半、濡れ縁つきで草葺き、本尊は薬師如来立像、七○○年も経っていたとか。たしか医王山成願寺といった。無住職で、村が公会堂代りに管理していた。寺の屋根いつぱいに覆う二抱えに余る大欅があって、夏は涼しく秋は紅葉が美しく、冬はいろりを焚いて夜の更けるのを忘れた。あの昔が壊しい。    (蓼原・新治栄一郎)  〉 




蓼原の小字


蓼原(タデワラ) コモ池 岡 由里前 保谷(ホタニ) ユヅロ 菖蒲谷 小谷 出合 谷堀 浦谷 砥石場 葛籠谷(ツツラタニ) ケヲン トロゝシ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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