丹後の地名

田口神社(たぐちじんじゃ)
舞鶴市朝来中


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京都府舞鶴市朝来中

京都府加佐郡朝来村朝来中



田口神社の概要

《田口神社の概要》


田口神社は舞鶴市の北部。東舞鶴市街地の東北部で朝来川の中流に位置する。
朝来中町の西端、北に山を背にして清水の湧く森の中に鎮座。道路脇に大きな自然石の灯籠があるのですぐわかる。祭神は豊受皇大神・日本得魂命・誉田別尊。旧村社。
田口神社本殿(舞鶴市朝来中)
「丹後風土記」残欠に「御田口祠」として「御田口祠者往昔天照大神分霊子豊宇気大神猶照臨于[(五字虫食)]造日本得魂命等使以地口之御田奉、更建校倉其穀実也、故名曰阿勢久良且奠其倉以称御田口祠(以下六行虫食)」と伝える。
また一説には天武天皇の時、丹後若狭国境の青葉山中に土中蛛陸耳御笠という凶賊がおり、郷里に出て横行を極めていた。そこで勅命が降り撃退し、賊は加佐郡川守辺りに退き、日本得魂命の威徳を仰ぎ当社に奉斎したともいう。
貞和三年銘の鰐口があったとされ、その銘文は社蔵文書によれば「丹後国志楽庄朝来村 田口大明神 奉施入 貞和三丁亥年十二月二日 願主 沙弥 成願 大工金山」というものであった。
享徳三年一〇月銘の石灯籠(一基・市文化財)がある。
元々は現在地の上流、長内の乳岩、あるいは杉山の古見郷にあったと言われる。

 旧語集によれば近世は六ヵ村(大波・下谷・白屋・中村・長内・岡安)の氏神であり、中世の郷村結合の名残がうかがわれる。といわれる。
八月六日には夜祭、十月には秋祭で、三年に一度朝来中、大波上、吉野、白屋から屋台が繰り出される。


境内の案内板

境内の案内板

田口神社の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
御田口祠。御田口祠ハ往昔、天照大神分霊子豊宇気大神猶此国ニマシマスガゴトシ。丹波国造日本得魂命等スナワチ地口ノ御田ヲ以テ奉ル。更ニ校倉ヲ建テ、其穀実ヲ蔵ム也。故名テ曰ク阿勢久良ト。且、其倉ヲ奠リ、以テ御田口祠ト称ス。(以下六行虫食)

《丹後国加佐郡旧語集》
田之口大明神。大波、下谷、白屋、中村、長内、岡安、六ケ村氏神。鍵取、大波村 芝原、下谷村 四郎左衛門。

《丹哥府志》
【田口大明神】

(京都府地誌)
田口神社 村社々地東西四十五間南北三十間面積四百三十八坪村ノ西ニアリ豊受皇大神誉田別尊日本得魂命ヲ祭ル相伝フ往古此辺ニ豊気大神ノ神田アリ日本得魂命?メニ穀蔵ヲ此地ニ建ツ爾後其地ヲ阿勢倉谷ト云今尚オ一里以?ノ里号トナルト又云本州青葉山ニ土蜘陸耳御笠ト云凶賊アリ暴威ヲ逞シ郷里ニ横行シテ大ニ民害ヲナス勅アリ日本得魂命ヲシテ之ヲ討伐セシメ玉フ命則チ計策ヲ建テ遂ニ之ヲ討平ス?民大ニ其威徳ニ感シ其霊ヲ当社ニ合祀スト祭日陰暦九月十六日境内末社二座及老杉一株アリ
稲荷神社 社地東西四間南北三間半面積十四坪村ノ東ニアリ稲倉魂命ヲ祭ル祭日陰暦六月六日

《朝来村史》
田口神社 字朝来中鎮座     氏子 長内、白屋、岡安下谷、中村、大波
一、祭神 豊受皇大神、日本得魂命、誉田別尊    七月六日夜祭り角力有
一、由緒
 勧請年暦不詳ト雖村里ノ伝統ニ往古日本得魂命此地ニ御神田アリ以テ豊受大神ヲ祀リ御神田ノ穀実ヲ蔵ル穀倉を建給フ故ニ其地ヲ名ケテ阿勢倉谷ト称シテ今ニ於テ一里余ノ総名ニ存シテ朝来谷ト云フ又一説ニ若狭丹後ノ国境ニ青葉山ト称スル山アリ往古山中ニ土蜘蛛耳御笠ナル凶賊アリ不時潜匿ヨリ郷里ニ出テ横行シ里人ヲ害シ財ヲ奪フ故ニ農夫安居スル能ハス於是勅アリ官軍ヲシテ其賊ヲ追ハシム終ニ同郡川守ノ辺ニ退ク茲ニ日本得魂命官軍ト共ニ議テ咸ク誅戮シ給フ後ニ郷里ノ民俗彌安堵ノ懐ヲ得タリ因テ日本得魂命ノ威徳ヲ仰ギ当社合殿ニ奉斎スト古老ノ遺説アリ而ルニ近村荒木氏ナル旧家アリ祖先荒木駿河守ト云フ祝部当社ニ奉仕シ由縁古記ヲ所有スルニ焼失シテ稍残記ヲ有ス然ルニ明治八年再ヒ焼失シテ悉ク焼ク依テ只村老ノ口碑ニ存スルノミ
「昭和十五年七月五日許可ヲ得テ同村字長内乳岩神社、金刀比羅神社ヲ合併シ境内神社乳岩神社ヲ創立ノ件同年七月二十二日創立完了ノ旨、同年八月二日届出」
一、境内神社 三社
武大神社
 祭神 素盞鳴命
 由緒 不詳
 建物 七尺四方
厳島神社
 祭神 市杵島姫命
 由緒 不詳
乳岩神社
 祭神 大物主命、外四神
 由緒 不詳
 建物 七尺四方
一、氏子戸数 二百戸
 田口大明神縁記伝来 (原文の侭)
一仰々其昔し仁王四十代天武天皇時節丹波後国丹後国両国分り不申一ク国之時当国に悪魔徘徊し人輪住事難及依之天子の御弟金丸親王御上意にて当国御行相成悪魔祓給ひ国家為安全之祈之御念ニ有然者以神力ヲ加護タメ此地長内乳岩元御行成此近辺え諸神勧請シ田口大明神其元神ハ神代日本武之尊奉申尊キ御神金丸親王是を勧請シテ田口大明神奉称則御鎮中ニ天照大神宮八幡大菩薩三社奉勧請シ諸神加護ニヨリ当国悪魔消滅シ国豊ニ納リ難有御神也時代年号白鳳年中勧請ヨリ元禄四年迄年続記千貮拾年ニ成ル元来親王長内乳岩ニ御行之思召ハ乳岩山神ハ古シ本神素盞鳴尊也神代にて此御神輿日本武尊二神共神威の加護達し安全納り御神故金丸親王キセイ有テ当国国家安全ニ納リ諸願成就シ給也昔シヨリ長内ヨリ大波村迄六ケ村氏神興奉拝候
 白鳳年中月日
    神主 大波村 荒木柴原義次 書
    同  下谷村 蔵内四郎左衛門
とあり、日本得魂命が日本武尊とあやまり記されたものか更に又金丸親王と日本得魂命と其の事業が一つのものであるやう考へられるのも注意すべきである。
丹後風土記 抜粋
御田口祠
御田口祠者往昔天照大神分霊子豊宇気大神猶臨于国土丹波国造日本得魂命等便以地口之御田奉更建校倉蔵穀実也故名曰阿勢久良尊其倉以称御田口祠
  此原文の上欄に左の註あり
矢野玄道曰
 天孫本紀倭得玉彦命蓋此人邪其姨為瑞籬宮皇妃則與下文所云同日子坐王襲賊符
因に丹後風土記は今を去る約一千年前延長六年の編纂である。
○祭礼 当社に於て行ふ祭日左の通り
大祭
祈年祭 毎年二月十七日
例祭  同 十月二十三日
新嘗祭 同 十一月二十三日
臨時大祭 同 八月六日(夜祭)
中祭
祭旦祭 毎年一月一日
元始祭 同 一月三日
紀元節祭 同二月十一日
天長節祭 同四月二十九日
明治節祭 同十一月三日
節句祭  同四月三日、六月五日、九月一日、十月九日
大祓祭  同六月三十日、十二月三十一日
霜月三日祭 同十二月三日
小祭
武運長久祈願祭 毎月二十三日 但し戦争中
 例祭には祭当番の字に於て前日境内の飾付、幟たち高張提燈其他の設備を為し、当日定刻幣帛供進使随員と共に参入、古式により当番区長お面を捧持し傘鉾、幟、奉幣と共に参進する。何れも麻裃着用の各字警固竝一般参拝者多数参列の裡に斎王厳かに祭典を行ふ、斯して定めの儀式を了り次に三番叟、芝居、大々神楽等当番氏子の神事あり、非常の賑をもって当日の祭礼を済まし、大太鼓、笛かつこの噺、特殊の優雅な楽調を奏しつつ櫓をひいて参進の時同様賑やかに退下するのである。
夜祭
 昔からたなばた祭りと称し、旧暦七月六日の夜祭礼を行ひ来たったもので、元来秋の例祭よりも此日の祭りが古くから伝はってきて深き意義をもってゐるのである。他の多くの神社と異り一年に二回必ず大祭を行ふのは此れが為で、参拝者の多いこと、角力、手踊りの盛んに賑ひ終夜人をもって境内は埋まり地方有名な祭りである。
霜月三日祭り
毎年旧暦十一月三日に中祭々典を執行するが此日は神無月中出雲へ出向はれてゐた氏神さんがお還りになったおみやげとして、当日、沢山な赤飯を参拝者に頒かつのである。
特に良縁をお結び下さるとして有難くお戴きする風習になってゐる。
(神社旧辞録)
田口神社 祭神 豊受大神・日本得魂命・誉田別尊 同市字朝来中
 往古、日本得魂命この地に神田有り、農耕の守護豊受大神を斎き祀ると、そうして同所に神田の穀米モミを収蔵する校倉アゼクラを建てた。
一説には、天武天皇の皇弟金丸親王が勅に依り当国の鬼賊討伐のとき当地長内の乳岩へ御成りあり、その畔に日本武尊の神霊を勧請し次いで天照皇大神や八幡大神も招遷し三社合祀し、その神威により、凶賊委の平定という。
なお乳岩神は祭神須佐之男尊とある。
右のとおり田口神社は素乳岩に祀られ後長内より現在地に遷座した。
或は字杉山の古見里付近より洪水のとき御神体が此処に流れついたのを斎き祀ったともある。境内には一色修理太夫義直寄進の石燈篭一基在。享徳三年戌十月の銘在り。古来より朝来谷一ノ宮と唱え当谷惣鎮守。土記には御田口社 寺記に中村社とも見える。
棟札
(表)
「         大勧進 中村林次右衛門
              下村倉内四郎左衛門宗次
              大波荒木柴原義次
  聖主天中天迦陵頻伽声大檀那大梵天王上下遷宮鹿原山金剛院現住
                        大工寄金孫助
 奉建立田口大明神宝殿 明和三丙戌歳八月二十七日六宿日 田辺丹波町 総氏子中
                             森本長五郎
  哀愍衆生者?竿今敬礼大願主帝釈天王大檀那牧野豊前守惟成
                       長内永野仲岡字惣右衛門
                 肘邑司白屋松岡太左衛門大波藤原五郎左衛門」
(裏)
「寄池語崇危巳心 火速入光
 有有壬奈神日  洪回海水」
○特殊営造物大石燈篭
明治二十一年朝来中村の発起企業で建設されたものである。全体の重量から謂えば正に日本一の大きな石燈篭と唱へられている。
茎石の廻り二丈五尺
笠石の広さ畳六枚大
全体の高さ一丈八尺
右の内の最大の巨石は此れを南の小野山から曳き出し朝来川を渡たして更に数町のどぶ田の上を通ほし現場に着させたと謂う。当時の氏子の人の神社に対する熱意が窺ひ知られる。
○附説
 当社はもと乳岩に祀られ、長内より現在の位置に遷座せられたと謂ひ、或は杉山の古見郷付近より洪水の時に御神体が流れ出られたものであるとの説もある。併し大波方面の発掘遺物の実態の上から又境内及上地林の樹齢、社地の状相等から判断して、尠とも鎌倉時代以前ならば兎も角、其以後において他から奉遷したものとは考へられないのである。
 丹波の和知村阿上三所神社に現存する鰐口には、丹後国志楽庄朝来村田口大明神と刻してあって杉山とも長内とも書いて無い。恐らく現在の朝来中の神地であった当時のものと思はれる。此鰐口は貞和三丁亥年十二月二日とあるから今より約六百年前の製作である。
 本社玉垣の両脇にある石燈篭の内その東側のものは一色修理太夫義直侯の寄進にかかるもので享徳三戌年十月と彫刻され今から四百八十九年前のものである。
 尚当社の年歴を語る棟札及其他の所蔵祭具宝物等を左に掲ぐ。
(一)棟札
当社棟札は総べて五枚あり其うち
一、材質松、長一尺八寸、幅六寸
…略…
(二)扁額
一、材質 桧 縦一尺七寸五分 横三尺一寸
  天照大神宮
表 田之口大明神
  八幡大菩薩
裏 貞享四丁卯年八月朔日 氏子寄進
二、材、欅 縦三尺二寸 横一尺二寸五分
表 田口大明神
裏 享保九甲辰年五月吉日
三、材、欅 縦三尺四寸 横一尺七寸
表 田口大明神
裏 文化十二年九月吉日
四、材、欅
表 御田口神社
  海軍中将従三位勲二等伊藤雋吉謹書 印
     以上
(三)釣鐘
昔より雨乞の時大波の海へ持出し祈祷をなし来った。
丈、四尺一寸、口径二尺
    田口大明神御賽前
周囲 奉献鋳鳧鐘
    威光増進萬民豊饒所
 元禄十三庚辰稔  願主 浄心
   治工 江州栗太郎
      高野住 藤原 朝臣
         大日又右衛門尉正次
         田中 與兵衛尉氏次
         田中 喜兵衛尉兼般
      祝子 倉内四郎左衛門宗次
      禰宜     柴 原
      中村 林  次右衛門正次
      大波 木辺 久左衛門
 外に寄附名前彫刻あり
(四)鰐口
最古のものは丹波和知阿上三所神社にあり次の鰐口今より二百六十七年以前製作のもの
 真銅製 径一尺二寸、表中央に花の形ありて左の文字彫刻してある。
 延宝四丙辰歳八月吉日
  朝来中村 治右衛門  下谷村 四郎左衛門
  大波村 岡安村 白屋村 長内村
(五)狛
当社狛総べて五対あり、内二対内陣に存し三対は拝殿前両脇に対据せられてある。
内陣の一対は栗色精巧の作品丈二尺一寸桐箱附きで岩崎豊後守寄進と言伝へらる。
他の四対は普通の石造で特記を略する
右の外宝物等の社品あれども省略する

《舞鶴市史》
神事能 (小倉・朝来中)
 近世初期から近代にかけて盛んに行われ、大正末期まで続いた郷土芸能に神事能がある。これは若狭に隣接する志楽地区(河良須神社)、朝来地区(田口神社)に遺存する能面と、社有文書および古老の伝承によって確認されたが、西地域ではこの例は聞かない。
 神前で舞う曲舞は、もともと中世末期から近世初期にかけて若狭地方で多く行われ、現在なお行われていることから考えて、前記二社のものはあるいは幸若・幸菊の系統に属したものが定着していたと想像される。
 いま両社にはそれぞれ二面の能面(翁、黒色尉)が保存されているが、ともに定型化する直前の能面で、裏面にのみ痕を残している。製作は近世初期の桃山時代とみられるが、これを伝世する両社の社構が、本殿の前面に独立した舞殿をしつらえていることから、これを舞台として行われたと推測される。現在、阿良須神社に丹波猿楽の旧家で、後に観世座に属した上和知庄・梅若甚太夫文書(神祇官公文書)があって、文政十年(一八二七)正月の日付があることは、その当時には梅若流のものが行われていたことの証左となろう。
また文書の性質からみて、この梅若甚太夫はそのころ当社の神事執行にも携わっていたことが知られる。

《舞鶴の民話2》
乳岩さん  (朝来)

朝来の田口神社の石段を登り本殿に参拝し横の道をあがると、小さい祠がある。
乳岩神社といい、昭和十四年に長内村より奉遷したのである。長内村は今はなく、むかしは八軒の戸数があり、肥沃な山林を所有し、杉桧、竹材等林産の外、米、野菜その他富裕であったが、国の工場づくりのため移住させられ村はなくなり、今は舞鶴工専となっている。
このところにあった乳岩さんについて古老に聞いてみた。
 貧しい農家だが、美しい娘がいた。隣村の庄屋の息子がその娘を一目みて好きになった。身分が違うと娘は息子をさけた、しかし、息子は娘が忘れられず、病の床にふせてしまった。親は心配して、問いただしたところ、隣り村の娘に恋をしたことをいった。庄屋はその娘に出会いに行った。かやぶきの家はかたむいている、そこから娘が出てきた。はっとびっくりした。妻の若い頃とよく似ている。息子はやはり母親のおもかげに似た女に恋をするのだなと思ったが、あまりにもあばら屋なので声もかけれなかった。しかし、息子の病をなおすには、一時的でもいいから、息子の嫁にしてみたらと思った。家に帰って息子にいうと、今まで立ちあがれなかったのに、すっくと立ちあがり、「とうさんでは娘のところに行ってきます。」と小走にかけていった。思わぬ出来事に娘は夢ではないかとうたがった。息子は娘と抱きあって再会をよろこんだ。
娘の家は由緒ある家とわかった庄屋は一緒になることに同意した。二人は仲むつまじく田に出て、山にいき幸せ一杯だった。まもなく丸々ふとった男子が生まれた、庄屋一家はよろこびの日々となった。
 しかし家の風習として、乳の出ない嫁はかえすことになっている。嫁は乳がでなかった。
嫁は夜毎泣き明かした。ある夜一人の老人がやってきた。嫁の話をきき、わが村に乳岩さんといって不思議な岩の話をした。嫁はただ一人、こっそりと家をぬけ出し、夜道を長内村へと急いだ。
うれしいことに三日月が出、夜空一ぱいに星がでて、夜道を照らしてくれた。小川の流れがぴかぴかと光って心よく歩が進められた。流は小さい岩にあたって生きているようだ。
 しばらく行くと大きな白い岩があり、ぽたりぽたりと清い水がおちている。これだなと嫁は喜こび川にはいった、冷たい水だ、そろりそろりと岩に近づき、顔を岩に近づけ大きく口をあけた。あゝあまい冷たい水がのどを通る、おいしい水だわと一人ごとを言いながら、ごくりと飲んだ。妙なことに飲むたびに胸がふくらむ、どれぐらい時間がたったか、あたりが少し明かるくなり、赤ん坊の声がきこえる、夫がちょうちんつけ、赤子をだいて来ていたのだ。
嫁はさっそく赤ん坊に胸をひらいて飲ませようとした、月のあかりにおわんのような白い乳房、赤ん坊はむしゃぶりつくと共にちゅうちゅう吸いだした。嫁はなんと表現していいか、いい気持になった。乳がでる乳がでる、夫婦はだきあって喜こんだ。この事が近所の評判となり、乳の出ない人は次々におとづれた。そのご利やくになった人達は、お金を出しあって社を建てた。それが乳岩神社である。その社の横には大きな鐘乳岩があって、沢山の乳首を列らねて、その乳首からは無色透明の美しい水滴が点々とおち下るのです。乳の出ない女の人は勿論、水滴を両手でうけて飲むと乳がでるようになったとお参りする人がたえなかった。


《白屋あれこれ》
鯉のぼりのお話
 鮮やかな緑、薫る風、輝く太陽、腹一杯に五月の風をはらんで高く、大きく、元気に泳ぐ黒い、赤い鯉幟。この家に男児ありの象徴であり眺めて実に心地よいものです。
 この鯉幟を白屋では揚げてはいけないという言い伝えがあるということを聞いたのが昭和二十四年、私の長男が生まれたときでした。何故いけないのか誰に聞いてもその理由がはっきりいたしません。神様が嫌がられるらしい−−。この不文律が口コミで伝えられて堅く守られているのが不思議に思われました。
 昭和五十年、白屋に小学校四年生の男の子がいました。この子は鯉幟が大好きで、学校から帰ると吉野や朝来中の大空に泳いでいる鯉幟を観に行くのが日課でした。
 また初孫の誕生を喜び、立派に成長することを願って嫁の親が鯉幟を贈りたいと思っても「私のところは貰っても立てられないから−−」とご辞退せねばなりません。
 何故いけないのか。理由を確かめて、差し支えのないものであれば解除できないものだろうか。
 神様が嫌がられるという神様とは、もしかして山王神社のことだろうか。
 そこで舞鶴市内に大山咋神をご祭神とする神社がどこかを調べたところ、白屋を除いて七ヶ字ありました。この各字の状況を聞くことにしました。お尋ねするのは区長さまよりも、老人会長の方が当を得ていると思い左記の通り電話いたしました。
 皆さん親切に話してくれました。どこの字も、言い伝えや掟があって立てないという所はありません。白屋の例を話しますと、そんなことは聞き始めだと口を揃えました。戦時中は冠婚葬祭等節約しようとの申し合わせで自粛したことはあるが、その後は盛大に立てている、ということです。この調査をしたのは昭和五十七年十月十日でした。
 さらに昭和六十年六月二十九日、町内の代参で谷岡さんと日吉大社にお詣りした際、山王神社勧請のことで宮司さまにお目にかかったとき、鯉幟の件につき、白屋の実情をお話し申し上げ、地元坂本かあるいは全国三千八百余社の末社で、このような話を聞かれたことがありますか、とお尋ねしましたが、「当社の関係ではそのような話は全然ありません」とのことです。
 そこで亀岡市大井町では鯉幟を立てないことが厳守されているという、昭和五十四年五月五日の朝日新聞の記事のお話しをいたしました。
 −−大井神社のご祭神は利水・治水の神として知られる御井神で、往古山城の松尾大社より亀に乗り大堰川をのぼったが、八畳岩のあたりから水勢が強くなり亀が進めなくなり、鯉に乗り替えられ無事に大井の地にお着きになった。
 このような由来により、鯉は神のお使いとして大井の人達に、ご祭神とともにあがめられてきたもので、鯉料理を食べない、鯉を釣ったらすぐ放すなど鯉にまつわるべからず集があって鯉幟をあげないのもその一ツ。大井町は亀岡市の新興住宅地で、現在の世帯数一、三八八世帯、人口四、七五○人、旧来からの三倍以上の新住民も確りこの掟を守っているという。
 神官も、「禁止のお触れを出したことはないが、口コミで新住民も遠慮しているのでは」と言っている−−
 大要このように申し上げましたところ宮司さまはすぐ松尾大社に電話されました。折悪しく宮司さま不在で、権祢宜の方が出られ、「大井神社が鯉を大切にしていることは承知している。松尾社でも祭祀の際生きた鯉をお供えするが、直ぐ池に戻している。松尾社の関係には鯉幟を立てないという話は全然ない」
 そこで宮司さまの意見−−
 「亀岡と白屋は近いので、昔何かの交流があって鯉幟の話が伝わったものではないだろうか。いま急いで今迄の習慣を解除することは適当でない。もし何か起こったとき、その故ではないだろうかと疑念をもたれる。若い人達は新しい感覚でむかしのしきたりなど、どんどん変えていくから、そのうちに掟もゆるみ自然に鯉幟を立てる人も出てくると思う、それで良いのでないか」
 朝来中にも吉野にも、あちこちに鯉幟が立ちました。白屋の或る坊やがそれを観に行くのが日課でした。白屋の人は殆んどの人が山王神社の伝承だと思い込んで堅く守っていたことを書きました。ところが調べていくうちに、山王神社でなく、田口神社に起因するのだということが判明しました。即ち田口神社より上の方(東側)の朝来中、吉野、白屋が該当するのだということです。
 で早速聞いてみました。昭和六十年のことです。
・関本益夫さん(大波上 田口神社責任総代 七十二才)
そのようなことは聞いたことがない、勿論その理由も知らないし調べる方法も手段もわからない。  (六○、一○、二八)
・林 一男さん(朝来中 七十六才)
話は聞いている。田口神社より上の方と承知しているが理由はわからない。以前は堅く守られていたが最近は立てる人が多くなった。(六○、一○、二八)
・林 浩司さん(朝来中 氏子総代 六十二才)
そのような話は全然聞いたことがない。(六○、 一一、二)
・倉内友弘さん(吉野 永年責任役員を勤めた方 八十四才)
祖父から聞いた。神社から上は立てないということが厳守されていたが、最近は乱れている。何故いけないのか聞いていないのでわからない。(六○、一一、五)
朝来中、吉野で六○才代以下の人は、私が尋ねた範囲ではご存知の方がありませんでした。
 結局この件も解明出来ませんでしたが、これ以上調査する方法がないので打ち切りとし、白屋の総集会で報告し、今後は本人の自由意志に委すことに決定しました。
鯉幟を立てないという所の一例、
「大井神社」
「薩摩半島加世田市の五月節句と蜘蛛の俗信」
「伊台に伝わる五月の鯉のぼりを立てない理由」
「我が家では何故か鯉のぼりを立てない家なんですね」
「薬師の湯」
「結城郡高橋神社」





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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